『望まれずに産まれて、望まれて死んで』
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— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) 2014年1月4日
2008年6月8日午後12時30分過ぎ、賑わう秋葉原の歩行者天国の交差点であの事件は起きました。誰もが想定していなかった休日の惨劇。人々の平穏な日常は一瞬で奪われてしまったのでした。
心に「闇」抱えてきた1人の男の身勝手な行動により、7人の尊い命が奪われた「秋葉原通り魔事件」を私たちは永遠に忘れることはできないのでしょう。いえ、絶対に風化させてはならないのです。
平成から令和に時代は移り変わっても哀しい事に同種の事件が絶えない現実。通り魔殺人史上、最悪といわれたこの「秋葉原通り魔事件」から学ぶべきことは多くあると言えるのでしょう。
秋葉原通り魔事件概要
「『死ぬ気になれば何でもできるだろ。』死ぬ気にならなくても何でもできちゃう人のセリフですね」
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— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) 2014年1月4日
では、今から「秋葉原通り魔事件」をあらためて振り返って見ていきましょう。概要を細かく分け、わかりやすいように解説していきます。
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概要①オタクの聖地「秋葉原」が凄惨な殺人現場に
Ivy Fengさん(@junjun_ivy)がシェアした投稿 – 2018年12月月22日午前12時32分PST
2008年(平成20年)6月8日、東京都千代田区外神田・通称秋葉原の歩行者天国で事件は発生しました。その事件により7人が死亡、10人が負傷するという大惨事に。
その犯行は実に計画性に富んでおり、場あたり的犯行ではなかったのでした。
殺人鬼となった犯人・加藤智大によって命を絶たれた方にご冥福をお祈りしながら、加藤智大が行った非道極まりない悪行を徹底解説していきますのでご覧下さい。
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引用: Pixabay
同日の午後12時30分過ぎ、東京都千代田区外神田4丁目の神田明神通りと中央通りが交わる交差点にて、中央通りに設置されていた信号が「赤」だったのにもかかわらず、それを無視して加藤智大は2トントラックで群衆に突入しました。
「青」だった西側の神田明神交差点を横断中していた歩行者5人を次々にはねとばし、加藤智大の乗った2トントラックは交差点を過ぎた場所で、対向車線で信号待ちしていたタクシーと接触して停車したのでした。
概要③「17名を恐怖のどん底に」加藤智大の犯した大きな罪とは
引用: Pixabay
2トントラックから下車した加藤智大は、犯行の為に所持していたダガーナイフでたて続けに人々を襲い殺傷しました。
交差点ではねとばされた5人を救護していた通行人や警察官を含む14人を襲った後、奇声を上げながら周囲の通行人たちを次々にダガーナイフで刺し続けていったのでした。
そして、逃走を図ろうとした加藤智大。事件発生後まもなくして近くにあった万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官が駆け付けたものの、なおも逃走を試みていた加藤智大を追跡して警棒で応戦していた警察官でした。
最終的に、ダガーナイフを捨てるよう警察官が拳銃の銃口を加藤智大に向けた事により、諦めた加藤智大は、ダガーナイフを捨て警察の警告に応じて御用となったのでした。
その日、たまたま非番でその場所に居合わせていた蔵前警察署の警察官だった男性の援護が加わった事で無事に身柄確保できたのです。
警察官に取り押さえられた場所は、旧サトームセン本店(現・クラブセガ秋葉原新館)脇にある路地でした。
概要④加藤智大に殺害された7名の被害者たち
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引用: Pixabay
まずはじめに、お亡くなりになられた方及びご遺族様へ謹んでお悔やみ申し上げます。ひとりの身勝手な人間により未来を奪われたその悔しさ、儚さは一言では語り尽くせないものでしょう。
今もなお、心に傷を負って生活をされている10人の被害者の方々、また、その惨状を目の当たりにしてしまった人々の苦しみは到底図り知る事はできないのかもしれません。
- 東京都杉並区・中村勝彦さん(74)無職 左背中刺創
秋葉原通り魔事件が発生した2008年春まで歯科医師として従事。事件当日、この場所に来なかったら・・・。
中村さんはこの日、パソコン関連の買い物で長男と秋葉原に来ていたそうでした。いつもなら、妻を誘ってお出かけしていた中村さんでしたが、この日に限って長男とお出かけしたそうでした。
明るく家を後にした中村さん。あの日あの場所に行きさえしなければ命を絶たれる事もなかったのでしょう。後に中村さんの妻がこのように言っていたそうでした。
「無念としか言いようがありません。やりたいことが、まだ、たくさんあったでしょう。」と、生前、写真が趣味で世界中を旅行していたご主人を懐かしく振りかえっていたそうです。
- 埼玉県熊谷市・藤野和倫(かずのり)さん(19) 大学生 腹部強打
- 千葉県流山市・川口隆裕さん(19)大学生 腹部強打
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引用: Pixabay
秋葉原通り魔事件当日、巻き添えになった友人の川口隆裕さんと共に、他の友人二人の計4人で秋葉原の街をブラブラしていていました。
「特に用事がなくても、いつもこの場所を4人でブラついていた」というほど仲良しだった4人だったそうです。
秋葉原通り魔事件当日は、中央通りを南へ向いながら交差点に入ったそうでした。後方に死亡した藤野さんと川口さんがいて、その間は1メーターもなかったそうでした。
そして・・・4人の傍を加藤智大が運転する2トントラックが猛スピードで通過。その際、前の友人も飛ばされて転倒、腰を強打したそうでした。
その友人は、後ろを歩いていた藤野さんと川口さんがいない事に気が付き、探していたら交差点の中央付近で横向きに倒れていた藤野さんと川口さんを発見したそうでした。
「川口!」「藤野!」懸命に友人が声がけしたものの、全く微動だにしなかったそうで、ふたりは帰らぬ人となったのでした。その時の事を友人二人がこのように振り返っていたそうです。
「心に穴があいてしまって、川口と藤野の死が信じられなくて・・・」そう言いながら涙をこぼしたそうでした。
- 東京都板橋区・小岩井和弘さん(47)無職 背部刺創
小岩井さんは、非常に大人しい方だったようでした。子煩悩だった小岩井さんは、アクティブな面もあったようで、息子さんを自身が運転するオートバイに乗せ、よくお出かけをしていたそうでした。
ご遺族は、ただ「とにかく今は憔悴しきっていまして、夜眠る事も出来ません。私たち遺族は、ただ故人をしのんで静かに見送ってあげたいと思っています。」と静かに語っていたそうでした。
- 埼玉県蕨市・宮本直樹さん(31)会社員 胸部貫通刺創
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引用: Pixabay
現場では、呼吸と脈があったようでしたが、、右胸の刺し傷が深かったため致命傷になったそうでした。秋葉原通り魔事件翌日の9日朝、父・惇彦さんはこのように語っていたそうでした。
「とてもショックで亡くなった息子の事で取材は受けたくないんです」と、そっとしておいてくださいと言わんばかりに哀しげにつぶやいたそうでした。
- 神奈川県厚木市・松井満さん(33)調理師 背部刺創
心肺停止状態で病院に搬送され、4時間後に死亡が確認されたそうでした。両親と弟さんと4人家族だった松井さん。松井さんの弟の同級生が兄・満さんを振り返ってこのように語っていたそうでした。
「松井さんは、とても面倒見が良かった人で、昔は自分もよく遊び相手になってもらっていました。アニメ好きな松井さんだったんで秋葉原に行ったんでしょう。」と、あの日あの時、秋葉原と言う場所に行かなければ、事件に巻き込まれずにすんだのにと唇を噛みしめていたそうです。
引用: Pixabay
東京芸術音楽部の4年生だった武藤さん。秋葉原通り魔事件発生の8日、「デジタル専門店」の短期派遣社員にて、路上で携帯電話の販売コーナーで仕事中に被害にあったようでした。
友人も多く、ムードメーカー的な存在だった武藤さん。責任感も強く、誰にでも頼りにされる明るい女性だったようでした。そんな武藤さんが亡くなった事を知った友人たちが・・・
「あまりの突然な事でショックで・・犯人に言ってやりたい事があるけど、もう口にするのも嫌」
と、皆、涙を流していたそうでした。加藤智大が2トントラックで群衆に突っ込んで、倒れ込んでいたおじいさんを助けようと駆け寄ったところを、加藤智大に腰をダガーナイフで刺され失血死したようでした。
その様を見ていた目撃者はこのように話していたそうです。「なんで、あんないい子が・・」といたたまれない気持ちになったそうでした。
概要⑤加藤智弘に負傷させられた10名の被害者たち
引用: Pixabay
命を奪われるまでに至らなかったものの、この秋葉原通り魔事件を一生のトラウマとして生きていかなければいけない10人の方々の胸中を察してなりません。
- 丸山正市さん(53) 胸・重傷 万世橋署/警部補
- 森 早苗さん(24) 肺腎臓損傷・重傷
- 平 松新さん(53) 腰・重傷
- 湯浅 洋さん(54) 右胸刺創・重篤
- 男性 (43) 脊髄損傷・重傷
- 男性 (27) 背部刺創・軽傷
- 男性 (28) 右前腕切創・軽傷
- 男性 (20) 腰痛・軽傷
- 男性 (19) 擦過傷・軽傷
- 女性 (30) 腹部刺創・重傷
概要⑥通り魔事件史上類をみない凶悪犯罪に世間が震撼
引用: Pixabay
「秋葉原通り魔事件」の事件が起こった場所は、中央通りの歩行者天国に位置していたため甚大な被害になりました。
休日に買い物を楽しむ家族やカップル、また地方から出てきてあったであろう観光客で賑わいをみせていた秋葉原が地獄へと一変したのでした。
逃げまどう人々でごった返す中、加藤智大はトラックから下車して、さらに凶行に及びました。刺されて横たわった負傷者の体からおびただしい血が流れ、辺りは血の海と化したのです。
負傷者に駆け寄って救護していた警察官や一般の方々も、この殺人鬼である加藤智大に餌食になってしまいました。歩行者天国は、まるで戦場さながらの血なまぐさい場所と化していたのです。
通り魔事件史上類をみないこの凶悪事件を絶対に風化させてはならないのです。
目撃者の証言は?
この事件の目撃者の方たちが証言をしていました。
目撃者①日本レンタカーのロゴ付きトラックが猛スピードで暴走「ひき逃げ事故か?」
目撃者によると、12時半ごろ中央通りを南の方へ歩いていると、背後で何かがぶつかる大きな音がして振り返ると、日本レンタカーのロゴ付きの2トントラックが猛スピードで西から東の交差点をつきにけて走っていたそうでした。
そして、目撃者は、その周辺に2人が倒れていたのに気が付いて、その時は「ひき逃げしたのか?」と思ったそうでした。辺りにトラックのバンパーやひかれた人が持っていたであろう傘などが散乱していたため、事故と勘違いしたそうでした。
交差点周辺は大混乱。そして、目撃者が北側を見たら人垣がいっぱい出来あがっていたそうでした。
目撃者②歩行者天国に異変が・・警察官が倒れた「事故の再現実験かと思った」
引用: Pixabay
また、このように語っていた目撃者もいました。加藤智大の乗った2トントラックが通過して2分くらい経った頃、交差点内で警察官がごろんと道に横たわる姿を目撃したそうでした。
最初は、警察官により事故の再現実験が行われていると思っていたのでしたが、実は既に加藤智大により、ダガーナイフで刺された瞬間だったようでした。
目撃者によれば、警察官が倒れ込んだ時には、加藤智大は既にその場所にはいなかったそうでした。加藤智大は、その後も場所を移動しながら、次々に人を襲い刺しながら逃走していたのでした。
目撃者③加藤智大に刺された警察官を見た群衆が一斉に散った
引用: Pixabay
状況を把握した群衆は一斉に散り、辺りは騒然だったと、その時の様子を目撃者が語っていたそうでした。女性の「キャー!」という悲鳴と共に警察官が倒れ込み、群衆が崩れて一斉に逃げだしたのです。
- 介抱中に刺されて重傷を負った警察官「万世橋署/丸山正市警部補(当時53歳)」
暴走した加藤智大が運転するトラックにひかれて倒れていた人を救護活動中に、ダガーナイフで加藤智大に刺され重傷を負いました。
その後、肝臓がんを患った丸山さんは、秋葉原通り魔事件発生後から3年後に56歳の若さで他界したそうでした。死後、警部に昇進した丸山さん。新聞の取材に応じた丸山さんの妻がこのように胸の内を明かしていたのでした。
「事件は自分たちにとってつらうことだった」と。秋葉原通り魔事件にて、警視総監賞誉を授与された夫の警察官人生を「誇らしく」思ったそうでした。
なお、受賞者には他の場所で逮捕に協力した2名の警察官にも贈られていました。
引用: Pixabay
- 加藤智大を取り押さえた警察官「万世橋警察署地域課/萩野尚(ひさし)巡査部長(41)・蔵前署地域課/清水真巡査長(39)」
萩野巡査部長は、非番で現場に居合わせていた警察官の清水巡査長と共に警察庁長官賞詞・警視総監賞詞を贈られたそうでした。
この3人の警察官は、秋葉原通り魔事件をこのように振り返っていたそうです。「あまりにも凄惨な状態だった」「気が動転していた」などと当時の心境を語っていたそうでした。
秋葉原通り魔事件当日に、加藤智大を取り押さえた万世橋地域課の荻野尚巡査部長(41)が着用していたチョッキ型の「耐刃防護衣」ですが、胸や両わき腹の部分に金属製の板が入っているものでした。
しかし、争った際、加藤智大によってダガーナイフで左胸に2カ所・左わき腹に1カ所傷つけられていて、いずれも金属製の板まで達していたとのことでした。そのうちの2か所は幅が3センチあったため難を逃れた萩野巡査部長だったそうでした。
この事から考察すると、防護服など身に付けていなかった一般人が、ダガーナイフにより負った傷が致命傷になってもおかしいことではなかったのでした。
目撃者④現場を目の当たりにした女性が「怖くて身動きが取れなかった」
引用: Pixabay
秋葉原通り魔事件当日、夫と共に歩行者天国にいた女性(42)が、夫から「少し前に救命講習を受けたんだ」と言われたことを思い出し、無我夢中で倒れ込む被害者に駆け寄ったそうでした。
「助かってほしい」その一念から必死に救護活動をしたそうでした。そして、後に加藤智大が「事件直前に犯行を躊躇っていた」という記事を読んだこの女性がこのように話していたそうでした。
「いろいろな想いが犯人自身、駆け巡っていたのでしょうが、どうして未然に防ぐ事ができなかったのか、ただ残念でしかたがない」と・・・。
目撃者⑤「救護のプロでもパニックになるほどだった」
引用: Pixabay
そのように語っていたのは、海上自衛官の男性(20)と日々命と向き合う男性医師(36)でした。
あらゆるシーンで、防衛技術を学んできた自衛官でさえ唸るほど凄惨な現場だったと目撃証言していたそうです。しかし、男性は「非常に気が動転したが、このような時自分たちがしっかり向き合わなければ」と語っていたそうでした。
また、医師である男性は、「正直、救命のプロでも、パニックになってしまい何をしていいのかわからず戸惑った」と話していたそうです。
この事から、いかに凄まじい現場だったのか、みなさんにも想像はつくことでしょう。
目撃者⑥後ずさりしながら路地の奥へ入っていった加藤智大
引用: Pixabay
目撃者によると、路地の入口だったサトームセン側にいた加藤智大は、路地の入口の反対側に警察官が待機していたため追い込まれていたとのことでした。
窮地に立たされていた加藤智大でしたが、警棒を持った警察官にナイフで対抗しながら後ずさりしながら、警察官を巻くようにしてさらに路地奥に逃げ込んで行ったそうです。
目撃者⑦移動しながらサバイバルナイフで次々に人を刺していった加藤智大
引用: Pixabay
そして、その先でも加藤智大はダガーナイフを振りかざして2名の方を刺していったのでした。
さらに、目撃者によれば、その先でも刺されたかわからないけど倒れている人を見たと証言していたのです。
目撃者⑧たった10分間の犯行だった秋葉原通り魔事件「犯人確保の瞬間」
引用: Pixabay
加藤智大が確保されるまでに要した時間は10分ほどだったと目撃者が語っていたようでした。
路地の奥へ追い込まれた加藤智大は、警視庁万世橋警察署秋葉原交番から駆けつけた警察官の荻野尚巡査部長に追跡され距離を詰められました。
警棒で懸命に応戦していた警察官の荻野尚巡査部長。その際、加藤智大は警察官が着用していた防護服をダガーナイフで切りつけたりしていたそうでした。
警察官に向かってくる加藤智大の側頭部を警棒で殴って応戦を続けていた警察官は、最後に加藤智大に銃口を向けて「それ以上したら発砲する」と警告。
それに怯んだ加藤智大は、やっとのことダガーナイフを捨て御用となったのでした。たまたま非番で居合わせていた蔵前警察署の警察官・清水真巡査長と共に取り押さえ、10分間にわたった警察官と犯人の捕り物劇に終止符が打たれたのでした。
日曜日だった事から、中央通りは歩行者天国となっていたため、被害が拡大してしまった事は確かだったのです。
多くの人々が逃げまどい、被害にあった負傷者が横たわるという地獄絵巻きのような歩行者天国でした。
辺りは血の海と化し、白昼の悲劇を命をかけて制止したこの勇敢な3人の警察官のおかげで凶行に終止符が打つ事ができたのでしょう。
なお、加藤智大は持っていたダガーナイフのほかに5本所持していたそうでした。考えただけでも背筋が凍り付きますね。
犯人の加藤智大の動機は?
「彼女がいれば、仕事を辞めることも、車を無くすことも、夜逃げすることも、携帯依存になることもなかった。希望がある奴にはわかるまい。」
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— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) 2014年1月4日
これから、加藤智大が起こした忌まわしい「秋葉原通り魔事件」の動機について調べましたのでご覧下さい。加藤智大が抱えてきた社会的背景にどのような事があったのか見ていきましょう。
犯行動機①携帯サイト掲示板での孤立感
引用: Pixabay
秋葉原通り魔事件を起こすことになった一番の動機についてですが、他者からのなりすましにより自身の掲示板を荒らされた事が発端ではなかったのか?と言われてきました。
精神的なはけ口がなかった加藤智大が、ネットに居場所を求め彷徨っていた事はたしかだったようです。
加藤智大は、「秋葉原通り魔事件」の犯行直前まで犯行計画の詳細や自身の心情などを掲示板に逐一投稿していました。
実生活で、満たされない日々を投稿掲示板にぶつける事で欲求を満たそうとし、「心の穴埋め」をしながら「等身大の自分」から逃避行していたのかもしれません。
現実の世界では演じることの出来なかった「イケた自分」を演じネット配信する事で、懸命に自身の存在をアピールしていただけに過ぎなかったのでしょう。
しかし、そんな安らぎの場所であった自身の掲示板を心ない人たちの「なりすまし」に荒らされた事は、加藤智大にとって屈辱に値する事だったのでした。
「自分の(ネット上の)掲示板を荒らした人たちに間違いを認識させて痛みを与えたかった」
事件後、加藤智大は秋葉原通り魔事件の動機をこのように語っていたのでした。やはり秋葉原通り魔事件勃発の一番の動機、すなわち原動力は、大切に温めてきた自身のスレを荒らされた事にあったようでした。
犯行動機②蓄積した猛烈な鬱憤
引用: Pixabay
投稿サイトをなりすましに荒らされた事が1番の動機だったのですが、世間ではさまざまな要因に視点を当てて「秋葉原通り魔事件の動機」を探っていましたが、これに対し加藤智大はこのように反論していたそうでした。
「社会に恨みがあったと方々で言われていましたが、それも若者が希望を持てる社会などと言われたりしていますが、意味がわかりません。なぜそうやって社会のせいにするのか全く理解できません。あくまでも私自身の状況で社会の環境ではないのです。勝手に置き換えないでほしい」
事件の動機について、よく囁かれていた「ツナギ紛失事件」のことも完全否定していたそうでした。「ツナギ紛失事件」とは、事件前に自分の職場のロッカーにあるべきはずの作業着のツナギがなかったことに激高した加藤智大がこの事件をきっかけに退職したという話でした。
しかし、この事と秋葉原通り魔事件は関係なかったそうで加藤智大自身も動機からは除外視していたのでした。
また、加藤智大自身が職を転々とした中で、ほとんどが「非正規雇用労働者」だったため、将来性のなさに悲観して「秋葉原通り魔事件」を起こしたのではないか?とも言われていましたが、結局のところ単に「自己愛」が強かったために、周囲に柔軟に対応出来なかっただけだったのでしょう。
しかし、にわかに信じがたいことではありますが、加藤智大の行いを非難する人たちがいる一方で、事件後ネットでは加藤智大の価値観を称賛し寄り添っている人たちも存在していたことがわかりました。
同じ思想を持った人たちになるようですが、長い目で見るとそちらのほうが問題ありといえるのかもしれないのでしょう。
犯行動機③「容姿」への劣等感
引用: Pixabay
加藤智大自身がすっと抱えてきた劣等感。それは、「容姿」でした。自身の掲示板に書き込みをする中にかならずといっていいほど自分を卑下する文言があります。
彼女が出来ないことも「この顔のせい」と感じてきた加藤智大にとって「友達ができない」以上に苦痛な現実だったのかもしれません。
ネット掲示板では、自身を「不細工スレの主」としてキャラを確立をしていた加藤智大でした。
“人生負け組の女にモテない”“2次元しか愛せないオタク”、また、あからさまに自分の後退しているおでこをネタにしたりと周囲の関心を強く引こうとしていた印象があったようでした。
その努力の甲斐あってか、ネット掲示板を通じ僅かではありましたが加藤智大にも「友人」と言える存在が数人存在していたようでした。
犯行動機④自暴自棄
引用: Pixabay
加藤智大が、秋葉原通り魔事件を起こす直後まで更新されていたネット掲示板。事件4日前あたりから自身の境遇や、身勝手な心情をあからさまに投稿していたようでした。
この投稿を見て、書き込み者である加藤智大のおかしい様子に気が付いた方はいらっしゃったのではないのでしょうか?
「君、ちょっと様子がおかしいよ?」と一言でも投げかける人がいたなら、こんなことになっていなかったのではないのでは?と感じた方は多かった事と思います。
ネット掲示板で嘘のキャラクターを演じ、ネットで知り合ったわずかな友人たちとコミュニケーションをとることだけが心のよりどころだった加藤智大。
しかし、順調に育んでいた唯一の安堵の場所だったネット掲示板を「偽・加藤智大」出現により、居場所を失ってしまった加藤智大が考えたことが「社会への報復」つまり秋葉原通り魔事件の実行だったのです。
06/08/05:21 「車つっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います。みんなさようなら」
そして、借りたレンタカーを運転中も更新し続け、その中に・・・
06/08/06:04「ほんの数人、こんな俺に長い事つきあってくれた奴らがいる」
06/08/06:05「全員一斉返信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っている事が少し嬉しかった」
06/08/06:10「使う予定の道路が封鎖中とか やっぱり、全てが俺の邪魔をする」
06/08/06:31「時間だ 出かけよう」
秋葉原に向かいトラックを運転する加藤智大は、ついに決行する。
06/08/11:45「秋葉原ついた」
06/08/11:45「今日は歩行者天国の日だよね?」
06/08/12:10「時間です」
この直後に、加藤智大は自身の計画を実行することになったのでした。
このような投稿がなされていたのに、どうしてすぐに対応する事ができなかったのか、ただただ残念でなりません。自暴自棄になっていたとはいえ、身勝手な世界観に陶酔しきっていた加藤智大の犯した事は絶対に許される事ではないのです。
加藤智大の生い立ち
Ayaさん(@tu.navy_blue.love)がシェアした投稿 – 2018年 6月月7日午後4時48分PDT
1982年9月28日に青森県五所川原市に加藤家の長男として生を受け、その3年後に次男が誕生しました。
地元の信用金庫に勤務していた父と、地元の教育アドバイザーを担うほど教育熱心な厳格な母のもとで育った加藤兄弟。
特に兄・智大は、「一言では語り尽くせない」ほどの壮絶な子ども時代を過ごしてきたようでした。
後に兄・智大が起こした「秋葉原通り魔事件」についてインタビューを受けた際、弟が兄のこと「アレ」と言っていたそうでした。その時の様子から「虐待を受けていたのは兄だけだったのでは?」と記者は感じたそうでした。
どのような幼少期を経て、このような歪んだおかしい人格が育まれたのか。凄まじすぎる生い立ちをご覧下さい。
母から「自己愛」を育まれた加藤少年
引用: Pixabay
加藤智大の母親は、教育熱心で地元でも一目置かれるほどの教育ママでした。その教育の様は、虐待に近いほどで「教育」と称した「ただのネグレクト」だったとも言われています。
英才教育というよりも、意のままにわが子を動かしたいだけのエゴイストのでしょうか。後に弟が語った「子どものことを思っていたためにあのように厳しくしていた」と言っていたようでした。
でも実際のところは、子どもながらにも弟にも酷い「扱いを受けていた兄」だったようでした。少しのミスも許せないといった軍人養成所さながらのスパルタを容認していた父親だったそうです。
弟も、兄ほど強いネグレクト教育はされていなかったものの、父親同様、母親に意見することなど全く出来ない状態にあったようなのです。そこには深い家族関係の背景があったものと考察されます。
ただ、やはり母と息子の共依存という特殊な関係さえなければ、加藤智大はこんなにねじ曲がった思想を持たない人間にならなくてすんだのかもしれません。
一番わんぱく盛りだった小学生時代に激しい制圧を受けた
引用: Pixabay
小学生時代の加藤智大は、母が組み立てた過酷なスケジュールを必至でこなしていたそうでした。運動系や学習系の塾に通わされ、遊びなどもってのほかで、小学生らしい友人との交流など一切できなかったそうで、「勉強一色」に塗り固められ、ほぼほぼ自由がない監禁状態だったようでした。
意外にもイケていた中学校時代
引用: Pixabay
母親の英才教育の賜か、運動神経が抜群だった加藤智大は、テニスで県大会に進出したり、勉強では、好成績を収めたりといわゆる「頭が良くて運動神経抜群」な女子にとっても理想的な男子だったようでした。
加藤智大のモテ期は、中学校時代と言っても過言ではなく、実際に2名の女子とも交際をしていたそうでした。しかし、その2度の交際にも母親が介入してきてあっけなく「サヨナラ」させられた気の毒な加藤少年だったのでした。
さえないオタクムードいっぱいな加藤智大でしたが、実は、こんなにアクティブな面々もあったとは本当に驚きですね。ただ、そんな華々しい印象だった加藤智大は、家に帰ると一転して暗い表情に。理由はあまりにも躾とはかけ離れた母親の行動にあったのでした。
加藤智大がご飯を食べるのが遅いと言う理由だけで怒り狂っていたという母親。廊下に新聞紙を敷き、その上に食べていたご飯やみそ汁をばらまいて「そこで食べなさい!」などと指示していたりと、信じられないような虐待さながらの仕打ちを子どもにしていたのでした。
その時の様子を弟が「泣いていた」と証言していたのでしたが、そんな母親の異常なまでの制裁を見ていても、父親がかばってあげる事などなかったそうでした。ひとり、母の仕打ちに耐えていた兄の加藤智大だったのでしょう。
母親の期待の応え名門県立青森高校に進学
引用: Pixabay
中学校までは成績優秀だった加藤智大は、母の期待を背負うかのように名門県立青森高校に進学。しかし、そこで待っていたのは成績不良に悩まされる自身だったのでした。
名門進学校だけあり、周囲には成績優秀な学生ばかり。段々、落ちこぼれていく長男・智大に愛想を尽かしたように手のひらをひっくり返した母親。期待は次男へ移ったのでした。
母の期待を注ぐ対象が弟に移ってしまったことで、今まで張り詰めていた緊張の糸がキレてしまった加藤智大。そのことにより、自分の存在を全否定されたと感じた兄・智大の中に母への「恨み」と言う感情が芽生えていったのでした。
「今まで母親の望むように頑張ってきたのに」と、それまで受けてきた酷い仕打ちや、矛盾した教育への恨み辛みが走馬灯のように蘇り、一気に爆発する事に。
それを機に、家庭内暴力を起こすようになった兄・智大は、母親に対して暴力を振るうようになっていきました。自室で暴れたり、学校でもガラスを割ったりと問題行動をするようになっていきました。
独裁者だった母親からの凄まじい仕打ちをずっと耐えてきた加藤智大にとって、母親から阻害されることは苦痛極まりないことだったのかもしれません。
「自分の思うようにならなければトコトン相手をいじめ抜く」のが共依存の特徴ですが、母親の共依存の脅威に気がついた加藤智大の心は、その頃には既に破壊寸前だったのかもしれません。
「言うことさえ聞いてれば叱られない」「母親が喜ぶことを一生懸命にやればいいんだ」とがんじがらめになっていた加藤智大にある意味、同情してしまう人は少なくはないのでしょう。
母親への反骨心からあえて短期大学に
引用: Pixabay
成績優秀だった加藤智大は、当初の目標は北海道大学の工学部でしたが、その高度な目標とは相反して、2001年に中日本自動車短期大学入学しました。勿論、母親への反骨心からでしたが、結局は整備士免許を取れないまま2003年に卒業していたようでした。
持ち前のリーダーシップを発揮できていた警備会社
引用: Pixabay
短大卒業後、仙台市の警備会社に就職しましたがわずか2年で退職。でも、加藤智大は、この職場では100人ものスタッフを率いて統制をとったりと、中学校時代にスポーツで培ったリーダーシップをいかんなく発揮していたようでした。
その頃の加藤智大は、母親の呪縛から解き放たれたことで明るさを取り戻していたようで。同僚や後輩にも慕われる明るい青年に戻っていて、友人も多かったそうです。共通の趣味を持った人たちとの交流も盛んで、いたって普通の青年だったのです。ひとり暮らしもしていて一見何も問題はなかったようでした。
最大のネックは「仕事が長続きしない」ことだった
引用: Pixabay
警備会社では会社からの信頼も厚く、いい感じで就業していたのでしたが、上司との折り合いが悪くなり「仕事の正当な評価付け」がなされないことを理由に、このままでは今のモチベーションを保てないと言うことから退職。
その後、埼玉県上尾市の自動車工場に契約社員として就職するも、ここも1年で退職。
次に、茨城県つくば市の住宅メーカーに勤務したが、たった3ヶ月で退職。その後、青森に帰郷し、大型免許を取得した後、地元の運送会社に就職運転手として就職も、会社に掲示板で知り合った仲間と会うために「2週間の旅行休暇」を申し出たところ、認められなかったため退社したそうでした。
最後に、静岡県裾野市の自動車メーカーに勤務するも、2008年にまたもや退社。秋葉原通り魔事件が発生したのはその直後だったのでした。
ネット掲示板のハマっていったのは、乗りに乗っていた警備会社を辞めてからだったのです。
勤めていた会社を攻撃する計画まで立てていた加藤智大
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嫌なことがあったりしたら無言での抗議を行い、無断欠勤は日常化だったようでした。何をしても満足感を得ることが出来なかった加藤智大。気に入らなければ自ら人や社会との接点を断ち切ってしまうという卑屈でおかしい面も多々あったようです。
実は、短大時代は対立していた学生をエアガンで襲撃する計画を立てていた加藤智大。また、旅行休暇を拒否された警備会社には、事務所に放火してトラックで突っ込んで襲撃する計画を立てていたそうでした。
しかし、退職する事でその衝動は鎮火したようでした。また、2006年8月末と2007年に自殺計画を練って家族や友人に予告メールを送るなどひと騒動を起こすなど、加藤智大のおかしい行動はすでに起こっていたのでした。
人は、切磋琢磨しながら、日々自分に向き合って社会で生き抜いていくものですが、残念なことにそれが出来ない人間になってしまっていたようでした。
一度ねじ曲がって歪んでしまった心は、簡単には修復することなんてできないのかもしれません。
秋葉原通り魔事件の裁判概要
秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大。精神鑑定は3カ月にわたって行われ、その結果「完全な責任能力あり」と言う鑑定結果に。東京地方検察庁は、2008年10月6日から順次、秋葉原通り魔事件の被害者や遺族に通知を開始。
同年10月10日に加藤智大を殺人・殺人未遂・公務執行妨害・銃刀法違反での起訴に踏み切ったのでした。
第一審・東京地裁
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2010年1月28日に東京地方裁判所にて初公判が開かれました。この裁判は、裁判員裁判制度が施行前だったため、東京地方裁判所の裁判官の身で審理され判決が出されました。
当時の村山浩昭裁判長により、刑事訴訟法に則り人定質問が行われました。検察側の起訴状朗読の後、秋葉原通り魔事件の詳細が述べられました。
罪状認否におき、加藤智大は起訴事実を認めた一方で、弁護士からは責任能力への疑問が問われたそうでした。
2011年1月25日、東京地方裁判所の論告求刑にて、検察は「犯罪史上まれにみる凶悪事件で、人間性のかけらもない悪行。多数の模倣犯を生み悪影響は計り知れない。命を持って罪を償わせる事が正義」と、述べました。
同年2月9日、東京地裁(村山浩昭裁判長)で最終弁論が開かれましたが、弁護団は「死刑を科すべきではない、人を殺すこと自体が目的ではなかった」と主張し、死刑の回避を求めました。
加藤智大は、「今は事件を起こすべきではなかったと後悔し反省しています。遺族と被害者の方には申し訳なく思っています」と意見陳述し結審されました。
同年3月24日、判決公判が東京地裁(村山浩昭裁判長)で開かれ、「完全責任能力・比較的軽症だった被害者への殺意・制服警察官に対する公務執行妨害」を理由に、検察側の主張を認め、求刑通り「死刑判決」を言い渡しました。
控訴審・東京高裁
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2012年6月、加藤智大の控訴により、東京高等裁判所で控訴審第1回公判が開かれ死刑求刑を回避する主張をしたのでした。
同年9月12日に、控訴審の初公判が行われ、東京高裁(飯田喜信裁判長)は、「犯行当時、完全能力を有していた」とし、第一審の死刑判決を支持しました。
よって、加藤智大の控訴は棄却され、加藤智大は控訴審にて一度も出廷しないまま結審されたのでした。
同年9月25に付けで、弁護側は、加藤智大の「精神障害の疑い」を理由に死刑判決は不当である事を主張し、最高裁へ上告したのでした。
上告審・最高裁第一小法廷
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1014年12月18日、最高裁判所第一小法廷(桜井龍子裁判長)で、上告審口頭弁論公判が開かれました。弁護側は、事件当日、加藤智大が「心神喪失・心身耗弱の疑い」を理由に死刑判決を破棄することを主張しましたが検察側が上告棄却を求めて結審されました。
2015年2月2日、上告審判決公判が開かれ、最高裁判第一小法廷(桜井龍子裁判長)は、「動機に酌量の余地は見出せず、死刑を認めざる負えない」として、一審・二審の死刑判決を支持。
加藤智大は、判決を不服とし、訂正を申したてましたが、同年17日付けで同小法廷の決定により棄却され、同日付けで「死刑が確定判決」となりました。
犯人の加藤智大に冤罪の噂?
「解」(著=加藤智大 発=批評社)2008年に秋葉原で無差別殺傷事件を起こした加藤智大被告の手記。大事件の当事者手記本は大手出版社などはセンセーショナルな装丁や煽り文句で売り出すが、なぜこのような装丁で出されたのかも考えてほしい。(E) pic.twitter.com/raMPbDa4
— 模索舎 (@mosakusha) 2012年7月12日
タイトルにある冤罪の噂のルーツですが、以下になります。
結論からいいますと、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大は、実は「替え玉」だったのでは?という噂がまことしやかに囁かれていたのでした。一体どういう事でしょうか?
これが本当なら紛れもない「冤罪」だったという事になります。
- 背後から逃げる人を追いかけ一突きで急所に入れる
- ナイフを捻って強引に引き抜くにはかなるの腕力と熟練が必要
- 歩行者天国に突っ込んで「たった3分以内で行った」、これについては特殊部隊で戦闘訓練を受けた軍人でも、この時間で出来ない事
- 警察官に警棒で殴られ傷ついて血が付いていた加藤智大の額に対し、これだけ大量に人を傷つけたのに返り血がまったくなかった事。
- 加藤智大が使用したダガーナイフは刃渡り13センチ程度で、胸部貫通刺創で死亡した男性がいたが、通常成人男性の胸部を貫通させるには30センチ程度は必要なはず
- 人為的に撮影されていた事件発生映像
- 目撃証言で、「小太りの男が下車した後、何度も人を刺し、相当な量の返り血を浴びていた」
- 信ぴょう性に欠けますが、ネットの書き込みに「自分が見た犯人は加藤ではなく団子鼻の男だった」これが本当ならトラックに乗っていたのは複数であり、運転者は加藤智大ではなかったということになるのでしょう。
- しかし、返り血を浴びていたであろう団子鼻の小太り男は既にその場所にはいなかった
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以上のような証言から秋葉原通り魔事件の犯人は実は他にいたのではないか?と言う話の流れから「冤罪」のうわさが持ち上がったのでした。
警察官や公安関係の人も、まるで加藤智大以外の「第三者」がいるようだと言われていたようでしたが、これも若干、ガゼネタの雰囲気があり、この話自体が作られた盛り話のような気がしてなりませんね。
ただし、返り血が全くなかったのは確かで、腑に落ちないと言えばそれまででしょうが、冤罪うんぬんよりも、今後加藤智大が本当の事を根こそぎ語る日まで真実は闇にあるままなのでしょう。
加藤家の哀しい末路「加害者にも尊厳ありき」
悲惨な事件を目の当たりにする度に これは現実かと思う。やはり生きて行く事自体が修行‼️これから 加害者家族、被害者家族の方は地獄の様な日々 …秋葉原事件の犯人の弟さんは、自殺してしまったんだね。あの時は犯人の様子も写されてて、この人も何か苦しんでるのかなと思った私は不謹慎だろうか? pic.twitter.com/i2TmR9KOfy
— atsuko♥どすえ (@atsuko3394) 2019年5月28日
事件と前後して、夫婦は離婚していたようでした。加藤一家の壮絶な末路をご覧ください。
「運命の流転」が加藤家を襲った
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勤務先で流れていたニュースで、秋葉原通り魔事件を知り、正直、他人事のように捉えていたと後に語っていた弟。
1人暮らしをしていた弟が勤務を終え深夜に帰宅すると、父親から一本の電話が。
「智大が重大な事件を起こしてしまった、お前のところにも大きな影響が来るだろうから、詳しい事は後で話から、とりあえず、そこを出なさい」と父親にいわれたため、弟は知人宅に身を寄せようと電話をしました。
ところが、その知人に「加藤智大ってお前の兄貴じゃないか?秋葉原で事件起こした犯人だぞ」そう言われて、ビックリしたと同時に、「アイツなんてことをしてしまったんだ!」と思ったそうでした。
その後に、真っ先に勤務先の事が頭によぎり迷惑かけてはいけないと判断し、その日のうちに退職届を出した加藤智大の弟だったのです。
翌日からの仕事の引き継ぎの話をしていたら「こんな時でも仕事の事を考えるとは・・・なんで君みたいないいやつが」と涙声で語り憔悴しきっていた社長だったそうでした。それから弟は住むアパートがなくなって、しばらくの間知人宅に身を寄せていたそうでした。
父親も勤務先の信用金庫の退職を余儀なくされたそうで、加藤家の地獄の幕開けとなった加藤智大が起こした秋葉原通り魔事件。
弟によれば、加藤智大が小学校の間までは極普通の幸せな家庭だったそうでした。夏休みには毎年のように旅行に出かけ、食事の時も皆で楽しく笑いながら食べるなど普通の幸せが加藤家にあったのでした。
兄弟関係もその頃までは普通に良好で、互いにガンプラを作っては交換したりと極普通な兄弟関係だったのでした。そんな加藤家に影が落ち始めたのは、兄・加藤智大が中学校にあがった頃だったと話していたのでした。
他者とのかかわりを一切断った孤独生活の父親
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青森県の閑静な住宅街で事件後も引っ越すことなくひっそりと暮らす父親。事件以来、人との関わりを一切シャットダウンした孤独な父親ですが、町内会費を払うなど最小限の接点はあるようでした。
事件後の会見で、父親の話す姿に「機械的だ」「まるで台本を読んでいるみたい」などとテレビのコメンテーターに揶揄されていましたが、息子・加藤智大の犯した取り返しにない事件にただただ憔悴しきっていただけなのでしょう。
2人の息子を失った親の悲しみは計り知れなく、夫婦は離婚し、家族は破たんしてしまいました。
母親とは勤めていた信用金庫で出会い結婚したそうでした。そんな父親は秋葉原通り魔事件後、無情にも務めていた会社側から退職を迫られることになったのでした。
自宅に引きこもった父親は、心ない電話が殺到する事から電話回線を解約し家中のカーテンを閉め切って、電気を付けずにローソクの灯だけで世間に怯えながら日々を過ごしているそうです。
近隣の住民はそんな父親を気にかけているようでした。現在、このような状態の父親ですが、過去に父親にとって「お酒に酔いしれるほど嬉しい出来事」があったそうでした。
それは、兄・智大が青森高校に合格したことでした。弟が、後にそのことを手記に記していましたが、日頃、家でお酒を飲む習慣がなかったという父親。しかし、この時ばかりは喜びを抑えきれず、お酒を飲んで余韻に浸っていたそうで、母親も父親と共に合格の喜びを分かち合っていたとの事でした。
この話を聞くと、やはり、色々言われてきた母親でしたが、紛れもなく加藤兄弟を愛していた親だった事には間違いなかったのかもしれません。
加藤智大という殺人鬼を生んだ母は孤独生活
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幼少期から息子・加藤智大に行ってきた「教育」と称し、行ってきたネグレクト行為。
しかし、加藤智大が「秋葉原通り魔事件」という甚大な被害を及ぼした事件を起こした事により、初めて息子の胸中を知る事となった母親。
今まで、よかれと思って「子どものため」なると真っ直ぐに信じ行ってきた「教育」が兄弟を苦しめていた・・。その事に気が付いた母親は、息子たちに必至で詫びを入れ、「お前たちがこのようになったのは自分のせい」だと泣きながら謝罪してきたそうでした。
しかし、兄・智大の心は完全破壊していたため母を許す事ができなかったようでした。でも弟は、懸命に謝り反省をする健気な母親に心打たれ許す様になっていきました。
事件後からずっと罪の意識に苛まれてきた母親は、心身のバランスを取る事が不能になり精神科に入院。一時は、誰が面会に来ても会えないほど心が破壊されていた状態でした。
退院後は、地元・青森の実家に身を寄せるも、同居していた実母に「秋葉原通り魔事件」の事を知られ、実母はショックで体調急変してお亡くなりになられたそうでした。
現在、母親は1人暮らしをしているようですが、引きこもる日々に詳細を知る者は誰もいないようです。
そして弟は永遠の旅に出た
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「俺はずっと闘って抗ってきた。でも疲れたとき、残る者は奴隷か死だ。俺は奴隷にはならない、なら」
このメールの主は、加藤智大の弟(享年28歳)。親しかった親友に自殺前に送信していたものになります。送信した後、絶命したようでした。あまりにも、早すぎる死だったのです。
途中で途切れたメールが弟の悲壮な状況を物語っていて、兄・加藤智大が起こした「秋葉原通り魔事件」により、結果、弟までもが絶命するという事態にただただ残念でなりません。
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは幸せになってはいけないんです。それが現実なんです。僕は生きる事を諦める決心をしました。死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても思い浮かばないんです。なにかありますか?あったら教えてください。」
そのように伝えた相手とは、事件直後から取材のため、加藤智大の弟に接触した事がきっかけで取材者となった男性でした。加藤智大の弟との関係も自殺するまでの6年間交流が続いたそうなのです。
やがて、加藤智大の弟は、記者である男性に家の実情を語るまでになっていたそうで、自殺前に、記者あてにA4判250枚に及んだ分厚い手記が送られてきたそうでした。その中には「加害者の家族として生きる」事の壮絶な苦しみが綴られていたのです。
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実弟は、行く先々で「秋葉原通り魔事件」を起こした加藤智大の弟と言うのがバレるのを恐れながら仕事を転々としていたそうでした。職場の人から家族の話を聞かれて困惑する事が多々あったようでした。
もともと人付き合いが苦手だった実弟に加え、加害者の弟であるプレッシャーから次第に周囲とのコミュニケーションを避けるという悪循環に見舞われていき、そのせいで「加藤は変わりモノ」というレッテルを張られるようになったそうです。
常に浮いた存在でおらざるおえなかったようで、どこまでも勘付いて追ってくるマスコミから逃げまどう生活が続き、住居も転々とする日々に、精も根も疲れ果てていたようでした。
秋葉原通り魔事件から1年が経過した頃、交際している女性がいる事がわかったのでした。凶悪犯罪を犯した家族と言う事をひた隠しにしていた弟でしたが、ある日、酒の力を借りてすべてを打ち明けたそうでした。
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「あなたはあなただから」
そのように返してきた彼女に安堵し、彼女の両親にも正直に打ち明け、交際は順調に進んでいたかのように思えたのでしたが、ついに別れがやってきます。
彼女との同棲先に詰め寄ってきはじめたマスコミに怯え始め、彼女自身にもかなりのストレスがあったことは間違いなかったようでした。親の反対や、将来の不安を感じたのか、いたたまれなくなった彼女が・・
「あなたが犯人の弟だから」
と言ってはいけない「禁句」ワードを発してしまったのでした。弟は一切それに対し反論しなかったそうでした。弟にとって最初で最後の女性と思っていたため、そのショックは図りしれないものでした。
「幸せをもとめてはいけないんだ」
そのように感じた弟は、恋人との別れで、壮絶な絶望感に襲われたのでした。その後、「餓死」の方法を選ぶも未遂に終わり、2度目の実行で永遠の旅に。
「加害者は苦しまなければならない、楽に死んではいけないんです」
自殺方法は不明ですが、壮絶な最期を迎えたのは言うまでもないのでしょう。ただただ、ご冥福をお祈りするばかりです。
被害者家族も加害者家族も皆同じ土俵にいる
被害者家族ばかりが取り立たされて、加害者家族が影を潜める犯罪事件ですが、苦しいのは被害者ばかりではないようです。現に、加害者家族を救援する目的で会も設立されたりと活動は活発化してきているようです。
一番悪いのは罪を犯したものですが、それ以上に世間から冷たい目で見られ、酷いバッシングに過酷な日々を送る加害者家族の苦悩は計り知れないものがあるのです。加害者家族にも人権はあり、生きていく権利だってあるのですから、周囲の意見に流されるまま誹謗中傷は絶対にしてはいけないのです。
加害者家族なってしまったために、その後の運命が激変してしまい、加藤智大の弟のように、過酷な現状を受け入れるキャパがオーバーした事により「自死」するという哀しい結果にもなりうるのですから。
「かくれ被害者」とも言われている加害者家族に対しても、心身的な事も含めての支援が継続して求められていると言うのが実態になります。
「起こすべくして起きたのではない」そう信じながら「家族」としての「苦悩という十字架」を背負って必死に生きていこうとしている「かくれ被害者」の葛藤を理解してあげられる世の中になるよう切に願うばかりです。
なので、サポートが必要なのは、被害者や遺族の方々だけではないと言うことを世間の皆様に是非、理解していただければと思います。
被害者家族と加害者家族は同じ土俵にいると考える専門家は多くいて、そこのところを踏まえてきちんと「双方の立場」を理解することが望ましいのでしょう。
犯人の加藤智大の現在
加藤智大の携帯可愛すぎるだろ pic.twitter.com/2jbG6EtOyf
— ウ (@tosiyaan) 2019年6月2日
裁判で弁護側が、秋葉原通り魔事件当日の加藤智大の「精神状態」を理由に、死刑棄却を求めていました。
2015年に死刑が確定してからは、拘置所内で静かに暮らしている加藤智大。得意な絵を駆使した作品を作り上げたり、獄中から手記「解」を出版するなど何かと加藤智大の行動に驚かされてきた世間でした。
しかし、法廷では感情を表に出すような事が無かった加藤智大でしたが、目の前で夫が刺された女性が尋問の最後に・・・。
「あなたのやったことは決して許される事ではないけど、なにかひとつでも良い事をしていってほしい。」
と、語った際、加藤智大のリアクションに変化があったそうでした。目元を何度も袖で何度も拭っていたそうなのです。天皇陛下の生前即位により、秋葉原通り魔事件が起きた平成に終止符が打たれましたが、この凄惨な事件は一生風化することはないのでしょう。
ただし、一つだけ気になる事があります。それは亡くなった弟の手記に・・・・。
「涙を浮かべた事についてですが、同じ中学や同じ環境で育った私だから理解できます。兄が本心でこれらのことをやっているとは思いません。今後、心身耗弱かどうかが公判上で争点になり可能性がありますが、同じ環境で育ち、約15年の時間を同じ家で過ごした私には断言できます。アレ(兄)は、精神病になどなる性格ではありません」
と記されていたのでした。この事が何を意味するのかもうおわかりでしょう。
後悔はしていても、反省はしていないだろうと考察していた弟なのでした。加藤智大の歪んだ心は、もう真っ直ぐになる事はないのかもしれません。
秋葉原通り魔事件のまとめ
秋葉原通り魔事件の遺族や被害者たちの心は、いつの時代になっても決してあの忌まわしい事件を忘れることはないのでしょう。
「あの日、秋葉原と言う場所に行きさえしなければ・・」と今もなお悔やんでも悔やみきれない状態にある遺族や被害者。
平成に起こったこの「秋葉原通り魔事件」は、通り魔犯罪史上最強と言われた事件でした。
令和で2度とこのような事件が繰り返されないよう願っていた矢先に、川崎市通り魔殺傷事件が発生しました。
この事件を知り、どのようにすれば自身や家族の身の安全を守る事ができるのか?と改めて考えさせられた方々は多くいたでしょう。
事件後、サイバーパトロールが強化され、掲示板での犯罪予告などを取り締まる動きがあったようでした。
「犯罪予告を察知する」この事に関しては、ネット環境にある私たちにも十分可能な事であります。
あの日、秋葉原通り魔事件の犯人・加藤智大の投稿を疎かにせず、誰かが警察へ通報がしていたら未然に防げた事件でもあったからでした。
犯罪を防ぐためには皆が一致団するしかない・・・その事をひしひしと感じさせられた事件だったのでした。
警察任せにせず、私たち自身が率先して民間「サイバーパトロール」の意識を持って、ネットと繋がっていく事により凶悪犯罪から身を守る事が可能になると言っても過言ではないのでしょう。