皆さんは、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)という船をご存知でしょうか?
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)事件は、今から147年前に起こった船にまつわる不可思議な事件です。
ここでは、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)にまつわる事件の詳細を、紐解いてみたいと思います。
メアリー・セレスト号【乗組員全員失踪事件】
引用: Pixabay
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の事件は、乗船していた10名全員が不可思議な事件によって失踪しました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、一体どのような船だったのでしょうか。メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)について、ご紹介します。
【1】船の説明
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、帆を張るタイプのブリガンティン型船舶になります。メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、約31メートルに282トンと大きめの船でした。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、荷物を運送する為の船でした。メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、当時工業用アルコールの運送を行っていました。積荷していた工業用アルコール樽は、計1700樽ありました。
【2】不吉な予兆
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、1861年に「アマゾン」という名前で造船されました。しかし、造船の途中で恐ろしい事件が度々起きたといわれています。しかし、事件の内容については何も明らかになっていません。
しかし、「アマゾン」は所有者が次々と変わっていたことが明らかになっています。そして、1869年に「メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)」へと名前を変更していました。
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)には、船長のベンジャミン・ブリッグズ、妻のサラ、娘のソフィア、他乗組員7名の合計10名で航海をしていたといわれています。
また、オウムも乗っていました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)事件の概要
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)事件は、乗船者全員が不可思議な事件に巻き込まれ失踪をしています。
乗船者全員が失踪したメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)が発見されるまでの経緯を、まとめてみました。
【1】事件前
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1872年11月7日、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は工業用のアルコール樽を積み、ニューヨークからイタリアに向けて出港しました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、これまでアルコールの輸送経験がなく、船長であるベンジャミン・ブリッグスは航海の不安を漏らしていたことが分かっています。
【2】発見
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1872年12月4日、デイ・グラツィア号が大西洋に漂っているメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を発見したことが始まりでした。
デイ・グラツィア号の船長とメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船長は古くから面識があり、事件前のニューヨークの港では、隣同志に船を泊めていました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、デイ・グラツィア号より7日前に、ニューヨークを出港していた為、海上で追いつくのは不自然でした。
デイ・グラツィア号の船長がメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を発見し様子を伺うと、帆の張りが調整されていないことに違和感を感じました。しかし、遭難信号は出ていなかった為、直ぐには近づかず2時間ほど様子を伺っていました。
しかし、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は海上を漂うだけで、船上に人の動きを確認できませんでした。デイ・グラツィア号の船長は、乗組員をメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)まで様子を視てくるよう指示を出しました。
デイ・グラツィア号の乗組員は、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)に乗船しましたが、船内には誰もいなかったのです。
【3】船内状況
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)に乗船したデイ・グラツィア号の乗組員たちは、船上がびしょびしょに濡れていることを確認しています。しかし、船内には浸水するような損傷はありませんでした。まるで水を被ったかのような濡れ方だったのです。
船内を隈なく探しましたが、乗船者を発見できませんでした。食糧庫のドアは開きっぱなしになっており、中には十分な食料や飲み水が残されていました。また、積荷していた工業用アルコールは、9樽が破損しており中からアルコールが漏れ出ていました。しかし、残りの樽は全て残されていました。
【4】失われた物
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船内は、荒らされた形跡はありませんでした。しかし、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)には、航海に必要な物が失われていました。
まず、羅針盤は意図して誰かに破壊されていたのです。当時の航海で羅針盤がない中での航海は、無謀なことでした。また、掛け時計が全く機能していませんでした。長旅の航海で時計が使われていないのは、不自然なことです。
他にも、航海に必要である六分儀とクロノメーターが見当たりませんでした。六分儀もクロノメーターも、航海には絶対に必要品な物です。
そして、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の救助用ボートもありませんでした。メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の救助用ボートが自然災害で紛失したとは見られず、誰かの手で降ろされた可能性が高いと見られました。
もう一点不可思議なことがありました。船長の航海日誌以外の書類関係が一切見当たらなかったのです。
船長の航海日誌には、11月24日が最後となっていました。メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)が太平洋の中心部にあるアゾレス諸島にいることが記録されていました。デイ・グラツィア号がメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を発見する時まで、同じ場所で漂っていたことが判明しました。
【5】手すりの傷と残されたナイフ
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船内にある手すりのうち、3カ所に血痕のような跡がついていました。また、1カ所には不自然な引っ掻き傷が確認できたのです。
また、船内をくまなく捜索すると船長のベッド下より、赤く錆びたナイフが見つかりました。
失踪した乗組員はどこへいった?
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の失踪説は多数あります。特に、多いのは陰謀論でした。救助したデイ・グラツィア号の船長や乗組員たちには、あらぬ陰謀論を問いただされる事態となってしまいました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)が失踪した真相を探る為にさまざまな仮説を、ご紹介しましょう。
【1】船長同志の陰謀論
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デイ・グラツィア号は、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)をイギリスの領土であるジブラルタイまで引っ張りながら運航しました。しかし、この行動が陰謀論を生むきっかけとなったのです。
デイ・グラツィア号の船長はメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を救助したことで、さまざまな陰謀論を噂され、後に海難裁判所で陰謀論を問いただされるなど、真相を巡って大変な苦労をしました。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)事件は、保険金を狙っているとの陰謀論が出ました。海難裁判所は、初めメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船長とデイ・グラツィア号の船長が手を組んだ陰謀論だとして、保険金を狙って及んだ陰謀論が真相だと考えました。
陰謀論が真相であると思われたきっかけは、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船長と、デイ・グラツィア号の船長が以前より交流があったことで、船長同志が保険金目当てに行った陰謀論が真相だったと疑われることになったのです。
しかし、陰謀論について、アメリカ側は「メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船長は、熱心な宗教家であり、陰謀論は真相ではない」と強く抗議したのです。
陰謀論には、他にもデイ・グラツィア号の船長や乗組員がメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の乗船者を全員殺害したとの陰謀論もあったのです。しかし、そのような真相の裏付けはありませんでした。
結果、陰謀論はなかったと視なされ、デイ・グラツィア号の船長がメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を救助したことを称えました。
しかし、本来船の救助には高額の賞金が与えられますが、やはり真相は陰謀論への疑いは晴れず、賞金は非常に低い金額だったのです。デイ・グラツィア号の船長や乗組員たちは、陰謀論に振り回される散々な結果となったのです。
【2】殺人事件
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船内には、手すりに3カ所、血痕のような跡が残されていたことから殺人事件が起こり、乗船者全員が殺害されて海に捨てられたことが真相だと視る人もいました。
航海の途中で妻と娘が不慮の事故でピアノに押し潰されて死亡し、夫であるメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の船長が発狂。気が狂った船長は次々と乗組員を殺して海に投げ入れ、最後に自分も海に身を投げて自殺したとの説があります。
もし、この説が本当なら船内には多量の血痕が残っていたはずなので、真相は異なるようです。
【3】アルコールの爆破
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)に積荷されていた工業用アルコール樽のうち、9樽が破損していました。このことから、アルコール樽が爆破して吹き飛ばされてしまったことが真相だと視る人もいました。
しかし、アルコール樽が爆破したとなれば、船内はもっと損傷部分が見つかっているはずです。しかし、爆破したような形跡もないことから、アルコール樽の爆破説は真相とは異なるようです。
また、9樽のアルコールが漏れ出た場合、白いモヤのようなものが発生する可能性が高いといわれています。この白いモヤを煙と勘違いした乗務員たちが、救助用ボートで逃げたことが真相だとも考えられています。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、アルコールの入った樽の運送したことがなかった為、予期せぬ事態に慌てて逃げたことが真相ではないかともいわれています。また、ボートで逃げた後、救助されることもなく乗船者全員が海上で餓死したのではないかとも視られています。
しかし、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の乗組員たちは、かなり優秀だったといわれています。もし本当に予期せぬ事態が起きれば、救助信号を出しているはずだともいわれており、真相は異なると視る人も多くいます。
【4】海賊に襲われた
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、海賊に襲われて乗船者全員がさらわれたか殺害されてしまったことが真相だと視る人もいます。
しかし、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)には、多くの食料や工業用のアルコールが残されており、誰かが侵入し荒らされた形跡は見つかりませんでした。海賊が、わざわざ乗船者を誘拐や殺害する為だけに狙った犯行だとは考えにくい為、海賊に襲われたとの真相は異なるようです。
【5】自然現象に巻き込まれた
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、何かしらの自然現象に巻き込まれて乗船者全員海に放り出されたことが真相だと視る人もいました。
確かに、船上は濡れていたことは真相としてありますが、それ以外に不審な点はありませんでした。もし、竜巻や地震に巻き込まれたことが真相なら、人が海に投げ出されるほどメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は大きく損傷していたり傾いているはずですが、そのような真相はありませんでした。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)が自然現象に巻き込まれた真相は、考えにくいようです。
メアリー・セレスト号の真相は?【乗組員全員失踪事件】
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の乗船者全員が謎の失踪を遂げ、無人船のまま漂っているところをデイ・グラツィア号に発見されて以降、乗船者が発見されることはありませんでした。その間、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、持ち主が次々と変わっています。
時は流れ、40年後の1913年に衝撃的な手紙が公開されました。アルベル・フォスダックという人物が友人に向けて送った手紙でした。
アルベルト・フォスダックこそ、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の乗組員の1人だったのです。アルベルト・フォスダックが友人に送った手紙の真相は、次の通りです。
船長がある日「人間は服を着たまま泳げるのか?」と乗組員に問いました。すると、船長が服を着たまま突然海に飛び込んで泳ぎ始めました。それを見ていた他4名の乗組員も海に飛び込んだのです。
皆で楽しく遊んでいるところを、船長の妻と娘、船上に残ったアルベルト・フォスダックを含む3名の乗組員も、展望デッキから楽しそうに見ていました。
すると、突然現れたサメに泳いでいた乗組員が襲われました。海で泳いでいた乗組員たちは慌てて船に戻り、展望デッキからサメに襲われた船員を探そうとしました。その時に、突然展望デッキが壊れてしまい乗船者全員が海に投げ出されたのです。
アルベルト・フォスダック以外は、全員サメに食べられてしまいました。しかし、アルベルト・フォスダックは、壊れた展望デッキの破損部分の上に避難することができ、そのままアフリカの沿岸に漂着して生き残ったのです。
アルベルト・フォスダックがメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の真相を証言しなかった理由には、あまりにもメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の話題が大きくなり過ぎてしまい、自分が生き残りであると言い出せなかったと書かれていました。
アルベルト・フォスダックが綴っていた文章が公開された頃、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は既に廃船となっていました。アルベルト・フォスダックの語る内容が真相なのかを確かめる術は、残されていませんでした。
失踪事件は他にも!
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)と同じような不可思議な船の事故は、現在でも度々起こっています。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)に似た怪奇な船の事故をご紹介していきましょう。
【レゾルベン号】
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レゾルベン号は、大型の貨物船になります。
1884年8月、イギリス軍が漂流していたレゾルベン号を発見します。レゾルベン号に合図を送りますが、人気が全くありませんでした。不信に思ったイギリス軍の船員が、レゾルベン号に乗船して確かめることになりました。
レゾルベン号の船内は、やや古く廃れたような状況でした。しかし、調理室には火にかけた鍋があり、食事の準備を今まで行っていたような形跡があったのです。
イギリス軍は船内を隈なく捜索しましたが、船内には誰もいませんでした。ただ、救助用のボートや金目の物は全て無くなっていたのです。レゾルベン号の乗船者だったと証言する人間は、出てきていません。
【ジョイタ号】
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ジョイタ号は、大型ヨットになります。
ジョイタ号は、1955年10月に乗員25名を乗せてサモアからトケラウ諸島へ向かっていたところ、突然姿を消したのです。ジョイタ号は、1955年11月にサモア付近で発見されました。ジョイタ号は若干傾いていましたが、特に大きな損傷もなく、航海に問題は見られませんでした。
ジョイタ号の船内は、食糧や乗船者たちの荷物が全てそのままだったのです。しかし、乗船者の姿はありませんでした。唯一、航海日誌が無くなっていました。
この不可思議な事件は、「太平洋のメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)」と呼ばれているのです。ジョイタ号が発見されて以降、乗船者の発見につながる情報は出てきていません。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)乗組員全員失踪事件
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メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、乗船者10名が突然姿を消したまま、真相が明らかになっておらず、現在でも都市伝説として語り継がれています。
乗船者が不可思議な失踪を遂げた真相には、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)を救助したデイ・グラツィア号の船長が保険金目当てで企んだ陰謀説や、デイ・グラツィア号の乗組員たちによる窃盗や殺人の陰謀説が噂されることになったのです。しかし、現在でも真相は明らかになっていません。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)は、その不可思議な事件で多くの人の関心を集めました。有名な推理小説家のアーサー・コナン・ドイルも、メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)をモチーフとした作品を執筆しています。現在でも、映画やアニメでメアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)をモチーフとした作品が誕生しています。
メアリー・セレスト号(マリー・セレスト号)の乗船者10名は、現在も世界の海のどこかに漂ったままなのかもしれません。