内ゲバとは?意味をわかりやすく解説!左翼党派による殺人事件まとめ!

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内ゲバとは?

引用: Pixabay

みなさんは内ゲバを知っていますか?内ゲバとは内部ゲバルトの略で、ゲバルトとはドイツ語で【威力、暴力】という意味です。

一般的には左翼と左翼党派内の暴力的革命を意味し、学生運動や新左翼党派を主とします。

同じ革命思想を持つ左翼陣営でありながら対立をし党派別に暴力行為をするのが内ゲバです。

日本では1950年頃に日本共産党が国際派と所感派に分かれて学生運動でテロやリンチをしたのが内ゲバの始まりだと言われています。

1960年代頃から1970年代頃の高度経済成長期に盛んになりました。

内ゲバによる死者は100人以上いると言われ、負傷者は数千人いると言われています。

1970年代では襲撃による報復の事件も目立ちました。攻撃したら攻撃し返されるのです。

ちなみに、国家権力や機動隊に対するゲバは外ゲバ。完全に内部の身内同士によるゲバは内内ゲバとも呼ばれます。

今回はその中でも内ゲバの意味や事件をまとめて紹介していきたいと思います。

それでは早速まとめを見ていきましょう。

 

内ゲバが生まれた時代背景は?

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1950年頃学生運動が生まれました。学生運動とは大正デモクラシーの時期に始まり、戦後に大学生を主に浪人生、高校生を巻き込んで盛んとなった政治的運動です。

大正デモクラシーとは1910年代から1920年代にかけて起こった文化、政治、社会における運動、風潮の事です。

彼らは活動家と呼ばれサークルや、自治会を拠点にし、ビラ配りや立て看板を作成したり、学校の休み時間に演説をしたりととてもエネルギッシュな集団活動でした。

そのエネルギーが爆発し周りを巻き込んでエスカレートしてデモや集団ボイコットやストライキを繰り返すようになります。

そのため、学生たちが世の中を良くしているという意識を持つ者や、若者のエネルギッシュな活動だと感心する者も多く居たと思われます。

第一次世界大戦の終わり、大正デモクラシーの時期に生まれた学生運動ですが、第二次世界大戦の時に一時的に解体されます。

その後第二次世界大戦が終わり、大学生達が大学に戻るとまた学生運動が再開されます。

1960年代学生運動は全盛期であり、一番死者、負傷者が出るような大きな運動がありました。ここからは学生運動を紹介していきます。

 

安保闘争


 

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1951年9月8日、日本はアメリカにあるサンフランシスコで「サンフランシスコ平和条約」を結びます。

サンフランシスコ平和条約とはサンフランシスコにて結ばれた日本と連合諸国による戦争を終結させる平和条約のことです。

その後1960年1月に日米安全保障条約の改定が行われ、

旧条約では「日本にアメリカの米軍基地を置く場所を提供する」という条約だったのですが、

改定され、「日本とアメリカがお互いの国を守っていく」という条約に変わったため、

「日本が戦争に巻き込まれてしまう!」と、この条約に反対する運動が起こります。

世界各地でも中国、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリアなどで大規模な闘争の興奮があり、日本でもそれを受け、闘争に発展していく傾向がみられました。

第二次世界大戦直後であったため、民衆の反戦争の意識が強く反安保の活動は盛んになったようです。

勢力の強くなった左翼側を抑えるため右翼・暴力団の闘争が発起し、死者が出たことから左翼側が暴徒化しました。

 

全共闘運動


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1968年頃、日本の各大学でのデモが盛んになりました。中でも特に、東大全共闘・日大の全共闘が有名です。

各大学でのデモは学部を超えた全共闘運動となっていきました。

「大学解体」や「自己否定」をスローガンとし、実力行使を行うためヘルメットやゲバルト棒と呼ばれる角材を持った姿が印象的です。

この運動によりほとんどの大学は闘争状態となりました。

 

東大紛争・東大安田講堂事件

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1960年代の後期、東大医学部はインターン制度廃止など研修医に対する待遇改善を求め、無期限ストライキに突入します。

学生と医局員の衝突が起きると、大学側が研修医、学生17名を処分。

しかし、その中の1名が誤認処分だということが判明します。

これに学生側は大学当局に処分撤回を求めますが大学側は一歩も譲らず、紛争は停滞します。

1969年1月18日・19日に全共闘がバリケード封鎖している東大本郷安田講堂に8500人の機動隊が攻撃をし、72時間におよぶ闘争が起こりました。

高度成長期の中、学費の値上げ、学生民主化が問題になっていました。

特にこれに反対したのが東大の医学部です。

東大医学部のストライキにより、安田講堂が封鎖され1月18日、1月19日の二日間機動隊との戦闘になりました。

これを東大安田講堂事件といいます。その後東大全共闘の運動は収束に向かっていきます。

東大紛争、安田講堂事件では767人が逮捕され、616人が起訴され、

一審判決で133人に実刑判決400人超が執行猶予付きの有罪判決、無罪判決が12人になりました。

 

1990年代から2000年代の学生運動

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1990年代から2000年代は2008年に起きた内定切り、派遣切り、リーマンショックなどに対するデモや就職活動抗議デモなど若年層がデモに参加する動きが見られます。

しかし、これまでの学生運動は下火になりつつあります。

法政大学学生運動の一斉検挙により学生110人以上が逮捕されましたが法政大学のデモは2010年代でも他の大学より盛んだとメディアに取り上げられる事もたびたびあります。

 

日本飛行機専務宅放火殺人事件

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1990年4月12日の午前2時50分頃、神奈川県の日本飛行機専務宅に時限式発火装置が仕掛けられ専務は物音を察知し、逃げられたものの専務の妻は逃げ遅れ遺体となって発見されました。時限式発火装置は、風呂場脇と勝手口に仕掛けられ逃げ道をふさぐ形に仕掛けられていました。

後に中核派が犯行声明をだし、中核派のテロ事件だと判明しました。

 

外務省審議官実父宅放火殺人事件

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1991年9月4日午前5時頃、東京都大田区で元千葉工学大学講師の家が全焼し、就寝していた元講師と妻が全身やけどで重傷を負う事件が発生。

9月27日、元塾講師は多臓器不全で死亡、妻も翌年敗血症と肺炎で亡くなりました。

この事件は、家の一番燃えやすいところに時限発火装置が設置され、さらに毛布やボロ布でコーティングされ、とても燃えやすいようにされていました。

しかし、この事件は誤爆であり何の関係もない家に仕掛けられてしまった事件でした。

後に中核派が起こした事件だと判明しましたが、証拠が不十分であったため、2006年9月に時効が成立しました。

 

2010年代以降の学生運動

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全盛期と比べると衰退している学生運動。脱原発や特定秘密保護法反対デモ、集団的自衛権、安保法案反対デモが行われています。

法政大学のデモもメディアに取り上げられたりと少なからずあるようです。国民に不安を与えるような法案が出来ればそれに反対する団体も出てきます。

これからも左翼のデモは法案と隣り合わせになるでしょう。

 

内ゲバの意味をわかりやすく解説!

 

左翼とは

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左翼とはフランス革命時代に生まれた言葉で「より平等な社会を社会変革する層」を指します。

社会的主義的、共産主義的、簡単に言えば社会をより良くするために変革、改革する集団のことを言います。

逆に対義語である右翼は保守的、伝統的を重んじる集団と言えます。今回は左翼の内ゲバについてまとめていきます。

 

新左翼とは

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新左翼とは、権力にしがみ付いている集団を既成左翼と呼んだときに、暴力による革命を起こしている集団を新左翼と呼びます。

日本の他にもイスラエル、ドイツ、イタリア、フランス、アメリカでの活動も行われていました。

マルクス主義、社会主義運動を批判し新たな左翼革命運動の創造をめざす全世界的な運動を指します。

 

内ゲバは内部分裂

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内ゲバとは内部ゲバルトの事です。新左翼の同じ党派でありながら、暴力や覇権争いのために違う党派集団同士が暴力行為や殺人を行うことを指します。

1950年に日本共産党が所感派と国際派に分かれお互いリンチやテロを行うのが始まりだといわれています。

 

所感派、国際派って何?

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所感派は、日本共産党が内部分裂した際に暴力革命を推進している集団です。その暴力行為により支持を失っていくことになりました。

国際派は、国際共産主義の共産主義インターナショナルの指令に忠実な派を国際派といいます。

 

赤軍、革命左派とは

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赤軍とは共産主義者同盟赤軍派のことで、後の日本赤軍や連合赤軍の母体となりました。

よど号ハイジャック事件や大菩薩峠事件などを引き起こした過激派集団です。

大菩薩峠事件とは鉄パイプ、刃物、火炎瓶などを装備した赤軍ら8つの部隊が大型ダンプカーで警視庁や首相官邸を襲撃するという企てで、

山梨県の大菩薩峠にある「福ちゃん荘」に潜伏し武装訓練を行おうとした事件です。凶器準備集合罪で53名が現行犯逮捕されました。

よど号ハイジャック事件は羽田空港発福岡空港行きの日本航空351便ボーイング727-89型機、通称よど号が赤軍派9人によってハイジャックされた事件です。

犯人たちは北朝鮮に亡命しそのうち3名は北朝鮮にて死亡し、2人は日本に戻った後死亡し、4人は現在でも北朝鮮にいるそうです。

革命左派とは、日本共産党革命左派神奈川県常任委員会の略でこちらも鉄砲店を襲撃し武装するなど過激派集団です。

後にこの赤軍と革命左派は合流し連合赤軍へとなっていきました。

 

連合赤軍とは

連合赤軍とは赤軍派と革命左派が合体したものです。

連合赤軍は過激派として有名で拳銃やライフル銃を盗み、山岳ベース事件、あさま山荘事件などの凄惨な内ゲバ殺人事件を引き起こしました。

 

革マル派、中核派とは?

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革マル派と中核派は現在でも左翼を調べていると出てきやすいワードだと思います。

革マル派とは、日本革命的共産主義者マルクス主義派の略で革マル派と呼ばれています。

マルクス主義とは労働者が資本を増殖するためだけに生きるという労働の悲惨さを廃止して階級のない社会を目指す主義という意味です。

1962年の革共同第三次分裂により結成されました。マスコミは革マル派を過激派と呼びます。

中核派とは、革命的共産主義者同盟全国委員会のことを通称中核派のことです。

この革マル派と中核派の内ゲバはとても事例が多く有名な内ゲバです。

 

内ゲバの活動内容まとめ!

 

ビラ配り

引用: PAKUTASO

現在でも大学や街頭などでビラを配る新左翼の人がいるようです。しかし、大学、街頭でのビラ配りは禁止されているところも多いです。

発見された場合撤収させられる事も。

 

立て看板

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立て看板を持って訴えます。デモ行進や集会などで使われます。立て看板とヘルメットにゲバルト棒が左翼の内ゲバの定番です。

また、紙やダンボールで出来た看板を掲げたりもします。

 

集会

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定期的に大規模、小規模な集会を開きデモ活動をする若者の活動です。今現在でも小規模な集会が開かれているようです。

 

内ゲバは過激派集団?

 

1970年頃までは良いイメージ?

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1970年までは学生のエネルギッシュな活動として良いイメージもあったという左翼派。しかし、デモや暴力行為によりだんだん支持者が減っていきます。

 

1970年以降殺し合いに発展していく

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1970年以降には暴力行為がエスカレートし、殺し合いに発展していき殺人事件も数々起こります。

有名なのが連合赤軍による山岳ベース事件、あさま山荘事件です。こちらの事件は後に記述します。

 

衰退していく

引用: Pixabay

そして衰退の一途をたどることになります。

この事から殺し合いに発展していかなければ若者のちょっと行き過ぎたエネルギッシュな活動と思われることもあったでしょう。

 

内ゲバが起こした殺人事件まとめ

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ここからは左翼集団による内ゲバによる殺人事件をまとめていきます。

まずは昭和の犯罪史に残る山岳ベース事件、あさま山荘事件などの70年代の内ゲバ事件を見ていきます。

 

【1】連合赤軍山岳ベース事件

山岳ベース事件とは、1971年から1972年に起こった連合赤軍の内ゲバ殺人事件の一つです。

連合赤軍とは過激集団赤軍派と革命左派が合体した集団です。

1971年赤軍派は金融機関襲撃により資金を得、革命左派は鉄砲店を襲撃し拳銃やライフル銃、約3500弾ほどの弾丸を手に入れました。

赤軍派は資金はあるが武器は無い、革命左派は武器はあるが資金が無い状態だったため二つのグループの利害は一致し、連合赤軍として行動を共にすることになりました。

合体した二つの派閥は相手のグループより優位に立つため、リーダー同志の権力争いが激しかったといいます。

例えば、革命左派が山岳ベースに合流した際に水筒を忘れたのを赤軍派に激しく批判されたり、

赤軍派の女性メンバーが化粧や常に身だしなみを整えていたのを革命左派リーダー永田洋子が発見し、革命を起こすにはチャラチャラし過ぎていると、赤軍派森恒夫に訴えたものの相手の女性に伝わることが無かったといったようにお互いがお互いになめられたりしないように意見していました。

連合赤軍は「連合」としながらも革命左派と赤軍派が一緒にいるというだけで特に仲間意識があるわけでもないようでした。

革命左派はテロを行ったメンバーが多数いた為、都市部での活動が制限されて山岳を中心に、赤軍派も革命左派と合流するために山岳を中心として行動するようになりました。

この時メンバーは若い男女、夫婦、妊婦、子連れがいました。

そのうち連合赤軍は軍事練習を共にしていくうちに「総括」を行うようになります。

総括とは自らの行いを振り返る行為としていました。総括はメンバーを批判する行為、自己批判をする行為をいい、それがだんだんエスカレートしていき、

総括と称して集団リンチをしました。集団リンチは長時間の正座、食事を与えないなど拷問と化していき妊婦さえも犠牲となりました。

この総括について赤軍リーダーの森恒夫は、「この暴行は総括に集中させるため」だと言い、リンチの後に「目が覚めたら別の人格に生まれ変わり、共産主義化された革命戦士になれる」と言った。リンチにより死亡した場合は「総括できなかった敗北者」だとのこと。

この総括としての集団リンチで29人のメンバー中12人が死亡しました。そのうち2名は山岳ベースを脱走し、処刑として殺害されました。

この処刑に関しては永田洋子率いる革命左派メンバーが行い、赤軍派の森恒夫はそれに対して「もはや革命派ではない」といいました。

連合赤軍はその後も居場所がバレないように関東各地の山岳ベースを転々と移動して行きます。

この後両派閥のリーダー、赤軍派森恒夫、革命左派永田洋子らが逮捕され、他メンバー数人も逮捕されたところで最後の残りのメンバーが起こしたのが、次に紹介するあさま山荘事件となります。

 

【2】あさま山荘事件

あさま山荘事件は内ゲバではありませんが紹介します。

昭和の犯罪史に残る事件です。テレビ中継もされ、視聴率がとても高く日本中が固唾を呑んだ中継でした。

1972年2月19日から28日、山岳ベース事件の残りの連合赤軍のメンバーがあさま山荘で管理人の妻を人質に取り立てこもりをした事件をあさま山荘事件といいます。

2月19日正午、軽井沢の無人のさつき荘に侵入し、歯磨きや体を拭き、昼食にマカロニを食べていたところ、連合赤軍を捜索していた長野県警機動隊に見つかり

ライフルで威嚇射撃をしつつ裏口から逃亡。自動車がある家を捜し浅間山荘にたどり着きます。

そこで連合赤軍は管理人の妻を発見し、「騒いだり、逃げたりしなければ危害を加えない」と言いました。

「自動車のカギは外出している管理人が持っている」と言ったため、(実際は玄関にカギがあった)管理人の妻を人質にとり、立てこもりを始めました。

警察は人員が不足していること、人質をとられていること、まだ連合赤軍のメンバーがあさま山荘外から来るかもしれないとの考えとで突入できず、説得を繰り返しました。

連合赤軍はその間あさま山荘にバリケードを築いていきました。

朝食後犯人グループ3人で相談し、人質を逃走するために使おうと持ち掛けましたが、人質には「人質にするつもりはない。助けを求めた山荘の人」だという説明をしていたため逃走のために人質は使いませんでした。

また、最初は口にハンカチを咥えさせられていた人質は、山岳ベース事件の総括されたメンバー達を彷彿とさせた為縄を解かれました。

山荘には備蓄用の食料が20日分あったため、籠城することを決断。

人質とは一緒にご飯を食べたり、少しの雑談をしたりと、助けを求めた山荘の管理人の人として扱われていたようです。

犯人たちは人質を取っても何も要求せず、不気味なほど静かな立てこもりでした。

銃撃戦では警察官ら3人が死亡しました。

その後犯人は3階、人質は2階にいるものだと警察が判断をし、鉄球で外から2階と3階の階段を破壊し突入。

しかし、その読みは違い全員が3階にいたため、山荘を知り尽くしている犯人たちの爆弾攻撃に多数の機動隊が重軽傷を負いました。

この事件では全員が逮捕され、赤軍リーダーの森恒夫は獄中自殺し、革命左派のリーダー永田洋子は服役中に病死。

現在ではまだ服役している者や、刑期を終えた受刑者たちもいます。

ここからは左翼の内ゲバの殺人事件をみていきましょう。

 

【3】東京教育大学生リンチ殺人事件(海老原事件)

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1970年8月3日午後3時頃、革マル派の被害者の海老原俊夫さんが中核派の拠点地である池袋駅でビラを配っていたところ、中核派の数十人に突然囲まれ、リンチを受け、「中核派」と書かれたヘルメットと顔にタオルを巻かれ、あたかも中核派のデモ行進のように法政大学まで拉致され罵声を浴びせられながら殴る蹴るの暴行を受け、殺害されました。

犯人は23人に逮捕状が。うち中核派全学連委員長で横浜国立大生の金山、中核派全学連元執行委員でリンチ殺人を直接指揮した法大生の玉田ら5名が逮捕されました。

この事件以前は殺人に至るほどの事件というものはありませんでした。しかしこの事件の後、8月14日に革マル派が報復として中核派を襲撃し、10人ほどの中核派に重軽傷を負わせました。この事件以降両左翼内の内ゲバは活発化し、殺し合うようになりました。

しかし、この事件により学生運動が衰退していくことになります。

 

【4】関西大学構内内ゲバ殺人事件

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1971年12月4日、大阪市吹田市で革マル派が中核派2名を鉄パイプで撲殺した事件です。

1971年12月3日、関西大学の授業料値上げに反対して革マル派関西共闘会議は「突撃派」を編成しました。

1971年12月4日革マル派は関西大学で突撃隊の警備の元、ビラ配りやステッカーを貼ったりしているところに中核派が襲撃。

突撃隊の応戦したところ中核派のほとんどは撤退しましたが遅れた二名が中核派の鉄パイプの犠牲となりました。

 

【5】川口大三郎事件

1972年11月8日、早稲田大学を牛耳っていた革マル派が同大学学生の川口大三郎を中核派と誤解して8時間リンチの上殺害し、東京大学前にその遺体を遺棄しました。

川口大三郎はもともと革マル派でしたが革マル派に絶望し、中核派の集会に参加するも中核派に絶望しました。

中核派の集会に参加したことから革マル派に中核派だと誤解されリンチの上殺害されました。

この頃他派閥と革マル派、中核派はお互いの組織を破壊目的の殺し合いをしていくこととなりました。

こういった内ゲバからだんだんと学生の支持を失っていきました。どんどん自滅していきます。

 

【6】川崎市女子職員内ゲバ殺人事件

1975年3月27日午後4時40分頃、神奈川県川崎市役所の裏で市役所裏に呼び出された市役所の職員の女性が男3人組に鉄パイプで頭を打たれ殺害されました。

女性が殺害される事件はこれが初めてだったそうです。

3人組の犯人のうち1人はその場で身柄が抑えられ現行犯逮捕されました。

しかし、男は黙秘をしたため捜査は難航し結局情報提供のビラを配ったところ犯人の実兄が名乗り出て、身柄が判明しました。

 

【7】中核派書記長内ゲバ殺人事件

1975年3月14日未明、本多延嘉が住んでいた自宅アパートに革マル派のメンバー十数人が乱入し、寝ていた本多を鉄パイプなどで全身を打ち、致命傷を与えて殺害しました。

家を隠していた本多の居場所が判明したのは、革マル派のメンバーが本多の家族を尾行したからでした。

この事件で、最高幹部を革マル派に殺害された中核派は、革マル派の構成員を次々殺害する事件を引き起こしていくこととなりました。

 

【8】革労協書記長内ゲバ殺人事件

1977年2月11日午後7時25分頃、茨城県取手市の国鉄常盤線取手駅西口前で革マル派が革労協書記長が乗った車を取り囲み書記長を鉄パイプで殴り逃走。

革労協書記長は病院に運ばれましたが死亡しました。

革マル派はこの事件を受け報復を宣言しこれが後の浦和車両放火内ゲバ殺人事件を引き起こします。

 

【9】浦和車両放火内ゲバ殺人事件

革労協書記長内ゲバ殺人事件から4か月後。

1977年4月15日午後9時5分、埼玉県浦和市で革マル派のワゴン車が前後を革労協のトラックに挟まれ、ワゴン車のドアを開かないように細工した上、窓からガソリンを注ぎ火をつけて革マル派4人を殺害する事件が起きました。

犯人は逃走しました。

 

【10】革労協元幹部内ゲバ殺人事件

この事件は内内ゲバ事件となります。内内ゲバとは、同じ派閥同士での暴力事件です。

1989年6月25日5時30分頃埼玉県川口市の革労協の男性がアパートで黒ヘルメット姿の男に拉致され自宅アパートから40キロメートルほど離れた茨城県牛久市のトンネルでビニールシートに包まれた状態で撲殺遺体となって発見されました。

その姿はとても損傷がひどく、顔も判断出来ないため指紋を採取してようやく身元が判明しました。

6月28日、革労協は殺された男性がすべて悪いとし、リンチや拉致は認めたものの殺意は無かったと殺意は認めませんでした。

 

内ゲバの終焉

 

自滅していく新左翼

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内ゲバを繰り返し行ってきた新左翼。日本が裕福になったというのもあってかどんどん自滅していきます。

学生運動が盛んだったのはもう40年ほども前。現在は革命を起こそうとする集団も少なくなりました。

 

高齢化による衰退

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学生運動が盛んだったのは40年ほども前となり、新左翼のメンバーも当時は全国に数万人居たと言われていますが現在では

全国に3000人ほどになったといわれています。

最近話題になるのは中核派の話ばかりです。中核派は現在は脱原発や反安全保障条約、憲法改正環境問題などの運動を行っています。

しかし、あまりテレビでは話題になりません。

年齢層も当時の学生は60代から70代が主体になり高齢化しました。高齢化すると家族も出来ますし、体も若い頃とくらべ思うように動かなくなり、

デモに参加することが出来なくなりました。

 

日本の若者の意欲の衰退

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現在の若者は学生運動の頃のような意欲がありません。どうせ自分が何をしても変わらないという諦めや、

学生運動や宗教などの偏った思想に傾倒するのを避けるようになりました。暴動を起こすのは周りに迷惑をかけてしまう、迷惑かけられるのは嫌だ。という思いもあり自分から行動する人は減少しています。

また、暴力行為に対する嫌悪、殺人に関わりたくないという思いもあります。

最近ではみんながみんな同じように個性を消した教育が行われており、幼稚園や小学校では同じ絵を同じように書かないと認めてもらえないなどという教育をされています。

今日本の社会では多様化を認めない性質が働いており、少人数では学生運動を起こそうなどどいう気持ちも無いものだと思います。

しかし、もし全員が全員テロ行為を行うとしたらそれに従う人たちは逆に多くなるのかもしれません。

 

内ゲバの現在

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新左翼による内ゲバ事件まとめ、いかがでしたか?

昭和史に残る凄惨な事件から、あまり報道されていない事件もまとめてみました。これ以外にも殺人までには至らない内ゲバ事件は数えきれないほど起きています。

現在でも小規模なデモ行進や大学などでの暴力的な革命は行われています。

例えば、今の学生運動で有名なのは「SEALDs(シールズ)琉球」ではないでしょうか。

「SEALDs」とは、自由と民主主義のための学生緊急行動(Students Emergency Action for Liberal Democracy – s)の頭文字をとって「SEALDs」と言います。

2015年、2015年5月から2016年8月まで活動していた学生活動団体SEALDS でしたが、SEALDs琉球を残し、新団体「未来のための公共」となりました。

1960年代から1970年代に起きた学生運動の21世紀バージョンと言われています。

昭和の時代の新左翼のように暴力による革命は現時点では起こしていません。

LINE、twitter、フェイスブックなどを使った活動を行ったり、デモはフェスのような雰囲気で現代の学生たちがデモに参加しやすいようにしたと言われています。

毎週集会を行いラップを用いた演説を行っていたようです。

「SEALDs琉球」や「未来のための公共」は左翼も右翼も無く、メンバー内でも護憲派がいたり、改憲派がいたりと社会主義であるならば集まろうという団体のようです。

この様々な在り様はとても現代らしいといえます。スマートフォンを使った日本中での活動は昭和の時代ではなく平成から令和のこの現代だからできることなのでしょう。

自分が社会主義だと主張するのは自由なので悪いことでは無いのですが人数が集まり常識から逸脱してしまうと何が起こるかわからないところがあります。

現在は香港のデモが話題になっています。昔の日本の学生運動はこんな形だったのかもしれません。

あまり過激にならないことを願うばかりです。

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