宅間守の家族の現在!父親・母親・兄の末路&獄中結婚の妻まとめ | ToraTora[トラトラ] – Part 3

まず「宅間守(たくま まもる)」と言って知らない方もいるのではないでしょうか?宅間守はわからなくても「大阪教育大学附属池田小事件」と聞いてピンとくる方もいるかもしれません。最近の子であればどちらも知らないと言われても仕方がないかもしれません。

もしあなたのお子さんがとある日いきなり学校で知らない人に殺されたらどうでしょう?この事件はそういった事件です。

見ず知らずの児童を無差別に8人も殺害した宅間守はなぜそのような犯行に及んでしまったのか、どのような人物だったのか、生い立ちはもちろんまずは家族について見ていきたいと思います。

宅間守の父親

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宅間守の父親は今で言う頑固な父親。ただ頑固なだけではなく旧薩摩藩の下級武士のお家柄だったことからプライドが高く代々厳しい修身教育を受けてきたそうで、警察官や法律関係の仕事に就くことが多く付属池田小事件前まではそのことを誇りに思っていました。

その厳しいお家柄のため宅間守本人をはじめとして家族全員に暴力をふるっていた事でも知られています。

特に宅間守は悪行を小さい頃から働いていたため父親に厳しくされていましたがそのかいも空しく関係は改善されるどころか悪化し、父親が宅間守を石で殴ったり木刀で叩くなど力で抑えつけていたそうです。

その父親の教育で溜まる宅間守のストレスは学校へと向いてしまい、比例するように年齢とともに宅間守は残酷なことをするようになっていまいます。

宅間守の母親

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母親はというと宅間守を身ごもった時喜ぶ父親に対して「あかんわ」「おろしたいねん」と発言しており、元から家事や育児が苦手で宅間守をおろせなかったことからか一種のネグレスト状態になってしまいます。この時家事全般は父親が担っていたそうです。

また「乳房の形が崩れるから」という理由で母乳をあげるのを嫌がったり「お前なんか産まなければよかった」との発言もあり相当宅間守を毛嫌いしていた様子が伺えます。

兄が産まれたときにはしっかり自身の母乳をあげていたのか気になるところですが、兄に対しての育児の情報が少ないため確認出来ませんでした。しかし、宅間守を嫌っていた様子からすると兄には普通に母乳をあげていた可能性があります。

宅間守が成長し家族と喧嘩になった時には「ヤクザ使っておまえらの生活を滅茶苦茶にしてやる」と言ったとこも語られています。

その後宅間守が20歳の時にはなぜか父親と兄を置いて、母親と宅間守がアパートで2人暮らしをはじめますが半年後に父親にアパートを発見され宅間守はスコップで父親に殴りかかるが父親はレンガで応戦。

しかし勝てないと思ったのか宅間守は命乞いをしますがその後父親に悪態を吐いて逃げてしまいます。本当かどうか定かではありませんが母親との2人暮らしの中で近親相姦を思わせる場面もあったようです。

宅間守の兄弟

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父親・母親そして7歳年の離れた兄が宅間守にはいましたが、年が離れていたが故にあまり関りがなかったという認識だそうですが宅間守が非行を働き警察への身元引受人となったにはほとんどが兄でした。

また兄が車を買えば「サラリーマンが外車を買ってんじゃねえ」と破壊とまではいかないもののボコボコにしたという話もあり、兄に関しては情報が少ないのですが宅間守の行いによって家族全員が良い思いはしていませんでした。

幼少期は両親が共働きだったため祖父母と過ごす時間が多かった宅間守。なかでも祖母からは多くの愛情をもらっていたかのように思えます。しかし幼稚園入学と共に今の父親母親兄と4人で暮らすようになりました。

宅間守が一番悲しかったのが祖母の死だというくらいですから相当なおばあちゃん子だったことがわかります。

この祖母も認知症で入院した後に亡くなってしまい、宅間守が身内で寄り掛かれる場所がなくなってしまったと言えます。もし祖母が生きていたら違う人生を歩んでいたかもしれません。

宅間守の生い立ち・経歴

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母親からは毛嫌いされ、父親からは厳しい教育を受けた宅間守はどのようにして育ったのでしょうか?どこから非行に走るようになったのかを含めて生い立ちを見ていきたいと思います。

宅間守の小学校時代

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勉強面では頭がそれなりに良く塾に通っていて挨拶もしっかり出来る子と良い評判もある一方、学校生活では既に乱暴者で悪い方向へと目立ち始めます。

宅間守の小学校のあだ名は「ゴン太」で、自分より弱い同級生を些細な事で殴ったり猫などの動物を新聞紙にくるんで火をつけて殺害するという考えられない非行を小学校低学年の時にやっていたというから驚きです。小学校の通知表には「いじめをやめましょう」と書かれることも。

この頃から乱暴なだけではなく、他人への思いやりや共感という感情が見られませんでした。いじめっ子という理由だけではなく感情の欠如により学校内では浮いた存在となっていました。

また3歳の時には三輪車で国道の真ん中を走って車を渋滞させ喜んでたという話もあります。

宅間守の中高時代

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中学生になっても宅間守は動物の殺害を続け火のついたドラム缶に生きたままの猫を入れたりクラスで飼育している金魚の尾をハサミで切りストーブで焼くなど残虐性を見せています。

学校では強い者と徒党を組み弱い者は「宅間様」と呼ばせて奴隷のように扱い、身長も体重も増え周囲よりも大きかった宅間守の暴行も小学校時代と比べてエスカレートしていき「調子に乗ってんじゃねえ」と因縁をつけて弱い者へ暴力支配をしていきます。

更に女子生徒にはすれ違っただけで唾を吐きかけたり、好きな女子生徒の弁当に唾や自分の精液をかけそれを食べる様子を見ていたと後の精神鑑定時に語っています。

中学の卒業文集では宅間守が作文を提出しなかったため担任教師が「宅間君があなたに贈る空白のページ」とだけ書かれたそうです。

因みに中学は受験希望を出した中学校があったものの模擬試験で挫折「もっと頭の良い人間に産んでくれなかった親が悪い」と罵倒します。この頃に反抗期の度合いを超えて少しのことでも母親を殴る蹴るなどして宅間守は家庭内暴力を行っていました。

中学卒業後尼崎市の工業高校に進むと2年生の時に普段の素行に加え教師への暴行で退学処分となります。退学になる前は野球部に所属していましたが練習態度の悪さから上級生からいじめに合います。その時宅間守が「助けてくれー」と上級生2、3人に追いかけられているエピソードもあります。

中退した後、17歳の時に映画館のトイレにて女性の後ろから抱きついて強姦しようとした経歴や、心身の不調から精神科に通い精神神経症と診断を受けます。その後定時制の高等学校に編入学しますが通学しなかった為自然除名されています。

高校在学中~除名までに中型自動二輪免許を取得しバイクを購入しますが、免許のない500ccのバイクも購入。友人と2人で家出を1ヵ月ほどしたこともありました。この時宅間守を迎えに行ったのは兄でした。

しかしその反面高校時代には反省文を書いていて「なぜ自分が悪いことをしてしまうのが不思議」「大きい夢を描くが努力が足りない」「他人の都合を考えない最低な人間」などと宅間守が自分を低くネガティブに見ていることがわかります。

宅間守の自衛隊時代

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高校退学後宅間守は数ヵ月ほどガソリンスタンドのアルバイトをし航空自衛隊へ入隊します。将来の夢はパイロットだと小学校の頃から語っていて軍歌を歌ったり、高校の時には「自衛隊に入るからおまえらとの付き合いも後少し」と語ったり「自衛隊は内申関係なしの1発勝負」と高校の反省文に書いたことからしっかり調べ自衛隊に希望と夢を抱いていました。

無事自衛隊に入隊した後は厳しい訓練を受け配属先は愛知県小牧市の第一輸送航空隊の航空機整備を担当。宅間守は目が悪かっためパイロットになれないという現実を突きつけられます。

その後夢と希望を失った宅間守は家出少女を下宿させ強姦未遂により1年強で除隊処分を受けてしまいます。

宅間守のフリーター時代

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除隊後の宅間守はトラックの運転手やダンプの運転手、市バスの運転手、運送業、引っ越し業、ごみ収集、地方公務員、マンション管理会社など色々な職を転々とします。大半の転職理由が前職で問題を起こしたためです。

引っ越し業は自営で父親に100万ほどのお金を出させ軽トラを購入し引っ越し業を始めますが、1ヵ月も経たない内にとん挫し諦めてしまいます。

その次にはマンション管理会社に目をつけます。理由は女の子と仲良くなれそうだからと軽い気持ち。保証人になることを宅間守の父親は拒否し、代わりに宅間守は母親に暴力をふるって保証人へとさせました。

マンション内を案内している時に内覧希望の女性に暴力をふるいトラブルになりますが宅間守の嘘によってなんとか警察沙汰にもならず勤務を続けていました。

自衛隊除隊後からはコンプレックスや忌み嫌う家族に対して不満が募り、母親や兄への暴力にと共に高速道路を逆走するなど間接的にも直接的にも他人にも危害を加えるようになっていきます。

宅間守は松本人志と同級生?

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宅間守と松本人志は同学年・同じ高校に通っていたとの噂があるものの松本人志・事務所ともにノーコメントを貫いています。同学年だったとしても1学年に相当な人数が居るはずですからクラスが違ければ話したことも名前も記憶にないかもしれません。

まして宅間守は中退しているので卒業アルバムにも爪痕はありません。なので真相はあやふやなままとなっています。

宅間守の犯罪・トラブル歴

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宅間守が起こした事件は附属池田小事件だけではなくその前にも犯罪からトラブルまで小さい頃は「悪ガキ」だけで済んでいたものの年齢を重ねると共に暴力事件や強姦事件で警察にお世話になることも多かったようです。

家出少女と性交渉

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おそらく宅間守の人生を大きく変えたのはここではないでしょうか。大きな夢を持って自衛隊に入隊したとはいえこの頃には既に夢と希望を失いかけている宅間守。それに加え思春期真っただ中の男の子であり特に宅間守は「女性への興味」ではなく「性行為への興味」が特に強かったようです。

事実上記でも挙げた通り家出少女に性交渉という名の強姦未遂をしたため愛知県青少年保護条例違反で自衛隊を除隊されることになります。

1984年にレイプで逮捕・服役

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マンション管理会社での勤務中に宅間守は家賃の集金だと言い女性宅に無理矢理押し入り強姦。その際女性の首を絞めていたため、女性も大きな抵抗が出来なかったそうです。

この時示談のために宅間守に向けた人物が右翼の関係者の男性でした。示談金200万円を要求され「200万出すか2~3年捕まるかどっちがいい」と脅されることに。

その結果逮捕を逃れるための偽装工作を始めます。母親と精神病院へと行き宅間守は医師に「幻聴が聞こえる。誰かに陥れられている」と言い、母親は「息子に暴力を振るわれている」と口裏を合わせました。

これを聞いた医師は宅間守を重度の凶悪な精神障害を持っているとの診断で、閉鎖病棟へと宅間守を隔離してしまいます。逮捕を逃れるために行った偽装工作は思わぬ形で宅間守を刑務所並みに自由の利かない生活へと変えてしまったのです。

もちろん望まぬ隔離を受けた宅間守が納得するわけもなく、退院したいと医師に訴えかけますが医師側からすればこんな凶悪な精神障害者を退院させるはずもありませんでした。

隔離から1ヵ月過ぎるか過ぎないかの内に宅間守は脱走を図ります。なんと病院の屋上である5階から飛び降ります。自殺との報道もありますが後に宅間守が「1~2年入院しろと言われたから退院したくて飛び降りた」と証言しています。

飛び降りた場所には運よく車庫の屋根で顎を骨折したものの全身打撲で済み整形外科で入院することになります。

その後母親に手紙で「自分がケガを負ったのはあんた(母親)の責任。賠償金を用意して年金は終身まで賠償金の一部にさせてもらう」と送っています。

この約1年後にはこのレイプ事件で逮捕されます。精神保健診断を受けますが「性格異常ではあるが理非弁能力はある」と診断を受け懲役3年の判決を受けます。

バスの女性客と揉めて懲戒免職

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同じくフリータ時代、バスの運転手をしていた頃には無断欠勤はなく真面目に取り組んでいたと思われていました。

しかし運転席の後ろに座っていた女性に対して「香水の匂いがきつい後ろの席に行ってくれ」との発言により女性客と宅間守はトラブルになったり同僚と殴り合ったりとトラブルが絶えなかったため最初は減給処分でしたが最終的に会社から懲戒免職処分とされています。

他人の茶に精神安定剤を混入

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1998年には小学校の技能員として勤務していましたがて、勤務の最中に用務室にてアダルトビデオを見ながら自慰をしていたところをたまたま入ってきた同僚に見られ逆ギレ。腹いせに教諭4人に精神安定剤入りのお茶を提供。

その後傷害容疑で逮捕されますが精神病と精神鑑定され精神病院に措置入院し不起訴処分となりました。

この時児童を憎んでいたのか宅間守が児童へ唾を吐く行為も目撃されていたようです。

宅間守は他にも車のライトが眩しいという理由で相手の車を破壊したり、タクシー運転手に暴行を加えたり、強姦も多くしています。犯罪を犯しては逮捕されないために精神病院に行き精神病だと偽ったり自主入院を繰り返しています。

お見合いパーティーに参加もしたりしていてその度に自分の名刺を高学歴・高収入のものに作り替え経歴詐称しています。そして4回もの結婚と離婚を繰り返していて、DVを受けたり離婚後にストーカー被害を受けた女性もいます。

附属池田小学校事件の概要

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これまでに15犯。仕事のほとんどがトラブルで半年以内に退職しています。そして逮捕を逃れるために何度か精神病を偽ってきた宅間守はついに池田小事件を起こしてしまいます。

しかしこの事件の1ヵ月前には宅間守は自殺を考えネクタイで自分の首を絞め吊るしますが、苦しさによってすぐにネクタイをほどいてしまったそうです。

この時に「人を複数人殺せば死刑に(自分を殺)してくれる」のではないかと宅間守は考えます。

自分の死と憂さ晴らしの標的となった附属池田小。実際に起きたその犯行は残忍で凶悪なもので誰がこのような事態になると想像していたでしょうか。

2001年6月8日に事件発生

2001年6月8日10時10分頃池田小に宅間守の車が自動車専用門に到着します。この時正門は閉まっていました。

因みに住んでいたマンションにも家賃が払えないことを理由に復讐をと考えたのか自宅の布団の上に火のついたタバコを置いていくものの自然鎮火したようで特にマンションやその住人に被害はありませんでした。

出刃包丁で児童8名を刺殺

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9時半頃に家を出て小学校に着く前に宅間守は犯行に使用した出刃包丁を金物屋で7000円強で購入しています。この時の服装がシャツにスラックスとフォーマルな格好だったことから、教師からは児童の父親だと思われ会釈される場面がありました。

校内には多くの児童がいましたが2時間目の科目が終わった時間で教師不在になっている教室もありました。狙ったのは低学年の児童で「複数殺すのが容易だから」という理由です。

1階を歩き教室にたまたまいた児童5名を発見すると入り口から入って5人全員を刺殺します。その後隣の教室に行きさらに生徒を襲撃していきます。その間に男性教師と揉み合いになり宅間守は男性教師も刺してしまいます。

児童は「知らんおっちゃんが入ってきた」「給食の人かな」など不思議に感じるものの、宅間守の息遣いの荒さと手に持った出刃包丁に逃げ惑う児童を次々と襲っていきました。

中にはトイレに入っていてトイレの外から聞こえる教師の「出てくるな!」という声を聞き、トイレの個室に隠れて生き延びた児童もいました。

無人の教室には目もくれず移動教室後の何も知らない児童達も襲っていき、辺りは血の海と化しました。この光景は当時の子の頭に鮮明に残っているそうです。

この時に被害者は1年生1名、2年生7名を刺殺。児童13名と教師2名が軽傷~重症を負っています。

教師に取り押さえられ現行犯逮捕

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犯行開始から10分~15分後に宅間守は教師や副校長に取り押さえられ、学校内からの電話や児童が逃げ込んだスーパーでの110番と119番通報により宅間守は現行犯逮捕されます。

その際に宅間守と対峙していた男性教師は自身も背中や顔に傷を負いながら必死に宅間守を押さえつけていたそうでその後騒ぎを聞き駆けつけた副校長と2人で取り押さえられた後宅間守は抵抗しませんでした。

おそらく疲労と多くの児童を刺殺したことに満足したからではないかとの声もありますが真相はわかりません。

逮捕時に「あーしんど!」と胸糞発言

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最後の児童を刺した時には宅間守自ら凶器の出刃包丁を手から離し「あーしんど!」との発言。更に取り押さえられた時には「しんどい、しんどい」と呟き、逮捕時には「薬を10回分飲んでしんどい」との発言も。

「薬を10回分飲んだ」という発言から何度も通院した病院先で調べた結果「エバミール(睡眠剤)」「セロクエル(抗精神病薬)」「パキシル(抗うつ剤)」などの薬数十種類、約200錠が押収されました。

これは逮捕を逃れるために精神病院に通い、もちろん精神病でもない宅間守は薬を処方されるだけされ自宅に飲まず置いてあったということがわかります。

因みにこの薬を10回分飲んでも眠くなるだけで興奮作用や凶暴性の増す効果はありません。案の定血液や尿を調べた結果何も検出されず、精神病を患っていることを盾に逮捕を逃れるための嘘だったことが宅間守本人の口から明らかになっています。

この時宅間守の車からはアイスピックなど他の凶器も見つかっています。

宅間守の裁判経過は?

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さすがに反省するだろうと誰しもが思う中、裁判中にも宅間守らしい言動が次々と出てきます。中でもこの裁判の宅間守の名言集が出来たといっても過言ではありません。反省の色が見えない宅間守の判決はどうなったのでしょうか。

因みにこの日附属池田小事件の裁判とは別に暴行事件や損害賠償起訴など5件以上の起訴をされていました。

精神鑑定で正常と診断

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池田小事件前にトラブルを起こせば逮捕を逃れるために入退院を繰り返していた宅間守。統合失調症と判断され不起訴になった事件も多々あり1度だけの通院も含めてかかった精神科医は15人にものぼると言われています。

そのことにより精神的疾患や薬にによる責任能力の低下が問題視されたため精神鑑定を受けることになります。

附属池田小事件の際も「学校には行っていない、池田駅前でめった切りにしてきた」と滅茶苦茶な供述をしたり壁に頭を打ち付けたりといかにも精神病を患っているかのように見せていました。

附属池田小事件での逮捕後弁護側は責任能力なしとの訴えでしたが刺殺された児童の傷はしっかりと体の急所を狙っていてむやみやたらに刃物を振り回しておらず、計画的な犯行であり凶器もあらかじめ購入していたことも考えその行動と精神鑑定の結果、情性欠如や妄想人格障害はあるものの責任能力ありとの結果になりました。

宅間守は精神鑑定に加え尿検査や血液検査も受けましたがもちろん正常であると判断が下されます。「精神薬の影響、精神疾患が重く見えれば言い逃れできると思い精神病を装った」と自白をしています。

※情性欠如(人の感情に鈍感で同情や良心などの感情に乏しく自身の感情によるブレーキが利かない)

※妄想人格障害(根拠のない妄想に駆られる)

公判であくびや貧乏ゆすり

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法廷に入廷する際に宅間守は口笛を吹きながら入廷し初公判では傍聴席を求めて2000人以上が集まりました。

宅間守からは「命をもって償います」との発言がありましたがその後の公判では遺族を罵倒し自分を正当化する発言ばかりでした。

後にこの「命をもって償います」と発言したのは「裁判判決の新聞記事によく出てくるから」という理由のみで最初から反省の言葉を述べるつもりはなかったようです。

また大股を開いてうなだれるように座ったり裁判官の発言中にあくびをする様子からも反省の色は見えず「早く終わらんかな」という心情が汲み取れます。

遺族や裁判官を睨みつける行為があったことから傍聴席からは「早く死ね」などの怒号を浴びせられていました。

被告人質問では「前日の22時頃に池田小を襲うことを考えた」「(他の方法では)ダンプで通行人ひき殺すとか、女子高生を犯しまくってから殺すとか、スチュワーデスを殺すとか」などの発言をしています。

また池田小を狙った理由については「良い学校のエリートたちに目をつけていた。なんぼ勉強が出来る子でも5~6秒で殺される。そういう衝撃を与えたかった」と自分の生まれ育ちのコンプレックスから狙ったことを供述したそうです。

死刑確定

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8月26日判決。宅間守は裁判官から死刑判決を受ける前に「どうせ死刑だ」というニュアンスの言葉を発した後に自分の胸中、主に遺族への罵倒を次々と放ち騒ぎ立て裁判官の言葉を無視して発言を続けたため、途中で退廷させられています。

そのため宅間守本人は直接「死刑」という言葉を裁判官からは聞いていません。

尚、現在の刑確定の際には軽い刑であれば主文から。重い刑であれば主文後回しとなりますが当時は主文から読むのが当たり前だったため、宅間守の主文後回しでの公判は非常に珍しいものとなりました。

この公判では限りある傍聴席に対して多くの傍聴希望者がいたことから、法廷にテレビカメラを設置し別室のテレビから見ることが出来るという特別措置が取られます。

裁判長の主文は次の通りです。「我が国犯罪史上例を見ない空前、願わくば絶後の凶悪重大犯である。理不尽極まりない暴力によって一瞬のうちに短すぎる人生を絶たれてしまったのである。その無念さに思いいたすとき深い哀惜も念を禁じ得ない」

控訴期限である9月10日に弁護人が控訴するも9月26日に宅間守本人が控訴を取り下げ死刑を確定させている。そして刑事控訴法第475条第2項の「死刑確定後6ヵ月以内の死刑執行」を宅間守は望んでいました。

6ヵ月以内に執行されない場合、国家賠償請求控訴を精神的苦痛を理由に、それに加え法務大臣の野沢太三を特別公務員暴行陵虐致傷で刑事告訴の準備をしていましたが、実際には告訴の手続きをするつもりはなかったそうです。

実際に告訴した場合手続きが多く死刑執行まで遅れてしまうためそれを宅間守は「早く死にたい」というニュアンスの言葉を発しているので死刑執行の遅延は望んでいなかったとみられます。

死刑確定後から執行まで

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死刑が確定してからはしっかり1日3食を与えられ規則正しい死を待つばかりの獄中生活ですがその時に宅間守は何をしていたのでしょうか?裁判で騒ぎ立て宅間守自身が望む死刑になりおとなしく過ごしていたのかどうか見ていきましょう。

支援者女性と獄中結婚

死刑が確定してから博愛信者でクリスチャンの女性と弁護士を通して文通で知り合います。この時は1人の支援者として文通をしていました。

死刑廃止活動もしており「自分が宅間守さんをなんとかしたい」と思う一方初めは心を開かなかった宅間守ですが文通をしているうちにこの女性に心を開いていき獄中結婚することになります。

その中で被害者家族に謝罪をするように説得しようとしますがかたくなに謝罪をしようとはせず宅間守が亡くなった時に妻は「私の力足らずで彼を説得させることが出来ませんでした」と言っています。

女性の話では「社会的に問題のある人に惹かれてしまう。小学校のときいじめられていて社会からも疎外されてしまったので、同じ境遇の人を支えたい」と慈愛に満ちた言葉を残しています。

獄中結婚ですから実際に家を持ち共同生活を送れるわけではないですが宅間守は女性の性に改名し「吉岡守」になっています。

またしても余談になってしまいますがこういった凶悪犯との獄中結婚は珍しくなく、全員が全員ではありませんが死刑廃止運動をしている方から被告に接見をし、獄中生活の情報や犯行に及んだ心理などの情報を得るために行われています。

ただこの方の場合は本当に宅間守を愛していたと取れる場面が多く見られます。本当に支えになってあげようとしていたのでしょう。

既婚者女性とも文通関係に

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上記の女性とは別に愛知県の既婚女性からも文通にて告白を受けていたようですがそれ以上の情報は不明となっています。

「既婚女性」から「告白」というのは一般的におかしな話ですのでもしかしたら「宅間守を助けたい」と上記女性のような支援者の感情があったのかもしれませんが憶測の域を出ません。

被害者遺族への謝罪は一切なし

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公判では被害者を罵倒し続け獄中で被害者遺族に何かを語るわけでもなく獄中手記にも謝罪らしきものは見当たらず獄中結婚をし、死刑執行直前にも獄中結婚をした妻への感謝はあっても被害者遺族への謝罪は一切なかった宅間守。

悪い意味ではありますが本当に自分に素直な言葉しか並べられない人間だと改めて実感させられます。

事件直後には「全然関係のない子ども達の命を奪ったことに本当に申し訳なく思っている」との供述もあったようですが、「命をもって償う」という発言が新聞の真似事だったように本当に申し訳なく思っているのかどうかは定今では知るよしもありません。

2004年に死刑執行

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死刑確定後から1年後の2004年9月14日8時16分に大阪拘置所で死刑執行されます。その直前にはタバコとリンゴジュースをゆっくりと味わいました。

望んでいた6ヵ月以内の死刑執行とはいかなかったものの、当時死刑確定から5年以上執行にかかる場合が多かったため宅間守の刑はかなりの早さでの執行となりました。背景には被害者家族の心情を考慮しての執行だったとも言われています。

その際最後の言葉では「ありがとうと僕が言っていたと妻に伝えてください」と刑務官に伝えていることから宅間守は妻へ感謝の気持ちを表しています。

その後大阪市内の妻の元へ拘置職員が訪ね「今朝きれいに逝きましたよ」と報告すると、妻は大声をあげて泣き喚いたといいます。その際に刑務官に伝えられた宅間守の最後の言葉を妻へ伝えると、言葉が出ず心の中で刑務官にありがとうと何度も呟いたそうです。

事件後の社会の反応

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当時大きな話題となった附属池田小事件は事件の内容はもちろん宅間守という人物像にも衝撃を受けた人は多いはず。しかし皮肉にもこの事件が元で学校での安全意識などが改善されたのも事実です。

学校の対応不足に対する批判

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小学校の授業後で教師が教室に居なかったとはいえもっと被害を抑える手立てはなかったのでしょうか?学校の対応に関しても批判が集まりました。

学校職員には文部省からの安全措置の把握することが義務付けられています。しかし池田小では文面化されておらず口頭で伝えたのみでいざ事件が起きると把握が遅れ児童を安全誘導する対応できないという事態に陥りました。

そして本来子どもの安全を守るはずの女性教師が1人児童を置いて逃げ出してしまったのです。実際逃げ出したのではなく通報しに行ったとのことですが通報までに7分はかかっています。一方逃げ出した児童の1人がスーパーに駆け込んで通報に至るまでは5分弱だったそうです。

どう教室から出て行ったのかはわかりませんが当時このクラス(西組)では8人の児童が襲われています。通報も大事ですがまずは児童の安全を確保、その後通報というのが普通なのではないでしょうか。

そして宅間守が逮捕され刺された児童達を救急車で搬送する際教師が付き添わなかったため、誰がどこの病院へ搬送されたのか保護者への説明が遅れることになりました。中には親が自分でどこの病院に我が子が搬送されたのか探し出すことになった場面もありました。

事件の半年後、逃げ出したと言われた女性教師は遺族に対して謝罪をしています。そして学校側死亡した2年生7名を卒業の年である2006年に、死亡した1年生1名を2007年に特別に卒業証書を渡され小学校を卒業しました。

またこの一件で文部省には遺族らに総額4億円を慰謝料や損害賠償として支払いました。

防犯ブザーや安全意識の向上

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この事件を機に池田小だけではなく全国の学校で防犯意識が高まっていきます。今までは任意でつけていた防犯ブザーの取り付けを強く推奨しています。これは現在でも続いている運動の1つです。

入学と同時に学校によっては無料で防犯ブザーを貸し出しをするところもあり、低学年の児童はほとんどの子がランドセルなどにつけているのを見かけると思います。

また池田小では常日頃から門が開放されていて、門周りに学校関係者が立っていることもなかったそうです。これが宅間守の犯行の及びやすさに繋げてしまったと考えます。

池田小以外にもこういった学校は当時少なくなかったのですが、事件後には門は閉め、門が開いている時間帯には学校関係者が門周りに立ち児童に登校下校の挨拶をしながら部外者の侵入を見張るようになった学校も多いはずです。

現在では地域によって違いはあると思いますが学校や市・区・町からの下校アナウンスが流れるところもある他、ボランティアや保護者が横断歩道などで通学を見守る場面も見られます。

他にも教師が心肺蘇生の救命活動を学んだり監視カメラを設置する学校も増えました。

精神障害者への偏見被害

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何度も精神病を理由にしてきた宅間守ですが被害は小学校だけに留まりません。付属池田小事件をきっかけに「宅間守=精神病=精神病持っている人は危険な人」という誤った認識を持つ人が多くなりました。

宅間守は精神病を持ってはいませんでしたが通院歴があるのも事実であり、報道により「精神障碍者=危険」という認識が広まってしまい一般人が偏見を持つが故に当時の精神障害者は報道被害者でもあります。

実際精神的障害を持っている人はこの事件をきっかけに「他人の目が気になる」などネガティブな思考に陥り、中には精神病を再発させてしまった人や自殺してしまった人もいました。

宅間守の一連の事件の報道に対し全国精神障害者家族会連合会では安易な報道や法的責任能力の問題などを精神的問題と結びつけないでほしいと要望を出しています。

宅間守の家族の末路

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引用: Pixabay

宅間守ばかりに触れてきましたが事件後の家族が良い生活を出来たとは思えませんよね?連日のマスコミの押しかけや近所などからのバッシング・風当りの強さから家族はどうなってしまったのでしょうか。

父親は酒に溺れる

事件後には既に父親は酒乱で連日のマスコミの取材にも酒が入ったままの対応で一部のマスコミからは最低な父親とも声もありました。「勘当したやつなんかしらん」「死刑になって当然」「控訴しないで早く死刑を望んだとこは褒める」と発言する様は父親としてではなく赤の他人としての対応でした。

しかし2015年には大好きだったビールはやめてお茶しか飲まないようになり、その体は昔の面影もなく小さな体となっていました。住んでいた家もあちこちに痛みがあり畳は腐りボロボロになっています。

バイクなしでは遠くに行けないほどになってしまいましたがはっきりとした口調で喋る様は健在です。

養老院を探す時期もあったようですがタバコを吸い風呂を自由に出来ないことから探すのを諦めたとのことです。

母親は精神疾患で死亡

宅間守が22歳の時に逮捕され3年間服役し戻ってきた頃に母親は心を病んでいるのではないかという場面を多く見るようになります。

横になれば何をするわけでもなく、座れば1点を見たまま動かないなど明らかな異変に気付いた父親は10年間に渡って母親の介護をするようになりますが、その後精神病院へ入り最期は老衰で亡くなります。

兄は自殺

兄は附属池田小事件よりも前に亡くなっています。というのも宅間守とは正反対に真面目だった兄ですが、愛車をボコボコにされたり性格が破綻している弟の宅間守に悩まされ精神を病んでいきます。

34歳で結婚していますが42歳の時に宅間守が原因で離婚し自宅で頸動脈を切って自殺をしてしまいます。表向きでは起業の失敗により自殺となっていますが兄の情報が少ないため、どちらも、もしくは両方が理由で自殺したのではないかと考えられます。

獄中結婚の妻は遺体引き取り希望

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宅間守の遺体は死刑執行報告の後そのまま引き渡しとなりました。死刑囚の多くは遺骨のみ家族に届けられるそうですが希望すれば遺体ごと引き取れます。今回はそのケースです。

宅間守本人はキリスト教ではありませんでしたが獄中結婚した女性がキリスト教であったため葬儀の費用やマスコミ面を考えてキリスト教の施設内で葬儀が行われ、火葬後の骨を海が見える自分の故郷に墓を立てると言ったそうですがその真偽は不明となっています。

宅間守の異常発言・狂言集

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宅間守といえば信じられないような行動を多くしてきた人物で普通の人間であればこのような発想には至らないだろうということばかりですが、行動だけではなく発言も苛立ちを覚えるような奇抜なものばかりでここではその名言を挙げていきたいと思います。

附属池田小学校事件前

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「ワシの苦悩を社会のやつらにも味わわせてやるんじゃ」これは宅間守が社会へに劣等感とコンプレックスによって復讐を決意したことによって出た言葉だと思われます。

「弱いものを襲うのがええやろ!そうや、小学生、小学生をやったる」この時には既に複数人殺せば死刑になれると考えた末、宅間守は複数人殺すのに時間も労力もかからない子どもへと標的を絞ったのでしょう。

公判中

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「おう、座っちゃあかんか?」検察官側の起訴状朗読の際に発した宅間守の言葉。この後裁判官に「立っていなさい」と厳しい口調で注意を受けます。

「反省の気持ちない」「謝罪の気持ちない」遺族と裁判官に向けられた言葉で「自分が被害者の立場だったら謝罪されても何も思わない」という発言から本当に何も遺族に対して思っていないことが伺えます。

「最初に言っておく。死刑にしてくれてありがとう」裁判官から何か言いたいことはあるかと言われた際に宅間守から発せられた言葉。

「ワシもうはよう死にたい思うてたからほんま助かる」この発言と上の発言には法廷内もどよめき「宅間守死ね!」との罵倒も飛び交いました。

「死刑になるなら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」これに加え反省どころかなぜか笑って話す宅間守の姿に泣いて退廷する遺族もいました。

「幼稚園ならもっと殺せている」犯行後でもまだそのようなことを考える宅間守。

「世の中勉強だけちゃうぞと一撃を与えたかった」言葉だけなら間違ってはいないかもしれませんが、なぜ知らない小さな子が被害にあわなければいけないのか理解に苦しみます。

「死刑ははようにしてな!前日にうまいもん食いたいがワシうまいもん食べれるやろうか」開き直りとも強がりとも違う素直な胸中だと思われます。この直後裁判官に退廷を言い渡されます。

「おまえらは7500万円貰ってよろしいな!転がり込んだ7500万円よろしいな!」「あの世でもおまえらの子ども追いかけ回してしばき倒したるからな」と退廷の際に引きずられながら話す宅間守。

「ワシが8人死刑にするのに10分かかっとらんのにワシ1人の死刑に2年近くかかって随分ご丁寧なことやのー」と退廷後廊下から聞こえてきます。ここまで宅間守の発言を聞くと清々しいまでの悪役ぶりです。

獄中手記

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「おとなしくしていたが最後には言いたいことを言わせてもらおうと食い下がった」これを見るとあくびや貧乏ゆすりと態度はよくないものの最初は宅間守本人なりにおとなしく聞いていたのだと思えます。そして判決の日には退廷騒ぎを起こすほど言いたいことを言ったという様子です。

「退廷と言われた瞬間これで楽できると思った」これは退廷したら房でゴロゴロできるからという理由です。退廷ということでも何事かと思いますが、その先を考えるなんてさすが宅間守としか言いようがありません。

「ワシが悪いんじゃない、親が全て悪い」確かに宅間守が幼少期から悪ガキの片鱗を見せてはいましたが、力任せに教育する父親と育児放棄する母親。宅間守を小さい頃から優しさのある愛情を注いでいればもしかしたらこうはならなかったかもしれません。

「宝くじが3億当たっとったら今回のブスブス事件は起こしてないよ」宅間守は職を転々としたりしていたこともあってお金には恵まれていませんでした。最終的には家賃も払えずに犯行に及んだそうです。

宅間守の家族・経歴まとめ

最初から最後まで宅間守節を炸裂させていましたが享年40歳。当時は「まさかこんなことが起きるなんて」と思ったことでしょう。

しかしテレビなどの報道や今ではネットで調べているうちに本当に宅間守だけが悪かったのでしょうか。そこまで育ててきた親にも原因があるとしか言えません。

母親が「おろしたいねん」と言った時には第6感的な何かが働いたのかもしれませんが、やはり育てる環境と親の愛情が何よりも子供に必要だと思います。実際高校生の時に宅間守は反省文を書きこの時は自分を客観的に見ることが出来ているのですから。

そして附属池田小事件が起きてからは全国的に主に小中学校の安全について見直されました。事件時の対応が十分であれば被害ももっと抑えられたかもしれません。少なくとも門が閉まっていれば宅間守とすれ違った教師も不審に思うことが出来たはずです。この事件では関係のない人々も学ぶことが多かったと思います。

今でも被害者の中には心に傷を負っている方もいます。当時中学生の時に同級生の喧嘩を見て過呼吸になってしまったり、被害者の母親の手記「あの笑顔もう一度会いたいよ」は心に響くものがあります。被害児童の同級生が5人2016年にNHKの取材に答えています。

また各地でも付属池田小事件を追悼する場面が見られました。被害児童がファンだったという宇多田ヒカルさんが被害者に向けたCDをリリースしたり、日本対フランス戦のFIFAコンフェデレーションズカップでは両国の選手が被害者に黙祷を捧げる場面もありました。

この現在の日本では普通に起こりうることを想定出来ます。こうして手記や書籍、ネットや芸能人からの追悼やエールを糧に絶対に風化させてはならない事件の1つです。