麻原彰晃の現在!最後の様子や言葉&遺体が神格化されてる噂まとめ | ToraTora[トラトラ] – Part 3

平成30年2018年7月6日に死刑執行された、宗教団体オウム真理教の創始者『麻原彰晃』(あさはら しょうこう)こと本名:松本智津夫(まつもと ちづお)元死刑囚が引き起こした事件、地下鉄サリン事件は今でも忘れない・忘れてはいけない事件となりました。

この地下鉄サリン事件は1995年3月20日午前8時ごろ、東京都内の地下鉄社内にて朝の通勤ラッシュ時を狙い、神経ガスであるサリンを散布し死者13名負傷者約6300人と死者を含め現在も後遺症に苦しむ大勢の被害者を出した日本最大の同時多発テロです。

他にも多数の犯罪を首謀し、現在でも類を見ないほどの犯罪を起こしてきたオウム真理教ですが、なんと麻原彰晃元死刑囚の死刑が執行された現在も麻原彰晃氏に対して絶対的帰依を示し、現在も「Aleph」や「山田らの集団」と改称し活動を続けているようです。

今回はそんな事件を起こした麻原彰晃元死刑囚にスポットを当て、生い立ちから現在に至るまで麻原彰晃元死刑囚の全てを明かしていきたいと思います。

麻原彰晃の幼少期

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引用: Pixabay

松本智津夫の生い立ちは1955年3月2日に、松本家の9人兄弟の第七子(男6人女3人)下から2番目の四男として育っております。

麻原彰晃氏は生まれた時から先天性緑内障のため左の目がほとんど見えておらず、右目の視力は1.0ほどだったと言われています。

また麻原彰晃氏の長男も全盲で、五男も弱視だったといわれており、麻原彰晃氏や兄弟は水俣病の影響で視覚障害になってしまったのではと考えており、

そんな生い立ちから視覚障害を同じように引き起こすサリンを使用したのではと言う声もありました。

それを裏付けるように事件後の長男へのインタビューにて、水俣病患者として役所へ申請していたことも語られていました。

話は戻りますが幼少期、畳職人の家に生まれた生い立ちをもつ麻原彰晃氏でしたが、当時畳の需要は落ちており、両親ともに7人の子供を育てるために働き、兄や姉が親代わりとして子供時代の麻原彰晃氏を育ててくれました。

子供の頃はおとなしく、女の子と遊ぶことが多かったようですが、目が悪い影響で目を細めることが多いことで女の子からもいじめにあうこともあったようです。

1961年4月に麻原彰晃氏は八代市立金剛小学校へいったん入学していますが、その年の秋に両親は貧しい家庭のために子供の先行きを心配し、

食費や学費、寄宿舎などの費用が掛からない熊本市出水町の熊本県立盲学校へ麻原彰晃を転校させることになります。(現在の熊本市中央区水前寺)

それと同時に寄宿舎で生活しなくてはいけなくなりますが、このことで麻原彰晃氏は両親から捨てられたと思い込んでいたといい、転校する際には泣いて抵抗していました。

また、これが麻原彰晃元死刑囚を後の暴走へ導いた原点だったのではないかとも囁かれることになっています。

転校後、麻原彰晃氏は他の生徒と違い視覚障害は片方の目だけだったため、他の目が見えない子供たちを暴力で支配し手下として扱っていたそうです。

同時にとても強い権力欲をみせていた麻原彰晃氏は、全盲の子達を外に連れ出しては盗みなどの犯罪をさせたり、食事や自分の物欲をみたしたりなど、

外へ連れていったのだからとお金も巻き上げていたそうです。

他にも麻原彰晃氏は消灯時間が過ぎても消灯せずに寮母から叱られた際には、焼いて明るくするぞと脅してみせ、

そのことなどで生活指導の教師から注意をうけた際には、「ただ言っただけ」などと、とぼけていたそうです。そういった危険性から麻原彰晃氏を退学させろなどの声もあがっていました。

また麻原彰晃氏は300万円を同級生への恐喝によって卒業までに貯めていたと言われています。

そんな麻原彰晃氏は、生徒会長や児童会長や寮長といった選挙に学生時代に積極的に出ていますが、全て落選しこの当時に数々の挫折感も味わっていたようです。

ちなみに両親は麻原彰晃氏を一度も訪ねてくることはなく、食料や衣服などの仕送りもなかったといいます。

麻原彰晃の中高時代

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引用: Pixabay

一方で高等部ではそういった麻原彰晃氏の生い立ちを感じさせていなかったようで、当時の担任からは昔の麻原彰晃氏の生い立ちを報道で聞いても、とても想像できなかったと語られています。

麻原彰晃氏は高等部では成績は中程度だったとされており、同じ境遇や生い立ちで困っている人を救う仕事がしたいと熊本大学医学部を志望していましたが、視覚障害のため医師免許が取得出来ず、

麻原彰晃氏はその後高等部専攻科に進学したといいます。

また麻原彰晃氏は高校生の歳には体格も大きく身長175cm体重80kgあったということもあり、現在は事件後に講道館より剥奪されていますが、盲学校の生徒では珍しく柔道二段の段位も取得し、

鍼灸免許を取得したのと同時期に東京大学を卒業して政治家の道を目指し内閣総理大臣になることを目指すようになったと語られていました。

しかしここまで小学校や中学部、高等部でも生徒会長や寮長に立候補しては落ちてしまっており、自己顕示欲を満たすことが出来ないまま、1975年3月の20歳に麻原彰晃氏は、熊本県立盲学校を卒業していきました。

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引用: Pixabay

鍼灸師(しんきゅうし)とは、国家資格である「はり師」「きゅう師」の資格を所持している東洋医学のスペシャリストのことを言います。

麻原彰晃師は盲学校を卒業したのち、東京大学の文化1類を目指し1975年の3月末に上京し東京都の江東区大島へ移住し、品川区戸越へ8月に移住し、9月には実家の八代市へ戻っています。

その後1976年1月には熊本市春日にて漢方薬店で長男の助手を務め、受験勉強のために3月には熊本市黒髪町へ移住しますが、5月にまた長男の漢方薬店の手伝いをするために実家に戻り、

その後1976年7月20日に同店の元従業員に兄を侮辱したとして頭部を負傷させ、麻原彰晃氏は同年9月6日に八代簡易裁判所から1万5千円の罰金刑を受けています。

その後1977年に再び上京した際に、代々木ゼミナール渋谷校(現在は廃校)に入学していますが、東京大学への受験は3度諦め、同じ頃に仙道やヨーガなどの修行を始めたとされています。

1978年の1月7日に代々木ゼミナールにて知り合った松本知子と結婚することになり、千葉県船橋市湊町に新居を構えたと同時に「松本鍼灸院」を開院したといい、この頃に長女を授かったようです。

しかしさまざまな病状の患者を治療するうちに麻原彰晃氏は鍼灸師として病気を完治させることが出来ないと感じだし、

そのことをきっかけに宗教的なことに興味を示し仙道・漢方・運命学などを勉強していきました。

そして鍼灸師に無常観を感じて麻原彰晃氏は同年9月15日に松本鍼灸院を廃業し、診察室兼漢方薬局である「亜細亜堂」を同市本町にて開業し、12月に新居を船橋市新高根に購入し移住します。

この時お店は繁盛していたものの、その後麻原彰晃氏は1980年7月に保険料の不正請求をおこなったことにより670万円を追加徴税され、閉店することになってしまいます。

その後船橋市高根台にBMA薬局という健康薬品販売店を1981年2月に開業しますが、無許可の医薬品を売り、

翌年の6月22日に薬事法違反で麻原彰晃氏は逮捕され20万円の罰金を支払い、またしても閉店することになりました。

薬事法違反で逮捕された麻原彰晃氏は不起訴となり、釈放後8月25日に自分には宗教しかないと新興宗教団体阿含宗に入信し、

麻原彰晃氏は西山祥雲に個人レッスンをしてもらおうと猛アピールをし、見事に成功することになります。

この時に宗教に強く染まっていったと考えられ、後の「教祖麻原彰晃」を作り上げていったのではないでしょうか。

麻原彰晃氏は西山祥雲に弟子入りした際に彰晃という名前を与えられますが、その後「自分をNo.2に」「お金は自分が管理する」など、

だんだんと図に乗り始めた麻原彰晃氏の言動に、西山祥雲は宗教をやるなら自分でやれと言い、麻原彰晃氏はついに追い出されてしまいます。

またこの頃麻原彰晃氏は、知人に宗教が儲かるビジネスだともらしてようです。

オウム真理教結成

@allblue300がシェアした投稿 – 2018年11月月26日午後1時01分PST

麻原彰晃氏は超能力開発の指導をおこなう「鳳凰慶林館」という学習塾を1983年の夏に、東京都渋谷区桜丘に開設し自身の名前を麻原彰晃と名乗り始めます。

翌年2月には同施設をヨガ道場「オウムの会」と名乗り、5月28日に株式会社オウムを設立しました。

このときの麻原彰晃氏はまだ宗教的な感じはせずに、命令などもしなかったと元真理教の幹部である石井久子(いしい ひさこ)は語っていたようです。

1985年の修行中に啓示を受けたと語り、麻原彰晃氏が空中浮遊したとして写真がオカルト系の「ムー」などの雑誌に掲載され、

翌年4月には宗教団体にすることで税制上優遇されると目をつけ、宗教団体「オウム神仙の会」と名前を変更しました。

その当時から麻原彰晃はクーデターを計画しているようなことをもらし、「フリーメーソンと戦うことになるだろう」とも語ったそうです。

その後1987年7月、麻原彰晃氏が32歳の時に仏教系でいくと信者の意向を押し切り「オウム神仙の会」から「オウム真理教」に改称しこれまでの宗教を打ち破り、

すべての魂を救済すると布教活動を展開していきました。

オウム真理教の変遷

牧田恵実さん(@emi_makida_art)がシェアした投稿 – 2018年 7月月9日午前10時44分PDT

ここまでの生い立ちから、本格的に宗教法人「オウム真理教」として活動していくことになるオウム真理教ですが、ここからさらに新興宗教ブームのおかげや著名人の影響もあり、順調に勢力をのばしていくことになります。

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1980年代後半の新興宗教ブーム

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麻原彰晃氏が率いるオウム真理教が1995年に事件を起こしたことを皮切りに日本人の多くは宗教に対して拒絶反応を示し、収束していくことになる新興宗教ブームですが、とくにバブル時期の1980年代後半はブーム真っ只中となっており、

同時期には自己啓発セミナー、宇宙人や幽霊などのオカルト関係もブームとなっており、とくに宗教に対して若者を中心に関心が強まり新しい宗教なども増え活発に活動していましたが、この時期に登場した宗教のうちオウム真理教はとくに若者の入信が多く出家する人も多くいました。

その後のテレビで宗教ブームに対して「くるべきものがきた」と麻原彰晃氏は語っていました。

ビートたけしや東大教授も高評価

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1991年12月30日にタレントである「ビートたけし」こと北野誠さんが以前から対談したかったと、麻原彰晃氏と『たけしの死生観、麻原の仏教観』というタイトルで共演しており、番組内で麻原彰晃氏はビートたけしさんの話を絶賛していました。

その後も麻原彰晃氏に人生観を肯定されカリスマ性があると、若者たちにいい意味で影響を与えたらさらに素晴らしい人生になるのではと言われ、

ビートたけしさんはしばらく考えた後に「なんかいいなと」つぶやき、あらためて違う機会にも20時間くらい朝までじっくりと対談をしたいと話していました。

また麻原彰晃氏からはビートたけしさんは教祖としてやっていける素質があり、自分の代わりにオウム真理教の教祖も出来ると言われるとまんざらではない様子で聞いていました。

しかしこの数年後の1995年3月に地下鉄サリン事件を引き起こし、同年5月16日に麻原彰晃氏が逮捕されたのちには、ビートたけしさんはオウム真理教について記者会見で意見を求められた際には以前麻原彰晃氏のことを評価していたことはなかったかのようにコメントをしていました。

また虹の階梯やチベットのモーツァルトなどの著者である中沢新一教授も1989年に麻原彰晃氏と対談しており、

その際には「天才的な直感力の持ち主」「高度なことを考えている人」と高く評価しており地下鉄サリン事件後オウム擁護派としてメディアなどからも糾弾されることになります。

当初はオウムの事件に関して言及しておらず、自分ならと発言はしていましたが事件の是非に関しては何も語りませんでした。

大学などでの講演も積極的におこなっていた麻原彰晃氏は、以前目指していた東大などでの講演もおこなっており、宗教ブームのおかげもあってか大多数の学生の前で講演することにも成功しています。

こういった講演などはこのあとに引き起こすテロに備えて優秀な人材を集めるためにおこなっていたのではという声も上がっており、

実際にこういった講演でオウム真理教の元幹部である筑波大学の土谷正実元死刑囚や、東大の豊田亨元死刑囚などが出家することになりました。

その中でも報道で東大の駒場キャンバスが地下鉄サリン事件後取り上げられたりするほど、東大は密接にオウム真理教と関係していたとされており、実際に東大生の多くが入信していたり、幹部になっていたりと東大側でも問題視していました。

この東大内の駒場キャンバス900番講堂では、1991年の第42回駒場祭でオウム真理教に入信していた東大生により東大内に作られていた「能力開発研究会」というサークルの手により麻原彰晃氏の講演がおこなわれており、

その際の狭いテント内を大勢で歩き回るといった危険行為や布教活動をおこなうなど違反行為があったとして、第43回の実行委員によって事前に確認書にて前年のようなことがないようにと、

1992年の第43回駒場祭では名称を変更して講演を企画していた「トレンド研究会」というサークルと確認書を締結していました。

しかし22日におこなわれた麻原彰晃氏の講演にてオウム真理教の駒場祭と関係のない布教活動や事前に禁止していた危険行為などをおこなっており、

実行委員側は確認書で取り交わしていたにも関わらず違反行為をしていたトレンド研究会の企画中止を決定し、

話し合いを要請しますが出てこなかったため、第43回駒場祭の実行委員の手によって強制的に照明のブレーカーを落とし途中で講演を中止することになりました。

ちなみにこの事件に関してニュースで映像が流れたという情報があり動画を探してみましたが、動画に関しては見つかりませんでした。

衆議院選挙で敗戦後にテロ組織化

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話は少し戻りますが、1989年8月16日に結成されたオウム真理教による真理党は1990年2月におこなわれた衆議院議員選挙に麻原彰晃氏を含む教団25名で出馬しました。

派手なパレードなどで注目を浴び、世間にインパクトを与えることには成功したようですが、麻原彰晃氏は1783票で5人当選区で最下位という大差で落選し、他の信者も麻原彰晃氏以下の票しか獲得できずに大惨敗の結果となりました。

普段から教祖様と讃えられていた麻原彰晃氏は、おそらくこの選挙の惨敗によって少年時代の生い立ちを思い出し重ねていたのではと語られています。

このことでショックを受けた麻原彰晃氏はオウム真理教の教祖も辞めるなどと言っていたようですが、

大差で落選したのは票のすり替えがあったのではと麻原彰晃氏の娘である長女と3女の松本麗華に不正があったのではと言われ、

私が落選したのは国家権力がトリックを使ったためだと、すぐに立ち直り自信を取り戻していきます。

そこから陰謀だとして国家権力を恨むようになり、麻原彰晃氏がクーデターを考えるようになったきっかけになったと考えられます。

また開票不正を裏付けるようにオウム真理教信者3名にわざと松本智津夫の名で投票させたうえで開票時に立ち会い、その票を確認できなかったとして麻原彰晃氏も不正だと触れ回るようになっていました。

そして信者に対して説明する際には麻原彰晃氏の指示により、そのことを材料に上祐史浩氏(現:光の輪代表)や大内利裕元幹部ら2人は陰謀論を考案し、

テレビ局などに対しても同様に陰謀論を主張し、クーデターの必要性を感じたことで麻原彰晃氏は、より一層兵器開発を急ぐようになり、翌月にはVXや炭疽菌の研究を進めていました。

その後すぐに石垣島のセミナーを計画し、参加費約30万円だったといわれていますが1270人が参加し500人ほどが出家し成功を収めたことから、

当初は資金集めのセミナーだと思われていましたが、実は本当の目的は麻原彰晃氏がボツリヌス菌によるテロを企てており、そのテロからオウム真理教信者を守るためにおこなったものだったと判明しました。

そしてここからオウム真理教の暴走が加速していくことになってしまいます。

主なオウム真理教事件の一覧

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麻原彰晃氏率いるオウム真理教は男性信者殺害事件や坂本堤弁護士一家殺害事件、薬剤師リンチ殺人事件など数々の殺人事件などをおこしています。

また、坂本堤弁護士一家殺害事件など選挙前からおこなっている事件も数々あり、そういった状態で表舞台に出ていたと考えるとゾッとしてしまいます。

事件が明るみに出たのも地下鉄サリン事件後となっており、オウム真理教による凶行を止めることが出来ませんでした。

在家信者死亡事件

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1988年9月に在家信者の男性がオウム真理教の開催していた修行中に、厳しい修行のせいか薬物中毒か原因は定かになっていませんが突然大声で暴れ出したのです。

麻原彰晃氏は「頭を冷やしてこい」と新実智光・岡崎一明・早川紀代秀・村井秀夫らに命令し、その命令を受けた信者らが男性信者を風呂場で頭から水の溜まった浴槽に逆さにつけてその過程で意識を失い呼吸がとまってしまいました。

知らせを聞いた麻原彰晃氏はすぐに駆けつけパワーを送るなどし信者らは人工呼吸などの心肺蘇生をおこなったものの在家信者は死亡してしまいます。

その後、宗教法人の認可申請が取り消されると事件の発覚を恐れた麻原彰晃氏は、焼却してこのことは他言すると命令し、死体を焼却し粉々に砕き精進湖に遺棄し「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神の示唆だな」と呟いたといいます。

男性信者殺害事件

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1989年2月10日に在家信者死亡事件を目撃した男性信者がオウム真理教を脱会したいと希望したことで、上記事件の発覚を恐れ教団による初の殺人事件がおこってしまいます。

もともと村井秀夫氏の部下で電気設備工事などをおこなっていた被害者ですが、岡崎一明氏の部下として転属したことで仕事にやりがいを感じられずに脱会を希望し、さらに在家信者死亡事件を目撃していたことでオウム真理教のやり方に疑問を感じ、そのことを岡崎一明氏に不満を述べます。

岡崎一明氏は麻原彰晃氏に男性信者が不満を漏らしていたことを報告し、脱会することで在家信者死亡事件が発覚してしまうことを恐れた麻原彰晃氏は、男性信者の両手両足を縛り富士山の独房に監禁しますが、そのことでますます男性信者は脱会することを主張し、麻原彰晃氏は殺害することを決意します。

そうして麻原彰晃氏は新実智光・岡崎一明・早川紀代秀・村井秀夫・大内利浩の5人に、このままでは自分は殺されるかもしれないと漏らし、もしこのまま脱会する意思も変わらないようならポア(チベット仏教で死後の意識の移し変えの意)するしかないと殺害を命じました。

そして5人のうち大内利浩1人を見張りに立て、男性信者を他4人で殺害し、殺害後麻原彰晃氏はさらに遺体の隠蔽を急がせ、在家信者死亡の時同様に遺体を処理し敷地内にばら撒き、遺骨の一部すら残しませんでした。

このことで麻原彰晃氏は5人にヴァジラヤーナの教え(殺人を肯定する教え)を説き、でたらめなことを言ってこの殺人を肯定していました。

坂本弁護士一家殺害事件

1989年11月4日に当時オウム真理教を非難していた坂本堤弁護士一家をオウム真理教幹部6人で窒息させ殺害した事件で、事件当初からオウム真理教の関与を疑われていました。

事件のきっかけは江川紹子というジャーナリストから、当時「オウム真理教被害者の会」を作り活動していた坂本堤弁護士に、出家信者の母親を紹介され、息子のオウム真理教脱会の相談を請けたことに遡ります。

もともと危険な思想や反社会性を非難していた坂本堤弁護士が、9月にサンデー毎日で組まれた「オウム真理教の狂気」という特集で、オウム真理教への批判が強まる中で坂本堤弁護士も取材を受けるようになります。

当初は特集を組んでいた出版元のサンデー毎日のビルを爆破する計画が進められますが、計画段階で問題点が見つかり実行されず、直接爆破を計画しますがこれも早川紀代秀が毎日新聞社に置いてきたビラが証拠になってしまうとし、決行はされませんでした。

その後10月26日にTBSテレビの取材班がオウム真理教の修行の様子を撮影した際におこなわれたインタビューにて教団側と揉めることになってしまいました。

番組プロデューサーの武市功は場をおさめるために坂本堤弁護士のインタビューを撮った映像を放送前にオウム真理教側へ見せてしまったことで、坂本堤弁護士殺害への動機が強まったのではと指摘されることになりました。

坂本堤弁護士がオウム真理教を訴訟するべく動いていた中で、10月31日に教団側は訴訟回避の交渉に坂本堤弁護士の事務所へ赴きますが交渉は決裂し、坂本堤弁護士はあらためて宗教法人の認可取り消しなどの民事訴訟の準備に取り掛かります。

そうして11月に入ってから麻原彰晃氏は今後の活動の障害である、坂本堤弁護士の殺害を塩化カリウムでおこなうように、新実智光・岡崎一明・早川紀代秀・村井秀夫・中川智正らに命じ、腕っぷしを求めこのメンバーにさらに端本悟も計画に加えられました。

3日に坂本堤弁護士の住所を入手し、午前9時ごろ2台の車で出発し、途中で変装などの準備をおこないながら坂本堤弁護士の弁護士事務所のある横浜へ向かいます。

当初の予定では通勤時を狙い殺害する予定で待ち伏せしていましたが、この日は祝日だったために坂本堤弁護士の自宅へ向かうことになりました。

午後10時坂本堤弁護士自宅へ到着したところドアの鍵があいており、早川紀代秀がどうするか麻原彰晃氏へ電話し確認すると、家族も一緒に殺害することを命じられてしまいます。

しかし不在の可能性も考え、念のために坂本堤弁護士が通勤で使っていた洋光台駅で最終電車まで確認し、自宅にいることを判断し日付が変わった11月4日の午前3時頃に坂本堤弁護士の自宅へ侵入し一家殺害を決行しました。

殺害後遺体を新潟県西頸城郡名立町(現在の上越市)・富山県魚津市別又の林道別又僧ヶ岳線脇・長野県大町市日向山の山中とそれぞれ別々な場所へ遺棄し、身元がわからなくなるようにと坂本堤弁護士の遺体を乱暴に処理しようとしていました。

殺害後遺体が発見されるまでは殺人事件ではなく失踪事件として扱われており、坂本堤弁護士の自宅でオウム真理教のバッジが落ちていたために横浜法律事務所(坂本堤弁護士の所属事務所)などからは教団の関与を疑われていました。

しかし、11月18日夜にオウム真理教がおこなった坂本堤弁護士に関する記者会見にてバッジは誰かが置いた陰謀だと発表し、事件性なしとして神奈川県警も捜査をおこなっていませんでした。

さらにオウム真理教はテレビへ出演するなど、メディアに出ることで麻原彰晃氏や教団への疑惑は薄れていきますが、実行犯だった岡崎一明氏がオウム真理教から3億円を奪い脱走し、麻原彰晃氏から口止め料として1000万を要求し、830万を振り込むことを約束されます。

その後岡崎一明氏は1990年2月16日に速達で神奈川県警に子供の遺体の場所を示した地図と手紙を匿名で送りましたが、長野県警と協力して遺体を探すも見つけることが出来ず、手紙の差出人は岡崎一明氏だと感づいた警察は嘘発見器も使い事情聴取をおこないましたが話題をそらすために送ったとはぐらかされてしまいました。

しかし地下鉄サリン事件後、1995年4月6日の岡崎一明氏の自供により1995年9月に再捜索がおこなわれ、坂本堤弁護士一家の遺体発見されることになったのです。

当初は息子の遺体だけ発見できませんでしたが、その後発見することができ、遺族の手によって木製の慰霊碑が建てられました。

亀戸異臭事件

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1993年6月27日と7月2日にオウム真理教は炭疽菌を使い東京総本部のビルの屋上から噴霧器を使い近隣住民を殺戮しようと企て、テロ未遂をおこなっていたことが1995年の地下鉄サリン事件後に発覚しました。

炭疽菌が噴霧された当日、周辺には悪臭が漂っており、近隣住民から異臭の発生源であるオウム真理教への抗議がありましたが、オウム真理教側は薬品の調合に失敗してしまったためで今後は気をつけるとコメントしておりました。

しかし事実は麻原彰晃氏が遠藤誠一に炭疽菌によるテロをするために炭疽菌の培養を命じており、豊田亨が開発したウォーターマッハという噴霧器を使い、噴霧時には麻原彰晃氏と村井秀夫も立ち会っており、悪臭を消すためにシャネルの香水の素を使っていました。

麻原彰晃氏は真理のためなどと語り、自らの手で装置のスイッチを押して炭疽菌を散布しましたが、噴霧器の圧力のせいで菌が無力化したか、炭疽菌の培養に失敗していたかは定かではありませんが悪臭を撒き散らすのみにとどまったようです。

しかし上祐史浩氏の著書「オウム事件 17年目の告白」によると、もし培養が成功していた場合は防護に不備があったため実行した教団側も死んでいたと語られていました。

また地下鉄サリン事件後にこの生物兵器テロ未遂事件も捜査対象にあがりましたが、そもそも炭疽菌を生成できない不能犯とされ刑事告訴には至りませんでした。

池田大作サリン殺害未遂事件

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炭疽菌事件から数ヶ月後の1993年11月と12月18日に、オウム真理教の麻原彰晃氏は1993年8月に土谷正実がサリンを合成することに成功しサリンを使って殺害する最初のターゲットに創価学会の池田大作名誉会長を指定し、麻原彰晃氏は信者に命令しましたが計画は尽く失敗し未遂に終わります。

1993年の11月に生成したサリン600グラムを乗用車に農薬噴霧器霧どんどんを載せて創価大学の学会施設「東京牧口記念会館」で1回目の攻撃をおこないます。

しかし装置による噴霧を開始するも上手く噴霧できず、車内にもサリンが入ってきてしまいます。

またボツリヌス菌の散布にするための噴霧器も故障するなどして失敗し、実行した信者らはガスマスクなど防護策もとっておらずにサリン中毒の信者も僅かながらに出してしまうことになってしまいます。

1993年12月18日におこなわれた2回目のサリンによる攻撃計画は、創価学会の演奏会でおこなわれ、噴霧器を載せたトラックで東京牧口記念会館へ向かいます。

しかし、ガスバーナー式加熱気化噴霧器によって火災が発生してしまい、警備をしていた創価学会牙城会会員からの追跡に発展してしまい、闘争しながらサリン溶液を噴霧しました。

噴霧する際にトラックを後退させるために新実智光氏は防毒マスクを外し、サリンを大量に吸ってしまい重体になってしまいます。

村井秀夫氏や遠藤誠一氏が新実智彦氏に人工呼吸をおこない、すぐにオウム真理教附属医院にて林郁夫らの手によって一命を取り留め、遠藤誠一氏はサリンの恐ろしさをあらためて実感したと語っていますが、重体に陥っていた新実智光氏は騒ぎに反し、サリンを吸っていい気持ちだったと語っていました。

また林郁夫氏はこの事件までオウム真理教がサリンを保有していることを知らず、新実智光氏の治療の際に中川智正氏からその事実を聞かされました。

この事件で麻原彰晃氏に命令された当初のターゲットである池田大作氏に被害はありませんでしたが、創価学会は警備をしていた牙城会の会員数名がサリンによる中毒症状が出てしまいます。

ですが後遺症がなかったため表沙汰にせずに、警察への通報はしなかったため、地下鉄サリン事件後に林郁夫が自供するまでこの事実が明かされることはありませんでした。

麻原彰晃氏は2回の失敗によって一般人を巻き込んで殺害することを決意し、散布機の改良やサリンの製造をさらに進めます。

しかし1994年1月に実行する計画しますが間に合わずに計画を中止し、後の松本サリン事件や滝本太郎弁護士サリン襲撃事件に使われることになります。

松本サリン事件

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池田大作サリン襲撃事件から数ヶ月後、長野県松本市にて裁判所宿舎を狙いサリンを使用した死者8人を出すテロがオウム真理教によっておこなわれてしまいます。

また日本において一般人を巻き込んで化学兵器が使われたテロは後にも先にも現在まで他に事例はありません。(2019年6月現在)

しかしこの事件は地下鉄サリン事件の後にオウム真理教が自供するまで一般人による犯行だと思われ、警察やマスコミは被害者である一般人の河野義行さんを犯人として追っていました。

長野県松本市北深志の住宅街にて、事件は1994年6月27日から翌日の早朝にかけて発生し、死者7名(後の2008年8月5日、サリンによる死者8名となる)約600人の負傷者を出してしまいます。

事件発生当初6月28日時点では謎の有毒ガスと報道されていましたが、7月3日にこの事件がサリンによる中毒によるものだと判明します。

またこのサリンによる被害者である第一通報者の河野義行さんの通報が、他の通報者に比べ早いなどという理由で犯人として疑われ、警察からは自白の強要を執拗に受け、マスコミによる誤報道が連日おこなわれました。

その後1995年3月の地下鉄サリン事件によって河野義行さんの無実が判明した際は、警察とマスコミから謝罪があったといいます。

事件の発端は長野県松本市にオウム真理教の施設を建設するために土地を取得しようとするも反対運動により、施設建設を断念することがきっかけになります。

ちょうどこの頃池田大作サリン襲撃事件の計画でブルーサリンを所持しており、このブルーサリンを使って松本の裁判所で実験するように6月20日ごろに麻原彰晃氏は指示を出します。

麻原彰晃氏の指示により村井秀夫氏などがサリンを噴霧するための改造したトラックを製造し、中川智正氏は防毒マスクの製造をおこない、サリン予防薬の準備もおこないました。

新実智光氏は池田大作サリン襲撃未遂事件での経験をもとに目撃対応策を伺い、中村昇氏・端本悟氏・富田隆氏を使えと指示を受けました。

6月26日にはサリン噴霧器の試験を水でおこない、レンタカーを用意しています。

そして6月27日の14時ごろに新実智光氏から作戦内容が伝えられ、警備中のメンバーの質問には戦闘になった場合は殺害しても構わないと伝えられました。

夕方にサリン噴霧車と護衛車に分乗して出発し、20時ごろ麻原彰晃氏の合意を得てターゲットを長野地方裁判所松本支部から裁判官官舎へ変更し、22時ごろに目的地である裁判所宿舎付近に到着し計画を実行します。

50分ほどサリンを噴霧した後、サリンがなくなり現場を離れます。

そして前述したとおり犯行は河野義行さんの手によるものだと警察やマスコミによりひろまり、この事件のオウム真理教ならびに麻原彰晃氏は疑いの目を免れます。

会社員VX殺害事件

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引用: Pixabay

1994年12月12日に世界で初めてVX(サリン同様に非常に強い猛毒をもった神経ガス)により死亡した犠牲者を出した事件となります。

被害者の男性はオウム信者である女性とオカルト雑誌で知り合い文通をおこなっていた、柔道2段の資格を持った大阪府大阪市に住む当時28歳の男性で、このオウム信者である女性と会った際にオウム真理教への勧誘だと察知し関係を断ちますが、その後も勧誘は続きました。

時を同じくしてオウム真理教の大阪支部と名古屋支部で「ヴァジラの戦士」という一波による分派騒動があり、この男性が柔道クラブの関係で警察署の道場へ通っていたことや、勧誘者の中にヴァジラの戦士メンバーがいたことで分裂を唆した警察のスパイだとされ、この報告を受けた麻原彰晃氏が殺害を命じます。

そして1994年12月12日の午前5時ごろ井上嘉浩・山形明・新実智光・高橋克也・中川智正・平田悟の、実行犯であるメンバーが大阪市内のホテルに集まり、午前6時ごろに被害者男性の家に到着します。

近くの建物の屋上から井上嘉浩氏と平田悟氏の二人で自宅を監視し、自宅から出てきた被害者男性を、ジョギングを装い尾行し淀川区の路上にてVXの入った注射器を被害者男性に注射し、その後男性はうめきながら痙攣をおこし倒れ、通行人によって110番に通報し、すぐに大阪大学医学部附属病院に搬送されましたが脳死状態となり同日12月12日の午後1時56分に死亡が確認されました。

また事件がオウム真理教の暗殺だと実証されたのは、オウム真理教強制捜査後にVXによる襲撃事件が明るみに出た後、被害者男性の保存されていた血液の成分分析によるものとなります。

地下鉄サリン事件

麻原彰晃氏を含むオウム真理教の幹部などが逮捕されるきっかけになった、1995年3月20日に東京都の地下鉄でおこなわれた日本最大級の同時多発テロであり、同時にこの事件をきっかけに麻原彰晃をはじめオウム真理教の数々の犯罪行為が暴かれることになりました。

1995年3月20日午前8時ごろの通勤ラッシュ時に現在の東京メトロである帝都高速度交通営団の日比谷線・丸ノ内線のそれぞれ2編成と、千代田線の1編成の地下鉄計5編成の車両内で神経ガスであるサリンが撒かれ、死者13名負傷者約6300人という大勢の被害者をだしてしまいました。

以前からサリンを製造しテロ行為や殺人などをおこなってきた麻原彰晃氏の率いるオウム真理教はクーデターを企てておりましたが、1995年1月1日にサリンの残留物が上九一色村で発見されたことが紙面を飾りました。

そして警察は残留物を発見したことでオウム真理教への捜査の手を一層強めていきます。

強制捜査が入ればサリンを作っていた事実も発覚してしまい、オウム真理教の壊滅は必死で、麻原彰晃氏の命令によりすぐにサリンの破棄を進めました。

信者は3日間不眠不休でサリンを破棄するために中和作業をおこないましたが、この時中川智正は咄嗟にサリンの原料であるジフロを教団内に隠し、これが地下鉄サリン事件の発端となってしまいます。

そしてこのこともありオウム真理教は警察への敵対心を強め、警察に対してより一層憎しみを強めていきます。

麻原彰晃氏はその後信者一人一人へ食事会の際に自分は何が出来るのか問いていく時に、現在のAlephの信者である荒木浩に例えば警視庁へ行って警視総監の首根っこを捕まえてこいというような会話も残っていました。

1995年2月28日に元信者の妹を匿っていた仮谷清志さんを拉致監禁し死亡させた事件をおこし、これにより警察はさらにオウム真理教への追求の手を加速させ、強制捜査の日を1995年3月22日に決定します。

しかし警察内部にいたオウム真理教のスパイにより情報は筒抜けになっており、強制捜査を阻止するために中川智正氏の隠していたサリンの原料であるジフロが残っていることが発覚し、麻原彰晃氏は地下鉄サリン事件の決行を決めました。

そして麻原彰晃氏は幹部をリムジンへ集め、サリンでの計画を村井秀夫氏に総指揮をするように命令し、遠藤誠一氏に残ったジフロでサリンを作るように命令しました。

その後麻原彰晃氏は実行犯となるメンバーを集め、強制捜査を騒ぎで阻止するために地下鉄にサリンを撒いてこいと命令します。

決行日は1995年3月20日の通勤客がもっとも多い朝に決定しました。

遠藤誠一はサリンを製造する設備は全て破棄していましたが、ビニール袋を被りに酸素を送りながらサリンの製造を進め、結構前夜の1995年3月19日に濃度30%ほどの不完全な混合物サリンを作り上げます。

遠藤誠一氏と中川智正氏は家庭用ポンプでサリンを袋に注入し、11個のサリンの入った袋を用意し、同じサイズの水の入った袋も用意し当日失敗のないように練習におこないました。

結構の朝、サリンとともにサリンの中毒役を実行犯に渡し、午前5時ごろに出発し、実行犯らは計画通りに1995年3月20日の8時ごろに地下鉄内でサリンの入った袋をグラインダーで咲きを削った傘を使い同時多発テロを決行してしまいます。

この事件により、地下鉄内に居た乗客をはじめ、駅員や救助にあたった警察なども含め、死者13人負傷者6300人という大勢の被害者をだしてしまいました。

1995年3月22日にオウム真理教へ強制捜査を決行しますが、すでに麻原彰晃氏の姿は無く、約2ヶ月後の1995年5月16日に隠し部屋にて現金960万円の握りしめた麻原彰晃氏は逮捕されることになりました。

逮捕された主な教団幹部

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引用: Pixabay

これまでの事件によって逮捕されたオウム真理教信者は1996年1月18日時点で403名にのぼり、起訴されたのは192名に及びました。

早川紀代秀

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引用: Pixabay

1949年7月14日生まれのホーリーネーム:ティーロパこと早川紀代秀元死刑囚は、最古参の幹部で麻原彰晃氏の側近の1人です。

1995年4月20日に逮捕された早川紀代秀氏は、昭和61年に前身のサークル「オウム神仙の会」に入り、オウム真理教になったあとは建設省の責任者として施設建設などを担当していました。

オウム真理教の事件の中で、坂本堤弁護士一家殺害事件の実行犯などとして起訴され、裁判で起訴内容を認め反省の色を見せ麻原彰晃氏の命令に逆らえなかったと減刑を求めていました。

その後坂本堤弁護士殺害は反社会性が極めて強いと2009年7月17日に死刑が確定しました。

また早川紀代秀氏は逮捕後、麻原彰晃氏の自己保身や逮捕に至る予言の矛盾などで幻滅し、麻原彰晃氏がカレーライスを食べたくて自殺を断念したという一面を知り、完全に信仰心を失いました。

井上嘉浩

1969年12月28日生まれのホーリーネーム:アーナンダこと井上嘉浩元死刑囚は、高校2年生の時に入信した幹部で麻原彰晃氏の側近の一人です。

1995年5月15日に逮捕された井上嘉浩氏は、昭和61年に前身のサークル「オウム神仙の会」に入り、平成6年に諜報省の最高責任者に任命され非合法な活動を担当していました。

VXを使った襲撃事件や地下鉄サリン事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件に関わっており、裁判では具体的に麻原彰晃氏の指示内容などを証言し、何度も反省の色を見せていたようです。

一審では無期懲役を言い渡されたものの、二審ではサリンを撒くなどを発案した責任の重さを問われ、死刑が確定することになります。

また井上嘉浩氏は麻原彰晃氏から虐待を受けたり、死ねなどと何度も言われたりと酷い扱いを受け、ある時には女性とワイワイカラオケをしている麻原彰晃氏を見て「VXをかけてやりたかった」とも思ったようです。

死刑執行後の遺体は両親が引き取り、葬儀は浄土真宗の岡崎別院にておこなわれたようです。

井上嘉浩について詳しくはこちら!

井上嘉浩の生い立ちと経歴!公証人役場事務長殺害事件の概要解説

新実智光

舩木憲介さん(@kensuke_funaki)がシェアした投稿 – 2018年 7月月18日午後6時27分PDT

1964年3月9日生まれのホーリーネーム:ミラレパこと新実智光元死刑囚は、オウム真理教へ出家した最古参の幹部で、麻原彰晃氏の側近の一人です。

1995年4月12日に逮捕された新実智光氏は、昭和61年に前身のサークルである「オウム神仙の会」に出家し、警備を担当していた自治省の大臣として任命されていました。

新実智光は地下鉄サリン事件や松本サリン事件、坂本堤一家殺害事件など、11の事件の実行犯として関わっており、麻原彰晃氏に次ぐ26人の殺害をおこなったとされています。

第一審、二審ともに死刑判決を受け2010年2月16日に死刑が確定することになります。

その後大阪拘置所内にて2018年7月6日午前8時33分に死刑が執行され、遺体は妻が引き取ったとされています。

岡崎一明

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引用: Pixabay

1960年10月8日生まれのホーリーネーム:アングリマーラこと岡崎一明元死刑囚は、オウム真理教事件で最初に死刑が確定した最古参の幹部の一人です。

岡崎一明氏はオウム真理教を脱退後、地下鉄サリン事件のあった後の1995年4月に神奈川県警にてオウム真理教に居たときの犯行を自供し、5月20日に全てを自白し逮捕されました。

岡崎一明氏は坂本堤一家殺害事件や在家信者死亡事件、男性信者殺害事件などの遺体の処理にも関わり、自首したものの刑は軽減されずに、2005年4月7日に死刑が確定します。

そして2018年7月26日に死刑が執行されました。

中川智正

AAさん(@aachan1177)がシェアした投稿 – 2018年11月月16日午前12時23分PST

1962年10月25日生まれのホーリーネーム:ヴァジラ・ティッサこと中川智正元死刑囚は、昭和63年にオウム真理教に入信し、翌年出家した麻原彰晃氏の側近の一人です。

大学の医学部を出ており、大阪の病院に勤めていましたが出家後は麻原彰晃氏の主治医として務めており、サリンの製造や坂本堤弁護士一家殺害事件の実行犯としてや他にも合わせて11の事件に関わっておりました。

1995年5月17日に逮捕され、麻原彰晃氏の指示のもと25人を殺害したとして殺人罪に問われ、2003年10月29日に死刑判決を受けることになりました。

そして2018年7月6日に死刑が執行され、遺体は執行翌日に家族が引き取りました。

中川智正について詳しくはこちら!

中川智正の生い立ちと経歴!化学兵器製造管理人の哀しき結末とは?

遠藤誠一

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引用: Pixabay

1960年6月5日生まれのホーリーネーム:ジーヴァカこと遠藤誠一元死刑囚は、サリンの製造などに関わったオウム真理教幹部の一人です。

第一厚生省大臣として任命されており、サリンの製造の他にも池田大作サリン襲撃事件の実行犯や、松本サリン事件などの事件に関わり、1995年4月26日16時27分に瞑想中に逮捕されました。

2011年12月12日にオウム真理教事件で最後に死刑が確定した人物で、2018年7月6日に死刑が執行され、遺体はAleph新保木間施設へ搬送され、遺体にはオウムの宗教服が着せられ葬送され、遺骨は教団施設に祀られた後に9月に遠藤誠一の意向に従い日本海の海に散骨されました。

土屋正実

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1965年1月6日生まれのホーリーネーム:クシティガルバこと土谷正実元死刑囚は、大学在学中の平成元年にオウム真理教に入信し、大学院を退学後出家しています。

地下鉄サリン事件後に逃走していましたが、1995年4月26日に瞑想中に逮捕され、直接殺害や計画の発案には関わっていませんでしたが、第二厚生省大臣として任命され、サリンの生成を可能にして無差別大量殺人を可能にしたことで、2004年1月30日に死刑判決がくだされます。

また最後まで遺族への謝罪は一切なく、傍聴席のオウム真理教信者に向かって笑みも浮かべていたそうです。

しかしその後麻原彰晃氏からの洗脳が解けたことや、獄中結婚した妻、作家である大石圭とのやりとりなどにより、サリンを作ったことを後悔していたといいます。

2018年7月6日に死刑が執行され、土谷正実氏の遺体は麻原彰晃氏の遺体とともに多摩葬祭場で火葬され、遺骨は妻が引き取りました。

横山真人

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1963年10月19日生まれのホーリーネーム:ヴァジラ・ヴァッリィヤこと横山真人元死刑囚は、昭和63年にオウム真理教へ企業を辞めて入信しました。

科学技術省次官として任命されており、地下鉄サリン事件の実行犯となり、実行当日に麻原彰晃氏らは警察を狙うと主張していたのにも関わらず、地下鉄内は普通のサラリーマンばかりなことに疑問を感じ、

実行時に2つのサリン袋のうち1袋のみしか使わずに重傷者は出したものの、横山真人の担当した車両だけ死者を出しませんでした。

その後1995年5月16日に麻原彰晃氏とともに逮捕されますが、警察官からの取調べ時の暴行によって黙秘するようになりました。

2007年7月20日に死刑判決を受け、2018年7月26日に死刑が執行され、実の兄が遺骨を引き取りました。

林泰男

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1957年12月15日生まれのホーリーネーム:ヴァジラチッタ・イシディンナこと林泰男元死刑囚は、古参の幹部の一人で松本サリン事件では噴霧車の製造などに関わりました。

科学技術省次官として任命されており、地下鉄サリン事件では林泰男だけがサリンを3パック所持し、より多くの犠牲者を出しました。

逃亡を続けるも1996年12月3日に沖縄県にて女性信者とともに行動していたところを逮捕されることになり、死刑判決に対して上告するも2008年2月15日に死刑が確定し、2018年7月26日に死刑が執行されることになりました。

豊田亭

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1986年1月23日生まれのホーリーネーム:ヴァジラパーニこと豊田亭元死刑囚は、オウム真理教元幹部の一人です。

科学技術省次官として任命されており、地下鉄サリン事件での実行犯などとして関わり、1995年5月15日に秋川市(現在のあくる野市)で逮捕され2009年11月6日に死刑が確定します。

その後、東京拘置所で2018年7月26日に死刑が執行されました。

また豊田亭氏は麻原彰晃氏らの死刑が執行された後に、匿名で西日本豪雨の被害者救済のための義援金を自身の現金を全額寄付したと豊田亭氏の友人である伊東乾さんが語っていました。

広瀬健一

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1964年6月12日生まれのホーリーネーム:サンジャヤこと広瀬健一元死刑囚は、昭和63年にオウム真理教へ入信し、その後出家した幹部の一人です。

科学技術省次官として任命されており、マインドコントロールをより受けたとされる広瀬健一は、地下鉄サリン事件では実行犯として犯行をおこない、殺人などの罪により1995年5月16日に逮捕されます。

その後2009年11月6日に上告が棄却され死刑が確定し、2018年7月26日に死刑が執行されました。

端本悟

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引用: Pixabay

1967年3月23日生まれのホーリーネーム:ガフヴァ・ラティーリヤこと端本悟元死刑囚は、オウム真理教の元信徒です。

自治省のメンバーで、坂本堤一家殺害事件や地下鉄サリン事件、サリンプラント建設事件などに関わり、地下鉄サリン事件後に恋人の信者らと逃走していましたが、1995年7月9日に埼玉県大宮市(現在のさいたま市)で逮捕されます。

2007年10月26日のニュースでオウム真理教事件4人目の死刑が確定したと報告されており、その後2018年7月26日に死刑が執行されました。

2018年に麻原彰晃の死刑執行

2018年7月6日に麻原彰晃元死刑囚の死刑が執行され、井上嘉浩・遠藤誠一・土谷正実・中川智正・新実智光・早川紀代秀の7名も同日死刑が執行されました。

またその後2018年7月26日に岡崎一明・豊田亨・端本悟・林泰男・広瀬健一・横山真人の6名も死刑が執行されました。

死刑が執行された後、「ひかりの輪」代表の上祐史浩へのインタビューにて、麻原彰晃氏にかつてのような思いは無いと語り、「麻原彰晃氏の死刑が執行されたことで緊張感が少し落ち着くかと率直なところ思いました」と語っていました。

そして麻原彰晃氏は土谷正実氏と一緒に、遺体は9日午前に葬祭場にて火葬されました。

麻原彰晃の最後の様子や言葉

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引用: Pixabay

死刑囚は長い刑期のために精神的に異常をきたしてしまう者も少なくないといい、麻原彰晃氏もまた、精神に異常をきたしている様子だったといいます。

入浴やトイレも一人で出来なくなっていたという麻原彰晃氏は、時折「しょーこーしょーこー」と歌っていたりもしたようです。

麻原彰晃元死刑囚の死刑執行の当日、いつもと同じように起床した麻原彰晃氏は午前7時40分に刑務官に出房を命じられ、教誨室と呼ばれる部屋に入ります。

そして刑務官に死刑執行が決まったことを告げられ、これに麻原彰晃氏は無言で答えます。

その後刑務官に遺体や遺品はどうするか聞かれるも、麻原彰晃氏は呆然として答えませんでした。

刑務官が「妻・次女・三女・四女」と言うと、麻原彰晃氏は「あぁ四女だ」と答え名前を言い、刑務官が最後に確認すると麻原彰晃氏は「ぐふっ」と言葉を発したそうです。

そして麻原彰晃氏は刑が執行される部屋へ、刑務官二人に抱えられながら向かっていったと言われています。

麻原彰晃の遺体の引き取り先は?

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引用: Pixabay

麻原彰晃氏は死刑執行前に遺体の引き取り先を聞かれ、悩んだ後に4女に答えております

麻原彰晃氏の遺体の引き取りに関して妻や三女は反発しており、これをきっかけにオウム真理教(現Aleph)の信者らが遺族間での抗争に発展するのではと公安関係者は警戒を強めていたといいます。

なぜ遺体の引き取りで抗争に発展する可能性があるかというと、信者にとって麻原彰晃元死刑囚の遺体の一部が神の一部になるという証言が出ているためです。

その神の一部である麻原彰晃氏の遺体が後続団体であるアレフや山田らの集団などに渡れば、その遺体のある場所が聖地化し、信者を集め暴徒化する可能性があるとされています。

また4女は麻原彰晃氏の遺体が神格化するのを防ぐために海に散骨するなどと、代理人の弁護士のブログを通じて発信し、その後都内にて11月21日に記者会見にてあらためて記者団の前で語りました。

オウムの後身団体・アレフの現在

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引用: Pixabay

オウム真理教の後続団体である「Aleph」(アレフ)は、2018年7月6日におこなわれた麻原彰晃氏の死刑執行後も、祭壇に元教祖である麻原彰晃氏の写真を掲出しており、麻原彰晃氏の好物だったスイカやメロンなどといった果物を供えているところもあるようです。

アレフは麻原彰晃氏の生誕祭を祝っていたり、麻原彰晃氏が死刑執行前に収監されていたときは聖地巡礼としてその建物の周りをぐるぐると徘徊していたり、信仰心を持ち続け麻原彰晃氏を神格化しているようです。

また現在アレフは教団名を隠しながら巧妙な手口を使い、若者を中心に布教活動をおこなっています。

もう一つの後続団体である「山田らの集団」についても、アレフとは距離をおき活動しながらも、元教祖である麻原彰晃氏に対して絶対的帰依を示し、こちらもアレフ同様に麻原彰晃氏を神格化しているようです。

麻原彰晃とオウム真理教まとめ

榊 八空さん(@eightsky)がシェアした投稿 – 2018年 7月月7日午前6時44分PDT

地下鉄サリン事件という痛ましい事件をおこした麻原彰晃元死刑囚率いるオウム真理教の事件についてまとめていきましたが、今回まとめた内容はほんの一部であり、他にも痛ましい事件を数々引き起こしてきました。

麻原彰晃元死刑囚の生い立ちから調べていくことで、子供のときの出来事が麻原彰晃元死刑囚をこうして危険思想を育み、凶悪犯罪へと駆り立ててしまうきっかけになったようにも感じます。

今現在もオウム真理教の後続団体には、若者を中心に入信者も後をたたない状況だと言われていますが、以前のような道を進まずにまっとうに活動していってくれたらと思います。

公安審査委員会は、オウム真理教に対する観察処分の期間を延長し、2021年1月末まで更新すると発表もあり、今後も警戒していく方針を強めています。

オウムの後続団体である「ひかりの輪」の上祐史浩代表は、麻原彰晃氏の影響力を払拭しようと取り組みもしており、今後は麻原彰晃氏がおこしたような地下鉄サリン事件のような痛ましい事件がおきないことを切に願いたいと思います。