女子高生コンクリート詰め殺人事件の概要!加害者の生い立ち・現在は?

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女子高生コンクリート詰め殺人事件とは?

 

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皆さんは女子高生コンクリート詰め殺人事件をご存知でしょうか。

近年凶悪事件が後を絶ちませんが昭和の世間を共感させた事件といえば女子高生コンクリート詰め殺人事件ではないでしょうか。この事件は1988年から1989年に発生した凶悪事件です。

その加害者は若干18歳17歳の少年たちによるものでした。加害者が全て未成年であったこと、犯罪内容が重大かつ悪質であったこと、犯行期間が長かったこと、周囲の人が誰も被害者を救わなかったなどのことがとても話題となりました。この事件が社会に与えた影響はとても大きかったといえます。

そんな女子高生コンクリート詰め殺人事件について詳しく解説していきます。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件の概要

引用: Pixabay

女子高生コンクリート詰め殺人事件は少年ら6名によって行われた事件です。

1988年から1989年に犯行が行われました。初めは単なる強姦事件でしたが、その内容は日に日にエスカレートしました。被害にあった女子高生への行為は初めは強姦や輪姦といったものでしたが、事件が進むにつれて暴行の内容がエスカレートしていき最後にはコンクリート詰めにし、東京湾に放棄するところまで発展しました。

この事件は日本での少年犯罪史上最も残虐と言われました。そんな女子高生コンクリート詰め殺人事件について詳しく見ていきましょう。

 

少年3人の最初の犯行

引用: Pixabay

最初の犯行に及んだのは宮野裕史と小倉譲、湊伸治の3人でした。

宮野裕史と小倉譲、湊伸治の3人は1988年の11月8日の夕方東京都足立区内で自転車で帰宅していた途中の女性(当時19歳)に声をかけたところから始まりました。宮野裕史が運転する自動車に小倉譲、湊伸治が乗り込んでいました。

女性に声をかけ、ドライブの誘いに答えなかった女性に車を横づけにして自転車を停止させました。小倉譲が嫌がる女性を無理やり車に乗せました。その後、常磐高速道路に入り、「俺は少年院を出てきたばかりだ」「大洗の海に行こう。」と言って女性を脅し、ホテルへ連れ込んで強姦をしました。

この出来事がのちに女子高生コンクリート詰め殺人事件と呼ばれる日本での少年犯罪史上最も残虐な事件の始まりとなったのです。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件の始まり

 

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女子高生コンクリート詰め殺人事件は11月25日に始まりました。

11月25日の午後6時ころ、宮野裕史は湊伸治の自宅に行きました。宮野裕史は湊伸治に対して「今日は給料日だから金を持っている人が多いんじゃないか。ひったくりをしに行こう」と誘いました湊伸治は友達からバイクを借りて、2人でひったくりに出かけました。

午後8時過ぎ、埼玉県三郷市内をバイクで走っていたところ、自転車に乗って帰宅する途中だったの古田順子さんを見かけました。古田順子さんは県立八潮南高校3年生でした。

宮野裕史は湊伸治に「あの女子高生を蹴れ。あとはうまくやるから」と命令したそうです。湊伸治は宮野裕史に言われたように、バイクで古田順子さんに近づき、左足で右腰を思いっきり蹴りました。蹴られてしまった古田順子さんはバランスを失って自転車から転倒しました。そして側溝に落ちてしまいました。

そこへ、宮野裕史が近寄って「大丈夫ですか」と声をかけました。助け起こすと「あいつはキチガイだ。俺も脅された。危ないから送っていってやるよ」ことば巧みに話しかけました。そして近くにある倉庫へ連れ込みました。倉庫で脅し、ホテルに連れ込んで強姦しました。

その後、午後10時ころに宮野裕史は自宅に先に帰っていた湊伸治に電話をかけました。そこには他の共犯者であるの小倉譲と渡邊恭史がいました。宮野裕史は湊伸治と小倉譲と渡邊恭史の3人を外に呼び出しました。

そしてその後4人の少年たちは東京都足立区綾瀬にある湊伸治の自宅の2階に普段たまり場にしていた部屋に古田順子さんを連れ込んだのです。

 

監禁の始まり

引用: Pixabay

ここから少年らによる古田順子さんの監禁が始まったのです。

11月28日には宮野裕史は「いいモノを見せてやる」と言って、中村高次と伊原真一を湊伸治の家に呼び出しました。湊伸治の家の人が寝静まった深夜に古田順子さんを輪姦しました。古田順子さんは必死の思いで抵抗したそうです。一階の湊伸治の母親は目を覚ましたようでした。

枕や布団などで顔面を押さえつけられたため、叫び声を上げることはできなかったため湊伸治の母親はこのような行為が行われていることに気がつかなかったそうです。

その2日後の11月30日には湊伸治の母親は古田順子さんの存在に気がついていたようです。湊伸治に対し「早く帰しなさい」と言ったそうです。しかし1週間経ってもが古田順子さんいることに気づき、直接、古田順子さんに帰りなさいとは言ってみたそうです。ですがなかなか帰ってもらうことはできなかったそうです。

この時点で湊伸治の母親は自分の家の二階に古田順子さんが監禁されていることに薄々気がついていたと考えられます。

この頃には古田順子さんの異変に気がついた古田順子さんの家族は警察に捜索願を出していたそうです。そのことに気がついた少年らは古田順子さんに自宅へ電話をかけさせて「家出しているのだから、私の捜索願は取り消して欲しい」と言わせていたそうです。

この電話も一回のみだけではなく、5日ごとに3回ほど古田順子さん電話をかけさせていました。そのため古田順子さんの親は家出だと思っていたと言われています。

その後は昼夜を問わず少年らは古田順子さんの体を弄びました。そのあまりの暴行に、古田順子さんが気を失ってしまうこともありました。気を失った古田順子さんに対してバケツの水に頭を漬けて気を取り戻させて、また犯すということを繰り返していました。

その間、少年らは交代で見張りを続けるなど周りに自分たちのしていることがバレないように細心の注意を払っていたと言われています。

監禁が続いていた12月初めのには、古田順子さんは少年たちが夜遊びで疲れ、昼寝をしていた隙を見計らって、1階の居間に降りてきて110番に電話をしたこともありました。

しかし寝ていた宮野裕史が起きてしまい、気づかれてしまいました。電話が警察にかかってしまい、すぐに切れてしまったことからすぐ警察から逆探知で電話がかかってきました。その電話に宮野裕史が出て「なんでもない。間違いです」と返事したことで古田順子さんの通報がかき消されてしました。

こうして古田順子さんの監禁はまだまだ続くことになったのです。

 

監禁して強姦から暴行へ

引用: Pixabay

先ほど紹介した古田順子さんの警察への通報未遂をきっかけに、これまでは強姦を繰り返してきた宮野裕史と小倉譲ら少年らですが次第に暴行へと変わっていきました。

古田順子さんの通報をきっかけに殴ったり、蹴ったりなどのリンチを食らわせるようになりました。次第にその内容がエスカレートしていきました。その内容はとても残忍なものでした。手や足の甲にライターの火を押し当てて火傷を負わせたり、強制的にシンナーを吸わせたり、ウイスキーや焼酎を飲ませたりするなどをしていました。

さらに宮野裕史は武田鉄矢の『声援』という歌の歌詞にある「がんばれ、がんばれ」という歌詞をいじめているときにそれを歌いながら行為をしていました。古田順子さんにも歌わせるなどして精神的にも追い込んでいきました。

このように初めは古田順子さんに性的な暴行を加えていた少年らでしたが次第に精神的、肉体的に暴行を加えるようになっていったのです。

 

さらにエスカレートする暴行

 

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さらに古田順子さんの監禁が続き、12月5日に電車の追突事故が起きました。

宮野裕史は古田順子さんを心理的に追い込むために「事故の起きた電車にお前の父親が乗っていた、死んだってテレビでやってた。」と古田順子さんをからかいました。古田順子さんが不安そうな表情を見せると「どんな気分?」と聞きました。古田順子さんが「悲しいです」と答えると「実はウソだよ」と言ってはぐらかしました。

このように古田順子さんに対し、宮野裕史と小倉譲、湊伸治の3人は古田順子さんのお父さんが「死んだ」「生きている」を何度も繰り返しました。このようにして心理的に古田順子さんを追い詰めていったそうです。

古田順子さんは「家に帰りたい」と言い始めたそうです。そう言い始めると宮野裕史が「家に帰ったら母親に何て言い訳するんだ」と聞きました。古田順子さんは「今まで新宿で遊んでいました」というと言いました。そんな言い訳を聞いた宮野は「学生服のままそんなに長く遊んでいられるかよ」と言って、殴ったり蹴ったりなど暴行を加えたそうです。

さらに、手足の甲の火傷の跡にライターのジッポオイルをかけ火をつけて暴行を加えたそうです。古田順子さんが苦しむ姿を見て面白がり、何度もその暴行を繰り返したそうです。この時点で心理的にも肉体的にも古田順子さんは相当な暴行を受けていたと推測できます。

さらに監禁が続き12月中旬には古田順子さんが小便を我慢できなくなったため小便で布団が濡れたことに腹を立てた小倉譲と湊伸治が古田順子さんを殴りました。かなりの暴行が加えられてしまった古田順子さんの顔面が無惨にも腫れ上がってしまいました。顔がパンパンに腫れ上がり顔の原型をとどめていなかったと言われています。

その姿を見て「なんだお前、でかい顔になったなあ」とからかい笑っていたと言われています。

暴行がエスカレートするのとともに古田順子さんに与えられる食べ物もどんどんひどいものになっていったと言われています。食べ物を与えるのは主に湊伸治の兄のGの仕事でした。監禁が始まった頃は出前を取るなどしっかりした食事を与えられていたそうです。

しかし監禁が進み、12月の末になる頃には一日に牛乳を1本であったり、たまにパン1枚与える程度になったりしていたそうです。古田順子さんはトイレにも行かせてもらえなくなっていたようです。古田順子さんは紙コップに排尿させられるようになり、その尿を飲まされたりもしていました。

このような残忍な監禁生活が自宅の二階で行われていたことを湊伸治の両親はに気づいていていました。しかし湊伸治の両親は追及すると、開き直られてしまうことを恐れて、自宅2階で起きている異様な気配を見て見ぬ振りをしていたそうです。

このような残忍な暴行を加えられていた古田順子さんは暴行によって折ってしまった足の火傷が化膿して動けなくなってしまいました。まともな食事も与えられていなかった古田順子さんの全身は衰弱し、悪臭もひどくなっていきました。

そんな古田順子さんの様子から、宮野裕史はその臭いが嫌だと言って、次第に寄りつかなくなっていきました。

宮野裕史を含む少年らはそんな状態になった古田順子さんを見て、次第に持て余すようになっていきました。

しかし、手足は火傷で化膿し、暴行の跡が残っている古田順子さんを解放すると警察に知らされることは避けられません。もう自分たちのしたことが後戻りのできないところまで来てしまっていることに気がついた少年らはいっそのこと、古田順子さんが死んでくれればと考えるようになっていきました。

そのような考えになっていった少年らは古田順子さんがいないところで次のような会話をするようになっていきました。

「女を殺して埋めるのはどうかな?」「殺すならミンチがいいんじゃない?」「ドラム缶に入れて焼くのもありじゃな?」「コンクリート詰めにして東京湾にすてればバレないよ」「自殺に見せかけて殺そうか?富士の樹海で首吊りさせますか?」

などと冗談半分、面白半分、のような会話をし始めたといいます。

 

暴行から殺害そしてコンクリート詰めへ

引用: Pixabay

監禁が始まって年が明けた1989年の1月4日、監禁41日目のこの日、宮野裕史はマージャンで10万円負けイライラしていたそうです。そのイライラを宮野裕史は古田順子さんへ向けました。

湊伸治と小倉譲と渡邊恭史の3人は古田順子さんの火傷の化膿した臭いを嫌っての渡邊恭史自宅でゲームをして遊んでいました。宮野裕史は渡邊恭史の自宅に立ち寄り、3人を誘って、古田順子さんが監禁されている湊伸治の自宅の2階へ向かいました。

そして湊伸治の自宅へついた3人は古田順子さんを次々と殴る蹴るの暴行を繰り返しました。古田順子さんは鼻や口から血を流し、血だらけの状態になってしまいました。さらに暴行は続き、ロウソクに火をつけ古田順子さんのの顔にそのロウを垂らしました。古田順子さんの顔はロウだらけになり火傷を折ってしまいました。

渡邊恭史は自分の手に血がつくのを嫌がったためが宮野裕史シンナーを吸うのに使ったビニール袋を手に巻いて古田順子さんに暴行を加えていました。暴行を続けているうちに古田順子さんは身体を硬直させ、痙攣し始めてしまいました。ですが少年らの暴行は止まることは知りません。

宮野裕史は1.7キロほどの鉄球付きの鉄棒を持ち出し、暴行を始めました。渡邊恭史は古田順子さんの腹部に鉄球付きの鉄棒を落とすように暴行を加えました。宮野裕史が古田順子さんに暴力を加えると、他の3人も面白半分に暴力をエスカレートさせていきました。宮野裕史は暴行を続けていく途中で古田順子さんの死を意識したと供述しています。

暴行が終わると宮野裕史は古田順子さんが逃げ出したりしないように、足をガムテープでぐるぐる巻きにしてそのまま放置しました。その翌日の朝、少年らは古田順子さんが死んでいることに気がつきました。

死体の処理に困った少年らは、死体を毛布に包んで旅行鞄に入れて車に乗せて人目のつかないところへ運び出しました。そして盗んだドラム缶に鞄ごと古田順子さんの死体を入れた上からセメントを流し込みました。この際に使われたセメントは、宮野裕史が前に働いていた店からセメントと砂利を調達して作ったものでした。

その後、古田順子さんをコンクリート詰めにしたドラム缶を海に投棄するため車を走らせました。しかし、江東区にある若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせましたが海に到着する前に、自分たちがしている行動が恐くなってしまいました。

そして若洲海浜公園整備工場現場空き地に死体をコンクリート詰めにしたドラム缶を捨てて逃げ出してしまいました。

 

逮捕の経緯

引用: Pixabay

こうして捨てられたドラム缶は1989年3月29日に発見されました。

ドラム缶の中から被害者の古田順子さんのの遺体が発見されたことで事件が発覚しました。別の強姦事件やひったくり事件の容疑で逮捕されていた宮野裕史と小倉譲の余罪について取り調べたところ、この事件にも関与していたことがわかりました。

供述した通りの江東区若洲の埋め立て地で発見したドラム缶の中から古田順子さんの遺体を発見しました。その翌日の30日に宮野裕史と小倉譲の2人を殺人・死体遺棄容疑で逮捕しました。

発見された古田順子さんの遺体が来ていた衣服は少年らが監禁中に着せたものであったことと腐敗が進んでおり、古田順子さんの家族も身元を確認には時間がかかりました。監禁を行なった犯行現場である、湊伸治の自宅を現場検証しました。

古田順子さんの死体が入ったコンクリート詰めのドラム缶は重さ計300kgあったことから2, 3人で持ち運べる重さではなかったため多人数でワゴン車やトラックなどの車を使って遺棄したとみて捜査しました。湊伸治の自宅の玄関脇の電柱から2階の部屋に出入りする少年たちのすがたや家のベランダに脚立が置いてあるのが目撃されていました。

こうした現場検証などから事件に関与した少年ら4人を逮捕しました。

1988年から1989年に渡る40日間古田順子さんを監禁した理由について、「警察に捕まるのが怖かったから」としか供述していませんでした。

こうして少年らは逮捕されることになりこの女子高生コンクリート詰め事件は幕を下ろしました。ではこのような事件を起こした加害者の少年達はどのような判決が下ったのでしょうか?

詳しく見ていきましょう。

 

加害者少年達の判決は?

引用: Pixabay

女子高生コンクリート詰め殺人事件は日本での少年犯罪史上最も残虐と言われました。

先ほど紹介したような残忍な行為を行なった末に古田順子を殺害した少年達は裁判でどのような判決を言い渡されたのでしょうか?

世間ではこの事件を引き起こした少年達には軽すぎる判決が言い渡されたと物議を醸しました。

事件があった1989年から始まった第一審から1992年に渡邊恭史の上告棄却決定まで4年間にも渡って加害者少年ら4人に対する裁判が開かれました。

犯行に及んだ各少年らにはどのような判決が言い渡されたのか詳しく紹介していきます。

 

宮野祐史に対する判決

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はじめに古田順子さんを誘拐し、監禁をしたリーダー格にあたり、数々の暴力、挙げ句の果てにコンクリート詰めにした宮野祐史に対しては検察側は無期懲役を求刑しました。

宮野祐史には「この事件の犯行の発端を作り、主導したその罪は大きく、刑事責任は重い」として懲役20年を言い渡しました。やはり事件の主導を行ない事件を引き起こした宮野祐史には一番重い刑が言い渡されたそうです。

はじめの誘拐計画やコンクリートの調達などやはり宮野祐史の関与はとても大きかったと言えるのではないでしょうか。

 

小倉譲に対する判決

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今回の女子高生コンクリート詰め事件のサブリーダーにあたるサブリーダー小倉譲に対しては懲役13年を求刑しました。

小倉譲への判決内容は「サブリーダー的存在で宮野の指示に従って犯行をすることもあったが、自分の意思で被害者に暴行を加えたこともあった」として、懲役5年以上10年以下を言い渡しました。リーダーであった宮野祐史に比べて刑期は短いもののやはり事件にはじめから関与していたことからも刑期は重くなったものとみられます。

 

湊伸治に対する判決

 

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女子高生コンクリート詰め事件の監禁場所となった自宅を提供した湊伸治に対しては懲役5年以上10年以下の不定期刑を求刑されました。

監禁場所を提供しただけではなく自ら暴行を加えていたこともあり懲役5年以上9年以下の不定期刑が言い渡されました。

筆者としては先述の2人に比べて罪が軽くなっていることに違和感を覚えざるを得ない判決になったと感じました。

 

渡邊恭史に対する判決

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渡邊恭史に対しては宮野祐史に従って行動していたとして懲役5年以上10年以下の刑を求刑しました。

宮野らに付き従い、指示にしたがって被害者に暴行を加えていた渡邊恭史の判決は、懲役3年以上4年以下の不定期刑でした。

渡邊恭史に対する判決に対しても少し罪が軽すぎると感じる人も多いのではないでしょうか。

 

これらの判決に対する世間の声

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日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件を引き起こした少年らへの言い渡された判決に対して世間の人たちはどのような反応を示したのでしょうか。

詳しく紹介していきます。

識者の小田晋(当時・筑波大学精神衛生学教授)は「少年らは心身ともに成熟が早まってきている。少年犯罪を未然に防ぐためにも扱いを変えるべきで、重大事件では厳しく処罰すべきだ。今回の事件は、親も含めて(加害者らを)すべて実名で報道すべきだろう」とコメントしました。

実際にこの少年らの実名報道を求める声はとても多く上がりました。少年法の規定により未成年者の犯罪に対しては実名で報道されることはありませんがこの事件の残虐性からか実名報道をしろという世間の声が強まりました。

さらには被害者であった古田順子さんの実名、顔写真、住所までが新聞で報道されたのにも関わらず、加害者の少年らは実名も顔写真も報道されないのは殺された被害者の人権が無視されている。加害者の人権ばかりが尊重されているのおかしいといった声も上がりました。

求刑についても事件発覚当初から「極刑に処すべき」だといった声が多く上がりました。そのため先ほど紹介した判決に対して批判が集まりました。やはりこれだけの残虐な女子高生コンクリート詰め殺人事件を起こした少年に対して言い渡された判決は軽すぎたのでしょうか。

次に日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件を引き起こした少年たちがいったいどんな人物だったのかを詳しくみていきましょう。

 

加害者たちの現在は?【女子高生コンクリート詰め殺人事件】

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日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件を引き起こした少年たちはどのような人物だったのでしょうか。

この事件の残虐性からも世間からの注目を集めた加害者である4人の生い立ち、から現在まで詳しく紹介していきます。

 

【加害者1】宮野祐史

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はじめに詳しくみていくのは女子高生コンクリート詰め殺人事件のリーダーとも言える宮野祐史です。

宮野祐史は事件の発端となる事故を計画した張本人であり、監禁の指示や暴行の指示、さらにはコンクリート詰めの計画、コンクリート調達などを行いました。そんな宮野祐史に対して言い渡された判決も4人の中でももっとも重く懲役20年が言い渡されました。

そんな宮野祐史はどのような生い立ちがあるのでしょうか。詳しく紹介していきます。

 

【加害者1】宮野祐史の生い立ち

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女子高生コンクリート詰め殺人事件のリーダーとも言われた宮野祐史は昭和45年4月30日に東京都葛飾区で生まれました。

両親と妹の4人家族で育ちました。父親は証券会社に勤務していたそうで、母親はピアノの先生だったようです。一見普通の家族のように見えますが実は家庭が崩壊していたと言われています。父親は愛人の家に住むなど夫婦仲に問題があったそうです。

小学生の頃からいわゆる問題児と呼ばれる子供だったそうです。喧嘩や万引きなどの問題行動を犯していて少年院に入っていた経験もあるそうです。その当時の夢は少年院の院長になるというものだったそうです。

中学に入ってからは柔道部に入りました。身長は160cmほどで特に恵まれた体格ではありませんでしたが練習に真面目に取り組み、各大会で成績を残すほどの選手だったそうです。高校にも柔道の推薦で入学していたそうです。

 

【加害者1】宮野祐史の事件時

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問題児だった小学生時代、真面目に柔道に取り組んだ中学時代を過ごした宮野祐史ですが高校に入って一転してしまいました。

入学した高校の柔道部でひどい体罰を受けるようになりその反動からか問題行動をするようになります。その後高校を中退し落ち着きを取り戻しました。タイル工として就職をして働き始めました。

しかしある日、暴力団員と知り合ったことをきっかけに暴力団が関係する花屋で働くことになりました。宮野祐史はそ子を辞めるに辞められず、ストレスから逃れるためにシンナーに染まっていきました。ストレスから逃れる方法がシンナーと強姦になっていってしまいました。

そうしてあの女子高生コンクリート詰め殺人事件を引き起こすことになってしまったのです。

 

【加害者1】宮野祐史の現在

引用: Pixabay

そんな宮野祐史は現在どのようにしているのでしょうか。

判決時に言い渡された刑期は20年で2009年に出所した後、養子縁組によって「横山」という名前に変えたそうです。

しかし更生することもなく3年半後の2013年1月、振り込め詐欺の容疑で逮捕されてしまいました。

 

【加害者2】小倉譲


次に詳しくみていくのは女子高生コンクリート詰め殺人事件のサブリーダーとも言える小倉譲です。

小倉譲は宮野祐史の一年後輩に当たる少年でした。宮野祐史の指示にしたがったり、自らの意思で暴行などを加えました。そんな小倉譲に対して言い渡された判決は懲役5年以上10年以下でした。

そんなは小倉譲どのような生い立ちがあるのでしょうか。詳しく紹介していきます。

 

【加害者2】小倉譲の生い立ち

引用: Pixabay

小倉譲は昭和46年5月11日に生まれて両親と姉の4人家族でした。

しかし小倉譲が小学校3年生だったときに両親が離婚したそうです。その後は母親に引き取られ片親で育てられたそうです。

小学校、中学校と特に目立った問題行動はなかったと言われていますがスキーをしていたこともあり、怪我によりスキーで活躍できなくなったことで問題行動に走ってしまったとも言われています。

 

【加害者2】小倉譲の事件時

引用: Pixabay

高校は都内の私立高校に入学したものの、次第に怠学が多くなり、除籍処分とされてしまいます。

その後電工見習いとして働いた後、定時制の高校に入学しましたが長期欠席が続いていた状態であったと言われています。そんな中女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与していったものと言われています。

 

【加害者2】小倉譲の現在

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そんな小倉譲は現在どのようにしているのでしょうか。

小倉譲は1999年に刑期満了で出所しました。こちらも養子縁組によって「神作」という苗字に改名したそうです。小倉譲は刑期中にパソコンのスキルを習得して、出所後はIT関連の仕事をしていたそうです。しかし前科が知られてしまい退職を余儀なくされてしまいました。その後は暴力団の構成員になったそうです。

そんな小倉譲ですが、彼もまた再犯で逮捕されてしまいます。出所から5年後の2004年にあの事件を彷彿とさせる騒動を起こしてしまいます。

女性関係で知人に因縁をつけて車のトランクに押し込み、誘拐し、母親の経営するスナックで5時間にわたって監禁、暴行を行なったことで逮捕されてしまいます。逮捕監禁致傷で懲役4年の実刑判決を受けました。現在は出所しているそうです。

 

【加害者3】湊伸治

 

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次に紹介するのは女子高生コンクリート詰め殺人事件の監禁場所を提供した湊伸治です。

湊伸治は小倉譲と同様に宮野祐史の指示にしたがったり、自らの意思で暴行などを加えました。そんなに湊伸治対して言い渡された判決は懲役5年以上9年以下でした。

そんなは湊伸治どのような生い立ちがあるのでしょうか。詳しく紹介していきます。

 

【加害者3】湊伸治の生い立ち

引用: Pixabay

湊伸治は1972年12月16日に東京都足立区で生まれました。

両親と兄の4人暮らしだったそうです。女子高生コンクリート詰め殺人事件の監禁場所となったのもこの4人が暮らす足立区綾瀬の自宅でした。父親は共産党員で職業は診療所経営者で薬剤師だったそうです。

父親は家庭内で暴力を振るうことが多く兄や湊伸治はしばしば暴力を受けていたそうです。証言によると週に1度は必ず殴られたり、決められた仕事をサボった際には夜中でも叩き起こされて暴力を振るわれたそうです。母親は同じく共産党員で夫の経営する診療所で看護師をしていたそうです。

兄は女子高生コンクリート詰め殺人事件を起こしたメンバーの1人と中学の同級生だったそうです。古田順子さんに食事を運んでいたのがこの兄であったという証言もありました。しかしこの兄は逮捕されることはありませんでした。

湊伸治本人は暴力を振るう父親とそれを黙認していた母親に育てられました。足立区の学習院と呼ばれる地元の名門中学校に通っていたそうです。バスケットボール部だったそうですが顧問の体罰の影響で退部していたそうです。高校は工業高校に進学しました。

しかし一年生の二学期には校内で暴力を振るったことによって退学したと言われています。

 

【加害者3】湊伸治の事件時

引用: Pixabay

事件時の湊伸治はすでに高校を退学していたものとみられます。

格闘技マニアだったと言われており家庭内暴力を行なっていたとの噂もありました。湊伸治の女子高生コンクリート詰め殺人事件の監禁場所となった自宅は普段から不良の溜まり場となっていたそうです。女子高生コンクリート詰め殺人事件が発覚した時には湊伸治は別の女性への暴行事件と窃盗事件ですでに少年院に入っていたそうです。

自宅が監禁場所になっていたことを知り、一時は古田順子さんを家へ帰そうとした両親でしたがなんと事件が発覚した際には警察の自宅への家宅捜査を拒んでいたとの情報もあります。

両親が共産党員の幹部であったことからも調査が遅れてしまった原因になったとも言われています。事件が発覚した後も湊伸治の母親は古田順子さんは自らの意思で家にとど待っていたなどと発言し、息子である湊伸治の犯罪をやめさせなかったことを正当化しようとしたりしました。

このような両親の行動からもこの事件の後は共産党の評判が一時下がっていたとも言われています。

 

【加害者3】湊伸治の現在

引用: Pixabay

そんな湊伸治は事件後、懲役4年以上6年以下の不定期刑の判決になりました。

湊伸治はの出所は報道こそされませんでしたが1997年には確実に出所していたそうです。出所後はムエタイのジムに通っていたそうです。その後湊伸治はムエタイの選手としてデビューしていたとも言われています。

ムエタイの選手としてデビューしたのが地元であったことから、お客さんのほとんどは女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人であったことを知っていたことから、「コンクリ」というあだ名で呼ばれていたそうです。

そんな湊伸治は2018年に再び事件を起こしてしまいました。事件は駐車場に関するトラブルが原因でした。口論になり、湊伸治が自家用車から警棒とナイフを取り出し、32歳男性の右肩を殴ったうえ首を折りたたみ式ナイフで刺したというものでした。

湊伸治は出所後、近所トラブルが絶えず近隣住民からも恐れられていたそうです。やはり湊伸治は更生することができなかったと言えるのではないでしょうか。

 

【加害者4】渡邊恭史


最後に紹介するのは女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与した渡邊恭史です。

渡邊恭史の小倉譲や湊伸治と同様に宮野祐史の指示にしたがったり、自らの意思で暴行などを加えました。そんなに湊伸治対して言い渡された判決は懲役3年以上4年以下の不定期刑でした。

そんな渡邊恭史はどのような生い立ちなのでしょうか。詳しく紹介していきます。

 

【加害者4】渡邊恭史の生い立ち

引用: Pixabay

女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者での4人目である渡邊恭史は1971年12月18日に生まれました。

他の3人とは対照的に内気な性格であったと言われています。両親と姉の3人家族だったそうです。しかし離婚を機に姉と共に母親の手で育てられたそうです。高校は都立の工業高校の定時制に入学したものの一週間程度で学校に行かなくなりその後退学したそうです。

その後何箇所かで就労した経験はあるものの長くは続かなかったそうです。

 

【加害者4】渡邊恭史の事件時

引用: Pixabay

渡邊恭史は事件時、女子高生コンクリート詰め殺人事件の監禁場所になっていた湊伸治の家の二階である溜まり場に入り浸るようになっていたそうです。

この被害者4人に共通して言えることはどの人も家庭に問題があり、高校を中退していたことが挙げられるのではないでしょうか。

 

【加害者4】渡邊恭史の現在

引用: Pixabay

渡邊恭史は懲役3年以上4年以下の不定期刑を言い渡され、その後出所していますが詳細な情報はありませんでした。

噂では精神病を患っているとの情報もありましたが定かではありませんでした。しかし情報がないのには理由があります。それは犯人の4人のうち渡邊恭史だけが再犯を犯していないということです。

再犯を犯してしまった3人は再び報道されることになったため多くの情報があったともいうことができるのではないでしょうか。

いかがだったでしょうか。世間を驚愕させた日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人たちの生い立ちや家族の過去について詳しくみていきました。

犯人4人にとも家庭に問題があったり、暴力を受けていたりすることから家庭環境が子供に与える影響がとても大きいことが見えてくるのではないでしょうか。

女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人について見てきましたが、女子高生コンクリート詰め殺人事件のとばっちりを受けてしまった芸能人がいたことはご存知でしょうか?

そんなとばっちりを受けてしまった2人を紹介していきます。

 

とばっちりを受けてしまった芸能人

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世間を驚愕させた日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件はその話題性から多くの人に影響を与えたと言われています。

そんな中でも実は犯行に関与していたのではないかと、とばっちりを受けてしまった芸能人を紹介していきます。

 

まつりあげられたスマイリーキクチ

 

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スマイリーキクチさんはバラエティ番組やドラマで活躍していたお笑いタレントです。

スマイリーキクチさんは事件との関係はまったくなかったのですが女子高生コンクリート詰め殺人事件に関与していたとまつり挙げられてしまいました。その中傷事件は「スマイリーキクチ中傷被害事件」と呼ばれています。スマイリーキクチさんの誹謗中傷が始まったのは事件から10年後でした。

その当時名前を伏せられていた犯人を糾弾した世間の考えからネット上で犯人を作り挙げようという動きがありました。その標的にされてしまったのがスマイリーキクチさんでした。

スマイリーキクチさんは事件当時高校生で犯人たちと同世代であったこと、出身が事件のあった足立区であったこと、スマイリーキクチさんは高校時代グレていて不良であったことからその標的になってしまったそうです。

スマイリーキクチさんが身の危険を感じて警察に相談したことでネット上誹謗中傷した人たちが検挙されることになりました。スマイリーキクチさんがまつり挙げられてから収束するまでおよそ9年間もかかってしまったそうです。

さらにこの女子高生コンクリート詰め殺人事件にとばっちりを受けてしまった芸能人はもう1人いました。

 

とばっちりを受けた飯島愛

 

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もう1人の女子高生コンクリート詰め殺人事件のとばっちりを受けてしまった芸能人は飯島愛さんです。

飯島愛さんは数々のバラエティ番組に引っ張りだこだった人気タレントでした。そんな飯島愛さんは突然の芸能界引退をして、その後自宅で死亡していたのが発見されました。その引退理由や死亡理由には様々な憶測が飛び交いました。

女子高生コンクリート詰め殺人事件の主犯格であった少年と事件当時同棲していたなどの情報が流されたためだと言われています。

本人が亡くなってしまった今、その真相は謎に包まれています。しかし突然の引退が女子高生コンクリート詰め殺人事件の主犯格の少年の出所時期と関連があったと言われているため、何らかの影響を受けてしまったのではないかと言われています。

このように関係が定かでない人にまで影響を与えてしまうことからもこの事件の世間へ与えた影響がうかがえるといえるのではないでしょうか。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件が題材となった作品がある?

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日本史上最も残酷と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件は世間へ与えた影響が大きかったことからも多くの映画や小説の題材になりました。

そんな女子高生コンクリート詰め殺人事件が題材になった作品を紹介していきます。

 

映画「コンクリート」

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この映画は女子高生コンクリート詰め殺人事件をテーマに描かれたノンフィクション小説『十七歳、悪の履歴書』が映画化したものです。

内容もまさに女子高生コンクリート詰め殺人事件を描いたものでこの作品はR-15指定の作品として公開されました。公開に当たり、題材になった女子高生コンクリート詰め殺人事件の残虐性から「映画にする必要があるのか」などとネット上で物議を醸しました。

劇場に上映反対の意見が多数届くなどこちらの映画はとても話題を呼ぶことになり有名な作品になりました。

 

映画「少年の犯罪」

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この映画は1997年に公開されました。

女子高生コンクリート詰め殺人事件を忠実に再現したとして衝撃の問題作と言われました。この映画は先ほど紹介した「コンクリート」よりも前に制作されましたが、それほど話題になることはありませんでした。この映画もR-15指定になっています。

そのほかにも女子高生コンクリート詰め殺人事件が題材になった映画や小説があります。この事件に興味を持った方は見てみるとより事件について知ることができるのではないでしょうか。

 

女子高生コンクリート詰め殺人事件闇が深すぎる。

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いかがだったでしょうか。

世間を驚愕させた日本での少年犯罪史上最も残虐と言われた女子高生コンクリート詰め殺人事件について紹介してきました。その犯行は未成年のものとは思えないほど残忍であったことが世間を騒がせた要因となったのではないでしょうか。

犯人である少年たちの生い立ちや家庭環境からわかるように、教育や家庭が子供に与える影響はとても大きいものであるということができるのではないでしょうか。

この事件は犯人が未成年であったことから極刑の判決が言い渡されなかったことで物議を醸しました。被害者の古田順子さんの名前は公表されるのにも関わらず、加害者の名前は少年法に守られ、公表されなかったことで世間から少年法のあり方を指摘されることもありました。

このことからわかるように女子高生コンクリート詰め殺人事件が世間に与えたインパクトはとてつもないものであったことがわかるのではないでしょうか。

2度とこのような残虐な事件が起きないことを祈るばかりです。

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