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今から22年前のゴールデンウィークに、日本中を揺るがす大事件が起きたことを覚えておられるでしょうか?
奈良市の北東部、お茶の産地で有名な旧月ヶ瀬村(2005(平成17)年に奈良市に編入)で、1997(平成9)年5月4日、中学2年生の浦久保充代さん(当時13歳)が卓球大会からの帰りに行方不明となりました。
地域の人達だけでなく、連絡を受けた奈良警察署の署員を含め捜索していたところ、夜遅くになって村道の近くで充代さんの靴が見つかり、ガードレールにはタイヤ痕と血痕、さらに西部浄化センターのトイレ内から引き裂かれた充代さんの衣類が発見されました。
しかし、充代さんは発見されず、行方不明から2ヶ月たった7月23日、兼ねてより重要参考人としてマークされていた村内在住の丘崎誠人(当時25歳)が逮捕されます。そして丘崎の自供により、8月3日に三重県上野市郊外の御斎峠付近で、充代さんは白骨化した遺体で発見されたのです。
事件発生の同年より行われた一審裁判で、翌98(平成10)年、奈良地裁は丘崎誠人に懲役18年の判決が下されました。しかし検察や充代さんの遺族は極刑を求め控訴し、裁判は二審へ突入しました。
そして2000(平成12)年6月14日、二審の大阪高裁は一審の懲役18年を破棄し、丘崎誠人に改めて無期懲役の判決を言い渡しました。弁護側は上告の準備を進めましたが、丘崎誠人自身が取り下げ、同年判決が確定します。
これがいわゆる「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件,」と呼ばれるものです。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の概要
事件の起きた月ヶ瀬村とは
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前述の通り、月ヶ瀬村は2005(平成17)年に奈良市へ編入されました。奈良市内から車で約1時間掛かる旧月ケ瀬村は、古くから茶の産地と見事な梅林で有名な場所です。
事件直近の1995(平成7)年の国勢調査によると、旧村内の人口は2012人だったそうですが、現在は1000人を切っているとの事です。
被害者・充代さんが通っていた中学校
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事件当時に充代さんや犯人・丘崎誠人が通い、事件のきっかけとなった卓球大会が開かれた旧月ケ瀬村立月ケ瀬中学校は、1947(昭和22)年開校しましたが、その後過疎化による児童減少から2017(平成29)年に奈良市立月ケ瀬小中学校となりました。
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丘崎誠人が浦久保充代さんを轢いたとされるのは、三菱「ストラーダ」。
ピックアップトラックと呼ばれるもので、車のローンは親が払っていたそうです。
何故充代さんは丘崎誠人を無視したのか?
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一般的に、地域の知人などから声を掛けられたなら、何等かの受け答えがあっていいのではと思われたでしょうが、事件の捜査を通じて充代さんが丘崎誠人からの呼び掛けを「完全に無視し続けた」そうです。
その最大の理由として、地域の中で丘崎誠人が忌み嫌われる存在だったと言われています。定職に就かず、事ある毎に地域の人達にケンカを売る正確だったため、充代さんの事件が起きた時真っ先に「アイツがやったに違いない」とウワサが広がったそうです。
加えて旧月ヶ瀬村には「与力制度・区入り制度」という掟が存在しました。これは、別の地域から旧月ケ瀬村へ移り住んだ際、少なくとも村民の家長2人から推薦を受けなければ区入り出来ない(村民になれない)と言う出度で、加えて、
①区入り出来ないと、実質地区の関りは殆どない
②「葬式」「火事」以外、地区から援助をしてもらえない
いわゆる「村八分」の語源とも言われる差別があり、別の地域から移り住み加えて部落出身者だった丘崎一家は、村民扱いをされる事は一切なかったかため、充代さんもその習わしに従って丘崎誠人の言葉を無視し続けたのでは?と言われています。
丘崎裁判が今も語り継がれる理由
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丘崎誠人巡る一審二審の裁判については、数多くの著書やブログなどで今なお語られています。
一審二審を通じて丘崎誠人の支援取りまとめを務めた高野嘉男(故人)は、後の部落解放同盟の集まりで、
「狭山事件や甲山事件と言い、『部落出身者』と言っただけで『即犯罪人扱い』『極刑に処すべき』とする考えが今も残る事は、この国が何ら近代化していない事を如術に示している。戦後人権尊重の考えが根付いたと言うのは全くの嘘で、こうした事(「奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件,」)が起きる度、私達は何ら差別から解放されていない事を思い知らされる。」
と語ったそうです。
裁判を通して、丘崎誠人は自身が部落階級出身者であったことを一貫して主張したため、全国の部落解放同盟が裁判を批判する全国キャンペーンを始めたそうです。
その事が、一審で有期刑の判決を引き出す結果となったとも言われ、慌てた検察側は、二審で丘崎誠人が充代さんに対する性的暴行を目的に襲ったと主張を変え、ようやく無期刑を勝ち取ったとされています。
一方、二審裁判長として丘崎誠人を裁いた河上元康弁護士は、2010年に受けたインタビューの中で有期刑から無期懲役に変えた理由として「罪の重さを深く自覚して欲しかった。自覚するにはより時間が必要で無期懲役を科すべきと考えた。」と述べました。
河上氏が裁判長として示したこの考え方は、後に殺人など初犯で重罪を犯した者が、情状酌量で有期刑に留まるとした従来の司法判断にストップを掛けたと言われています。
例え初犯であっても無期刑以上の量刑を科す判決を下す流れをつくり、法廷で遺族が意見を陳述出来る制度を作る背景になったとも言われています。
地域移住サポーター制度のきっかけに
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現在では都市部より旧月ケ瀬村の様な地方へ「移住する」のがブームとなっているようですが、奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件をきっかけともいわれ、国や地方自治体が地方移住促進のため、地域と移住を希望する人達との橋渡しをする「地域移住サポーター」制度が出来たと言われています。
被害者・浦久保充代について
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奈良月ヶ瀬村女子中学生殺人事件の被害者となった浦久保充代さんは、どの様な人だったでしょうか?
充代さんは1984(昭和59)年6月、村内で茶農家を営む家の長女として生まれたそうです。幼い頃から活発で、小学校や中学校を通じてクラスの人気者だったことが言い伝えられています。
丘崎誠人の生い立ち
丘崎誠人の生誕と家族
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「奈良月ヶ瀬村女子中学生殺人事件,」の犯人である丘崎誠人とは、どの様な人物なのでしょうか?
丘崎誠人は1972(昭和47)年生まれで、村内で生まれたとの説もありますが、正確には旧月ケ瀬村と接する京都府相楽郡南山城村で生まれたとされています。
父親は朝鮮半島出身の土木作業員・母は周辺部落地区出身の日本女性と言われ、5人兄弟の長男として生まれました。
丘崎誠人が未だ物心つかない頃、一家はそれまで住んでいた京都から旧月ケ瀬村へやって来たとされます。理由については「地域で厄介ごとが起き、居辛くなった」と言う説が一般的ですが、父親の職場の都合と言う説もあります。
概要の章でお話した通り、旧月ケ瀬村は余所者を寄せ付けない地域性であり、加えて朝鮮人や部落の血が流れている事で忌み嫌われ、居住に適した場所にすら住むことを許されず、川べりの土手の荒れ地に物置小屋同然の建物を建て暮らします。
幼い頃から家族と断絶
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丘崎誠人は、幼い頃から両親に叱られる事なく育ったと言われています。
一見性格の良い子だった様に見られますが、実際は生活に追われていた丘崎誠人の両親から放任されていたと見るのが正しいでしょう。
後に両親と言葉を交わすのは、年2・3回になったそうです。
丘崎誠人の経歴
壮絶ないじめと地域への恨み
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小学校へ上がった丘崎誠人は、部落出身の子供であることが災いし、入学当初からいじめを受けます。
子供達からだけでなく、担任の教師から言われない疑いを掛けられ体罰を受けたとされ、更には地区で起きた不審火の犯人として、まだ小学生だった丘崎誠人が疑われる程、酷い扱いを受けました。
中学校では不登校に
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丘崎誠人に対するいじめは、中学生になると学校を挙げて行われたといわれ、中学二年の時に教師から体罰を受けたことがきっかけで不登校となりました。
中学校は、卒業証書を宅配が如く同級生に家へ届けさせる始末。丘崎誠人は、卒業証書をその日の内に焼き捨てたと言います。
村全体に対する恨みから家を離れる
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中学を卒業した丘崎誠人は、測量会社のアルバイトをきっかけに旧月ケ瀬村の外へ出て行きます。
学校を通してのいじめや地域からの偏見や差別を日頃から受けていた丘崎誠人は、「二度と村には戻らない」と家族や周りに話していたと言われます。
しかしいずれも長続きせず、18歳の時に再び村へ舞い戻ります。
パラサイト化する丘崎誠人と地域との対立激化
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村へ戻った丘崎誠人はその後定職に就かず、父親に農協のローンを組ませて買わせた車を乗り回し、京阪神の風俗街へ繰り出し、しばらく生活を送りました。
その様な生活を送る丘崎誠人に、地域の人々は益々忌み嫌い、すれ違ったり顔を合わせる度に激しい罵り合いとなりました。こうした事が重なり、丘崎誠人は次第に地域の人々との対立を激化させて行きます。
丘崎誠人の犯行動機は
犯行動機は充代さんに無視されたため
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事件を巡る取り調べの中で、丘崎誠人は「充代さんに無視されたのでカッとなって車で轢いた」と供述しました。
事件当日、丘崎誠人は訪問先の滋賀県内から車で帰宅の際、村道を一人で歩いていた充代さんを見掛け「同じ地区内だから送って行ってやろう」という親切心から充代さんに声を掛けたそうです。
供述の中で丘崎誠人は「充代さんから『結構です』とか『家族が近くに迎えに来ているあら大丈夫』等と返答があっていい筈が、こっちを向くでもなく一切無視して歩いて行った。それでカッとなって車で轢いた。」と憤激しながら供述したと言います。
動機の奥底に流れる地域への恨みと復讐心
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しかしその一方、丘崎正人は捜査での供述の中で「長年に渡る地域や学校からのいじめや差別から、地区で何か騒動を起こして迷惑を掛けてやろうと思っていた。」と話したそうです。
後の裁判の中で、検察側が「長年に渡る地域への恨みと復讐心が、犯行のきっかけともなった」と冒頭陳述で述べた事も、丘崎誠人の「動機,」の奥底に「地域への恨み」が深く横たわっていたとする見方もあります。
丘崎誠人の現在
大分刑務所で自殺
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上告断念で無期懲役が確定した丘崎正人は、後に大分県の大分刑務所へ収監されます。
しかし一年後の2001(平成13)年9月4日の夜、丘崎正人は独房内で首を吊って自殺しました。就寝消灯時間までのわずかな間の出来事で、看守が目を僅かな間だったと言います。
丘崎誠人が自殺した原因については種々語られていますが、関係者の話で、無期懲役が予想された一審で懲役18年の判決が出た時、丘崎誠人は非常に喜んだと言います。
刑の繰り上げ釈放が見込まれる有期刑が下されたことは、丘崎誠人の地域への復讐が達成されたことを意味します。
しかし二審で判決が無期懲役に覆され、丘崎誠人は大変なショックを受けたそうです。
情状酌量を求めるのに必要な地域からの署名等が全くなく、上告審で無期懲役を覆させるだけの要件に乏しかったことを、丘崎誠人は察していたようです。
大分刑務所に収監されて以降、丘崎誠人は一切面会を拒んだそうで、ある意味この頃から覚悟は決まっていた様にも見れます。
丘崎の家族はその後
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一方丘崎誠人の家族は、その後どうなったのでしょうか。
7月に丘崎誠人が逮捕されてから、一家は時間を置かず旧月ケ瀬村を離れたと言います。地域の人々によると、9月には一家が住んでいた家は空き家になっていたと言われています。
兄弟が離散する中、充代さんの月命日に丘崎誠人の両親は充代さんの墓を訪れ、草刈りをして線香を上げ、長い時間墓の前で手を合わせ続けていたそうです。
充代さんの家族もそうした両親の行為を黙認したそうで、2010(平成22)年頃迄まで続いたそうですが、関係者の話によると丘崎誠人の両親は、この2・3年の間に相次いで亡くなったそうです。
奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件のまとめ
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21世紀を目前とした中で起きた悲惨な奈良県月ヶ瀬村女子中学生殺人事件でしたが、当時を思い出された方も多いのではないでしょうか。
事件の舞台となった旧月ケ瀬村は、2005(平成17)17年に奈良市へ編入され、かつての様な閉鎖性の残る地域性は今は全く無くなったと言いますが、2000(平成12)年以降は過疎化が進み、地区の人口は1000人前後に減ったそうです。
急速な過疎化を物語る様に、事件の舞台の一部になった旧月ケ瀬中学校は、2017(平成29)年に奈良市立月ケ瀬小中学校と改編されました。
事件当時の事をする旧月ケ瀬村の関係者も、充代さんの両親を除いては少なくなり、事件当時遺品が見つかった場所は相次いで改装されるなど、事件当時の痕跡は殆ど無くなったそうです。
唯一、充代さんが住んでいた地区の道端に、充代さんを象った小さな地蔵が立っており、当時村で起きた悲劇を物語っています。