井上嘉浩の生い立ちと経歴!公証人役場事務長殺害事件の概要解説

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井上嘉浩の生い立ちと経歴!


井上嘉浩という人物をご存知でしょうか。

オウム真理教で諜報省長官として任命され、VX事件や公証人役場事務長殺害事件、そして地下鉄サリン事件に関与し、新宿駅青酸ガス事件や東京都庁小包爆弾事件の首謀者であり、のちに2018年7月6日に死刑執行となった元オウム真理教の幹部です。

井上嘉浩は、幼少の頃から、きっと将来はオウム真理教へ入信してしまうだろうといったきっかけがたくさんありました。

井上嘉浩のその生い立ちと経歴、そしてオウム真理教でのかかわった事件や逮捕、公判などについて、説明します。

 

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幼少期


引用: Pixabay

父親はサラリーマン、母親は専業主婦という京都・洛北の一般的な家庭に、次男として1969年12月28日、年末の忙しい時に、井上嘉浩は誕生します。

父親は厳格で、母親は厳格な父親には逆らえず、自分の中で悶々としながらも、毎日を過ごしていました。

井上嘉浩が2歳の時、洛北から西にある太秦へ引っ越しをします。洛北は京都駅から見て北エリアにある、上賀茂神社や下鴨神社、そして貴船神社や鞍馬山があるエリアです。

京都の人からみれば、都会にあたるこのエリアから、西にある太秦は、京都最古のお寺がある広隆寺があり、四条大宮駅から西へ7つ目の太秦広隆寺駅エリアであり、時代劇などの撮影が行われる東映太秦映画村がある街です。

この街に引っ越してくる際に、井上嘉浩の母親は、心が動かず、井上嘉浩の父親の引っ張られるようにしてやってきました。

都会の洛北から、のどかな田畑が広がる太秦への引っ越しについて、井上嘉浩の父親は子供たちのためを思って引っ越しを決意したと思いますが、その反面、母親は気が重かったのです。

太秦へ引っ越しをしてから、母親は次々に病に襲われます。育児もできなくなり、極度のノイローゼになってしまうのです。

母親は、井上嘉浩の父親に相談するも、父親は仕事で忙しかったことから、母親を助けることはありませんでした。また、引っ越してきたばかりの地で、母親は知人などはいないため、相談することもできずに、自らの命を絶とうとしてしまいます。

しかしながら、発見が早く、母親の一命はとりとめることができました。しかし、そのようは母親の姿を見ていた幼き井上嘉浩は、自然と母親に頼ることはなくなっていくのです。

まだ幼く、母親の愛情をいっぱい受けたいと思う年ごろに、このように母親が起こしてしまった出来事で、井上嘉浩の心は傷つき、そして、母親への不信感を抱かせてしまったのでした。

 

少年時代

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引用: Pixabay

この太秦という地は、神社やお寺が多く、太秦の子供たちの遊び場といえば、神社やお寺の境内でした。

井上嘉浩も他の子供のように神社やお寺で遊んでいました。小学校に上がると、写生会が仁和寺で行われるなど、子供にとって、そして井上嘉浩にとって神社やお寺は身近なものだったのです。

太秦ではそのように神社やお寺が多いことから、早朝には托鉢修行のお坊さんが各家庭をまわっていました。特に仏教徒ではなかった井上嘉浩の家にもまわっていたのです。

小学生だった井上嘉浩は、お坊さんが家にまわってくるのを楽しみにしていて、自分のお小遣いをお坊さんへお布施をするなどしていたのです。

その当時から、井上嘉浩は、神社やお寺という存在が自分と近しいものだと思い、宗教に興味を抱いていくのです。

その頃、井上嘉浩は、サッカーなどの身体を動かすスポーツが好きである一方、テレビのドキュメンタリー番組が好きという一面をもっていました。特に世界の貧困と犬の殺処分問題に興味を抱いていたのです。

また宗教に興味があったからか、NHKの新宗教と若者をテーマにしたドキュメンタリー番組へ出演することもありました。

家庭では、父親と母親の夫婦喧嘩が絶えず、父親のような真面目で厳格な生き方をしても、幸せはないと、すでにこの頃の井上嘉浩は思っていたのです。

 

高校時代

引用: Pixabay

井上嘉浩は京都の名門高校である洛南高校に入学します。井上嘉浩は真面目でした。高校の先生からも、真面目な子だという印象を受けています。

しかし、洛南高校の先生の話では、授業中に椅子の上で坐禅をしながら授業を聞いていたという逸話もあるのです。子供の頃から宗教に興味があった井上嘉浩は、高校時代になっても宗教熱はおさまることはありませんでした。

井上嘉浩は高校時代に空手を習っていました。洛南高校には空手部はなかったため街中の空手道場に通っていたのです。高校2年生の夏休みに、井上嘉浩にあることが起こり、これがオウム真理教へ入信するきっかけとなるのです。

 

井上嘉浩とオウムの出会い

 

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井上嘉浩は高校時代に空手に精を出していました。街中にある空手道場へ通い、空手を習っていたのです。

高校2年生の夏休みに、空手道場へ行った井上嘉浩は、空手の練習中に急所を蹴られたことからか、家に帰ってくるなり、台所で痛い!痛い!と泣き叫びました。高校生にもなった井上嘉浩は家で、それも人前で泣くことなんてめったになかったのですが、あまりの痛さに泣き出してしまったのです。

母親が見た限り、見た目には外傷はなかったのですが、激しい痛みに耐えきれず、近くの病院へ診察を受けにいったものの、夜中にはまた激しい痛みが続くようになり、救急病院へ運ばれてしまうのです。

井上嘉浩は救急病院へ運ばれ、10日間の入院をすることになりました。井上嘉浩は母親に、家の自分の部屋にある本を持ってきてほしいと頼みます。井上嘉浩は子供の頃から読書が好きだったのです。

母親に頼んだ本の中に、麻原彰晃の本が入っていたのです。

井上嘉浩に頼まれた母親は、麻原彰晃の本の表紙を見ても、その時は何とも思いませんでした。麻原彰晃という人物がどういう人物であるのか、母親は知らなかったのです。

確かに、この頃、オウム真理教はテレビで大々的に報道されるということはありませんでした。

毎日、事件か何かで報道がなされていれば、麻原彰晃という人物や、オウム真理教について少しは知っていたかもしれませんが、この頃は特に大きな事件もなかったため知らないのは一般的だったのかもしれません。

井上嘉浩は入院中、麻原彰晃の本の上に処方された薬を置き、薬を飲む時には、その本を手にとって薬を飲んでいました

母親はその井上嘉浩の姿に、異常さを感じてはいたものの、父親は海外出張中であったため相談する相手もおらず、また井上嘉浩が早く治ってほしいと思う一心であったため、井上嘉浩本人になぜそのようにして薬を飲むのかを問うことはしませんでした。

井上嘉浩は、入院していましたが経過も良かったため、予定よりも早く退院することになります。

しかし、昼間は体調が良かったものの、夜になると、夏風邪のような症状となり、大変暑がっていたので、クーラーを強めたところ、反対に冬布団をかけるほどの寒さを感じていました。体温を測ると40度もあったため、母親は井上嘉浩を連れて病院へ行こうと促しますが、井上嘉浩は変なことを言うのです。

「これは火と水の洗礼なのだから」。母親はなぜ井上嘉浩は訳のわからないことを言うのだろうと思っていたのですが、井上嘉浩から超能力秘密の開発法という本に書いてある電話番号に電話をかけて、自分の症状を伝え、どう対処すべきかを聞いて欲しいと母親に言ったのです。

 

麻原彰晃との出会い

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この超能力秘密の開発法という本は、井上嘉浩が入院中に読んでいた本でした。この本で井上嘉浩は麻原彰晃に出会ってしまったのです。

母親はこの本に書いてあった電話番号へ電話をかけました。電話に出た女性から対処法を教えてもらい、それを実行すると、井上嘉浩は治ってしまったのです。

きっと井上嘉浩は、オウム真理教という宗教に言われるがまま行い、病気がたまたま治ってしまったことで、麻原彰晃のいるオウム真理教に心酔してしまったのでしょう。

そして、井上嘉浩は、オウム真理教のセミナーに通いだします。最初は夏休みを使って1週間のセミナーに参加をしました。井上嘉浩は両親に了承を得てセミナーに参加しています。その頃、両親は特にオウム真理教が、こんな残虐なことをする団体だということは思わなかったのでしょう。

井上嘉浩はオウム真理教のセミナーに行ってから、横柄な態度をとるようになります。そして、高校を中退したいと言い出すのです。

そして、オウム真理教へ出家したいとも言いだすようになります。それを聞いた井上嘉浩の父親は井上嘉浩を強く叱りつけましたが、井上嘉浩には響いていませんでした。

2学期になり、学校が始まった時に、母親は高校の先生へ相談したいと、高校へ出向き、親子と校長先生とで三者面談を行いました。

その時、井上嘉浩は校長先生に高校を中退したいと伝えますが、校長先生は、中退せずに学業をおさめなければならない。卒業してからでも、自分の生き方を考えるのに遅くはないと諭され、井上嘉浩は一旦は納得するのです。

それからというもの、学業には身が入りませんでした。学校帰りには、オウム真理教大阪支部へ通っていました。中退をあきらめた代わりに、オウム真理教のセミナーに参加したいと言い、お正月はオウム真理教のセミナーに行くようになったのです。

この時点でもまだ両親は、オウム真理教が残虐な団体だとは思わなかったので、井上嘉浩を束縛することもなく、大目にみていたのです。

井上嘉浩が高校3年生になった時に、オウム真理教大阪支部に麻原彰晃が来ることがありました。両親はその機会に、麻原彰晃という人物に会ってみたいと思ったのです。

両親と井上嘉浩と3人でオウム真理教大阪支部へ行き、麻原彰晃に会った途端、井上嘉浩の父親は、井上嘉浩をオウム真理教へ行かせるわけにはいかないと言いますが、麻原彰晃は、親であっても本人の意思は拒絶できないとつっぱねます。

だったら、井上嘉浩を勘当すると父親が言い切ったところ、麻原彰晃は井上嘉浩を呼び、いきなり大学へいきなさいというのです。

井上嘉浩は高校を卒業したらオウム真理教へ出家する予定であったので、受験勉強はしていませんでした。しかし、麻原彰晃に大学へ行けと言われてからというもの、苦労して勉強し、東京にある、日本文化大学法学部に滑り込みます。

東京への大学入学は、麻原彰晃の指示だったようです。大学入学後、オウム真理教の東京道場で寝泊まりをして、インストラクターなどをしていました。

井上嘉浩はオウム真理教へ出家し、そして井上嘉浩の母親は少しでも井上嘉浩を理解しようと、オウム真理教の在家信者になります。

しかしながら、その後、オウム真理教のヴァジラヤーナという教えを押し付けられ、嫌になり、次第へオウム真理教へ出向くこともなくなったのです。

 

井上嘉浩のオウムでの活躍

 

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井上嘉浩は出家してから、麻原彰晃に可愛がられます。

高校を卒業し、他の幹部とは違ってエリートでもなかったのですが、オウム真理教の裏の実行部隊と言われている諜報省のトップにまで上りつめます。この時、25歳でした。他の幹部に比べて若い年齢で幹部となったのです。

そして、麻原彰晃から、オウム真理教内で使うホーリーネーム「アーナンダ」を授かります。このアーナンダという名前の由来は、釈迦を守るために最後まで行動を共にした伝説の聖者でした。

麻原彰晃は、この井上嘉浩を、「麻原彰晃を守るために最後まで行動を共にし、麻原彰晃を守る人物」としたいという意味を込めて名付けたのかもしれません。

井上嘉浩はオウム真理教で、諜報省トップとして、盗聴や誘拐、不法侵入を主な業務として行い、数々の事件に関与することになります。

井上嘉浩が関与した事件として、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件、被害者の会会長VX襲撃事件、公証人役場事務長殺害事件、地下鉄サリン事件であり、首謀者としては、新宿駅青酸ガス事件、東京都庁小包爆弾事件を挙げることができます。

オウム真理教内で活躍した井上嘉浩は、地下鉄サリン事件の3日前に、麻原彰晃の尊師通達で、オウム真理教内のステージで正悟師に昇格します。

あの地下鉄サリン事件においては、井上嘉浩はサリンを電車内でまく実行部隊のとりまとめ役をするという、オウム真理教内にとっては、若くしてとても活躍していたのです。

 

井上嘉浩が関与した公証人役場事務長殺害事件とは?


1993年、公証人役場事務長である仮谷清志さんの妹は、夫に先立たれ憔悴していました。

ぽっかり空いた心を埋めるためにオウム真理教に入信します。

オウム真理教に入信してから、この妹は6,000万円をオウム真理教の教団へお布施していたのですが、教団ではさらにもっとお金が欲しいと、この妹が所有している品川区上大崎にある目黒公証人役場の土地と建物(当時の時価で2億7,000万円)を含めた全財産もお布施し、オウム真理教へ出家してほしいと諭しましたが、この妹はその要求を拒み、教団から逃げてしまいます。

その後、妹を事務長である仮谷清志さんはかくまっていると、最古参のオウム真理教リーダーである東信徒庁長官である飯田エリ子が、このことを麻原彰晃へ通告。そして、麻原彰晃の指示のもと、公証人役場事務長である仮谷清志さんは、オウム真理教に拉致されるのです。

1995年2月28日に、事務長の仮谷清志さんは、実行役である井上嘉浩、中川智正、中村昇、高橋克也、平田悟、平田信、松本剛、井田喜広の8人により、拉致されてしまいます。拉致する際に使用する車はレンタカーでワゴン車を使用していました。レンタカーであるワゴン車を借りる時には、偽装免許証を使用していたといいます。

午後4時半頃に、品川区上大崎にある目黒公証人役場の前で待っていたオウム真理教の井上嘉浩ら8人は、目黒公証人役場から出てきた事務長の仮谷清志さんを確認するや否や、中村昇が仮谷清志さんを転倒させ、高橋克也、井田喜広、平田悟がおさえこみ、松本剛が運転するレンタカーで、仮谷清志さんを山梨県上九一色村にある第2サティアンへ連れ込みました。

「ナルコ」と呼ばれていた霊的イニシエーションである麻酔薬のチオペンタールを投与することで、妹の居場所を自白させようとするのです。

しかしながら、仮谷清志さんは、自分の妹が危険に及ぶのを恐れて、自白しませんでした。その後、麻原彰晃の指示がオウム真理教No.2の村井秀夫を介して、仮谷清志さんを殺害しろという命令により、麻酔薬であるチオペンタールナトリウムを大量に投与され、仮谷清志さんは、翌日の3月1日に死亡してしまいます。

実は、この裏では、仮谷清志さんを殺害するのは、井田喜広に行わせ、徳をつませようというとしていました。仮谷清志さんを拉致後、井田喜広は第2サティアンへは向かわずに、東京にいました。

本当は、井田喜広に殺させたかったのですが、井田喜広が第2サティアンへ来る前に、仮谷清志さんは大量にチオペンタールナトリウムを投与されたことで死亡してしまいます。でも、井田喜広には仮谷清志さんが死亡したことを伝えずに、絞殺させたというエピソードがあります。

仮谷清志さんが死亡した後、遺体は幹部である中川智正ら数名によりマイクロウェーブを応用した焼却炉で焼却され、骨や灰は木片で叩いて粉々にした後、上硝酸で溶かされ、近くの本栖湖に流し、死体を遺棄しました。骨まで溶かすことにより、証拠隠滅を図ろうとしていたのです。

また、間接的に関与していた東信徒庁長官である飯田エリ子、およびその部下についても、記憶を消すために電気ショックを行い、事件の発覚を防ごうとしました。

これが公証人役場事務長殺害事件です。メディアでは事務長の名前をとって仮谷清志さん拉致事件ともいわれています。

 

井上嘉浩の逮捕・公判まとめ

引用: Pixabay

井上嘉浩が逮捕されてから公判までの経過を見ていきましょう。

 

井上嘉浩の逮捕と公判

引用: Pixabay

この公証役場事務長殺害事件では、仮谷清志さんが拉致される瞬間を民間人が目撃していたことから警察は捜査を開始し、レンタカーを借りる時の書類から松本剛の指紋が検出され、またレンタカーから松本剛の指紋と、仮谷清志さんの指紋と血痕が確認します。

このことにより、オウム真理教が凶悪な犯罪事件を行う団体であることが初めて明らかになった事件でもありました。

この公証役場事務長殺害事件によって、井上嘉浩は特別指名手配となります。1995年5月15日にあきる野市(旧:秋川市)で豊田亨と一緒にいるところを公務執行妨害で現行犯逮捕されます。

この時に、2人が乗っていた車の中から、井上嘉浩が関与していた東京都庁小包爆弾事件や島田裕巳宅爆弾事件で使用された爆薬の原料となる物質が発見されるのです。

逮捕された同じ年の1995年12月26日に、井上嘉浩はオウム真理教を脱会します。

高校生の頃からオウム真理教に心酔していた井上嘉浩でしたが、逮捕後に両親の懸命の支えにより、ようやく良心を取り戻すのです。頭痛、嘔吐、蕁麻疹などの拒絶反応を乗り越えた井上嘉浩は脱会を決断したのです。

井上嘉浩は、オウム真理教から脱会した後、他のオウム真理教信者へメッセージを出して脱会を促します。脱会し、オウム真理教から決別し、公判においてはオウム真理教内での内情など、事細かに曝露するのです。

逮捕され、何回もの公判を行っていくうちに、ただ一人だけ元オウム真理教信者であった井上嘉浩は、オウム真理教で信者だった頃に、VXガスで殺そうとしていた人物にも面会したり、新興宗教に詳しい大学教授と面会するなどして、段々とオウム真理教の洗脳から、一般人の心へと変わってゆくのでした。

しかし、裁判で井上嘉浩は、数々の事件に関与していたことについては深く反省をしていたのですが、教祖である麻原彰晃から重用されていなかったと主張し、責任転嫁をしたり、矮小化する証言がみられたため、井上嘉浩の証言は信憑性がないと判断されることもありました。

第一審では死刑が求刑されましたが、公証人役場事務長殺害事件において逮捕監禁罪を認めたのにもかかわらず、逮捕致死罪を認めませんでした。

また、地下鉄サリン事件では連絡役であったということから、2000年6月6日に東京地裁で無期懲役判決を受けます。後に、死刑判決となるのですが、オウム真理教の一連の事件の死刑求刑において、無期懲役判決が出るのは、この井上嘉浩の裁判がはじめてでした。

 

他の被告人での裁判での証言

引用: Pixabay

この井上嘉浩ですが、自分の裁判の他にも、他のオウム真理教信者の裁判について法廷で証言もたびたび行っています。

なかでも、東京都庁小包爆弾事件への関与が疑われていた菊地直子の裁判員裁判での証言で、井上嘉浩はオウム真理教内での男女のドロドロな関係を曝露しています。

オウム真理教では男女の恋愛は禁止していました。オウム真理教の出家した信者には、「不邪淫」という戒律があり、配偶者以外との性行為や恋愛、そしてオナニーが禁止されていました。

そのため、この井上嘉浩であっても19歳の時に女性信者と恋愛関係になりそうであったところを、麻原彰晃に見つかり、4日間も断食・監禁させられ、死にそうになったという経験があるのです。

しかし、そのような戒律があっても、実際のオウム真理教内ではこの戒律を守っている信者はいませんでした。男女が入り乱れて肉体関係をもつような世界だったのです。

そのため、菊地直子においても、幹部の中川智正と恋愛関係、そして男女関係があったと、この裁判で証言したのです。

菊地直子は、この裁判で、東京都庁小包爆破の爆発物運搬に対して、その爆発物を爆発物だと知っていたか、関与していたのかということを問うていました。

菊地直子は、自分が運んだ爆発物は、農薬を作るもので爆薬の原料とは知らなかった」とし、また幹部の中川智正との男女関係についても否定していますが、井上嘉浩の証言では、爆弾を製造した中川智正が菊地直子に爆薬運搬を指示し、菊地直子もそれを承知していたと発言しています。

また、菊地直子と中川智正は男女関係にあり、菊地直子はアジトに来る時にはいつも中川智正と2人で和室に入っていた、とか東京都庁小包爆破の爆発物運搬についても、2人が男女の関係だったからこそ、中川智正が菊地直子の心につけこみ、指示したのではないか、などと証言をすることで、裁判をざわつかせるのです。

結局のところ、この菊地直子の裁判で、菊地直子は無罪となっていますが、オウム真理教内でのドロドロした男女関係の実態を裁判で証言することにより、菊地直子の容疑を証明したかった検察の考えに沿うかたちで、オウム真理教を脱会し、反オウム真理教であった井上嘉浩の証言が利用されたのかもしれません。

井上嘉浩は自分の裁判で会っても、他の被告人の裁判であっても証言の信憑性が疑われていました。

先の菊地直子の裁判の他にも、菊地直子と同じように17年間の逃亡の末に逮捕された高橋克也の裁判において、高橋克也本人は、地下鉄サリン事件については、サリンとは知らなかったと主張しました。

また公証人役場事務長殺害事件においては、被害者である仮谷清志さんに麻酔薬を打つことも知らなかったと主張しているのに対し、井上嘉浩はサリンを撒くから運転手をするように、だとか、仮谷清志さんが暴れないように麻酔を打って眠らせることを高橋克也に確認したといった証言を行い、有罪の根拠となるような証言を繰り返しました。

他の死刑が決定した被告人においても、同じように罪が重くなるような証言を繰り返します。これは、裁判を繰り返すうちに、検察へ有利な言動を繰り返し、検察に洗脳されてしまったのではないかともいわれるほどだったといいます。

 

死刑確定後

 

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裁判で死刑判決が出された後も、上告しましたが棄却され、また上告審判決に対する訂正を申し入れましたが棄却となり、2010年1月12日に死刑が確定しました。

井上嘉浩は、オウム真理教の一連の事件の中で死刑が確定したのは9人目でした。

死刑が確定した後、2018年3月14日まで、オウム真理教関連の死刑囚13人全員は、東京拘置所で収監されていましたが、麻原彰晃を除く死刑囚7人を死刑執行設備のある、宮城刑務所仙台拘置支所、名古屋拘置所、大阪拘置所、広島拘置所、福岡拘置所の5つの拘置所へ移送されます。

井上嘉浩は、同じ死刑囚である新実智光と一緒に大阪拘置所へ移送されました。井上嘉浩は移送された翌日の2018年3月15日に、死刑回避のためではないが事実は違うということをはっきりさせたいとして東京高裁に最審請求をします。

しかしながら、2018年7月6日午前8時頃に、48歳になっていた井上嘉浩に死刑が執行されます。死刑前に、両親へ伝えたい言葉はあるかと聞かれ、井上嘉浩は、「お父さん、お母さん、ありがとうございました。心配しないで。」と語っていたといいます。そして、最期には、「まずはよし」という言葉を残し、死刑となるのでした。

死刑となり、死亡した井上嘉浩の遺体は、オウム真理教を脱会しているので、両親へと死刑執行から2日後に引き取られました。そして2日後に荼毘に付し、浄土真宗のお寺で通夜が行われたそうです。

 

井上嘉浩の願望

 

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井上嘉浩が中学3年生の時に宿題で書いた「願望」という詩があります。

中学3年生なので、まだオウム真理教に入信する前ですが、宗教に興味を持っていた井上嘉浩は、家庭環境やその生い立ちから、幸せとはいえない日々を過ごしてきたのではないでしょうか。

「願望」という詩ですが、楽しみといえばお金だと思っている大人たちですが、そのお金はちっぽけであるのに、毎日毎日満員電車にのり、夢がなくお金のために生活をしている。そんな大人になるために生まれてきたのか。人間として生まれてきたのかは、夢もなくお金のために生まれてきたのか。

夢もない大人を哀れんでいる中学生の井上嘉浩の詩です。

井上嘉浩は歌手の尾崎豊さんのファンでした。この年代の男性は尾崎豊さんのファンが多いのかもしれません。自分が置かれている社会に反発したい。今の自分から脱したいという若者の気持ちを代弁している歌を歌います。

中学3年生の時に、きっと井上嘉浩も同じことを思っていたのでしょう。

家庭内では両親の夫婦喧嘩が絶えず、そして幼少の頃に起きた母親の自殺未遂で幼心に心を痛み、甘えることを避け、愛情を感じるということもわからなくなっていった、その生い立ちは、井上嘉浩本人としても、どうしようもなく悔やんでいたのではないでしょうか。

でも、そんな心の中にモヤモヤがあった時に、麻原彰晃の本に出会い、実際にオウム真理教の教えに接することで、こんな自分を理解してくれるのは麻原彰晃しかいない、このオウム真理教しかないと思ってしまったのかもしれません。

逮捕され、オウム真理教を脱会し、そして裁判では反オウム真理教として、オウム真理教と戦った井上嘉浩。数々の犯罪を犯した罪は重く、死刑判決は妥当であり、死刑執行された今では、ようやく平成最大の事件が終わったと、胸をなでおろした人も多いでしょう。

令和の時代が始まりましたが、このような事件を起こす所以となる宗教、そしてこのような残虐な事件を起こす団体が、これから出現しないことを祈るばかりです。

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