DQNの川流れの意味とは?玄倉川水難事故のその後&現在まとめ! | ToraTora[トラトラ]

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DQNの川流れという言葉をご存知でしょうか?

DQNの川流れという言葉は、玄倉川水難事故が全国に生中継されたことがきっかけで誕生した言葉になります。現在では、自然を甘く見て身勝手な行動から水難事故に遭う人を指す言葉として使われています。

玄倉川水難事故では、13名の命が失われました。そのうち、9歳以下の子供が4名も亡くなっています。この事故は、偶然巻き込まれた事故ではありません。幾度となく避難するよう呼びかけたのに、避難しなかったことで起きた水難事故なのです。

また、この事故に巻き込まれた人達の行動が、あまりにも非常識な態度だったことも注目されました。自然を甘く見た大人達が非常識な行動を取ったことで起きた事故になります。

ここでは、DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故について、ご紹介します。

DQNの川流れの意味とは?【玄倉川水難事故】

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DQNの川流れの意味とは、ネット用語である「DQN」と「河童の川流れ」を足してできた言葉です。

「DQN」とは、非常識で横暴な人を指すネット用語になります。「河童の川流れ」とは、どんなにその道の達人であっても、失敗する可能性があることを意味しています。

DQNの川流れという言葉は、玄倉川水難事故に巻き込まれた人達の横暴な態度や暴言が、全国に生中継で流れたことでDQNの川流れという言葉が誕生しました。現在では、玄倉川水難事故だけでなく、身勝手で非常識な行動にて起きた水難事故を「DQNの川流れ」と呼びます。

DQNの川流れは、キャンプに参加していた大人達が自然の力を甘く見た結果、油断や過剰な自信が招いた事故といえます。また、多くの人達に迷惑をかけたにもかかわらず、救助後までその態度が変わることはありませんでした。本当に、DQNの川流れと呼ばれるに等しい人達だったのです。

DQNの川流れの概要【玄倉川水難事故】

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DQNの川流れの発端となった玄倉川水難事故とは、合計13名が水死するという痛ましい事故でした。その被害者の中には、9歳以下の子供が4名も犠牲になっています。

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の詳細について、まとめてみました。

【1】事故現場

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故が起こった場所は、神奈川県足柄上郡山北町にあります。玄倉川にある丹沢湖よりも、さらに奥にある渓谷で起こりました。

DQNの川流れ呼ばれている玄倉川水難事故の現場は、高い山々に囲まれた渓谷になっています。都心からのアクセスも良く、多くの人がキャンプに訪れる場所です。玄倉川水難事故の現場近くには、多くのキャンプ場が運営されていました。しかし、玄倉川水難事故が起きた現場は、キャンプ場ではありませんでした。

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の現場近くには、玄倉ダムがあります。水力発電用のダムの為、本来の規定値よりも小さい造りとなっています。このダムがDQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の大きな鍵になったのです。

【2】事故当日の天候

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DQNの川流れが起こった1999年8月13日から翌14日の天気は、全国各地で猛烈な暑さを記録していました。

日本の上空には、多くの温帯低気圧が存在していたのです。温帯低気圧が発達すると台風になります。その日、日本の上空には多くの台風の種が存在していたのです。

DQNの川流れが起きる前日の13日から、全国的に大雨が降っていました。地域によっては、集中豪雨も起きたほど天候が悪かったのです。もちろん、玄倉川水難事故の現場でも雨が降っていました。また、台風のような防風も伴っていました。

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1999年8月13日、株式会社富士繁の戸塚工場で働いていた人達が中心となり、その家族や恋人などを含めた25人がキャンプに参加しました。25名の内、9歳以下の子供は6名参加していました。

玄倉川の奥地に来た25名は、中洲にテントを張りました。大人達はお酒を飲みながら、皆でバーベキューを楽しんでいました。

DQNの川流れが起こった要因には、テントを張った位置が大きく関係しています。中洲にテントを張るという行為は、非常に危険です。いくら天気が良くても、中洲にテントを張る人はあまりいません。この時点で、DQNの川流れを起こすような集団だったことが分かります。

玄倉川水難事故が起こった川岸には、草木が生えていませんでした。草木が生えないということは、それだけ頻繁に水に浸かりやすい場所だと判断ができます。このような知識がない人達がキャンプを始めてしまったのです。

【4】避難勧告

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13日の午後には、DQNの川流れの現場となったエリアでも雨が降り始めました。

また、この地域にも「大雨洪水警報」が発令されたのです。ダムの職員達は、事件現場でキャンプをしていた人達に、警報の発令を知らせると共に、撤退し避難するよう呼び掛けて回りました。

DQNの川流れといわれている玄倉川水難事故に巻き込まれた人達以外にも、川瀬でキャンプをしていた人達がいました。最初の避難勧告で、多くの人達が速やかに撤退していきました。中洲にいた25名のうち4名は日帰りだった為、現場を後にしました。この時点で、21名が残りました。

玄倉ダムが満水となり解放する旨の警報が30分も鳴り響きました。ダムが満水になると崩壊する恐れがある為、放水を行い水を調整しなくてはなりません。川の流れを塞き止めていたダムが解放されると、多くの山々から流れ込む水で玄倉川も氾濫することは予測できていたのです。

サイレンや警報音が響く中、残りの21名は中洲でキャンプを続けていました。自身達でDQNの川流れに遭うことを選択したと考えられます。ダムの職員達が呼び掛けるも、残りの21名はテントの中に籠って出てきませんでした。また、大人達が泥酔状態だった為、まともな判断を行える者がいなかったことも事故原因と考えられます。

ダムの職員達の度重なる警告に応じない為、警察へ通報しました。警察官や周辺の住民達も一緒に、避難するよう説得を続ける中、21名の中で高齢だった3名だけは車へ避難しました。警察官・ダムの職員達・住民達が、中洲に残った18名に避難するよう呼びかけましたが一切聞き入れようとしませんでした。

この時に、後にDQNの川流れに巻き込まれる女の子が、説得する大人達を見て「やっぱり避難しようよ」と言ったそうです。しかし、大人達は女の子の言葉さえも聞き入れませんでした。

DQNの川流れに巻き込まれた大人達は、警察官・ダムの職員・周辺住民達の避難勧告に対して、「うるさい!ぶん殴るぞ!」「ほっとけ!」「覗くな!」「プライバシーの侵害だ」「警察にそんなこと言う権利はないだろ!」「俺はキャンプに慣れているから黙っとけ!」などの暴言を吐き続けたのです。この言動もDQNの川流れと呼ばれることになった要因です。

中洲と川岸との間は、水かさや勢いが増しており、中洲に渡って強制撤去はできませんでした。警察官・ダムの職員・周辺住民達は、危険だと感じた場合に避難する場所を伝えた上で現場から撤退しました。

【5】玄倉川水難事故発生

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翌日早朝5時過ぎ、玄倉川域には「大雨洪水警報」が出されました。

6時頃、車に避難していた3名が現場を見に行き、避難を勧めましたがテントから反応がありませんでした。6時30分には、玄倉ダムの解放が本格的に行われました。

7時30分に警察官が巡回に立ち寄るも、テントの中から誰も出て来ませんでした。まだ、反対岸と中洲が続いていた為、警察官は立ち去りました。

しかし、8時には中洲が水に沈み始めました。30分の間で大きく水位が増えたのです。DQNの川流れに巻き込まれた18人は、テントの中に水が浸入し始めて、初めて事態の重大性に気がつきました。慌てて撤退しようとしますがパニック状態に陥り、岸へ移ることができませんでした。

【6】玄倉川水難事故の経過

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昨夜避難していた3名が消防署へ通報し、救助要請を行いました。しかし、丁度お盆の時期や連日の大雨にて、レスキュー隊がなかなか現場に到着できなかったのです。9時に、最初の消防隊員5名が到着しました。

水位は、その時点で膝下くらいに上昇していました。増水したことで自然と川幅が広がっており、歩いて岸にたどり着ける距離ではなくなっていました。また、水流が強過ぎて立っていることも難しい状況だったのです。DQNの川流れに巻き込まれた18名は中洲の中央に集り、ビーチパラソルにしがみついて流れに耐えていました。

救出するレスキュー隊は、ロープを巻き付けて中洲に渡ろうとしましたが、川の勢いが強すぎて渡ることができませんでした。次に、救命索発銃を発射してロープを中洲に飛ばすも、川の流れに遮られてしまい届きませんでした。

玄倉川水難事故の現場は山間部だった為、上空の低い位置に雲が溜まってしまい、ヘリコプターでの救出が行えませんでした。

その間も、水位が上がり続けた為、一度ダムの解放を止める決断をします。しかし、止めることができる時間は5分だけでした。5分以上止めてしまうと、ダムが崩壊し周辺住民の犠牲を出す可能性があったのです。18名の命は、この5分間にかかっていました。

1999年8月14日11時38分、この時点で水位は肩の位置を超えていました。次第に、DQNの川流れに巻き込まれた人が流され始めていきました。3回目のロープを発射した瞬間に、DQNの川流れに巻き込まれた集団が一斉に流されていきました。

その場にいた救助隊・警察官・ダムの職員・周辺住民達は、呆然と立ちすくみ激流に飲み込まれる人達を見守ることしかできなかったのです。

【7】犠牲者と生存者

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DQNの川流れの集団(18名)が全員流されたうち、大人3名子供2名が岸に流れ着き助かています。しかし、残り13名は水死するという痛ましい事故となりました。

DQNの川流れで助かった生存者のうち、当時1歳だった赤ちゃんは岸に投げられたことで助かりました。

事故当時、水かさが異常に増し流れも速かった為、流された人達の捜索に時間を及ぼしました。自衛隊にも救出要請を行い、警察・消防・自衛隊と340名もの体制で捜索に臨みました。また、多くの地元住民も捜索に協力しました。

翌15日の朝、DQNの川流れの集団のうち、生存して岸に流れ着いていた4名を救出しました。

DQNの川流れによる玄倉川水難事故で流された残りの人達を捜索する為に、生活用ダムである三保ダムの水も大量に放水しました。三保ダムの大量放水は、放水後に小田原市などの広いエリアで水不足を及ぼす可能性がある中、苦肉の策だったのです。

しかし、生存者の発見には至らず、1999年8月29日に最後の行方不明者だった当時1歳の赤ちゃんの遺体が見つかり、捜索は終了しました。

DQNの川流れに対してのみんなの反応は?

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DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の様子は、1999年8月14日の10時頃から、テレビ中継にて一部始終を報道されました。

DQNの川流れに巻き込まれた大人達は、一生懸命に救助を行う人達に向かって暴言を吐き続けたのです。DQNの川流れに巻き込まれた大人達は、「早くしろ!」「ヘリをさっさと呼べ!」「お前らの仕事だろ!」などと、怒鳴り散らしていたのです。その状況も報道されており、これを視ていた視聴者の多くの人が呆れ返りました。

DQNの川流れの発端となった玄倉川水難事故では、多くの周辺住民が協力し生存者の救助や支援を行ったにも関わらず、救出された大人達3名は暴言や横暴な態度のまま謝罪は一切なかったと伝えられています。

また、救出された大人のうち、リーダーだった男性が「キャンプの道具が流されたから探せ」と言ったことも明らかになっており、非常識どころでは済まされない人間達だったことが分かります。

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の報道をテレビで視ていた人達も、実際に救助を行った住民達も、共にDQNの川流れに巻き込まれた大人達は、「自分勝手で最悪な集団」との印象を持ったようです。

玄倉川水難事故をテレビで視ていた視聴者の中には、実際に流されて水死していく姿を視ていたことで、トラウマになった人も出ています。現在では、玄倉川水難事故の映像をテレビで放送することは禁止されているそうです。

また、DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故の救助には、多額の税金が使われました。玄倉川がある山北町が負担した費用が4800万円であり、神奈川県が負担した額は1億円にも上るそうです。このことが報じられると、多くの住民の怒りを買いました。

DQNの川流れの発端となった玄倉川水難事故に巻き込まれた大人達は、再三避難勧告を受けながら立ち退かなかった自分勝手な人達です。人に迷惑をかける騒動になるということが想像できない残念な大人達の集団でした。そんな非常識な人間の行動に対して、国や市町村の税金を使ってまで助ける必要はないとの意見が多く見受けられました。

DQNの川流れ被害者のその後は?【玄倉川水難事故】

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DQNの川流れといわれている玄倉川水難事故では、大人3名・子供2名が救出されました。

玄倉川水難事故の生存者である5名の現在について、調査してみました。

【1】加藤直樹

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加藤直樹さんは、株式会社富士繁の戸塚工場のドライバーとして働いていました。

DQNの川流れの事故当時31歳でした。加藤直樹さんは、「DQNの川流れ」の生みの親ともいえるかもしれません。彼がDQNの川流れのに巻き込まれた集団を仕切っていたリーダーだったとの証言が出ています。

その背景には、DQNの川流れに巻き込まれて亡くなった加藤直樹さんの実兄・加藤裕二さんも一緒に株式会社富士繁に勤めていました。兄弟で同じ会社に勤めていたことで、同じ会社で働く人達を裏で取り仕切っていたと考えられます。

加藤直樹さんが取り仕切って行われたキャンプでDQNの川流れは起こりました。DQNの川流れといわれるように、避難勧告を出し続けた警察官・ダムの職員・周辺住民に暴言を吐いていた一番の人物になります。また、救助に携わった人達に暴言を吐いたり横暴な態度を取るなど、威圧的で非常識な人間であることが、当時の中継で全国に知れ渡りました。

また、救助後に周辺住民らが配ったおにぎりを一口食べて、「まずい」と地面に叩きつけたり、救助隊に自分達の流されたテントを探せと言った人物でもあります。自分の妻や子供が行方不明でも、平気だったのです。彼の暴言や態度によって、DQNの川流れという言葉が誕生しました。

また、DQNの川流れに巻き込まれた大人達は、加藤直樹さんの言動に注意ができなかったことも問題だったのです。「キャンプを中止しよう」と言える大人がいないかった為、DQNの川流れが起こったとも考えられます。

DQNの川流れに巻き込まれた人達の中で、加藤直樹さんのお子さんが2名生存しています。彼は、DQNの川流れの事故を何と子供達に伝えたのでしょう。こんな非常識な人達の為に、多くの人達が大変な思いや苦労をして助かった命だということを、しっかりと受け止めて生きて欲しいと思います。

【2】加藤朝香

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加藤朝香さんは、リーダーとみられる加藤直樹さんの娘です。DQNの川流れの事故当時5歳でした。加藤直樹さんに抱きかかえられて岸に流れ着き、助かりました。

加藤朝香さんは、一時ブログで当時のことを語り世間が注目しました。その内容に、水難事故に遭った場所や日時の明記はありませんでしたが、書かれている内容からDQNの川流れの生き残りだと見られたのです。

ブログの内容は、母親が川に流された時の明確な記憶や、妹も川に流されて水死したこと、母親がいないことで寂しい思いをして育ったことが書き記されていました。

DQNの川流れの責任は、当時幼稚園児だった加藤朝香さんにはありません。しかし、多くの人が「反省の色がない」と書き込みを行い炎上して、ブログは閉鎖されました。加藤朝香さんがブログを閉鎖して以降の情報は、分かっていません。

【3】加藤一樹

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加藤一樹さんは、リーダーとみられる加藤直樹さんの息子になります。

DQNの川流れの事故当時1歳でした。DQNの川流れに巻き込まれた集団の中にいた加藤直樹の兄・加藤裕二さんに抱きかかえられていましたが、加藤裕二さんが流される直前に岸に向かって加藤一樹さんを投げ渡しました。岸には届かなかったものの、他のキャンパーが救出して助かりました。

現在、加藤一樹さんの玄倉川水難事故後の生い立ちや情報は一切出ていません。

【4】平野幸男

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平野幸男さんは、DQNの川流れの事故当時29歳でした。

株式会社富士繁戸塚工場で、加藤直樹さんと同じくドライバーをしていた男性になります。事故以降、平野幸男さんに関する情報は見つかっていません。

しかし、現在も平野幸男さん達が勤めていた株式会社富士繁は存続している為、まだ同じ会社で働いている可能性もあります。

【5】平野嗣富

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平野嗣富さんは、DQNの川流れの事故当時31歳でした。

株式会社富士繁で働いていた情報はありません。おそらく、弟だった平野幸男さんに誘われてキャンプに参加していたと思われます。現在、平野嗣富さんに関する情報は全く確認できていません。

DQNの川流れ!事故現場の現在【玄倉川水難事故】

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事故現場の現在の様子を見ていきましょう。

【1】不気味な門

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DQNの川流れが起きた玄倉川の入り口には、現在赤く錆びれた大きな門があります。

門の前には、巨大な石が3個置いてあり、完全に車が入れないようになっています。門は、二度と同じ過ちを繰り返さない為に造られたのでしょう。しかし、本来の自然豊かな美しい外観が損なわれてしまいました。

また、この門から先にある玄倉川水難事故が起こった現場が心霊スポットとなっており、夜に訪れては、勝手に侵入する人達もいるそうです。DQNの川流れを馬鹿にしながら、DQNの川流れと同じ行動を取る人もいるのです。

【2】注意看板

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玄倉ダムの周囲には、玄倉ダムが存在していることを知らせる看板が多数存在しています。

看板には、「玄倉ダムは貯水量を調整する為に、放水を行うことがります。ダムの放水後には川の水量が増加する為、直ぐに避難してください。」といった内容の注意書きが書かれています。

また、放水時にはDQNの川流れに巻き込まれた人達も聞いていたサイレンが流れます。このサイレンの音に、周辺住民達の中には、玄倉川水難事故の悲しみを思い起こす人も多いのです。

【3】安全祈願碑

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DQNの川流れと呼ばれた玄倉川水難事故が起きた際、救助の指揮本部が設置された場所には、現在大きな安全祈願碑が建てられています。

自然を甘く見たことで、多くの犠牲者を出した悲惨な事故を、二度と繰り返さないようにとの強い願いが込められています。

しかし、DQNの川流れに巻き込まれ、生存している大人達は、未だにきちんとした謝罪や説明を行っていません。本来なら、民間人であっても、大きな事故を起こし多額の税金を使って救助された場合には、記者会見を開き、経緯の説明を行います。

この説明責任の部分が果たされていないことが、周辺住民の人達にとって納得のいかない点でもあるのです。

DQNの川流れ!生存者の現在【玄倉川水難事故】

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DQNの川流れの名称がついた玄倉川水難事故は、自然だけでなく多くの人の意見を甘く見た結果起こった事故だったと言えます。

玄倉川水難事故は、13名もの命が亡くなった凄惨な事故でした。それでも、「DQNの川流れの」との呼び名がついた理由には、DQNの川流れに巻き込まれた人達の暴言や横暴な態度が、あまりにも非常識だったことが原因です。

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故を受けて、現在では警報が出ているにも関わらず、その場に留まる行為は、「自己責任」とされています。避難ができる時に、きちんと警報に従わなくてはなりません。誰かが守ってくれるとの考えが、DQNの川流れのような事故を生んでしまうのです。

DQNの川流れと呼ばれている玄倉川水難事故から、今年で20年が経ちます。どんなに悲惨な水難事故が起きても、必ず毎年水難事故で亡くなる人が後を絶ちません。

また、温暖化の影響により日本の天候も一時的な豪雨が頻繁に起きるようになりました。自然の中で遊ぶ際には、きちんとルールを守り、天候に関する情報をしっかりと把握しておくことが大切です。

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