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第一次世界大戦後1937年から日中戦争が勃発し、いよいよ日本も軍事態勢へと切り替わる最中、津山30人殺し事件は起きました。
現在でも存在している岡山県の小さな集落で、単独犯の犯行により33名の死傷者を出したのです。津山30人殺し事件は、犯人が事件後に自殺しており、現在でも多くの真実が謎のままとなっています。
犯罪史上最悪の結末を迎えた津山30人殺し事件の流れ、事件現場を収めた写真、犯人に関する詳細、残された遺書、津山30人殺し事件の引き金となった寺井ゆり子という女性など、さまざまな角度から真実をまとめてみました。
戦争中の夜這いとは?
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戦時中まで、夜這いはさまざまな土地で根付いていたようです。
津山30人殺し事件事件では、犯人が夜這いを行っていたことが犯行動機に繋がっていると考える人も多かったようです。犯人が行っていたとされる夜這いの真実について、調べてみました。
【1】経験
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日本には、昔から住居が密集した場所を部落や集落といっていました。部落や集落は、村よりもさらに小さい規模であり、住民同士のコミュニティも非常に密であることも特徴です。
部落や集落は、農業を行う地方に多く存在していました。親族などが集まり、グループ単位で新しい土地を開墾して生活していたことが部落や集落の始まりになるようです。その為、部落や集落内で結婚や出産が繰り返されており、その地域全体が親族というパターンも珍しくありませんでした。
外部から人が入ってくることは殆どない為、部落や集落それぞれの風習や習慣がありました。その中には、夜這いを風習とする地域も多かったのです。地方で夜這いが風習とされていたのは、第二次世界大戦頃までだったといわれています。
夜這いは、年頃の男女が肉体関係を持つことを表していました。決して、夜這いで肉体関係を持つことは悪いことだとは思われておらず、あくまで人生経験のひとつだと考えられていたそうです。
また、夜這いで相手のことを知り、体の相性が良ければそのまま結婚することもありました。夜這いをすることは、結婚相手を見つけるような感覚だったそうです。
【2】強迫
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戦争中には、若い男性が次々と戦争へ駆り出される中、部落や集落に残った女性たちは、部落や集落に残った男性から夜這いを受けていたことも多かったようです。
部落や集落に残っている若い男性は、まだ徴兵令が来る前の男性か、徴兵検査で徴兵から外れた男性でした。戦争が加速する中、部落や集落に残された男性は、徴兵で家の主や息子がいない家庭を狙い、夜中に住居に押し入っては、女性を脅して夜這いをしていた部落や集落もあったのです。
現在であれば強姦罪で即逮捕される事件ですが、当時は夜這いの風習がどこの地域でも根強くあったことや、女性の社会的地位が低かったことで、女性が性的暴行を受けても事件化することは殆どありませんでした。
津山30人殺し事件(津山事件)の概要
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現在でも映画や小説のモデルにもされる津山30人殺し事件は、犯罪史上最悪の結果を招いた事件であり30人もの命が奪われました。
津山30人殺し事件の事件の真実や、現在ネット上に出回っている津山30人殺し事件の写真について、まとめてみました。
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現在の岡山県津山市加茂町の行重地区に存在する貝尾・坂元集落で津山30人殺し事件は起きました。津山30人殺し事件の全ての真実が眠る場所は、山々に囲まれた人里離れた場所にあります。
津山30人殺し事件の真実が隠されている土地は、現在でも当時とあまり変わらず細い山道が枝分かれしており、集落が点在しています。
点在する集落の中でも、山の麓に存在している集落が津山30人殺し事件の真実が隠されている貝見集落になります。貝見集落は隣の集落から3キロ以上離れており、まるで隔離された別世界のようです。現在は貝尾・坂元集落をはじめとして周辺の集落一体の過疎化が進み、人気のない家が目立ちます。
現在でも貝尾・坂元集落に入ると、不自然な場所に墓が存在しています。家々の間や道路の脇など、墓地ではない場所に墓が点々と存在するのです。
墓石には昭和13年5月21日と刻まれていることから、津山30人殺し事件で被害者となった方々の墓であることがわかります。うっそうと生い茂る草の中に埋もれている墓も多く、現在では管理する人も少ないようです。
【2】序章
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第一次大戦後、日中戦争が長期化している中、日本は満州国の開拓に若い男性を次々と送り込み、法律も国家総動員法が施行されるなど、いよいよ軍事国家へと舵を切ろうとしている中、あまりに残虐な事件が現在の岡山県津山市加茂町行重地区にある貝見・坂元集落で起きました。
麓の小さな集落である貝見に祖母と2人で住んでいた都井睦雄(当時22歳)が30人を殺害するという恐ろしい事件を起こしました。後に、津山30人殺し事件と呼ばれるようになります。
津山30人殺し事件の序章は、事件の1年前に遡ります。津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、狩猟免許を取得していました。猟銃免許取得した動機は、津山30人殺し事件を企てていたからです。
津山30人殺し事件で使う動機で購入する猟銃や猟銃の改造には高額な金銭が必要だった為、家や土地を担保に銀行から借金までして、道具を揃えていったのです。
津山30人殺し事件の犯人は集落に隣接していた山中で、1年間毎日射撃の訓練を繰り返して腕を磨いていたといわれています。
津山30人殺し事件の犯人が以前より、夜に猟銃を持ってウロウロとさ迷っていた姿を頻繁に目撃されており、集落中で気味悪がられていました。
津山30人殺し事件の犯人は、一番近い場所にある駐在所までの所要時間まで図っていました。その真実とは、津山30人殺し事件を起こした時に、警察が現場まで到着する所要時間を図っていたのです。津山30人殺し事件の真実は、入念に計算された計画的殺人事件だったのです。
【3】想定外
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着々と津山30人殺し事件の準備を行っていた中、予期せぬ出来事が犯人を襲いました。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄と一緒に住んでいた祖母が、都井睦雄が味噌汁に何か薬品を入れているところを目撃したのです。
祖母があまりに騒ぎ立てたことで警察官の捜査が入り、都井睦雄が所有していた猟銃や刀類を全て押収され、猟銃所持許可も剥奪されました。
この時、都井睦雄いわく、味噌汁に入れた薬品は祖母の体調管理の為に自身が飲んでいた整腸薬だったと証言しています。しかし、当時の捜査では味噌汁に入れた薬品の真実は調べれていませんでした。
【4】準備
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都井睦雄は1年間かけて津山30人殺し事件の準備を進めていたのに、想定外の出来事で全てを失ってしまいましが、諦めずに猟銃や刀を再度収集していきました。
津山30人殺し事件の犯行の時が迫っていたことは、確実でした。犯行の3日前に、犯人が数名の人間に遺書らきし手紙を送っていたことが真実として明らかになっていました。しかし、その遺書らしき手紙だけでは、犯行動機に繋がるとはいえませんでした。とうとう、津山30人殺し事件の引き金を引く時が訪れます。
1938年5月20日午後5時頃、都井睦雄が貝見集落に流れる送電線・通信線を断裁し、貝見一帯を音信不通の停電状態にしました。現在のように、電気や通信機器がしっかりと普及していた時代ではなかった為、貝見の住民たちは停電の真実も追及せず気にも留めませんでした。
また、普段より停電時に送電線の復旧作業を任されていたのが犯人である都井睦雄だった為、非常に詳しい知識を持っていました。
そして、津山30人殺し事件を実行する夜が訪れるのを待ちました。都井睦雄は、兵隊のような恰好へと身支度を整えました。
その恰好は、詰襟の制服、両足には脚絆、腰にはベルトに日本刀や短刀を指し、左手に改造銃を持って、懐中電灯を両側頭部に固定する為にきつくハチマキを巻き、首からはランプを提げて犯行を開始します。
【5】実行
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1938年5月21日未明、津山30人殺し事件の最初に被害者となったのは祖母でした。
自分の祖母の首を鉈で切りつけ即死させました。それから、次々に民家に回り始めます。まずは、自分が以前に夜這いをしたことがある女性の家に侵入し改造銃で射殺、その夫と幼い娘も射殺しました。
これを皮切りに、津山30人殺し事件の犯人は次々と民家を回り、住民を刀で殺傷したり改造銃で射殺して行きました。
貝見集落の全家屋に浸入した訳ではなく、事前に目をつけていた人物の住む家に絞り込んでいたことが真実でした。実際に、全く被害を被ることがなかった民家も存在しています。
津山30人殺し事件で犯人に押し入られた家屋の住民全員を殺している訳ではなく、逃がしている人もいたことが真実です。ある住民は、犯人に改造銃や刀を突きつけられても茫然なり無抵抗だったところ、「お前は、悪口を言わなかったから殺さない」と犯人に言われ、何もされなかった人もいます。
犯人が津山30人殺し事件を起こすきっかけとなった人物の寺井ゆり子の家屋に押し入るも、寺井ゆり子は逃げ出し、他所の家の床下に身を隠しました。この家屋は犯人のターゲットではなかったのですが、寺井ゆり子が逃げ込んだことで、関係ない家族が全員射殺されました。
床下に隠れていた寺井ゆり子に犯人が発砲するも、命中せずに喉をかすった程度の傷で生き延びたのです。
津山30人殺し事件は、最終的に死亡者30名に負傷者3名を出す最悪の結果となったのです。津山30人殺し事件で巻き込まれた人たちは、犯人の強い恨みによって狙われた殺人事件だったことが真実でした。
【6】終幕
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津山30人殺し事件に巻き込まれた人の中で、運よく逃げ切れた人が駐在所まで行き通報しました。しかし、時は既に遅く、緻密に計算された津山30人殺し事件の犯行は、事件発生から2時間ほどで収束していたのです。
犯人はそのまま集落の外れにある民家を尋ね、紙と鉛筆を貸して欲しいと頼みました。家の主は、犯人の武装した恰好に返り血を浴びた姿を見て恐れ驚き動けないでいると、その家の子供が紙と鉛筆を渡しました。
この子供は、都井睦雄と以前から顔見知りで、よく遊んでもらっていたそうです。都井睦雄は、去り際に子供の頭を撫でて「沢山勉強して、偉い人になるんだよ」と言い残し、民家を後にしました。
そのまま、犯人は山の中に入り頂まで登りました。そして、あの子供から借りた紙と鉛筆で遺書を残し、陽の光が薄っすらと現れ始めた頃、津山30人殺し事件の犯人・都井睦雄は、改造銃を左胸に当て引き金を引き自殺しました。
犯人・都井睦雄は、心臓を打ち抜き即死でした。1938年5月21日の明け方、津山30人殺し事件は終幕を迎えました。
【7】写真
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当時のメディアといえば、新聞が主流でした。
新聞でも津山30人殺し事件は大題的に報じられ、犯人の顔写真や被害者の顔写真の掲載がされていました。一部では、ずらりと並べられた棺桶の写真も掲載されており、大量殺人事件となった津山30人殺し事件の真実の恐ろしさを痛感します。
また、当時発刊されていた雑誌では、犯人が武装していた恰好を再現した写真も掲載されており、戦時中にも関わらず、どれだけ多くの人が津山30人殺し事件に関心を抱いていたのかがよくわかります。
しかし、現在ではこれらの写真よりも、もっと恐ろしく痛ましい写真がネット上に掲載されています。それらの写真は、津山30人殺し事件の現場写真になります。
白黒写真でピンボケしている写真ですが、その写真は全てグロテスクな写真となっています。実際の遺体が写真には写されており、津山30人殺し事件の真実がどれほど恐ろしくて、残忍だったかを裏付けている写真ばかりです。
争った様子で衣服も乱れた状態で殺害されている写真、寝床で殺害されている写真、中には残虐な方法で殺害されている写真もありました。あまりにもショッキングな真実を写した写真の為、安易に津山30人殺し事件の遺体写真を検索することは、おすすめできません。写真を見ると、トラウマになりそうなほど恐ろしい写真です。
現在、津山30人殺し事件の遺体写真がなぜネットに出回っているのかを調べたところ、遺体写真が掲載されている文献「津山事件の真実(付録付き)」から抜粋されたようです。この書籍の付録部分には、津山30人殺し事件について司法省の事件調査報告書の一部が付いており、その中にネット上で出回っている写真が掲載されていたようです。
津山30人殺し事件が起きたのは、第二次世界大戦前でした。第二次世界大戦後に、日本はGHQの監視下にあった為、昔の日本で起こった犯罪に関する捜査資料などは現在でもアメリカに一部保管されており、図書館などで閲覧が可能になっています。「津山事件の真実」に掲載されていた写真や資料は、作者が渡米して収集した貴重な写真や資料です。
今から80年以上前の出来事の為、どこか真実味を帯びない写真の数々ですが、これらの写真は全て真実です。この写真が出回ることで、心を痛める遺族がいる真実も忘れてはいけません。
津山30人殺し事件に対する当時の反応は?
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津山30人殺し事件が起こった時代は、現在のようにメディアが発達していない時代でした。
当時、津山30人殺し事件はどのように報道され、大衆がどのような反応を示していたのかを、調査しました。
【1】注目
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津山30人殺し事件について、新聞の号外が出るほど各報道陣がすぐさま飛びつきました。
ラジオでも真実が明らかになる度に延々と津山30人殺し事件を放送し、戦時よりも世間が一番注目した事件とでもいえるでしょう。この点は、現代と何も変わらないようです。
連日、津山30人殺し事件の真実に関するスクープ合戦は過熱していき、真実を伝えようと犯人だけでなく被害者に関する写真の掲載や報道が絶えず続いたのです。
現在では考えられませんが、真実だとしても犯人や被害者に関する個人情報についても事細かに報じら、過激な報道内容が続いたといわれています。
【2】貞操観念
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津山30人殺し事件が注目された理由には、夜這いの風習が真実として多くの地方で根付いていたことが原因でもありました。
津山30人殺し事件の動機には犯人が以前より夜這いを行っており、夜這い相手の女性を中心に関係者が殺害されていることが真実とされていました。津山30人殺し事件の動機と夜這いの真実の関係性が疑われたことが、大衆の興味を掻き立てたともいえる事件でした。
当時の日本には、現在の日本人の感覚に近い外国の思考や文化が入ってきた時代であり、日本は他国と比べ貞操観念の低い国とう真実も明らかとされました。日本人の貞操観念を変えるべく、女性は結婚まで純潔であるべきだと国が推奨していた時代でもありました。
津山30人殺し事件で注目された夜這いの風習は、当時の国の方針を無視した行為だった為、貝見集落の人たちは夜這いの真実を絶対に認めませんでした。
津山30人殺し事件は、集落全体が真実を隠すような言動から辻褄が会わないこともあり、集落全体で殺人を目論み、都井睦雄1人に罪を背負わせたとも噂されました。
都井睦雄の生い立ち【津山30人殺し事件】
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄が生まれ育った家庭とは、どのような環境だったのでしょうか。
津山30人殺し事件を起こした犯人の幼少期や、津山30人殺し事件を起こした貝見集落との関係性についても、調べてみました。
【1】家族
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都井睦雄の生まれた集落は、津山30人殺し事件が起こった集落とは異なり、岡山県津山市加茂町の倉見集落でした。
家族は、父・母・姉の4人家族でした。両親ともども結核に感染しており、都井睦雄が2歳の頃に父親が他界し、翌3歳の頃には母親も他界したのです。この時、既に子供たちも結核に感染していました。
【2】新しい家庭
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姉と睦雄は、祖母に引き取られて育ちました。当時の日本は、どんなに幼くても男性の地位が高い時代だったのです。現在では考えられませんが、祖母は睦雄の後見人となり戸主が3歳の睦雄になりました。
津山30人殺し事件では祖母は育ての親として登場していますが、祖父の存在については明らかとなっていません。しかし、祖母は資産や土地を持っており、家の畑作業を行う程度で生活は十分成り立ち、金銭面で苦労していた様子はなく睦雄たちも比較的裕福な環境で育ったようです。
祖母と姉と睦雄は、現在の岡山県津山市加茂町にある塔中へ引っ越し、しばらくは塔中で生活していましたが、祖母の生まれ故郷である貝見集落に戻ることとなり、再度引っ越しを行いました。当時、睦雄は6歳でした。以降、睦雄は津山30人殺し事件を起こした貝見集落で育っています。
都井睦雄の経歴【津山30人殺し事件】
引用: Pixabay
都井睦雄は、比較的裕福な環境で育っています。
しかし、当時の時代や育った環境により、都井睦雄が好きだった勉強ができなかったことや、家庭環境の変化などが津山30人殺し事件の動機に関係しているようです。津山30人殺し事件を起こした犯人の経歴について、調べてみました。
【1】進学
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都井睦雄は、現在でいう小中一貫校へ進学しています。
当時の日本は、小学校4年生までが初等教育とされており義務教育でしたが、中等教育からは授業料が必要とされていました。都井睦雄は、引き取られた祖母の経済環境が裕福だった為、きちんとした教育を受けることができていたようです。
【2】病気
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都井睦雄は、幼い頃から病弱で結核の症状を発症していたようです。
現在でいう小中一貫校へも、一年遅れてからの入学となりました。体調があまり良くない時期が続き、学校の欠席も多かったようでした。しかし、都井睦雄は非常に頭が良く勉強好きだったようで、成績はとても優秀でした。
【3】変化
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成績優秀だった都井睦雄は、教師より進学を勧められました。本人も勉強が好きだった為、進学を希望していたようでしたが、祖母は自宅の畑作業を継いでもらいたいと反対しました。
都井睦雄は中等教育が終了し卒業をする頃、結核から助膜炎を起こした為、絶対安静を余儀なくされました。畑作業も手伝えず、空虚な時間を過ごすことになりました。
都井睦雄は助膜炎が治り、実業補習学校へ入学しました。実業補習学校とは、現在での職業訓練学校のようなものです。都井睦雄の本来やりたい勉強とは異なる為、あまり周囲と馴染んでいた様子はありませんでした。
また、姉が嫁ぐことになり家を出ました。都井睦雄にとって、姉の婚約がとてもショックだったようで、学校にも行かずに引きこもるようになっていきました。
都井睦雄の性格【津山30人殺し事件】
TOΣさん(@tomsattt)がシェアした投稿 – 2017年 7月月7日午後3時24分PDT
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、幼少期から病弱だったことで、あまり社交的なタイプではありませんでした。
内向的な性格だった都井睦雄の性格の変化を、調べてみました。
【1】過保護
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祖母と姉と3人暮らしであり、当時の日本はとにかく男性の地位が異常に高かったことで、都井睦雄もかなり甘やかされて育ったようです。
病弱な体質もあり、あまり近所の子供たと外で遊ぶようなタイプでもなく、常に祖母や姉が母親代わりとして傍で見守る中で、幼少期は過ごしていました。
【2】サディスト
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姉が婚約して家を出ると、都井睦雄の性格が途端に変わりました。
津山30人殺し事件との関連性が疑わている夜這いを始めたといいます。夜這いは、本来独身の男女で行われている風習でしたが、都井睦雄は既婚女性にも金を渡し夜這いを行っていたといいます。
また、夜這いを拒まれると「殺すぞ」と脅して女性たちが抵抗できないようにし、無理やり犯していたといわれています。性的サディストの一面が強く表れ、女性への支配欲が強い性格が見られました。
【3】父性
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、性に異常な執着を見せる一方で、集落の子供たちには大変慕われていたそうです。
津山30人殺し事件で紙と鉛筆を借りた子供も、津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄を慕っていた為、津山30人殺し事件で家族全員が無事に助かったともいえます。都井睦雄は、よく集落の子供たちを集めては、いろいろな話を聞かせていたそうです。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、精神年齢が幼く子供たちとしか馴染めなかったと考える人もいます。確かに、幼少期からあまり学校に通えなかったり、病弱で過保護に育てられていたことで、津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、精神的な成長が途中で止まっていたのかもしれません。
しかし、津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄が、紙と鉛筆を借りた子供へ最後に言った「沢山勉強して偉い人になれ」との言葉や頭を撫でた行動は、どこか父性を感じるものがあります。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、物心がつく前に父親を亡くし、以降の家庭環境の中でも父親の存在を全く感じずに育っています。都井睦雄は、父性愛に飢えていたのかもしれません。子供たちと一緒にいることは、父親にして欲しかったことを表現しており、自分の中に芽生える父性を発散していたのかもしれません。
都井睦雄の犯行動機【津山30人殺し事件】
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄の犯行動機を語る上では、犯人の残した遺書に登場する寺井ゆり子の存在は外せません。
津山30人殺し事件の犯人が寺井ゆり子を中心に描いたとされる犯行動機について、調査しました。
【1】差別
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津山30人殺し事件の前に、日本では国家総動員法が施行されました。軍事国家へと歩みを進めている中、兵士こそが真の男性だと思われていました。
1937年に行われた徴兵検査で、都井睦雄は結核が原因として「国民軍」とされたのです。国民軍は、兵士として戦場に行けないことを表します。国民軍とされることは、当時の若い男性にとって国から烙印を押されたも同然でした。また、この検査によって都井睦雄は、結核である真実が明るみになりました。
当時、結核は不治の病とされており、感染することから社会的差別が大きかったのです。結核にかかっている家族を持つ家庭は、大きな差別を受けて孤立する為、恐らく津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄の祖母は、子供たちの結核という病名をひた隠しにしていたのでしょう。
しかし、結核の真実が明るみになったことや兵士になれないことで、集落中の女性たちが都井睦雄を見下したといいます。津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄の犯行動機には、自身のプライドをズタズタにした集落の女性たちに大きな恨みを募らせたことが動機に繋がったようです。
【2】親密
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夜這い相手の中でも、寺井ゆり子の存在は大きかったようです。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄と寺井ゆり子の関係について、寺井ゆり子は許嫁だったとの噂や、寺井ゆり子と結婚を前提に付き合いをしていたなどの噂があり、寺井ゆり子との関係がかなり密だったことが伺えます。
当時の日本は、女性が子供を産む時に、誰が相手なのかは、あまりこだわらなかったそうです。未婚女性が妊娠した場合には、父親らしき人物を名指しすれば、父親側の実家で子供を引き取り育てていました。
津山30人殺し事件の犯人が寺井ゆり子に夜這いを行っていた理由に、父性を満たすために行為を寄せる寺井ゆり子との子供が欲しかったとも考えられます。
【3】拒み
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄と寺井ゆり子は親密な関係だった噂される一方で、一部では寺井ゆり子は津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄にもともと興味はなく、恋愛妄想の行き過ぎが動機の真相だともいわれています。実際に寺井ゆり子は、貝見集落の他の男性と結婚しました。これも津山30人殺し事件の犯行動機に含まれるようです。
犯行動機には、寺井ゆり子に裏切られた気持ちが大きかったようです。しかし、寺井ゆり子のことを諦められなかった津山30人殺し事件の犯人は、家庭に入った寺井ゆり子へ夜這いをしたのです。寺井ゆり子の結婚生活は続かず、離婚しました。
寺井ゆり子の離婚動機については諸説存在しており、寺井ゆり子の夫に夜這いが発覚し離婚したと記述されていることが多いようです。
しかし、雑誌「ダークサイドJAPAN」によると、寺井ゆり子が貝見で結婚した旦那は、もともと結核を持っており、戦地で結核が悪化して死亡したとされていました。そして寺井ゆり子は、旦那が結核に感染していたことを隠し、戦地で感染したことにして、莫大な遺族年金を受け取ったと噂されていたことが書かれていました。
寺井ゆり子自身が、もともと近所での評判が悪かったように感じます。しかし、夫が結核を持っており、周囲もその事実を知っていたとすれば、それこそ寺井ゆり子の家庭も差別を受けていたと思われますが、現在も真実は不明のままです。
【4】ストレス要因
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄に狙われていた寺井ゆり子は、離婚後に再婚し別の集落へと引っ越しました。この出来事が犯行動機に繋がっています。津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、寺井ゆり子が貝見集落から嫁ぐ日に、集落から出れないように道を塞ぐなどの嫌がらせまでしたのです。
寺井ゆり子が再婚し、都井睦雄の手の届かない場所へ行ってしまったことが犯行動機の真実となり、都井睦雄のストレス要因は強まる一方だったのかもしれません。
しかし、そんな中で寺井ゆり子が帰省することになります。これが実行動機の真実です。寺井ゆり子の帰省理由は、弟の結婚式に出席する為だったようです。
都井睦雄は寺井ゆり子が帰省することに勘づいたことが、実行動機となったのでしょう。実行動機が固まったとみられる犯行の3日前には、姉や知人へ遺書らしき手紙を送っていたのです。津山30人殺し事件を決行する日までも、緻密に計算されていたようでした。
都井睦雄の遺書【津山30人殺し事件】
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、犯行の3日前に姉や知人へ遺書らしき手紙を送っています。
また、津山30人殺し事件後には、遺書をしっかりと残し、自分がなぜ津山30人殺し事件を起こしたのか明確に遺書へ記録していました。津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄が残した遺書について、調査してみました。
【1】手紙
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、犯行の3日前に遺書とみられる手紙を姉と知人数人に送っていました。津山30人殺し事件を実行する日が近かったことが、遺書を送った動機だと思われます。
送られた遺書には、「日に日に体力がなくなっていく」「病気で弱るばかりだ」「結核で集落の女性たちから見下された」「許せない」「必ず殺す」といった内容の遺書だったそうです。
この遺書に書かれていた病気による身体的な弱りも犯人にとって、十分な犯行動機だったと思われます。また遺書に書かれていた恨み辛みの言葉こそが、真実の犯行動機だったのかもしれません。
遺書には、許せないという女性たちの名前も記載されていたそうです。強い執念が書かれた遺書を受け取った姉や知人たちは、この遺書によって津山30人殺し事件を止められなかった後味の悪さを味わうことになったのです。
【2】記し
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、津山30人殺し事件を遺書を書くことで締めくくりました。
遺書には、姉に対する謝罪が述べられていました。また、遺書には育ての親である祖母を殺害した動機にも触れており、自分がこんな事件を起こした後、祖母が生きていたら酷く辛い思いをすると考え殺害したことが動機だと記されていました。
遺書には、自分は両親を亡くし愛の少ない環境で育ったことが動機だったことや、結核により偏見や差別を受けたことへの恨みも動機だったことが記されていました。
遺書の最後には、なぜ自分が犯行を今日決行したのかという動機が書かれていました。そこには、やはり寺井ゆり子の名前があったのです。寺井ゆり子が帰省してきたことが津山30人殺し事件の実行動機だと、はっきりと遺書に記されていました。
遺書には、寺井ゆり子を誤って逃してしまったことへの後悔や、殺害を計画していたのに殺害ができなかった他の人間の名前も記載されていました。
遺書の最後には、「もはや夜明けも近づいた、死にましょう」と記されていました。まるで、小説の一文のようです。とても印象的なフレーズで、津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄の生涯は幕を降ろしました。
遺書に描かれたあまりに美しい文字と、遺書の文面から表現される独創的な世界観は、遺書ではなく一つの作品のようです。
遺書から見て、どれだけ津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄が頭の良い人間だったのかを現わしています。津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄が書いた遺書が、現在まで語り継がれている理由がよくわかります。
津山30人殺し事件の生き残り寺井ゆり子の証言
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津山30人殺し事件は、現在でも語り継がれているほど、怪奇な事件として有名です。
津山30人殺し事件は、多くのジャーナリストやノンフィクション作家が取り上げて、書籍を刊行しています。その中から、唯一寺井ゆり子のインタビューに成功している文献から証言を、ご紹介していきます。
【1】噂
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津山30人殺し事件に関する多くの書籍の中で、寺井ゆり子のインタビューに成功している本は1冊しかありませんでした。石川清著書の「津山三十人殺し最後の真相」です。インタビュー当時は、既に90歳を超えていました。
寺井ゆり子インタビューで、「睦雄さんのことを、皆が危ない人だと言っていた」「睦雄さんには、近づくなと言われていた」「睦雄さんは、結核だと近所の人が教えてくれた」など証言していました。
寺井ゆり子の証言によって、都井睦雄が津山30人殺し事件を起こした動機が見えてきます。集落という狭い世界の中で、都井睦雄が危険人物として扱われ肩身の狭い思いをして生きていたことや、結核の真実がわかってから多くの人が都井睦雄の元を去っていったことが犯行動機に繋がったことがよくわかります。
【2】核心
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特に印象的な「睦雄さんが通ると、皆避けていた」「睦雄さんは、村八分にされていた」という証言で、都井睦雄の犯行動機は集落全体から受けた差別から来るものだと決定づけました。この差別を、思いを寄せていた寺井ゆり子から受けていたとなれば、動機が膨らんでいったことも頷けます。
このインタビューでは、津山30人殺し事件の一番の犯行動機と見られている都井睦雄と寺井ゆり子の肉体的関係や、夜這いの実態に関する質問は行われていませんでした。
津山30人殺し事件の生き残り寺井ゆり子のその後
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津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄の襲撃から逃れた寺井ゆり子の、事件後の人生は大変だったようです。
津山30人殺し事件の中心人物となった寺井ゆり子の、その後について調べてみました。
【1】報復
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寺井ゆり子は事件後、自分の嫁ぎ先の集落に戻ります。
しかし、全国で事件が大々的に報じられており、もちろん遺書に記されていた寺井ゆり子の名前も知れ渡っていたのです。周囲から「事件の中心人物」といわれ、大きな差別や偏見を受けたそうです。
また、津山30人殺し事件の真実は寺井ゆり子が握っており、都井睦雄に犯行をけしかけて集落の人々を殺害させ、最後都井睦雄に遺書を書かせて自殺させたという噂も流されたのです。噂は次第に大きくなっていきました。
それは、まるで都井睦雄の怨念かのように、差別や偏見はなくなりませんでした。実際に、こうやって現在までも語り継がれているの為、都井睦雄の復讐は成功したのかもしれません。
【2】連鎖
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津山30人殺し事件当時、寺井ゆり子の体には子供を授かっており事件後に娘を出産していました。寺井ゆり子と犯人が肉体関係にあり、娘の真実の父親は都井睦雄だと噂されていました。
あらゆる噂を流された寺井ゆり子は偏見や差別を受けながらも離婚することなく、嫁ぎ先の集落でひっそりと生活を送っていました。
寺井ゆり子自身も、津山30人殺し事件のトラウマや周囲からの差別や偏見に救いを求めていたようで、新興宗教にどっぷりとはまってしまったようです。
さらに、寺井ゆり子の孫はかなり若くして亡くなっています。津山30人殺し事件とは関係ありませんが、寺井ゆり子の周囲で起こる不運な出来事は、全て津山30人殺し事件と関連付けて考えられてしまいます。
津山30人殺し事件まとめ
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津山30人殺し事件は、現在の岡山県津山市加茂町行重地区にある貝見・坂元集落で起こった犯罪史上残忍な事件となりました。津山30人殺し事件は、1938年5月21日に起こりながら、現在でも語り継がれている大量殺人事件です。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、徴兵検査で結核が原因で兵士になれないことが集落中に知れ渡ったり、強い差別を受けました。特に、好意を抱いていた寺井ゆり子から差別されたことへの怒りが、犯行動機に大きく関係していることが、犯行前に知人に送った手紙らきし遺書からも判明しています。
津山30人殺し事件の犯人である都井睦雄は、事件後山中で遺書を書き残し自殺して亡くなりました。
津山30人殺し事件は、最終的に33名死亡・2名の負傷者を出しました。その悲惨な現場写真は、現在ネット上に出回っていますが、トラウマになるレベルの写真なので閲覧はおすすめできません。
現在でも、地方の集落では根強い習慣が残っている地域もあります。しかし、現在は過疎化が進み、地域から人口は減るばかりです。しかし、差別や偏見は土地や時代が変わっても、必ずどこかに残っています。世の中からイジメがなくならないことと同じです。
差別や偏見をすれば、必ず自身に帰ってきます。その恨みは、後の子孫までも残されるといわれています。津山30人殺し事件は、まさにその通りになりました。差別や偏見の目を持たないことが、世界中の人々が幸せになれる方法なのかもしれません。