市川一家四人殺人事件の概要!現場マンション&長女の現在まとめ | ToraTora[トラトラ] – Part 2

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市川一家四人殺人事件をご存知ですか?

今現代、既に記憶は薄れてる事件になった方も多く居るハズ。知ってるけれど忘れてしまってる方や、現代では市川一家四人殺人事件の名前を知らない方も多く居ますよね?

市川一家四人殺人事件は風化してはダメな事件であって今更ではありますが、まとめたのでどの様な事件なのか。犯人はどのような人物像なのかを改めて見ていこうと思います。

更に被害者家族の生き残りの長女の現在についても調べてみました。

市川一家四人殺人事件の概要

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さっそく市川一家四人殺人事件とはどのような心境が伺えたかを見出しごとに概要を学んできましょう。

市川一家四人殺人事件以外にも問題が多く見られます。何故こんな犯罪を起こしたのか、家族はどのような人達なのか周りの様々な情報も。

犯人の関光彦とは

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一九七三年生まれの関光彦(せき てるひこ)は十九歳にてその極悪非道な犯行を起こし、二〇一七年に死刑執行され、当時は未成年であり実名は伏せられてましたが、二〇〇一年に死刑確定して実名公表されましたね。

千葉市で産まれ松戸の小学校に関光彦は入学しますが、小学二年生の秋頃になると江東区の越中島へと転居するともちろん、小学校も転校する事に。

小学五年生の頃には、母と弟と三人で葛飾区立石へのマンションへと引っ越しをしまたもや転校する事になり、この頃生活の環境も良く無く不遇な境遇に加え、学校では貧乏が理由でいじめに合う事に。

ですが別の一面として幼い頃は聖書を読みエホバ信者となり「愛と平和」ということに強く惹かれていきます。熱心に勉強すれば家族も分かってくれるはず、平和になるはずだと夢を抱いて居たものの、九歳の時にその聖書を父親に破り捨てられてしまいます。

尚、エホバ信者はキリストの中でも異端中の異端なんだそう。

父親を「仕返しをしてやる」「一緒に死んでやる…」と獄中で語ってた様子も明かされている一方で、仲の良い友人には柔らかな言葉を並べたそうです。

小学校の頃には母親から小銭を盗んだりしており、ある日六万円の入った財布を拾ったのをキッカケに、世の中は金だ、と思い込む様になります。

一方、不良にはなりたくないと地元で真面目に過ごしていたと近所の話も。

一九八五年四月に中学校に入学し無事に卒業。その後高等学校に入学するものの一年通い中退してしまいます。学校に行く義務が無くなると祖父のうなぎ屋でアルバイトの一方、未成年にも拘らず飲酒や喫煙、家庭内暴力にも手を染めました。

仲の良い友達は非行少年ばかりでこの時の関光彦以上に悪い行いをするものばかりが周りにいたことで、色々な非行を覚えていくようになります。

うなぎ屋で働いている頃には付き合っていた女性が居たものの祖父からあらぬ疑いをかけられたことにより、寝ている祖父の顔面を蹴り飛ばし左目を失明させたり、うなぎ屋の同僚に腹が立ち頭をスパナで殴るなど、手が付けられず非行だけでは済まされ無いレベルに。

うなぎ屋を退職し、職を転々としつつギターを習うための教室に通い始めるのですがまたしても良くはない仲間に出会ってしまいます。

当時の外国のミュージシャンは薬物を乱用してるニュースもあって、スタジオで知り合った仲間と様々な薬物に憧れの気持ち一つで手を出すようになります。

以下何度か出てくる愛車のクラウンのローンの遅れている支払いや、アパートで一人暮らしの際の契約金や滞納した家賃は母親が払ってた話もありました。

因みに体格は十九歳にして身長178cm体重80kgとかなりの巨漢であったので二十五歳程度に見えたそうです。十九歳と言えば未成年ですが当時タバコはラーク五箱程度一日に吸い、ウィスキーをボトル半分が適量で、パチンコ・ギャンブルも頻繁にしていたそう。

逮捕後の面会人の質問に対して、強姦によって優越感に浸れる・血を見ると興奮する・どうせ捕まるなら好きな子を強姦すればよかったと語っていた当時の記事がありあまりにも常識から外れた人間だということがわかりますね。

関光彦の家族

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ごくごく普通の経歴を持つ親の元で育ったのですが、母方の祖父はうなぎ屋の経営をしていて都内に十店舗を構えるくらい凄い手腕で事業は成功。

父は店を一軒任されるとうなぎ屋の売り上げで金遣いは荒くなり遊びにのめり込む様になって、更にその筋の人から借金まで抱え、家庭内暴力や児童虐待も頻繁に起こしてしまいます。

これがきっかけで母は子ども二人を連れて、葛飾区の立石へと無断で引っ越しをし離婚のために家庭裁判所を頼ることになります。

父の借金を理由に父だけではなく、祖父の経営するうなぎ屋にまでヤクザが押しかけます。このことや関光彦自身がアルバイトしていた時も売上金を盗んだり、事件後には風評被害と散々な目に合い最終的に現在は破産し倒産しするのですが後述にて。

母の方の祖父は関光彦の父を良く思っていなかったようで「仕事に対する熱意が伺えねぇ!」と婚約に反対していいて、家に泊めると言った際には祖父から追い出されるほど。

二人は駆け落ちをし結婚、そして関光彦が産まれると渋々ながら祖父は婚約を認めます。この時は父母共に教育熱心で習い事もさせて良い子育て像であったと思いきや、徐々に上記のようなろくでもない父に。

後に母、子二人が住むアパート付近をうろつくようになりますが姿を見るのが気に入らなかったのか、関光彦は父と親子喧嘩以上の殴り合いの喧嘩にも発展。

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高等学校中退頃に一緒にいた不良友達の年上の先輩と一緒にフィリピンの人が多く在籍するスナックに入り浸って居て、お店の従業員のフィリピン人の女の人と関係を持つことに。

滞在期間が終わりフィリピンの女の人が母国に帰国。一緒に渡航し犯行の一年前に現地で婚約し日本に戻っても入籍するものの結婚生活は長く続かず、三ヵ月で理由を付けてフィリピンへと帰ってしまうのです。

その名残かスナックバーに在籍するフィリピン人と自分の家で関係を持ち、このことはスナックに知られていまなかったのですが、性的関係のみならず監禁し暴行も加えた様です。

二日後にお店へ泣きながら訴えるとお店がヤクザに「落とし前」を依頼する様に。関光彦はヤクザに追われる身になり二百万を恐喝されるハメに。

もちろん逃げる素振りを見せるがクラウンの乗って逃げると後部の窓ガラスを割られるということも。

ヤクザに追われ逃げているのと同時に、他の暴力などの犯罪に手を染めますがこの時に乗っていた車が時価四百万のクラウンロイヤルサルーンなのですが、それを売って二百万を用意する思考は無かったのでしょうね。

一九九二年二月十一日にはバンド友達の家で遊び車で帰る途中に二十代の若い女性を見つけ「鬱屈した気持ちを晴らす」と考え、道を尋ねるふりをし、女性の顔面を何度も殴り付けている最中に犯そうと考え車に乗せ「病院につれていく」と言い関光彦のアパートに無理矢理押し入れ犯すのです。

少女を拉致

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女性を殴り付け犯した次の日の深夜。

夜遅くまで勉強していてシャーペンの芯を切らしてしまった高校一年生の女の子がコンビニに行ったことが事件へと繋がります。そう市川一家四人殺人事件の引き金である長女なのです。

コンビニを出て家に帰る長女を見つけた関光彦はマンション前の細い道で、長女の自転車に自分の愛車のクラウンをぶつけ、転倒・ケガをさせてしまうのです。

「病院に行こう」というニュアンスの言葉を口実に長女を車に乗せ現場を離れ、実際に病院で治療は受けさせます。治療が終わり「家まで送る」という言葉に長女は安心しきってしまいます。ここまでは「ひき逃げと思われるるのが怖かった」と言う理由。

しかし長女を車で自宅マンションの方に送ってる最中に「普通に帰すのではなく犯そう」と邪な気持ちが露わにあなり、人気のない場所で折り畳みナイフを長女に突きつけます。

最初は抵抗しましたが左の頬と左の手を切られそのまま関光彦の自宅アパートへ連れていかれ二度に渡り犯します。現金を奪い、生徒手帳に載っている個人情報を抜き取り関光彦は自室に戻ります。

その隙に自身に施された拘束を解いてそのアパートからなんとか一人で抜け出しますが、少女が抜け出したのですが関光彦は特に追ったりする様子はありませんでした。

傷跡の残るまま中学校へは登校し続け同級生達に「被害届を出しなよ」と言われ被害届を出すものの名前も住所も知らない人物であったので捜査線に浮上することはありませんでした。

長女拉致から市川一家四人殺人事件までの間にも犯罪を

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長女の拉致は二月であり、市川一家四人殺人事件犯行当日は三月でその間にも犯罪や良くない素行を見せています。

ヤクザに対しては非常に弱く、自宅では取り立てが来るのを理由に車中泊が当たり前であり、いつ殺されるかという恐怖を毎日覚えてたそうです。

直後には従兄弟の大学進学金数百万円を盗んだことによって親戚達からは「アイツ(関光彦)がやった」と親族の中からも冷たい目線を浴び警察に被害届も出したりするが取り合っては貰え無かった様です。

それ以外には車関係の犯罪で、後ろから乗用車で煽られたのが原因で自車を急停車させ衝突ギリギリで相手である後続車を止めさせ、トランクから鉄筋を手に取り後続車の人間と言い争いに。

その末腹を立てた関光彦は相手の車のエンジンキーを取り、自車へ戻りますがもちろん追いかけてくる相手。その相手を鉄筋で頭を殴り、血まみれになって蹲った相手を何度も殴り付けます。

男性の車に乗り込み一時間ほど現場を後にし、後に現場に戻るまで車を乗り回しつつ免許証を取り上げ金品を求め声を荒げる場面も。

数日後に追い越しをされそれに腹を立て、赤信号で止まったところ乗っていた男子大学生を下ろし持っていたナイフで左太ももへ突き立てます。

大学生の車の運転席に乗り込み、大学生を助手席に乗せ親から金目のものを巻き上げようと案内させます。この間に至るところを刺傷しその数は十箇所以上。

血まみれになりながらも何とか大学生は逃げ出し、追いかけますが「ひき殺したらやばい」と思い諦め、大学生の免許証と父親名義の自動車検査表を奪いトラブル現場に戻ります。

どちらも自分はヤクザのものだと言い張り恐喝していました。

現場マンションを下見

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何度も犯罪を犯すものの暴力団へのお金の工面は上手くいかず、パチンコ店の強盗を考えるものの最終的に思いついたのが市川一家四人殺人事件に繋がる長女宅への金目になるものの強奪を思い付きます。

長女を監禁した時に得た個人情報を元に実際に現場のマンションへと行き、マンションのエレベーターで号室を把握し、監視カメラの位置もキッチリ確認していて、何回か時間帯を変えて長女宅へ電話をかけ今の時間帯には〇人しか居ない。などの在宅状況も把握しました。

その後市川家長女以外を殺害

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犯行日の一九九二年三月五日。

長女宅の付近は関光彦の母の母の住む家の近くで土地勘もあり幼少期よりも姿形が変わっていて他に新しそうな高級マンションなども目立ったものの、迷いはなく長女宅マンションを選んでいます。

犯行日はギャンブルやゲーセンで予定時刻まで待ち、ラーメンも食べ午後四時頃に公衆電話から長女宅の在宅状況を確認し、午後四時半頃マンションへと向かいます。

公衆電話の時点で誰も出ず、マンションのチャイムを鳴らすも応答がなかったので、留守だと確信し一応ノブにを引くとなんとカギがかかっていなかったそうです。

夕方なので普段だと人目に付くはずなのですが、雨が降っていたのでマンションの住人とは誰とも鉢合わせなかったのは本当に不幸でした。

静かに侵入すると洋間におばあちゃんがテレビを付けっぱなしで寝ており起こさないように金品の物色をするものの、何も金目になるものが無くこの、時点で強盗に切り替えるのです。

おばあちゃんを蹴り起こし祖母の財布の中の現金を奪いますが、個人の財布に数百万もの大金があるわけがなく、更にお金の場所を聞き出すのですが、ここで関光彦はおしっこが我慢出来なくなり用足しへ。

その間おばあちゃんが派出所に受話器を取るのですが、用を足し終えた関光彦に体ごとぶつかって行き受話器を遠ざけられてしまいます。

おばあちゃんは頑なに預金の通帳といった金品のある場所を答えず、爪を立てて引っ掻き反抗的な態度を見せ、しまいに唾を吐き付ける場面もあったため、関光彦はそれに腹を立て祖母を金属製の伝導ワイヤーで首を絞め殺してしまうのです。

他人の箸を共有出来ないほどの潔癖症である関光彦は唾を吐かれたが余程屈辱というより汚いという心境で、洗面台で至る所を洗い流します。人を殺したよりも唾を吐き付かれたのが重大であったようです。

その後おばあちゃんの死体のカモフラージュをと現場と違う洋間へ移し布団の上に寝かせ、寝てる様に見せます。他の住人がマンションへ帰ってこなければ金品のありかもどうしようもなく一度外出し、ジュースやタバコを購入、他の住人の帰りを待つのです。

午後七時頃に母と長女が帰ってくると勝手場にあった刃物を突き付けますが母もあまり動じず。二人を床へうつ伏せにさせ、刃物を持っているのを承知で動じない母に恐怖を覚えたのか背面を刃物によって五回程度刺しますが芯ではないのです。関光彦は後述で「(通報されると困るので)動きを封じたかった」そう。

母は血が滲むものの出血量は刺された直後はそうでもなかったようで「これで大人しくなるだろ」と関光彦はホッと胸を撫でおろしたそうです。

長女は恐怖で簡単に征服出来、関光彦の命令を聞くしかなく、母を犯行現場と違う室内へ二人で運び血の痕跡も拭き取っていくのです。瀕死であった母は失血死にて亡くなります。

長女は現場の室内に監禁され、母が襲われた十五分後に長女の妹が保母に連れられて帰宅します。長女・妹の三人で夕食を取り、妹はおばあちゃんの遺体のある部屋へと追いやり父親の帰りは午後十一時頃と聞かされており、寝室にて長女を母の血のついた刃物で脅しながら犯します。

服を脱ぐ指示を受けるものの恐怖心で手が動かず関光彦を苛立たせ、無理矢理ワイシャツを引きちぎって恐怖を更に植え付けています。

証言では「(父親が帰って来る)待つため」かなり身勝手なものだと判断出来、身内が死体と化す現場の身内の傍らで犯す非常に残忍な行為としか言い様がありません。

思わぬ事態として実際に父親が帰宅するのは午後十時前でかなり早く行為中であったものの慌てて衣類を纏い、父親の背後に立ち左肩に刃物を突き立てます。

金品の場所を聞き出すと父親は「家族を守る」一心で通帳二冊、三〇〇万以上と会社にも通帳もある旨を教えます。もちろんですが身内の中で息があるのは父親・長女・妹だけなのです。

長女に会社に電話させお金を取りに行く旨を伝え二人でマンションを出て行きますが、父親をやらないと通報すると考えたのか関光彦が単独でマンションへ踵を返し致命傷の父親にトドメを入れます。

会社の近くまで来ると長女一人で会社に向かわせ、通帳7冊と印鑑を受け取り帰りますが長女は正常な判断が出来ない程憔悴していて抗う力が無く、従業員に助けを求めることが出来ません。

従業員は不審に思い派出所に連絡を取り派出所署員と電話を自宅にかけたり、マンションに赴き玄関の扉をノックするものの家内に明かりは無く、外出中という認識の元一度引き上げるようになります。

一方その頃通帳と印鑑を手にした後、ラブホテルに連れ込み金額の確認をし長女を寝る前と起きた時の二回強姦します。マンションへと帰ると妹が泣き喚いていたことを煩わしく感じ、妹の背中を刺し「お前がトドメをさせ」と長女に妹を殺すように命じますが長女は恐怖で動けず、首を絞め最終的に失血死。

妹の血まで目の当たりにすると長女は初めての犯行の態度を露わにしますが、それに逆上し長女の左腕と背中を刺します。

関光彦ようやく逮捕

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父親の会社の従業員が「夜にお金を取りに来るのはおかしい」と思い、翌朝長女宅へ電話を入れます。

長女は「おはよう」と言うとその他は何も言わず従業員が「そこに脅してるやつが居るのか」と聞くと「うん」と返すと、その後その従業員によって警察へ通報されます。

警察官がマンションに着きますが玄関のドアにはカギがかかっていて、隣の部屋の窓から警察官が突入。この時関光彦は長女に「これ(刃物)持って俺を脅しているふりをするんだ」と言いますが長女は放心状態で座ったまま応じず、それに腹を立て怒鳴り付けますが同時に警察官がドアを開け関光彦を押さえつけます。

長女は十四時間ぶりに保護され、関光彦は否定しますがこの時点でナイフを持っていたため銃刀法違反で捕まることに。

その後取り調べや精神鑑定など行い強盗殺人で改めて逮捕された関光彦は「これで俺も少年院行かー」と死刑になることは考えていなかったようです。

というのも少年法やこの時の数年前に起きた女子高生コンクリート詰め事件の犯人も死刑・無期懲役どころか数十年で出て来ているので刑期は十年程度なのではと思っての発言だったと思われます。

そのため刑期を終えた後のことを考えてか、死刑求刑をされる瞬間までは母からの差入れで教科書などを送ってもらっていたことも。

しかし実際に死刑求刑を言い渡された時には予想していなかった求刑に大きなショックを受けていたようです。

一九九二年一二月二五日に行われた刑事裁判から何回かの公判を重ね、一九九四年四月四日に死刑を求刑。一九九四年八月八日に死刑判決が言い渡され二〇一七年一二月一九日の死刑執行は記憶新しい所ですね。

加害者家族のその後

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加害者の死刑が確定し実名公表されるとどんな事件でも加害者家族への風当たりや、取材が激しくなるものです。

祖父は関光彦を冷たく突き放すような言葉で取材に答え「あのウナギ屋に金を落とすと弁護費用に使われる」と売り上げも落ちていき上述しているように破産・倒産に追い込まれてしまいます。

母親と弟はひっそりと暮らしているそうで、関光彦の面会に週に一回行っていたそう。季節ものや色々な差入れを手土産にして行ってたそうです。

弟は現在の足取りはわかりませんが、当時の取材時関光彦にそっくりな見た目ではあるものの、礼儀正しく優しい穏やかな性格で取材にも丁寧に対応する様子が見られ正反対の性格だったと言えます。

市川一家四人殺人事件の被害家族まとめ

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事件の概要の次はマンションで五人家族の身に突如起きた悲劇、市川一家四人殺人事件の被害にあってしまった家族をみていきましょう。

生き残った長女についてはまた後述します。

父親

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当時四二歳で自由業のカメラマンをやっていて社長。

一九八六年頃に仕事で知り合った女性(後の妻)と同居を始め、その女性の子も自分の娘同然のように可愛がっていて、一九八七年に結婚。

雑誌の出版などを行う会社を設立し、社員も何名か居て会社としてはとても順調な経営だったと言えます。長女を迎えるまではゴシップネタなどを扱っていたようですが、長女を迎えてからは「年頃の子がいるから」と旅行や料理関連の雑誌の仕事が中心に。

母親

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当時36歳で熊本県出身。

地元で一度結婚をしていますが前の父親が仕事よりも遊びに重比を置きすぎたため、長女を出産すると同時に離婚。離婚後は色々な職業に手をつけ、女手一つで長女を育てその時の出会ったのが二人目の父親となる男性でした。

行徳駅の近くにマンションを借り、カメラの勉強をしていたそうです。結婚し妹を産んで現場のマンションに皆で住むようになります。

父親に子どもは何人いても良いと積極的でしたが、第一子を流産してしまいその時には「仕事よりも身体を大事にしてくれ」と声を大きくする場面もあり。

自由業のライターとして仕事と同時に子育てをし、まだ目の離せない妹を連れて取材を行うことも多々あったそうな。

現場へ帰宅の場面では長女と一緒に居たこともあってか怯える様子は全くなく後の犯人の証言で「刃物を持ってなかったら噛みつかれそうな勢いだった」という話も。

実際離婚した時には慰謝料や教育費は請求せずに自分だけでも長女を育てて見せると、かなり勝気な性格だったことから、勝気な性格と母親としてというのが合わさり関光彦へ恐怖を生ませたのだと推測出来ます。

おばあちゃん

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当時八三歳で父親の実の母でほとんど外に出ることはなくマンションの自室で過ごすことが多かったようです。

気丈な性格だったのかだてに年の功と言うのか、関光彦に怯える様子は全くもってなく果敢に抵抗を続けた立派な方。

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四歳で生涯を終えてしまいます。

父と母の実の娘で血の繋がり上は長女ですが養女の年上の娘が居たので次女にあたります。

犯行時にテレビを見て寝た部屋は、祖母の遺体が置かれてた部屋にあたり、最期の晩を一緒に過ごしたのは祖母の遺体ですが四歳ですから気づくはずもありません。

市川一家四人殺人事件の現場マンションは?

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現場はマンション、と語ってきましたが建物自体について少し詳しく見ていきましょう。

東西線行徳駅から徒歩で約十五分のところに存在する白みがかった九階の高層マンションの八〇六号室が現場。東京湾や江戸川・旧江戸川に囲まれた見晴らしの良いマンションでもありました。八階ですので見晴らしの良さも別格です。

こちらのマンションは周りに木々が多くはないもののそれなりに緑があることによってのどかで平和そうなマンションに見え、今でもそのマンションには住人ももちろん居て、八〇六号室にも表札がかかっているのが目視出来ますね。

近くにコンビニやスーパーがあるので住宅は少し駅が遠く感じるものの、住みやすいマンションなのではないでしょうか。

しかし一方でこのマンションの八〇六号室は壮絶な現場痕によって事故物件との声も少なくありません。

生き残った長女の現在は?【市川一家四人殺人事件】

市川一家四人殺人事件のただ一人の生き残りの長女の今現在の様子も含めて知りたいと思います。

生い立ち

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一九七六年生まれで父親とは血の繋がりが無く前の父親との子。

優しい性格で高校時代では美術部・演劇部に所属し十歳以上違う妹の送迎する優しい一面もあり、将来は美術関係の大学へ進学することを夢見た少女。

事件

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そんなごくごく平凡な生活はコンビニへシャープペンシルの芯をたまたま買いに行ったことによって失われるとは思いませんよね。

上記で挙げてますが、自転車乗っているところ転ばされたのをきっかけに全ての歯車が狂い出し約一カ月と忘れ様とした頃に自宅に帰ると二度と見たく無かった人物が。

母を殺され、寝室で犯され、父を殺され、従業員に通帳を受け取った後ラブホテルで犯され、現場マンションへ帰ると妹を殺され、更に関光彦が罪から逃れるために脅させるように指示。

逮捕時に警察によって保護を受け、マンションへと帰って惨劇は十四時間にも及び、初めての接触~逮捕までの間に五回もの強姦を受けるのです。

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事件直後は両親の知人の元で暮らすが、その一年後母方の熊本の実家で暮らすことになり高校卒業すると熊本を離れ美術系大学へ。この時「母の様なキャリアウーマンになる」と語っていたそうです。

それに加え当時の取材に対して「忘れなければ前に進めないが、極刑が当たり前だと思う」「早く死んでほしい」などと当たり前ですが恨み口を綴っていたようです。

2004年には交際をして居た男性と結婚し、ヨーロッパへと移住し、その後の足取りは市川一家四人殺人事件と世間を大きく賑わせた被害者のただ一人の生き残りでデリケートな問題となり全く足取りがありません。

凶悪事件・市川一家四人殺人事件

関光彦 市川一家4人殺人事件 1992年3/5 暴力団員から慰謝料を要求され、強盗を計画。事件数日前に暴行した女子高生の学生証を持っていた為、それを元に一家に押し入る。祖母、母、父、妹を殺害。死者4名。犯行時19歳。 17年、12/19執行。没44歳 pic.twitter.com/n4Ij2B9IQf

— 執行済み・獄中死した死刑囚bot (@sikei_syu_bot2) May 15, 2019

いかがでしたか?

率直な感想を述べると胸糞でしかありませんし、概要を読む立場でも開いた口が塞がらず、概要を知っただけでも鳥肌が立ちます。

市川一家四人殺人事件は衝撃的で今でも驚きでしか無く未成年によるもので、一人の二十超えていない男子がお金が必要だからと身勝手な理由でマンション内で一家を殺害し、挙句の果てに長女の前で家族を殺し何度も強姦しており、もう救い様がありませんね。

ですが上記で挙げたように優しかった一面もあったとの証言もごくごく少数ですが確認出来ています。それでもやはり市川一家四人殺人事件以外にも何度も犯罪レベルのトラブルを起こす方が人生で多く、何を言っても救い様のないのは事実です。

しかも実名公表されてから多くの記者の質問に反省した色が全くもって見られず、見当違いな後悔の言葉ばかりを並べていました。年を重ねるごとにその態度は改まっていき反省の色も見せますが時すでに遅し、です。

現場のマンションも人が住んでいるとは言え、年配の方に市川一家四人殺人事件の話を聞くと言葉を濁す場面しか無く市川一家四人殺人事件は忘れられない事件であることは間違いありません。

当時二十を迎えない少年で死刑判決を言い渡すのは二人目と、その事件の残忍さと異例さに日本中からどよめきが聞こえたと言っても過言ではありませんでした。

中には二十歳未満の死刑反対派と賛成派に渡って大きな論争にも発展。

長くなってしまいましたが、被害者を記憶に残してこれ以上同じことを起こさないように過去のことだと思わず、生まれていなかったとしてもこれを機に市川一家四人殺人事件を記憶に残し後世に伝えるのがが大事だと思います。