植松聖という男のことを、あなたは覚えていますでしょうか?
相模原障害者施設殺傷事件という、痛ましく恐ろしい事件を起こした人物です。戦後に起きた最悪の事件とされる、この相模原障害者施設殺傷事件が起きた当時、彼の異常さとあまりにも悲惨な出来事として、ニュースではこの話題で持ちきりでした。
身柄を移送するために乗せられた車内にて、彼が浮かべていた狂気じみた笑顔が記憶に残っている人もいるのではないでしょうか。
まずは、この事件の犯人である植松聖という人物について、その生い立ち・経歴からご紹介していこうと思います。
植松聖の生い立ち
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植松聖という人物を知るには、まず、どのような生い立ちであったのか?どのような経歴の持ち主であったのか?ということを知ることが必要でしょう。
ある人物を知るには、どのようにしてそうした人格が形成されたのか、という過程を知ることが重要です。つまり、生い立ちを知っていくことで、植松聖の現在についても理解しやすくなるのです。
そこで、まずは植松聖の生い立ちからご紹介します。
植松聖は1991年1月20日に、東京都・日野市の多摩平団地にて生まれました。植松聖の家族に兄弟はなく、植松聖は一人っ子長男であり、家族構成は父親と母親、そして植松聖と三人家族です。植松聖の生い立ちの一つとして、日本国籍を持ちつつも、在日韓国人であるという話が彼の同級生によって語られています。
植松聖と両親一家は、同年の1月、相模原障害者施設殺傷事件が起きてしまった神奈川県・相模原市に引っ越しています。その自宅は、相模原障害者施設殺傷事件の現場となった知的障害者福祉施設・津久井やまゆり園から、たった500メートルほどの距離にあったそうです。
植松聖の子供時代
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植松聖の生い立ちの一つとして、子供時代の植松聖がどのような評価を受けていたのかをご紹介します。
植松聖はとても心優しい性格だったようで、猫がいじめられているのを見れば庇ってやる、というような行いもしていたそうです。
こうした、平和主義や弱き者を守るという話が出る生い立ちが過去にあったと知ると、その後、相模原障害者施設殺傷事件を起こすような成長を辿る生い立ちであったとは思えません。
また、家族である母親・父親からは「さとくん」という愛称で呼ばれ、一人っ子だったこともあってか、母親・父親両方からとても可愛がられて育ったようです。植松聖の家族である母親・父親の溺愛ぶりからすると、彼が生まれてから成長していく中での生い立ちで、特別苦しい家族関係の中にあったとも考えにくいでしょう。
植松聖の生い立ちとして、こうした心優しい面を感じさせるエピソード、微笑ましいエピソードを知ると、子供時代の植松聖には問題があるようには思えません。
むしろ「明るい子」「礼儀正しい子」など、周囲からの評価は大変良い、いわゆる優等生的な子供であったようです。
植松聖の経歴
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続いて、植松聖の生い立ちの一つとして、その経歴をご紹介していきます。
彼は相模湖町立千木良小学校(現在の相模原市立千木良小学校)に入学し、卒業後には相模湖町立北相中学(現在の相模原市立北相中学校)へと進学しました。その後、東京都の私立高校に入学したのですが、この頃から、植松聖の異常な行動が見受けられるようになります。
同級生を殴り、転校したというのです。
しかし、植松聖は家族である父親と同じ教師になることを目指し、そのために帝京大学の文学部・教育学科へと進み、初等教育学を学びました。
植松聖の大学時代の評価
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植松聖の生い立ちとして、大学時代はどのように過ごしていたのかをご紹介します。
植松聖は、人間関係においても学生生活においても、特別な問題はないどころか良好に過ごしていたようです。近隣住民や当時交友関係にあった知人曰く「好青年というイメージだった」とすら話しています。
「子供好きであった」「明るくしっかりと挨拶する人だった」と、他人から見た植松聖の印象は、相模原障害者施設殺傷事件のような事件を起こすことになるとは、到底思えぬ人物像だったのです。
道を逸れた植松聖
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植松聖の生い立ちの一つとして、彼がいかなることをきっかけとし、道を逸れてしまったのか?こちらをご紹介していきます。
植松聖が大学で教育学科へと進んだのは、先にも記述しましたように、植松聖の家族の一人・父親が教師であったことに影響を受けたためです。植松聖は父親と同じ道に進もうと志しました。近所の小学校で教育実習も受け、教員免許のために努力しました。
しかし、植松聖は結果的には教師にはなれませんでした。
大学卒業後の植松聖
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植松聖の生い立ちとして、大学卒業後にはどうしていたのか?こちらも気になるところでしょう。
尊敬していたのであろう家族・父親と同じ教師にはなれなかった植松聖は、大学卒業後には自販機の設置業者やデリヘルの運転手など、様々な職種を経験しました。
そうした中で、2012年の1月1日に、悲劇の相模原障害者施設殺傷事件の舞台となってしまった知的障害者福祉施設・津久井やまゆり園に非常勤の職員として採用されます。
そして翌年の8月に行われた、施設を運営している社会法人の就職説明会にて評価され、植松聖はやまゆり園の常勤職員として、2016年の2月に退職するまで勤務していました。
相模原障害者施設殺傷事件という恐ろしく残酷な事件の犯人・植松聖の生い立ち、そして彼の生い立ちから感じ取れる家族関係の良好さ、周囲の人々からの評判を考えると、こうした取り返しのつかない間違いを起こすことは、その人物像からは想像できなかったことがよく分かります。
しかし、植松聖が相模原障害者施設殺傷事件を起こすまでの生い立ちの中には「好青年」というイメージを覆すエピソードもいくつも存在しているのです。
家族である父親と同じく教師を目指していたはずの植松聖は、恵まれていたとも感じられる生い立ちでありながら、なぜ道を外れてしまったのか。植松聖の異常な行動については、この後にご紹介します。
彼が望んでいた「家族である父親と同じ教師になる」という夢は、叶わずに終わりました。
その原因となった出来事も含めたエピソードの数々は、植松聖の異常性がよく分かる内容ですので、こちらもチェックしてください。
相模原障害者施設殺傷事件の概要
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植松聖が起こした相模原障害者施設殺傷事件というは、一体どのような事件であったのか?
この項目では、相模原障害者施設殺傷事件の概要を解説していきます。事件前からその後、逮捕から裁判、そして現在に至るまでをご紹介しますので、順を追ってこの事件を辿っていきましょう。
相模原障害者施設殺傷事件は、2016年の7月26日に起きた事件です。相模原市にあった知的障害者福祉施設・津久井やまゆり園が、事件の舞台となってしまいました。
この相模原障害者施設殺傷事件による被害者は、負傷者が26人、そして19人が殺害されるという非常にショッキングな事件でした。植松聖は、施設の職員たちを結束バンドで拘束し、職員に対しては「障害者を殺しに来た」と言ったそうです。
そして、職員たちの目の前で、入居者たちを殺害していきました。植松聖は、凶器としてナイフなどの刃物を5本所持しており、犯行の際にはまず入居者に声をかけ、返事がないことを確認し犯行に及びました。
しかも、入居者の名前を叫んでいたこともあり、特定の人物を狙っていたともされています。
更には、犯行時に勤務表を確認し、自分よりも体格の良い職員がいないかなどを調べていたり、凶器などを詰めるバッグとしてスポーツバッグを用意し、より行動しやすくしようと考えていました。
これらの行動からも、この相模原障害者施設殺傷事件は計画的に行われたものだ、とされています。
【相模原障害者施設殺傷事件】事件前
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植松聖は、相模原障害者施設殺傷事件を起こした2016年の7月26日より時を遡り、同年2月までは惨劇の舞台となってしまった津久井やまゆり園にて働いていました。
勤め始めは熱心だったようで「入居者のことがかわいい」とまで言っていたようです。その生い立ちとしてご紹介した子供時代の彼の評価は「心優しい少年」でした。
この時点では、相模原市障害者施設殺傷事件のような大事件を起こすような気配は見られなかった、と考えられます。
しかし、植松聖の先の「入居者のことがかわいい」との発言から感じ取れる、入居者たちに抱いていた一種の慈しみのような感情は、次第に変質していったようで「思い通りにいかない」という発言もしていたそうです。
この時点で、植松聖による入居者への暴力・暴言などの異常な行動が見受けられるようになり、何度も面接や指導がありました。
更に、直接的な業務との関係はないものの、刺青を入れるなどの行為もあり、そうした問題行動が目立ってきた頃には、やまゆり園の職員が「植松聖が入居者に対して暴力を振るっている。どうすればいいのか分からない」と、元職員だった人物に相談していました。
植松聖はやまゆり園で仕事をするうち、どういった心境の変化か「重度の障害を持った人間は、生きているべきではない。安楽死させるべきだ」などという思想を抱き始め、同僚職員に対し「重度の障害者を殺す」などといった不穏な発言もしていたそうです。この出来事から、植松聖が抱えていた異常性は理解できます。
施設側はこうした植松聖の行動を深刻な問題として捉え、警察へと相談します。その結果、植松聖には「他者を傷つける可能性がある」とし、植松聖に病院で精神的問題の診察を受けさせることになりました。
その結果、植松聖は大麻精神病・非社会性パーソナリティー障害・妄想性障害・薬物性精神病性障害などといった、複数の診断を受けました。これらの診断を受け、植松聖は措置入院します。
そして、植松聖は体中に彫っていた刺青、施設の入居者に対する暴力行動を理由として、解雇されました。
また、2016年の2月17日には、植松聖は自身の友人たちに向けて、相模原市障害者施設殺傷事件の実行を匂わせる不穏なメッセージをLINEで送っています。「重度の障害者を生かすには、莫大な費用がかかっている」といったことから始まり、自らの考えを述べた内容でした。
しかも、その後に友人に電話し「一緒に実行してほしい」と言ったり、反論してきた友人に対しては「殺してやる」といった脅しをかけるなどの行動も取りました。
植松聖の主張に怒りを覚えた友人が、彼を殴って考えを改めさせようとしても、一切取り合わなかったそうです。
【相模原障害者施設殺傷事件】事件後
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相模原障害者施設殺傷事件を起こしたその後、植松聖は自ら神奈川県警・津久井浜署に出頭し、身柄を確保されました。
しかし、犯行後に自らのTwitterアカウントで「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」という投稿をしていることから、植松聖が犯行を後悔していたり、自責の念を感じていたとは考えにくいと言えるでしょう。
更に、出頭前にはコンビニに立ち寄り、菓子パンを購入するなどしていました。そもそも、相模原市障害者施設殺傷事件のような事件を起こすなどということは、通常の感覚であればありえないでしょう。
しかし、そのようなとんでもない大事件を起こした後の行動としても、これは異常であると言えます。後悔や焦りなどといった感情が感じ取れません。
【相模原障害者施設殺傷事件】逮捕・裁判
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逮捕された後の植松聖は、取り調べに対して「やまゆり園を辞めさせられたことを恨んでいた」というのを、動機の一つとして答えたようです。
その他にも、やまゆり園にて働いていた際にも零していた「障害者はいなくなるべき」「障害者は生きる価値がない」といった内容や「神からのお告げ」などといった異様な発言もありました。
より掘り下げていくと「国が障害者の安楽死を認めないので、自分がやった。自分は救世主だ」「障害者を持つ家族を哀れに思うし、事件を起こしたのはその不幸を解決するためだ。
こうした考えを持っているのは自分だけではないはずだが、誰もこの問題を解決するようなことを実行しないため、自分がやった。これは日本のためである」という旨の供述が捜査中に出てきたようです。
捜査中には精神鑑定もあり、その中で、植松聖は自己愛性パーソナリティー障害などといった複合的なパーソナリティー障害を抱えている、ということが判明しました。
しかし、相模原市障害者施設殺傷事件における植松聖の行動には「計画性がある」「合理的な行動をしている」ことなどを始めとした理由から「犯行時には心神喪失状態などではなく、刑事責任能力を問える状態であった」と判断されます。
出頭から捜査が進んでいく中で、植松聖の罪状は重なっていき、計3回の逮捕となりました。
事件発生から約7ヶ月に及んだ相模原市障害者施設殺傷事件の捜査は、2017年2月24日に植松聖を殺人罪、殺人未遂罪、逮捕・監禁罪、逮捕・監禁致傷罪、建造物侵入罪、銃刀法違反の6つの罪状で、横浜地方裁判所に起訴することで終結となりました。
【相模原障害者施設殺傷事件】現在
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相模原市障害者施設殺傷事件による被害者の家族に対しては「(被害者と)突然のお別れをさせてしまって申し訳ない」という発言はあったようですが、被害者に対する謝罪の言葉などはありませんでした。
むしろ、相模原障害者施設殺傷事件のような大量殺戮事件を起こしておきながら、植松聖は反省や自責の念を感じているような様子も見られず、現在も「重度の障害者はいなくなるべき」といった主張を変えることなく、面会に訪れる取材記者などに持論を語っているようです。
こうした記者との面会中での内容、手紙などを元にした『開けられたパンドラの箱』が出版され、賛否両論の声が上がっています。
植松聖による被害者に対する謝罪はない、と先述しましたが、2018年の1月に行われた時事通信社の記者との接見取材において、植松聖が展開する自論の一つである「障害者の安楽死」について記者が触れ「刃物で刺して殺害することは、安楽死ではない」と指摘したところ、初めて「申し訳なかった」と口にしたそうです。
しかし「他に方法が思いつかなかった」という言葉もあったようなので、植松聖が抱く思想の根本には変化はないと思われます。この時「自分が殺したのは人間ではないので、殺害には正当性がある」「(自分の罪は)懲役20年程度が妥当だ」「死刑判決を受けたとすれば『バカ言うな』と言う」との発言もあったようです。
こうした強気な発言を繰り返していましたが、2019年の4月に行われた『神奈川新聞』の記者に対して、植松聖は「死にたくない」などと述べたそうです。
しかし、やはり障害者に対する差別的発言については、その主張を覆してはいない模様です。
植松聖本人は、自らの思想に絶対的な正当性を感じ、相模原市障害者施設殺傷事件を起こしたはずです。そして、この事件によって亡くなられた被害者はもちろんのこと、この事件によって、家族を失った遺族の怒りや悲しみは相当なものでしょう。
しかし、相模原障害者施設殺傷事件というショッキングな出来事は、世間の人々も傷つき、悲しんだ人々もいれば、恐怖を感じた人々も多くいます。
そうして戦後最悪とまで言われた事件を起こした当の本人・植松聖が「死にたくない」と口にするのは、被害者を失い残された家族たちを始めとし、多くの人々に複雑な感情を抱かせるに十分ではないでしょうか。
以上が、現在明らかになっている植松聖の現在です。
植松聖のやばいエピソードを紹介
引用: Pixabay
ここからは、植松聖のやばいエピソードをご紹介していきます。
相模原障害者施設殺傷事件を起こした植松聖という男を知るに、彼の異常性が垣間見えるエピソードをピックアップしています。
植松聖の人格、そして、相模原障害者施設殺傷事件を起こすに至った経緯も、ここから感じ取れるものがあるかもしれません。
危険かつ異常・または支離滅裂な発言
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植松聖の発言には危険思想的なものもあれば、常人には理解できない発言も多くあります。
「ナチス・ドイツの思想が降りてきた」という相模原市障害者施設殺傷事件に直接的に関わっていると思われる発言が目立ちますが、他にも「自分はフリーメイソン信者」「UFOを見た」など、オカルト系のものもあります。
そして、自身の同級生らに対しては、会話中に「革命」という言葉を繰り返し使っていたとの話もあります。
相模原市障害者施設殺傷事件の動機ともしている、植松聖の主張である「障害者は生きている価値がない」「安楽死させるべき」といった内容の実現を「革命」という言葉で表していた、と思われます。
急激な見た目の変化:刺青を入れる
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生い立ちを紹介する中でも記述しましたが、大学時代の植松聖の人間関係は良好で「好青年」というイメージであった、と近隣の住民などから評価されていました。
しかし、20代の前半に交友関係に変化があったようです。帝京大学在学中には素行の悪い人物との関わりを持ち始め、その頃には上半身から下半身に至るまで、ほぼ全身と言っていいほどに刺青を入れました。
植松聖は「強い人間」に憧れを持っていたとのことですので、植松聖のイメージとして「強い人間」が持ちうるもの=刺青ということだったのかもしれません。
しかし、この刺青が原因で、父親に倣い目指していた教師という夢を叶えることはできなくなりました。
刺青については、2015年6月頃から、植松聖が尊敬していた刺青彫り師に弟子入りし、刺青の技術を学ぶ修行をしていました。
しかし、この尊敬していたとする刺青の彫り師に対しても「障害者は皆殺しにするべき」などといった発言をしていたため、彫り師がドラッグ使用を疑い破門にした、というエピソードもあります。
漫画の絵
獄中にある植松聖ですが、彼がその中で描いた漫画が月刊『創』にて掲載されました。
この漫画は植松聖自身が、相模原市障害者施設殺傷事件を引き起こした動機や、彼の考える思想からなる世界観を描いたものです。漫画の絵はかなり独特で、人によっては恐怖や嫌悪感を感じさせる画風でもあるでしょう。
しかし、詳しくは後述しますが、植松聖の家族である母親が漫画家であったことが影響しての才能か、植松聖の絵を描く能力そのものは高いものだと評判になっています。
そして、彼が刺青の彫り師として修行していたという話があるので、そうした絵を見た人の中には「これだけの画力があるのならば、刺青の彫り師として生きていけばよかったのではないか」という意見も見かけます。
大麻や危険ドラッグの使用
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2010年頃には、植松聖は大麻などの危険薬物に手を出し始めます。
これもまた「強い人間」への憧れからの行動のようです。しかし、次第に植松聖は「大麻では効かない」と、危険ドラッグの吸引もするようになります。
相模原市障害者施設殺傷事件前、施設側の要請を受け措置入院し、退院したその後にも大麻・危険ドラッグの使用をしていたようです。
半グレ集団・右翼関係者と関わりを持つ
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半グレ集団とは、暴力団などの組織に所属しているわけではないが、犯罪を繰り返すような人々の集まりのことを指します。
植松聖は、そうした危険人物たち、また右翼関係者との交友関係を持っていました。
事件後のSNS等への投稿
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相模原市障害者施設殺傷事件という凄惨な事件を起こした後、植松聖は自身のTwitter、Facebookで自撮り写真を投稿しています。
もちろん一般的な良識の持ち主であれば、相模原市障害者施設殺傷事件のような犯行には及びません。
しかし、そのような事件を起こした後、こうした投稿をできる神経とは、明らかに常軌を逸していると言えるのではないでしょうか。
『ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)』という計画書を作っていた
引用: PAKUTASO
植松聖は、2016年2月頃に『ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)』という計画書のようなものを作成していたようです。これは、医療大麻解禁や、暴力団を日本軍隊として採用する、そして障害者の殺害などについて記されたものです。
こうした具体的な計画書を作成するなどの行為は、植松聖の異常性をより際立たせるように感じさせます。
家族間で何かしらの問題を抱えていた
引用: Pixabay
相模原市障害者施設殺傷事件の舞台となってしまったやまゆり園から、僅か500メートルほどの場所に自宅を構えていた植松聖を含む家族たちですが、相模原市障害者施設殺傷事件の4,5年前に、一人息子として可愛がっていたはずの植松聖を残し、家族である母親・父親は出て行ったようです。
母親と父親のみが、一人息子であり、その生い立ちからも窺えるほど可愛がっていたはずの家族・植松聖を残し自宅を出て行った理由については、複数の話があり「植松聖の母親による、近隣住民とのトラブルが原因」というものもあれば「息子である植松聖が刺青を入れたことに、家族が激怒したため」というものもあります。
この後に記述する、植松聖の母親の生い立ち・経歴でも、これについて触れていきます。
大島理森衆議院議長と安倍晋三首相に対し手紙を送る
引用: Pixabay
植松聖は2016年2月に、大森理森衆議院議長に宛てた手紙を持参し、衆議院長公邸に訪れています。
初め、職員に手紙の受け取りを拒否されますが、翌日も訪れ、座り込みなどの迷惑行為を行い無理矢理に手紙を受け取らせています。
「障害者が安楽死できる世界を」というタイトルのその手紙の内容は、自身のプロフィールと共に、障害者の殺害計画や、その行為に対する自身への見返りについて書かれたものでした。これを犯行予告と捉えた衆議院事務局は、警察に通報、手紙の提出をしたそうです。
また、安倍晋三首相に対しても手紙を書いていたようで、これも同月に自由民主党の本部に赴き渡そうとしていました。
植松聖の母親の生い立ち〜現在を解説
相模原障害者施設殺傷事件の犯人である植松聖については、ここまでで理解していただけたかと思います。
この項目では、その植松聖の家族である母親について、その生い立ちから現在を解説していきます。
生い立ち・事件前
引用: Pixabay
植松聖の母親の名前は、植松麻里とされています。
母親の植松麻里は、過去に漫画家をしていたという話があります。それによると、1990年代に発刊されていたホラー月刊誌にて連載を抱えていた漫画家だった、とのことです。ペンネームは、本名である植松麻里をそのまま使っていたようです。
この植松聖の母親が描いたとされる漫画には、かなり過激な描写があり、その内容もショッキングなもので、子供には見せられないような漫画だったようです。
一部の声では「母親が描いた漫画が、植松聖に悪影響を与えたのでは?」というものもあります。
植松聖自身がオカルト的な考えに傾倒していたことを鑑みるに、もしも植松聖が母親の描いた漫画を目にしたことがあるとすれば、そこから影響を受けた可能性もある、という指摘です。
先に記述した、植松聖のみを残しての母親・父親の転居の理由は定かではありません。しかし「夜中に植松聖の母親のものと思われる、女性の泣き叫ぶ声があった」という話があり、それから半年ほどが経った頃に、母親・父親のみが転居したそうです。
家族間でどのようなことが問題となっていたのかは謎ですが、母親については植松聖との生活に堪えかねての転居ではないのか?と思われます。
事件後・現在
引用: Pixabay
母親の現在は、明らかにはなっていないようです。
しかし、息子である植松聖が起こした事件での影響はもちろんのこと、氏名や過去の職業が漫画家であったことなどが知られてしまっている以上、穏やかな生活を送っているとは考えにくいでしょう。
息子・植松聖との生活に堪えかねての転居か?との話もありますので、母親の現在を知ることは難しいと思われます。
植松聖の父親の生い立ち〜現在を解説
引用: Pixabay
相模原市障害者施設殺傷事件の犯人である植松聖の家族として、父親の存在もあります。
この項目では、植松聖の家族である父親について、その生い立ちから現在を解説していきます。
生い立ち・事件前
引用: Pixabay
植松聖の父親については、母親と共に父親が転居した後も植松聖が一人住んでいた自宅の所有者が「植松竜司」という名前であったため、これが植松聖の父親の名前ではないか?とされていました。
植松聖の父親とされる植松竜司は、東京都町田市内にある小学校・町田市立町田第六小学校で、図工の教師として勤めていたそうです。
養護教諭であったとの話もありましたが『FRIDAY』で、幼馴染だという人物から「図工の先生だった」と語られています。
事件後・現在
引用: Pixabay
更に、この植松聖の父親とされる植松竜司が勤務していた町田第六小学校では、事件後に急遽保護者会が開かれ、そこで「息子がとんでもないことを起こしてしまいました。申し訳ありません」という旨の、いわゆる謝罪会見のようなものを、植松竜司という教師がしたというのです。
これらのことから、植松聖の父親は植松竜司という名前で、職業は小学校の図工教師であった、ということでほぼ確定としていいでしょう。
父親のその後、現在についての詳細は明らかではありません。
相模原障害者施設殺傷事件の犯人、植松聖
松澤チョロさん(@choromen_85)がシェアした投稿 – 2017年 2月月23日午後6時00分PST
相模原市障害者施設殺傷事件という、戦後最悪とまで言われた凄惨かつ卑劣な事件の犯人・植松聖の生い立ちから現在と、彼の家族である母親と父親の生い立ち等について、ご紹介しました。
相模原市障害者施設殺傷事件発生当時、世間はこの話題で持ち切りで、どんなメディアでもこの事件を取り扱っていました。しかし、残念ながらどんな事件であれ、時が経つにつれ、少しずつ人々の記憶の隅に追いやられていってしまうのが現実です。
ただ、忘れず心に留めておいておかなければならないのは、植松聖が主張しているような「障害者は生きている価値はない」などといった思想は、まかり通るものではないということです。折に触れ、この相模原市障害者施設殺傷事件を風化させないように、何らかの形でまた話題となることがあるかもしれません。
植松聖の生い立ちから考えるに、道を外れるとは思えないという人物であれ、辿る道によっては大きな間違いを犯す可能性もある、というのがこの記事からも伝わったのではないかと思います。人を傷つけることは、何があっても肯定されることではありません。
植松聖自身が精神的に何らかの問題を抱えていたのだとしても、捜査中に「刑事責任能力を問える」と判断されたように、植松聖が起こした相模原市障害者施設殺傷事件は、計画性のある犯行でした。これは到底許される罪ではありません。
私たちがこの相模原市障害者施設殺傷事件を受けて考えるべきは、人の命という大きなテーマですが、だからこそ忘れてはいけない事件でしょう。
二度と同じような悲劇が起こらないことを、心から願います。