731部隊の真実!人体実験の証言や証拠写真がヤバすぎて絶句 | ToraTora[トラトラ]

今回、ご紹介させていただきます「731部隊」の記事ですが「タイトル通り」絶句してしまうほど「血生臭い」話となり、正直ヤバいどころの話ではありません。

1937年~1938年に日本軍が起こした「南京大虐殺事件」と同等の悪行を重ねていたとも言われていた731部隊。

タイトル通り、731部隊が本当に「人体実験」を行っていたのか?そこで、どの様な事が起こっていたのか?

「お国のためなら命も惜しまない」とされた日本国軍が、どうして悪魔に身を捧げる事になってしまったのか?

みなさまにとっても、真実を知る上でも大変、興味深い731部隊の記事になるのでしょう。是非、最後までおつきあいくださいませ。

731部隊の概要まとめ

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さて、これから「731部隊」が誕生する事となった経緯や、時代背景などの概要を一気にご紹介していきます。

ヤバい噂」をはるかに通り越した「危険レベルの話」になると共に、本当に奥深い話過ぎて簡単にはご理解いただけないかと思います。

ですが、「731部隊」で起こった事は、「全て事実」の事になり、決して盛られた話しでもなんでもありませんので、心して読み進めていただくようお願い申し上げます。

では、ご覧ください。

731部隊の時代背景

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19世紀から20世紀初頭は日本は帝国主義の時代であったため、武力闘争による領土分割が盛んに行われていました。

我が日本国も、「富国強兵」「脱亜入欧」を掲げて、アジア唯一の「帝国主義国家」として、近隣諸国を次々に侵略。

抵抗する中国国民党軍や、八路軍(共産党軍)と散発的な戦闘を繰り広げ、1937年には、華北以南に侵攻して、宣戦布告しないままに「日中間の全面戦争」に突入する事となります。

その事により、日本本土では、戦時統制経済が強化される事に。

翌年の1938年、国家総動員法が制定され日本国は、翌年の1939年にノモンハン戦でソ連と交戦。その、2年後の1941年12月には、日本国は米・英に宣戦布告し、「太平洋戦争」へ突入する事となったのです。

お国のため

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お国のため」「天皇陛下万歳!」一色だった、当時の日本国は、戦いに勝利する事だけが「至上目的」となっていたのです。

その事が、後に、中国や朝鮮への凄惨極まりない「軍事的支配」への足掛となってしまった事はいうまでもありませんでした。

石井四郎率いる「石井機関」のみならず、各地にあった陸軍病院までも、その悪事に加担する運びとなってしまったのです。

その事は、後に触れてまいります。

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第一次世界大戦の惨禍」を経験した日本の中に、協調と軍縮の流れが出始めた1928年8月。

9カ国条において、日・米・英などの主要9カ国が中国の領土保全や主権尊重を定めた条約に調印した日本国。

戦争を否定する初の国際条約に、それまで国際連盟に参加していなかった米・ソ連が参加した事により、平和維持に大きな期待が寄せられたのでした。

戦争放棄に関するパリ不戦条約には、以下のような文言が盛り込まれていました。

  • 第1条(戦争放棄)締約国は、国際紛争解決のための戦争を悪とし、国家間の戦争を放棄する事を各自の人民の名において宣言する
  • 第2条(紛争の平和的解決)締約国は、国家間の争いを全てを原因が何であろうとも平和的に解決しなければならない

このように定められていたパリ不戦条約に同意した日本国。

なのに、中国東北部や中国主要部を侵略するという強行に及んでしまった日本国軍。結果的に、東南アジア・米・英との太平洋戦争にまで拡大することとなったのです。

これにより、2000万人以上の犠牲者を出した日本軍でしたが、1945年の太平洋戦争の敗戦により日本国は撤退する事となります。

1931年~1945年までの15年間の侵略。いわゆる「15年戦争」でしたが、終結宣言なされてから70年経過した現在でも、石井機関による生物兵器攻撃を受けた被害者・加害者家族らは、日本を相手取り謝罪と賠償を求め続けていたのです。

「731部隊の首謀者」石井四郎の構想がさく裂する事となった「満州事変」

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では、日本国は、パリ不戦条約に調印しておきながら、何故、戦争に加担することになったのか詳細を見ていきましょう。

1931年、関東軍は、「満州事変」を起こして中国東北部を支配下におさめたことが転機となります。自身の構想を実現するチャンスを得た石井四郎は、ついに悪魔に魂を売ることとなったのです。

この石井四郎は、「731部隊」の「首謀的存在」役割を担っていた部隊長でした。

「悪」に目覚めた石井四郎は、満州事変の翌年・1932年に、東京・陸軍軍医学校において「防疫研究室」を設立。

さらには、防疫研究室を設立と同時に、ハルビン南東約70キロの五常近くの寒村「背陰河」に秘密部隊「東郷部隊」を設置。

しかし、石井四郎はこの施設で自分の構想を実現させるには不十分だと判断して、背陰河の施設を放棄してしまいました。

次に、ハルビン南東15キロの平房に大規模な施設を構えることを決めた石井四郎は、1935年頃、周辺の4つの村の住人たちを強制退去させ建築を開始したのです。

1939年頃には、専用飛行場、次に隊員とその家族が住める宿舎を建築していきました。そして、学校や神社まで併設した、石井四郎の構想通りの「巨大軍事基地」完成に至ったのです。

ですが、この巨大施設が731部隊らの悪の拠点になったのは、もう、いうまでもなかったのでした。

そもそも「関東軍防疫給水部」となに?

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防疫給水部とは、大日本帝国陸軍(1871年~1945年)に置かれていた「疫病対策」ならびに、「浄水」などのライフラインを確保する目的で発足された部隊でした。

自然界に存在する、病気を引き起こす微生物やウイルスの防疫活動、また、生物兵器に対する防護としての任務を担っていた医務の事だったのです。

各軍直属部隊や、各師団奴隷部隊として編成されていた「関東軍防疫給水部」でしたが、軍直属部隊として常設された部隊は、後に、陸軍軍医学校と共同で「生物兵器」や「化学兵器」の研究機関としての役割も果たしていたそうなのです。

「731部隊」の目論みとは?

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旧満州に進出した関東軍の軍事的脅威となっていた「ソ連」でしたが、それに対抗する手段を攻じていた石井ら731部隊。

そこで、「石井四郎」は、国際条約で禁止されていた「細菌」に着目し、「防衛目的」として、実行する事を決めたのだそう。

防衛目的などはただの名目で、現実には、「人体実験」に用いるための「殺人兵器」を作ろうとしていた石井四郎ならば、「人の命を救う医師」などではなく、ただの「悪魔」だったといえるのでしょう。

731部隊のあった場所は?

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中国東北部(旧満州)に位置するハルビン郊外に、現在も、その本部跡が残っているそうで、周囲数キロに及ぶ広大な敷地だそうです。

四角い3階建てのビルに相当するその建物には、当時は、最先端の研究室が並んでいたそうでした。

また恐ろしいことに、「人体実験」がなされていたとされる牢獄は、周囲の目の触れない場所に設置されていたとか・・・。

建物の形状が上から見たら、カタカナの「ロ」のような施設になり、周囲は土塀と高圧電流線と堀に囲まれていた上、実験材料である人々が脱走しても逃げられなよう中庭に位置する場所に、「特設監獄」が設けられていたそうでした。

そこには、「実験材料」となった多くの捕虜や囚人達が収容されていたそうで、「生身の実験材料」が集められていたとか・・・。

あなたはその光景を想像する事ができますか?生身の人間が実験材料になっていたなど信じる事ができますか?

本当にこの中で人体実験が行われ、細菌兵器や化学兵器を用いて、731部隊によって残虐な行為がなされていたのなら、到底、あり得ない事で容認する事などできないのでしょう。

では、次に、石井四郎率いる713部隊の組織図を見ていきましょう。

731部隊組織図の詳細

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この組織部の詳細から731部隊により、どのような事が行われていたのかは、この組織図から大まかな察しが付くといえるのでしょう。

  • 総務部】副官室・調査課・翻訳班・印刷班・写真班
  • 【兵要地誌班】調査班・図書班・人事課・庶務課・労務班・食堂・酒保・学校・企画課・経理課・管理課・建設班・工務班・動力班・運輸班・電話班・軍需課
  • 第一部(部長:菊池斉・細菌研究】第一課(チフス)田部班(班長・田部井和/チフス研究)
  • 第二課(コレラ】湊班(班長:湊正男/コレラ研究)
  • 第三課:生理・マルタ管理】吉田班(健康管理)・宮川班(レントゲン)・在田班(レントゲン)・栗秋班(薬理)・草味班(班長/草味正夫/薬理研究)・石井班(捕虜入出管理)・蓬田班(捕虜入出管理)・特別班(特別監獄)
  • 第四課:赤痢】江島班(班長:江島真平/赤痢研究)
  • 第五課:ペスト】高橋班(班長:高橋正彦/ペスト研究)
  • 第六課:(病理】石川班(班長:石川太刀雄丸/病理研究)・岡本班(班長:岡本耕造/病理研究)
  • 第八課:(リッチケア)】野口班(班長:野口圭一/リッチケア・ノミ研究)
  • 第九課:(水棲昆虫)】田中班(班長:田中英雄/昆虫研究)
  • 第十課:(血清)】 内海班(血清研究)/小滝班(ツベルクリン)
  • 第十一課:(結核)】肥之藤班(膵脱疽)・太田班(班長:太田澄/炭疽研究)・樋渡班・降旗班(ペスト)・金沢班・貴宝院班(天然痘)・二木班(班長:二木秀雄/結核研究)・笠原班(班長:笠原四郎/ウイルス研究)・吉村班(班長:吉村寿人/凍傷研究)
  • 第二部:(実施研究)】八木沢班(班長:八木沢行正/植物菌研究)・焼成班(爆弾製造)・田中班(昆虫)・篠田班(昆虫) 安達実験場
  • 第三部 部長:川島清/軍医少佐、細菌製造】第一課(華頂:柄沢十三夫 軍医少佐/培養生産)・野口班(ペスト、脾脱疽)・第二課、第三課(乾燥菌・ワクチン)・第四課(ワクチン)・有田班(班長:有田正義/発疹チフス・ワクチン)・植村班(瓦斯壊疽)・朝比奈班(班長:朝比奈正二郎/発疹ワクチン及び製造)
  • 教育部 部長:西俊英/軍医中佐・隊員教育】庶務課・教育課・衛兵課・炊事班・診療所・錬成隊・少年隊
  • 資材部】実験用資材
  • 庶務課】第一課(薬品合成)・山口班(細菌弾)・堀口班(ガラス)・第二課(購買補給)・第三課(濾水機)・第四課(倉庫)・第五課(兵器保管)・第六課(動物飼育)
  • 診療部・(附属病院)】伝染病棟・診療室・家族診療所・憲兵室・保機隊
  • 牡丹江支部・満州第643部隊/支部長:尾上正男 軍医少佐】総務課・経理課・第一課・第二課・第三課・資材課・教育課
  • 林口支部:満州第162部隊】総務課・第一課・第二課・資材課・教育課
  • 孫呉支部 満州第673部隊支部長 西俊英軍医中佐】総務課・第一課・第二課・資材課・教育課
  • 海拉爾支部 満州第543部隊】総務課・第一課・第二課・資材課・教育課
  • 大連支部 満州第319部隊】総務課・研究部・製造部

このような緻密な部隊編成を行った731部隊の石井四郎部隊長とは、一体どのような人物だったのでしょうか。

731部隊の部隊長「石井四郎」とは?

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これから、狂気に満ちた「731部隊」の部隊長・石井四郎について解説!

あなたの知りたい「真実」に着々と迫っていきます。

  • 生誕:1892年6月25日
  • 出生地:千葉県山武郡山町
  • 死没:1959年10月9日(享年67歳)
  • 軍歴:1921年~1945年
  • 最終階級:陸軍軍医中将
  • 除隊後:医院開業(東京都新宿区)

子どもの頃から頭脳明晰だった石井四郎

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明治25年6月25日、千葉県加茂に4男として生まれました。子どもの頃から非常に頭脳明晰であった石井四郎は、周囲の期待もさることながら、母・千代が上田藩御殿医の娘であったため、自ずと軍医を目指すこととなりました。

1916年4月、石井四郎は、京都帝国大学に入学後も、非常に優秀な成績をおさめていたため、教授陣からも注目されていた人物だったのでした。

卒業後、トントン拍子にのし上がっていく

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1921年12月、少尉に任官された石井四郎は、近衛歩兵第三隊の見習士官となっていきます。

翌年の1921年4月には、軍医中尉までなり、東京第一陸軍病院に勤務することとなりました。

そして、京都帝国大学大学院に入ると、細菌学や血清学・病理学・予防医学などの研究に打ち込むようになっていきました。まさに、これが731軍隊が起こしたであろう罪の原点だったのです。

強かだった石井四郎は、帝国大学総長・荒木虎三郎の娘と結婚。

このことにより、医学閣において人脈を持ち合わせることとなった石井四郎は、着々と出世の道を辿ることとなりました。

軍医大尉まで上り詰めた石井四郎

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1924年8月、軍医大尉となった石井四郎。京都帝国大学医学部卒業から、たったの4年弱で大尉まで上り詰めることとなりました。

731部隊の「悪」に目覚めることになったジュネーブ会議

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1925年6月、ジュネーブ会議に出席していた、陸軍省医務局員・原田二等軍医(軍医中尉)の報告書に影響を受け、それを機に「細菌戦」の研究を始めるようになっていきます。

1927年に石井四郎は微生物学の分野にて博士号を取得。その時のテーマが「グラム陽性双球菌二就ツイテノ研究」でした。

この頃から、石井四郎は、度々東京の陸軍省に訪れては、この幹部に細菌戦の支持を訴えていたのでした。

海外の軍事施設に派遣されたことで刺激をうけた石井四郎

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1928年から2年かけて、石井四郎は軍事施設を訪問することとなりました。

石井四郎が、20カ国以上訪問した結果、ペスト菌に着目することになっていきます。実は、14世紀のヨーロッパでは、ペスト菌で大変な被害を受けた国でもありました。

その事から、ヨーロッパ諸国では、細菌戦の武器にペスト菌を用いるのは禁止とされていました。

ですが、その破壊的な威力に目をつけた石井四郎は、こともあろうことか、日本の有力な武器として考えるようになっていったのでした。

「日本の勝利」のため手段を模索する目的の視察だった

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さらに、石井四郎は衝撃的な体験をする事となりました。

豊富な資金を生み出していた欧米の軍需産業を目の当たりにし、日本の立ち後れを思い知らされる事となったのです。

そもそも自らも、細菌学を研究していた石井四郎でしたが、アメリカのマサチューセッツ工科大学で行われていた、細菌兵器の開発に改めて衝撃を受けることとなったのでした。

細菌戦は、経費がかからず、資源の少ない日本に適している、鉄による砲撃はその周辺の一定の対象しか消滅させられない上、負傷した者もスグに回復する。しかし、細菌は人から人へ、村から都市に蔓延させられるため、その害毒は人体に深く浸透するため死亡率も高い」と、説いた石井四郎。

1925年、ジュネーブ議定書により、国際的に禁止されていた細菌戦でしたが、石井四郎は日本の勝利のために、細菌に活路を見いだすこととなっていったのです。

そして、旧満州国が建国された昭和7年を機に、秘密裏に年間1000万円、現在の貨幣価値にすると、なんと100億円もの巨額な予算を手に入れることが出来た石井四郎。

その資金をもって着々と、731部隊部隊長:石井四郎の計画が実行に移される事となっていったのです。

そして、4年後・・・・極寒の平房に巨大な施設が忽然と現れる事となります。

・・・・そうです。この莫大な資金をもとに、石井四郎は目論み通りの「魔の研究施設」を完成させたのでした。

野望に渦巻く、731部隊部隊長・石井四郎の思想が、着々と「実現」への一途を辿る事となっていったのです。

731部隊誕生の瞬間

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昭和12年、日中戦争が開戦に伴い、軍備増強を焦った日本政府が昭和13年に「科学者の戦争動員令」を発令。

この発令により、これまで軍歴を免れていた医学者らを全国から意のままに引き抜くことが出来るようになったのでした。

  • 科学者として、自然科学の審理の探求に努め、未知の世界の究明発見というこの上もない喜びと軍人としても立場からは、対敵強力兵器の完成という二重の喜びを以てこの研究を進めてほしい

この発令を機に、石井四郎の野望の渦に飲みこまれていく事となった医学者達は、「日本国万歳!」「戦争に勝つ!」という、石井四郎の大義名分に翻弄される事となっていきます。

731部隊部隊長・石井四郎の思想に洗脳された、医師・医学関係者らは、次第に悪事に加担するようになっていきます。

ノモンハン戦勃発を機に731部隊の名声を高めた

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実は、この石井四郎率いる防疫給水部731部隊。ノモンハン戦により水不足が発生してしまった事から、川の水を飲んで腸チフスに苦しんでいた多くの関東軍兵士の治療にあたり、多くの軍人や兵士たちの命を救っていたのでした。

そして、ノモンハン戦で関東軍兵士に水を供給した功績が称えられた731部隊は、天皇から表彰される事となりました。

その後、731部隊部隊長・石井四郎は軍事内でより発言力を強め、確固たる地位を確立していく事に見事に成功。そして・・・昭和16年・太平洋戦争が開戦。

731部隊部隊長・石井四郎に、言葉巧みに引き込まれた医学者たちは太平洋戦争勃発に戦争の恐怖から逃れるかの様に、「細菌開発」研究に没頭するようになったのです。

731部隊部隊長・石井四郎は気狂いしていた軍医だった

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若い頃から、その奇行に富んでいたという731部隊部隊長・石井四郎。軍医学校教官時代は、参謀本部まで防疫給水関係の予算や編成に強引な要求をしたり、それを貫くために

  • 人間の小便から作った塩をなめる行動
  • 汚水からとったという清水を飲んでみせる

と、いうような奇行をして見せては、参謀本部のお偉方を驚かせていたそうです。

その結果、防疫給水部の編成の拡大強化に成功した石山四郎は精力的に全国の大学を巡礼しては、自身の肥しにするために優秀な医者の卵たちを、「軍医」として獲得するために執念を燃やしていたのでした。

「軍医」を確保するためなら、どんな労力も問わない行動力もさることながら、企画力や実行力に非常に富んでいた人物だったようで、そんな石井四郎の人物像を物語る証言があったのでご紹介します。

  • 勝つことの異常な信念を燃やし、勝利のために全身全霊で打ち込んでいた

まさに、この執念深い性格により生み出された「731部隊」の悲劇でもあったと言っても過言ではなかったのでしょう。

731部隊の真実!生物・化学兵器を製造していた?

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石井四郎の詳細をご覧になり、「731部隊」の悪行が事実であった事がおわかりになられたのでしょう。

これから、生物兵器や化学兵器がどの様にして、製造されていったのか詳細をご紹介いたします。果たして真実はどこに!

731部隊と密な関係にあった組織

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石井四郎率いる通称「石井機関」と同じく、家畜類を主に生物兵器を開発していた・・・

そして、兵器開発を行っていた・・・

  • 陸軍第6技術研究所
  • 陸軍習志野学校
  • 陸軍第9技術研究所「登戸研究所」
  • 関東軍化学部・516部隊(所在地:チチハル)

などといった機関と密な関係にあった石井機関。さらに、731部隊(関東軍防疫給水部)は、野外実験場を安達(ハルビン北西約150キロ)に設置していて

に、5つの支部を持っていたのでした。

そして、各支部では化学兵器のみならず、毒物兵器まで開発されていたのですから驚きです。後に石井機関の各施設が、生物兵器の研究所兼製造を担っていただけのプラントでないことが明らかになっていく事となります。

731部隊の真実!人体実験していた?

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信じたくない話なのですが、石井機関では、陸軍において「人体実験施設」として機能していたのでした。あり得ない事なのですが、現実に「人体実験」が行われていたのでした。

ここで人体実験が行われていた事実を、731部隊で製造部長だった川島清(軍医少将)が、後にソ連の軍事裁判・ハバロフスク裁判にて・・・

  • 731部隊には年間400名~600名の実験材料「マルタ」が、憲兵によって731部隊送り込まれていた
  • 特別監獄には、女性や子供も収容されていた
  • 敗戦までの5年間で「少なくとも3000名」の実験材料である「マルタ」が犠牲になった

と証言していて、しかもこの数字は、1939年以前に東郷部隊で犠牲になったマルタの人数は含まれていないという驚愕させられる証言だったのです。

当時、軍はその実験材料の「マルタ」を調達するために「特移扱」を定め、スムーズに手続きを行えるようにしていたのでした。

731部隊以外にも人体実験が行われていた?

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実は、致死的な人体実験は、731部隊以外に、「陸軍軍事病院」でも南京の1644部隊や1855部隊などが「手術練習」という名目で行っていた事が判明したのです。

なんと!生きたまま解剖する壮絶な人体実験が、陸軍軍事病院でも行われていたのです。

ラバウルでは、第24戦防疫給水部の平野英之助軍医大尉が、米国オーストラリアニュージーランドの捕慮たちを実験材料として虐殺していたことも、米軍・オーストラリア軍の調査により真実が明らかにされたのでした。

日本軍である「731部隊」だけが、医学犯罪に手を染めていたわけではなかったのです。

一体どのような人体実験が行われていたのか?

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日本軍によって行われた人体実験の真実に迫ります。あなたは、この真実を受け入れる事が出来るのでしょうか?涙なくして見れない人体実験の様子をご覧ください。

  • 陸軍病院においては、生きたまま、虫垂切除・四肢切断・気管切開・弾丸摘出などの「手術練習」が行われてそうです。まずは、病気に感染させ・・

を発症させ人体実験を行ったそうです。

その目的は、未知の病原体を発見することにあり、病原体の感染力の測定・感染力の弱い菌株を淘汰させ、より強力な菌株を得る事にあったのです。

また、細菌爆弾や空中散布の効果なども調べられ、その人体実験で死亡したマルタを解剖したり、瀕死状態で息のある中でも人体実験は続行されていたのでした。

つまり、731部隊は、マルタを生きたままの状態で解剖し、感染確認を行っていたのです。

  • 手足を人為的に凍傷させ、ぬるま湯や熱湯で温めたりする凍傷実験や、開発途中の病原体のワクチンを投与したり、馬の血液なども輸血するなどといった信じられない行為が繰り広げられていたのです。
  • 毒ガスを吸入させる
  • 血管に空気を注入
  • 気密室入れて減圧
  • 食事を与えずに餓死させる
  • 水分を与えず脱水状態にさせる
  • 食物を与えずに水や蒸留水だけで生命の耐久実験
  • 血液を抜いて失血死させる
  • 感電死させる
  • 新兵器の殺傷力テストにマルタを使う

など、恐ろしい実験が現実にあったのでした。これは本当に真実なのです!

その実験結果はきちんと記録され、さらに映画フィルムにまで収められていたとの事でした。そして、軍医や軍に所属する民間の医師たちによって部隊内で映像を流しながら研究発表会が行われていたそうです。

また、731部隊は、実際に中国大陸において実際に細菌兵器を使用していたことも判明したのでした。

  • 1939年:ノモンハン戦
  • 1940年:寧波作戦
  • 1941年:常徳作戦
  • 1942年:ズエガン戦

以上の4戦で使用していたそうです。

寧波作戦においては、ペスト菌で感染したノミを穀物や綿にまぶして爆撃機で空中投下を行って、この寧波作戦による犠牲者は100名以上に及んだのでした。当然、皆、ペスト菌により命を奪われてしまったのです。

ちなみに、この細菌戦に関しては、石井四郎の仕業ではなく、陸軍中央の指揮の下、軍全体による戦争犯罪だったようです。

軍中央の指揮の下で網の目のような細菌戦体制が編成された防疫給水部は、1940年まで南京・広東にあったそうで、1942年にはシンガポールまで拡大されていたのです。

731部隊の真実!人体実験していた証拠がある?

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当時、関東軍防疫給水部・731部隊が行ったとされる「人体実験」。

実際のところ、明確な証拠が上がっていなかったため、この731部隊による「人体実験自体」がでっち上げ話のように語られていた時もあったようでした。

しかし、1989年・7月、国立感染症研究所建設予定だった東京・旧陸軍軍医学校跡地に残されていたものが大きな足掛かりとなって、731部隊の軍医らによって「人体実験」がなされていたことが明るみになったのです。

旧陸軍軍医学校跡地に残されていたもの・・。もう、おわかりになりますよね?

お察しされている通り、発見されたのは、四肢が様々な位置から切断された形跡がある大量の人骨だったのです。

この身元不明な人骨を、1992年に札幌学院大学教授:佐倉朔氏が鑑定を行ったところ

  • 人骨は100体以上
  • 人種的にモンゴロイド(アジア系の一種)だが、単一の人種では無い
  • 10数個の頭蓋骨には、人為的な加工跡がある
  • うち、いくつかの頭蓋骨は、拳銃で撃ち抜かれた孔や刀で切られた跡があった
  • 骨が旧陸軍軍医学校に遺体が埋められた時期は、1890年~1940年までの間
  • 人骨の多くは、四肢何カ所で切断されていた形跡があった

そして、この理由から、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を研究する会(人骨の会)」の代表:常石敬一氏(日本科学史・科学論研究者/神奈川大学経営学部非常勤講師・名誉教授)がこのように指摘していたのです。

  • 凍傷や壊死など四肢を切断する必要のあった手術の練習台にされていた

と・・・。

この推測から731部隊が人体実験を行っていたのは明白だと分析する研究者がいるのも事実だったのです。

陸軍軍医学校防疫研究室に身をささげた研究者一覧

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これから、軍の研究に加担した医学者たちを紹介していきます。

731部隊の部隊長で、陸軍軍少将だった「石井四郎」については先にもご説明しましたので省きます。

以下、協力した医学者たちです。

  • 陸軍省 陸軍軍医少佐:大塚文郎/陸軍軍医少佐:内藤良一
  • 軍医学校 陸軍軍医中佐:羽山良雄/陸軍軍医大尉:植村肇
  • 満州731部隊 陸軍軍医少佐:中黒秀外介/陸軍技師:江島真平
  • 伝染病研究所 東大教授伝研所員:細谷省吾
  • 北里研究所 慶大教授北研部長:小林六造/北里研究所副部長:井口昌雄
  • 大連研究所 所長陸軍技師:安東洪次/陸軍技師:関原勧
  • 満州国立衛生技術廠 研究官:川瀬五郎/研究士:島崎正雄
  • 熱帯医学研究所 技師:長野泰一
  • 視察見学者 陸軍軍医:17名/技師:4名(川上・石光・笠原・倉内)

以上の、医師や医療関係者らが、人体実験に協力していた者になりますが、その他の協力者を含んだ正確な人数は、後の解説の中で記していきます。

研究に協力せざる負えなかった背景

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引用: Pixabay

まずは、その理由を説明します。

  • 戦地へ行って戦争などしたくなかったが、仕方がない事だった
  • 軍に協力しなければ「非国民」とされた
  • 赴任命令を拒めば軍法会議に晒されるから
  • よほどの勇気がなければ断る事が不可能だった

731部隊で、極めて残虐な人体実験を行っていたとされた吉村寿人は、このように話していたそうです。

それは、京大の講師をしていた頃、正路倫之助大教授から731部隊行きを命じられた時の事だったそうでした。

吉村寿人は、それまで培った研究を捨て、731部隊に行きたくなかった事から即座に断ったところ、正路教授の口からこのような言葉が放たれたそうでした。

そのように叱責されても、吉村寿人は、故郷から母親を呼んで正路教授に断りに行ってもらったのでしたが・・・

と、またもや叱責を受けて、しぶしぶ満州行きを了承したそうでした。実は、石井四郎が、正路教授に吉村寿人をよこすよう約束をしていた裏があったのです。吉村寿人自身も・・・

と証言していたのです。石井四郎は、吉村寿人が在籍していた京大以外にも、

  • 東大医学部
  • 東大伝染病研究所
  • 大阪大学
  • 慶応義塾大学
  • 東北大学
  • 熊本医科大学
  • 北海道大学
  • 金沢医科大学

から、教授たちを言葉巧みに呼びよせて、陸軍軍医学校防疫研究所に嘱託にしていたのでした。そして、これらの教授たちから、優秀な弟子を石井機関へ派遣してもらうよう働きかけを行っていたのです。

戦地に行きたくない半面、ほかでは得られない研究環境だったため、研究者たちにとっても、「日本ではけっして行えない研究が可能になる」と、希望に胸を馳せていたのが実情のようでした。

しかし、まんまと石井四郎の罠にハマって、蟻地獄に叩き落されてしまったのでした。

協力した医師たちは、次第に「軍に協力してお国のために尽くして当然なのだ」という思想に埋もれるようになってゆき、人体実験する事に躊躇いのない人格へと変貌を遂げていったのです。

731部隊の真実!人体実験の証言まとめ!

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引用: Pixabay

では、これから、生々しい狂気におびた人体実験の証言を見ていきましょう。

戦時中、中国・満州で、細菌戦に使用した生物兵器の研究・製造のためにマルタを使って人体実験したことが徐々に浮き彫りになっていきます。

終戦から4年後・・旧ソ連が開いたハバロフスク裁判で、ようやく731部隊の研究活動が明らかにされ、731部隊の中枢メンバーにより録音された音声記録が公開される事となったのです。

音声に残っていた証拠とは?悪魔のような実態を物語る証拠を見ていきましょう。

  • ワクチンの効力検定のために、中国人・満州人を約50名ほど用意して人体実験を行った。砂糖水にの中に、チフス菌を混ぜ、マルタ達に強制的に飲ませ細菌させ、その実験によって12,3名感染して死亡
  • 実験用の建物の中に、約5名ほどのマルタを入れ、その建物の中にペストノミを散布。その後、マルタ達は、皆ペストに感染した。
  • チブス菌をスイカに注入、うりにも同様に注射器で注入。このふたつの食べ物に菌が蔓延していることを確認後、5,6名の満州人と支那人に食べさせ、全員感染させた
  • 極寒期に、零下20度しかない監獄にいるマルタの手を外にさらさせて、大きな扇風機で風を送って、マルタの手を人工的に凍傷させる。5名の中国人マルタのうち、3名は手の指が全て黒く変色して抜け落ち、残りの2名は骨のみになっていた。
  • 安達の練習場で、瀬戸物で作った大砲の形状の細菌弾(チフス菌)を空中爆発させ、地上に噴霧状態になったタイミングで、マルタを通過させる。また、杭にマルタを縛り付け、頭上で爆破の二通りが実施され、大部分のマルタが感染し4,5名死亡。
  • 中庭で鉄骨で井桁を組んで、マルタにガソリンをかけて焼き殺すよう少年隊に死体処理をさせていた
  • ワクチンなしでペスト菌を注射。その後、瀕死の状態になった男性マルタを息のあるまま、頸動脈をメスで切られ、死亡後、上腹部から下腹部へメスを入れ、骨をノコギリで切って内臓すべてを露出。
  • ペスト感染したマルタを真っ裸にし、むしの息だったマルタの上腹部をメスで刺して、サッと下に引くと胸部の皮膚を裂き、解剖台の上に内臓がドロンと流れ出てマルタは絶命。
  • マルタに適当な嘘をつき、ガス室に誘導。そしてガスを発生させ、ガラス越しにマルタたちの表情を見ながらガスの濃度や効果を確かめていく。マルタたちの表情は次第に変化、動きも刻々と変化。

こんな恐ろしい事が、戦時中に行われていたとは・・・今にも「血の臭い」が漂ってきそうな人体実験の証言に絶句です。これらの事は、紛れもない真実なのです。

本当にあった事実が、中枢メンバーらによって音声録音されて事が明らかになった事で、「人体実験」など行っていないなどと言う嘘は通用しなくなったのでしょう。

1985年8月9日~ソ連軍・満州へ侵攻!マルタたちの運命は?

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引用: Pixabay

731部隊は、人体実験が行われていたアジトを証拠隠滅のため爆破。

さらに、その時点で生存していたマルタ4,50名を証拠隠滅のため全員殺害したのです。その殺害方法ですが、以下になります。

  • 青酸ガスを噴出させ殺害
  • 銃で脅しながらマルタを互いに向かい合わせ、首にロープ、その中央に棒を差し込み、互いにねじらせて死に至らした
  • 毒ガスで死にきれず、苦悶の唸り声をあげていたマルタたちの胸に、モーゼル銃を当て引き金を引いた
  • 大きな穴を掘ってガソリンと重油をかけマルタを焼却
  • ホルマリン漬けにされた生首・腕・胴体・脚部・各種の内臓の標本、細菌培養した寒天・膨大な書類や器具を焼却、焼却出来なかったものは、松花江に投げ捨てられた
  • 増産を重ねて増えた膨大な、各種細菌のストックや、夥しいかずのネズミ・数億匹のノミ・解剖記録・病理記録・細菌培養記録等は、大きな穴を掘り重油で焼却された

そして、撤退時に、証拠隠滅を図った731部隊。

帰国した石井四郎は、731部隊とその家族に対し、このように言い放ったのでした。

  • 戦争に負けた。俺は、君たち全員を故郷に送り返す。でも、帰郷したお前たちが731部隊の秘密を漏らすような事があったら、この石井はどこまでも草の根をわけてでも探す!!

と、目の前にいた731部隊らに、悪魔のような恐ろしい形相で叫んだそうでした・・・・。

731部隊の真実!人体実験の写真がある?【閲覧注意】

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引用: Pixabay

上記の人体実験まとめを見ただけでも、おどろおどろしい感情に駆られますが、その上、人体実験中の写真があるなどとは、閲覧注意どころではありません。

でも、この話の裏には、このような説もあり、どっちを信じればよいのか悩むところなのでしょう。

  • 1928年起こった済南事件にて、日本人犠牲者の遺体を済南病院で医師たちが検視している写真が、あたかも、731部隊が「中国人に細菌人体実験」している様のように、日本侵華図片資料集や吉林省博物館・粟屋健太郎の論文などで誤用・転用されている

との専門家の指摘があったようでした。なので、これらの写真が、731部隊が人体実験で殺害したマルタたちとは限らないのが実情だったようですね。

いずれにしても、カラーでは絶対に見たくない「閲覧注意」に値する写真には間違いないのでしょう。

731部隊の現在!

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引用: Pixabay

1945年8月、ソ連が太平洋戦争に参戦して満州へ攻め込んできて、この日から、残虐な人体実験を行っていた石井機関は、細菌兵器製造に関る証拠や、マルタ残虐の証拠を隠蔽する事に全精力をかけ実行する事となります。

ますは、非情にも研究施設にいた、生き残りのマルタたちを、全員殺害してしまったのです。さらに、完全犯罪である「焼却」という残忍な行為に出たのでした。

731部隊は、実験結果を記した書類なども一緒に一緒に焼却し、主要な施設は爆破。マルタがいた特別監獄も跡形もなく破壊したのです。

そして、博士号を持った医官53名は、貴部隊の軍用機で日本に送還されたのでした。

731部隊やその家族たちは、いち早く特別列車に乗り込み帰国。その甲斐あってか、ソ連・中国の捕虜となった731部隊だった幹部、及び部隊員はわずかにとどまったのでした。

逃げ損ねてソ連・中国に捕まって捕虜となった幹部や部隊員は以下になります。

ハバロフスク裁判被告人

  • 山田乙三(関東軍司令官:大将)強制労働25年間/1956年・帰国
  • 梶塚隆二(関東軍軍医:軍医中佐)強制労働25年/1956年・帰国
  • 高橋隆篤(関東軍獣医部長:獣医中佐)強制労働25年/1952年・脳出血で死去
  • 佐藤俊二(関東軍第5軍医部長:軍医少佐)強制労働25年/1956年・帰国
  • 川島清(第4部・細菌製造部長・軍医少佐)強制労働25年/1956年帰国
  • 柄沢十三夫(第4部・細菌製造課課長・軍医少佐)強制労働20年/1956年・所内で自殺
  • 西俊英(教育部長兼孫呉支部長・軍医中佐)強制労働18年/1956年・帰国
  • 尾上正男(731部隊海林・牡丹江支部長・軍医少佐)強制労働12年/1956年・帰国
  • 平桜全作(100部隊研究員・獣医中佐)強制労働10年/1956年・帰国
  • 三友一男(100部隊隊員・軍曹)強制労働15年/1956年・帰国
  • 菊池則光(731部隊海林・牡丹江支部支部衛生兵・実験手)強制労働2年/1951年・釈放
  • 久留島祐司(731部隊林口支部衛生兵・実験手)強制労働3年/1952年・釈放

ハバロフスク裁判証人

  • 古都良雄(731部隊元隊員
  • 堀田主計中尉(731部隊ハイラル支部
  • 佐々木幸助
  • 橘武夫(チャムス憲兵隊長
  • 倉員悟(ハルビン憲兵隊
  • 畑木章

ハバロフスク裁判後

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引用: Pixabay

日本を占領した米軍は、石井機関があった731部隊の調査を開始。しかし、米国の目的は、戦犯告発を行う事では無く、石井機関が行ったとされた細菌兵器研究成果を欲していたためでありました。

1942年に米国が細菌兵器開発に着手していた事から、石井機関の研究成果は非常に魅力だったのは確かだったようです。

この石井機関の調査を担ったのが、米国の細菌兵器の研究施設・キャンプ・デトリックのレー・サンダース軍医中佐。

しかし、通訳として呼ばれた人物が偶然にも、石井機関の中核であった陸軍軍医学校防疫研究所を取り仕切っていた内藤良一がやってきたため、展開は思わぬ方向へ・・。

細菌兵器研究の成果が、得られていなかったサンダースは、非常に焦っていたようで、内藤良一に戦犯として追及をしない代わりに、真実を語るように迫ったのです。

内藤良一は、「人体実験はやっていない」事を貫いていたようでしたが、それ以外の石井機関で行われていた研究内容については、ある程度の情報を提供していたようでした。

人体実験を主導した石井四郎ら医学者たちは、ソ連に侵攻される前に特別列車で日本に帰国していましたが、その行為についてもアメリカ側から罪に問われる事は一切なかったのでした。

その代りにアメリカ側は、731部隊が行った人体実験の「データと引き換え」に、731部隊の責任を免除したのでした。

利害関係が一致した瞬間だったでした・・・。

最終的には、731軍隊が収集したデータは、アメリカ軍の生物兵器開発に大きな恩恵をもたらす結果となったのです。

貝のように口を閉ざし続けた「731部隊」

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引用: Pixabay

ナチスの戦争犯罪では、アウシュビッツ収容所などで生存者がいたため証言を得る事ができましたが、731部隊の被害者であったマルタは全員殺害されたため、731部隊の戦犯の真実を追求する術はありませんでした。

また、人体実験を行った医師や部隊関係者のほとんどが、何十年も沈黙を続けたというのだから驚きです。やはり、石井四郎の最後の言葉を忠実に守った731部隊だったのでしょうか・・。

それとも、まだ洗脳から解き放たれていなかったのか?・・・真意は731部隊関係者にしかわかりえない事なのでしょう。

アメリカが、731部隊の膨大な研究データ提供の見返りに、幹部の戦争責任を免責した事から幹部らは東京裁判で裁かれる事は一切ありませんでした。

以後、人体実験などに加担した医師や部隊関係者の多くは、沈黙を継続しながら戦後の医学界に舞い戻り、製薬会社や自衛隊などの職に就き社会復帰を果たしていたのですからなおさらビックリです。

大学教授や、学長などに収まったりと、多くの関係者が社会的地位を保持し続けたのが現状だったようでした。

1995年と1997年に、中国の人体実験被害者および遺族、細菌戦被害者が原告となり、日本政府に謝罪と補償を求める裁判が起こされていましたが、人体実験の事実・細菌戦による被害者も認定されていたそうでした。

ところが、最高裁で2007年に「原告敗訴」が下されてしまいました。

何故、「臭いものに蓋」をするかのように原告敗訴に至ってしまったのか?真実は何処に消え去っていったのか?本当にこれで良かったのか?

防衛省・陸上自衛隊衛生学校が発行していた「衛生学校記事」という内部誌があったそうですが、この内部誌の開示・公開を求める裁判が東京地裁で行われていたようでしたが結果として今もなお、日本政府は731部隊が起こした戦犯の事実を認めないままでいたのです。

731部隊の闇が深すぎる

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731部隊による恐ろしい人体実験の詳細を知った事により、改めて戦争の悲惨さを痛感された皆さまかと思います。

最後の章になりますが、日本政府はこの真実にキチンと向き合えていたのか?その責任を全うする事ができたのか?

皆様も非常に気になるところなのでしょう。では、見ていきましょう。

日本国立公文書館が「731部隊」3607名の実名公開!

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第二次世界大戦終了から70年が経った近年、日本政府が詳細を記した「731部隊資料」を保管していたことが、「満州第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」により明らかにされました。

以前から、731部隊資料の開示を求められていたため日本政府。

しかし、真実を明らかにするため重い腰を上げた・・・というよりも一旦終息を図るために、731部隊の名簿を全て公開しただけに過ぎなかったのでしょうか?

その理由は・・・

第二次世界大戦の降伏半年前に作成されていたという資料ですが、多くの部分が黒塗りにされていて、実質、一部だけなの開示となっていたからでした。日本政府の言い訳はこれでした。

たった、それだけの理由で何十年も極秘にしていたのか?何もかもが疑わしいところです。

日本政府によって、ようやく開示された関係者は以下になります。

  • 軍医52名
  • 技師49名
  • 看護師38名
  • 衛生兵士1117名

その他の者も含め、総勢3607名の名前が掲載されていたのです。

しかし、名前だけ明らかになっていても、後は黒塗りという事実をどう受け止めればいいのでしょう?

国民は、日本政府とどう向き合って行けばいいのでしょうか?

これでは、真実と向き合う事は出来ず、被害者遺族らは、うやむやにされたままで生きていく事になりかねないのでしょう。

ようやく、近年になって明かされた731部隊関係者の名前。ですが、日本政府は今だ、「人体実験」の事実を認めていないのが現状になります。

なので、我々日本国民が真実に向き合える日がいつやって来るのかは、誰も推測する事さえも出来ない現状にあることは間違いないのでしょう。

しかし、侵略戦争を何事にも肯定し、美化する安部政権のもとで明らかにすることは、今後の世界平和に向けての「要」となり、非常に重要な事と言えます。

この世で、生物兵器や化学兵器など製造されることは断じて許されない事なのです。

ところで、以前、長期に渡って世間を賑わした、皆様の記憶にも新しい「加計学園獣医学部新設問題」ですが、発端は、阿部政権の肝入りだった事、そして何故、獣医学部建設がなされることになったのか?

この事について、ある専門家が鋭い指摘をなさっていたのをご存知でしたか?専門家は、このように加計学園問題を指摘していたのです。

  • 全国的に獣医が足りている今、どうして、わざわざ新設する必要があったのか?
  • 加計学園獣医学部に炭疽菌のようなきわめて危険なバイオ・セーフティレベル3にあたる実験施設を設置する計画があったのでは?

専門家によれば、近い将来、軍事的利用を射程にいれての獣医学部の新設ならば、絶対に容認など出来るはずがないと考えたからでした。世界平和を願う日本であり続けたいのであれば、このようなものが製造される施設などあってはならないと専門家は解いたのです。

なので、平和な世界を目指そうとするなら、わざわざそのような実験施設を設ける必要だってないのでしょう。

現在も、加計学園騒動は終息しておらず、誰もが「ふに落ちない」としていて、NHKの世論調査でも半数の国民が加計学園理事長の説明に「納得できない」と回答していました。

阿部総理にとって、「加計学園ありき」だった事は真実であり、専門家の指摘り危険なバイオ・セーフティレベル3にあたる実験施設設置の話があっていたならば到底容認できない事なのでしょう。

731部隊を後世に伝えるために。

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引用: Pixabay

現在、医学界でも731部隊で人体実験が行われていた事について口を堅く閉ざしたままで真実が一切語られていない状態にあります。

日本政府同様、731部隊で起こった事実をきっと「墓場まで持っていく」つもりでいるのでしょう。

でも、そのようなことは永久に許されるはずもないのです。真実はひとつしかないのです。

医学界の重鎮たちから真実が明かされ、全うな日本政府であり続けなければ、この731部隊で人体実験されて亡くなっていった犠牲者たちは、成仏する事もできないのです。

真実を包みなく明かし、日本政府が人体実験の事実を認めて、初めて犠牲になった人々がうかばれる事になるのです。

いつか、ありのままに真実を語る日本政府であるよう、犠牲者の方々に哀悼の意を表しながら、真実が語られる日が来るようみんなで祈り続けましょう。