飯塚事件の真相!死刑執行された久間三千年は冤罪だった? | ToraTora[トラトラ]

死刑執行後に冤罪の可能性が浮上している「飯塚事件」。弁護団が捜査の疑問点をまとめました。 pic.twitter.com/rkUx367Xyp

— 清水 潔 (@NOSUKE0607) November 17, 2017

この「飯塚事件」、平成4年2月20日の早朝、登校途中だった小学1年生の女児2名が何者かによって誘拐され、翌日国道崖下の雑木林で無残な遺体で発見されるという痛ましい事件でした。

事件発生から一カ月後、県警は近所に住む久間三千年さんを重要参考人として「毛髪と指紋」の任提出を求める事となりました。

その後、久間三千年さんの「毛髪と指紋」の鑑定結果は「犯人と一致」する事に。でも不思議な事に、県警は久間三千年さん逮捕に至らなかったのでした。

しかし、それから2年の月日が経った平成6年9月23日に、久間三千年さんは県警により突如「死体遺棄容疑」で逮捕・起訴される事となります。

この「飯塚事件」についは、現在でも「無実の人を処刑してしまったのではないか?」と疑問が持たれていて、それらを払拭できるような真実に辿りついていないのが実情だったのです。

飯塚事件の概要

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では「飯塚事件」の概要を詳しく解説していきます。

「飯塚事件」の容疑者・久間三千年さん逮捕までの流れをご覧ください。

【1】「平成4年2月20日」・飯塚市潤野小1年の女児2名消息を絶つ

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平成4年2月20日の朝に、登校途中だった潤野小学校1年の女児(当時7歳)2名が忽然と姿を消す事となります。近所の住民や関係者らの必死な捜索にも関らず、女児2名発見に至らなかったのでした。

さて、皆さんは、「飯塚事件」発生前に「松野愛子ちゃん事件(昭和63年」という同種の女児誘拐事件が発生していた事をご存じでしたか?

実は、この松野愛子ちゃんも「飯塚事件」で惨殺された女児と同じ潤野小学校に通う生徒だったのですが、残念な事に現在も松野愛子ちゃん発見には至っていなかったのでした。

【2】「翌21日」・不明女児2名の惨殺遺体発見される

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女児2名は、翌日の21日に同日午前0時10分ごろ、甘木市・八丁峠を自動車で通りかかった団体職員の男性により、発見される事となります。

崖下に「マネキンのような物体」が在る事に気が付いた男性の通報により、不明女児2名と確認される事に・・・、場所は八丁峠国道脇の雑木林でした。

その後・・・心優しい方により、女児2名の遺体発見現場に「ふたり並んだお地蔵様」が祀られる事に。その傍には、「平成4年に遭難された七歳の二人の少女を祀ります」と記された看板も添えられていたそうでした。

実は「飯塚事件」発生以降、遺体発見場所となった八丁峠では幾度となく「彷徨うふたりの少女の霊」が通行人により目撃されていたのでした。

なんとも哀しい話だったのです。

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遺体発見時、女児2名は「共に全裸」でした。女児の遺体から衣類がはぎ取られていたため、警察は遺留品捜索に躍起になっていたそうでした。

ところが、不明女児が身に付けていた「下着とランドセル」が、遺体発見現場から数キロ離れた国道沿いの崖下で発見される事となります。

これらの不明女児の遺留品は「飯塚事件の犯人」によって道路から崖下へと投げ捨てられたものと思われます。

【4】近所の住人だった「久間三千年さん」が浮上する事となる

久間三千年 飯塚事件 1992年2/20

小1女児2名を車に誘い込み殺害。死者2名。08年10/28、執行。70歳没。DNA鑑定等が決め手となり刑が確定。だが、当時の鑑定の精度は低かった。 pic.twitter.com/jfEmhdcGkT

— 執行済み・獄中死した死刑囚bot (@sikei_syu_bot2) August 28, 2019

「飯塚事件」発生から5日後の平成4年2月25日、警察により飯塚市潤野の「明星寺団地」の住人だった久間三千年さんに事情聴取が行われる事となります。

そもそも、昭和63年に発生した未解決事件・「松野愛子ちゃん事件」の容疑者候補にも名を連ねていた久間三千年さんでした。

この事から、警察が久間三千年さんを疑う事は自然な事だったのかもしれませんでした。また、松野愛子ちゃんが失踪直前、弟と共に久間三千年さんの住居にたち寄っていたからなおさらだったのです。

この事により、さらに「飯塚事件」への嫌疑が高まる事となってしまった久間三千年さん。

実は「飯塚事件」発生直後に、積極的に「捜査への協力」を行っていた久間三千年さんでした。しかし残念な事に、この協力が「飯塚事件の捜査かく乱」と捉われる事になってしまいます。

「明星寺団地の住人全員の毛髪提出」させるという、捜査協力が裏目に出てしまう結果となってしまったのです。

【5】後に「目撃者の証言により作成された員面調査書」が捜査混乱を招く事となる

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「飯塚事件」の遺体遺棄現場となった八丁峠で、事件当時、山道を低速で走っていた不審な車を目撃したという「T証人」が現れる事となります。

しかし「飯塚事件弁護団」は、このT証人の証言に違和感を覚えた事から「面員調書」の信ぴょう性を確かめるべく、心理学のエキスパート・厳島行雄教授(日本大学心理学教室)にT証人の証言をもとにした「行動心理学の実験」を依頼する事となったのです。

実はこのT証人「ほんの数秒間」すれ違っただけなのに、遺体遺棄現場を通過していた「不審車両の細部や車両の傍にいた不審者」を詳細に記憶していたのでした。

「飯塚事件弁護団」の中に湧き起こっていた疑念とは「たった数秒間に全ての状況を記憶する事は不可能」という事をだったのです。

「飯塚事件弁護団」から依頼を受けた厳島行雄教授は「75名の被験者」に対し「行動心理学の実験」を実施する事となります。

場所は、不審車両が目撃された八丁峠でした。後に、その実験結果が「飯塚事件」を揺るがす事になったのはいうまでもないのでしょう。

【6】結局「死体遺棄容疑」で逮捕される事となった久間三千年さん

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「飯塚事件」発生の5日後に、自宅で事情聴取を受ける事となった久間三千年さん。

その際に「毛髪と指紋」採取の任意提出を受ける事となります。そして「飯塚事件の犯人のものと一致」というDNA鑑定結果が判明する事となったのでした。

重要参考人だった「久間三千年さんのDNAと犯人のDNAが一致」するという結果を得ていた警察。にも関わらず、久間三千年さん逮捕に至らなかった警察に謎は深まるばかりでした。

それから2年経過した平成6年9月23日に、突如、警察から逮捕される事となった久間三千年さん。理由は、「女児の衣類に付着していた繊維片と、久間三千年さん所有の車のシートから採取した繊維片が一致」という事でした。

繊維片の鑑定は、福岡県警の依頼により平成6年1月末から「科警研繊維メーカーの東レ・ユニチカ」がDNA鑑定を実施していた事がわかったのです。

そして、平成6年6月15日には被害女児の遺体周辺から採取された血痕のDNA型(MCT118型・HLAQα型)を元にした「科警研鑑定書」が科警研により作成される流れになっていたのでした。

その後、久間三千年さんの毛髪が鑑定にかけられる事となったのです。結局のところ、警察は「全ての証拠が出揃ったタイミング」で、久間三千年さんを逮捕しようとしていただけだったのです。

その後も「死体遺棄容疑で再逮捕」される事となった久間三千年さんは、さらに平成6年10月14日に「誘拐殺人容疑で再逮捕」される事となってしまいました。

平成6年1月に「起訴され取り調べを受けていた久間三千年さん」でしたが、67日にも及ぶ過酷な取り調べにも「一切自白」する事がなかったそうでした。

「飯塚事件」~裁判の詳細

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さて、これから「飯塚事件」の裁判の詳細について解説していきます。

「飯塚事件」の元死刑囚・久間三千年さんが「冤罪でありながら死刑執行」されてしまった経緯については、後ほどご紹介させていただきます。

【1】死刑執行により天に召される事となった久間三千年さんに支援者が泣いた

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平成6年9月、福岡地裁で始まる事となった「飯塚事件」の裁判は、全て死刑判決と言う結果に終わってしまいました。

「平成11年9月の福岡地裁」「平成13年10月の福岡高裁」最後だった「平成18年9月の最高裁」でも死刑判決が出る結果となってしまったのです。

再審請求は尽く却下。「飯塚弁護団や妻も打つ手なし」で、死刑確定から2年後の「平成20年10月28日の朝」突如、福岡拘置所内で久間三千年さんは死刑執行を言い渡される事となってしまったのでした。

久間三千年さん(享年70歳)「飯塚事件」発生から」16年8カ月後」の出来事だったのです。久間三千年さんの死刑執行を受け「飯塚事件弁護団」や支援者らは落胆してしまい、突然の別れに言葉を失う事となってしまったのでした。

【2】「飯塚事件」弁護団の後悔

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死刑執行前「再審に向けて前向きな姿勢」をとり続けていたと言われていた久間三千年さんでした。

長き日に渡り、家族や支援者と共に闘い続けてきた「飯塚事件」の主任弁護士だった岩田務氏。岩田氏は、突如「死刑執行」される事となってしまった久間三千年さんに「ただただ申し訳ない」と、自身を責め続けたとの事でした。

久間三千年さんの死刑執行を受けた瞬間、飯塚事件弁護団一同、「しまった!」という気持ちになったそうなのです。「我々がもっと再審請求を急いでいたら、このようにならなかったのではないか」と「職務怠慢」をあげながら自責の念に駆られていたそうでした。

「予期していなかったあまりにも早い死刑執行」に、しばらく立ち上がる事が出来なかった「飯塚事件弁護団」だったのです。

【3】「夫の死刑執行」~再審に向け戦い続けていた妻だった

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「飯塚事件」の判決が全て「死刑判決」という結果に伴い、飯塚事件の再審請求は平成13年6月を持ち一旦終了する事となりました。

しかし、その判決に納得のいかなかった久間三千年さんの妻は、平成21年・10月、福岡地裁に対し「飯塚事件の再審請求」を行う事となります。

それに伴い「飯塚事件弁護団」は再審請求の際に重要な証拠となる「久間三千年さんの肌着から採取した上皮組織」「電気剃刀から採取した久間三千年さんの髭」をもとに、足利事件にてDNA鑑定を行った筑波大学の本田教授へと依頼する事となったのでした。

その後「本田鑑定」の結果、DNA型が「18-30型」と判明する事となります。そして「本田鑑定」により「科警研の鑑定結果」は完全に覆される事となってしまったのです。

本田教授は、自身の鑑定結果をもとに「真犯人は別にいる」事を言及していたそうなのです。

しかし、福岡地裁は「科警研の鑑定結果には誤りはない、単なる本田教授の独自な見解に過ぎない」と、本田鑑定を真っ向から否定するに至ったのです。

そして「本田鑑定」という重要証拠を得ていたにも関わらず、「妻の再審請求」は、見事に棄却される事となってしまったのでした。

「死刑囚・久間三千年」の人物像

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「飯塚事件」の犯人のままこの世をさる事となってしまった久間三千年さんでしたが、生前はどのような暮らされておられたのか非常に気になりますよね。

実は、この久間三千年さんには「女児殺害に加担していた者」とは思えないエピソードが多数存在していたのでした。

どうぞ、久間三千年さんの素顔をご覧下さい。

【1】久間三千年さんのプロフィール

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  • 名前/久間三千年(くまみちとし)
  • 生年月日/1938年1月9日生れ
  • 職業/元・市職員(39歳で退職)
  • 家族/妻・息子
  • 住居/福岡県飯塚市潤野の明星寺団地

【2】生前の久間三千年さんの人柄をしのぶエピソードとは?

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「飯塚事件」の久間三千年さんは、近所でも評判な子ども好きだったそうでした。そんな子どもたちに慕われる久間三千年さんのニックネームは「ザリガニのおじさん」。

久間三千年さんは非常に温厚な方だったそうで、近所の子どもたちに遊びを教えるなどしていた「寺子屋的存在」でした。潤野地区の自治会活動においても大変尽力されていたそうで「こんな久間さんが犯人なはずはない!」と、誰もが久間三千年さんの冤罪を信じていたのでした。

しかし、執拗に潤野地区周辺の聞き込み捜査などが行われていた影響から「久間三千年が犯人だ」と、心ない言葉を放つ人たちが徐々に増えていく事となったのです。でも、それはごく一部の人であり、多くの地元住人は久間三千年さんが「冤罪」である事を信じていたのでした。

後に「飯塚事件」の支援者によって結成される事となった「再審を支援する会」は、久間三千年さんのご家族にとって、どれほど頼もしい存在であったのかは容易に想像する事が出来たのでしょう。

【3】家族愛に満ちあふれていた久間三千年さん

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「飯塚事件」発生当時、52歳という若さだった久間三千年さんでした。

39歳で市職員を退職してから、働く妻に代って「専業主夫」に徹していたという久間三千年さんは、当時、小学生だった息子さんを面倒見ながら、夫の代りに外で働く妻を懸命に支えておられたそうでした。

食事の用意や送迎など妻に代り、家族を支える事が久間三千年さんの喜びでもあったそうでした。

妻の給料と自身の年金をやり繰りしながら、時には自身が運転するワンボックスカーで、家族3人で遠出を楽しむ事もあったそうなのです。「妻が富士山を見たい」と言えば、高速道路を駆け抜け富士山まで向かうという行動派な一面もあったようでした。

「子どもの成長」に合わせて車を買い替えるなどされていたそうで、本当に「家族思いな久間三千年さん」だった事が窺えるエピソードなのでした。

幸せは「日々の中にあった」というほど、生活の中に愛が満ち溢れていた久間さん家族。しかし「飯塚事件」発生により「久間一家の幸せ」は、見事に打ち砕かれる事となってしまったのでした。

【4】死刑執行に怒りをあらわにしていた妻

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「飯塚事件」の久間三千年さんは「家族のために否認を貫いていた」ともいわれていました。それは、家族愛に満ち溢れていた「久間三千年さんらしい生き方」だったのかもしれません。

そのような久間三千年さんが、あのような「残酷な幼児殺害」など行うはずはなかったのでしょう。

足利事件のDNA再鑑定のタイミング」で、突如、死刑執行を言い渡されてしまった久間三千年さんでしたが、妻や支援者が「司法や国家への疑念」を持つ事は当然だったです。

「足利事件のDNA再鑑定決定」がなされた12日後の死刑執行に、妻や支援者のみならず、日本中の人々が震撼する事となったのですから。

・・・あまりにも酷すぎる話だったのでしょう。その後、妻は新聞記者に対し「怒りをあらわ」にしながらインタビューに応えていたのでした。

「私には足利事件の事はよくわからないですが、それよりも「無実」だと最後まで訴え続けていた夫の事をもっと取り上げてほしかったです。夫の死刑執行された今では言いたい事も言えないわけでしょ?」

もしも、皆様の最愛の人が無罪のまま「闇」に葬られたとしたら、どの様な心情になると思いますか?きっと、久間三千年さんの妻と同じ訴えをされるはずなのでしょう。

【5】死刑執行の瞬間まで「冤罪」を訴えていた久間三千年さん

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死刑執行の3カ月前、久間三千年さんは死刑廃止団体のアンケート調査にこのように答えていたそうでした。アンケート用紙の裏側に書かれていたものがこれでした。

  • 真実は必ず再審にて、この暗闇を照らすであろうことを信じて疑わない

また「飯塚事件弁護団」が最後に久間三千年さんと面会した時の事。

「自分より先に死刑が確定しているのに、実際にはこんなに死刑執行されていないの人がいるんですから」、そう言いながら、久間三千年さんは自身で作成した「死刑確定リスト」を「飯塚事件弁護団」に提示してきたそうでした。

そして、満面な笑顔で「だから大丈夫ですよ」と「飯塚事件弁護団」に語りかけたのだそうです。しかし、その面会から一カ月後に、決定される事となった「足利事件のDNA再鑑定」。

運命の流転により、その命に幕を閉じる事と久間三千年さんに皆、言葉を失う事となったのです。

「もう取り返しがつかない!」~死刑執行後に暴かれた新事実

「飯塚事件」。高裁でも再審決定が出ないかもしれない。だとしたら、それは久間氏が真犯人であることを示すのではなく、結論ありきで判決を出す日本の刑事司法の機能不全をまざまざと示す。欺瞞判決は司法不信を深めるだけだ。不信が破裂する前に、裁判所は真摯に真実と向き合うべきだ。 pic.twitter.com/HZLRs7lcjC

— 青木 俊 (@AokiTonko) September 6, 2017

「飯塚事件」の久間三千年さんは、国家によって潰される事となりましたが、死刑執行後に「あり得ない」新事実が続々と露見する事となったのです。

これから「飯塚事件の闇」に迫っていきますので是非ご覧ください。

【1】誘導されていた目撃者の証言

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「飯塚事件」にて、久間三千年さんの有罪認定を支える柱のひとつでもあった「T証人」の目撃談。

女児2名のランドセルが遺棄された現場周辺で、「紺色で後輪がダブルタイヤ」の不審な車両を目撃したというT証人でした。

でも、実は供述調書が作成される以前に「下見報告書」なるものが存在していた事実が発覚する事となったのです。

また、にわかに信じがたい話でありますが、このT証人の聴取が行われる予定だった2日前に「県警の巡査部長」によって、久間三千年さんの「車両が下見」されていた事が判明したのでした。

つまりは、T証人の目撃情報に違和感を覚えた「厳島教授の直感」が的中する事となったのです。

地元新聞は、下見の件について「T証人の供述調書」を作成していた元巡査部長らを直撃するも、巡査部長は「下見した覚えはない」と一点張りだったそうでした。

しかし、再審請求審の地裁決定時、県警の元警部補作成の捜査資料には「下見」と見られる記載があった事や「久間三千年さん所有の車種や車両本体の特徴を把握」していた可能性があった事が認定されていたというのですから驚きです。

また「飯塚事件」発生当時の元巡査部長の証言によると、当時は組織捜査が徹底されていて班長の指示の元で動いていたそうで、成果がなかった日でも毎日「報告書」に書いていたそうなのです。

捜査員の報告書や供述書をもとに作られていたその報告書には、「疑問点を個別に尋ねる記述」もあったそうでした。

「飯塚事件弁護団」の徳田靖之共同代表は、これらの証言から確実に「下見の捜査報告書」が存在していた事を言及。その中には「捜査本部の指示内容」も記されていた可能性があったと指摘していたのでした。

即時抗告審においては、検察側は「下見の報告書など存在しない」と一点張りだったそうです。裁判所も「飯塚事件弁護団」からの開示勧告要請に、一切応じる事がなかったそうでした。

【2】「日を追うごとに変化する」目撃証言の矛盾点

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被害女児2名の遺留品が遺棄されていた福岡県朝倉市の八丁峠付近で、不審車両を見かけたという「T証人」の目撃情報の信憑性に陰を落とす事となっていきます。

それは、T証人の目撃した不審車両の特徴に関する証言が、「日を追うごとに詳細になってきた」からでした。

八丁峠は、急カーブの多い山中となりますが、T証人は下りカーブを時速25~30キロという低速で走行していたそうです。

八丁峠で、対向車線の道路側に停車していた車両と不審者の詳細を記憶していたというT証人の目撃に所要した時間は「10秒程度」だったそうでした。

次第に、「飯塚事件弁護団」のみならず、行動心理学の実験を実施した厳島教授までもが、このT証人の証言に疑念を抱くようになっていく事となったのです。

【3】厳島教授の指摘

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「飯塚事件弁護団」は、T証人による目撃証言について「下見で確認されていた久間三千年氏の車両の特徴と合わせるような供述を警察が誘導した結果、このような詳細な目撃証言となった」と指摘。

また、「裁判所の全面開示勧告」の際、久間三千年さん所有の車両に関する「捜査結果」が明らかになった時の事・・・。

なんと!T証人の供述調書作成前に記されていた「捜査員現認」欄には「ラインがなかった」という記述が残されていたのです。

この車両のラインの有無は「目撃車両の一致を左右する大切な要素」でした。

久間三千年さん所有のマツダボンゴには、元々ラインなどなかったのに「ある」と証言されていたため、その証言自体が「嘘」という事が明確になったのです。

厳島教授は、そもそもラインのなかった不審車両に対しT証人が「ラインが(ない)」と証言していた事に着目していたわけでした。

「飯塚事件弁護団」と厳島教授双方の指摘を重ねり合わせると、T証人の目撃情報が「意図的に作られていた」事は明白だったのです。

【4】警察の思い込み捜査

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「飯塚事件」の4年前に発生していた未解決事件・「松野愛子ちゃん事件」で、数名がリストアップされる事となりましたが、そのリストの中に、久間三千年さんの名前も記載されていたのでした。

久間三千年さんが「飯塚事件」の犯人だと捜査員に思いこまれた原点が「松野愛子ちゃん事件」だったのです。

その後、完全に犯人と思いこまれた久間三千年さんは、捜査員により所有していた「車両を下見される」事となりました。

そして目撃者だったT証人を誘導して、久間三千年さんが犯人であるかのように「意図的に調書作成」を行ったというのが真相だったのです。

【5】厳島教授の実験結果とは?

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2001年と2010年の2回に分けて行われた厳島教授の「行動心理学」は、計75名の被験者により実施される事となりました。

目的を知らされていない被験者75名らが、事件当時のシチューエーションを再現した中で実験に参加したという話でした。

そして、厳島教授により「記憶再現実験」が行われるも「T証人のような詳細な記憶」を再現できた者はひとりもいなかった事がわかったのでした。

だれひとりとしてT証人と同じ証言をする者がいなかったのです。

「記憶力抜群だったT証人」との事でしたが、実際には目撃現場だった山道まで、警察官を案内するのにかなり時間を要していたらしかったのです。

したがって、そんなT証人が「久間三千年さん所有だった車両の特徴」を言い当てる事など、到底あり得ない話だった事が浮き彫りになってきたのでした。

【6】有罪の決め手になってしまった「血痕」とは?

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「飯塚事件」発生直後に押収されていた久間三千年さん所有のマツダボンゴからは、血痕は採取されていなかったそうでした。

しかし「飯塚事件」発生から1年半後の平成6年4月に、突如として後部座席シートから血痕が検出される事態に発展する事となったのです。

科警研によると、この血痕は「繊維メーカーの指摘」により発見に至ったそうで、難航する冤罪事件では「物的証拠が不可解な形で発見」される事はよくあるそうでした。

しかし、平成4年9月29日にルミノール検査をしたはずの警察が、「何故それまでその血痕を発見できなかったのか?」・・・ルミノール反応が全くなかったその部位から、「何故1年半も経って血痕が検出られる事になったのか?」・・・それは説明不能以外のなにものでもなかったのです。

この事から、警察により「証拠ねつ造」疑惑が指摘される事となったわけでした。

【7】科警研のずさんすぎた「DNA鑑定」

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2年以上に渡って、逮捕される事のなかった久間三千年さん。

先に久間三千年さんのDNA鑑定を実施していた「科警研」の鑑定に不信感をもっていた「科捜研」は、帝京大・石山教授へ別途鑑定依頼していた事実が判明する事となります。

「飯塚事件弁護団」は、当初から「科警研以外の鑑定があったはずだ」と指摘していて、検察を追求し続けたところ、ようやっと「帝京大・石山教授へ依頼」していた事を認めたのだそう。

そして、しぶしぶ「飯塚事件弁護団」に提示される事となった「石山鑑定書」でしたが、その鑑定は驚くべき結果を示していたのでした!

足利事件で用いられた鑑定法「MCT118法」と同じ鑑定法で、DNA鑑定が行われた「飯塚事件」でしたが、帝京大・石山教授いわく「一番よい結果が得られたと思われる」と後に語られていたのでした。

結果は以下になります。

~科警研~

MCT118法/久間三千年さんと犯人のDNA型が一致

HLADQα法/久間三千年さんと犯人のDNA型が一致

~帝京大・石山鑑定~

ミトコンドリア法/久間三千年さんと同一のDNA型不検出

HLADQα法/久間三千年さんと同一のDNA型不検出

以上になります。

この、石山鑑定の結果の意味が指していた事がご理解いただけましたでしょうか?「なぜ?このように科警研と石山教授の鑑定結果に明確な差が現れてしまったのか?」

さらには!石山教授が鑑定を行った際、以下の驚愕な新事実が判明する事となったのです。

なんと、石山教授の元に届いた試料(血液)は「糸くず」にほんの少しくっついていた程度で、そのうえ縁が変色して腐っていそうなのです。

そもそも試料が大量にあったはずなのに、科警研の鑑定技術が未熟だったため、無駄に使用して使いきっていた事を明らかにしたのでした。

その後、石山教授は法廷で「科警研の鑑定は通用しない」と言及するに至ったのでした。

【8】暴かれる!科警研で行われていた「写真改ざん」

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石山鑑定において「糸くず」に付着していた僅かな血液だったのにもかかわらず、久間三千年さんが冤罪である可能性を引き出ていただいた事は「飯塚事件の関係者に一筋の光を与える」事となったのでしょう。

一方で、久間三千年さんが犯人と決定付ける鑑定結果を出していた「科警研」に、とんでもない事実が判明する事となります。

それは、にわかに信じ難かった「鑑定写真の改ざん」疑惑でした。

実は、科警研による久間三千年さんのDNA型は「16-26型」という鑑定結果だったのですが、実際には専門家の目から見ても、その電気泳動写真の16と26の位置に「16-26型」なるバンドは確認する事が出来なかったそうなのです。

その事から、科警研が大元のネガフイルムを焼く時に「光量を落とし暗い中で撮影していた」疑惑が浮上する事となったのです。

なので、久間三千年さんを犯人だと決定付けた科警研の「16-26」のバンドは「単に光量を下げた事で現れたバンド」に過ぎなかったのでした。

科警研の写真改ざんを疑っていた「飯塚事件弁護団」は、すぐさま大元のネガフイルムを複写し、PCで白黒反転させてチェックしたところ、そこには広範囲に渡って鮮明に写るバンドを確認する事となります。

科警研は、どうしてこのような写真改ざんを行ってまで、真実を隠そうとしたのか?・・・その謎はこれでした!

【9】「本田教授による血液鑑定結果」〜浮上した新事実!

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この科警研の改ざん写真について、「飯塚事件弁護団」らが言及しても福岡地裁は、「必要なものを提示したに過ぎない」といい、あくまでも科警研の行った鑑定には非がなかった事を主張し続けたのであります。

しかし、「飯塚事件弁護団」が依頼していた「足利事件のDNA鑑定」を行った筑波大学の本田教授によって驚愕の事実が判明する事となります。

「飯塚事件弁護団」が、PC上で白黒反転させ確認していた「広範囲のバンド」の中に、久間三千年さん以外のDNA型の存在があった事を筑波大・本田教授により確認される事となったのでした。

科警研が写真を焼き付けていなかった場所に、真犯人の可能性である「41-45型」のバンドが隠れていた事が判明する事となったのです。

「飯塚事件弁護団」や、筑波大・本田教授は、その事から「科警研が意図的に重要な部分をカットして焼いていた」事を指摘する事となります。

科警研の鑑定書には存在していなかった個所に「被害女児や、久間三千年さん以外の第三者のDNA型」が存在が明らかになったわけなので、当然久間三千年さんの冤罪が証明できるものと誰もが信じる事となったのでしょう。

次に「本田鑑定」により、真犯人が「AB型」である可能性が示唆される事となったのです。

【10】結局「久間三千年さんによる犯行」と強引に結びつけられた飯塚事件だった

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実は、科警研が行っていた「飯塚事件」の血液鑑定に信じられない不備が判明する事となりました。それは、そもそも遺体から採取されていた血液は「被害女児と犯人の混合血液」だった事がわかったのでした。

これらは「本田鑑定」よって露見した紛れもない事実だったのです。本田教授がなぜ真犯人を「AB型」と示唆した理由がこれでした。

  • 少女A(血液型:A)の試料からAとBの血液成分が検出された、この場合、単独犯なら犯人の血液型はBかABとなる
  • 少女O(血液型:O)の試料からAとBとO三種類の血液成分が検出された、この場合だと犯人の血液型はABとなる

でも、結果的に少女Oの試料中に、少女Aの血液が混入されていた可能性も示唆していた本田教授。もし、それが正解であれば、おのずと犯人はBとなり、血液型がBだった久間三千年さんが犯人にされてしまうのは自然な事だったのでした。

しかし、科警研の血液採取の不備によって「飯塚事件」の犯人にされてしまった久間三千年さんの「罪」が最後まで覆される事がなかったのでした。

【11】大失態!~結果信頼を失う事になった「科警研」

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科警研の大失態となる「血液混入」の前から、科警研のずさんな管理体制に異議を唱えていた「飯塚事件弁護団」でした。

また科警研から、帝京大名誉教授・石山教授(法医学)へ届いた微量の試料は一部腐っていたという呆れた実態によって、科警研の鑑定技術の未熟さが露見する事となりました。

次に、筑波大・本田教授の鑑定なくして、得る事の出来なかった「AB型の真犯人」。しかし、科警研は最後まで「少女Aと少女Oの試料が混ざっていた」事実を否定し続け、犯人はB型の久間三千年さんだと言い張り続けたのでした。

さらには、地検は「AB型の真犯人」を導き出した筑波大・本田教授の鑑定結果に反論し、「本田教授が単に独自な見解をしているだけ」と真っ向から突っぱねていたのです。

結局、地検は明確な根拠もないまま「科警研鑑定」結果の「B型」を支持し続けたのです。いずれにせよ、数々の証言から科警研が信頼を失った事には間違いなかったのでした。

ゆうに100回は鑑定可能だった試料も、全て使い果たし、裁判所に提出した鑑定データと画像は改ざん、その上、科警研技官によって破棄されていたのですからあきれ果ててものが言えなかったのでした。

その科警研技官は、それらデータを私物扱いし、自身の退職時に破棄していたのですから、科警研がずさん過ぎたのは言うまでもなかったのです。

また「血液凝集反応写真」を紛失という信じられない失態に、ついには完全に信頼を失う事となってしまった科警研だったのです。

「足利事件の再来・飯塚事件」〜国家により墓場に葬られてしまう

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結局のところ「飯塚事件」の久間三千年さんは科警研の数々の失態によって犯人にさせられ、冤罪のままこの世を去る事になってしまったわけでした。

一方で、DNA再鑑定に至り、逮捕から19年後に釈放される事となった足利事件の菅家さんでありましたが、その菅家さんも服役中に両親を亡くしたりと国家によって大きく運命を変えられひとりでもあったのでしょう。

その点から考えると、冤罪のまま死刑執行がなされた久間三千年さんとは「苦を共にした戦友」だったのかもしれません。

【1】「冤罪の可能性ありき」~黒塗りにされた資料

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NNNドキュメントの取材で明らかになった「死刑執行命令」に関しての黒塗りの資料についてお話しします。

取材において、このドキュメント番組関係者が、死刑執行命令についての資料請求したをところ、全てが黒塗りだった事が判明したのでした。

この黒塗り部分に記されていた「検討内容」が、一体どのような内容だったかについては当然、死刑執行に携わった関係者以外知る由はなかったのでしょう。

しかし、久間三千年さんの死刑執行が、正当な判断のもとで行われていたのであれば、資料の黒塗りなど行う必要は一切なかったはずでした。

【2】死刑執行を命じた森法務大臣のいいわけ

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冤罪の可能性があった久間三千年さんの死刑執行にゴーサインを出した森法務大臣。

実は、久間三千年さん死刑執行前に森法務大臣は、ある不安を大野恒太郎刑事局長に打ち明けていたのでした。

理由は、逮捕から死刑執行の日まで「一貫して冤罪を訴え続けていた」久間三千年さんの事を気にしていたと思われます。その事から、久間三千年さんの死刑執行へ懸念を抱く事となったようでした。

森法務大臣は、刑事局長だった大野恒太郎に「大丈夫なのか?」と問うたそうでした。しかし、森法務大臣から問われた大野恒太郎は、「大丈夫です。サインをお願いします」と答えたため、死刑が執行される事となったのです。

死刑執行が確定してから、たった2年という短期間で再審請求する間もなくこの世を去る事になった久間三千年さん。

これらを「非人道的な殺人行為」と呼ばなくて何と呼べばよかったのでしょうか?全ての過ちを封印するかのように、急いで死刑執行の準備に取りかかっていた国家。その真相は、必ずや世に公表される日が来る事なのでしょう。嘘はいつか暴かれるのです。

【3】冤罪だった久間三千年さんの命を奪った責任者たち

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これからご紹介します「責任者」たちは、久間三千年さんを闇に葬った当事者になります。とくとご覧ください。

~福岡県警本部長・村井温~

当時、県警本部長を務めていた村井温氏は、その後村井氏の実父が創業した「総合警備保障」という大手警備会社に転じ、社長業を担う事となりました。東証一部上場させるなど、奮闘。現在は、代表取締役会長というポジションにいる村井温氏のホームページでは、かなり羽振りのいい様子が窺えるのだとか。

本部長時代には1万数千人もの部下を抱えるトップだった村井温氏。自身が会長を務める「綜合警備保障」では「その頃の経験が大いに役立っている」と笑顔で語っていたそうです。

~福岡地検検事正・村山弘義~

この村山弘義氏は、その後、東京高検検事長まで上り詰める事となりました。そして、1999年に弁護士に転身した村山弘義氏は、三菱電機やJTの監査役として迎えられる事となったそうでした。

2010年に起こった大相撲野球賭博騒動の時は、理事長代行も務めていたとの事です。

~福岡地裁裁判長・陶山博生~

一貫して冤罪である事を訴えていた久間三千年さんに、死刑を言い渡した当事者・陶山博生氏は、福岡高裁の部総括判事を最後に依願退職したそうです。

その後、福岡を拠点に弁護士として活躍されているとの事ですが、とある取材に対し頑ななまでに取材を拒否していたそうで、飯塚事件について触れられるのを嫌っていたという証言があったのです。

~(事務次官)小津博司/(刑事局長)大野恒太郎~

このふたりは、いずれも検察官でした。久間三千年さんの死刑執行後、間もなくして「法務・検察の最高位」である検事総長まで上り詰めていたのです。

小津氏は退官後、弁護士として「トヨタ自動車・三井物産・資生堂」という超大手企業で、監査役のポストに就く事とに。その後、大手ゼネコン「清水建設」が設立した「一般財団法人清水育英会」で代表理事に就任する事となったのです。

そんな小津氏も取材陣に対し、一方的に取材を断るといった態度を示していたそうなのです。また、前出の小津氏の後任で検事総長となった大野氏も、退官後は同じく弁護士に転身する事となりました。

そして、四大法律事務所のひとつだった「森・濱田松本法律事務所」の客員弁護士として迎えられ、伊藤忠商事やコマツでは監査役、イオンでは社外取締役などを任されていました。

以上の5名は、飯塚事件の冤罪被害者だった久間三千年さんの尊い命を奪い去った責任者なのでした。また、以下の人物らは「死刑執行に関った法務官僚」になります。

  • 矯正局長/尾﨑道明
  • 矯正局総務課長/大場亮太郎
  • 矯正局成人矯正課長/富山聡
  • 保護局長/坂井文雄
  • 保護局総務課長/柿澤正夫
  • 保護局総務課恩赦管理課/大矢裕
  • 官房長/稲田伸夫
  • 秘書課長/中川清明
  • 刑事局総務課長/甲斐行夫

ちなみに、死刑執行後、森総務大臣は「十分慎重かつ適正な検討を加えた上で執行命令をしたのでございまして、時期とか間隔とかは一切意識にありませんでした」と、記者の質問に経緯を語っていました。

しかし、その表情は終始曇っていて、目が泳いでいたのは確かだったのです。無罪だったかもしれない久間三千年さんを、強行に死刑執行したこれら関係者全員、久間三千年さんから永遠に呪い続けられて当然なのかもしれません。

【4】石山教授に囁かれた「警察庁高官からの妥協案」とは?

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実は、久間三千年さんの逮捕前に警察庁高官だったとある人物から「先生の鑑定は非常に困る、妥協してほしい」というお願いをされていた石山教授だった事がわかりました。

また、その際、その警察庁高官は「科警研との矛盾はなにか?」を問うていたそうです。

それに対し石山教授は「自分が調べた試料は極少量で、久間三千年氏の型は含まれていなかった可能性がありました」と警察庁高官に伝えたのでした。

その後、飯塚事件の一審判決で石山教授の見解は認められる事となったのでしたが、結局は、科警研鑑定を死刑判決の柱にしてしまった司法。

でも、実はこの「少量説」、妥協を迫られていた石山教授が警察庁高官に与えるための口実だったのでした。したがって、この石山教授の機転が後に、科警研の証拠能力を否定する足掛けになった事はいうまでもないのでしょう。

ですが、結局「他の状況証拠で高度な立証がなされている」とし、久間三千年さんの無罪が認められる事はなかったのでした。その結果、石山教授は科学者としての立場から「科警研への不信感」が募る事となってしまったのでした。

その後、石山教授は法廷で「一番良い結果が得られた鑑定結果でした。型を示すバンドは歪んで鬼の面のようでした。私の研究室だったらやり直しを命じるレベルなのです。」と証言する事となったのです。

「わずかな糸状の試料」から久間三千年さんの「無罪の可能性」を付きとめた石山鑑定は、遺族にとって何にも代えがたい喜びであり、大きな希望だった事には間違いなかったのでしょう。

「飯塚事件の犯人は別にいる!」~3名の研究者の想い

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「足利事件」のDNA鑑定を行った「本田鑑定」により露見される事となった科警研の「大嘘」。そして、久間三千年さんを犯人に仕立て上げたのは紛れもなく警察と国家だったのです。

また、福岡県警の依頼でDNA鑑定を行った石山教授も科警研鑑定の矛盾を言及すると共に、事件現場の八丁峠で、車両実験(心理学)を実施された厳山教授(日本大心理学教室)も、事後情報について異議を唱える事となりました。

この3名の研究者は、死刑執行された飯塚事件の久間三千年さんが、犯人でない可能性を必死に訴えておられました。また、再審請求即時抗告審で「飯塚事件弁護団」は「石山鑑定」を証拠として再評価するよう申し出ても尽く棄却されていたのでした。

では、3名の教授が語った事について、わかりやすくまとめましたのでご覧ください。

~(車両実験)厳山教授~

  • 75人に実施した実験結果において、T証人と同じような詳細な記憶を再現した人はゼロ
  • T証人の面員調書には、事後情報が含まれていた。つまり、捜査員の誘導によって作成されていた調書だった
  • 捜査員が事前にT証人に「遺留品発見現場」を伝えた事で、T証人に肯定的なフィードバックがかけられ「もしかしたら?やっぱり久間さんのでは?」という証言内容に変わっていく事となった
  • T証人の面員調書作成前にすでに、久間三千年さん所有のマツダボンゴにはラインなどなかった事が把握されていた
  • 警察に誘導され証言する事となったT証人により、久間三千年さんが飯塚事件の被疑者として決めつけられた。すなわち「松野愛子ちゃん事件」から、ずっと目を付けていた久間三千年さんを犯人に仕立て上げるストーリーが完成する事となった

~(福岡県警の依頼にてDNA鑑定実施)石山教授~

  • 石山鑑定と科警研の鑑定結果が全くの真逆だった
  • 再審請求即時抗告審で、石山鑑定が証拠として再評価されなかった矛盾
  • 石山教授が実施したDNA鑑定では、科警研から渡された「ごく少量の試料」につき、久間三千年さんの型が含まれていなかった可能性を示唆していた

~(飯塚弁護団の依頼で科警研鑑定結果を分析)本田教授~

  • 科警研の鑑定は、解離試験の手法のおいて、根本的なミスを犯していた。すなわち、欠陥鑑定であった事を示唆していた
  • MCT118型鑑定を除く、新旧全証拠を用いて総合評価するべきだった
  • 足利事件の再審に伴って、明らかにされたMCT118型鑑定の証拠能力論から避けようとしていた科警研に違和感を覚えた
  • ずさんな科警研鑑定であった事から、科警研鑑定自体がすでに破たんしていた事を示唆していた

この3名の証明から「久間三千年さんが飯塚事件の犯人ではなかった」事が十二分に窺い知ることが出来たのでしょう。ただ、司法はこのこれら研究者による鑑定結果を持ってしてでも、久間三千円さんが「飯塚事件」の犯人である事を覆す事がなかったのも事実だったのです。

しかし、本田教授が得た「真犯人はABという鑑定結果」が正しかったを証明するさらなる新事実が浮上したのです!

実は科捜研鑑定でも得られていた「AB型」!

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3人の研究者たちの証言は粗末に扱われる事となりましたが、実はその後、科警研の新た嘘が発覚する事となります。

実は「飯塚事件」の発生直後に「科捜研」で実施されていた血液鑑定で「AB型」という結果が出ていた事が判明したのです。

結局のところは、久間三千年さんを犯人に仕立て上げたかった警察や国家は、科警研鑑定から得られた「B型」という血液を悪用したに過ぎなかったのでしょう。

そこで、科捜査と科警研の違いについて簡単ですがご説明させていただきます。

~「AB型」の鑑定結果だった科捜研とは?~

犯行現場に残された遺留品から、事件事故の真相を解明し犯人逮捕につながる重要な要を担っている科捜研。どんな小さな破片からでも、真実を探しだすスペシャリストだったのが科捜研でした。

研究員の多くは、警察官ではなく技術職員といういう立場から、捜査権も逮捕権も持ち合わせていません。しかし、そのスペシャリストが「飯塚事件」の遺留品等から導いた鑑定結果が、本田鑑定でも証明される事となった真犯人への有力情報の「AB型」だったのです。

~「B型」の鑑定結果だった科警研とは?~

科捜研では、扱えない分野を取り仕切るのが科警研でした。業務内容は科捜研よりも多岐に渡り、裁判所や検察長の依頼を受けたものの鑑定、また、鑑定技術職員指導や研修、研究開発など行っています。

筆跡鑑定・不明文字鑑定・伴読・偽造パスポートや紙幣などの鑑定も行っていました。心理学では、ポリグラフ検査によるプロファイリングを行っています。事故に関する記憶の検査も科警研の業務でした。

裁判所や、検察庁から依頼を受け「飯塚事件」の鑑定を担う事となった科警研でしたが、見事にそのずさんだった体制にメスが入れられる事となったのです。科捜研のように、法医学分野のスペシャリストではなかった事から、未熟な鑑定だったと非難されても致し方なかったのかもしれません。

ですが、ずさんな科警研の体質が生んだ「過ち」により、尊い命が奪われたのは紛れもない事実だったのです。

また、「飯塚事件」のAB型の真犯人ですが現在も逮捕に至っておりません。結果として迷宮入りをしたようなものでした。今も堂々と、飯塚のどこかで息を潜ませてるのかと思うと、本当に腹ただしくもあり、不気味でもあります。

また、亡くなったふたりの女児には、明らかなる「性的暴行痕」があったそうでしたが、その当時、久間三千年さんは「亀頭炎」を患っていて女性器に挿入する事など不可能な状態だったのです。

なので、本田鑑定や科捜研鑑定が付き止めた「AB型の真犯人」しか、女児に性的暴行を行う事が出来なかったでした。2名の女児の遺体の「局部」は、想像を絶する状態にあったようで、ご両親のお気持ちを考えると本当に哀しくて切なくてやりきれない気持ちになってしまうのでした。

「足利事件の管家さん」~冤罪事件に立ち向かう

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1990年に足利市で女児殺害事件が発生し、その犯人として「17年半という拘束」人生を耐え抜いた管家さん。

足利事件の再審請求決定から10年後の、2010年に無罪判決を勝ち取る事となった管家さんでしたが「飯塚事件」の久間三千年さんの死刑執行がなされたのはその12日後だったのです。

「飯塚事件」の関係者らは、菅家さんの無罪判決に「一筋の希望」を見いだしていましたが、そのささやかな想いは国家によって見事に踏みにじられる事となりました。

しかし、この足利事件の無罪判決以降、再審無罪が相次ぐ一方で、再審開始までこぎ着くことが出来ない事件が多数あるのも実情だったようです。そのような現状を見て、管家さんは「司法制度をさらに変えなくてはいけない」と切々と語っていたそうでした。

袴田事件の袴田巌さんは、現在80代ですが「早く再審をしないと」と、菅家さんは新聞社の取材に対し語気を強めていたのでした。獄中で長く再審を待ち望んでいた自身の経験から「検察が再審を邪魔するのは絶対にやめてほしい」と怒りをあらわにしていたそうなのです。

足利事件発生当時、犯人と決めつけられ罵声を浴びせられ、何も言えない状況まで追いやられていた菅家さん。きっと「飯塚事件」の久間三千年さんも、本人にしか知り得ない過酷な現状があったものと考えられました。

菅家さんは「飯塚事件」の久間三千年さんのような哀しい悲劇が繰り返されないよう、冤罪を訴えている人のために全国を飛び回っておられるようです。その活動を通じ、出会った同じ境遇の仲間達に支えられながら菅家さんの活動はよりアクティブなものとなっているようでした。

罪被害者としての経験を生かし、語り部として「冤罪事件」に立ち向かう管家さんは、獄中の中で再審を待っている方たちにとって「希望の光」となっている事は間違いなかったのでしょう。

「飯塚事件弁護団」の闘いにも終わりはなかった

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正当な判断を行わなければならないはずの「警察・検察・裁判所」という機関で、平然と行われていた飯塚事件への「ねつ造や隠ぺい工作」は、永久に我々の心から消え去る事はないのでしょう。

冤罪である可能性が高かったのにも関らず、死刑執行されてしまった久間三千年さんの無念、そして家族と共に闘ってきた「飯塚事件弁護団」の無念も、我々には到底計り知る事の出来ない壮絶な苦しみだったのかもしれませんでした。

実は「飯塚事件の控訴審」から久間三千年さんの弁護人となった「飯塚事件弁護団」の徳田弁護士は、当初久間三千年さんの事を「無実だと決めつけないようにしていた」との事でした。

しかし、そんな徳田弁護士の心の中に変化が現れる事となりました。それは「彼は絶対にやっていない」という久間三千年さんの無罪を確信する瞬間でもあったのです。

理由は、控訴を棄却された際に最高裁へ提出するための「上告趣意書」作成していた辺りから、久間三千年さんの人柄において、そのように感じさせられる事が多々あったからでした。

死刑制度の存廃には様々な意見がありますが、この「飯塚事件」のように、全く罪のなかった久間三千年さんというひとりの命を国家が奪ってしまったという点においても「死刑制度を根本的に考え直す必要がある」との見解を示していた徳田弁護士だったのです。

生前の久間三千年さんは、はっきり物事を言う人で、非常に実直な方と証言されていた徳田弁護士でしたが、そんな久間三千年さんの死刑執行を突如聞かされる事となり、ショックで一時立ちあがれなかったそうでした。

現在も弁護士として奮闘されているであろう徳田弁護士の心の中には、今も「優しく笑みを浮かべる」久間三千年さんが生き続けている事なのでしょう。自身のために懸命に闘ってくれた「飯塚事件弁護団」や支援者の恩を胸に、久間三千年さんは覚悟を決め旅立たれた事と思います。

本当に心よりご冥福をお祈り申し上げます。

「夫の冤罪を信じてやまない」~久間三千年さんが愛した家族の今

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思いこみ捜査から始まった「久間三千年さんの地獄」は、国家により終止符を打たれる事となりました。そのような久間三千年さんの家族に対し、警察は信じられない誘導を行っていた事がわかったのでした。

それは「飯塚事件」を捜査中だった捜査官が、久間三千年さんの奥様に「あなたもお子さんも、幼女殺害犯の家族として辛い目にあいますから、離婚された方がいい。そうする事で、名字も変えられ久間三千年の家族であった事も秘される」という「離婚の誘導」をしていたと言うのですから呆れてものが言えなかったのです。

これらの誘導については「逮捕直後から一貫して黙秘を続けていた久間三千年さんを追い込むためのものではなかったのか?」といわれていたのでした。

ある捜査関係者は「久間さんは、家族を守るために最後まで無罪を貫いたのだろう」と言っていたそうです。

したがって、家族を愛するため頑なに無罪を貫き、冤罪を訴え続けていた久間三千年さんであった事は一目瞭然だったのです。久間三千年さんにとって「家族」は、無罪を主張する久間三千年さんの原動力だったのです。

勿論、警察に離婚を勧められていた奥様の返答は「No」でした。

死刑判決を言い渡され「絶望の淵に立たされていた」当事者だったのにも関らず、最後まで家族への心配りを忘れなかった久間三千年さん。そんな心優しい久間三千年さんの「死刑執行」を突然、知らされる事となったご家族や支援者の哀しみを察すると、胸が張り裂けそうな想いになってしまうのでした。

しかし、皮肉にも久間三千年三と家族は「死刑」をもってやっとひとつとなる事が出来たのです。現在も、夫・久間三千年さんと暮らしていた思い出の地・飯塚で暮らされている奥様と息子さんだそうです。

また、女児たちが通っていた潤野小学校は2018年で廃校となりました。地元住人も「結局、この事件の真相は誰にもわからないのだろう」と話していたそうです。「飯塚事件」の真相を知っているのは、国家によって「冤罪のまま闇に葬られた」死刑囚・久間三千年さんだけなのかもしれません。

死後、2018年2月に「飯塚事件弁護団」は、最高裁に特別抗告するも「犯人である事は合理的な疑いを超えた高度な立証がなされている」事を理由に、再審は尽く却下される事になりました。

今後、この日本で、久間三千年さんのような冤罪被害者を生まない司法のためにも「飯塚事件弁護団」の更なるご尽力をご期待申し上げます。