日本赤軍とは?国際テロ組織の目的や事件&メンバーの現在まとめ! | ToraTora[トラトラ]

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みなさんは日本赤軍という言葉をご存知ですか? 

日本赤軍とは1971年から2001年まで存在した日本の新左翼団体です。世界革命を目標に、革命の一環として日本の革命を目指しました。日本赤軍は海外にも拠点を置いていました。空港襲撃や航空機ジャックなど、多くのテロ行為を行なっていました。

日本赤軍は、国際テロリストとも呼ばれ、空港での国際テロやさまざまな事件も起こしています。今回はそんな近代まで存在していた日本赤軍の発足のきっかけや、日本赤軍の発足に至った世界の背景、かつての日本赤軍メンバーの現在までご紹介していきたいと思います。さらに、世界中を舞台に繰り広げられた日本赤軍の逃亡劇や、元日本赤軍メンバーの現在の様子までご紹介していきます。

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日本赤軍の発足のきっかけ

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それではさっそく日本赤軍発足のきっかけから見ていきましょう。

日本赤軍はもともとマルクス主義・社会主義を信仰する一部の学生たちから派生して誕生したのですが、その発足までの道のりはかなり複雑で分かりづらいですので、始まりから丁寧に追っていきたいと思います。

【1】始まりはデモ活動

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日本赤軍とは、もともと学費の値上げに反抗するデモが団体化されたことが始まりです。

この団体が資本家を産み、一部の資本家だけが懐を肥やすようになりました。そして国民を搾取している国に対して反抗する反社会組織になったのです。これが共産主義同盟の前身になりました。

また、日本だけではなく、当時は世界中でマルクス主義・社会主義思想が広がっていました。

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マルクス主義の広がりが原因になっていましたので、マルクスを読むような学生=エリート層の学生を中心に広がっていきました。

この当時、一般の人はマルクスを読むようなことはしなかったそうです。優秀で柔軟な学生たちは次々とマルクスに傾倒して行ったんですね。この現象は資本主義大国アメリカからもかなり影響を受けていました。

と、言いますのも、ベトナム戦争を皮切りに世界中で脱資本主義の考えが広まっていた当時、日本では日米安保条約の継続承認が活動家たちの思想に火をつけました。資本主義大国だったアメリカに反発するように、反対運動が始まりました。これが学生運動です。この学生運動が弾圧され、革マル派などの過激な団体が生まれるようになりました。

日本の古くからの社会主義運動弾圧の歴史も、こういった過激な団体を生む要素になったと考えられています。こうした思想の人々が集まった団体が、共産主義同盟です。共産主義同盟自体は、主に全学連を牽引していた学生らが日本共産党から離れて結成されました。

当時の学生たちは「社会主義」「世界革命」「マルクス・レーニンの復権」などを掲げていました。

【3】共産主義同盟赤軍派へ

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学生運動ブームが収束し、流行に乗る形で参加していた学生たちが去ると、残った想いの強い学生たちが徒党を組むようになりました。

1970年安保闘争を目前にこの学生らが日本共産党から離れて結成したのものが、日本赤軍の前身となった共産主義同盟赤軍派です。共産主義同盟赤軍派は、当時最左翼派の分派として結成されました。共産主義同盟赤軍派は、武装し、大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件を起こしています。

この頃から武装集団としての特徴が出始めています。共産主義同盟赤軍派は、日本赤軍の他に、連合赤軍の母体にもなっています。

【4】日本赤軍へ

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1971年に共産主義同盟赤軍派の重信房子奥平剛士によって結成されました。

結成当時、アメリカ合衆国国務省・国際テロリズム対策室によって日本赤軍は「国際テロ組織」に認定されていましたが、2001年に重信房子が解散を表明したことによって認定は解除されました。日本赤軍は冷戦が続く1971年の2月26日、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づいて結成されました。

赤軍派重信房子や奥平剛士らが「海外にも運動拠点と同盟軍を持つ必要がある」と判断し、赴いた先のパレスチナで創設しました。創設当初の名称は定まっておらず、「アラブ赤軍」、「赤軍派アラブ委員会」、「革命赤軍」などと称されていましたが、1974年以降に「日本赤軍」が正式名称として使われるようになりました。

日本赤軍の発足の背景

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ここでは数々の事件を引き起こした国際テロ集団・日本赤軍が発足した背景を考えていきたいと思います。

日本赤軍が発足した背景には、世界的マルクス主義の流行や冷戦という大きすぎる世界情勢の影がありました。そこからこの歴史背景を紐解いていき、なぜマルクス主義の流行をモロに受けたにも関わらず、日本は社会主義化しなかったのか?までを見ていきたいと思います。

【1】マルクス主義の流行

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日本赤軍が発足した背景には、マルクス主義の流行があります。

世界的に学問として多く流行していたマルクス主義ですが、この時代、学生の多くがマルクスを読み、マルクス主義に傾倒していきました。特にマルクスに傾倒した学生は優秀な学生が多かったと言います。

このマルクス主義の流行の理由の一つに、戦前・戦中の言論の抑圧、そして抑圧されたことに夜反動があります。学生たちは、メディアや教育の場で戦中に語られてきた国家主義的言説への幻滅し、さらにそれとは対照的なマルクス主義・社会主義・共産主義の思考に若者は希望を見出したのだろうと予測できます。

さらに国家の信用度が著しく低かった当時、下から国家へ革命を起こそうという思想が活発になったことも予測でにもきます。

そのためマルクス主義・社会主義的考えが学生たちの間に多く流行し、この考えに賛同した若者たちによって日本赤軍をはじめとした新左翼団体が生まれて行ったと考えるのが自然でしょう。

【2】なぜ日本は社会主義化しなかったのか?

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60〜70年代における共産主義の主な担い手は学生たちでした。

しかし当初、一般市民と同調していた彼らを、警察、および警察権力が分断し、次第に孤立化させていきます。権力によって分断され孤立化させられ、追い詰められた学生たちは、自身らの活動を解散するか、テロ行為などを行う過激な武装闘争へと突き進む他、選択肢がなかったのです。しかしそうした死傷者を数多く出す過激な活動によって、彼らは次第に社会からの支持を失っていきました。

これらのことを通じて、当時、政治的運動そのものがよくないものと印象づけられました。その結果、明治・大正期にあった活発に権力に抵抗する力は次第に衰退していきます。実は、その影響は現代にも波及しているのではないでしょうか。

しかしながら日本社会は、個人が共同体の集合性という特性に埋もれてしまいがちな特徴を持っています。それは現代も代わりありません。

その当時もし革命が行われ、共産主義もとい社会主義化していたとしたならば、マルクスの本来の理想は実現されずに、マルクスの思想は新左翼派によって都合のいい方向に歪められ、日本はさらに酷い全体主義国家となっていた可能性もあります。

【3】冷戦という世界情勢

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日本赤軍が発足した当時、無視できないのが冷戦という大きな世界情勢です。

当時世界は冷戦状態で、各国が一触即発の緊張感を持っていました。当時の世界はまだ資本主義と共産主義の対立という大まかな構図で成り立っていました。

そのため、表立って大きな力を持った主要国同士が戦争を起こすことはなかったものの、主要国同士の主権争いは勢力争いという形でアジア諸国などの発展途上国各地に影響を及ぼしました。

資本主義および民主主義の代表として、当時の資本主義大国アメリカが、大国の力でアジア圏に大きな影響を及ぼしていましたが、その中でもアジアの中にはやはり抵抗勢力は多く存在していました。

日本は基本的にはアメリカへ従う姿勢を取っていましたが、それに反抗心を持つ若者たちが敵国の共産主義をバックに反発を始めたということが、日本赤軍や連合赤軍、その他の極左翼団体の誕生の背景になりました。

日本赤軍のメンバーまとめ

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ここでは日本赤軍に所属していたメンバーをご紹介していきたいと思います。

現在も服役中のもの、死亡したもの、現在も逃亡を続けており消息が掴めないものなどがいます。ここでは日本赤軍に加入した年、関わった事件、現在の様子を簡単に説明していきたいと思います。

【1】最高幹部および軍事委員

重信房子 日本赤軍の最高指導者。 1945年生まれ。明大紛争に参加し、赤軍派の創立に加わる。 71年に奥平剛士と偽装結婚し、出国。レバノンで日本赤軍を結成し、奥平亡き後の赤軍を統括した。

2000年に大阪で逮捕。翌年に日本赤軍解散。 pic.twitter.com/v9G5DfwoeZ

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 25, 2019

まずは日本赤軍の最高幹部および軍事委員であった2人の人物をご紹介します。

1人目は重信房子です。日本赤軍への加入は1971年、創設メンバーです。出身は赤軍派です。日本赤軍事件ではハーグ事件に関わり、共謀共同正犯として逮捕、懲役20年の実刑判決を受け、現在も服役中です。

2人目は奥平剛士です。日本赤軍への加入は1971年、創設メンバーです。出身は京大パルチザンです。日本赤軍事件ではテルアビブ空港乱射事件に関わり、テルアビブで死亡しています。死因については、射殺されたとも自殺したともはっきりしていません。

【2】軍事委員

泉水博の逮捕(1988年)
前年に逮捕された丸岡修の取り調べで、泉水がアデフ構築のためフィリピンに潜伏中と発覚。泉水はマニラの自宅から逃亡し、整形手術で顔を変えて追跡を逃れようとしたが、フィリピン軍により逮捕。日本へ強制送還された。 pic.twitter.com/an3dUGixIC

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 25, 2019

次に日本赤軍の軍事委員であった人物をご紹介します。軍事委員は主要なメンバーの中でもさらに主要なメンバーでした。

1人目は丸岡修です。日本赤軍への加入は1972年です。出身は浪共闘及びべ平連です。日本赤軍事件ではドバイ日航機ハイジャック事件、クアラルンプール事件、ダッカ日航機ハイジャック事件に関わり、逮捕、無期懲役の判決を受け、獄中死しました。

2人目は和光晴生です。日本赤軍への加入は1973年です。出身は若松プロダクション社員です。日本赤軍事件ではハーグ事件、及びクアラルンプール事件に関わり、逮捕、無期懲役の判決を受け、獄中死しました。

3人目は奥平純三です。日本赤軍への加入は1974年です。出身は京大パルチザンで、日本赤軍事件ではハーグ事件、及びクアラルンプール事件に関わり、国外逃亡しました。現在も国際指名手配中です。

4人目は西川純です。日本赤軍への加入は1973年です。日本赤軍事件ではハーグ事件、及びダッカ日航機ハイジャック事件に関わり、逮捕、無期懲役の判決を受け、現在も服役中です。

5人目は日高敏彦です。日本赤軍への加入は1971年です。日本赤軍事件ではクアラルンプール事件に関わり、ヨルダンで逮捕後、自殺しました。

6人目は戸平和夫です。日本赤軍への加入はわかっていません。出身は赤軍派です。日本赤軍事件には関わっていません。懲役2年6ヶ月の実刑判決を受け、2003年5月に満期出所しています。

7人目は山田義昭です。日本赤軍への加入は1973年です。日本赤軍事件には関わっていません。1986年2月に出頭し、懲役1年4ヶ月の実刑判決を受けています。

【3】その他の役割をもつメンバー

檜森孝雄 日本赤軍の戦闘員。 1947年生まれ。立命館大では中核派所属。71年に日本赤軍に参加。テルアビブ事件に向け訓練を積んだが、山田修の遺体と共に帰国。岡本公三と丸岡修を勧誘。

72年に京都で逮捕。その後は国内で支援活動を行う。 pic.twitter.com/sJRAtcVtDV

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 15, 2019

ここでは日本赤軍の軍事委員以外のメンバーをご紹介していきます。

1人目は檜森孝雄です。日本赤軍では国内でオルグなどの後方支援活動を行なっていました。日本赤軍への加入は1971年です。出身は京大パルチザンです。2002年に焼身自殺をしています。

2人目は足立正生です。日本赤軍では政治委員を勤めていました。日本赤軍への加入は1974年です。出身は若松プロダクション所属の映画監督でした。懲役2年・執行猶予4年の実刑判決を受けました。

3人目は吉村和江です。日本赤軍では政治委員を勤めていました。日本赤軍への加入は1971年です。出身は労働者共産主義委員会の怒涛派でした。被拘禁者奪取罪に問われ国際手配され、ペルーで逮捕・送還されました。懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の実行判決を受けました。

【4】その他のメンバー

リッダ戦士の墓
1999年にレバノンのベイルート・シャティラ地区にあるパレスチナ人墓地に作られた。当初は奥平剛士と安田安之の2名のみが葬られていたが、その後に死亡した檜森孝雄と丸岡修も新たに葬られた。 pic.twitter.com/hUWcpuPbkE

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 25, 2019

その他の日本赤軍の役職名のないものの活動的だった主なメンバーを紹介していきます。

1人目は安田安之です。1971年に日本赤軍に加入しました。出身は京大パルチザンです。テルアビブ空港乱射事件に関わり、テルアビブ事件の際に死亡しています

2人目は岡本公三です。日本赤軍への加入は1972年です。テルアビブ空港乱射事件に関わり、国際指名手配、現在も国外逃亡を続けています。

3人目は坂東國男です。日本赤軍への加入は1975年です。出身は連合赤軍です。ダッカ日航機ハイジャック事件に関わり、その後国外逃亡、現在も逃亡を続け、国際指名手配中です。

4人目は佐々木規夫です。日本赤軍への加入は1975年です。出身は東アジア反日武装戦線です。ダッカ日航機ハイジャック事件に関わり、その後国外逃亡、現在も逃亡を続け、国際指名手配中です。

5人目は大道寺あや子です。日本赤軍への加入は1977年です。出身は東アジア反日武装戦です。日本赤軍に加入後、国際指名手配に認定、国外逃亡しました。現在も国際指名手配中で、国外逃亡を続けています。

6人目は浴田由紀子です。日本赤軍への加入は1977年です。出身は東アジア反日武装戦です。日本赤軍に加入後、逮捕、懲役20年の実刑判決を受け、2017年に釈放されています。現在は童話作家として活動しています。

7人目は泉水博です。日本赤軍への加入は1977年です。出身は統一獄中者組合です。無期懲役の判決を受け、現在も服役中です。

8人目は仁平映です。日本赤軍への加入は1977年です。出身は統一獄中者組合です。日本赤軍に加入後、国際指名手配に認定、国外逃亡しました。現在も国際指名手配中で、国外逃亡を続けています。

9人目は城崎勉です。日本赤軍への加入は1977年です。出身は赤軍派です。ダッカ日航機ハイジャック事件に関わり、アメリカ合衆国で懲役30年の実刑判決を受けます、2015年に刑期短縮によって釈放され、強制退去処分となりました。日本到着後に逮捕され、懲役12年の実刑判決を受けます。しかし、本人は日本赤軍メンバーであることを否定しています。

10人目は松田久です。日本赤軍への加入は1975年です。出身は赤軍派です。日本赤軍に加入後、国際指名手配に認定、国外逃亡しました。現在も国際指名手配中で、国外逃亡を続けています。

11人目は山田修です。日本赤軍への加入は1971年です。出身は京大パルチザンです。1972年に、訓練中に死亡しました。

12人目は山本万里子です。日系の百貨店のパリ支店に勤務していました。店員と強いて働く傍、高橋武智らとともに日系商社員誘拐計画に関わり、連絡役を担っていました。懲役2年6ヶ月、執行猶予5年の判決を受けています。

13人目は菊村憂です。正式な日本赤軍メンバーかは不明です。1988年にアメリカ合衆国で爆発物所持で逮捕されました。アメリカ合衆国に19年服役し、2007年に日本に強制送還されます。偽装有印文書行使容疑で懲役2年・執行猶予4年の判決を受けました。

日本赤軍の活動とは?

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それでは次に、日本赤軍の活動についてご紹介していきます。日本赤軍の活動の基本は「世界革命」です。

そのため彼らの中でテロ行為に伴う犠牲は、革命に伴う犠牲であると軽視されていました。

【1】テロ活動

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日本赤軍は新左翼団体として共産主義・社会主義を掲げ、世界の革命および日本の革命を掲げ、数々のテロ活動を行なっていました。

このテロ活動によって多くの死傷者が出ています。また日本国内でも武装闘争事件を起こしていました。テロの手口は主に航空機のハイジャック、空港襲撃、大使館に立てこもり人質を取る、などです。

【2】武装ゲリラ闘争

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ゲリラとは小戦争を意味するスペイン語です。

日本赤軍および日本の新左翼による武装闘争の多くはこのように呼ばれました。会戦のように正面衝突するのではなく、少人数で奇襲などを行う戦術のことです。1990年代まで、日本赤軍ではこの武装ゲリラ闘争が数多く行われていました。

テロではなくゲリラ闘争と称して、警察署の襲撃や銀行強盗などが行われ、多数の死傷者を出しました。

【3】海外へ革命の本拠地を

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「国際根拠地論」を打ち出した日本赤軍は、海外に革命の本拠地を求めて日本を脱出しました。

日本赤軍が創設された地も日本ではなく海外です。マルクス種にに基づく日本革命および世界の共産主義化の実現を目的に、中東を中心に海外へ次々と拠点を展開していきました。

日本赤軍事件の概要

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それではそんな日本赤軍の事件の概要をご紹介していきます。

日本赤軍は国内外を問わず、死傷者を多く排出する数々の事件を起こしています。その後のメンバーの行方にも関わってくる重要な事件をピックアップして一部をご紹介していきたいと思います。

【1】ダッカ事件

人質への制裁 日本赤軍は指示に従わない人質に対して、制裁と称する暴行を行って服従させていた。対象は性別や年齢に関係なく、何発も拳や拳銃で殴りつけられ、中には出血した者もいた。

写真はダッカ事件で人質となったiさんのスケッチ。 pic.twitter.com/1NTLe8VKqi

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 23, 2019

ダッカ事件とは、日本赤軍が起こした日航機ハイジャック事件の一つです。

パリ発東京着の、乗客・乗員150名余りを乗せた日航機を日本赤軍がハイジャックし、バングラデシュのダッカの空港に着陸させた事件です。犯人グループは乗員・乗客全てを人質にとり、人質を解放する代わりに、当時日本で服役していた日本赤軍のメンバー9名の釈放、及び身代金600万ドルを日本政府に要求しました。

対応を迫られた政府は身代金600万ドルを支払い、日本赤軍メンバーの6人を釈放、出国を認めました。その後の1974年7月にパリのオルリー空港に置いて、偽装パスポートを使用したメンバー(山田義昭)が逮捕されたことをきっかけに、多数の関係者が身柄を拘束されました。

【2】テルアビブ・ロッド空港事件

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テルアビブ・ロッド空港事件とは、1972年の5月30日に日本赤軍が起こしたテロ事件です。

別名ロッド空港乱射事件と呼ばれます。1972年5月8日、パレスチナ過激派テロリスト4名がベルギーのブリュッセル発テルアビブいきのサベナ航空をハイジャックするも失敗。ロッド空港に着陸され、拘束された仲間317人の解放を要求するために起こしたテロ事件です。

この事件の実行犯は日本赤軍幹部の奥平剛士、と、当時京都大学の学生だった安田安之、そして鹿児島大学の学生だった岡本公三でした。当時、テロリストが民間人を無差別殺害する事件は前代未聞であり、この事件は世間に衝撃を与えました。

またこの事件によって、日本赤軍に非難が集まりました。

【3】ハーグ事件

オランダ王立陸軍 1814年創立。WW2後はNATOの一員となり、重武装化が進められた。

ハーグ事件でフランス大使館とスキポール空港を完全包囲。装甲車も派遣し、狙撃兵も配置に着くなど、万全を期して日本赤軍に挑んだ。 pic.twitter.com/cHHTL1JKqO

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 24, 2019

ハーグ事件とは、日本赤軍が1974年9月14日にオランダのデン・ハーグで起こした事件のことです。

日本赤軍によってフランス大使館に立てこもり・人質を取るという事件でした。この事件は、日本赤軍最高幹部の重信房子も関与した事件とされています。この事件の犯行グループは、この事件ののちシリアに逃亡しました。

パリのオルリーで逮捕された山田義昭を救出するために行われた人質事件で、この事件において、実行グループは人質と山田義昭の解放を要求しました。

日本赤軍メンバーの逃亡劇

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ダッカ事件の容疑者たちの一部は、約40年が経過した現在も国際指名手配を受け、逃亡を続けています。

この事件で日本国内で服役していた連続企業爆破事件を起こした日本赤軍のメンバーの6人が釈放されました。その後、実行犯2人と釈放された3人の逮捕に至りましたが、残りのメンバーはいまだに消息はつかめていません。

ここではいまだに逃亡を続ける日本赤軍のメンバーを紹介していきたいと思います。

【1】佐々木規夫

佐々木規夫 日本赤軍の軍事委員。 1948年生まれ。74年に東アジア反日武装戦線に参加し、連続企業爆破事件を起こす。

75年に逮捕されるも、クアラルンプール事件で釈放され、日本赤軍に加入。その後ダッカ事件に参加し、現在も逃亡中。 pic.twitter.com/yBtjKl6Sa6

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 15, 2019

1998年にダッカ事件によって釈放された奥平純三と一緒にいるところを東京で目撃されたものの、逮捕には至っていません。

そのため現在も国際指名手配中です。生きていれば70歳を超える高齢であることが予想できます。

【2】坂東國男

坂東國男 連合赤軍中央委員

共産同赤軍派ではM作戦を指揮。坂東隊を率いた。 pic.twitter.com/UMXX1SjrbG

— 赤心報国1346 (@sekisin1346) April 7, 2019

ダッカ事件後は主に中東に拠点を置いていました。

その後、中国・ルーマニア・ネパールの出入国の形跡が残されているものの、現在の消息や生死はわかっていません。現在も国際指名手配中です。

【3】奥平純三

奥平純三 日本赤軍の軍事委員。奥平剛士の弟。 1949年生まれ。京大では京大パルチザン所属。

74年に日本赤軍に加入し、2件の大使館占拠事件に参加。76年に逮捕されるが、ダッカ事件で釈放。80年代にゲリラ事件を起こし、現在も逃亡中。 pic.twitter.com/rdL3hAxcBH

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 21, 2019

ダッカ事件によって釈放されたうちの1人です。

1976年にヨルダンへ偽装パスポートで不正入国する際に逮捕されていました。しかしハイジャック事件を機に釈放されたのちも、様々なテロ行為を行い、国際指名手配に認定されました。消息、生死は一切不明です。

【4】大道寺あや子

大道寺あや子 東アジア反日武装戦線のメンバー。 1948年生まれ。大卒後に薬剤師となり、大道寺将司と結婚。東アジア反日武装戦線に参加。連続企業爆破事件では爆弾用の薬品調達や見張りを担当。

75年に逮捕されるも、ダッカ事件で釈放。 pic.twitter.com/Vpl1dtUtWP

— 東アジア反日武装戦線bot(準備中) (@EAAJAF_bot) August 24, 2019

ダッカ事件を機に釈放されたうちの1人です。

事件によって釈放されたのち、国際指名手配に認定されました。1999年に日本赤軍最高幹部の重信房子と会っていることが確認されていますが、以降現在の消息、生死など一切不明です。

【5】仁平映

仁平映 獄中者組合のメンバー。 1946年生まれ。中学卒業後に傷害事件などで何度か逮捕され、獄中で統一獄中者組合を結成。

76年に強盗殺人事件を起こすも、ダッカ事件で釈放。その後の動向は不明で、日本赤軍に参加していない可能性が高い。 pic.twitter.com/qVScOGY5Ih

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 3, 2019

ダッカ事件を機に釈放された1人です。

逃亡後日本赤軍に加入したとして国際指名手配に認定されました。現在も国外逃亡中で、消息、生死などは一切不明です。生きていれば70歳を超えています。

日本赤軍の終焉

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無残な事件や暴虐の数々を尽くした日本赤軍ですが、日本赤軍もついに終わりを迎えます。

支持者を失って行った日本赤軍は徐々に力、勢いを失っていきます。さらに中心人物の逮捕により、活動は厳しいものになっていきます。日本赤軍の衰退から組織の崩壊までを時系列を追って紹介していきたいと思います。

【1】時代遅れの思想により活動出来ない状態に

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1980年代中盤には武装ゲリラ活動やアジア諸国を中心にいくつかの事件を引き起こしていた日本赤軍ですが、時代遅れの思想だという理由で新規の支持者を確保することが難しくなり、1980年代後半にはあまり支持を受けることが出来ないような状態になりました。

さらにイスラエルや西側諸国などとの関係も途絶えたことから、日本赤軍はほとんど活動を行えない状態に追い込まれていました。

【2】中心人物の逮捕

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1987年に丸岡修の逮捕、1995年の浴田由紀子の逮捕、1996年に吉村和江の逮捕、同年に城崎勉の逮捕、さらに1997年には和光晴生、足立正生、山本万理子、戸平和夫、岡本公三、西川純が逮捕、強制送還などされます。

これらの日本赤軍の中心人物たちの逮捕、強制送還によって、日本赤軍は壊滅状態に陥ります。この頃の壊滅状態に陥った日本赤軍は、ほとんど組織として昨日していなかったと言います。

【3】解散

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主要メンバーの逮捕、所属メンバーの高齢化、新規の支持者、資金不足によって、1990年代後半には日本赤軍は事実上の解散状態に追い詰められたといいます。

これを受けて、2001年、獄中の重信房子が日本赤軍の解散を宣言しました。これによって日本赤軍は正式に解散しました。しかし、その直後に坂東國男と大道寺あや子は「日本赤軍解散宣言無効宣言」を発表しました。

日本赤軍が解散したその後

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このような経緯で衰退・解散に追い詰められた日本赤軍ですが、解散後にも少し続きがあります。

後継団体や「国際テロリストの母」とも呼ばれる重信房子のその後など、ここでは日本赤軍が解散したその後のことについてご紹介していきます。

【1】後継組織ムーブメント連帯

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獄中の重信房子によって解散宣言がされたのち、日本赤軍の後継団体に当たる「ムーブメント連帯」という組織が設立されました。

現在も設立当時からの支持者がいることが考えられていますが、そのほとんどは70歳や80歳などの高齢者であることが推測できます。この思想を引き継ぐ新たな支持者は今では皆無状態です。

【2】重信房子のインタビュー

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重信房子は産経新聞社のインタビューに答えています。

そこには「世界を変えるといい気になっていた。多くの人に迷惑をかけていることに気づいていなかった。大義のためなら何をしてもいいという感覚に陥っていた」と述べています。

この自己批判からかなりテロ行為や日本赤軍の犯した罪について反省していることが伺えます。

【3】リッダ闘争

リッダ闘争 テルアビブ事件の日本赤軍側の名称。「リッダ」とは現場のロッド空港の非ヘブライ語名称である「リッダ空港」のこと。

実行犯の3人は「リッダの三戦士」として日本赤軍のみならず、イスラエルと敵対する他の過激派からも称賛された。 pic.twitter.com/R64s86WLiL

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) August 22, 2019

その上で、毎年5月30日はテルアビブ空港乱射事件の日本赤軍側の呼称である「リッダ闘争」を記念する会合が日本とレバノンで行われています。

重信房子もレバノンに対して賛同メッセージを送っています。このような動きがいつまた日本赤軍に火をつけるかわかりませんので、こういった動きを注視しておくことが大切ですね。

日本赤軍&メンバーの現在

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日本赤軍と、日本赤軍メンバーの現在についてご紹介していきます。

刑を受けたのちに出所、心を入れ替えて真っ当に生きている日本赤軍旧メンバーも紹介していきます。

日本赤軍は上記の通り解散状態、後継団体もほぼ消滅状態にあります。

その一方で今でも日本とレバノンで会合が開かれていることから、今現在も完全な消滅状態ではないことが伺えます。また現在では日本赤軍をベースにした映画や小説が数多く製作されています。

ダッカ事件を機に釈放されたのち、逃亡、日本赤軍に加入したことで国際指名手配に認定されていた浴田由紀子ですが、1981年には第一子を出産しています。その後の1995年にルーマニアで身柄を拘束され、日本に強制送還されました。2004年に懲役20年の判決が確定し、2017年に刑期満了で釈放されています。

現在69歳の浴田由紀子ですが、なんと現在は「えきたゆきこ」の筆名で作家活動を行なっているのです。著書「マコの宝箱」は命の大切さを描いた童話です。

ダッカ事件に置いて釈放を拒否した人物の1人です。

赤軍派として行なった銀行強盗を行なったことで実刑判決を受けていましたが、1998年10月に出所しています。現在はなんと静岡市にあるスナック「不思議な酒場 スナック バロン」という店を経営、マスターをしています。

日本赤軍まとめ!

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いかがでしたでしょうか? 

国際テロリスト集団とも呼ばれ、数々の事件を引き起こした日本赤軍について理解を深めることはできたでしょうか? 日本赤軍の歴史について学ぶことはできたでしょうか。

ぞっとするような恐ろしい事件の数々や、現在も逃亡、及び国際指名手配を受けている日本赤軍過去のメンバーがいるなんて恐ろしいですね。この先日本赤軍が再び活動を再開することは、逃亡者や支持者たちの年齢や現在を考えるとあまりあり得ることではないと思います。

しかし現在の政治を考える上でも、日本赤軍などの国際テロ集団が存在していた事実は頭に入れておいたほうがいいですね。