女子高生校門圧死事件の概要!当時の教師細井敏彦の現在は? | ToraTora[トラトラ] – Part 2

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私たちには教育を受ける権利が憲法によって保証されており誰もが学校に通います。

1990年、学びの場であるはずの学校で生徒が亡くなるという悲しい事件が起こりました。

事故では無く、事件であり殺されたのは神戸高塚高校の当時一年生だった石田僚子さんでした。

朝の8時半ごろ校門を通る直前に当時の細井敏彦教諭が遅刻を取り締まるために門扉を閉め始め、急いで来た石田僚子さんはそのまま門に挟まれる形で頭部を潰されました。

細井敏彦が気付いた時には石田僚子さんは血を流して動かなくなっており、その後病院に運ばれましたが死亡が確認されました。

門扉を閉めた教諭 細井敏彦は懲戒免職処分になりその後警察による実況見分の結果、逮捕起訴されました。

細井敏彦は裁判では一貫して無罪を主張し、自分は生徒が走り込んでくるのは予見不可能だったなどと発言しました。

裁判では禁錮1年執行猶予3年の有罪判決が言い渡されました。この事件は1990年7月当時マスコミを賑わせ、連日連夜報道されました。

報道される中で見えてきたのは当時の神戸高塚高校の徹底した管理教育いきすぎた指導です。遅刻した生徒にはスクワットやグラウンドを走らせたりとやりすぎだったのではと非難されました。

他にも生徒を家畜呼ばわりする言葉の暴力の容認や、遅刻をすると校庭を走らされるとか、女子生徒は生理の日でも水泳をさせられるなどの学校の実態が明らかになりました。

また事件直後に学校側は門扉周辺についていた血を警察が来る前に洗い流すなど、隠蔽工作ともとれるような対応をして生徒や保護者から反感を買いました。

この事件で校門指導、管理教育、校則の是非が大きく取り上げられるようになり閉鎖的な学校のあり方が見直されるようになりました。

現代ではすぐに非難の対象になってしまうような指導方法、校則ですが当時の日本では教師が生徒を教育してやっているといったような封建主義的な風潮でした。

今の感覚からは考えられず、現代でもしこのような学校があればSNSですぐに槍玉に上がってしまうでしょう。

当時のこの女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件を調べてみたいと思います。

悲惨!女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件の概要!

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1990年の7月6日午前8時半ごろ、兵庫県立神戸高塚高校では朝から正門付近で教諭3名が遅刻指導を行なっていました。

教諭の1人は時計をみながらハンドマイクなどで「1分前!」と正門をまだ通っていない生徒に呼びかけており時間を気にしていました。

午前8時30分のチャイムと同時に細井敏彦は1人で重量230キロの門扉を閉めるため、頭を下にした体勢で勢いよく力をこめて門を閉めました。そこへ被害者の石田僚子さんは頭から走り込み、頭を門扉で潰されました。

門扉と門柱に頭部を挟まれたことにより頭蓋骨粉砕骨折などの重症をおい、搬送先の病院で脳挫滅による死亡が確認されました。脳挫滅は脳がひどく損傷、破壊されていた事を表しており、頭蓋骨が割れて直接脳にダメージを受けた即死に近い形だったと考えられます。

事件現場を見ていた他の生徒の証言によると、挟まれたあとメリッと音がして鼻と耳から大量の血がでて体全体が痙攣していたそうです。

事件当日は期末考査になっており、学校側は事件当日でも通常通りテストを行なったそうです。また加害者である細井敏彦は事件後テスト監督として学校業務を続けていたことが分かっています。教諭たちは生徒に対し事件直後に「重傷だが生命に別状はない」と説明をしていました。

生徒が亡くなっているにも関わらず期末テストを通常通り行なっていたということも現代では異常に感じられてしまうほど違和感を感じてしまいます。

学校側は事件をおおごとにしたくなかったのでしょうが、生徒が亡くなっているのに通常通りテスト監督を務めた細井敏彦は人間として、個人として、教諭としてどのように思っていたのでしょうか。

細井敏彦は被害者が挟まれた直後、現場にいた別の生徒が門扉を押し戻したり叫ぶ声を聞いて初めて自分がやっている事に気づいたと語りました。

また学校側は警察の現場検証が行われる前に現場の血などを洗い流してしまっており、このような対応も事件を隠蔽しようとしたのではないかといった見方ができます。

また同校の校長は事件発生の前年に兵庫県高等学校生徒指導協議会神戸支部長、同校生徒指導部長は同協議会常任委員であり、管理教育や生徒指導を推進する立場の人間でした。

当時、全教師による校門や通学路での立ち番指導は当時の協議会で高く評価されていたそうです。

このこともあってか学校で開かれた全校集会では校長は女子生徒が無くなったことは悲しいとしながらも、学校で行われていた遅刻指導や門扉を閉める行為については何も言わなかったといいます。

事件が起こった背景を見てみると当時の日本では管理教育が素晴らしいとされる見方が多く、その行き着いた先が女子高生圧死事件だったともみることができます。

事件後の対応

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学校は全校集会を開き、全生徒の前で校長が事件に対して説明を行いました。

ですがその内容は噛み砕いていえば、女子生徒が遅刻してきたのが悪いとも取れる内容でマスコミの取材に対し生徒からもおかしいなどの意見が出ました。

校長は謝罪などをしなく、自分が管理教育を指導していた立場でもあったので事件を出来るだけ大きくしたく無かった、もしくは事件の批は生徒側にあり、学校、教諭は正しい行いをしていたと認識していたのでしょうか。

学校や校長、教諭の行いを正しいと思ってしまっているその感覚に憤りを感じてしまいます。その後警察の現場検証の結果、細井敏彦は逮捕されました。

教育委員会も校門を閉めた細井敏彦を懲戒免職処分、また管理責任を問い当時の校長を戒告、教頭と教育長を訓告、教育次長2名を厳重注意とする処分を行いました。

ですがそもそもの発端である校門を閉めようと言い出した教員や生活指導部長に対しての処分は何もなく教育委員会の対応にも疑問が残りました。

またこの処分が発表された際校長は辞表を提出し同日付で受理されました。

校長は処分が下されると責任を取って辞表を提出したのかもしれませんが、教育委員会の処分を受け止め責任を取ると言うのならそのまま学校に残り職務を続け、事件が起きた原因や学校教育の在り方について考えて欲しかったと思います。

辞表を提出してやめるということは責任を取る事ではなく、教育の場から逃げることを意味するのではないでしょうか。

細井敏彦は教育委員会が出した懲戒免職処分を不服としており申し立てを行っています。

11月16日には学校側が安全管理上の過失を認めた形で、女子生徒の遺族に損害賠償金6,000万円を支払うことで示談が成立しました。

ですがいくら大金が支払われたからといって亡くなった生徒は戻ってきません。学校側は保護者に対しても独断的な対応をとりました。

7月20日、保護者を集めて集会を行われその様子が録音されていました。

その冒頭では「保護者会は従来から本校では一切公開していないはずのもので、マスコミの方に流れまして、生徒がひどく困っております」とマスコミを批判し、「また、何かご要望がありましたら、そのときにもう1回来てもらいましたら、録音は聞いてもらえると思います」と保護者やマスコミに対し求めたのです。

この記録が残っているにも関わらず学校側は公文書等の公開請求の対象にならないとして公開請求を拒否しました、また会議の内容を録音したテープの反訳書および、全体保護者会の会議録は初めから存在しませんなどと嘘の説明をしたことも分かっています。

ですがテープはPTAが保管をしていたことが判明しましたが、その事が発覚したのは事件から8年後のことでした。8年もの間ずっとテープは隠されていたのでしょうか。なぜそれまで誰も言い出さなかったのでしょうか?

学校には教師はたくさんいるわけで内部告発という形でテープの公開や教諭内でのやり取りを説明する方がいても良かったのではとも思います。

被害者石田僚子とその家族【女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件】

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被害者である石田遼子さんに対してマスコミは連日根も葉もない噂を報道しました。

非行少女であった、遅刻常習犯だったなどです、ですがこれは周りの生徒の証言でであったことが分かっています。

写真なども公開されていますが大人しく真面目そうな少女で事件当日は初めての遅刻だったと言われています。

また石田遼子さんの家には「遅刻する方が悪い」「自業自得だ」などの心無い手紙や電話が届き残された家族は苦しめられました。

期末考査であったこともあり当日の1限目は古典のテストだったそうで連日テスト勉強をしていたのでしょうか、運が悪かったとしか言えませんが急いで走り込んでしまい門扉に挟まれてしまいました。

事件後に親族の男性が学校を訪れ、謝罪と何があったか説明をしてくれと直談判に来ましたが、学校側は敷地内にいれずに校門前で別の教諭に対応させるのみでした。

被害者遺族の気持ちを考えると学校側にたいする憤りを感じてしまいます。

教育の場であるはずの学校がこのような対応では不信感は募っていく一方です。

残された遺族は大きな傷を抱え事件から20年後の節目を迎えた際は代理人弁護士を通じて手記を発表しています。

そこでは「決して心が癒えることはありません」「今も変わらぬ供養を続けております。この季節が近づくと、 いろんな場面や雰囲気が突如よみがえり、例えようのない気持ちに包まれる」「何度か転居をした今も、娘の机の引き出しの中やお気に入りだった赤いラジカセは あの日のままにしています」

と明かしており、最後は「限りなき未来ある命を一瞬にして 失う悲しい事件が繰り返されることがないよう切に願っています」と綴られています。

細井敏彦の逮捕。裁判と判決【女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件】

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兵庫県警により実況見分が行われ、その結果門扉はヘルメットが割れるほどの強さで押されていたことが分かりました。

門扉は高さ1.5メートル、重さ約230キログラムの鉄製のスライド式で勢いよく閉めた場合、慣性も合間って実際の重さ以上の圧力がかかります。

生徒が登校しているにも関わらず門扉を勢いよく閉めたこと、過去には同じように生徒のスカートを門扉で挟んでいたなどが明らかになり、細井敏彦は門扉を閉める行為に危険性があることを認識しながらも安全確認を怠ったとして業務上過失致死の容疑で取り調べを受けました。

裁判では細井敏彦は「門扉を閉めるのは教諭3人で行なっており安全で合理的な作業、女子生徒が頭から走り込んでくることは予見不可能、学校側から安全面などの指導はなかった、十分な安全策をとらずに教諭に行わせていた学校側の責任、また誤った教育理念を掲げていた学校管理者や教育委員会、文科省の責任」

と証言し一貫して自分に非は無かったと無罪を主張しました。

神戸地裁は1993年2月10日に「門扉の構造、重量から生徒に何らかの被害を与えることは予見できた業務上過失致死罪の業務にあたる」として検察側の主張を認め細井敏彦に対し禁錮1年・執行猶予3年の実行判決が言い渡されました。

細井敏彦は「判決には不服だが、自身や家族の心労を考えて控訴しない判断をした」として判決を受け入れました

また裁判所は教諭の業務上過失致死は認めましたが、以前から行われていた学校の体罰や指導内容については意見を述べませんでした。つまり良いとも悪いとも判断せずいわば黙認したのです。

細井敏彦はプライドが高かったのでしょうか、または頑固だったのか自分は無罪だったという主張を曲げませんでした。

生徒を思っての教育には頑固や主義主張を突き通すのいい事だと思いますが、自分の行為によって1人の生徒の命を奪った事に罪悪感や悲痛を感じないのでしょうか。

裁判では懺悔などをするのではなく、自分の正当性、学校からいわれてやっていたといった発言が続きました。

細井敏彦は事件後に本を出版

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驚くことですが細井敏彦は事件後に『校門の時計だけが知っている —私の「校門圧死事件」』という本を出版しています。

内容としては教師を目指していた日々、生徒指導に熱意を燃やしていたこと、そして事件が起きてしまった。

警察の取り調べ、新聞、マスコミの卑劣な取材、保身に走る校長や同僚たち、管理教育の権化となっていた等です。

本でも「警察的な校門指導を正義だと思っていた」としており無罪とする姿勢を貫いています。

この出版により他の人たちからは本を出版なんかして金儲けをしているといった指摘がされています。

本が売れた場合は印税としてお金の収入が発生しますが、細井敏彦は印税を受け取ったのでしょうか?

もし受け取っていたとしたら何に使っていたのでしょうか?

残念ながら調査をしても亡くなった遺族に渡したや寄付をしたなどの情報は出てきませんでした。

90年代の学校と当時の状況【女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件】

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1990年代は今では考えられないような指導、体罰がまかり通っており、学校ではそれが正しくまた教諭もそれが教育と信じて疑いませんでした。

校門圧死事件でも門扉をわざわざ閉めるなどということをせずに口頭での指導をしていれば、起こることはありませんでした。

教諭と生徒は人と人としてでは無く、上から下という一方的な上下関係だったと考えられます。

少し考えれば門扉を閉めるという危険性が分からなかったんでしょうか?想像力を働かせられなかったのでしょうか?考えはつきません。

今ではSNSなどの発達でこのようなおかしな指導、不条理な教育は淘汰されつつありますが、当時はそれが当たり前というスタンスでした。

昭和の時代学校教育はどのような場所でどういった理念が掲げられていたのか調べていきます。

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学生の人数推移を調べてみると日本全体で92年をピークに現在まで減少の一途を辿っています。

事件当時は1990年ということで一番学生の人数が多かった時代です。

1学年が10クラスを超える学校も出るなど今では考えられない人数が1つの学校に通っていました。

学校側も生徒ひとりひとりの面倒を見ることができず集団として管理する方が手っ取り早かったことから指導を厳しくして、言われたことを生徒にやらせる管理教育が蔓延していました。

また80年代などは生徒の校内暴力などが問題となっており、生徒による教師への暴力や学校の破壊などの背景もあり押さえつける名目で腕っ節の強い体育会系の教師が採用されていきました。

当時の兵庫県の学校を取り巻く状況

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この事件と同時期にも兵庫県では学校側のおごり、怠慢とも取れるような、教諭の権利を悪用した事件がありましたので紹介します。

農業高校入試の改竄事件

1991年度の高校入学入試で兵庫県立農業高校の入試答案が改ざんされていたことが分かりました。

犯人は同校の校長と教諭で県農OBからの口添えで受験者の答案を書き換え合格させていた事件です。

答案用紙は明らかに途中から筆圧が変わっていたり、不自然な回答が書かれていたりと誰の目からも他人の手が入っていることが明らかでした。

入試翌日に合否委員会が開かれましたが校長などが公にしないでほしい、内部の問題にして欲しいなどと発言し、結果的に学校側から明らかになることはありませんでした。

その対応に異議を唱えた教諭が内部告発という形で外部に発表したことにより明らかになりました。

改ざんを図った校長と教諭は公文書毀棄罪が成立されると判断されましたが、不起訴という結果で終わっています。

内部告発があったことからも閉鎖的で校長や上のものが力をもつ完全なピラミッド構造の仕組みだったと推測できます。

尼崎高校の入学問題事件

1991年3月、障害を持っていた車椅子の学生が入試の成績は上位10%に入っていたにも関わらず障害を理由に入学を拒否されたのを人権侵害だとして学校側を訴えた裁判です。

裁判では学生の言い分が認められ入学拒否が取り消されました。

風の子学園事件

1991年に児童・生徒の更生を目的とした情緒障害児更生施設 風の子学園で生徒2名が監禁され亡くなった事件です。

監禁致死罪で学園長の男性が懲役5年の実行判決を言い渡されました。

また2002年には女子高生に対するわいせつ容疑で懲役2年の実刑判決を受けています。

学園長による体罰が日常化していたといわれており、生徒を奴隷のように扱っていたといった証言が数多く出されました。

再逮捕されていることから分かるように教育者としてふさわしくない事が明らかです。

亡くなった生徒の1人は公立の高校に通っていましたが、学校側から生活態度を不安視されており、担任から環境を変えてみないかといわれ 風の子学園に入園をしました。

この問題の本質は風の子学園を進めた公立の学校にも問題があったとされており、事件後に亡くなった被害者以外にも分かっているだけでも他の生徒7人が教諭に進められる形で当該学校から違う学校や更生施設に移されていました。

実は学校側は非行ゼロを目指す研究指定校になっており、学校側は非行を起こしそうな学生を問題が起きる前によそに出していたことが明るみになったのです。

これは学校側による排除の動きであり、表面だけの面子を保とうとしていたことが分かります。

今では考えられないような校則、指導

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丸刈りの強制

昔の男子学生は頭髪は丸刈りのみと校則で決まっていました。

理由として挙げられていたのは非行の抑止や伝統だから、清潔だからだそうです。

2000年代になってもこの校則が無くなっていない地域などもあり校則撤廃が近年までいわれていました。

今でも襟足を短くする、耳を出す髪型が決められている学校などがありますがこれらも管理教育といえ、頭髪を強制する動きは今も色濃く残っているといえます。

体罰は当たり前だった

課題をやってこなかったり、遅刻などするなら罰として体罰は当たり前でした。

これはれっきとした暴力であり、教師という権利を悪用した犯罪になります。

現在でも体罰を行なった教師が問題になりますが、これは犯罪行為であり教師だからといって許されるものではありません。

遅刻をどのような理由だろうが認めない

風邪や病院への通院など正当な理由があるにも関わらず遅刻が認めないとする学校が多くありました。

なので昔は遅刻をするぐらいなら学校を休む方がましと考える人が多かったようです。

黒髪の強制

人によっては髪の色に違いがあり、生まれつき茶色だったり赤みがかっている人もいますがそのような生徒に対しても学校側は黒に染めるように強制していました。

もし拒否する場合は幼少時の写真を使ってや保護者に確認をして頭髪の色を説明させていたのです。

これは現代でも多くの学校でいまだに存在するといわれており、個人の自由、個性を侵害する行為だと考えます。

校庭を走らせる

罰として体罰の他には校庭を走らせるということもありました。

これも直接的に暴力を振るってはいませんが生徒に肉体的苦痛を与えているという点では同じであり、教育として推奨されるものではありません。

人によっては根性を育てるなどといったことを言う人もいますが科学的に効果は確認されていません。

根性と都合の良い言葉を用いて問題を曖昧にしてしまっているようにも聞こえます。

生徒の立場に立ってみても強制的に走ることになんの意味があるのでしょう、走ることを命じた教師側の一方的な自己満足といえます。

管理教育の撤廃

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こうした事件や問題を受け人々からは学校の指導方針や掲げる方針は間違っているんではないかといった声が上がるようになりました。

また日本全体でも新たなイジメ問題や不登校などが起こっており、今の教育方法に疑問符がつくようになりました。

そこへ校門圧死事件を受けてさらに管理教育の問題が叫ばれました、マスコミや住民が声を上げることで過激な指導や体罰は徐々にですが減っていきました。

ですが今だに学校教育では上記の校則が暗黙の了解で存在している所もあり、管理教育や集団的に生徒を教えこもうとする学校の体質は根深い問題です。

事件を受けて、人々のその後【女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件】

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事件後学校は門扉を撤去しようとしましたが、「事件の風化を図っている」とする地元住民の反対や「判決前の撤去は好ましくない」とする裁判所からの意見を聞き入れ保留にしました。

しかし細井敏彦の刑が確定すると、地元住民と小競り合いを起こしながらも撤去されてしまい、その後以前よりも小さく軽量の門扉が設置されました。

住民らは撤去は不当だとする裁判を起こしましたが裁判所によって学校側の撤去は適法として棄却されました。

この事件を受けて社会的な影響は大きく校門指導、管理教育、校則の是非などが有識者によって議論されました。

またこの当時の評議県議会では社会党が門扉を閉める校門指導の廃止」、「処罰中心の校則の見直し」、「教職員の相互批判が行われやすい体制の確立」を求める意見書を提出しました。

今でも毎年石田遼子さんの命日には事件のあった現場で追悼集会が行われており、毎年多くの人が黙祷を捧げ、花を供えに訪れます。

事件後に市民グループ「生命の管理はもうやめて!」が発足し、事会報「高塚門扉」を発刊しました。

この高塚門扉は今でも発行が続いており最新号は87号を数えました。

中村羅針さんの取り組み

中村羅針さんは、現代のスナフキンとして、全国を軽自動車で一人旅の人生を送りながら、森や湖の動物を相手にひとりライブを行なっているシンガーソングライターです。

1990年7月6日に兵庫県立神戸高塚高等学校で起きた神戸高塚高校校門圧死事件で亡くなられた石田僚子さんを追悼するために作詞作曲した歌を路上で歌い、募ったカンパで毎年カーネーションを事件現場に捧げる活動を始めました。

今では中村羅針さんから捧げられたカーネーションは、事件から15年後には2万本を超えています。

女子高生(神戸高塚高校)校門圧死事件まとめ

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学校の校門扉に女子生徒が挟まれて死亡したこの事件は当時の学校の違法さだけでは無く、全国の学校療育に蔓延していた一方的な管理教育の結果といえます。

事件後も教諭や学校は隠蔽や、対応を疎かにし説明責任を果たしませんでした。

逮捕起訴された細井敏彦が出版した書籍の一部を紹介します

「私ははっきり言って校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。(略)当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。(略)私は決められたことを忠実に実行しただけであった。」

細井敏彦は指導や教師としての行いは正しいものと認識しており、おかしいと考えた事もないとしており、周りの空気に無意識に従っていたと書いています。

当時は何も細井敏彦だけではなく他の教師たちも同じように自分たちに疑問を持たずに教鞭を取っていたのでしょう。

先に紹介した市民グループは「自分で考えよう」というメッセージを発信しています。

普段無意識で行っている事は本当に正しい事なのか一方的な勘違いなのではないか、そういった間違いはトラブルが起きなければ気づくことや疑問を持つ事は不可能なのでしょうか。

上から言われる事をただこなすだけではなく自分自身で物事の良し悪しを考える姿勢が重要です。

調べていく上で現代でも違法行為ともいえるような校則、体罰が日常的に行われている可能性もあり、日本は世界の海外と比べてみると学力の水準は高いかも知れませんが、意味のない伝統というなの不自由を生徒に押し付けているのではないのかとも思いました。

2017年の10月には大阪の公立高校に通う女子生徒が生まれつき茶色の頭髪を黒に染めるように強制させたとして訴えを起こしました。

この問題は大きく取り上げられ「ブラック校則」と呼ばれ話題になりました。

それに同調するようにSNS上では自分の学校の校則がおかしいのではといった投稿が多くなされ、今だに管理教育の名残が多く残っている事が確認されました。

この頭髪をめぐる訴えは結局裁判所からは認められませんでした、そこには法律と体罰の関係性が隠されています。

司法審査の考え方に、『部分社会の内部の紛争へは司法審査が及ばず、外部にまで影響を受けるものは審査の対象になる』という『部分社会論』の考え方があります。

これは端的にいってしまえば学校の中で自分たちで解決してくださいというもので、人権侵害と訴えられた校則に対し裁判所は関与できす、当事者で話し合ってくださいとなります。

このような事からも弱い立場の生徒が学校相手にして校則を撤廃、変更させるのは難しいと考えられます。

高校などは自分で選択して通う事を決めるので事前に調査や確認をするのが一番の方法です。

今ではニートや不登校といった問題もありそういった生徒に向けてのフリースクールという形の場が提供されています、何も公立の学校だけではなく広い視野で考えてみれば無理に学校に通わなくてもいいのかもしれません

自分自身で勉強を進めれば大学進学もできる世の中ですから。

事件から30年近くたつのに教育現場は何も変わっていないのかもしれません。

多様性やグローバル化などが叫ばれる今、日本の学校教育も多様性や個人の意思を尊重する場を育てていってほしいと願います。

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