宮崎勤事件の現在!自宅&父親・母親・妹など家族の悲惨な末路まとめ | ToraTora[トラトラ]

みなさまは宮崎勤という人物を知っているでしょうか?

宮崎勤の生い立ちや経歴を見ていきます。

子供たちの命をたくさん奪ってきた凶悪犯、宮崎勤とはいったいどのような人物だったのでしょう?

宮崎勤の幼少期

引用: Pixabay

宮崎勤は、東京都西多摩郡五日市で地域新聞会社を経営している裕福な家庭の長男として、1962年に生まれました。両親は、共働きで多忙なため、30歳くらいの知的障害を持つ男性を住み込みで雇います。

この男性と祖父によって宮崎勤は幼少期を過ごします。祖父は内気な宮崎勤をかわいがっていました。法廷で「犯行に及んだのは祖父を復活させるため」と証言しているところからも、祖父にとても懐いていたようです。

宮崎家は、曾祖父が村会議員、祖父は町会議員を務めた地元の名士です。凶悪犯のほとんどが富裕層で育った人物が多いといわれますが、宮崎勤もその一人です。

宮崎勤は生まれつき手首を回すことができず、掌を上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合」(りょうそくせんていせいとうしゃくこつゆうごうしょう)というとても珍しい病気に罹患していました。

そのため、幼稚園のお遊戯や頂戴ができず、友達ににからかわれたようです。この時の事を宮崎勤は、先生は何の措置もしてくれず、非常につらい思いをしたと言っています。

しかし、両親は手術を受けさせませんでした。当時は日本での症例数が150と少なく、手術を受けても100人に1人が治るかどうかと、治る確率が非常に低い事と、宮崎勤が障害者のレッテルをはられることを嫌いました。

宮崎勤の小学校時代

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@akiorageがシェアした投稿 – 2017年 4月月30日午前8時09分PDT

小学校時代の宮崎勤は、成績は優秀で特に英語と算数が得意で、母親も周囲に自慢していたようです。

人気者というほどではないものの、「怪獣博士」といわれるほどアニメなどに登場する怪獣に詳しく、一目置かれる存在だったようです。

小学校時代の宮崎勤は、比較的うまくいっていたようです。

宮崎勤の中高時代

引用: Pixabay

順調だった小学校時代から、思春期の宮崎勤は徐々に異常性が現れてきます。

中学1、2年の時は陸上部、3年の時は将棋部に所属していました。将棋に負けると異常に悔しがり、攻略本を読みあさり「勝利」に固執していたようです。

また、通信教育で空手を習い、友達に空手の型を見せたこともあるようです。

高校は手の障害のことを気に病んだのか、共学ではなく、片道2時間もかかる明治大学付属中野高等学校の男子校に進学しています。両親は、英語教師になるために選んだ高校だと思っていたようです。

高校時代の宮崎勤は暗く目立たない存在で、成績も下降の一途をたどり、希望していた明治大学への進学も諦めなければいけないほど低かったようです。

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引用: Pixabay

宮崎勤は、東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学しましたが、全く存在感がなく、クラスの誰からも覚えられていませんでした。

同級生だった俳優の川崎麻世さんによると、80人ほどのクラスだったにもかかわらず、誰一人宮崎勤のことを覚えていなかったといいます。

存在の薄かった宮崎勤ですが、パズルを自作することに夢中になり専門誌に投稿して名前が載るなど、興味があるものに対してのエネルギーは強かったようです。

宮崎勤の社会人時代

引用: PAKUTASO

短期大学卒業後、宮崎勤は叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職しています。印刷オペレーターとして働き始めますが、勤務態度も同僚からの評判も非常に悪かったようです。

就職3年後の1986年に神奈川県への転勤を勧められ、これを拒否して自己都合退職しています。その後、両親から家業を手伝うよう言われますが、それに答えず自室の引きこもりが数か月続きます。

引きこもり生活が半年ほど経ったころから家業を手伝いますが、得意先に広告原稿を取りに行く程度の簡単な仕事だったようです。

この頃、宮崎勤は大好きな漫画アニメの同人誌を始めますが、社会性の無い言動から仲間に嫌われ一度だけの発行で終わっています。

同人誌を諦めた宮崎勤はその後、数多くのビデオサークルに加入しています。全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組を複製し、交換や収集しますが所有欲で満足したようで、ほとんど鑑賞はしていないようです。ですが、ここでも他の会員に無理な録画やダビングを注文しては嫌われていたようです。

宮崎勤事件(連続幼女誘拐殺人事件)の概要

引用: PAKUTASO

続いて宮﨑勤が起こした事件、連続幼女誘拐殺人事件の概要をご紹介します。

事件①4歳女児A誘拐殺害

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引用: PAKUTASO

宮崎勤の起こした連続幼女誘拐殺人事件の第一の犯行は、1988年8月22日です。

午後3時過ぎ頃、埼玉県入間市の歩道橋にいた当時4歳のAちゃんに「涼しいところへ行こう」と声をかけて車に乗せて誘拐します。その後午後6時頃に五日市町(現在は東京都あきる野市)の山林でAちゃんを絞殺します。

宮崎勤は、その後死後硬直した遺体に乱暴し、その様子をビデオ撮影しています。

1989年2月6日、宮崎勤はAちゃん宅の玄関前に紙片と骨を入れた段ボールを置いています。これは、宮崎勤が、Aちゃんの遺体を自宅に持ち帰り、裏庭で頭蓋骨を破砕し家具などと一緒に焼いたうえで、<○○(Aちゃんの名前)遺骨 焼 証明 鑑定>と書かれた紙片と共に段ボールに入れてAちゃん宅に届けたものです。

そして、2月10日に朝日新聞東京本社宛に「今田勇子」という名前で犯行声明を送っています。翌日Aちゃん宅にも同じものを送っています。

この犯行声明文は「今田勇子」という名の子供が産めない女性を装って書かれています。とても長いので、一部を以下に記します。

犯行声明

Aちゃん宅へ 遺骨入り段ボールを置いたのは、この私です。

この、Aちゃん一件に関しては、最初から最後まで私一人がしたことです。

私がここに、こうして真実を述べるのには、理由があるからです。

まず、あの段ボールに入った骨は、明らかにAちゃんの骨です。

その証かしを立てます。まず、どうやって連れ去ったかを述べましょう・・・

<中略>

あの骨は、本当にAちゃんなのですよ。

https://www.houdoukyoku.jp/posts/19303ホウドウキョクより引用

以上が、宮崎勤が「今田勇子」の名で書いた犯行声明の一部です。

そして、Aちゃんの葬儀が行われた3月11日に、宮崎勤は「今田勇子」の名で告白文を、また朝日新聞本社とAちゃんの宅に送っています。

以下が、告白文の一部です。

告白文 御葬式をあげて下さるとのことで、本当に有難うございました。 御陰様で、私の子、共々、やっと「お墓」に葬ってやれることができました。 〈中略〉 私は、神に斗いを挑まなくてはなりません。 神に対し、「15年は捕まりたくない」といウ「願い」をぶっつけて、「私の会いたい子供に私は会いたい」という「望み」を死守するつもりでおります。

人間が、神と斗う術は、それしかありません

https://www.houdoukyoku.jp/posts/19303ホウドウキョクより引用

宮崎勤は、被害者遺族の気持ちを逆なでするような告白文を送っています。

15年は、この事件の当時の時効です。逃げきる自信があったようです。

事件②7歳女児B誘拐殺害

宮崎勤は、第一の犯行の1ヶ月余り経った10月3日に第二の犯行に及んでいます。

第一の犯行と同じ時間帯に、同様の手口で、当時7歳のBちゃんを埼玉県飯能市の路上で誘拐し、午後5時頃に五日市町の山林で絞殺しています。

宮崎勤は、Bちゃん殺害後すぐに暴行していますが、この時わずかに息があったようで足が痙攣していたことを後に証言しています。

事件③4歳女児C誘拐殺害

宮崎勤が第三の犯行に及んだのは、Bちゃん殺害の約2ヶ月後の12月9日です。

午後4時半頃、川越市にいた当時4歳のCちゃんに声をかけ車に乗せて誘拐しました。

その後、宮崎勤は名栗村(現・飯能市)にある県立少年自然の家に連れて行き、全裸にして写真を撮りましたが、Cちゃんが泣き止まなかったため午後7時に山林で殺害しました。Cちゃんが失禁し焦ったのか、そのまま山林に投げ捨てました。

12月13日に県立少年自然の家の職員がCちゃんがの衣服を見つけ、2日後裸のCちゃんの遺体が発見されます。

事件④5歳女児誘拐殺害

引用: PAKUTASO

Cちゃん殺害の約半年後の1989年6月6日、宮崎勤は東京都江東区東雲に住む当時5歳のDちゃんの犯行に及びます。6日の午後6時頃に、これまでと同様にDちゃんに声をかけて車に乗せ、近くの駐車場で誘拐後の約20分後に絞殺します。

宮崎勤は、Dちゃんの遺体を自宅に運び乱暴する様子をビデオで撮影しています。2日後の6月8日に遺体をノコギリでバラバラに切断した後10日に埼玉県飯能市の宮沢湖霊園や五日市の山林に遺棄しています。

事件⑤八王子姉妹わいせつ事件

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宮崎勤は、Dちゃん犯行の翌月7月23日に東京都八王子市で幼い姉妹を狙ったわいせつ事件を起こします。妹を全裸にして写真撮影していたところ逃げた姉が父親に通報したことで、宮崎勤は父親に取り押さえられ強制わいせつ容疑で現行犯逮捕されました。

この時被害者の父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と宮崎勤を叱責していますが、後に犯人本人と分かり愕然としたと当時のマスコミの取材でこたえています。

宮崎勤は、8月9日から連続幼女誘拐殺人事件への関与を認め、翌日供述通りに遺体が発見されます。11日連続幼女誘拐殺人事件の容疑で再逮捕され、以後次々と事件が明るみになっていきます。

宮崎勤の犯行動機や精神状態

引用: PAKUTASO

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、宮崎勤本人の供述も「犯行は醒めない夢の中でやった」「ネズミ人間が現れた」「犯行は死んだ祖父を復活させるための儀式」など意味不明で要領を得ない言動が多いことから、裁判でも動機の完全な特定には至っていません。

数人の精神科医、臨床心理学者、鑑定士による精神鑑定が数回行われています。その結果、統合失調症(当時は精神分裂症)と解離性同一性障害というもので、人格障害はあるが責任能力は保たれているということです。

鑑定の医師たちによると、宮崎勤は本来的な小児性愛者ではなく成人を諦め代替的に幼女を狙ったということのようです。

宮崎勤は幼い頃から手の障害のせいでつらい思いをしていたため、うまくいかない事は全て「手」のせいにしていたらしいことと、そのコンプレックスで半ば自暴自棄になっていたことが関係しているのかもしれません。

結局、これという決定的な動機は本当のところ分からないということのようです。ただ、事件を起こす約3ヶ月前に自分を愛してくれた祖父が急逝したことも、関係ないとは言えないかも知れません。

宮崎勤事件に対する世間の声

引用: PAKUTASO

宮崎勤逮捕後、自室の写真が公開され宮崎勤が暴力的や猟奇的なビデオや漫画を多数所持していたことから、マスコミの一部がそれらの悪影響を訴える事態に発展しました。

現在では、宮崎勤の部屋の写真はカメラマンに改ざんされたものであることは、広く知られていますが30年前の当時は報道されたもの全て鵜呑みにしていたように思います。

宮崎勤がオタク、ロリコン、ホラーマニアという事が報道されると、<ビデオマニア=虚構と現実が区別つかない><アニメ好き=いつまでも未熟で大人になれない>など、趣味嗜好を異常な人格と結び付けて、それらをあたかも犯罪予備軍のように扱う風潮が巻き起こります。

また、宮崎勤事件をキッカケに、小児に性衝動を覚えるペドフェリア嗜好の存在が世間に広く知れ渡り、保護者たちは嫌悪感と恐怖を抱きます。

テレビでも、児童の裸や下着姿が画面に映ることは避けられるようになります。それは現在もそう感じます。

宮崎勤の家族・親戚の悲惨な末路

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母親・父親への嫌がらせが多発

世間の宮崎勤への憎悪は、そのまま家族へと向かい、「お前たちも死ね」などの嫌がらせの手紙が殺到したようです。

姉妹は婚約破棄や自主退学

宮崎勤には2人の妹がいましたが、すぐ下の妹は結婚直前でしたが婚約を破棄し職場も退職しています。一番下の妹は看護学校を自主退学しています。

父方の叔父は離婚・辞職など

宮崎勤の父親には兄弟が2人いますが、2人とも辞職しています。宮崎を名乗らずにすむように離婚をして子供とも離れ離れになりました。

母方の従兄弟は公務員を辞職

母方の従兄弟たちも、警察官と高校教師を辞職しています。

家族は1年後に転居

嫌がらせが毎日のようにあり、暮らす事が出来なくなり、1年後に引っ越しをせざるを得ない状態だったようです。

父親は4年後に飛び降り自殺

父親は事件の4年後1994年に自宅を売り、その代金を被害者遺族に支払う段取りをつけると、多摩川にかかる神代橋から投身自殺をしています。

宮崎勤の自宅や実家が特定!

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宮崎勤が連続幼女誘拐殺人事件を起こし逮捕されるまで住んでいた自宅は、現在の東京都あきる野市小和田です。

宮崎勤の逮捕後、公開された写真の部屋は自宅の離れだったようです。

この自宅の敷地で犯行の一部が行われたことから、現在自宅は壊されて砂利が敷き詰められ空き地になっているようです。

その空き地の管理は、現在は自治会関係者が管理しているようです。そして、地域のための駐車場や盆踊りなどに利用されているようです。

宮崎勤の死刑執行の様子

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最期の様子や遺言は?

宮崎勤は最期まで遺族に対して謝罪や反省の言葉はありませんでした。死刑が執行される直前も鑑賞途中のDVDのことを気にかけていたようです。

遺体の引き取り先は?

宮崎勤の死刑執行後、東京拘置所で遺体を回収するようアナウンスされていましたが、母親は後片付けをすべて東京拘置所に任せ受け取りを拒否しています。

死刑囚の家族のほとんどがひきとりを拒否しているということなので、宮崎勤の場合も異例ではないかも知れません。母親が拒否したなら、東京拘置所の行政区の墓地に無縁仏として付されたのかも知れません。

被害者遺族の反応は?

被害者の遺族の報道は、特異すぎる事件のため遺族への配慮からなのか当時から現在まで全くありません。

宮崎勤事件の概要まとめ

引用: Pixabay

宮崎勤事件は、1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて東京北西部と埼玉南西部で幼女4人が相次いで誘拐され殺害された連続幼女誘拐殺人事件です。

宮崎勤が被疑者として逮捕、起訴されました。宮崎勤は一貫して無罪を主張しましたが2008年に死刑執行されています。

宮崎勤が起こした連続幼女誘拐殺人事件は、被害者が全て4歳から7歳という低年齢ということや、被害者の一部を野焼きし骨を被害者の自宅へ届ける、犯行声明を新聞社や被害者の自宅へ送りつけるなど、極めて特異な事件のため日本犯罪史上初めて犯罪プロファイリングの導入が検討されました。

宮崎勤の逮捕は別件の幼女わいせつ事件で、幼女を裸にして写真を撮影している最中に被害者の姉が父親に通報し、その父親に取り押さえられて八王子警察署に現行犯逮捕されています。そして取り調べの中で次々と連続幼女誘拐殺人事件の関与を認める供述を始めます。

警察側は、家宅捜索で宮崎勤が自室に所有していた6000本近いビデオテープを、70名余りの捜査員と50台のビデオデッキを動員して2週間の捜査で、被害者幼女を殺害後に撮影したとみられる映像を発見します。

宮崎勤の部屋の写真もカメラマンによって改ざんされていたということは、現在では多く知れ渡っていますが、それでも一度植え付けられた情報はなかなか修正できるものではないようです。

引用: Pixabay

30年経った現在でも、60歳以上の年配の中にはロリコンやホラーマニアを犯罪予備軍のように扱う人が少なくないのは現状ですし、オタク文化がビジネスとして確立している現在でも、偏見を持っている人がまだ皆無ではありません。

裁判中に宮崎勤は「ネズミ人間が現れた」「犯行は覚めない夢の中でやった」など不可解な言動を繰り返し、精神鑑定を受けますが、責任能力はあるとの結果がでて、1997年に死刑判決がでます。

その後、控訴するも棄却、上告するも棄却を経て、2006年1月に死刑が確定します。そして2008年6月に死刑執行されました。

死刑が確定して執行されるまでの平均が7年あまりという中、2年という異例のはやさだったのは、宮崎勤事件の特異性を表しているように思います。

宮崎勤は、最期まで被害者遺族に謝罪や反省のことばはありませんでした。

被害者遺族の現在はどうしているのか全く分かっていません。宮崎勤のことに関わりたくないかも知れません。少しでも穏やかに過ごしていてほしいと祈るばかりです。

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