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「全日空61便ハイジャック事件」をご存知でしょうか。
1999年(平成11年)7月23日に発生した全日空61便ハイジャック事件は、日本で初めて死者が出たハイジャック事件です。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、幼い頃から成績優秀でしたが、就職活動で挫折し、勤務先で心を病み、無職に。その後引き起こした「全日空61便ハイジャック事件」では、長島機長を出血性ショック死という死因で殺害しました。
この記事では「全日空61便ハイジャック事件」の概要や、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司の経歴、長島機長の勇敢な行動、長島機長の死因や、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司の犯行動機や判決、全日空61便ハイジャック事件後の西沢裕司の現在について、詳しくご紹介します。
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全日空61便ハイジャック事件の概要!
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“日本で初めて死者が出たハイジャック事件”として知られている「全日空61便ハイジャック事件」は、1999年(平成11年)7月23日に発生しました。
「全日空61便ハイジャック事件」のターゲットとなった飛行機は【NH61便】で、長島機長・副操縦士など乗員14人+乗客503人の計517人を乗せて、羽田空港を離陸してすぐに事件が発生しました。
「全日空61便ハイジャック事件」の犯人・西沢裕司はいわゆる”航空機マニア”で、とても身勝手な犯行動機で全日空61便ハイジャック事件を起こしました。その結果、全日空61便ハイジャック事件では長島機長が死亡する惨事となりました。死因は、犯人・西沢裕司に首を刃物で刺されたことです。
しかし長島機長の勇敢な行動と、周囲の人々の勇気ある行動によって、西沢裕司を”私人逮捕”することに成功。”自分で操縦したい”という、西沢裕司の子供のような犯行動機によって蛇行運転を繰り返す全日空61便を奪還することにも成功し、全日空61便ハイジャック事件で長島機長以外の乗客は、奇跡的に無事で帰還することができたのです。
全日空61便ハイジャック事件犯人の西沢裕司には、2005年に無期懲役の判決が言い渡されています。
【1】離陸直後に全日空61便ハイジャック事件発生
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全日空61便ハイジャック事件が起きたのは1999年(平成11年)7月23日、午前11時23分。羽田空港発・新千歳空港行きの全日本空61便は、乗員14人(長島機長・当時51歳、 古賀副操縦士・当時34歳など)・乗客503人の、合わせて517人を乗せて羽田空港を離陸しました。
全日空61便ハイジャック事件のターゲットになった機体「JA8966」は、ボーイング747-481Dという機体で、アメリカのボーイング社が開発した超大型旅客機です。私たちが旅行の際に搭乗するような通常の旅客機で、全日空61便ハイジャック事件が起きたこの日は、いつもに比べると乗客はやや多めだったようです。
いつも通りに離陸した直後のことです。搭乗していた男が大声を上げ、刃物を持って立ち上がりました。この男こそが、全日空61便ハイジャック事件・犯人の西沢裕司(当時28歳)でした。
全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は、乗務員に刃物を突きつけて、コックピットへ行くよう指示しました。
この頃は、ハイジャックが発生した時のマニュアルに「犯人優先主義」というものがありました。乗務員などに危害が被らないように、機長の判断で犯人をコックピットへ入れること(=犯人・西沢裕司に従うこと)が安全策と周知されていたのです。
そのため長島機長は、全日空61便ハイジャック事件で西沢裕司のコックピットへの侵入を許可することになりました。そして11時25分、長島機長から地上の管制に”ハイジャック(全日空61便ハイジャック事件)が発生した”と通報がされました。
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西沢裕司はコックピット押し入ると、横須賀へ飛ぶように指示しました。
長島機長は西沢裕司の指示に従って、進路を変更しました。また、このとき犯人の西沢裕司は無謀にも「高度3000フィート(地上900m)に降下しろ」というとんでもない命令を長島機長へ行なっており、長島機長は管制官に「3000フィートへ降下する」と報告し、西沢裕司に従うことになりました。
全日空61便ハイジャック事件で西沢裕司が命令した「3000フィート(高度900m)」は、ヘリコプターが飛ぶレベルの低空です。そのため、一歩間違えば空中で機体同士が衝突し、大事故になっていた可能性もあります。
全日空61便ハイジャック事件では、横須賀方面へ飛んだあと、西沢裕司は長島機長に「伊豆大島方面へ行け」と指示しました。
【3】全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司、長島機長を殺害
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午前11時38分になると、全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は、副操縦士をコックピットの外へ追い出してコックピットの扉を閉めました。そのため、長島機長と西沢裕司の2人だけがコックピット内に留まることになりました。
一方地上では午前11時45分に、全日空61便ハイジャック事件・対策本部が設置されました。
午前11時47分、全日空61便ハイジャック事件の飛行機は、横須賀の上空にたどり着きました。西沢裕司は、いったん大島の方に南下しろと長島機長にコースを指示しました。
この時刻に、伊豆大島を飛行していた小型飛行機の人が、全日空61便ハイジャック事件の機体を見かけています。「自分の機体よりもずっと低い高度を飛行している大型機を見た」と語っています。
全日空61便ハイジャック事件の機体が、大島のあたりに到着すると、西沢裕司は「横田基地(東京都福生市)へ行け」と長島機長に指示しました。それと同時に西沢裕司は「自分に操縦させろ」と長島機長に要求しました。全日空61便ハイジャック事件の主たる犯行動機は、この”自分で飛行機を操縦したい”というものでした。
長島機長は、この西沢裕司の無謀な要求に対し、なだめようと試みました。長島機長の懸命な努力も虚しく、11時55分、西沢裕司は長島機長を殺害しました。死因は包丁による刺殺でした。残酷な死因です。
こうして全日空61便ハイジャック事件は、日本で初めて死者が出たハイジャック事件となってしまいました。
【4】西沢裕司の無謀な操縦
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全日空61便ハイジャック事件では、長島機長を包丁で刺すと、西沢裕司は自分で機体を操縦し始めました。全日空61便ハイジャック事件の機体は、北に進路を変更しながら、神奈川県の上空を降下しながら北上していきました。
全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司は、2分間に500m以上も高度を下げていました。最も低い時には「高度200m」という超低空飛行状態だったと言います。このまま降下した場合、全日空61便ハイジャック事件の機体は、八王子市の住宅街に墜落することが予測され、大惨事を引き起こします。
全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司は、横田基地の辺りで急旋回し南下・急降下するなど、ふざけた飛行で乗客を危険に晒しました。全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司の無謀でふざけた操縦で、急激に高度が下がったため、機内には警告音が鳴りました。
【5】副操縦士・パイロット・乗客の突入
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全日空61便ハイジャック事件では、この事に危機感を感じた副操縦士と、業務の移動で乗り合わせていたパイロット(機長)、協力者の乗客数名が、スキを突いてコックピットに突入しました。
全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は包丁を携えていましたが、副操縦士たちは協力して西沢裕司を取り押さえました。西沢裕司を座席に拘束し「私人逮捕」に成功しました。
私人逮捕とは【現行犯であれば、警察官などでなくても、逮捕状がなくても、一般人によって逮捕できる】という刑事訴訟法213条による法律です。身柄を確保する必要性が高く、誤認逮捕のおそれがないため許されています。今回の全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司の場合は、まさに私人逮捕の必要性が高かったと言えます。
これによって、副操縦士・業務の移動で乗り合わせていたパイロットは、全日空61便ハイジャック事件の機体を奪還することに成功しました。コントロールを取り戻した機体は急上昇し、高度を確保しました。
【6】全日空61便・羽田へ帰還
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全日空61便ハイジャック事件では、午後0時3分、副操縦士は管制官へ「西沢裕司を取り押さえた」、「長島機長が殺傷された」と連絡が入りました。
副操縦士の操縦で、全日空61便ハイジャック事件の機体は、ふたたび羽田へと戻ることとなり、午後0時14分に緊急着陸で帰還しました。全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は警察に引き渡されました。
全日空61便ハイジャック事件で、長島機長は、機内に乗客として乗っていた医師により、死亡が確認されていました。死因は出血性ショック死でした。長島機長も、このような死因は望んでいなかったでしょう。無念でなりません。
長島機長の勇敢な行動が話題に!【全日空61便ハイジャック事件】
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全日空61便ハイジャック事件では、西沢裕司の持っていた刃物によって、出血性ショック死という死因の被害者となってしまった長島機長。
しかし、長島機長の勇敢な行動によって多くの乗客の命が救われました。
長島機長の経歴
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まずは、全日空61便ハイジャック事件・長島機長の経歴についてご紹介します。
【名前】:長島直之
【年齢】:51歳(1999年当時)
【居住地】:神奈川県横浜市梅が丘
【職業】:全日空のパイロット(機長)
【学歴】:立教大学卒業
長島機長は、3人兄弟の次男として神奈川県で育ちました。高校生の時パイロットを志し、グライダーの免許を取得します。その後、東京都豊島区西池袋の有名私大・立教大学へ進学し、卒業しました。
1970年7月に全日空に入社されました。その後、操縦技術の教官を務めた佐藤一郎さんの紹介で学生時代に知り合っていた、エールフランス客室乗務員・公実子さんとご結婚されます。
ご結婚後は、閑静な住宅街の神奈川県横浜市梅が丘にある自宅に住まわれ、ご子息(長男、長女)にも恵まれ、4人家族で幸せな毎日を過ごされていたということです。
1988年からボーイング737、1992年からはボーイング747の機長に就任されました。長島機長は、業務飛行中に一度も事故・トラブルを起こしたことがありませんでした。飛行時間は1万時間を超えていて、いわゆるベテランとしてご活躍されていました。
全日空では、査察室副部長も兼任されていました。ここでは後輩に技術指導を行なわれていたとのことで、長島機長は部下からの信頼も篤かったのではないでしょうか。
着実にキャリアを積まれていく中で起きてしまった、1999年7月23日の「全日空61便ハイジャック事件」では、犯人・西沢裕司の刃物に刺されて亡くなられました。死因は出血性ショック死でした。長島機長は、全日空61便ハイジャック事件でたった一人の犠牲者となってしまいました。
死因である神経性ショック死は、失血死とも言われます。死因は、外傷や大動脈瘤などの破裂で、多量の出血が起こることです。このような死因は、やはり刃物に刺されることが多いようです。
全日空61便ハイジャック事件・長島機長の経歴からは素晴らしい人柄が伺えます。このような死因で亡くなられたことが残念でなりません。
長島機長のとった勇敢な行動とは?
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全日空61便ハイジャック事件が起きた際の、長島機長の冷静な行動は話題になりました。
全日空61便ハイジャック事件で長島機長は、管制官との交信を繋いだままにし、犯人の西沢裕司との会話が常に地上に伝わるようにしました。また、西沢裕司を刺激しないように⾔葉を選びつつ、
午前11時47分:長島機長「もうすぐ旋廻しますよ。ここ下、⾒ていただければ三浦ですね。横須賀で、あれが江ノ島。⾒えますか。右⼿、あそこに江ノ島が⾒えますね。今、回りましたね。このままにしてますから。⼤島のほうに向かってますから」
長島機長「管制の⽅に、横⽥に⾏きたいって⾔いますね。あと、これ⾮常に⾼度が低くて、もうちょっと上げた⽅がいいと思うんですよね。雲も出てるしね、もう100フィート上げましょう」
などと、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司に辛抱強く説明をしていました。
全日空61便ハイジャック事件・犯人の西沢裕司は、長島機長に対し「横須賀から大島へ向かえ」と指示していました。長島機長は指示に従うだけでなく、西沢裕司が操縦するかもしれないことを事前に予測し、全日空61便ハイジャック事件機体が墜落するのを防ぐため、横田基地への自動操縦を設定していました。
しかし、全日空61便ハイジャック事件・犯人の西沢裕司は、長島機長を刺し殺すと、手当たり次第に自動操縦を切ってしまいました。そのため機体は蛇行運転を繰り返すことになったのです。
長島機長だけでなく、副操縦士たちの勇敢な行動も見事でした。当時はハイジャックに遭った際『機長の指示が最優先』というマニュアルが存在していましたが、それを破ってコックピットへ突入したことで、多くの乗客の命を救えたのです。全日空61便ハイジャック事件では、犯人の取り押さえには乗客も協力し、手近にあったベルトやネクタイが使用されました。
犯人:西沢裕司の生い立ちと経歴まとめ!
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全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司。全日空61便ハイジャック事件の概要を見ただけでも、身勝手な犯行動機や幼稚な行動が目立ちます。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、どのような生い立ち・経歴の持ち主だったのでしょうか。
【1】西沢裕司の経歴
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まずは、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司の経歴を簡単にご紹介します。
【名前】:西沢裕司
【生年】:1970年
【年齢】:28歳(1999年当時)
【居住地】:東京都江戸川区小岩
【家族構成】:父、母、兄、祖母
【職業】:無職(全日空61便ハイジャック事件当時)
【学歴】:武蔵高校(現・都立武蔵高等学校、付属中学校)、一橋大学
【趣味】:フライトシュミレーションゲーム
全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は、2人兄弟の次男として育ちました。両親のもとで問題なく元気に育ち、幼稚園のころまでは、特にトラブルは見受けられなかったそうです。幼少期から友人が少なく、基本的には鉄道などのインドア趣味を好んでいたようです。
全日空61便ハイジャック事件の西沢裕司は、周囲からは「積極性に欠けている」「おとなしすぎる」と言われたこともあったようです。また、人とのコミュニケーションが下手だった西沢裕司は、協調性に欠けて孤立しやすかったとも言われています。
そのせいで小学2~3年生時にいじめに遭いましたが、いじめからは人生が狂うほどの影響は受けておらず、全日空61便ハイジャック事件を起こす原因にはなっていません。一過性のものだったようです。
【2】西沢裕司の家族構成
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全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司の家族構成について詳しくご紹介します。
上述の通り、全日空61便ハイジャック事件を起こした西沢裕司は、父親、母親、兄、祖母の5人家族でした。
全日空61便ハイジャック事件・西沢裕司の父親は特許事務所に勤務していて、母親は専業主婦です。兄は東京工業大学の出身で大手化学メーカーに勤務していました。父、兄ともに十分優秀な方であることがわかります。
その中でも全日空61便ハイジャック事件を起こした西沢裕司は抜群の頭の良さで、高学歴人生を邁進していきます(詳しくは後述します)。
全日空61便ハイジャック事件という大事件を起こすくらいですので、どのような家族構成か気になるものです。しかし家族間に問題はなかったようです。むしろ、内向的な西沢裕司が身を立てていけるよう「勉学」の面で大いに応援してくれる、理解ある家庭であったように見受けられます。
全日空61便ハイジャック事件の犯行動機になるような、問題のある家庭環境ではなかったようです。
【3】成績優秀・高学歴
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内向的な性格の西沢裕司を支えてきたのが、西沢裕司の両親なのでしょう。コミュニケーション下手な西沢裕司が得意だった『勉学』に没頭できる環境を作ってあげたようです。
後に全日空61便ハイジャック事件の犯人となる西沢裕司は、疑いなくずば抜けて頭が良かったのです。成績優秀な西沢裕司は中学受験をして、東京都練馬区の進学校・私立武蔵中学、高校に進学します。武蔵中学の偏差値は69程度(2019年現在)ですから、入学するのは簡単ではありませんね。
中高一貫の男子校、武蔵中学・高校でのびのびと過ごした後は、一浪を経て、東京都国立市の国立大学・一橋大学の商学部に入学しました。ここでも大変優秀な大学に入学しています。一橋大学の偏差値は69~70程度(2019年現在)です。その上の国立大となると、偏差値70~の東京大学くらいしかありません。
ここまでの全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司の経歴は、環境にも学歴にも恵まれ、特に問題なさそうですね。一橋大に入学した西沢裕司は、小さい頃から鉄道マニアでしたが、一橋大学在学中に興味は飛行機へと移っていきました。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、このときに飛行機旅行をしたり、航空関係の書籍を読み漁ったりして、飛行機への知見を深めたようです。
そして全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、『将来はパイロットになりたい』と考え始めました。この時期、飛行機操縦をシミュレーションできるゲームが発売され、それをプレーしたことが飛行機にのめり込む一因になったようです。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、大学2年生の11月になると、大学を一ヶ月だけサボって、羽田空港で乗客の荷物を積みおろすアルバイトに励みます。また、卒業論文は「日本の基幹空港整備の必要性」だったそうです。
ここまでは大学生らしい生活を楽しんでいて、全日空61便ハイジャック事件を起こすような経歴には見えませんし、全日空61便ハイジャック事件の犯行動機も見当たりません。
【4】就活で初めての挫折
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全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、大学の頃よりパイロットを志すようになりました。
そこで、一橋大学在学中の就活では、日本航空、全日本空輸、日本エアシステムを受験しました。しかし、いずれも不合格となってしまいました。もともと鉄道ファンだったために受けた、第2希望のJR東日本、JR西日本でも不合格となってしまっています。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、大変優秀で文句のつけようがない経歴なのに、何故就活で全滅してしまったのか?ということに関しては、西沢裕司のコミュニケーション下手さや、オタク的な側面が、面接で不利になってしまったのではないか、という推測があります。
特にパイロット等は対面で航空適正を見抜かれるため、人間的にどうであるかが、学歴より重視されることもあるようです。
【5】JR貨物に就職するも無断欠勤で退職
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人生で初めての挫折を経て、全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は最終的にJR貨物に就職しました。
しかしここでも、幹部候補生(キャリア)としては就職できなかったようです。現在と経済状況が違うとはいえ、就職先は学歴・経歴に見合っていないと思われます。このことは全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司にとっても不本意だったようです。
入社して1年は寮生活という厳しいルールは、西沢裕司にとってつらいものだったようです。また、西沢裕司の内向的・オタク的な性格が影響し、職場で上手くコミュニケーションをとることができませんでした。人間関係の失敗、仕事の失敗が重なり、わずか2年半後、JR貨物を無断欠勤。
西沢裕司は失踪しました。
【6】精神科に通院・処方薬漬けに
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全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、無断欠勤時、現在どこにいるかなどを家族にも連絡しておらず、日本を放浪して歩いていたと言います。
思いつめて3回も服薬自殺を図りましたが、全て失敗してしまったようです。
紆余曲折あって西沢裕司は東京都江戸川区の自宅に戻りました。心配した西沢裕司の両親は、そのあと半年間で4つの精神科を受診させています。「統合失調症」や「うつ病」でした。
全日空61便ハイジャック事件犯人の西沢裕司は、精神科ではSSRIと呼ばれる抗うつ剤が大量に処方されました。その内容は、プロザック(13週間分)、パキシル(15週間分)、ルボックス(2週間分)などです。いずれも大変強い薬です。これらの薬を少しでもご存知の方は、あまりにもずさんな処方内容で驚かれたのではないでしょうか。
“SSRIが逆にうつを悪化させる可能性があり、自殺・他殺などを引き起こすなど重大な副作用が発生している”ということは、現在広く知られています。しかし当時は、そのような言説があまり知られていなかったようです。
幼稚な犯行動機で「全日空61便ハイジャック事件」のような事件を起こしてはいけませんが、“合っていない処方薬漬け”という状況は、とても過酷です。
西沢裕司のささいな犯行動機を増幅させ、全日空61便ハイジャック事件というような問題行動を起こさせたのではないか、また、普段おとなしい西沢裕司を殺人に駆り立て、長島機長を出血性ショック死という死因で死亡させた原因ではないかという指摘は、現在も多々あります。
【7】羽田空港の警備の穴に気づく
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合わない薬を飲み、廃人のようになってしまう日もあったという、全日空61便ハイジャック事件の西沢裕司。両親も心配したと言います。
働くどころではなくなり、引きこもりになってしまった西沢裕司は、実家の自室でフライトシューティングゲームやインターネットで時間を潰していたようです。
そんなある日、インターネット上で『羽田空港ビル構内図』を眺めていると「羽田空港の警備に穴がある」ということに気がつきました。
この警備体制では、刃物なども持ち込めてしまうかも。そう気づいた西沢裕司は、羽田空港へ何度も行って、果たして警備の穴をつけるのかを検証しました。そして実行可能であると確信に至りました。
【8】書面を無視されたことが犯行動機につながる
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全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、航空会社、運輸省、東京空港署など7社に、”警備体制の死角”があること、実行手順、警告、そして防止策を事細かに書いたレポートを送りつけました。
なぜここまでしたのかと言うと『これをきっかけに航空業界で採用されたい』という思いがあったようです。知識と技能をアピールすることで、就職が叶うのではないかと考えていました。
このことが、全日空61便ハイジャック事件の犯行動機につながります。
全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は、この件について電話でも防止策を提案すると共に、各会社へ採用をお願いしてみたものの、拒否されました。
その後も全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司は「対策していないじゃないか」などと脅迫電話をかけ、それも無視されると、”社会へ報復してやる”という怨念を犯行動機に、全日空61便ハイジャック事件を計画するようになります。
採用拒否については当然で、素性の知れない怪文書を送りつけてくる人間である全日空61便ハイジャック事件犯人・西沢裕司を採用するはずがありません。しかしレポートを送りつけられた会社は、対策を話し合うなどしたものの、予算・人員不足といった理由で改善しませんでした。
警備員を増やすだけで億単位の経費がかかるためです。このことは2002年になって発覚し、航空会社の対応の杜撰さが問題になりました。
西沢裕司の犯行動機は?
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上記では、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司の経歴をご紹介しました。
ここで気になるのが、具体的な犯行動機です。西沢裕司が語った「全日空61便ハイジャック事件」の具体的な犯行動機とは、どのようなものなのだったのでしょうか。
曰く、大きな犯行動機は5つあり、
犯行動機①大型旅客機を自分で操縦してみたかった
犯行動機②レインボーブリッジをくぐってみたかった
犯行動機③宙返りしてみたかった
犯行動機④ダッチロール(蛇行運転)をしてみたかった
犯行動機⑤希望の就職先で働けない怨嗟
と供述したようです。あまりにも身勝手な犯行動機が並んでいます。このような犯行動機で長島機長の尊い命が奪われたのかと思うと、残念でなりません。
しかし、犯行動機の直接的な理由は⑤「希望の就職先で働けない怨嗟」ではないでしょうか。他の犯行動機は、その場限りの言い訳にしか見えません。
また、長島機長を刃物で刺し、出血性ショック死という死因で殺害したことの犯行動機については、
犯行動機①長島機長が言うことを聞かないので頭にきて刺した
犯行動機②長島機長の心に向かって「疲れていませんか」と問いかけたら「疲れている」と答えたため、楽にしてあげようと思い刺した
と供述しています。ここでも身勝手な犯行動機を語っていて、長島機長が出血性ショックという死因で亡くなられたことが残念でなりません。
一方、②の犯行動機は「精神疾患者特有の支離滅裂さ」で、奇妙な犯行動機に見えます。精神科に通院歴もあるため、判決で争われる部分になるかと思います。
西沢裕司の判決&現在まとめ!
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長島機長を出血性ショック死という死因で殺害し、乗客を恐怖に陥れた「全日空61便ハイジャック事件」。
裁判で西沢裕司はどのような判決をくだされたのでしょうか。
西沢裕司の判決
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ここからは全日空61便ハイジャック事件の判決についてご紹介します。
全日空61便ハイジャック事件の後、逮捕された西沢裕司は、東京地方検察庁で精神鑑定が実施されました。精神鑑定は判決に影響する部分でもあり、結果の気になるところですね。
精神鑑定は2度行われており、1度目は【アスペルガー障害】、2度目は【抗鬱剤による影響】と鑑定されています。
1999年12月20日に行なわれた初公判では、【ハイジャック防止法違反】のほか【殺人罪】、【銃刀法違反】の罪に問われています。
事件から6年後の2005年3月23日、東京地方裁判所・安井久治裁判長は、西沢裕司に対して【無期懲役】の判決を言い渡しました。判決で裁判長は「航空機を市街地に墜落させて大惨事を引き起こした可能性も高く、史上類を見ない危険な犯罪だ」と述べています。
この判決では、責任能力の有無が争点となりました。判決では、内向的な性格の西沢裕司が、長島機長を出血性ショック死の死因に追いやるなど、理解しがたい行動をとっていたことにも言及されています。
“攻撃性、興奮状態になる抗うつ剤の影響で、そう状態とうつ状態が入り混じり、善悪の判断能力が低下していた。心神耗弱状態だった”と、判決では責任能力認定に疑問があったことが述べられました。この判決内容は控訴されず、一審で確定しました。
判決でどう扱われるか注目されていたのは、西沢裕司がかなりの量の抗うつ剤(SSRI)を飲まされていたことです。公判でも、西沢裕司の父親がこのことについて証言しています。西沢裕司の父親は事件について謝罪し「西沢裕司は精神科の薬を飲んでいたが、副作用がひどいと廃人のようになってしまった」と述べました。
判決でどのように扱われるか注目されていましたが、このことは判決で勘案されたと考えて良いでしょう。判決では、西沢裕司の善悪判断や制御能力などに少なからず問題があったと見られたようです。
判決では”長島機長を殺害したこと、墜落の危険に陥らせたことは、結果の重大性から判断して死刑もやむを得ない”とも指摘されましたが、判決では心神耗弱による責任能力の減退が認められて、無期懲役という判決となりました。
しかし、この判決内容ですと、西沢裕司の行ない次第では社会復帰も目指せるため、出血性ショック死という死因で殺害された長島機長の遺族にとっては納得できない判決ではないでしょうか。
無期懲役で反省の色無し?
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判決では無期懲役が言い渡された西沢裕司。現在は判決に従い、千葉刑務所(千葉市)内で生活しているものと見られます。判決では死刑を免れた西沢裕司は、現在も反省の色がないと囁かれています。
逮捕から3ヶ月後の手紙で、西沢裕司は「長期の刑期だと浦島太郎になってしまう。」「裁判に 勝つ資格あり 葛飾区」などのふざけた手紙を書いています。これは判決が出る前の1999年の手紙ですが、無期懲役の判決が言い渡された現在も、同じ調子ではないかと推測されます。
また、西沢裕司は現在”拘禁者支援団体”の関係者と交流があると言われています。これは受刑者の人権を守るといった目的の団体で、この団体と西沢裕司の文通のやりとりのみが、現在の西沢裕司の様子を知る唯一の手がかりでもあるようです。
現在も反省の色がないと言われるもう一つの理由は、西沢裕司が”拘禁者支援団体”との文通を禁止され、刑務所長を訴えていることが判明したためです。
西沢裕司は、拘禁者支援団体との手紙のやりとりに関して、2012年12月~2013年1月”矯正に支障がある”として禁止処分を受けていました。これを不当だとして、西沢裕司はなんと裁判所に提訴していたのです。これでは現在も反省していないと見られてもおかしくありません。
そして驚くことに、この裁判では西沢裕司が勝訴し、意見が認められることとなりました。現在も今まで通り、団体などと文通のやりとりを行なっているものと思われます。
現在、唯一の情報発信先である団体との文通を希望していたことから、西沢裕司は現在、刑務所内で孤独なのではないかと考えられます。一方で、事件当時は心神耗弱していたものの、現在は精神的に安定しているのではないかと考えられます。そして、現在は支援団体との文通が心の支えではないかと考えられます。
判決で命拾いしたことで、事の重大さをわかっていないのかもしれません。現在も反省の色がないと思われている全日空61便ハイジャック事件・犯人の西沢裕司。反省していることを願います。
西沢裕司の父親・母親・兄の現在!
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全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司は現在、千葉刑務所で生活していることがわかりました。では、全日空61便ハイジャック事件を起こした西沢裕司の、父親、母親、兄は、現在どうなっているのでしょうか。
調べたところ、西沢裕司の親は現在「全日空61便ハイジャック事件の”賠償”のため、家や土地を売り払い、田舎に帰った」という情報がありました。また、兄の現在については、調査しましたが不明でした。
この”賠償”についてですが、全日空は2002年に、西沢裕司と両親を相手取って、1億9400万円あまりの損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしています。賠償金の内訳は、遺族補償・振り替え便代・全日空61便ハイジャック事件の飛行機の修理代などにかかった経費とされています。
そしてもう一つ、全日空61便ハイジャック事件で出血性ショック死という死因で亡くなられた、長島機長の遺族が、国、全日空、西沢裕司とその両親、日本空港ビルディングに、2億8000万円の損害賠償を求める訴訟をしています。この裁判では直接的な死因以外にも、警備不備が死因に繋がったのではないかという考えを提示しています。
判決で極刑を免れることができ、現在も生きて刑務所生活を送る西沢裕司ですが、西沢裕司の両親は、現在も多額の賠償金を支払っているのではないでしょうか。
西沢裕司という男【全日空61便ハイジャック事件】
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今回は、全日空61便ハイジャック事件の犯人・西沢裕司と、全日空61便ハイジャック事件の概要、全日空61便ハイジャック事件の飛行機の機長・長島機長の勇気ある行動、全日空61便ハイジャック事件の判決内容、全日空61便ハイジャック事件後の西沢裕司の家族について等をご紹介しました。
全日空61便ハイジャック事件は、現在もテレビで再現ビデオになっていることがあります。それほど大きな事件です。出血性ショック死という死因で、無念にも亡くなられた長島機長の勇気ある行動を忘れてはならないと思います。
身勝手な犯行動機で、判決では「極刑もやむを得ない」とされながらも、無期懲役となって命拾いし、現在も千葉刑務所で生活する西沢裕司。現在も団体との手紙のやり取りは続いていると見られます。
孤独な刑務所生活で、西沢裕司の心の支えは、手紙といった”外部とのやり取り”になっているのではないでしょうか。現在は深く反省していることを願うばかりです。