中川智正の生い立ちと経歴!化学兵器製造管理人の哀しき結末とは?

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中川智正の生い立ちと経歴

まずは、中川智正の生い立ちから見ていきましょう。

 

中川智正プロフィール


引用: Pixabay

生年月日:1962年10月25日 岡山県岡山市出身

死  没:2018年7月6日(享年55歳)広島県広島市中区の広島拘置所内にて

ホーリーネーム:ヴァジラティッサ

教団での役職:法皇内庁長官

オウム入信:1988年2月

関わった事件:坂本弁護士事件・松本サリン事件・地下鉄サリン事件

 

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中川智正の家族

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引用: Pixabay

中川智正の両親は岡山市内で洋服販売店を営んでいました。その両親のもとへ長男として生を受けた中川智正。

中川智正には、兄弟がいたようでしたが、名前や職業などは一切明かされておりません。兄か姉か、もしくは弟か妹かはさだかではありません。

幼い頃から、両親が洋服店を営んでいたため、忙しい両親に変わって兄弟を見ていたという中川智正は、いたってごく普通の優しい少年だったのでしょう。

気持ちが優しかった中川智正が医師を目指した理由は、「困っている人たちを助けたい」との想いからでした。

 

中学生時代の中川智正

引用: Pixabay

1978年3月・岡山大学教育学部附属中学校に入学した中川智正でしたが、中学校時代の同級生にお笑い芸人の水道橋博士がいました。

その水道橋博士が語るには、「1995年にニュースを見てたらサリン事件が起きて、それで『今逃亡中』と出た後、『中川智正』って出たときに『あっ・・俺と同い年。ひょっとして中川智正って俺のあの同級生の!?』」と、驚きを隠せなかったそうでした。

そしてその後、共通の友人だった人から電話がかかって、さらにビックリさせられたそうなのです。それは、「お前、芸能人やっているんだから、なんとか中川をかばってくれよ」と言われ愕然としたそうです。

中川智正の当時のニックネームが「ケツ」だったため、「でも、ケツがまさかこんなことになるとは」と言ったら、その人が「中川はケツない!ボートサットバ・バジラディッサ師だ!」と、言い放たれ、結局は、この人も信者だったのです。

 

高校時代の中川智正

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引用: PAKUTASO

1981年3月、岡山県立岡山朝日高等学校に進学した中川智正。偏差値が66ほどある岡山県でトップ5に入るほどの進学校でした。

その高校時代でも、中川智正を嫌いな人はいなかったというほど。明るく温厚で実直な人柄から友人が多かったようでした。

皆が「神童」と崇めるほど、すべてにおいて優秀な中川智正だったのです。

 

大学生時代の中川智正

引用: PAKUTASO

高校時代から、手塚治虫の「ブッダ」を読みながら「人のために」をモットーに掲げていた中川智正は、医師を目指して医学部に進学しました。

1982年に京都府立医科大学医学部医科学科に進学しました。その大学では、柔道部に所属していて、学祭の実行委員長を務めるなどして、常にポジティブだった中川智正。

非常に好青年だった中川智正を嫌う人など誰ひとりいなかったのです。

 

医師時代の中川智正

引用: Pixabay

無事、念願だった医師にもなれ、順風満帆だったはずの医者としての生活に、陰を落としていくことになっていきます。

動機は、医学に対しての疑問がでした。部分的な患部しか診察しないという西洋医学への疑問だったのです。中川智正は、「人間全体」を診るという東洋医学的な医療に従事したいと考えるようになっていきました。

それが、オウムへの足掛けになってしまうとは、中川智正自身も想定していなかったことでしょう。

 

中川智正には恋人がいた

引用: Pixabay

職場で知り合った看護師だった彼女と、後にオウムに出家することになった中川智正。

実は、恋人・中川智正が「出家すると言ってきかなかった」ことから、仕方なく一緒にオウム真理教に飛び込む羽目になってしまいました。

しかし、教団に入ってから、中川智正にあらたな恋人が出現。

その彼女の名前は、菊池直子氏。学生時代にマラソンをしていたことから、教団陸上部の選手に所属。

そこで指導していたのが中川智正で、この縁から、徐々に恋人関係へと変わっていくことになったそうです。中川智正はこの事を「否定」していましたが、井上死刑囚は男女の関係だったと証言をしていたのでした。

看護師をしていた元信者だった女性は、サリン製造の殺人予備罪で、1年6ヶ月の実刑を受け判決を受けましたが、その後、知人のサポートによりとある会社の正規社員として社会復帰を果たしているそうです。

同じく中川智正の恋人とされた菊池直子氏は、無罪になり社会復帰を果たしています。

自身が立ち上げたブログ、「闇が深ければ深いほど星はたくさん見えるから」に、当時の様子を赤裸々に書き綴られています。

17年間一緒に逃亡生活をしていたメンバーで、現在も逃亡している高橋克也とも男女の関係があったとされていましたが、18歳から23歳までオウムに身を投じていた菊池直子氏も、男性メンバーと逃亡する中で、様々なことに見舞われた一女性であったことには間違いなかったのでしょう。

 

中川智正とオウム真理教との出会い

 

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中川智正の人生を狂わせることとなったオウム真理教とは、どのような宗教団体だったのでしょうか。早速見ていきましょう。

 

興味本位で覗いてしまったヨガ道場

引用: Pixabay

オウムとの出会いは、ヨガ道場見学が発端でした。国家医師試験合格から就職の期間までに、麻原のヨガ道場を覗いてしまったことがキッカケで、1988年2月に遂にオウム真理教に入信してしまうことに。

教団主催のコンサートなどに行ったあたりから、中川智正は幻聴体験をするようになったとか。そんな神秘体験に魅了されてしまい、入信を決意したのです。

 

麻原の罠にハマった中川智正

引用: Pixabay

「自分が一生かけてやりたかった事が、オウムにはあった」・・これが結論です。研修医一年半経った頃、麻原に呼び出された中川智正は、このように投げかけられたのでした。

「おまえは、医師でありながら敗北感に打ちひしがられている。それを乗り越える事が出来るのが宗教的な医療だ。オウム真理教は、近く付属病院を作りから早く出家しなさい」

この言葉が、中川智正を数奇な運命に巻き込む事となっていきます。

 

「中川智正に潜んでいた心の闇」言葉巧みに引き込んだ麻原

引用: Pixabay

オウム真理教入会のかなり前の出来事でしたが、臨床実習の折り、中川智正が眼球を含む広範囲な上顎骨を摘出した「上顎癌」だったおじいさんがいたそうでした。

しかし、再発してしまい、再入院してきたおじいさんは、回診の先生のみならず中川智正のような臨床学習を行いに来ていた学生にまで丁寧に手を震わせながら合掌していたそうです。

しかし、その時の中川智正は、他の学生から「患者さんに対して嫌な顔をしていた」と指摘されてしまい自己嫌悪に陥ったそうです。もともと、心優しい中川智正だけにそんな自分がただ悲しかったのでしょう。

純粋に、命を預けた医師や中川智正のような学生にまで手を合わせ、お願いしてくるおじいさんにもの悲しさを覚えたであろう中川智正。

「自分は、この人に何をしてあげられるんだろう。すべてがどうしようもなく悲しくなった」

そういって、少し経ってからオウム真理教に吸い込まれるように入会してしまう事に。心の不安や葛藤が顔に滲み出ていた中川智正だったのでしょう。

心の隙を突いた麻原は、中川智正を地獄に引きずり落とかのように入会を迫り、実に巧妙引き込んでいったのです。結果として、麻原の罠にハメられてしまったのでした。

 

嘆き悲しんだ両親

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入会前、中川智正は、出家の旨を両親に伝えました。当然、両親は猛反対し、必至に止めたそうでした。

「そんな宗教に語ってはいけない!」と。

しかし、本来、親に逆らったり反抗期などの経験がなかった中川智正は、ついに両親への「初めての反抗」をしてしまいます。

後に、中川智正が死刑執行前、両親がこのようなコメントを出していました。

「被害者やご遺族の方にはおわびの気持ちしかありません。執行で皆さんの気が晴れるわけではないと思います。ただただ、申し訳ありません」

東京拘置所から故郷の岡山に近い広島拘置所に移送されたときから、家族には覚悟という2文字が心にあったようでした。

「移送されたときに、覚悟は決まっていました」といいながら、「これで償えたわけではないのでしょう」と、目を真っ赤にし涙ながらに取材に応えていたそうでした。

人から好かれ、親想いで、愛に満ちあふれていた息子・中川智正がこの世を去る苦しみは、人の親なら誰しも理解できることなのでしょう。

ある意味、中川智正自身もオウム真理教が生んだ哀しき犠牲者だったのかもしれません。

 

中川智正のオウムでの働き

引用: Pixabay

麻原の誘われるがままに信者になってしまった中川智正。「人のために・・」と医師を志し願い叶うも、待ち受けていた現実とは・・・・。

 

オウム真理教付属医院の医師

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1990年にオウム真理教により、設立された「オウム真理教付属医院」で、林郁夫・平田雅之・佐々木正光と共に医師を務めることになりました。

診療科目には、内科・小児科・神経内科・外科・整形外科・精神科・理学診療科・産婦人科がありました。

それらの治療行為の中で、オウム真理教付属医院では「温熱療法」などといった教団独自のヨーガを用いた独自療法が行われていました。

ちなみに、この温熱療法とは、熱湯に浸るなどして教団の修行僧の中にも多くの死者を出したとんでもない医療行為だったのです。

中川智正は、大阪鉄道病院で研修医として1年2ヶ月程度勤務しただけで、実際には、医療経験がなかったのにもかかわらず、この病院で医師として勤務していたのでした。

しかし、実際には診療に当たらず、もっぱら「麻原の主治医」として、日々、従事していた中川智正。

病院自体も、一般患者も受け付けていたというオウム真理教付属病院。

しかし、その実態は48時間以上の収容を原則禁止とする医療法第13条に反する行いをしていて、病院というのは名ばかりだったのです。

そもそもの主旨は、入院名目で「オウム真理教の信者」を監禁する目的で設立された病院でした。完全、非合法の下で運営されていたオウム真理教附属医院だったのです。

後に、このオウム真理教付属医院を背景に、ここで努めていた薬剤師が、オウム真理教に不信感を抱きリンチに遭って殺害されることになりました。

「このような体制で診療所を開設しても大丈夫なのか?」、開設時、保険所の担当者がこのような不安を抱いていたのでしたが、まさに不安は的中する事となりました。

ここで努めていた医師らの家族が、早くから危険性を察知して東京都や厚生省に訴えを起こしていましたが、行政は何も手を打つことなく、このオウム真理教付属医院を放置していたのが実情だったのです。

「人のために尽くしたい」と、純粋に思って医者を志したはずの中川智正が奈落の底に叩きおとされることになっていきます。

 

第39回衆議院議員総選挙にて「旧神奈川三区から立候補」した中川智正

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結果は、1445票。「真理党」では、麻原に次ぐ投票数を保持するも、最下位で真理党は落選してしまいます。衆議院選には、麻原を含む、25人が立候補。数億円もの金をつぎ込んだのに、全員が落選してしまったのです。

更に、トップである麻原の得票は僅か1783票ことに衝撃を受けたようで、この時、麻原は教団存続に弱気になったっていたそうでした。

しかし、カリスマ性を身にまとい「尊師」であり続けたかった麻原は、落選したことに対し「選挙官理委員会」の中で大きなトリックがあったと非難をはじめたのです。

そして、考えはさらに飛躍し、「国家権力の妨害」だったと言い始めたのでした。

衆議院の委託金没収などから4億円が消えてしまったオウム真理教は、強引に出家者を増やし、全財産を布施させるなどして教団の立て直しを図っていくこととなります。

 

オウム真理教の法皇内庁長官に就任

引用: Pixabay

その後、オウム真理教は、「科学技術省」「自治省」「厚生省」などといった国家を模した省庁制を導入。

中川智正はその流れの下、法皇庁長官に任命されることとなっていきます。さらに、麻原の側近として働くようになっていったのでした。

地下鉄サリン事件発生の3日前には、麻原直々に「正尊師」の称号を与えられることとなります。

これらの称号の意味ですが、簡単に言うとオウム真理教での序列による階級のこと。

1990年1月の階級だった「正尊師」なる称号は、衆議院選惨敗によって組織の激変に伴いそのまま立ち消えとなってしまいます。

 

オウム真理教付属医院が廃止される約2ヶ月前に自ら医師免許取り消す

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その後、中川智正は自ら申し立てを行って「医師免許取消処分」を行います。しかし、先にも述べたよう、実際には医療行為の経験がなく、だだ医師免許を取得していただけが実情だったようでした。

したがって、「無駄だね」と友人に語っていたように、たしかに中川智正に取り医師免許は不要なものだったのかもしれませんでした。

それでも、不思議なことに医療への執着は捨てきれなかったようで、死刑執行確定後も医学書だけは手元から離さなかった中川智正。

兎にも角にも両親は、必至に働いて「医師」を志す中川智正に、懸命にサポートしてきたことも全て水の泡と化したわけでした。

 

自滅の一途へ「化学兵器班」のメンバーになった中川智正

引用: Pixabay

1993年10月から、オウム真理教は、武装化路線の本格化に伴い、土屋正美と化学兵器製造に携わっていくようになります。

松本サリン事件では、化学的知識は薄かったものの土屋正美と共にサリン生成に加担。さらには、実行犯たちのサポート役として「地下鉄サリン事件」などにも関わることになった中川智正。

そして中川智正は、土屋正美や遠藤誠一が生成したサリンやVXという化学兵器の製造管理を任されていくようになっていきます。

そんな中、双方が技術者の立場にあった土屋正美と遠藤誠一の対抗意識が高まってきたことから、徐々に険悪なムードに包まれていったオウム真理教の化学兵器班。

ですが、その険悪ムードの暖衝材になったのが中川智正だったそうでした。温厚だった中川智正も不信感があったのか、遠藤誠一だけに対しては、「さん」付けしないで「遠藤」と呼んでいたそうなのです。

自滅の一途を辿っていくことのなった化学兵器班の従事。麻原という悪魔に洗脳された中川智正にさらなる不幸が襲いかかることに。

これから、中川智正がオウム真理教に出家したために関わることとなった事件詳細を解説していきます。

 

中川智正は坂本弁護士事件で精神崩壊?


さて、これから中川智正が出家後、たった2ヶ月目で関与したという「坂本弁護士事件」について、詳しく解説していきます。

 

坂本弁護士事件のきっかけとは?

引用: Pixabay

「横浜法律事務所」勤務だった坂本堤弁護士(享年33歳)は、江川紹子氏からオウム真理教に出家した息子を持った母親からオウム真理教脱会について相談を受けたのでした。

それを機にオウム真理教と関るようになっていった坂本堤弁護士。

1989年(平成元年)から、オウム真理教の反社会性を批判・追求されはじめ、メディアで「オウム真理教の狂気」などと取り上げられるようになり一気に加熱していきました。

そんな中、「横浜法律事務所」の坂本堤弁護士自身も取材を受けるようになっていきます。これが、「坂本弁護士事件」勃発の誘因になってしまいます。

坂本堤弁護士は、オウム真理教について、このように語っていました。

  • 信者の家族の苦しみが置き去りにされている
  • 宗教を利用したインチキ商法になっているのであれば断罪されるべき
  • 尊師に超能力で跳んだり透視するのを実演してほしいと頼んだが、それは出来ないとのことだった
  • 血のイニシエーションは詐欺

などと発言したため、上祐史浩・青山吉伸・早川紀代秀ら3人は、横浜法律事務所で訴訟回避の交渉を行っていました。

「信教にも自由がある!」と主張していた上祐でしたが、坂本堤弁護士は、オウム真理教の宗教法人の許可取り消しに向け、民事訴訟を起こす準備に取り掛かったのでした。

この事が、麻原の怒りを買う事になり・・・・

話しても無駄だからポアする

と、坂本堤弁護士の殺害を決意した麻原は、村井秀夫・早川紀代秀・岡崎一明・新実智光・中川智正にポアする事を指示したのです。

真理党からの出馬を予定していたため、総選挙や今後の教団運営に非常に邪魔とされた坂本堤弁護士は、ついにポアのターゲットとなってしまいました。

 

1989年11月4日午前3時過ぎ・殺害決行

引用: Pixabay

予定では前日の1月3日に、坂本堤弁護士が通勤に利用していた横浜市磯子区の洋光台駅付近で待ち伏せし、車内に連れ込み、「塩化カリウム」を注射して殺害をしようとしていた5人。

しかし、この日が祝日だったため、その事に後で気が付いた5人は、麻原に伝えると「自宅」で殺害するよう指示されました。しかし、殺害メンバーらは、坂本堤弁護士の「家族」は、どうするのかと麻原に尋ねたところ、麻原はこう答えたそうでした。

(家族を巻き添えにすること)は、しょうがないんじゃないのか、一緒にやるしかないだろう」と3人全て殺害する事を指示してしまいました。

後に、麻原はその時の心境をこのように語っていました。

「私は一瞬、子どもの事が頭に浮かんだが、私も小さい時、親から離れて苦労しており、子どもだけを生き残らせるのは逆に残酷だと思って殺害させた」

と言っていたのです。あまりにも身勝手な見解にただただ呆れるばかりでした。そして、5人は鍵のかかっていない坂本家に侵入し・・・・

 

坂本堤氏

 

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端本に馬乗りされ、顎を5・6回殴り、岡崎に首・早川に足を押さえられた坂本氏は、「金ならやる」と命乞いするも続行した実行犯たち。

中川智正から、臀部に塩化カリウムを注射されるも筋肉注射だったため、効果が無く、結果、窒息死させられる事に。

 

引用: Pixabay

新実に馬乗りにされ、上半身をけるなどの暴行を加えられた後、端本に腹蹴りされながら膝落としされた妻。

村井・早川・中川らに首を絞められる最中も、「子どもだけは・・」と訴えられるも窒息死させられたのです。

 

1歳の長男

引用: Pixabay

両親が殺害される中、泣き始めた当時一歳だった長男は、中川智正と新実により鼻と口を押されつけられます。最終的に中川智正が、タオルケットで長男の鼻と口をふさいで窒息死させました。

はははは・・子どもを殺してしまいましたよ。ははは・・・」と、裁判中、うつろな目で誰に投げかけるわけでもなく、喋っていたそうでした。

坂本氏の遺体は、新潟県上越市の山中に。妻の遺体は、富山県魚津市の林道別又僧ヶ岳線脇に。長男の遺体は、長野県大町市日向山山中に、それぞれ服を脱がして埋められたそうです。

この段階で、中川智正の心は崩壊しかけていたのかもしれません。「人の役に立ちたい」と、両親の支えを糧に懸命に走り続けた中川智正の人生は一体なんだったのでしょう。

 

オウムが実行犯だったはずの「坂本弁護士事件」に新事実?


結論から言いますと、この事件に関しては、実行犯は確かに麻原らオウム真理教だったわけでした。でも、オウム真理教団の背景には、殺害実行サポート役を担っていた暴力団の存在があったようなのでした。

「だったら、なぜ?オウムのメンバーらは、あたかも「オウム単独」で行ったような自供をしていたのか?」と疑問が湧くところですね。

では、詳細を探っていきましょう。

 

オウムの殺害計画にミス多発

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  • 殺害当日が祝日であった事に後で気が付く
  • 村井が車内に手袋の置き忘れ
  • 早川が自身のポケットに手袋が入っていたのを忘れる
  • 中川智正が教団のバッジだったプルシャを現場に落としていった

 

殺害が行われたはずなのに誰も音を聞いていない

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  • 夜中の三時に子どもにミルクを与えるため、起きていた母親が「何も音が聞こえなかった」と証言する
  • 現場はかなり凄惨な状態にあったのにもかかわらず、隣近所の住人が「何も音が聞こえなかった」と言っていた
  • アパートの階段から遺体を運び出したが、そのような不審な音もなかった

 

さらに謎めく事が・・・

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  • 中川智正が現場に落としたプルシャから、中川自身の指紋が検出されておらず、最初に実況検分を行った神奈川県警も見落としていた
  • 坂本弁護士宅の電話の呼び出し音がオフになっていたが、実行犯たちからそのような証言はなかった
  • 手袋をしていなかったのにもかかわらず、実行犯らの指紋も、殺害時の血痕すら残っていなかった
  • 殺害手順に計画性が無く、行き当たりばったりで、供述内容が2転3転していて、つじつまが合わない話が多かった

以上の事から、坂本弁護士事件を決行した信者以外に、現場の自己処理を行った別動隊の存在があったのではないかという推測がなされていたのでした。

しかし坂本弁護士事件発生直後は、血痕や指紋といったものがなかったため、この「坂本弁護士事件」は、「失踪事件」としてクローズアップされることとなったのです。

 

暴力団とオウム真理教の利害関係

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実は、坂本弁護士の自宅付近で、目撃されていたワゴン車は、京都の暴力団関係者所有の車だった事が判っていて、坂本一家遺体遺棄の際に、富士山総本部でも目撃されていたようなのでした。

さらには、坂本弁護士事件後にオウム関係者と見られる人物から、この車を所有していた暴力団組長の「隠し口座」に、約5億円もの大金が振り込まれていたそうでした。

この事に関しても、別件で逮捕された暴力団幹部からの調書済み内容になっていて、封印されてきた警察情報だったのでした。

また、武闘派として知られている「山口組」で、経済事件などを得意とし、オウム以外の宗教団体との関りがあった事が判明したのでした。

「キレ者」として知られていた中心メンバーから驚くべき証言があった事を、当時の警察幹部が明かしていたことも判ったのでした。

 

「あれはオウムの金」

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その証言を行ったその山口組幹部は、1990年2月頃、フロント企業の社長でもあり、上部組織の組長の親族でもあった男性から、このように話を持ちかけらていたそうでした。

  • オウムを手伝わないか、あそこは金になる

当時、その山口の中心メンバーだったその幹部は、資金繰りに困っていた事から喜んでその社長の話に乗ったそうでした。と、その際に、その社長が驚くべき発言をしていたのです。

  • 坂本弁護士事件は、実はうちがやったんだ。今やオウムは金のなる木なんだ

その後、その社長は、その話をした幹部に数百万の金を持参してきて

  • あの時の話は、なかったことにしてくれ。

と。いくら聞き返しても「答えられない」の一点張りだったそうでした。「坂本一家殺害の事実を口外してしまった」焦りから、社長の表情は実に険しいものだったそうでした。

その後、その社長の親族だった上部組織関係者から「オウムの事は、二度と口にするな」と指示された幹部だったのです。

 

麻原とゴルフ場で密談していた上層部組織の組長

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その際、本来、護衛をしなければいけなかったはずが、「今日は護衛はいらない」と言った組長。それを聞いた幹部は、後に捜査員に

  • 麻原は盲人なのに、ゴルフをするのか?変に思ったのでよく覚えていた

そのように話していたのです。そして、振り込まれたという5億円に対し

  • 麻薬の代金にしては、金額が大きすぎて、きっと坂本事件のお礼なんだなと思った

とも、話していたそうなのです。捜査当局は、供述内容が極めて具体的だったため、信頼性が高いとして、幹部の話を重要視していましたが、この幹部が上部組織とトラブルを起こしていため、坂本弁護士事件を慎重に捜査していたそうでした。

周囲の聞き込み捜査の結果、ゴルフ場で上部組織の組長らと3者会談が行われていた事も突き止められ、5億円がオウム関係者からの入金だった事も判明していったのです。

  • 坂本事件にて、遺体移送に使われていたのは、上部組織が所有していた車だった
  • 上部組織の舎弟だったフロント企業周辺に、その車が駐車されており、そのフロント企業にオウム真理教の幹部・早川と新実が出入りしていた

さらに、刺殺され亡くなった村井についてですが、暗殺を請け負った「徐服役囚」は、多額の報酬で村井暗殺を請け負っていて、徐服役囚の借金を裏保証する代わりに徐服役囚に暗殺を行わせていたのではないかとも言われていたのです。

オウム真理教と暴力団の接点が浮き彫りになる中、坂本弁護士事件は突然捜査打ち切りとなったのでした。神奈川県警磯子署・坂本弁護士事件捜査本部は、1995年11月に解散する事となります。

しかし、当時の坂本弁護士事件に関っていた捜査員は・・・

  • 暴力団関与説を唱えていた幹部や捜査員が、次々と人事異動され捜査から外されていった
  • 坂本事件への発言を封じ込められるようになった
  • 暴力団の話をすれば、上司は「いまさら何を言い出す。あれをやったのはオウムなんだ」と一喝

このような経緯を経て、解散となってしまったようでした。現場の捜査員からは、不満の声が上がり

  • 暴力団を叩きのめす絶好のチャンスだったのに、どうして止めるのか?
  • 捜査員の直属の上司が、意見申し立てを行ってくれたが、「上層部の考え方」を覆す事ができなく方針は一切変えられなかった

当然、捜査員からも不平不満の声があがったのでしたが、「本当にあれでよかったのか・・・・」と漏らす捜査員もいたのだとか。これだけ有力な情報が、なぜ簡単にかき消されたのか、その事を知るのは上層部のみだったようでした。

したがって、この坂本事件は、オウム真理教単独で行われた事件でない事が容易に判ったのでしたが、麻原の底なしにしたたかさに、気が付くことなく忠実に坂本弁護士事件に関ってしまった中川智正たちは、ある意味不憫でならないのでしょう。

 

中川智正のサリン事件関与まとめ

 

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数々の襲撃事件を起こしてきたオウム真理教。中川智正が麻原を崇拝したあげく加担してしまった事件を解説します。

 

池田大作サリン襲撃未遂事件とは?


1993年の11月・12月18日にオウム信者により、創価学会名誉会長の池田大作が暗殺未遂された事件。

この事件、地下鉄サリン事件後にオウム真理教への集中捜査が入り、実行犯である教団幹部らが逮捕された事によって、実質、裁判では立件されることのなかった事件でした。

第1回目は、クシティガルバ棟で生成したサリン約600gを村井・新実・中川・滝澤の4人が乗用車で農薬噴霧器「霧どんどん」を乗せて創価大学の近隣にあった八王子市の学会施設「東京牧口記念会館」に攻撃を行ったのです。

しかし、サリンが霧状にならず、サリンが車内にも入ったり、そもそもボツリヌス菌散布用の「霧どんどん」だったため、故障するなどして失敗に終わります。

また、実行役自身も、軽度のサリン中毒に陥るなどお粗末な結果に終わったのです。

2回目は、創価大学で演奏会が行われる情報をキャッチしたオウム真理教は、サリン噴霧トラックで向うも、またもや機械の不具合により、今度は火災発生。

会館の警備を担当していた創価学会の牙城会会員に怪しまれたため、追跡されるも直ちに逃走しました。

その際、Uターンしながら3Kgのサリン溶液を噴射。その際、ガスマスクをしていなかった新実がサリンを大量にき吸入してしまい瀕死状態になりましたが、林の治療によって一命をとりとめたそうでした。

死にかけた新実が語った事はこれでした。

このような無念な死に方をするのだと悲しく思ったことは、今でも決して忘れることはできない」と語っていたそうです。

治療の際、林が中川智正に、そのようになった原因を尋ねたら、「サリーちゃんでポアしようとしたんだ」といい、林は、オウムがサリンを所有していた事をこの時に初めて知ったそうです。

また、池田大作自身は、症状が出なかったものの、警備していた牙城会会員ら数名が一時的にサリン特有の症状が出たものの、後遺症などが残らなかったため警察への通報を行わなかったのでした。

 

滝本太郎弁護士サリン襲撃事件とは?


この事件の被害者・滝本太郎弁護士は、1989年11月に失踪したとされていた坂本堤弁護士に代り、オウム真理教被害者対策弁護集団の中心人物とし、教団に対する訴訟を行ってきました。

その傍らで、オウム真理教の信者に対するカウンセリングも行っていて、信者脱会へと導いた立役者でもありました。滝本太郎弁護士自身でも、信者の心に寄り添うと、自ら「空中浮場なら私にもできる」と、なんと自宅の和室で蓮花座を組み、ジャンプしている姿を妻に撮影させ、それを見せていたといいます。

なお、その写真は、少しでも宙に浮いたように映るよう、妻が必死に這いつくばって撮影していたそうでした。

信者脱会に努める滝本太郎弁護士に、ついに麻原はポアの指示を出してしまいます。

  • サマナを無理やり下向させているという滝本という弁護士がいる。明日もその関係で甲府で裁判がある。滝本に魔法を使う

として、青山や富永らにサリンで殺害するよう指示しました。

1994年5月9日、甲府地方裁判所に現れた滝本太郎弁護士。

青山は、滝本弁護士が乗ってきていた三菱・ギャランを見つけ、裏側駐車場に止めた車に潜んでいた遠藤・中川智正・マハームドラー・ダーキニーに連絡し、これら3名が実行する事となりました。

法廷が開廷されている間に、マハームドラー・ダーキニーが滝本太郎弁護士の車のフロントガラスとボンネットに遠沈管でサリン約30ccを流し込みました。

法廷から戻ってきた滝本弁護士が車に乗り運転していると、一時的な視力低下に襲われるも幸い大事に至らずに済んだそうでした。

滝本弁護士は、ウオッシャーを使う癖があったそうで、その事により、サリンの効果が弱まったそうです。

その後、高橋が生きている事を確認後、井上が麻原に、失敗した意味を指す「桜散る」の暗号を送ったところ、麻原がぼそっと「そうか・・桜が散ったか、いつになったら夢がかなうんだろうか」とボヤいたそうでした。

滝本太郎弁護士は、オウム真理教団体を危険な宗教団体と認識していたため、オウム信者やその家族と接触した際に、食べ物に一切手をつけず、出された飲み物は舐める程度で自己防衛を図っていたため難を逃れる事ができたと考えられました。

 

松本サリン事件とは?

 

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1994年6月27日から翌日の6月28日の早朝にかけて、長野県松本市の住宅街で起こった松本サリン事件。

池田大作サリン襲撃事件と滝本太郎弁護士サリン襲撃事件で使用したブルーサリンが使用され、この松本サリン事件では、死者8名をだすという大惨事になりました。

犠牲者は以下の通りです。

  • 35歳女性 1994年6月28日午前0時15分頃死亡
  • 19歳男性 同上
  • 26歳男性 同上
  • 29歳女性 同上
  • 53歳男性 同上
  • 45歳男性1994年6月28日午前2時19分頃死亡
  • 23歳男性1994年6月28日午前4時20分頃死亡2008年8月5日

そして、事件発生から14年後の2008年8月5日、松本サリン事件で負傷し、夫で河野義行氏の妻が闘病の末、帰らぬ人となり、この松本サリン事件にて8人目の犠牲者となりました。

事件当時は、「松本市で謎の毒ガス7人死亡」などと、その物質の発生成分が判らず混乱しましたが、事件から約一週間後に質量分析により、散布された物質がサリンだったことが判明したのでした。

当初、第一通報者だった河野義行氏が嫌疑を掛けられ、被疑者不詳のまま過酷な取り調べを受け、マスコミは被疑者不詳にもかかわらず河野義之氏を名指しで吊し上げ、報道を過熱させていったのです。

松本サリン事件の翌年の1995年3月20日に地下鉄サリン事件が発生し、続いて公証人役場事務局長逮捕監禁致死事件をきっかけに、オウム真理教へ強制調査が行われることに。

その過程で土谷正美が、松本サリン事件前にサリンを製造していたという供述を行ったため、他の幹部らも一連のサリン事件がオウム真理教の犯行だったことを認めたのでした。

これにより、疑われていた河野義之氏の潔白が証明されたと同時に、無実な人を公に晒し、あたかも犯罪者といわんばかりにヒートアップしたマスコミへの批判も大きかったのでした。

典型的な冤罪に当たり、河野義之氏は、この事件での9人目の冤罪被害者だったと言っても過言ではなかったのです。

なお、この松本事件では、中川智正は防毒マスクの製造・予防薬の準備やサリン噴霧車へのサリン注入を任されていました。

 

中川智正、ついに実行犯に【地下鉄サリン事件】

 

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1995年3月20日午前8時頃、オウム真理教はついに地下鉄サリン事件を起こす事になります。

前代未聞だったサリンでのテロ攻撃に世界は震撼しました。サリンの毒性は強烈で、これを使用し殺人を犯すなど非人道的に値し、悪魔以外の何物でもなかったのです。

地下鉄サリン事件では、丸ノ内線で2編成・日比谷線で2編成・千代田線で言編成の計5編成に散布されました。方法は、実行犯たちが地下鉄車内で降車直前に、サリンの入った袋を持っていた傘で刺して穴を開け散布する方法でした。

そもそも、オウム真理教の狙いは「国家権力を麻痺させること」にあったため、おのずと中央官庁が集中していたルートを狙い散布が行われており、それまでに起こしてきた様々な事件の強制捜査を遅らせたいがために起こされた事件でした。

 

サリン生成・科学者~土谷正美は事件を振り返る


あまりにも身勝手すぎる麻原の思想に、後に、死刑を言い渡されたサリン生成者の張本人であった土谷正美死刑囚もマインドコントロールが解けた暁にこのように語っていたそうでした。

麻原は、弟子たちの信仰心を利用しながら、個人的な野望を満足させたかっただけで、反社会的行為に向かわせてしまったと思わざる負えなかった。このような苦渋に満ちた経験を経て、私は自身の気持ちに素直であり続けたいと思っています

と、自身が生成した猛毒サリンによって、多数の被害者を出した事に

一連のオウム事件により、多くのご遺族の方々に非常に大きな苦しみや悲しみを負わせてしまった事をしっかりと受け止めながら死ぬべきと思っています

と言い、死刑確定から7年後に刑が執行されこの世を去っていきました。

 

地下鉄サリン実行犯たち

地下鉄サリン事件を起こした実行犯の詳細を記していきます。車内にサリンを持ち込みサリン散布の実行に移した幹部は以下になります。

  • 林郁夫
  • 広瀬健一
  • 横山真人
  • 豊田亨
  • 林泰男

なお、指揮者だった村井秀夫は教団本部でテレビの生放送中に刺殺され死亡してしまいました。次に、地下鉄サリン事件の支持・幇助をし、死刑判決が下された幹部が以下になります。

  • 首謀者:麻原彰晃
  • 調整役:井上嘉宏
  • 運転手:新実智光

そして、猛毒サリン生成に携わった幹部は・・・

  • サリン製造:遠藤誠一
  • サリン製造:土谷正美
  • サリン製造・管理:中川智正

ちなみに、逮捕後、いち早く自供をしていた林泰男は、無期懲役となり、その他の幹部はみな死刑宣告がなされたのです。

 

地下鉄サリン事件の被害者詳細

引用: Pixabay

死者、負傷者計6300人という日本の犯罪史上、類を見ないと言うほど、未曾有の大惨事だった地下鉄サリン事件。

地下鉄丸ノ内線では・・・

  • 死者1名
  • 負傷者558人

千代田線では・・・

  • 死者2名(サリンの入ったパックを除去しようとした駅員)
  • 負傷者231人

日比谷線では・・・

  • 死者・負傷者含めて、総勢3000人

日比谷線が一番被害が多かった理由には、このようないきさつがありました。乗客のひとりが「異臭の原因」と思ったサリンが入っていた袋を構内に蹴り飛ばしてしまった事が被害の拡大に繋がったのでした。

たまたま蹴りだされた場所であった小伝馬町駅で、その他の列車に乗車するはずだった乗客もサリンを吸着するはめになり、この日比谷線が最大の負傷者を生んでしまったわけでした。

 

命がけで救護に当たった聖路加病院の医師たち

引用: Pixabay

地下鉄サリン事件では、約5000人の患者の搬送を請け負った聖路加病院。しかし、そこに搬送されてきた患者たちは、皆、外傷もないのに、ただ心肺停止という状態に病院側もパニックになったそうでした。

負傷者たちが、なぜこのような症状に陥っているのか見当もつかなかったため、かなり苦慮されたそうでした。そんな中、ひとりの医師がに何共通する症状に着目したのでした。

その医師は、松本サリン事件での死亡者や負傷者の症状を思い出したからでした。「もしかしたらサリンに犯されてるのでは」と考えたからでした。

しかし、体内に残るサリンを解毒するためには、サリンに適した解毒剤を用いなければ、逆に患者を死亡させる可能性があったのです。

医師全員で熟考した結果、重傷者に選択した解毒剤を投与。しかし、この顔毒剤を用いた事により、この重症者を救う事に成功したのでした。

したがって、皆サリンに犯されていた事が判明し、東京近郊や他県などから、回収できる限りの解毒剤を集め、全身全霊で治療にあたったのでした。

その結果、多くの負傷者が救われたのでした。この世との生のパイプ役になったともいえる聖路加病院の勇気ある行動に、今だ賞賛する声があるのも確かでした。

 

それでも現状は後遺症に苦しむ被害者たちだった

引用: Pixabay

この地下鉄サリン事件で、一命は取りとめたものの、事件発生から20年以上たった今でも、重い後遺症に苦しんでいる方々が多くおられるようでした。先ずは一番に辛い後遺症としてPTSDがありました。

この地下鉄サリン事件の被害者の3割がこの症状に陥り、地下鉄を利用できなくなったり、利用中でもあのときの恐怖がフラッシュバックしてきたりとさまざなようです。

次に身体的症状で、目のかすみ・体のだるさや微熱といった症状に今も苦しむ人たちがいるようです。サリンは神経を犯す猛毒だったため、おそらく回復は厳しいといわれているようでした。

また、重度な後遺症に「寝たきり」となってしまった方々でした。このサリンにより未来をも奪われてしまった若者もいっぱいいらっしゃったでしょう。

有意義な老後を楽しむべくご夫婦で人生設計を立てられていた方、もしくは結婚という人生の晴れ舞台に臨もうとしていた方だっていらっしゃったかもしれません。

人々の、そんなささやかな幸せをも奪い去った地下鉄サリン事件の当事者、ならびにご遺族は今も苦しんでおられるのです。そういった意味でも、20年経った今でも現在進行形である事には間違いないのです。

 

中川智正の逮捕後【地下鉄サリン事件】

引用: Pixabay

1995年5月17日、ついにオウム真理教の「法皇内庁長官」だった中川智正が逮捕されることとなりました。麻原逮捕の翌日に東京都杉並区の路上にいたところを巡回中の警察官に発見され逮捕に至りました。

逮捕された中川智正について、「まさか、このような悪に手を染めるなどとは・・・」と、幼少期から中川智正と触れ合ってきた近隣住人らは肩を落とすばかり。

医師を志し、希望いっぱいで勉学に励んでいた頃や、研修生として勤務していた頃の中川智正を知る現役医師だった男性も落胆していたようでした。

しかし、現実には、主要11の事件に加担し、重要な役割を担っていた中川智正。筑波大学大学院で有機物質理化学を専攻していた化学班キャップだった土谷正美と共に、サリン生成に従事したのは事実だったのです。

そんな中川智正は、麻原の第200回公判で証人として出廷した際に

  • 尊師がどう考えているのか弟子たちに何らかの形で示してもらいたい
  • 私達はサリンを作ったり、ばらまいたり、人の首を絞めて殺すために出家したんじゃない

と、証言台で泣き崩れたそうでした。最優意見陳述では、

  • ひとりの人間として、医師として、宗教者として失格だった

そう、言って謝罪したそうでした。死刑は免れることはできなかった中川智正でしたが、「人間としての心を取り戻せた」ことで、中川智正の歪んでいた思想に変化をもたらす事となっていきます。

 

中川智正、死刑執行【地下鉄サリン事件】

引用: Pixabay

麻原からのマインドコントロールが解かれた中川智正は、死刑確定後は医学の知識を生かし、獄中から科学専門誌にサリンに関する手記を書いたりしていたそうでした。

また、アメリカの科学者で毒物学専門だったアンソニー・トゥー氏と交流を図ったりと、今までの行いを懺悔し、昔の自分をとり戻すかのように素直な気持ちでトゥー氏と交流を図っていったそうでした。

当初は、科学専門だった土谷正美との面会を望んでいたトゥー氏でしたが、刑が確定していた土谷正美だったため面会が実現できませんでした。

でも、同じ化学兵器製造班にいたな中川智正に連絡を取ると、中川自身もトゥー氏との面会を希望。死刑執行されるまでの間、15回に渡って面会していたトゥー氏はこのように語っていました。

  • 中川氏が率直に話してくれたので、多くの事柄が明るみに出た。オウム真理教の化学兵器・生物兵器の事情がさらに詳しくわかった

と、オウムがサリンやVXガスの製造に至った背景を探っていたのでした。そんな中川智正とトゥー氏の面会は、本来10分なのが30分という異例な下、実現していたようでした。

中川智正も、トゥー氏との面会が楽しみにしていたようで、長い独房生活の中で感じた唯一の温かな「光」だったのでした。

無期懲役に処せられた林郁夫も中川智正の人物評価このように行っていたのでした。

  • オウム真理教付属病院でも、人に応じて、すごく分かりやすく接して優しく話していた。麻原の悪いところは分かっていても、そういうところまでも大事にしていた人

と、いい青年だったことが垣間見える証言をしていたのでした。ようやっとマインドコントロールから解放され「人間」に戻れた中川智正に待っていたのは死でした。

トゥー氏との最後の面会時には、死刑に対する恐れすら見せなかった中川智正だったそうです。

  • 先生もお元気で。これが最後の面会になるかもしれません。英語の論文ではたいへんお世話になりました

と、そのようなお礼まで述べていたそうでした。

2018年7月6日朝、移送されていた広島拘置所で刑が執行されました。午前8時57分死亡確認される。

死刑執行前、施設へのお礼も丁寧に述べていたと言う中川智正。

  • 自分の事については誰も恨まず、自分がした事の結果だと考えています。被害者の方々に心よりお詫び申し上げます。施設の方にもお世話になりました

そして、執行される朝、

  • 最後までありがとう、みんな本当にありがとう  7/6 お別れです みなさんありがとう

この走り書きしたと思われるメモを残し、永遠の旅に出た中川智正だったのです。享年55歳

 

両親の哀しい想いを背に天国に旅立った中川智正

引用: Pixabay

当時、80歳に近かった中川智正の母は、寂しそうにこのように語っていたそうです。

あの子がいつ、この世からいなくなったとしても当然だと思っています。償う方法はそれしかないのですから、いいえ、そんなことをしたって償いにはならないかもしれませんが

と、切なそうに語り、そして

「死刑が執行されたら、迎えに行き「連れて帰りたい」と老いた母は、嗚咽したそうです。

「骨つぼは仏壇に置いておきます。私たちが死んだら遺骨を一緒に入れてもらいたんです。・・・長男なのに、生きている時は何もしてくれなかったんで、あの世で世話をしてもらおうと思います」

そんな両親が、執行後に、自分より先立ってしまった息子を迎えに行くとは相当な覚悟がないとできないことでしょう。

また、両親も、病院を辞めオウム真理教に出家しようとした息子を制止できなかった事が今も悔やんでならないようでした。

しかし、「教えを信じたまま死んでいくのだったら辛かったけど、昔の息子に戻ってくれました。だから、本当に覚悟しています」

そのように親ごころを語る母親に、生前の面会時に、足が弱って上京できなかった父親の体調・きょうだいの様子などよく訪ねていた中川智正。

その頃には、もう「尊師」あったはずの麻原の事を、「あれ」と呼ぶようになっていたそうでした。そんな母親は、息子よりもより多く人生を過ごし、改心した息子を胸に生きていきたいと考えたようでした。

麻原の個人的欲求を満たすために、本来、清い心で人生を過ごしていた中川智正ら、オウム真理教信者たちが、麻原の洗脳によって負の連鎖に陥ったために引き起こしてしまったであろう一連の事件。

多くの犠牲者や負傷者を出し、決して許されるべきはずではない中川智正です。でも、加害者の親として我が子を「死刑執行」の下で失う哀しみも究極で、言葉にならないほどの苦しみなのかもしれません。

麻原が立ちあげオウム真理教という存在さえなければ、犠牲者も出なかったであろうし、悪に手を染める信者だっていなかったでしょう。中川智正の母のように老いてまでこのような悲しみを背負う必要もなかったのです。

今度生まれ変わって来る時は、全うに人生を生き医師と多くの人々を助ける中川智正である事を信じていたいものです。

そして、オウム真理教のような、信者を蝕むカルト宗教に身を置く信者は、信じられないほどの人数に達している現状でもあり、マインドコントロールされている人たちが山ほどいる現実を理解していただけたら幸いです。

あなたの愛する家族をこのような目にあわさないためにも、家族も常に異変をキャッチできるようアンテナを張り巡らせておく事が必要なのでしょう。

愛する人を守るのは家族です。加害者になるのも、また、被害者になってしまうのも単なる、「偶然」ではありません。その偶然を運命と捉える必要はないのです。

負のスパイラルに陥らないためにも、日々、情報収集しながら避けられるべきことは避けていくようにしていきたいものですね。

 

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