地村保志(拉致被害者)の現在!北朝鮮の壮絶な体験&帰国への闘い!

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地村保志さんの経歴は?

 

福井県小浜市出身&拉致被害当時は大工見習い



地村保志さんは、1955(昭和30)年6月4日福井県小浜市で生まれました。

父の保さんが地元・小浜でも名うての大工であった事から、保志さんも学校を卒業後に父に弟子入りして、大工見習いとして活躍していました。地村保志さんの腕前は中々の物で、父保さんからも将来を嘱望されていました。

 

濱本富貴恵さんと婚約中だった


引用: Pixabay

拉致事件当時23歳だった地村保志さんは、親戚演者の紹介で、同じ小浜市出身の衣料品店店員・濱本富貴恵さん(当時23歳)と婚約していました。

事件当日は夜・地村保志さんは父・保さんから借りたトラックで小浜市内のレストランで二人で食事した後、濱本富貴恵さんを自宅へ送って帰るところでした。

 

ここで拉致被害者は日本にどのぐらいいるのか詳細を見ていきましょう。

北朝鮮拉致被害者まとめ!被害者の会&生還者の現在は?

 

地村保志さんの拉致事件の概要

 

アベック拉致事案(福井県)と呼ばれる

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引用: Pixabay

地村保志さんと濱本富貴恵(後に北朝鮮で結婚して地村富貴恵さんとなる)が小浜市で拉致された事件は、政府の拉致問題対策チームの中では「アベック拉致事案(福井県)」と呼ばれています。

 

実行犯は工作員・辛光洙(シン・グァンス)

引用: Pixabay

地村保志さん・濱本(地村)富貴恵さんの拉致を実行した犯人は、静岡県浜名郡新居町(現湖西市)出身の在日朝鮮人二世・辛光洙(シン・グァンス)でした。

日本名を「立山富蔵」と名乗り、横田めぐみさん・田口八重子さんらの拉致事件や対韓工作活動を行うなど名うての工作員でしたが、1985(昭和60)年にソウル特別市内で逮捕され、後に死刑判決を受け拘留されました。

しかし1999(平成11)年12月31日、当時の金大中(キム・デジュン)政権下で恩赦され、2000(平成12)年9月2日に帰朝しました。

北朝鮮では、当時の金正日(キム・ジョンイル)政権下で「国家英雄」として称えられ、その後朝鮮労働党39号室(対韓国工作チーム)の一員として復帰しますが、その後の消息は日米韓当局共に掴めていません。

 

地村保志さん&濱本富貴恵さん拉致事件はどの様に起きた?

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引用: Pixabay

では、地村保志さんと濱本富貴恵さんの拉致事件は、どの様の起きたのでしょうか?

1978(昭和53)年7月7日、小浜市内のレストランで食事を済ませた地村保志さんと濱本(地村)富貴恵さんは、地村保志さんが運転するトラックで小浜公園展望台(小浜市青井)へ出掛けます。

一週間前に結納を済ませ、秋には挙式の二人は幸せ一杯で、景勝地として知られる小浜公園展望台から夜の小浜湾を眺めていました。

地村保志さんは、その時自分と濱本富貴恵とは別のアベックが、4人組の男たちに囲まれ、そこから逃げていく様子を見て「様子がおかしい」と感じました。

車から煙草を取って展望台へ戻ったその時、地村保志さんと濱本富貴恵は「その4人組の男たち」にうつぶせに倒され、手錠を掛けられた後に朝の袋に入れられました。

袋詰めにされた二人は、ゴムボートへ乗せられます。濱本富貴恵が浜辺と見られる場所に横にされた際「シュッシュ」と言う音を聞いたそうです。

ゴムボートから2度船に乗せ換えられ、2度目の船内で袋から出された時、地村保志さんらは初めて男たちの格好を見ます。その時、流ちょうな日本語で地村保志さんに話しかけてきたのが、拉致の指揮を執った工作員の辛光洙でした。

その時、地村保志さんは辛光洙から「公演に一緒にいた人は、日本に置いてきた」と告げられますが、実際は二人とも船内へ連れ去られ、別々の部屋で拉致されていたのです。

地村保志さん&濱本富貴恵さんの二人は、それからほぼ一昼夜船で運ばれ、夕方ある港で降ろされました。後に解った事ですが、そこは北朝鮮北部最大の港町・清津(チョンチン)でした。

 

与えられた使命は工作員教育

引用: Pixabay

地村保志さん&濱本富貴恵さんは、清津市内の招待所と見られる場所で一夜を過ごし、翌日健康診断を受けた後、その夜の夜行列車で北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)へ運ばれました。

地村保志さんと濱本富貴恵さんは、別々の「招待所」と呼ばれる施設へ監禁されました。

そこで現れた北朝鮮の指導員に、地村保志さんは「何故拉致した?」「どうしたら帰れるのか?」と何度も問い詰めました。

その度に北朝鮮当局者は「祖国統一のためだ。北朝鮮のために手伝ってほしいと、日本人に言っても来てくれないから、仕方なく拉致した」と繰り返されたそうです。

その直後、地村保志さん&濱本富貴恵さんは、北朝鮮国内で生きる名前を指導員から与えられました。

後に日本政府調査団が地村さんが「呉星三(オ・ソンサム)」濱本さんが「李英玉(リ・ヨンオク)」と発表しましたが、実際は違ったそうです。

そして間もなく、地村保志さんと濱本富貴恵さんは韓国や日本へ潜入する工作員の教育を担当する事になります。工作員に日本語や日本風習を押してる事が主だったと言われます。

 

濱本富貴恵さんとの再会・結婚へ

引用: Pixabay

地村保志さんと同時に拉致された濱本富貴恵さんは、その後北朝鮮の指導員から数回に渡って北朝鮮人との見合いをさせられましたが「私には決まった人が居る」と断り続けました。

翌1979(昭和54)年11月、濱本富貴恵さんは地村保志さんと再会を果たし、その場で結婚を決め、北朝鮮での生活を始めました。

 

地村保志さんの拉致事件解決までの経緯

 

消えた二人を探して

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地村保志さんと濱本富貴恵さんカップルが失踪した事に、地元は大騒ぎとなり、地村さんの父・保さん柄中心となって県内外で情報の提供を求める活動を始めました。

当時、門限である10時までには必ず帰って来ていた地村保志さんと濱本富貴恵さんが、理由なく突然失踪するなど保さんには信じられなかったのです。

無論、2人が北朝鮮に拉致されたなど、保さんは夢にも思わなかった事でしょう。

 

始めて北朝鮮の関与が報じられる

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地村保志さん&濱本富貴恵さんが行方不明になって一年半後の1980(昭和55)年1月7日の産経新聞は、朝刊一面で「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」とする記事を掲載しました。

アベック3組とは、新潟県で拉致された「蓮池薫さん&奥土祐木子さん」、鹿児島県で拉致された「市川修一さん&増元るみ子さん」、そして「地村保志さん&濱本富貴恵さん」を指します。

記事の表題は「外国情報機関」と記されていましたが、内容は北朝鮮の諜報機関が関わったと断定する内容で書かれていました。

産経新聞は現在でも「記事は独自取材によるもの」と主張し続けていますが、一部元産経新聞関係者の証言でCIA(アメリカ中央情報局)からの情報提供による事が解っています。

 

拉致問題が初めて国会で取り上げられる

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産経新聞の報道から2か月後の1980(昭和55)年3月24日の参議院決算委員会で、公明党の和泉照雄代議士が初めて取り上げ、拉致被害の実態が公に明らかとなりました。

 

遅々として進まぬ当局の拉致問題への取り組み

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国会答弁によって、北朝鮮当局による地村保志さんら日本人拉致被害は明らかとなりました。

しかし、当時の国内法には外国情報機関による犯罪を処罰することを前提にした法律は整備されておらず、警察・海上保安にはそうした工作活動に対処ずる部署舞台の整備がありませんでした。

また、自衛隊も旧ソ連艦艇・潜水艦に対処する事が優先され、日本海に頻繁に表れたとされる北朝鮮の工作船・潜水艦に対処は行われませんでした。

 

拉致問題が明らかになった「大韓航空機爆破事件」

当時うわさ話でしかなかった拉致問題が、単なる噂話ではなく事実として突き付ける事件が起きました。

1987(昭和62)年11月29日、イラクのバグダッドからソウルへ向かった大韓航空885便(ボーイング707便・乗員乗客125人)が、インド洋アンダマン海上空で、北朝鮮工作員の金賢姫・金勝一らが仕掛けた爆破物により爆発し、全員が犠牲となりました。

金賢姫・金勝一は日本人の偽装パスポートを持ち、経由地のUAE(アラブ首長国連邦)のアブダビで逃走を図ろうとしたところを、UAE当局者に拘束されました。

二人は当局の取り調べの最中、煙草の中に仕掛けてあった青酸ガスカプセルを噛み自殺を図りました。金勝一は即死でしたが、金賢姫は一命を取り留め韓国へ引き渡されました。

拷問に近いと言われる取り調べを経て金賢姫はテレビの前で告白し、自分が北朝鮮の工作員であり、1988(昭和63)年のソウルオリンピック開催妨害の一環として大韓機を爆破した事を認めました。

その後、金賢姫は警視庁の捜査関係者の取り調べに「自分に日本語を教えたのは、工作員によって日本へ拉致された李恩恵という女性だ」と証言しました。

李恩恵は、警察当局の捜査の末、北朝鮮への拉致が疑われていた田口八重子さんだと断定され、ここに北朝鮮による日本人拉致の事実が明らかとなったのです。

 

風向きを変えた「日本人ヨーロッパ留学生拉致事件」被害者家族の訴え

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さらに北朝鮮拉致問題に対する世論や政府の無関心を変えたと言われるきっかけが、いわゆる「日航よど号ハイジャック犯によるヨーロッパ留学生拉致事件」被害者家族の活動だったと言われます。

☆ことば・日航よど号ハイジャック事件とは☆

1972(昭和47)年3月31日、羽田から福岡へ向かっていた日本航空351(ボーイング727旅客機・乗員乗客129人/犯人除く)が田宮高麿ら共産主義同盟赤軍派9名に乗っ取られ、乗客を開放の後田宮ら9名が北朝鮮へ亡命した事件

北朝鮮へ亡命したハイジャック犯の妻である森順子・若林佐喜子(いずれも国際手配中)らが中心となり、ヨーロッパに留学中だった松木薫さん・石岡亨さん・有本恵子さんを工作員教育員候補として、北朝鮮に拉致したとされるのが「日本人ヨーロッパ留学生拉致事件」とされるものです。

石岡亨さんの手紙が、ポーランド経由で日本に届いたことで、3人が北朝鮮に居る事が解り、石岡亨さんの両親は当時北朝鮮と唯一チャンネルを持っていた日本社会党(現・社会民主党)関係者に救援を求め、事態が動き始めました。

また有本恵子さんの両親は、当時自民党の幹事長だった安倍晋太郎氏(故人)に直接面会し、当時秘書だった息子の晋三氏を経由して警察当局に拉致事件捜査実施の指示を出しました。

安倍晋三氏は、現在の首相であり、父晋太郎氏と共に拉致問題をライフワークとして取り組む数少ない政治家の一人です。

 

拉致問題で日朝が初めて交渉した「第十八富士山丸事件」金丸訪朝団

1990年代に入ると、拉致被害者の家族は「家族会」を結成し、横田めぐみさんらを始め実名を公表して救出を訴えて行く訳です。

しかし、その拉致被害者家族の解決への期待を高める出来事が、1990(平成2)年の「第十八富士山事件・金丸訪朝団」でした。

☆ことば・第十八富士山丸事件とは☆

1983(昭和58)年11月、日朝間で冷凍魚介類を搬送していた第十八富士山丸内に、北朝鮮元兵士が旅券もなく不法に乗り組んだとして逮捕し、北朝鮮へ強制送還の準備をしていたことろ、元兵士は日本への亡命を申し出た。

一方、第十八富士山丸はこの事件後再び北朝鮮へ向かったところ「元兵士の亡命を唆した」として船長を始め乗組員5人が北朝鮮当局に逮捕され、長らく抑留生活を余儀なくされたが、1990(平成2)年のいわゆる「金丸訪朝団」での交渉妥結により、帰国が実現した。

いわゆる「金丸訪朝団」の団長を務めた当時の自民党副総裁・金丸信氏(故人)と日本社会党副委員長・田邊誠氏(故人)の二人は、第十八富士山丸乗員交渉開放の席で、時の金日成国家主席(故人)に始めて日本人拉致問題の概要について話したとされています。

最近になり、日朝交渉に詳しい識者が「日朝実務者同士の会談の席で、北朝鮮側が経済支援など金銭的解決を条件に交渉に応じると匂わすも、金丸・田邊両氏が拒否したため『拉致問題に関しての交渉は』決裂した」とする話が出ていますが、真相は定かではありません。

 

家族会の結成と小泉訪朝までの動き

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1997(平成9)年3月25日、地村保志さんら拉致被害者の家族は「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」を結成し、地村保志さんの父親・保さんも参加し、地村保志さん&濱本富貴恵さんの即時解放を訴えかけます。

その一方「拉致問題は自民党などの極右勢力による政治的プロパガンダだ」として、日本に残留する北朝鮮系の人達の団体「在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)」や当時友好関係にあった日本社会党(現・社会民主党)などがカウンターキャンペーンを張って抵抗しました。

加えて家族会を支援を目的とした「北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟(拉致議連)」の会長が、同時に日朝議員連盟の会長を兼務するなど家族会の反発を受けて一時解散するなど、混乱を極めます。

 

水面下で進められた日朝交渉

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拉致被害者を巡る議論が混合玉石する中、外務省は当時のアジア大洋州局長の田中均を中心に、北朝鮮との外交チャンネルを探りました。

そうして北朝鮮側から交渉役として出て来たのは、当時の国家安全保衛部の第一副部長とされた金詰(キム・チョル)でした(後に同じ第一副部長だった柳京(リュ・ギョン)が影武者を務めたとされる)。

後に田中氏が、メディアに出演の折北朝鮮の交渉担当者を「ミスターK」と呼んだのはこれに所以します。

交渉場所がオーストリアのウィーンであったため「ウイーン交渉」と呼ぶ人もいます。

交渉の中で当時の田中アジア大洋州局長は、金副部長(柳副部長)に対して小泉首相の意向として、

①拉致被害者の生死は、解るだけ回答すればよい

②拉致被害者の生存者を4・5名一時帰国させるなら、その見返りに100億ドル(約一兆円)を支払う

を伝え、金(柳)副部長は金正日総書記へ伝えたところ、了承を得られたと言われています。こうしていわゆる「日朝首脳会談」は開催されたのです。

 

日朝首脳会談・日朝ピョンヤン宣言、そして地村保志さん帰国へ

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2002(平成14)年9月16日夕刻、日本中のテレビ・ラジオは提示放送を中断し、翌9月17日早朝に当時の小泉首相が北朝鮮のピョンヤンを訪問し、金正日総書記と会談すると一斉に伝えました。

実は小泉政権下に籍を置いた経験のある政治関係者が「小泉首相には、地村保志さん&濱本富貴恵さん夫妻・蓮池薫さん奥土祐木子さん夫妻・市川修一さん&増元るみ子さん夫妻・曽我ひとみさんに加え、横田めぐみさん・田口八重子さんが生存している情報が入っていた。」と証言しており、小泉首相が当時「焦点は『めぐみさん』を連れて帰れるか否かだな」と当時を語っていました。

そして9月17日、6時半過ぎと言う外交出発には異例の早朝、小泉首相ら一行を乗せた政府専用機は羽田を後にし、日本時間10時前に平壌国際空港へ到着すると、歓迎式典も行われないまま錦縫山(クムスサン)議事堂の金正日総書記の元へ向かいました。

メディア向けの握手シーンなどを公表した後、拉致被害者の帰還に向けた日朝首脳会談は始まりました。

冒頭、小泉首相や安倍官房長官などから、警察庁の総産経資料に加えCIAなどから提供された諜報資料を基に、日本政府か生存を確認した計9人の即時帰国と、いわゆる「ヨーロッパ留学生拉致被害者」を含めた残りの拉致被害者の生死に関する情報の開示を迫りました。

この要求に北朝鮮側は激怒します。いわゆる「ウィーン交渉」で、日本側は横田めぐみさんら生存者の一時帰国を認める事が議題であるはずなのに、他の拉致被害者に関する件は交渉の余地なしと言うのが、北朝鮮政府側の一貫した態度でした。

しかし、CIAが提供したと見られる金正日総書記の居住場所やプライバシーに関する諜報資料を小泉首相ら日本政府側が示したところ北朝鮮側は「ちょっと待ってくれ」と一旦全員が席を外しました。

日本政府側が示した事実とは、もし拉致問題で誠意ある回答をしない場合、日本はアメリカに代理処罰を求め、アメリカ軍が小泉首相ら一行が帰国後24時間以内に作戦活動を始めるとした内容、いわば「最後通牒」だったのです。

約一時間後、金正日総書記らを含む北朝鮮政府関係者は「ウィーン交渉」以外の拉致被害者に関する情報も併せて公開しました。

それによると「ヨーロッパ留学生拉致被害者」の石岡亨さんは交通事故死、北朝鮮で結婚した松木薫さん&有本恵子さん夫妻は、招待所に滞在中にCo2中毒死と言う結果でした。

しかも当時の北朝鮮は「苦難の行軍」と呼ばれる大飢餓状態で、遺体の処理埋葬すらままならない状態で、3人がどのように弔われ埋葬されたかと言う記録は一切残っていなかったそうです。

そして、小泉首相ら日本政府側をもっと落胆させる事実も明らかとなったのです。

生存が確認された拉致被害者の内、横田めぐみさん&田口八重子さんには死亡宣告、市川修一さん&増元るみ子さん夫妻は帰国を拒否したという内容でした。

食い下がる小泉首相ら日本政府側に北朝鮮側が突き付けたのは、いわゆる「北朝鮮版死亡診断書」と横田めぐみさんの遺骨とされる人骨の一部でした(後に横田めぐみさんの遺骨とされる人骨は別人のものと判明)。

結果的に一時期帰国は、曽我ひとみさん・蓮池薫さん&奥土祐木子さん夫妻・そして地村保志さん&濱本富貴恵さん夫妻と決まりました。

これが後に「日朝ピョンヤン宣言」と呼ばれる合意内容を巡る攻防だったのです。

 

父と24年ぶりに再会し、抱き合う地村保志さん

 

四半世紀の時を超え

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2002(平成14)年10月15日、拉致問題担当の内閣府・中山恭子参与と外務省の斉木アジア大洋州参事官を乗せた全日空特別機は、平壌国際空港で地村保志さんら一時帰国の拉致被害者の曽我ひとみさん・地村さん・蓮池さん夫妻の5人、更に北朝鮮政府の随行員を乗せ、羽田空港に到着しました。

空港には父・保さんが出迎え、四半世紀の時を超え生還を果たした地村保志さんや、北朝鮮で結婚した妻の濱本富貴恵さんや子供達と喜びの再会を果たしました。

 

永久帰国への闘い

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ご存知の様に、地村保志さんらを含めた計5人は、あくまで「一時帰国」の名目で日本へ帰ると日朝両政府の間で取り決められていました。

しかし地村さんの父・保さんを含めた家族会のメンバーは、帰国した地村保志さん&富貴恵さん夫妻を必死に説得します。

地村保志さん&富貴恵さんには大きな不安がありました。それは北朝鮮に3人の子供を残したまま、日本へ来たこと・・・言い換えれば、子供を人質に取られている様な状況でした。

しかも北朝鮮からは監視員が随行し、地村保志さん&富貴恵さん夫妻の行動を常に監視しているという状況下で、永久帰国など頭に入らない状況だったと言えます。

ところが、状況は次第に地村保志さん&富貴恵さんの永久帰国が可能になるような状況へと変わって行きました。

北朝鮮から5人を監視するためにやって来た監視員は、逆に日本のメディアや公安当局から24時間監視され、身動きが取れなくなって行きました。

加えて世論が「永久帰国無しに経済支援などとんでもない」と態度を硬化させ、小泉首相もその声に押され5人を永久帰国させる姿勢に転換したのです。

 

北朝鮮側にも思惑が・・・

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当然北朝鮮側は猛烈に反発しますが、最近の調査報道で当時の金正日総書記が「永久帰国も止むを得ない」とする姿勢を示していた事が明らかになって来ています。

拉致被害者の完全帰国に同意を、日本側に恩を着せる事で、将来の経済支援に結びつけようとする思惑が透けて見えます。

事実、表向きは反発する中で、経済支援問題の会合の席で、北朝鮮泡の担当者が「拉致問題とは関係せず交渉を進める」と言い放ったとされています。

 

勝ち取った永久帰国・・・そして子供達もやって来た

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日本側の激しい世論に押されたのか、北朝鮮の監視員は5人を置いたまま帰国します。事実上「永久帰国」が叶った瞬間です。

地村保志さん&富貴恵さんは、地元小浜市の拉致被害者定住支援制度により小浜市役所へ就職が決まり、北朝鮮に残した3人の子供達の帰国の日を待ちます。

そして地村保志さん&富貴恵さんの帰国から1年7か月後の2004(平成16)年6月、長女の恵未さん・長男の康彦さん・次男の清志さんが日本へ帰国し、日本での親子5人の生活が実現したのです。

 

地村保志さんの北朝鮮の壮絶な体験を紹介

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ところで現在でも、家族会での講演や地元の子供達への出前教室で、地村保志さんは拉致とその後四半世紀に渡っての監視生活の恐ろしさを語り継ぐ活動をしていますが、メディアに紹介されている中から一部紹介したいと思います。

 

日本人同士の会話は厳禁

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地村保志さん&富貴恵さん夫妻は、1979(昭和54)年に結婚した後、平壌から南西に20km離れたチュンハ郡チュンノリの工作員村と呼ばれた招待所に住まわされたと言います。

7ヶ所の谷間に招待所が建てられ、その一角の招待所に地村保志さん&富貴恵さん夫妻は住まわされたそうです。

同じ時期に蓮池薫さん&祐木子さん夫妻も越して来たそうですが、その「工作員村」で固く申し渡されていたのが「日本人同士の会話は厳禁」でした。

そのため、地村保志さん&富貴恵さん夫妻や蓮池薫さん&祐木子さん夫妻は、後にこの「工作員村」へ越してくる横田めぐみさん・田口八重子さんらと共に、時間を決めて谷の裏側に集まって話をしたそうです。

地村保志さん&富貴恵さん夫妻ら拉致被害者は、数少ない情報網を縫って得た日本での拉致被害者に関する報道など情報交換を行い、救援の日を心待ちにしていたそうです。

こうした生活は、横田めぐみさんが北朝鮮工作員のキム・チョルジュン氏と結婚し、全員が平壌市内の工作員指導者用アパートへ引っ越す1986(昭和61)年まで続いたと言われています。

 

周りの人は「みな監視員?」

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北朝鮮側としては、拉致で連れて来た日本人は何時逃げ出してもおかしくないと思っていたのでしょうか、地村保志さんらが活動する部署や通勤経路に監視員を置いて、常に監視し続けていたそうです。

地村保志さんが平壌の社会科学院の翻訳業務に携わる様になってからも、同じ様に監視員が配置されたそうで、地村保志さん曰く「周りの人がみな監視員に見えた」と語るのは、無理もない話です。

 

寒さと食糧難

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北朝鮮は、冬は世界でも有数の極寒地であり、暖房を効かせないと凍死するとまで言われる地です。

地村保志さんらが北朝鮮で生活した頃はいわゆる「苦難の行軍」と呼ばれる経済危機の真っただ中で、一般市民ほど悲惨な状況ではなかったそうですが、時々暖房が止まったり、職場や招待所で食事が出なかったことがある他、食料も思う様に手に入らず苦労したそうです。

 

地村保志さんの現在は?

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前述の通り、地村保志さんは拉致被害者定住支援の一環で、富貴恵さんと共に小浜市役所に勤めました。

定年退職後、富貴恵さんは嘱託で市役所に働く一方、地村保志さんは亡くなった父・保さんの後を継いで家族会のメンバーとして、政府への陳情活動や地元福井の小中高生を対象にした拉致被害の語り部授業を行っているそうです。

地村保志さん&富貴恵さん夫妻の3人の子供は、長女の恵未さんは地元の信用金庫へ、北朝鮮時代も平壌機械大学の学生だった長男の保彦さんは、国立福井大学工学部を卒業の後モーターメーカーに就職されました。次男の清志さんも、大阪大学外国語学部を卒業の後に化学メーカーへ就職され、立派に日本の社会に溶け込んでいます。

ところで一時期、地村保志さん&富貴恵さん夫妻の仲が悪く、離婚するのではとの情報が流れた時期があるそうですが、先日も福井市内で行われた拉致問題解決の集会に、地村保志さん&富貴恵さん夫妻が二人揃って出席されておられました。

今も二人三脚で、拉致被害者救出のために頑張っておられる様で、離婚の噂など微塵もない様です。

 

地村保志さんはスパイ?【検証】

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ところで地村保志さんが帰国の際、地村保志さんを含め帰国した5人の拉致被害者が「北朝鮮当局からスパイ指令を受けた可能性がある」とのうわさが流れたことがあります。これは本当なのでしょうか?

このウワサに関しては、多くの識者が「NO」と言う認識で一致しています。その理由として、

☆地村保志さん&富貴恵さん夫妻を始め、帰国した5人は社会科学院民俗資料室の翻訳院であったため、工作員要請の仕事から外れていた

☆元々一時帰国を希望して帰る位だから、スパイ目的で日本に来る様なことはあり得ない

☆そもそも拉致日本人の処遇に、北朝鮮が困っていた。日本を共産化出来なかったことでお荷物化していた。

と言われ、北朝鮮側の関係者から言わせると「さっさと帰ってくれ」と言うのが本音だったそうです。

 

完全解決しない拉致問題

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地村保志さん&富貴恵さん夫妻らを始めとする北朝鮮当局による日本人拉致が発覚して30年以上経とうとしていますが、一向に拉致問題の解決に向けた日朝双方の動きは全く見られません。それは何故なのでしょうか?

 

日本政府が頭を抱えた金正日総書記の死

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東日本大震災の対策に追われていた日本政府当局者は、2011(平成23)年12月17日正午前の臨時ニュースのテロップを見て凍り付きました。それは・・・、北朝鮮・金正日総書の急死を伝えるものでした。

翌年第二次安倍政権を成立させる時の自民党総裁・安倍晋三氏は地団太を踏んで悔しがったと言います。「民主党政権を後一年早く倒していれば、平壌に乗り込んで金正日に引導を渡せていたはずなのに。」とは安倍首相の言葉です。

金正日総書記の死により、日朝ピョンヤン宣言の下地やチャンネルは全く失われ、日本は北朝鮮との外交チャンネルを失いました。

 

日朝ストックホルム協議で勇み足を踏んだ安倍首相

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日本の拉致被害を訴える外交活動が実り、2016(平成28)年にスウェーデン政府の仲介で日朝当局者がストックホルムに集まり、拉致問題と国交回復を包括に話し合う機会の場が設けられました。いわゆる「日朝ストックホルム協議」です。

この場で安倍首相は、大きな勇み足を踏んでしまいました。かつての金丸信氏や小泉首相と同様に、拉致被害者の帰国・生死に関するリスト作りに協力するなら、向こう10年間で500億ドル(約5兆円)の経済支援を持ち出したのです。

当時核兵器開発と長距離弾道ミサイルに絡み、アメリカから経済制裁を食らわされていた北朝鮮にとって、安倍首相の話は正に「渡りに船」でした。

北朝鮮当局は、拉致被害者リスト作成と生存者の永久帰国に協力する旨回答をし、本国の金正恩第一書記に報告したところ、金正恩は直ちに裁可すると共に、経済制裁で運行が中止されていた日朝航路の貨客船・万景峰号のメンテナンスを始めました。

 

日朝関係改善ちょっと待った!byバラク・オバマ

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ところが、これに待ったを掛けたのはアメリカのオバマ政権でした。

当時、核開発やICBM(弾道ミサイル)開発に対する効果的制裁が見出せなかったオバマ政権は、いま日朝が接近すれば、アメリカのアジア太平洋政策で主導権を失うと判断し、日朝関係改善に対し「核兵器&ミサイルをセットにしない拉致問題は認めない」と迫りました。

日米同盟を重視する安倍首相は渋々認め、ここに「拉致・核・ミサイル」のいわゆる「三点セット」が日本の北朝鮮外交の姿勢として確立したのです。

 

激オコ金正恩は日本との交渉をブッチ!

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安倍政権の方針転換に、金正恩第一書記は烈火の如く激怒したと言います。

「祖父(金日成)や父(金正日)のみならず私も愚弄するつもりか(怒)!」金正恩第一書記は、交渉当局者に対して直ちに日本との交渉打ち切りを指示しました。

安倍首相は「北朝鮮は約束を破った」として経済支援の取りやめを表明しましたが、その前に北朝鮮が激怒し交渉を打ち切った事を、日本のメディアは一切報道しませんでした。

 

米朝&南北交流進展に取り残される日本

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現在北朝鮮を巡る情勢は、日本が取り残される極めて憂慮すべき状況に陥っています。それは、正しく「拉致問題解決に赤信号が付いた」と言っても過言ではありません。

アメリカは、昨年&今年の二度に渡り、トランプ大統領と金正恩第一書記が二度首脳会談を開き、主張の差は埋まらないもの第三回米朝首脳会談に向け準備が進んでいます。

アメリカにとって、北朝鮮は「核」「ICBM」の問題が片付けば国交正常化に向けハードルは殆ど問題が無いため、国交正常化へ一気に進む可能性が高いと言われています。

一方韓国では、左派の文在寅(ムン・ジェイン)政権が誕生し、北朝鮮の思惑通り日本の過去の植民地支配に対する対決姿勢を先鋭化し、その一方北朝鮮との関係改善を主軸に外交関係を構築しており、日本は北朝鮮との外交関係を築けない状況に陥りつつあります。

 

「前提条件なしでの首脳会談開催」呼び掛けに沈黙する北朝鮮

引用: Pixabay

こうした手詰まり状況を打開するため、安倍首相は今年6月以降「前提条件なしで日朝首脳会談を開こう」と北朝鮮側に呼び掛けを始めました。

オバマ政権下で日米が合意したいわゆる「三点セット」を無視してでも、日朝首脳会談を開きたいと言う安倍首相の意思を、内外に示したと言えます。

普段の北朝鮮なら「何を今更」と国営通信を通じて批判論評を公表するのですが、今回の「前提条件なしでの首脳会談開催」について、北朝鮮側は異例とも言うべき沈黙を守っています。

自民党関係者には「普段なら即罵倒と言う姿勢の北朝鮮が沈黙を守っているのは、大概何か次にアクションがあると見て良い。」と肯定的な見方をする一方、国内の北朝鮮専門家からは「過去3度に渡って経済支援のはしごを外された北朝鮮にとっては、安倍首相の話など最初から聞くつもりはないとして、最初から無視を決め込んでいる。」とする否定的な考えもあります。

しかし北朝鮮首脳部の一部からは、ICBMを巡る国連による経済制裁の影響は大きいため、国連制裁を主導するアメリカへの揺さぶりとして日本と交渉の機会を持っていいのではないかとする見方も現れています。

秋以降、拉致問題を始めとする日朝交渉に何らかの動きがあるのは間違いありませんから、是非注目したいですね。

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