風船おじさんの経歴&末路!冒険者鈴木嘉和はファンタジー号で空へ! | ToraTora[トラトラ]

#歴史知らない人が嘘だと思うけど本当の事言え 風船を付けた気球で日本からアメリカへ飛び立った風船おじさんがいた。

現在、消息不明。 pic.twitter.com/vIN807lxTG

— 加藤寛哉 (@kato__2k) 2019年6月10日

皆さんも小さな時に一度は風船で空を飛んでみたいと思ったことはありませんか?ディズニーのアニメ映画に「カールじいさんの空飛ぶ家」という作品があります。

主人公は幼い時に冒険家に憧れ、最愛の妻に先立たれたことがきっかけで二人で住んだ家に大量の風船をつけて、冒険に旅立ちます。

この映画のモデルだったのではと言われてもおかしくない(もちろんディズニーアニメのモデルではありません)人物が日本にいたのです。

彼の名前は鈴木嘉和(すずきよしかず)

横浜博覧会籠城事件、大田区民家不時着事件と二度に渡ってマスコミを賑わせ、1992年にヘリウムガスを注入した風船をくくりつけたゴンドラ、通称『ファンタジー号』に乗り、アメリカを目指すといって多くの人の反対を無視して飛び立ちました。

そんな彼に付けられたあだ名は『風船おじさん』 なんと日本には妻と娘3人を残しての出発です。

多くの人に見守られながら、反対されながら琵琶湖畔から出発しましたが、その後行方不明となり彼は結局日本に戻ってくることはありませんでした。

連日マスコミで取り上げられながらも現在ではその名前を聞くことは殆どなく多くの人は忘れてしまい、若い人は存在すら知りません。

多くの視聴者を惹きつけ、最終的に姿を消した風船おじさんは今や都市伝説のような存在です。

当時マスコミを賑わせた風船おじさんとは何だったのか、彼の経歴、ファンタジー号を作成した動機、現在分かっている情報を伝えます。

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風船おじさん鈴木嘉和の経歴

おはようございます (╹◡╹)

1992年のこの日 風船おじさんこと鈴木嘉和サンが、 鳴き砂の保護を訴えて、 風船を多数つけたゴンドラで アメリカをめざして出発。

以後消息不明となりました。

う〜ん

あといくつ風船が多ければ おじさんは生きて

アメリカに渡れたんだろう? pic.twitter.com/c3xwrje2PT

— かきもとひろみ@TUGBOAT (@happykakkie) 2018年11月22日

風船おじさんこと鈴木嘉和は1940年、東京都にあるピアノ調律師の家庭に生まれました。

当時はまだ戦時中。家がピアノを調律する仕事で生計を立てていたと考えれば、裕福な家の生まれだったことが分かります。後に結婚する奥さんもピアニストで音楽とは切っても切れない関係にあったのがわかります。

その後、国立音楽大学附属高校を卒業し大手楽器メーカーYAMAHAの契約社員として入社しました。

そこでピアノ調律師として働き始めます。この時点では後に世間を騒がす風船おじさんになるとは想像できません。

彼の人生が動き始めるのは1984年、44歳の時にピアノを練習する人に向けた専用カセットテープ(オーケストラの演奏からピアノの部分を除いたテープ)を販売する会社を自ら立ち上げました。

この辺りから多くの事業を展開し始めサラリーマンから経営者へ転身します。

1985年には鈴木嘉和が主催で日比谷公会堂で音楽会を開きます。この時フィナーレの演出として風船を空に打ち上げました。

この辺りから鈴木嘉和(後の風船おじさん)と風船は切っても切れない関係になります。

その後も各地で音楽会を開き、最後は風船を飛ばすパフォーマンスを行いました。

また1986年ごろからは麻雀荘、コーヒーサロン、パブレストランなどを新たに立ち上げお店を初めました。事業を始めるのには元手が必要で鈴木嘉和は銀行などからお金を借りるなどして開業資金を集めていたと考えられます。

多くの事業を始め音楽から離れてしまった鈴木嘉和ですが、なぜ起業を始めたのかは調べてもよく分かりませんでした。

何かの目的のためにお金が必要だったのでしょうか?それとも当時時代はバブル、時代の雰囲気に流されるようにお店を開いていたのかは不明です。個人で借金を重ね様々な店を開きますが長くは続きません。

1991年には経営する銀座のパブに出資してもらったことを機にアルゼンチン出身の歌手グラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたこともありました。ちなみに1992年になって契約を解消しています。

横浜博覧会籠城事件

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引用: Pixabay

1989年、神奈川県横浜市では横浜市制100周年、横浜港開港130周年を記念した博覧会が開催されていました。

多くの企業がパビリオンを設置して参加する中、鈴木嘉和も売り上げを求めてテナントとして横浜博覧会に出店しました。

どんなお店を出していたかについては報道機関によって、郷土料理店、飲食店、土産物店と分かれており実際は何を販売していたかが分かっていません。

鈴木嘉和は自分の店の立地場所に不満を持っており、また博覧会の集客も予想されていたよりも少なかったため、自らで博覧会のマスコットキャラクターの着ぐるみを自作しサイン会や撮影会を実施し集客を集めていました。

会場で自ら着ぐるみを製作し、撮影会を行うなどこの話題からも彼の変人ぶりが伺い知れます。

事前の説明では横浜博覧会は主催する協会側から1日10万人の来場者と100万円の売り上げが予想されていたのですが実際は3分の1、ひどい時は10分の1の時もありました。

出店に多額の出費を掛けていたにも関わらず売り上げが伴わないことに不満を持った鈴木嘉和はまたある抗議活動にでます。

それは同年の7月30日の早朝4時から高さ30メートルの鉄塔によじ登りそこから7時間籠城する騒ぎを起こしました。計画では鉄塔の上から抗議文をプリントした横断幕を掲げようとしていたが、風が強かったため実現できませんでした。

午前10時ごろに博覧会関係者に発見、通報され、その後ハシゴ車が出動する騒ぎになり1時間の説得の末、地上に引き下ろされました。

説得にもなかなか応じるそぶりを見せず、駆けつけた救急隊員に対しても抗議を続けるため鉄塔を歩き回りました。

当然、協会関係者に厳重注意を受けましたがその後双方で話し合いがもたれ、特別にテナントで客を集めるためにゴンドラを飛ばしていいという許可が出ました。

鈴木嘉和はヘリウム風船をつけたゴンドラに人を乗せ、これを20メートルから30メートル飛ばし『空中散歩』と名付け人を集めました。

最終的に空中散歩は2500人が利用する賑わいを見せ、博覧会最終日にはマスコットキャラの着ぐるみを着てゴンドラでそのまま外に飛び出すと言い始めましたが、みんなの迷惑になると結果的には断念しました。

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引用: Pixabay

一時は景気の煽りもあってうまくいっていたのかもしれませんが、多角経営はそう上手くはいきませんでした。

多くのお店も結局は1990年に総額4〜5億円の借金を抱える形で倒産となりました。今現在でも大きな金額ですが、当時は今より物価が安いことを考えるとどれほど大きな規模の負債なのかが分かります。

それから借金苦に陥った鈴木嘉和は債権者に対し、ビニール風船をつけたゴンドラに乗って太平洋を横断して借金を返すと伝えました。

この多額の借金を背負ったことが太平洋横断という無謀な挑戦の理由の一つだったことが分かります。大きな負債が破天荒な行動の原動力でもあったのでしょうか。

鈴木嘉和の頭の中では太平洋横断が成功すれば、CMやスポンサーが舞い込んできて借金がチャラにできると思っていました。

ここから鈴木嘉和はヘリウム風船をつけたゴンドラ、『ファンタジー号』にのめり込んでいきます。

風船を飛ばすことから始まり博覧会会場でゴンドラを飛ばしていたことから、この当時すでにファンタジー号の構想は固まっていたと考えられます。

風船おじさん鈴木嘉和の家族構成

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引用: Pixabay

風船おじさん鈴木嘉和には国立音楽大学のピアノ講師兼ピアニストの石塚由紀子さんという奥さんがいます。鈴木嘉和にとっては3度目の結婚になります。

鈴木嘉和は入籍したことで性を石塚に変更したのですが、周囲には旧姓である鈴木を通称として名乗っていました。

馴れ初めは高校時代の一学年上の先輩で、一緒に仕事をするうちに惹かれ合い行方不明になる半年前の1992年の5月に結婚をしていました。

鈴木嘉和と結婚したというと奥さんも少し変わった人なのかと思いがちですが、真面目な綺麗な方です。鈴木嘉和にとっては3度目の結婚でしたが、これ以前の結婚情報は見つかりませんでした。

ただ、最初の奥さんとの間に娘を授かっていたことは判明しており、行方不明になった後に実の娘さんがTBSの取材を受けました。石塚由紀子さんも鈴木嘉和とは2度目の結婚になり、3人の娘さんがいました。

血の繋がらない娘の石塚冨美子さんはバイオリン奏者『fumiko』としてデビューし、その後NHKドラマで女優デビューも飾るほど有名になっています。

奥さんの連れ後の娘が3人おり、1991年には姉妹3人で『Triolet』というアンサンブルを結成し、ソニーからは最優秀アーティスト賞をもらった実績があります。血は繋がっていませんが娘さんの代まで生粋の音楽一家なことが分かります。

1994年には奥さんの石塚由紀子さんを含めた4人で『ファミローザ・ハーモニー』という音楽グループを結成し、ディナショーを開催したり、時には日本国外を問わず活動しています。

外国語も堪能だということで頭がいいことも伺えます。

ちなみに結婚後は3人の娘から鈴木嘉和は「ズー」というあだ名で呼ばれていました。(本人はカズ君と呼ばれることを希望していた)

風船おじさん鈴木嘉和、ファンタジー号開発

かつて風船で空へ飛んで行った人がいる。鈴木嘉和さん。彼は自作のファンタジー号で空へ飛び、アメリカを目指した。最初は府中多摩川から風船をつけた椅子で飛び、大田区の民家に不時着した。成功したらハワイに行くつもりだったらしい笑。2回目飛んで、2日後に彼は消息を絶った。なんでもありかよ笑。 pic.twitter.com/egXa48sQ2F

— 晴暉 (@Journeyharuki) 2019年1月4日

ファンタジー号は直径6メートルの主力風船4つと若干個の直径3メートルの補助風船をゴンドラに結びつけて出来ていました。

飛行時に風船の空気は徐々に抜けていってしまうため、あらかじめ最初にガスを多く入れておき、ゴンドラに結びつけた重りを外していってバランスを取っていき目的地を目指します。

使う重りには一升瓶を採用し、中には沖縄焼酎のどなんをいれていました(理由は極寒の中でも凍らないため)

ゴンドラの寸法は一辺が2メートル深さ1メートルで海に不時着したことも考え浮きやすい檜を材料に作られていました(このゴンドラは本来は桶を作っている檜職人にオーダーメイドで発注して作ってもらった)

装備品には酸素ボンベ(48時間分)とマスク、1週間分の食料、計器類、パラシュート、防寒着(マイナス60度以下にも耐えられる)、携帯電話、地図を持っていました。

鈴木嘉和は計器類のひとつである高度計の使い方が分からないと言っており、また絶食の訓練をしているという理由で食料はスナック菓子のみだったという(この辺りが適当であり後の結末を予感させる)

本来の計画では主力風船は6つと補助風船が26個になると言っていたが、実際はそれよりも少ない量でした。

また離陸直前に破れてガスが漏れる風船が見つかったため、鈴木嘉和はこれをテープで塞ぐ応急処置をして使っていたということです。

このため本来ならでるはずの浮力が足らず、重りとして持ってきていた焼酎を全て切り離し、さらに酸素ボンベを下すことでやっと上昇を開始しました。

ファンタジー号の風船を制作した会社はマスコミの取材に対し、人を乗せるために作っていない、氷点下の上空で使える保証はできないと答えている。

ファンタジー号での冒険にあたり、鈴木は寄付を募っていたがどの程度寄付金が集まったかは不明です。ファンタジー号を製作するのにも借金をしたましたが、支援者の1人が1300万円を肩代わりしたことがわかっています。

少なからず支援者がいたことから、彼はファンタジー号という名に恥じない夢を託されていたのでしょうか。

気球と風船の違い

皆さんこんにちは!6/8(土)、6/9(日)の2日間、佐賀市嘉瀬川河川敷で「第29回佐賀市長杯・第30回若葉杯新人戦熱気球大会」が開催されます。少し天気が心配ですが、熱気球の係留体験搭乗(各日先着100名・有料)もありますのでぜひお出かけ下さい。
詳しくはこちらhttps://t.co/jXIfY9i0ZU pic.twitter.com/DwjRwhO1QJ

— (一社)佐賀市観光協会 (@SagabaiOfficial) 2019年6月5日

風船で空を飛ぶというとまず最初に気球を思い浮かべる人がほとんどだと思います。

ですが風船おじさんは文字通り小さな風船を複数付けそれをゴンドラにつけて空に飛びました。

気球と風船で飛ぶのでは何が違うのでしょうか?気球での有人飛行の歴史は古く1783年に高度90メートルで25分間上昇したという記録が残っています。

現在でも気球で空を飛ぶことは世界各地で活発に行われており多くの実績があり安全が確立されています。

なぜ風船おじさん鈴木嘉和は風船を選んだのかは不明です。これは推測ですが風船おじさんは多くの負債を抱えており、金銭的に安く飛べる風船を選んだのではないでしょうか。

日本で気球を個人で購入している人はほぼいないと考えられますし、風船はおもちゃ屋にいけばどこにでも売っており、大きなサイズの物でも販売会社に連絡をすれば簡単に購入できたのではないでしょうか。

気球と風船はどちらも空気よりも軽い気体をいれることで揚力を発生させ飛ぶことを実現しています。

その内気球はバーナーを使って空気を温め、その温めた熱を利用して上昇します、これに対し風船はあらかじめヘリウムや水素ガスを注入しておきその風船でゴンドラと人を持ち上げます。

世界各国で気球が利用されているのに対し、風船は事前に注入できるガスの量が決まっていることと割れてしまえば墜落の危険があります。気球は大きな風船一つで空に飛んでいると勘違いする人もいるかもしれませんが、気球につけられたバルーンは密閉されてはいません。

バルーンの下から随時、バーナーで暖かい空気を送っています。離陸する際は点火し、上空で止まる際は火力を調整することで留まることが可能になります。

風船おじさん鈴木嘉和、ファンタジー号で空へ!

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引用: Pixabay

風船おじさんの空の旅の動きを見ていきましょう。

多摩川から民家の屋根へ不時着

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引用: Pixabay

最初の彼のファンタジー号での冒険は府中の多摩川河川敷から始まりました。

太平洋横断前の試験飛行として風船おじさんは多摩川から九十九里浜までを目指しました。

1992年4月17日に多くの報道陣、カメラマン、更には中止させるために府中署から警察官までもが集まり、彼のチャレンジを見守っていました。

カメラの前でインタビューに答えたり、警察官の説得も無視して風船おじさんは黙々とファンタジー号の準備を進めます。最終的には警察官の制止を振り切る形で、説得をろくに聞かず強行突破のような形で空に飛び上がりました。

上空からテレビのヘリコプターで撮影されながら、上昇を続け出発は順調に見えました。

しばらくしてゴンドラに結んでいた重りが落ちてしまい、バランスを失ったことからファンタジー号は急上昇をはじめます

そのままではどんどん大気に昇っていってしまい気温は寒くなりいずれ酸素も薄くなる、流石に身の危険を感じた風船おじさんはちょうど持っていたポケットライターで風船の紐を焼き切ることに成功しました。

そこから下降を始めたのはいいが、風船を切ってしまったので今度は落ちるような速度で地上に近づいていきます。コントロールを失ったファンタジー号と風船おじさんは運良く大田区内の民家の屋根にぶつかるような形で不時着をしました

風船おじさんはこの当時52歳、すごいバイタリティといえます。

大田区の町の人のインタビューからですが、不時着時 民家の瓦を壊し、アンテナを折った被害がありましたが風船おじさんは謝罪を口にすることもなければ、賠償もせずに怪我をした自分だけ病院に行ったということです。

負債を抱えていたことからも賠償を使用にもお金が無かったと考えられますが、それでも謝罪も無いというのは人としてどうなのでしょうか。

この事件の後NHKのラジオ番組に出演し太平洋横断計画に対し熱く語ったりましたが、不時着事件後マスコミ各社は風船おじさんと距離を置くようになり、風船に注入するヘリウムガスも販売してもらえなくなりました。

ファンタジー号事件

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引用: Pixabay

1992年の11月23日、風船おじさんはこの日に琵琶湖畔からの試験飛行を行うと、同志社大学の教授とその学生7人、朝日新聞の局長、密着していたフジテレビのワイドショー取材班、そして自分の支持者に連絡し、集まってもらいました。

風船おじさんはこの日の前日からファンタジー号を守るため湖畔で野宿していたとされています。

この日はあくまでも地上300メートル程度の上昇実験ということにしていたが、実際はこの時点ですでにアメリカに行くことを心に決めていたとみられています。

その証拠に自宅にいる妻と娘たちには飛び立った後マスコミが押しかけることを心配して、12月3日頃までホテルに滞在するように具体的に指示をしていました。

そして娘たちにアメリカのお土産は何かいいかを質問しそのメモを胸ポケットにしまっていたそうです。

上昇実験をして、一時は地上に降りたものの16時20分頃に突然「行ってきます」と行ってファンタジー号のロープを外し始め、どこに行くんだ?という質問に対し、「もちろんアメリカですよ」と言ってまたもや周囲の制止を無視して重りを外し出発しました。

この日事前に運輸省(現:国土交通省)からの飛行許可はでておらず、あくまでも地上に繋いだままの飛行試験ということでした。この試みが成功しても日本の法律で裁かれる可能性も十分にあったことが分かります。

風船おじさんは携帯電話を持ち込んでおり、出発してからしばらくの間はテレビ局や家族と電話でのやりとりをしていました。

離陸直後に「ヘリウムが少し漏れているが、安全に問題はない」とテレビに対して答えており、1時間ごとに家族に電話をして安否を伝えていました。

翌日の早朝に「スバラシイ朝焼けだ!綺麗だよ」と伝えその後の「行けるところまで、行くから心配しないでネ!」という連絡が最後になり、以後電話は不通になってしまいました。

風船おじさん鈴木嘉和、失踪?

20年前に消息不明となった『風船おじさん』(鈴木嘉和)は無事にアメリカに着いたのだろうか? pic.twitter.com/UHmb7fPahI

— pullwell (@pullwell1) 2018年1月30日

24日の深夜にSOS信号が発信され、25日に海上保安庁の捜索機が宮城県沖800キロメートルに風船おじさんのファンタジー号を発見しました。

風船おじさんはしきりに手を降ったり座り込んだりしてSOS信号は止まりました。

その後も海上自衛隊は3時間あまり観察を続けましたが、ゴンドラから荷物を落として上昇を続けたことから続行の意思があるとみて追跡を打ち切りました。それっきり、鈴木嘉和を見たものはおらず、行方もわからなくなってしまいました。

SOS信号はなく家族が捜索願を出したのを受け、海上保安庁は到着している可能性のあるアメリカとカナダに救助要請を出しています。

風船おじさん鈴木嘉和の現在。

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引用: Pixabay

風船おじさん鈴木嘉和の考えでは高度さえ達してしまえばあとは上空を流れるジェット気流に押されて40時間程度でアメリカに着く予定でした。

ジェット気流

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上空10キロメートル前後を東から西へ吹いている強い風、偏西風とも呼ばれ地球全体を流れている。

日本上空でも西に向かって吹いているのでこれに飛ばされていけば、アメリカ方向に着くことは可能です。

第二次大戦中は日本軍はこのジェット気流の流れを利用して風船爆弾と呼ばれる兵器を開発しました。風船の先に爆弾をつけ晴れの日に太平洋沿岸から飛ばすと、ジェット気流に運ばれてアメリカ本土に落ちるというものです。

結果的に9000発近くが実践投入されたということですが、実際にアメリカまで届いたのは10分の1以下だったようです。鈴木嘉和はこのジェッット気流の流れている上空まで昇り、後は流されていれば勝手にアメリカに着けると楽観的に考えていました。

風船爆弾の例を見てもジェット気流にのって流されるだけでアメリカに着くというのはとても確率が低いことが分かります。

専門家による見解

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行方不明になった後マスコミからの質問に対し専門家は「生存は難しいだろう」と答えています。

風船おじさんが使っていた風船の原料は塩化ビニールで計算してみると1日で約1割のガスが抜けてしまうことになります。

最後に宮城県沖高度2500メートルを時速70キロで北東へ向かっており、順調に行っていればカムチャッカ半島付近まで付いているのではと予想されました。

風船については日本風船協会が二つの見解を発表しました、一つは原材料から推測して1日あたり約1割ガス漏れが起きるので最終的に風船はしぼんでしまう

二つ目は高度が上昇するにつれて気圧が低くなり、風船は膨張し極度に低い温度のため風船が伸縮性を失って割れるというものです。

海上保安庁が捜索した時すでに目視で風船がしぼんでいるのが確認されていて、その後着水していた場合潮目にもよるが、アラスカ方向か日本の沿岸に流れ着くと専門家はコメントしています。

行方不明直後の取材に対し、家族たちは「無人島に漂着したのではないかと思っている」と心配そうに取材に答えました。

冒険の動機

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風船おじさんが語っていた冒険の動機はアメリカネバダ州にある鳴き砂の保護を訴えるためでした。

一番最初の計画では同じく日本にある鳴き砂の海岸 島根県仁摩町から出発する予定でしたが、4月に起こした騒動が元で運輸省もアメリカ航空局も許可を出さなかったため、仁摩町から正式に断られた事情があります。

実際に鈴木嘉和は町を2度訪れ町長に経済支援を求めていました。その際、自分には生命保険金が2億円かかっていると周りに伝えていたそうです。

鳴き砂保護の第一人者である同志社大学の三輪茂雄教授に賛同し、何度も風船での太平洋横断の計画を練ってきた。しかし蓋を分けてみれば鈴木嘉和の説明は会うたびに異なっており、計画もバラバラで結果として教授に対しその場しのぎの嘘をついていたと言われています。

教授は親身になって応援したにも関わらずこんな形で行ってしまったのは裏切られたようだと答え、事件当日も鈴木嘉和は教授に対し、300メートルの上昇テストだけを行うと伝えていました。

鳴き砂とは

ⓙⓐⓨ☆ⓙⓐⓨさん(@naonaoinnz)がシェアした投稿 – 2019年 6月月1日午前3時33分PDT

歩く時にきゅっと音が鳴る砂をいう。またはそれらの海岸です。

鳴る仕組みとしては砂の主成分である石英が踏まれる際に擦れることによって起こる摩擦音であります。

純粋に粒どうしが擦れれば音が綺麗に鳴る、逆に間に不純物、ゴミが存在すると音はすぐ出なくなるため、これらを利用して環境のバロメーターとして利用されています。

日本各地の海岸で確認されており、また保全活動も積極的に行われています。

メディアの報道姿勢

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ファンタジー号出発直後から、民法各社はこぞって報道を始め連日風船おじさんのニュースがトップを飾ります

また『風船おじさん』というのはメディアが考えたあだ名であり、鈴木嘉和本人が自ら名乗りだしたわけではありません。

週刊誌では、週刊文春がファンタジー号出発時に密着していたフジテレビが鈴木に対し本来アメリカに行くはずでは無かったが飛ぶように煽ったのではないかと記事を書き問題になりました。

これに対しフジテレビはそのような意図は全くなく、鈴木は事前にも無線免許を取得してから4月にアメリカに出発すると答えていたと語りました。

残された家族たち

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日本では結婚したばかりの妻とその3人の娘が残されました

また鈴木は妻を自分の会社の共同経営者にしており、家も抵当に入れていたため残された多額の借金は妻の石塚由紀子さんが肩代わりする羽目になりました。

2006年の時点でも借金は妻が払い続けていたことが取材で分かっています。

鈴木嘉和は行方不明になってはいるものの2年に1度の捜索願が残された家族により更新し続けており戸籍上は死亡したことになっていません、つまり戸籍上は生きていることになっています。(2006年当時)

2000年には石塚由紀子さんは『風船おじさんの調律』といったタイトルの本を出版しており、身近で支えてきた妻の目線から当時の状況、鈴木嘉和の姿が綴られています。

そんな妻の石塚由紀子さんも2016年にポルトガル人と再婚を果たしました(結婚したことを考えると鈴木嘉和の失踪宣告がなされ戸籍上も死亡扱いになったと推測される)

しかし2017年はじめにに胆管がんが見つかりその年の4月に亡くなったそうです。

風船おじさんが与えた影響

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テレビを賑わせた風船おじさんは、その後もバラエティーでビートたけしがギャグで風船おじさんをひっかけるなど強烈な印象を残し続けました。

また大槌ケンヂ率いる筋肉少女帯がアルバムの曲で風船おじさんについて言及したり、他にも「風船おじさん」と名付けられた曲まで他のアーティストによって作られ、その中でバイキング的生き方を肯定されています。

98年には文化放送が鈴木の妻やその周辺を再取材し、「ファンタジー号に乗って~あれから6年 消えない響き」と題したドキュメンタリーをラジオ放送しました。

ネット上で風船おじさんについて検索をすると、アラスカ沖で死体が発見されていたり、風船おじさんを探しに行った警察官が行方不明になった記事が出てくるがそのどちらもが誤報であり、虚偽になります。

余談ですが、2008年には愚かな行動によって死亡した者を表彰する(皮肉る)ダーウィン賞にブラジルの神父が、「ヘリウム風船での長時間飛行記録に挑戦した末に沖合い上空へ流され遭難する」といった功績で受賞されました。

世界には同じようなことを考える人がいることが分かります、ちなみにブラジルの神父の遺体はその後発見され回収されましたが、風船おじさんの遺体は今現在も見つかっていません。

こちらのサイトでは有志により再び風船おじさんを再調査した旨が詳しく載っています。

当時の有識者の見解から着水していたと想定すれば潮目から日本の海岸に流れ着いてきてもおかしくないということで大規模な捜索を行われました。

また当時の住所を訪ねてみると変わらず家族が暮らしており取材することができたそうです。

残念ながらいまだに風船おじさんは帰ってきていません、宮城県沖で海上保安庁が目視で生死を確認した後に雲間に消えてしまいました、まるで別の世界に消えた行ったようです。

その後の捜索も虚しく彼の遺品、漂流物、ファンタジー号の痕跡はどこにも発見されていません。

多くの人の興味を引きつけ50歳を超えながらも夢を見て空へと飛び立った風船おじさん鈴木嘉和は今どこで何をしているのでしょう。

ありがとうございました。