永田洋子の生い立ち・経歴!山岳ベース事件に参加するまでの経緯まとめ

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永田洋子の生い立ち


山岳ベース事件の主導的役割を果たした連合赤軍幹部の永田洋子とは一体どのような人物だったのでしょうか。

まずは、永田洋子の生い立ちから見ていきましょう。

 

「学」のある優秀な永田洋子だった



日本のテロリストで新左翼活動家・連合赤軍中央委員会副委員長として名を馳せた永田洋子(ながたひろこ)は、1945年2月8日東京都本郷区元町(現・文京区本郷)で産声をあげました。

生後2か月だった永田洋子は、横浜市港北区綱島に疎開。小学校4年生まで父が勤めていた電気会社の寮で生活していたそうです。

母親は看護婦長を務めていたそうで、この事から経済的に困窮した家庭でもなく、永田洋子は非常に恵まれた環境庭で育ったようでした。

調布中学校と調布高等学校(現・田園調布学園中等部・高等部)を経て、1963年共立薬科大学薬学部(現・慶応義塾大学薬学部)に入学した永田洋子。

小学生時代から成績優秀だった永田洋子は、高学年になった時にはトップに君臨していて高校生時代もその座をキープしていたそうです。

1967年に同大学を卒業した永田洋子は、研究生となって大学の薬局で無給で医局員を務めていたそうで、その後、東京都品川区にあった山水会病院や済生会病院に薬剤師として勤務する事になったのです。

 

学生運動に語るようになった永田洋子


 

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その後、大学在学中に共産主義者同盟「マルクス・レーニン主義派」の社学同盟ML派の活動に参加するようになった永田洋子でしたが、その事を機に人生が変わる事となっていきます。

その後、1967年5月~6月に参加していた縁から社学同ML派・元幹部だった河北三男と、社学同ML派議長を務めていた川島豪が立ちあげた分派「警鐘」の構成員としての勧誘をうけるようになったのです。

以後、構成員として本格的に運動に参加するようになった永田洋子は、女性解放問題やボーナス団体交渉などの労動働運にも積極的に関っていくようになりました。

一艇の成果を挙げていくようになった永田洋子は、その後、組織からの指示があった事に加え、自身の希望も重なって薬剤師の職を辞することに。

永田洋子は、革命家として一気に目覚めていくことになったのです。

 

同志だった坂口弘と事実婚した永田洋子

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25歳のときに、革命左派・京浜安保共闘のメンバーだった坂口弘(さかぐちひろし)と「事実婚」をした永田洋子。

当時、一緒に活動していた坂口弘に魅了されてしまった永田洋子は、坂口弘の気持ちを引き付けるため、活動にも積極的に参加するようになったそうでした。

その後、赤軍派と「連合赤軍」を立ち上げる中で、連合赤軍中央委員会委員長だった森恒夫(もりつねお)に好意を抱いてしまった永田洋子は、坂口弘から森恒夫に寝がえり「事実婚関係」になってしまったのです。

実は、永田洋子は好きになった男性に非常に流されやすいといった「女っぽい」面々があったそうでした。

「相手の考え方」を全て受け入れていたという永田洋子でしたが、「山岳ベース事件」は、その未熟な人間的資質により引き起こされた事件であったことは間違いなかったのでしょう。

 

永田洋子の経歴【~連合赤軍参加まで】

これから永田洋子が連合赤軍参加までの経緯をご紹介していきます。

 

三里塚闘争に参加した永田洋子

 

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三里塚闘争とは、千葉県成田市の農村地区だった三里塚とその周辺で継続して発生していた「新東京国際空港(現・成田国際空港)」建設反対運動の総称になります。別名・成田闘争ともいわれていた三里塚闘争でした。

三里塚闘争は、そもそも地元農民たちが行っていた運動だったのですが、各セクトが共闘したため、さらに過激さが増すことになったのです。

農民らは共に闘ってくれる学生たちに感謝しつつも、一方で学生たちの「自己目的化」してしまった行動に複雑な気持ちになった人たちもいたようでした。

立ち退かない農民らを強制的に排除しようとしたことに対し、怒り狂った学生たちが3人の機動隊員をメッタ打ちにして殺害までしてしまったことから、農民たちの目には、単なる「セクト間での主導権争い」にしか見えなかったのです。

 

日本共産党(左派)・神奈川県委員会を経て京浜安保共闘メンバーに

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三里塚闘争での活動を経て、日本共産党を除名された「警鐘」のメンバーとなった永田洋子。

1963年に結成された日本の新左翼党派のひとつだった、革命左派・京浜安保共闘(けいひんあんぽきょうとう)に所属していた石井功子・川島陽子と共に「京浜安保のおんな3戦士」と呼ばれることに。

当時、「警鐘」や川島グループの活動家としては有力メンバーとみなされていなかった「京浜安保のおんな3戦士」でしたが、1969年の4月の革命左派結成時にようやく正式党員として認められたのです。

 

新左翼活動家・川島豪議長逮捕後に獄外指導部のメンバーに

引用: Pixabay

1969年末、川島豪議長が逮捕された事によって永田洋子の運命が大きく変わる事になります。

獄外指導部のメンバーに選ばれた永田洋子でしたが、1970年9月に指導部の投票により最高指導者への階段を駆け上る事に。

そして、永田洋子は自分より目上だった石井功子や川島陽子を地方に追いやって自ら組織を牛耳るようになったのです。

実は、投票について裏話があったようでした。最高指導者と言う重責を担うことを危惧した他のメンバーたちが、身軽だった永田洋子に「白羽の矢」を立てることでその重責から逃げようとしていただけだったのです。

なので、永田洋子は単に「棚ぼた」で最高指導者に就任しただけのことに過ぎなかったようでした。

 

永田洋子が「指導部の最高責任者」として関与した事件とは?


永田洋子が最高責任者になってから勃発した事件の概要を紹介します。

1970・12・18「赤塚交番襲撃事件」

当日の午前1時頃、革命左派・京浜安保共闘メンバーだった柴野春彦(享年24)・渡辺正則・佐藤隆信の3名が銃奪取目的で板橋区の志村警察署上赤塚交番を襲撃しました。

3人は、ゴムホース入り鉛パイプ・切り出し小刀・千枚通しを武器に交番内にいた巡査に襲いかかったのです。

襲撃メンバーの柴野春彦が、刃物を持って警察官に向かって行ったため警察官が警告して2発発射。このことにより柴野春彦が死亡してしまいました。

日本の左翼活動家が警察官の発砲により死亡した初のケースだったのです。

 

1971・2・17「真岡銃砲店襲撃事件」

「上赤塚交番襲撃事件」で、銃奪取に失敗した革命左派・京浜安保共闘は、標的を交番から「銃砲店」に移し、翌年の2月に「真岡銃砲店襲撃事件」を起こすことになります。

実行前には、狩猟中のハンターから銃を奪う計画もされ調査されていましたが、最終的に民間銃砲店にターゲットを絞った革命左派・京浜安保共闘。

革命左派・京浜安保共闘メンバーからは、民間人を襲撃する事に疑問を投げかける声もあったようでしたが、「銃砲店は警察権力と一体化」していると正当化されてしまいました。

その襲撃メンバーには、獄外指導部の最高指導者の坂口弘がいましたが、内縁の妻だった永田洋子に反対されて実行直前に他のメンバーと交代させられたのです。

決行は、午前2時半頃だったそうでした。電報配達を装ったメンバーに反応した店主が勝手口の戸を開けたところ、革命左派・京浜安保京共闘メンバー6人が乱入。

そして、一家4人を縛って銃10丁(散弾銃9・ライフル1)・空気銃1丁・銃弾2300発を強奪してしまったのです。

これにより、死者は出なかったものの、店主が全治2週間の重傷を負い、妻は襲撃の恐怖から「勝手場に行くのが怖い」と怯えるようになったそうでした。

 

革命左派・京浜安保共闘「指名手配」

引用: Pixabay

ただちに警察による捜査網が配備され、逃走してゴミ箱に潜んでいた2名が逮捕され、犯行メンバーや永田洋子・坂口弘といった獄外指導部メンバーらは、網の目を潜るように逃走し続けて指名手配されることとなっていきます。

これにより2ヶ月間潜伏していた札幌市を離れ、夫・坂口の提案で山岳をアジトにする事を決めた永田洋子。

そして、永田洋子は当初の「最高指導者奪還」という目的から、銃を軸にした「武力闘争」という過激な思想に変化してしまったのです。

  • 二つの組織の接点が浮き彫りになった

銃砲店襲撃で強奪した猟銃の一部は、赤軍派に「相互協力」を名目に金銭と交換されてしまい、1971年に起きた赤軍派による「M作戦」や、1971年7月に鳥取県米子市で発生した「松江相銀米子支店強奪事件」にもこの銃が使用されてしまったのでした。

革命左派・京浜安保共闘メンバーが強奪した銃を、使用していた赤軍派メンバーが逮捕された事により、革命左派・京浜安保共闘と赤軍派の「接近」が警察に知られる事となってしまいました。

なお、革命左派・京浜安保共闘と連合赤軍による「あさま山荘事件」の立てこもりの際にもこの銃が使用されていました。

 

1971年に赤軍派が起こしたM作戦とは?

引用: Pixabay

赤軍派は、銃を手にしたことによって、革命とはほぼ無関係だった事にまで悪事を重ねていくようになりました。

万引き・空き巣・路上強盗など、金融機関を対象に悪事を行っていた赤軍派でしたが、京浜安保共闘から銃を分けてもらわなければ、このような事件を起こすことがなかったのかもしれません。

赤軍派の森恒夫は、郵便局・銀行などの金融機関、小学校を襲撃して金銭を奪う「M作戦」を思いついて遂に実行に移してしまったのです。

日本全国合計8カ所の金融機関から1300万超の大金を強奪してしまったのでした。

米子で実行犯が逮捕されたことによって、押収された銃が京浜安保共闘が銃砲店から強奪した銃と判明したため、「赤軍派」と「京浜安保共闘」が密な関係にあった事が警察当局に完全にバレてしまったのです。

 

「共産主義同盟赤軍派」との連携を遂行していた永田洋子

引用: Pixabay

獄中の川島豪の意向を受けた革命左派「京浜安保共闘」は、日本共産党革命左派「赤軍派」と連絡を取り合うようになりなっていきます。

そして、「京浜安保共闘」の坂口弘が赤軍派の森恒夫に新党結成を持ちかけるまでになっていたのでしたが、その事に逆提案してきた赤軍派の森恒夫は、「当面、新党は無理なので、共闘を考えよう」と返答するに至ったのです。

その後、小袖ベースで党史の交換が行われたのでしたが、その話し合いに京浜安保共闘の坂東國男も「ばかばかしくなってしまった」と口走っていたのです。

理由は、森恒夫とは全く話がかみ合わなかったからでした。永田洋子同様に、よくわからないままでいたようです。

それでも、一先ず、「軍事的共闘」と言う点で一致したため、「統一赤軍」が誕生する運びになったのでした。

実は、話し合いの際に森恒夫は、「統一赤軍を両派の軍を統合したものではなく、それぞれの殲滅線の調査や作戦計画はお互いに検討しあうことを提起していたそうです。

その事を聞かされた革命左派の永田洋子とメンバーたちは、森恒夫の真意を知らぬまま流されていったのでしたが、会議終了後、森恒夫は赤軍派・青砥幹夫に真っ先に「革命左派をオルグしてきたぞ!」と満足そうな表情で報告していたのです。

反米愛国路線が持ち込まれておらず、完全に赤軍派の術中にハマってしまっていた革命左派だったのでした。

そうとは知らず、永田洋子らは革命左派獄外指導者として、獄中にいた川島豪に絶縁宣言をしてしまいました。

そして、永田洋子は、連合赤軍」で新左翼活動家・連合赤軍中央委員会委員長だった森恒夫に次ぐ、実質ナンバー2にのし上がっていくこととなります。

 

山岳ベース事件の言動力となってしまった1971・8印旛沼事件」

引用: Pixabay

坂口弘と永田洋子率いる革命左派・京浜安保共闘は、連合赤軍結成以前に「山岳ベース」を構築して射撃訓練を行っていました。

しかし、この年の8月になってメンバーだった向山茂徳と佐岐やす子が脱走を図ったため、活動を警察に漏れる事を避けるために「防衛組織を守るため」とし、この2人を殺害してしまいました。

また、総括を決めた他の理由に、向山茂徳が永田洋子の実名を記した小説を書いていたと言うこと、次に早岐やす子が山での生活のことを友人に言い回っていたことを聞きつけたからでした。

女性メンバーたちの酒盛りを口実に佐岐やす子を連れ出し、元薬剤師だった永田洋子が睡眠薬入りの飲み物を作り眠らせた後、車に乗せ「印旛沼」付近に連れ出して絞殺してしまったのです。

  • 次のターゲットは向山茂徳

それから1週間後、同様に逃走を図った向山茂徳を呼び出したのですが、警戒して飲み食いを一切しなかった向山茂徳。

向山茂徳が早々に切り上げようとしていたため、「処刑執行役メンバー」全員で向山茂徳を押さえつけてタオルで絞殺してしまいました。

そして、殺害された2人は印旛沼に掘られた穴に埋められてしまったそうです。この事件に関して永田洋子は、「中核派ですら内ゲバ(暴力)で人を殺しているんだから」などと合理化していたのでした。

実行犯だった寺岡から2人の殺害報告を受けた永田洋子はうろたえることなく、「他の組織でも裏切り者は殺している」と殺人を正当化したそうです。

このメンバー2人の殺害を機に今まで外に向けられていた暴力性が、仲間だったはずの同志にまで向けられていくようになっていったのです。

 

永田洋子が山岳ベースに参加するまでの経緯


では、これから永田洋子が山岳ベースに携わった経緯を解説していきます。

 

1968年「全学共闘」誕生


1968年から1969年にかけて特定の政党・思想に影響を受けていない学生たちで構成されたのが「全学共闘」。

気軽に誰でも参加でき、フランクな印象があったため、党派や学部などを超えたうねりになり、その影響は全国の大学まで及んでいく事となったのです。

 

1969年「京浜安保共闘」誕生


この年、毛沢東の思想に染められた過激派組織・革命左派「京浜安保共闘」が誕生する事となります。

しかし、組織の代表だった河北三男が大阪へ拠点を移したため、「警鐘」の創設者だった川島豪が革命左派・京浜安保共闘の実質的主導者におさまることになりました。

この川島豪、「革命は銃から生まれる」という思想を掲げていたのですが、この思想が永田洋子に大きな影響を及ぼすことになってしまったのは言うまでもありませんでした。

 

山岳ベース事件概要


山岳ベース事件とは、「あさま山荘事件」前に起こったリンチ殺人事件で、1971年~72年にかけ群馬・長野両県の山岳を舞台に発生しました。

永田洋子や坂口弘属する「左派・京浜安保共闘」と森恒夫が所属する「赤軍派」が統一し生まれた「連合赤軍」が起こした凶悪事件だったのです。

同志12名を壮絶なリンチの末殺害してしまったという痛ましい事件に世間が震撼。

山岳ベース事件後に起こったあさま山荘事件では、世間では暴動を起こした学生たちにいくらか同情する人たちもいたようなのでしたが、山岳ベース事件の詳細が明らかになっていくにつれ、人々の同情も薄れていくことになったのです。

森田恒夫と永田洋子を追及していくにつれ「山岳ベース事件」の詳細が明らかになっていきます。

あさま山荘事件の前に、すでに同志によって12人の命が奪われていた事に、当時の警察庁長官・後藤田正晴が「君・・そんな馬鹿な・・・」と絶句したそうでした。

榛名山に結集していたメンバー29人中12人が殺害されていた事実にただただ驚愕していたのです。

それを機に、それまで加熱していた反体制派の暴動運動の熱は一気に冷めていく事となったのです。

 

「山岳ベース事件」始動開始

引用: Pixabay

数々の爆弾事件や銃砲店襲撃事件によって指名手配を受けていた京浜安保共闘メンバーは、全国のアジトを転々とし逃亡生活を行っていました。

そんな中、奥多摩で活路を見いだした京浜安保共闘は、その場所で軍事訓練を兼ねてキャンプを張ることにしました。

赤軍派より先に山に入って生活をしていた京浜安保共闘メンバー。アジトを転々としていた緊張感から解き放たれたメンバーたちの表情は久々に明るいものだったそうです。

永田洋子とその他メンバーたちは、ここで子どもを産み育てる計画まで立てていたそうでした。

しかし、ここで深刻な問題が浮き彫りになってきたのです。

 

「山岳ベース事件の発端」京浜安保共闘と赤軍派の思想には大きな相違があった

引用: Pixabay

永田洋子や坂口弘率いる京浜安保共闘は、山を軍事特訓の場だと考えていた以外に「生活の場」と考えていました。

一方、赤軍派にとって山はあくまでも「訓練の場」であり、訓練が終わったら街へ戻るという認識でいたのです。

そもそも双方の考え方に大きな違いがあったわけでしたが、この事が後に起こる「山岳ベース事件」の誘因になったといっても過言ではなかったようでした。

 

「赤軍派・京浜安保共闘」合同軍事特訓のスタート

引用: Pixabay

1971年12月3日、「赤軍派」の新倉ベースで「赤軍派・京浜安保共闘」それぞれ9人計18人のメンバーで軍事訓練のために共同生活がスタートしました。

赤軍派

  • 森恒夫
  • 坂東國男
  • 植垣康博
  • 山田孝
  • 進藤隆三郎
  • 山崎順
  • 青砥幹夫
  • 行方正時
  • 遠山美枝子

京浜安保共闘

  • 永田洋子
  • 坂口弘
  • 寺岡恒一
  • 吉野雅邦
  • 金子みちよ
  • 大槻節子
  • 杉崎ミサ子
  • 岩田平治
  • 前沢虎義

ベース建設に適した新倉を見つけた植垣ら、「赤軍派」メンバーをただの登山好きな学生さんと思いこんでしまった地元住人は、植垣らにあっさりと土地を提供してしまったのでした。

 

山岳ベース事件の始まりを意味した「水筒事件」

引用: Pixabay

赤軍派の森恒夫の命令を受けて、京浜安保共闘のメンバーらを迎えに行った植垣康博。到着すると、京浜安保共闘のメンバー・大槻節子と杉崎ミサ子が水筒を持っていない事に気が付き、「水筒はなくて大丈夫?」と問いかけたのでした。

しかし、大槻節子・杉崎ミサ子・永田洋子の3名は、水筒がないことを全く問題視していなかったそうでした。でも、この水筒がネックで事態は一転することとなったのです。

ようやく辿り着いた新倉ベースで待っていたのは、赤軍派・進藤隆三郞と山崎順のからの京浜安保共闘メンバーへの叱責だったのです。

この時は、赤軍派・植垣康博がなんとかその場を収めたそうでしたが、京浜安保共闘の甘さに赤軍派・森恒夫からも厳しく糾弾されてしまったのでした。

 

精神的に追い詰めるのが目的だった森恒夫


実は、連合赤軍の誕生にあたって赤軍派の森恒夫は、京浜安保共闘の機先を封じ込めようと躍起になっていたのです。

森恒夫は、京浜安保共闘のメンバー達の揚げ足をとることにより、指導的立場にあった永田洋子・坂口弘に精神的抑圧をかけ、この2人よりも指導者として有利な立場になろうとしていたのです。

でも、永田洋子が水筒を持参してこなかった事に対し「自己批判」を行ったことで、あっさりと収束

しかし、この事件をきっかけに双方に深い歪みが生じることとなっていったのです。

 

イライラが募っていった永田洋子の遠山美枝子への執拗な追及


美人だったと言われていた赤軍派・遠山美枝子が全体会議中に行った行動が永田洋子に問題視される事なったのです。他のメンバーが発言中にもかかわらず長い髪を梳かしながらリップクリームを塗っていた遠山美枝子。

その姿に違和感を覚えた永田洋子は次の日、赤軍に対し遠山美枝子が指輪をしていることを引き合いに「革命戦士として相応しくない」と批判したのです。

実は、遠山美枝子は赤軍派幹部の妻だったため、遠山美枝子よりも低い立場にあった森恒夫は、常日頃から強い態度を示す事ができなかったのでした。

 

それでもさらに執拗に遠山美枝子を責めていた永田洋子だった

引用: Pixabay

しかし、翌日も外されることのなかった遠山美枝子の指輪に憤りを隠せなかった永田洋子でした。森恒夫は、やはり注意が出来ないままでいたようで、どうやら森恒夫もこの存在を持て余していた1人だったようでした。

ここで、永田洋子の遠山美枝子への猛追がスタートしたのです。

あなたはどうして山に来たの?

一体どんな気持ちでやってきたの?

なぜ、その長い髪を切らないの?

機関銃のように責める永田洋子になすすべがない遠山美枝子。赤軍派の山崎順が助け船を出しても、さらに攻撃してくる永田洋子に山崎順もお手上げ状態でした。

遠山美枝子は、赤軍派の同志・坂東圀男・山田孝にSOSを出すも、「いち革命家として批判を受け止めるべき」として誰も遠山美枝子に取り合うことがなかったのです。

この事を、赤軍派から責め立てられた「水筒事件」への反論のネタにした永田洋子の責めはずっと続いたのでした。

その事を黙認した森恒夫は、「この問題は赤軍派の問題」とし、「遠山さんが総括出来るまで下山はしない。したら殺す」と言い放ちました。

森恒夫が発した「殺す」というキーワードが、後に起こる山岳ベース事件での暴力を「正当化」させることになっていきます。

さらには、赤軍派と京浜安保共闘の「相互批判」に繋がっていくことになったのです。

 

中央委員会発足


遠山美枝子の総括を必ず行うと、永田洋子らに約束した森恒夫は、一旦共同軍事特訓を止め解散。指導部会議のために残った永田洋子と坂口弘以外の京浜安保共闘メンバーは全員下山しました。

この日に赤軍派から、

  • 森恒夫
  • 坂東圀男
  • 山田孝

が選抜され、京浜安保共闘からは

  • 永田洋子
  • 坂口弘
  • 寺岡恒一
  • 吉野雅邦

が選出、中央委員会が発足されたのでした。しかし、中央委員会とはいえ、確固たる権力を保持しているのは森恒夫と永田洋子だけ。

結局、それ以外のメンバーはこのふたりに意見が出来る状態ではなく抑圧される雰囲気が漂うばかりだったのです。

 

政争のターゲットになってしまった進藤隆三郎と行方正時

引用: Pixabay

水筒問題で鬱憤が溜まっていた永田洋子に対し、組織としての厳しさを見せることにより、指導者としての威厳を保持しようとしていた森恒夫。

この両者の権力者争いが矛先をさらに広げていくことになっていきます。暴力の下で行う「総括」で互いの力を見せつけるという異様な展開になっていったのです。

そこでターゲットにされてしまったのが、印旛沼事件の被害者・早岐と向山を殺害する時に消極的だった行方正時と、印旛沼事件の被害者同様に処刑が検討されていた進藤隆三郎の2名だったのです。

 

森恒夫の「共産主義化論」の完成まで間近だった

引用: Pixabay

この頃、赤軍派の最高指導者の森恒夫は、自身の思想について深く見つめ直していたのです。

そして、国家・警察への権力に対し、森恒夫自身の地位を揺るがし、脅かす者は全て容赦なく吊し上げ、総括を迫って死に追いやろうと考えていたのです。

共産主義の思想にまみれた森恒夫。でも、その思想は単に自己正当化するための口実に過ぎなかったといわれていました。

これから、その残酷な総括により亡くなったメンバー12人の詳細を解説していきますのでご覧ください。

 

壮絶な「集団リンチ」で失われてしまった12人の尊い命


殴る蹴るの暴行を仲間内で続け、結果、12人の命が奪われた山岳ベース事件でしたが、すでに「印旛沼事件」でリンチ責めにあって向山茂徳と佐岐やす子の両者が尊い命を奪われていました。

これから、山岳ベース事件にて壮絶なリンチにあって死を遂げた12名の「赤軍派・京浜安保共闘」メンバーの詳細を記していきます。

ターゲットにされたら最後。どのような些細な事でも問題視され吊し上げられ猛攻撃。いったんこの「総括」の対象になってしまったら逃げることができなかったのでした。

「援助」と称し、暴力を受け続る地獄のような日々にメンバーからも不安の声が上がり、疑心暗鬼になったメンバーが続出したのです。アジトは一気に異様な雰囲気と化してしまったのです。

 

犠牲者①1971年12月31日 尾崎充男(22歳・革命左派)


尾崎の死にメンバー全員が動揺しました。「いつか自分のやられてしまうのか」という不安が過ぎったからでした。山岳ベース事件に携わっているメンバーなら、まさに「明日は我が身」だったのです。

殺害された尾崎充男は、立ったまま総括を求められていましたが、時間が経つにつれその身体に異変が生じてきたのです。

フラついて、どうにも辛くなった尾崎充男は、助けを求めるようになってきたのです。それからは、立ったまま縛りつけら身動きが取れない状態にされてしまいました。

そして、腹が減ったためか、皆が夕食準備をしている最中に、メニューだった「すいとん」を指して「すいとん、すいとん」という言葉を思わず発してしまいます。

  • 壮絶な暴行が始まる

それを機に壮絶な暴行が始まったのです。他のメンバーに代わる代わる腹部にひざ蹴りを入れられたのでした。15分ほど続いた総括の末、尾崎充男は立ったまま亡くなっていたそうです。

その後、全員を集合させた森恒夫は信じられない言葉を発したのでした。

「尾崎の死は総括できなかったための敗北死だ。総括ができなかったから尾崎の精神が敗北し、肉体までもが敗北してしまったのだ」と、あくまでもこの死は「尾崎自身の責任であった事をメンバーに伝えたのでした。

かなり苦しい理屈でしたが、動揺していたメンバーにとっては安心をおぼえさせる森恒夫の都合の良い理論だったのでしょう。

 

犠牲者②1972年1月1日 新藤隆三郎(21歳・赤軍派)

引用: Pixabay

次に、尾崎充男の死後、総括の対象になっていた新藤隆三郎がリンチを受けることになりました。

新藤隆三郎の総括要求が激化する中、新藤隆三郎自身から「縛ってくれ」という要求があったのでした。その事に森恒夫は激昂。

「縛ってくれといえば総括されないですむと思ったのか!」

と、新藤隆三郎に対し、腹部へのひざ蹴りが始まったのでした。尾崎充男がこの個所の攻撃によって死に至ったったため、みぞおちを気絶するまで殴る事にしたのです。

  • 新藤隆三郎 絶命する

リンチに躊躇っていた遠山美枝子と行方正時でしたが、森恒夫からリンチを強要され加担する事に。

もうだめだ・・・

進藤隆三郎はそう言い残して、外の立ち木に縛られたまま絶命してしまいました。

 

犠牲者③1972年1月1日 小嶋和子(22歳・革命左派)

引用: Pixabay

新藤隆三郎が亡くなった当日、次第に雨模様に・・・。外の立ち木に縛り付けていた小嶋和子を榛名ベースに移動させました。

そして、小嶋和子の緊縛は見張りがある中で続行されたのです。

しばらくたってから、小島和子が絶命しているのに気が付いた見張りが森恒夫と永田洋子を呼びにいったそうでした。この小島和子は4番目に殺害された加藤能敬の恋人だったのです。

  • 恨みに満ちた死に顔だった

その目に映ったものは、「最後まで自分に課せられた総括に対しての恨みの表情」だったそうです。わずか2日間で山岳ベース事件の犠牲者は小嶋和子で3人目となりました。

 

犠牲者④1972年1月4日 加藤能敬(22歳・革命左派)


加藤能敬には、2人の弟がいました。次男・倫教と三男の元久は、兄・能敬の影響で京浜安保共闘に入ったそうでした。

兄・能敬が殺された時、弟の元久と逃亡。その最中にあさま山荘事件に加担し、1983年2月に懲役13年の刑が確定し三重刑務所に服役しましたが、1987年に仮釈放されました。

現在は、実家の農業を継ぐ傍ら、野生動物・自然環境保護団体の役員を務めているそうです。なお、三男・元久の詳細はわかっておりません。兄・能敬が殺害された後、涙を流しながら永田洋子は兄弟らにこう言ったそうでした。

能敬は、自ら死を選んでいったのよ。あなたたちは兄の死を乗り越え、シッカリ総括して立派な革命戦士にならなければ駄目よ

そう声がけしてきたそうです。しかし、三男・元久は

こんなことやったって、今まで誰も助からなかったじゃないか!」と言い放ったそうでした。

兄・能敬がこのようになった事をおかしいのじゃないかと三男の・元久に投げかけられた事によって次男・倫教も我に返ったのです。

兄・能敬へのリンチの詳細は以下になります。

  • 暴力
  • 食事を与えない
  • 糞尿垂れ流しにさせられた
  • 極寒の中で緊縛
  • 目隠し
  • 吊し上げ

柱に背をつけて後ろ手に縛られていた加藤能敬は、頭をうなだれ青白い顔をして息絶えたそうでした。

死の直前まで毅然としていた兄・能敬だったそうでした。そんな兄・能敬は、革命左派時代から永田指導部に批判的だったため、永田洋子にとって非常に鬱陶しい存在だったようでした。

 

犠牲者⑤1972年1月7日 遠山美枝子(25歳・赤軍派)


総括の対象になっていた遠山美枝子は、次第に死への不安を感じるようになってきました。

小嶋和子のようになりたくない

そう呟くようになってきた遠山美枝子を見ていた森恒夫と永田洋子は、遠山美枝子に小嶋和子の遺体を埋めるよう課したのでした。自ら、小嶋和子の遺体の埋葬を申し出ていた行方正時と一緒に行うよう命令したのです。

そして、命乞いするかのように遠山美枝子は、すでに亡くなっている小嶋和子の遺体に馬乗りになって殴り始めたのです。

制止されるも殴打は続行され、徐々に周りにいたメンバーも一斉に殴る事態に。死んでまでも総括された小嶋和子が哀れでなりません。

  • 遠山美枝子の総括スタート

そして、それが終わると再び遠山美枝子の総括がスタートしたのです。森恒夫から追及を受け疲れ果てていた遠山美枝子でした。なのに、そんな遠山美枝子に森恒夫は、自身で顔面を殴るよう要求したのでした。

拳を握りしめ懸命に自身の顔面を殴り続ける遠山美枝子。徐々に顔がパンパンに腫れ上がってゆき、キレた唇から血がしたたるまでに・・。

しかし、信じられない事にその様を見て他のメンバーは鼓舞し続けたそうなのです。残酷なことに、ボールのように腫れ上がった遠山美枝子の前に鏡を差し出した永田洋子は・・・

美しかったあなたの顔がこんなになったのよ

そう呟いたそうでした。とても美しい女性だったという遠山美枝子に、恵まれない容姿だった永田洋子が、かなり嫉妬していたとも言われていたようでした。

総括は、自身による顔面殴打だけにとどまらず、美しかった長い髪にもおよび、丸刈りされてしまいまいました。そして、身体を柱に固定され何カ所も縛りあげられていたそうです。

さらに、逆エビ型に縛られた遠山美枝子。逆エビ型とは、うつぶせの状態から手足を後ろに回しひとまとめにされた形になります。

拷問はひたすら続き、遠山美枝子の容体が急変してしまい、人工呼吸が30分以上に渡り行われたものの蘇生することはなかったのでした。

 

犠牲者⑥1972年1月9日 行方正時(25歳・赤軍派)


森恒男の厳しい追及を経てさらに・・・・。行方正時が「絶対に逃亡出来ない」よう、行方正時の肩甲骨と大腿部を思いっきり殴るようメンバーに指示したのです。

暴力後、森恒夫が行方正時の目を懐中電灯で見たら瞳孔が開いていたそうでした。

その様を見て・・・

行方は死の領域に踏み込んでいる

と一言。

そして、後に永田洋子がそのときの様子をこのように著書に記していたのでした。

行方正時への暴行は見ていられないほどだった」と・・・。

激しい苦痛に耐えながら総括されていた行方正時。懐中電灯を当てられながら追及され徐々に縮小し始める行方正時の瞳孔をみながら、森恒夫は「死の世界から救う」として、遠山美枝子同様に逆エビ型に縛ったのです。

その時の事を坂口弘がこのように語っていたそうでした。

森恒夫に対し、「何か物に憑かれたようで嫌な感じがした」という印象を持ち、その場にいた坂口弘も違和感を抱かざるおえなかったようです。そして行方正時は壮絶な暴行の末、帰らぬ人となってしまいました。

 

犠牲者⑦1972年1月17日 寺岡恒一(24歳・革命左派)

引用: Pixabay

1969年9月4日に革命左派が起こした「愛知外相米訪ソ阻止闘争」事件にて、寺岡恒一だけが執行猶予になったことに対し森恒夫から激しい追及をされることになったのです。

理由が判らなかった寺岡恒一は、ただ「判らない」とだけ繰り返していたそうでした。しかし容赦しなかった森恒夫は、正座していた寺岡恒一の足にナイフを突き立てはじめたのです。

そして、植垣康博に「後ろで寺岡の手を持って押さえてろ!」といい、さらに寺岡恒一の左腿にナイフを突き立てたのでした。

ううっ・・・!

うめき声をあげながら体をよじらせる寺岡恒一に対し、執拗なまで刺したナイフをゆすったりしていていた森恒夫だったそうです。しかし意識が薄れゆく中でも寺岡恒一は執行猶予の件で、「国家・警察権力」とは関係が無かったことを最後まで訴え続けていたのです。

  • 壮絶なリンチだった証

森恒夫が持っていたその刺したナイフの先が3センチほど曲がっていたそうでした。そしてナイフを抜いた後も執拗に白状するよう迫っていたのです。

それでも否定し続けた寺岡恒一だったため、今度は左腕の付け根を刺した森恒一。そこまでされても自己尊厳を守ろうとして踏ん張っていた寺岡恒一。悪魔のような森恒夫は一気に寺岡恒一のとどめをさしてしまったのです。

その時の様子をメンバーだった坂東國男はこのように語ってました。

「森同志が足を刺したと同時に決意して腕を刺しましたが、決意してやっても寺岡への憎しみが湧いてきませんでした。でも、非常に矛盾していることですが、同志たちがナイフやアイスピックで刺すのを外から眺めていました。」

坂東國男も森恒夫に身も心も洗脳されていた被害者のひとりだったのかもしれません。

 

犠牲者⑧1972年1月19日 山崎順 (21歳・赤軍派)

引用: Pixabay

寺岡恒一の処刑に積極的でなかった事が問題視されてしまい、ついに8人目の山崎順の追及がはじまってしまったのです。

脱走して警察に逃げ込もうとした点と「自分は無関係なんだ」と白状しようとした事が死刑宣告に繋がってしまったようでした。

死にたくない」・・・と遠山美枝子同様、禁句ワードを発した事で、さらに森恒夫の怒りを買ってしまった山崎順。

山崎順は肋骨が6本折れるほど殴打された揚句、アイスピックで全身を刺され、それでも息絶えなかった山崎順は首をロープで絞め窒息死させられたのです。

総括に対し消極的だったという坂口弘でしたが、山崎順の処刑を経てからは森恒夫の意味不明な倫理と判っていても、「曖昧な態度はしてはいけない」と下部メンバーに厳しく接するようになっていったそうです。

 

犠牲者⑨1972年1月30日 山本順一(28歳・革命左派)

引用: Pixabay

もともとは、革命左派のメンバーではなかった山本順一でしたが、永田らの考えに共感し妻と生後二カ月だった娘を連れて親子3人で榛名ベースに加わったそうでした。

その時は、永田洋子にも非常に歓迎されていたとのことです。

しかし、寺岡恒一の処刑に関してスターリン主義に触れるなどしたため森恒一に目を付けられる事になってしまいました。

何事も他人事のようにいう山本順一を、さらに坂口弘も問題視するようになったのです。

自分は革命のお手伝いに来ただけ

山崎の処刑はやむおえず手を貸しただけ

そして・・・

山に来なければよかった・・

その瞬間永田洋子が一喝!

夫婦気取りで革命できるか!

許可なく妻子を連れてきた事なども追及されていて、迦葉山ベースに連れて行かれた山崎順一は外に縛られてしまいました。

妻はそんな山崎順一の胸に顔をうずめて、泣きながら夫に総括するようお願いしたそうですが山崎順一はその夜死亡してしまいました。そして、妻にはたった一言、「敗北死」とだけ伝えられたそうでした。

 

犠牲者⑩1972年1月30日 大槻節子(23歳・革命左派)


印旛沼事件で殺害された向山茂徳の彼女だった大槻節子は、連合赤軍一モテていた女性だったそうです。

美人で才色兼備で非常に活動にも積極的でしたが、森恒夫や他メンバーから慕われる大槻節子に、永田洋子が嫉妬してしまって「総括」のターゲットにされてしまったようでした。

1月2日にメンバーから求婚された大槻節子。森恒夫と永田洋子に批判されるも、夜の全体会議で承認されたのです。永田洋子から「結婚してもよいが総括してから」と言われた大槻節。

しかし、それは大槻節子を吊し上げるための単なる口実に過ぎなかったのでした。1月6日から始まった総括で永田洋子は、

アンタは頭が良すぎ

アンタは可愛すぎる

無意識の中で男に媚びてるように見える

もっと馬鹿にならないと総括できないの!

と、責め続け、1月8日には、「女学生的すぎる」と批判されてしまいます。一度は縛られるも、大槻節子は、真面目な総括態度と評価を受け迦葉山ベースに移動。

しかし、また「真面目に取り組んでいない」とされ、殴打されることが決定したのです。

しかし、暴行される恐怖に耐えられずに暴行される前にショック死してしまった大槻節子。殺害されたメンバー中、一番自然な亡くなり方をしたメンバーだったのかもしれません。

 

犠牲者⑪1972年2月4日 金子みちよ(革命左派)

あさま山荘事件メンバーだった吉野雅邦の子どもを妊娠していた金子みちよ。でも、妊娠8カ月と言う大きなお腹を抱えたままテロリストを続けていたのでした。

総括が進まない事を理由に、吉野雅邦との離婚宣言した金子みちよを永田洋子は「主婦的」と批判し会計係を外したそうです。結果として、夫・吉野雅邦も妻と共に離婚宣言をしてしまいました。

そんな金子みちよに対し突如、森恒夫は「懐中電灯の電池を隠した」と金子みちよに濡れ衣を着せはじめます。次に、出産をひかえていた金子みちよに「タオルを隠し持っている」などといいがかりを付け始めたそうでした。当然、タオルなど持っているはずのなかった金子みちよ。

実際にそのような意識がなかった金子みちよは、「そんなことありません」と森恒夫に伝え、永田洋子も金子みちよに対して「反抗的」だと批判しながらも、そのことに関しては、「私も別にそうは感じない」と擁護していたのでした。

しかし、金子みちよの発言を撤回しなかった森恒夫は、その後、先に殺害された大槻節子と共に金子みちよを縛ることにしたのでした。

理由は、妊娠していたため徐々に活動量が減ったことを「サボり」と指摘し、大槻節子と比較して総括の態度が著しく悪いと評価したのです。

その事により、金子みちよには食事を与えない決定が下されてしまいます。

  • 我々の同志的な援助を逆手に取っている
  • 甘え過ぎだ、それに開き直っている
  • 妊娠を末総括の合理化に利用している
  • その子供は我々みんなのものである
  • 子どもを私物化しようとしている、子どもを取り出す必要がある

永田

  • 同志とやったんでしょ?
  • この男好き!
  • 革命戦士の自覚がなさ過ぎる

そのように2人に責め立てられた金子みちよは、逃亡防止に殴って髪を切られることに。

さらに森恒夫は、金子みちよのお腹の子どもを組織の子として育てようと決めたようで、元夫・吉野雅邦も子どもの取り出しに参加表明したのでした。

出産に向けて、森恒夫が医大生だったメンバーに産婦人科の医学書を買うように指示しましたが、非常識な指示に呆れた医大生は結局医学書を買ってこなかったそうでした。

  • お腹の子の取り出し決定

2月3日、トイレに行きたいと申し出た金子みちよ。その申し出は受け入れられたものの、縄をほどくのに時間がかかり縛られたまま失禁してしまったそうでした。

夕方様子が変わっている事に気が付いた森恒夫が声がけするも一言、「何でもありません」とだけ答えた金子みちよでした。

しかし、2月4日朝、糞尿を垂れ流しにした状態なうえ、まるで胎児をかばうようにお腹を抱えたまま絶命しているのを発見されたのです。

神聖な革命戦士の子どもを殺してしまった」と、独自の敗北死理論が発生し、ありえないことにメンバー全員が金子みちよの遺体に向かって糾弾するという異様な光景が繰り広げられそうでした。

 

犠牲者⑫1972年2月12日 山田孝(27歳・赤軍派)


日本赤軍において、森恒夫より立場が上だった山田孝でした。そんな山田孝が小嶋和子の死亡を受け、暴力による総括はいけないと森恒一に考えを改めるように要請。

しかし・・・

  • どんなに空腹でも死なない
  • 銃弾に当たっても死なない
  • 総括ができればどんなに寒くても凍死しない
  • 肉体と精神の高次な結合が必要

などと、意味不明な考えを示した森恒夫の要求を一旦は受け入れた山田孝。

しかし、山田孝はその後ベースに合流しようとしていた赤軍派メンバーに、「今は来ない方がいい」などと誘導したりと、同志たちを森恒夫の脅威に晒させまいと動いていたそうでした。

結果、メンバーを救った山田孝でしたが後に総括されることになっていきます。山田孝を襲った総括理由がこれでした。

  • 溝にはまった車を引き揚げる際レッカー移動を手配しにでかけたついでに銭湯にはいってきたこと
  • 車のカンパに失敗したこと
  • 赤軍が大変な時に組織を抜けていた事

森恒夫に激しく追及された山田孝は、中央委員会を辞任してしまいました。

それでも、連合赤軍イチのキレ者だった山田孝に論破され続けた森恒夫は、直ちに「根性論に方向転換」。それに賛同した永田洋子が1日たった一杯の水だけで山田孝に薪拾いさせることを提起したのでした。

薪拾いに手間取っていた山田孝を見た森恒一は、総括の方法を「殴って逆エビに縛る」事へと変更してしまいます。

それから2日後、森恒夫と永田洋子は資金調達に山を下ったのでしたが、その不在時に解放感から3名が脱走してしまいました。その翌日、坂口弘は山田孝の総括終了宣言をし、独断で縄を解こうとしましたが、山田孝の手足は既に重度の凍傷を負っていたため・・・

必ず君を助けるからな

と、森恒夫に山田孝の状況報告するため坂口弘は公衆電話に向かいます。もし、森恒夫が山田孝の総括完了を認めなかったら、銃殺するつもりでいた坂口弘。

結局、森恒夫がアジトにいなかったため連絡が取れなかった坂口弘でしたが、山田孝の元へ戻ると再び坂東國男に縛られていたのでした。坂口弘は、「総括終了」を言えないままでいたのでした。一方で、どんどん衰弱していった山田孝は妙義山ベースに移動中に・・・

総括しろだって?ちくしょう・・・

この言葉を最後に息絶えたのです。死因は凍死でした。12人目の「山岳ベース事件」の犠牲者・山田孝を最後に凄惨な集団リンチ殺人に終止符が打たれることとなったのです。

 

脱走者続出により山岳ベース事件に転機が訪れた

3名もの脱走者を出してしまったことから、ベースの移動を検討し始めた森恒夫と永田洋子は、資金調達のために山を下りはじめました。

その途中に、裏妙義で候補地を探索していた2人が偶然洞窟を見つけ、そこを新アジトとする事に決めたのでした。でも、その洞窟が2人の逮捕のきっかけとなってしまうとは考えもしていなかったことなのでしょう。

・・・その頃、2人の不在中管理を任されていた坂口弘でしたが、内縁の妻だった永田洋子が下山したため追いかけて上京するも・・・・。そこで待っていたのは、「森さんが好きになったから離婚してください」という永田洋子の離縁の申し出だったのです。

坂口弘は、この永田洋子の離縁の申し出をやむおえず飲むしかなかったのでした。

 

森と永田に迫る警察の包囲網

引用: Pixabay

山狩りを行っていた群馬県警により、榛名ベースと迦葉山ベースが発見される事となります。榛名ベースはすでに連合赤軍により燃やされてなくなっていました。

でも、迦葉山ベースは手つかずだったため多くの遺留品が残されていて、その遺留品の中には誰かが殺害されたと推測できるものが多く存在していたのでした。

糞まみれの切り裂かれた衣類などが残されていて、人は絞殺される時大量の便や失禁を起こすことから殺人事件があったことが容易に推測できたのです。

 

過激派アジトの報道を見た森と永田

引用: Pixabay

危険を察知した森恒夫と永田洋子は、急いで妙義ベースに戻ろうとしました。数日前、山狩りをしていた警察官に偶然遭遇し職務質問をされていましたが、嘘をついてまぬがれていたのでした。

しかし、その時の警察官が不審に思い洞窟付近を捜索したところ、潜んでいた2人を発見するに至ったのでした。

向かってきた森恒夫に警察官が威嚇発砲したことによって2人はあっさりと逮捕されてしまいました。その事を知った連合赤軍のメンバーたちは、凄惨な山岳ベース事件の終結に安堵したとのことです。

永田洋子や森恒夫の逮捕を受け、相次ぐ脱走者と逮捕者続出で、とうとう坂口・板東・吉野・加藤倫教(故・加藤能敬の弟)と元久の5人だけになってしまいました。

そして、軽井沢レイクニュータウンに迷い込んでしまったこの5人が、次に「あさま山荘事件」を起こす事になっていきます。10日間、1400人もの警察官を相手に戦った5人でしたが、この事件でメンバー5人は無傷のまま逮捕されることに。

しかし、その際に「生け捕り」を命じられていた警察側に2名の殉職者が出てしまいました。また、民間人1名・報道陣を含む27名が重軽傷を負うことになったのです。

 

永田洋子の逮捕後まとめ


1983年に山岳ベース事件を主導したとして永田洋子と、元・夫で「あさま山荘事件」の実行犯だった坂口弘は一審・二審共に死刑判決を言い渡される事となりました。

この判決に不服申し立てを行い最高裁まで戦いましたが、山岳ベース事件発生から21年後の1993年に死刑確定となります。

一方、共謀した森恒夫は、1973年元旦に初公判前に東京拘置所の独房内で首つり自殺しているところを発見され、直ちに蘇生措置が行われましたが帰らぬ人となりました。享年28歳、事件の全貌を語りきることなくこの世を去っていったのです。

そして、森恒夫が残した自己批判署にはこう書かれていたそうでした。

あの時、あのような行動をとったのは一種の狂気であり自身が狂気の世界にいたことは事実。私は亡き同志や他のメンバーに対して死をもって償わなければならない。自己の責任の重さに絶望。自らに死刑を下」と書かれていたのです。

逮捕以後はキリスト教に関心を示していた森恒夫だったそうでした。

森田恒夫の死を知った永田洋子は、「森さんは卑怯者!自分だけ死んで!」と、ひとり勝手に死に急いだ森恒夫を責めるように叫んだそうでした。

 

革命を志した女性永田洋子


メンバーだった坂東國男は、後に著書「永田洋子さんへの手紙」の中にこのように綴っていたそうでした。

私や同志たちに映っていたのは人間的感情のない鬼ババアの永田洋子だった、同志を死に至らしめた恐ろしい冷酷な人間だった

と切実に綴っていたのでした。永田洋子がこの著書を読んだのは1993年死刑確定直前だったそうです。

山岳ベース事件はほぼ永田洋子が主導したとされていて、その理由を

  • 不信感
  • 猜疑心
  • 嫉妬心
  • 敵愾心
  • 女性特有の執拗さ
  • 底意地の悪さ
  • 冷酷な加虐趣味

を挙げ強く非難したそうでした。永田洋子本人は事実誤認があるとして直ちに控訴に至ったのでしたが、控訴審・上告審でもその理由が覆されることはなかったのでした。

そして、奇しくも2008年開催された「世界死刑廃止デー」記念イベントで、永田洋子が東京拘置所内で危篤状態にある事が報告されたのでした。

実は、永田洋子は再審請求棄却される半年前に脳腫瘍で倒れてしまいました。手術後はずっと寝たきりだったそうで、晩年は会話が出来ない状態にまでなっていました。

それから3年後、2011年2月5日に東京拘置所内にて、脳委縮・誤嚥性肺炎のために死去、享年65歳。獄中で人生の幕を閉じた永田洋子らしい生涯だったのです。

革命家」とは、ほど遠い行いをしてきた永田洋子。その歪みきった思想の果てに12人を殺してしまった事実は永遠にかき消されることはないのでしょう。

 

「自己愛」しか見いだせなかった哀しい人生だった


いささかでも批判する者は、たとえ何千万人でもすべてぶっ殺せ!生かしておくな!

この言葉を立証するかのように、元赤軍派・最高指導者だった塩見考也が、金子みちよ殺害時の永田洋子の様子をこのように語っていたのでした。

金子みちよの母体から胎児を取り出す計画がなされていたときに・・・

母体と胎児を分離させるという発想は、子どもを産めなかった永田の強烈な嫉妬心であった事は間違いなかったでしょう。このような妊婦への対応は絶対に男には考え付かない発想になり、疎外されてしまった男化した永田洋子の発想だったのです。

と、分析していたのでした。しかし、永田洋子は不妊症だったことを否定していて、子どもの産めない体ではなかった事を主張していたそうです。

金子みちよの殺害の関しても、あくまでも「」の森恒夫が指示したものだとしたのでした。

でも、最終的に永田洋子が主導した山岳ベース事件は、崇拝していた毛沢東の思想をそのまま実行していたに過ぎませんでした。

塩見考也の分析通りであったとすれば、やはり坂東國男が語ったように永田洋子は筋金入りに「鬼ババア」だったのかもしれません。

山岳ベース事件から半世紀が経とうとしていますが、この事件の事を知る人たちはほとんどいないのが現状のようです。

しかし、現代社会でも過激な思想を持つ過激派組織による暴動が後を絶たないのが実情です。

そのような不穏な世界情勢にある時代だからこそ、私たちは「あさま山荘事件」やこの「山岳ベース事件」という黒歴史に目を向け、その思想の原点を知る必要があるといえるのかもしれません。

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