【日本で最も残虐な事件のひとつ「栃木リンチ殺人 」の裏の真実があまりにも酷すぎる】
日本で最も残虐と言われる事件「栃木リンチ殺人」。
1999年に起きたこの事件の真相とは続き
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近年、少年犯罪は増加の一途を辿り、またその事件性も罪の軽いものから重いものまでと様々な艇を擁しています。その傾向も時代によって変化しており、随所に影響を与えています。
そんな中、今から20年前に『栃木リンチ殺人事件』という恐ろしい事件が起こったことをご存知ですか?
高校を卒業して間もない19歳の少年たちが、同級生の少年を拉致監禁し、金銭を奪っただけでなく非道な暴行を加えたことで話題になった事件です。
1999年、栃木県市貝町のゴルフ場に隣接した山林で、残虐な暴行を加えられた痕跡のある遺体が発見されます。被害者は、同じ栃木県内にある日産自動車工場に勤務していた須藤正和さん(当時19歳)でした。
遺体には、全身のおよそ80%に火傷の跡があり、他にも数々の暴行を加えられた痕跡がありました。損傷が激しく、残虐な様子がマスコミによって報道され、多くの人の印象に残りました。
犯人として逮捕されたのは、萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀という名の3人の少年でした。
3人は事件当時、須藤さんと同じ19歳でした。この事件は、自己中心的な理由から少年たちが起こした残忍な事件として、『栃木リンチ殺人事件』として報道され、世間に大きなインパクトを与えました。
それ以外にも栃木リンチ殺人事件では、警察の対応が杜撰であったことや、捜査を怠ったことが事件の発覚を遅らせたとして多くの批判を集め、遺族から民事裁判を起こされています。
また、遺族に対して悪質な手紙が送られるといったエピソードも報道され、大きな注目を集めました。
通常、加害者家族が心無い批判を受けることはよく耳にするエピソードでしたが、被害者遺族までもが同様に批判にさらされるというのは、珍しいケースでもありました。
これらのことから、栃木リンチ殺人事件は、連日マスコミによって報道され、あらゆる場所で話題に上る事件となりました。
そもそもなぜ、悲惨な事件である栃木リンチ殺人事件は起こったのでしょう?
栃木リンチ殺人事件を起こした犯人はどのような人物なのでしょうか?
栃木リンチ殺人事件で殺害された須藤さんの遺族が受け取った手紙に書かれていた内容とは?
今回は、栃木リンチ殺人事件の発端と概要、犯人の人物像、警察への批判や、裁判いついて、被害者の両親が受け取った手紙などの嫌がらせについてまとめていきます。
栃木リンチ殺人事件の発端
引用: Pixabay
そもそもなぜ、栃木リンチ殺人事件のような残虐な事件が起こってしまったのでしょうか?
1999年9月の秋頃、栃木県内のとあるコンビニの駐車場で、その発端となる出来事が起こります。
萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀の3人は、以前から栃木県内に住んでおり、友人として交友を持っていました。
それぞれが高校時代から生活態度が悪いことで目立っており、卒業してからも就職した仕事が長続きしないなど、家族を含めた周囲の人々が手を焼いている存在でした。
友人関係ではあったものの、栃木リンチ殺人事件を起こす以前から、主犯格であった萩原克彦は「暴力団関係者と知り合いだ」というのをネタに他の2人を恐喝し、金銭を巻き上げていました。
当時、萩原克彦が恐喝を行なっていたのは、この二名以外にも数多くいると言われていました。高校時代には、同級生からおよそ100万円もの金額を恐喝していたという話も聞かれました。
このように、日常的に恐喝されていた2人でしたが、萩原克彦に渡すための資金繰りが難しくなった梅沢昭博と村上博紀は、これ以上の金銭を用意することができないと萩原克彦に伝えます。
すると、それを聞いた萩原克彦は「自分たちで用意できないのであれば、代わりに金を持ってこれる奴を連れてこい」と2人に命令します。
そこでどうにか事態を切り抜けようと考えた梅沢昭博は、同じ職場で働いていた須藤正和さんに目をつけます。梅沢昭博と須藤さんは日産自動車工場に同期として入職しており、ロッカーも隣同士といった仲でした。
温厚で大人しい性格であった須藤さん。勤務態度にも大きな問題はなく、真面目な青年であったと言います。
しかしその性格がここでは返って仇となり、梅沢昭博から簡単に自分たちの言うことを聞くであろうと、目をつけられてしまったのです。
1999年9月29日、梅沢昭博は須藤さんを栃木県内のコンビニに呼び出し、萩原克彦と会わせます。彼らはその場で須藤さんを恐喝して金を要求し、銀行口座から須藤さんに7万円を引き出させます。
そしてその金を使って自分たちは豪遊し、須藤さんをそのままホテルに宿泊させます。
当時、須藤さんは寮で生活していましたが、この日から帰ることを許されず、萩原克彦らから暴行を受けるようようになります。そして2ヶ月半にも渡って彼らに連れ回された末に、殺されてしまうのでした。
これが、栃木リンチ殺人事件の発端となりました。この日から命を落とすまでの数ヶ月の間、須藤さんは帰宅することを許されず、酷い暴行を受けることになるのでした。
栃木リンチ殺人事件の概要
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件で犯人たちが行なった暴力は、自らと同じ人間にする行為とは思えないような残忍なものが多く、そのほとんどが聞くに耐えないものでした。
萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀は、須藤正和さんから最初に金を巻き上げた日から寮へ帰宅するのを許しませんでした。それだけでなく、須藤さんの髪や眉を剃り上げるなど、残虐な暴行を始めます。
また遊ぶ金欲しさに須藤さんを脅迫し、消費者金融から多額の借金を負わせます。「車をぶつけた」「サングラスを壊した」など様々な因縁をつけ、その度に須藤さんから大金を巻き上げていたのです。
それ以外にも、友人達からも金を借りるよう命令し、足りない分は両親に振り込むよう依頼させました。可能な限り、須藤さんからお金を貪ろうと考えていたのです。
彼らが、須藤さんを脅して奪った金は、総額でおよそ728万にも及びました。そのお金はパチンコや風俗、飲み代や買い物、旅行費などすべて自分たちの豪遊に当てがわれました
そして、須藤さんを恐喝して用意させた金銭の全額を、監禁していた2ヶ月半のあいだに自分たちの贅沢のために使い切ってしまったのでした。
3人は、須藤さんを命令に従わせるため、度重なる暴行を加えていました。自分たちの言うことを都合よく聞かせるために、恐怖によって支配していたのです。
栃木リンチ殺人事件において、特に話題になったのがその暴行の残虐さでした。
暴力は、殴る・蹴るなどの直接的なものだけではありませんでした。彼らが振るう暴力の程度も徐々にエスカレートし、次第に須藤さんを人間として扱わないようになっていった様子が伺えます。
中でも特にひどかったのが、犯人達が面白がって繰り返し須藤さんに行なっていた“キンチョール”と“熱湯コマーシャル”という俗称の暴力行為でした。
一つ目の“キンチョール”は、殺虫剤のスプレーを噴射し、そこにライターで火をつけて須藤さんに火炎放射を浴びせるという内容のものでした。
また須藤さんが暴行によって気を失うと、“熱湯コマーシャル”称してその上からポットのお湯や熱湯のシャワーをかけて皮膚がただれるまで火傷を負わせました。
栃木リンチ殺人事件が世間の明るみに出る直前、友人に金を返す目的で訪れたコンビニの駐車場で目撃された須藤さんは、皮膚が爛れて顔中に火傷の水ぶくれがあり、見るに耐えない姿となっていました。
ここまでが、須藤さんが殺されるまでの、栃木リンチ殺人事件の概要です。悍ましい内容に、多くの人が身の毛のよだつ思いをしたものでした。
須藤正和さん(被害者)は何故殺されたのか。【栃木リンチ殺人事件】
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件において、どのような理由で須藤正和さんは殺害されたのでしょうか?
それまで真面目に工場勤務を続けていた須藤さん。そんな彼が急に仕事を無断欠勤するようになったため、当然、上司や周囲の動揺はその事態を不審に思います。
そして、所在を確認するために、上司から須藤さんの両親に連絡が入ります。
1度目の連絡が入った翌日、須藤さんは会社に出勤しましたが、それからすぐに再び無断で仕事を休むようになります。
そして同僚のうち数名から「須藤さんに金を貸している」と話を聞いた上司が、改めて不審に思い再び両親に連絡します。これは、只事でないと判断した父親は栃木県警に相談、須藤さんの捜索願を出したのでした。
捜索願を出したのち、須藤さんの両親はすぐに須藤さんが各方面に金を借りていたことを知ります。人当たりがよく大人しい性格の須藤さんが、急に多額の借金をするようになったことを、当然家族は信じられません。
須藤さんが何か事件に巻き込まれているのではないか、と不安に思った父親は、その後もたびたび警察に相談しますが「事件性がない」など何かと理由をつけられて相手にされませんでした。
そこで須藤さんの両親は、彼が金を借りていた友人たちから情報を収集し、彼が梅沢昭博、村上博紀の2人と関わっているのではないかと疑います。
須藤さんの家族は、梅沢昭博、村上博紀の親族と面会し、協力を求めたこともありました。その際に、萩原克彦も同様に関与しているのではないかとの話を聞いています。
その後も須藤さんの両親は何度も警察を訪れました。しかし警察側は話に取り合わず、適切な対応はなされませんでした。このときの栃木県警の対応が、後になって大きな批判が集まることとなりました。
そんな最中、須藤さんの両親が警察を訪れていたタイミングで、本人の携帯電話から電話がありました。
その際に、対応した巡査部長が彼の状況を探ろうと、父親の友人のふりをして電話に出ました。しかし話しているうちに、誤って「自分は警察だ」と口にしてしまった為に、その場で電話は切れてしまいます。
このときの電話の相手は須藤さん本人ではなく、犯人たちでした。これが須藤さんが殺害される決定的な一因となってしまうのでした。
これによって犯人たちは、この事件にすでに警察が関与していることを知り激しく動揺します。逆にいうと、それまで自分たちが行なっていた残虐な犯行を、世間から隠し通せると思い込んでいたのです。
以前から萩原克彦は、回復が困難なまでに暴行を受けた須藤さんの姿から事件の発覚を恐れ、それとなく殺害をほのめかしていました。しかし、その度に残る2人から「殺人はダメだ」と説得され、なんとか思いとどまっている状況でした。
しかし、警察からの電話が決定的な後押しとなり、3人は須藤さんを殺害する決意をします。
1999年12月、市貝町の山中で須藤さんは絞殺されます。実際に首を締めたのは、梅沢昭博と村上博紀の2人でした。
絞殺しているあいだ、村上博紀は恐怖からその手を緩めてしまいます。しかし梅沢昭博が、1人で首を締め続けため、須藤さんは死に至ってしまうのでした。
須藤さんを殺害した萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀は、遺体をコンクリート詰めにして穴に埋めました。この時、都内の高校生も同席しており、穴を掘る手伝いをさせられました。
こうして栃木リンチ殺人事件の被害者である須藤さんは殺害されたのでした。
須藤さんを殺害して埋めたその直後、3人は「時効までの15年間頑張って逃げ切ろう」と祝杯さえ上げています。
この殺害の2日後、穴掘りを手伝った高校生が罪の意識に耐えきれず、このことを両親に相談、自宅近くの警察に出頭したため事件は明るみに出ました。
そして萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀のそれぞれは、都内に滞在していた際に警察に身柄を確保され、須藤さんを殺害した容疑で警察に身柄を拘束されることになったのでした。
萩原克彦・梅沢昭博・村上博紀への判決は?【栃木リンチ殺人事件】
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件の加害者である、萩原克彦や梅沢昭博、村上博紀への判決はどのようなものだったのでしょうか?
栃木リンチ殺人事件の第一回目の裁判は、2000年6月に宇都宮地方裁判所にて行われました。
栃木リンチ殺人事件の犯人、萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀は逮捕されたときには、19歳の未成年でした。
しかし、極めて自己中心的な動機と事件の残虐性から、東京家庭裁判所はこれを刑事事件に相当するものとして逆送、殺人・死体遺棄事件として起訴されました。
遺族は、栃木リンチ殺人事件を「強盗殺人罪」としても起訴するように求めましたが、これは棄却されました。
2000年6月、宇都宮地方裁判所では、一審の求刑通りに萩原克彦、梅沢昭博の2人を無期懲役とし、村上博紀を懲役5~10年の不定期刑としました。判決の理由として、「極めて自己中心的で酌量の余地は全くない」と述べています。
萩原克彦は判決を不服として上告していますが、二審にて棄却され一審と同様に無期懲役が確定したのでした。
犯人①萩原克彦の経歴&現在を紹介【栃木リンチ殺人事件】
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件の主犯格であった萩原克彦とは一体どのような人物なでしょうか?
捕まった当時、萩原克彦は須藤正和さんと同じく19歳の未成年でした。栃木リンチ殺人事件を起こした頃は、土木会社でアルバイトをしていましたが、それまでも職を転々とし、中々定職に就くことがありませんでした。
父親は警察官であり、萩原克彦が栃木リンチ殺人事件を起こした時分にも、氏家警察署交通課に勤めていました。
幼稚園の頃から同級生を池につき落とすなどの乱暴な性格が目立ち、「キレると何をするかわからない子」として周囲では有名な不良とされていました。
問題を起こすたびに警察官であった父親が謝罪して回っていましたが、母親は「自分の息子がそんなことをするはずはない」とこれを認めず、幼い頃から甘やかされて育っていました。
中学卒業後、専門学校へ進学しますが中退しています。栃木リンチ殺人事件を起こすまでの期間では、鳶や土木関係の仕事に就きますが、勤務態度が悪く欠勤や早退を繰り返していました。
しかし、彼が職場でトラブルを起こすたびに母親が謝罪に訪れ、息子を解雇しないで欲しいと頭を下げて回っているといった状況でした。そんな中、栃木リンチ殺人事件を起こしてしまうのでした。
栃木リンチ殺人事件での萩原克彦への求刑は無期懲役でした。そのため、2019年現在も服役中であると思われます。
萩原克彦の公判中の態度が酷い
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件の裁判が行われが際、証言台での萩原克彦の態度が酷かったことも話題となりました。
萩原克彦は、須藤正和さんを暴行している際にどんな気持ちだったのか尋ねられると、平然と「楽しかった」と答えています。
また公判中もあくびをするなど、粗暴な振る舞いで望んでいました。これに対して、多くの聴衆やメディアから非難されました。
そうかと思えば、情状酌量の余地を得ようと、証言台で泣き真似をしながら「須藤さんの分も頑張って彼女と生きたいです」と話したりと、その態度や証言は目に余るものでした。
これらの様子は、残虐な事件を起こしておきながら、反省の色が少しも伺えず、多くの聴衆から批判を浴びました。
萩原克彦の親の態度も酷い
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件では、犯人の萩原克彦が公判中に見せた粗暴な振る舞いも大きな話題となりましたが、その両親が見せた態度にも同じように目に余る物がありました。
栃木リンチ殺人事件で殺された須藤正和さんの葬儀に、萩原克彦の両親も参列しています。
しかし、父親は、「妻の具合が悪くなったから途中で帰らせて欲しい」と、式を途中で退席しようと須藤さんの父親に声をかけます。
非常に失礼な申し出であり、当然ながら須藤正和さんの父親は「うちの息子は殺されたんだ」と、声を荒げて激昂します。
それだけでなく、萩原の両親は、栃木リンチ殺人事件での自分の息子の罪が軽くなるよう証言して欲しいと、須藤さんの両親に対して無遠慮な依頼まで行っているのでした。
また、栃木リンチ殺人事件で萩原たちが須藤さんから巻き上げたおよそ728万も一切返済しようとせず、須藤さんの両親が苦労して全額を返済しています。
須藤さんの両親が受けた非道な対応は、加害者親族からのものだけではありませんでした。
栃木リンチ殺人事件を知った無関係な人々から心無い嫌がらせの手紙を受け取るなど、事件後も数多くの苦労をされたのでした。
犯人②梅沢昭博の経歴&現在を紹介【栃木リンチ殺人事件】
引用: Pixabay
続いて、栃木リンチ殺人事件で萩原克彦らと共に須藤正和さんへ暴行・殺害を行なった梅沢昭博について紹介します。
梅沢昭博は、栃木リンチ殺人事件を起こす一年前に両親が離婚しており、2人の妹と母親の4人で生活していました。
喧嘩っ早いところがたまに傷ではありましたが、明るくてニコニコしている性格でした。中学生の頃は上級生からのカツアゲや、イジメにもあっていたそうです。
高校生のときから徐々に非行に走るようになり、地元の暴走族の構成員となっています。この暴走族のグループで、同じく栃木リンチ殺人事件を起こした犯人である村上博紀と出会いました。
高校卒業後、須藤正和さんと同じ日産自動車工場に就職します。
梅沢昭博は、萩原克彦から金銭を巻き上げられていた際に、須藤さんを身代わりにしようと声をかけた当本人でした。
そうでありながら、後に須藤さんへの暴行について「やられるのは自分ではない、皮膚が腐って気持ちが悪かった」など心無い証言をしています。
栃木リンチ殺人事件での梅沢昭博への判決は、無期懲役でした。2019年現在も、服役中であると思われます。
犯人③村上博紀の経歴&現在を紹介【栃木リンチ殺人事件】
「須藤君の分まで長生きしたいです」
【栃木リンチ殺人事件】、村上博紀 (当時19歳) pic.twitter.com/RAi7ZIMNa7
— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) July 11, 2015
栃木リンチ殺人事件の3人目の犯人、村上博紀はどのような人物だったのでしょう?
村上博紀は中学生の頃から万引きなどの非行を繰り返していました。高校は有名校に進学していますが、在学中に梅沢昭博と同じ暴走族のグループに入り、それが原因で中退しています。
栃木リンチ殺人事件が起きる以前は、萩原克彦に就職先を紹介されましたが、無断欠勤などが続いたために解雇され、無職の状態でした。
栃木リンチ殺人事件の判決において、村上博紀だけが無期懲役を免れたのは、「殺害時に須藤正和さんの首を締める手を緩めた」という理由でした。そのため、梅沢昭博よりも軽い5~10年の不定期刑となっています。
2019年現在、何事もなければ刑期を終えていますが、詳細については不明です。ネット上にも様々な憶測が飛び交っていますが、おそらく事件当時と名前を変えてどこかで暮らしているものと思われます。
他の犯人2名も含め、栃木リンチ殺人事件が起こった当時に、彼らの住んでいた実家は現在、引越しているため、その家族も含めて所在や現在の暮らしぶりなどは解っていません。
栃木県警の対応に批判が殺到した理由は?【栃木リンチ殺人事件】
引用: Pixabay
栃木リンチ殺人事件では、事件の様子が非道なものであっただけでなく、栃木県警の対応が杜撰であったり捜査怠慢とも言える状況であったことについても批判が殺到しました。
またこれとは別に、栃木県警に対して民事裁判を起こした被害者遺族に対して、誹謗中傷の手紙が送られたこともありました。
ここではその批判の内容と、遺族が受け取った誹謗中傷の手紙について説明します。
栃木リンチ殺人事件の被害者である須藤正和さんが監禁され連絡が途絶えていた2ヶ月半、須藤さんの両親はなんども警察を訪れ、「息子が事件に巻き込まれている」と相談していました。
しかし栃木県警で対応した警察官たちは「金を借りている息子が悪い」「クスリでもやってるのではないか」などの心無い言葉と共に、両親の訴えを聞き入れませんでした。
これに関しては、栃木リンチ殺人事件への関与が疑われる萩原克彦の父親が、栃木県警の警察官であったことも影響していると考えられています。
そればかりか、須藤正和さんが殺されるきっかけを作ったのも、迂闊に警察が関わっていることを犯人たちに知らせてしまったが故でした。このときに対応した石橋署の警察官は実名で報道され、処罰を受けることとなりました。
こうした諸々の件を踏まえ、須藤さんの両親は、栃木県警のずさんな操作が息子の死を招いたとして、栃木県警、加害者およびその両親に1億5千万円を求める民事裁判を起こしています。
これに対して宇都宮地方裁判所の一審では須藤正和さんの両親の訴えを全面的に認め、全額を遺族に支払うよう加害者側に命じています。
しかし、二審の東京高等裁判所では「栃木県警の怠慢がなかったとしても被害者を救出できた可能性は3割であった」とし、判決では栃木県警に命じる賠償額を1100万円と大幅に減額したのでした。
須藤正和さんの両親は承服できず上告しますが、最高裁判所においてもこの判決が覆ることはありませんでした。
東京高等裁判所が栃木リンチ殺人事件の判決の際に述べた「3割」という数字に具体的な根拠はなく、この点に関して大きな批判が集まり、警察側の保身であるなど多くの憶測が飛び交いました。
また裁判が長引いたことに関して、栃木リンチ殺人事件の被害者である須藤さんの両親は、心無い匿名の一般市民から、悪質な手紙による嫌がらせを受けいてます。
第二審の審議中のことです。手紙はある日突然、須藤正和さんの父親の元に郵送で送られてきました。
手紙は茶封筒に入ったB5用紙に印字され、「1億もの血税を無駄にするな」「いつまでも被害者面をするな」という心無い批判が書かれていました。
手紙は東京高等裁判所の判決が下る前に送られたもので、事実とは異なる内容もいくつか記されていました。
手紙の件は読売新聞にて報道され、須藤正和さんの父親は「続くようであれば弁護士に相談する」と強い姿勢で受け答えていました。加害者ではなく被害者側の親族に手紙が送られるというのは、異例とも言える事態でした。
須藤正和さんの両親は栃木リンチ殺人事件によって息子を失っただけでなく、悪質な手紙によっても辛い思いをしたのでした。
栃木リンチ殺人事件まとめ
引用: Pixabay
今回は、1999年に起きた栃木リンチ殺人事件についてまとめました。
栃木リンチ殺人事件の被害者、須藤正和さんは萩原克彦、梅沢昭博、村上博紀らに拉致監禁され、金銭を奪われただけでなく、おぞましい暴行を受け、最後には無残な姿で殺害されました。
また事件発覚までに須藤正和さんの両親が度々、警察に相談していたにも関わらず、きちんと対応しなかった栃木県警の対応も、最悪の結果を招く要因となりました。
犯人たちの態度や、栃木リンチ殺人事件を起こすまでの短絡的な思考は、事件から20年が経過した今でも理解しがたいものがあります。
また、栃木リンチ殺人事件の遺族に対して誹謗中傷の手紙が送られるといったこともありました。息子を失った悲しみに加え、遺族の方々が心無い匿名の手紙によって苦しんだというのは、許しがたいものでした。
なぜ、栃木リンチ殺人事件のような残虐な事件が起きてしまったのでしょう。
そこには時代背景だけでなく、非行に走った少年たちの浅はかな思考や、事件を隠蔽しようとした警察などの公的機関の怠慢も関係しているように思われます。
私たちは、この事件を風化させず、同じ過ちが繰り返されないようにするためにも、正しいかたちで事件を語り継いでいくべきなのではないでしょうか。