新宿西口バス放火事件の概要!丸山博文はなぜ死刑にならなかったのか。 | ToraTora[トラトラ]

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1980年(昭和55年)8月19日の夜、東京都新宿区西新宿1丁目にある新宿駅西口バスターミナルの京王帝都電鉄(現・京王電鉄)バス乗り場・京王百貨店新宿店前で路線バスの車両が放火され、バスに乗車していた6名が死亡、付近にいた人たちも含め14名の重軽傷者を負いました。

放火・殺人容疑として、建築作業員の男性であった住所不定の犯人は丸山博文(当時38歳)が逮捕された事件です。

当時の事件は現場が炎の勢いも凄まじく、当時は交通状況が混乱を招くほどの騒ぎとなり、「新宿西口バス放火事件」としてマスコミやでも大きく取り上げておりました。

また当時の様子から丸山博文についての生い立ちも含め、TVドラマや映画にもなり、そしてついに2月28日に、NHKで当時の事件についての特集として放送されました。被害者であり唯一の生存者による当時の事件の様子や犯人・丸山博文についても紹介しておりました。

これだけの事件を起こしたにもかかわらず、丸山博文は死刑判決にはなりませんでした。何故、死刑判決にならなかったのか、事件の概要からその真相を丸山博文の生い立ちも含め紹介していきたいと思います。

新宿西口バス放火事件の概要

新宿都心が騒然となった放火殺人事件

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引用: Pixabay

1980年(昭和55年)8月19日夜21時過ぎた頃、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場にて京王帝都電鉄(現:京王電鉄)が運行する「宿41系統・6号通り経由中野車庫行き」(日野RE100・A2158号車 登録番号:練馬22か・771)のバスが発車待ちのため停車中だったところ、突如男が後部ドアから火の付いた新聞紙とガソリンが入っていたバケツを車両の後方へ投げ込んで放火を起こした。

火は瞬く間に燃え上がり、バス全体が火で包まれていたとの事で、バスの中には30名以上の乗客がおり、命からがら脱出できた人もいれば、体の半数以上火傷を負い重傷の人も続出し、火だるまとなってバスから出てきた人もいれば、中で既に亡くなっていた人もおり軽傷も含め、車内にいた乗客6名が死亡・14人が重軽傷を負う大惨事となった事件です。

犯人として名前があがったのが、住所不定・建設作業員であった丸山博文(当時38歳)が放火・殺人として通行人に取り押さえられ、駆け付けた警視庁の警察官によって逮捕されました。

当初、丸山博文は取り調べで「何もしていない」と容疑を否認しており、また、事件についての記した「弁解録取」によると、「髪の毛が焦げているのは食事の支度で飯を炊くために火を燃やしていた。事件の事は知らない」と供述しておりました。

しかし、事件の2日後(1980年(昭和55年)8月21日)にして丸山博文本人から「放火をしたのは自分だ。大変な事をした。申し訳ない」と容疑を認めました。

犯人・丸山博文の犯行動機

「(無期懲役を無罪と勘違いして)罪にならないんですね!?」

【 新宿駅西口バス放火殺人事件(1980)】、丸山博文 pic.twitter.com/Kn3sh4qtwh

— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) July 4, 2019

供述によると丸山博文は事件当時、新宿西口の階段で酒を飲んでいたところ、通行人の1人に邪魔だと罵声を浴びせられ、その事により丸山博文自身の境遇からか感情が爆発し、犯行に及んだとの事。

おそらく罵声をあびせたであろう会社帰りの家庭を持つ人達に狙いをつけ、通勤帰りの客が乗りこむバスを選んだ。足元に散らばる新聞紙を拾い集めて火を付け、西口柳通りの飲食店から盗んで来たバケツに4リットルのガソリンを入れたバケツを持ってバス停にむかった。

新宿発・中野行のバス(京王帝都バス)の後部乗降口から、火のついた新聞紙とガソリンを放り込んだといいます。

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弁護士と接見した際に丸山博文は酷く動揺した様子で死刑を悲願したという。

そして東京地裁で死刑を求刑したものの、2カ月後に再度東京地裁にて被告人が心神耗弱状態であったと事実認定した事により「無期懲役」となった。丸山博文は東京留置所から千葉刑務所へ収監された。

そこでは、知的作業が出来なかった事、被害者との交流があった事から複数の受刑者によるいじめを受けていたという。そして1997年10月7日の午後、刑務所内で首つり自殺(55歳没)している。

新宿西口バス放火事件の被害者&まとめ

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当時バスの中には30名程乗車しており、丸山博文が起こした放火は瞬く間に後部座席の方に広がった。この時の被害者は6名が死亡、14名が重軽傷を覆った。その被害者達は以下の通りです。

今井 操さん(21歳)1980年8月19日 死亡

斉藤安夫さん(40歳)1980年8月19日 死亡

斉藤秀一 君(8歳) 1980年8月19日 死亡

26歳女性 1980年8月23日  死亡

29歳男性 1980年10月16日 死亡

36歳男性 1980年10月16日 死亡

野球観戦の帰りに悲劇を襲った父と息子

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新宿バス放火事件の被害に合った、斎藤安夫さん(40歳)とその長男の秀一君(8歳)は親子で野球観戦を見に行った帰りだったという。

後部座席で座った姿勢のまま焼死した3人のうちの2人だった斉藤さん親子は、ヤクルト‐巨人戦のナイター観戦を見に行っており、斉藤さんの妻はテレビのニュースで事件を知り、野球観戦に行ったきり夫と子供が帰らない事を訴え新宿署に駆けつけると、そこで斎藤さんの名刺と秀一君の半袖シャツの青い布切れを見ると「主人と子供のものです」と確認し愕然としたという。

酷く落胆した様子で、秀一君は大の巨人ファンで、何度もせがんでやっと連れて行ってもらったとの事で、喜んで出かけたそうです。

この事件を知った後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアム、そして秀一君が大ファンだった巨人軍が告別式に花を贈り、王貞治は祭壇にサインボールを備えておりました。

心無き発言が問題に。火だるまになった若き美容部員

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同じく当時の放火事件に巻き込まれ被害に合い亡くなられた、資生堂美容部に勤める今井操さん(21歳)は、いつもこの時間のバスを利用しており、事件当初の後部座席に毎回座っていた為、丸山博文が火を放った際に瞬く間に全身に火傷を負って路上を転げまわっていたとの事で、周りには野次馬が何百人も居たにも関わらず誰1人助けようとはしなかったという。

「熱い、熱い」と泣き叫ぶ今井さんに対して数人が面白がり、「まだ生きてますか?」と能天気に質問したりする人もいたという。この件については助けるどころか、心無い人の発言で非常識にも程があると憤りを感じさせるものであり、問題視されていたとの事で話題になりました。

子供への思いを抱いて、被害に合ったシングルマザー

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また、被害者の中には母子家庭の母親がおり、勤務先から帰宅中に子供の運動靴を購入する為に新宿に立ち寄った際に被害にあったという。

本来であれば、通勤帰宅経路から離れた場所での事故等に遭遇した際は通勤災害として労災は認定されないとの事だが、この事件性から当時の労働大臣である藤尾正行の発言した事により労災が認定されたという。

ひん死の状態から生還し「生きたい」と願ったベストセラー作家

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被害者の中では奇跡的に命を取り留めた人もおりました。

のちのノンフィクション作家の杉原美津子さん(69歳)です。当時杉原さんは異性関係の悩みを抱え自殺願望があったとの事で、当時の放火事件でも逃げる事を躊躇した為に全身80%の大火傷を負ってしまい、ひん死の状態で病院へ搬送され治療の末、奇跡的に生還しました。

搬送されてから1年後に退院し、そのまま犯人・丸山博文が収監されている東京拘置所へ出向き面会を試みたが面会は叶わなかったが、退院した年の12月に丸山博文宛てに「どうかもう一度生きてみてください。やり直しはできます」という手紙を送ったそうです。そして無期懲役の刑が確定後にやっと面会が出来るようになったそうです。

のちに当時の事件である新宿バス放火事件の事を振り返り、「生きてみたい、もう一度」を出版しベストセラーになり、映画化もされました。そして、執筆活動をしている杉原さんはNHKスペシャルの特番で当時の事件から、加害者の心境や当時の感情等を語っておりました。

新宿西口バス放火事件でカメラマンが話題!

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事件当時の写真を収め数々のメディアで話題になった写真は、当時報道カメラマンで活躍しておりました石井義治さんでした。

石井さんは被害者の杉原美津子さんの兄であり、当時の事件については偶然傍を通りかかった際に職業柄、カメラを手に取り事件の様子を一部始終写真を撮り、その写真は翌日の読売新聞の一面にスクープとして掲載されております。

事件から実の妹が被害に遇い、重症を負っている事を知った石井さんは、妹に救護をせず仕事に打ち込んでしまった事を悔やみ、報道カメラマンを引退されました。その後はペンネームを「イシイヨシハル」と改めて風景写真を撮るようになったそうです。

丸山博文の犯行動機は?【新宿西口バス放火事件】

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新宿西口のバスへガソリンと火の付いた新聞紙を投げ込み放火を起こした丸山博文は犯行動機については次のように語っております。

社会を憎み感情を爆発させた丸山博文の犯行

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丸山博文は1980年3月、事件を起こす5カ月前から宿泊費節約するために、新宿駅西口で寝泊まりするようになり、浮浪者のような生活を送っていた。唯一の楽しみはワンカップの酒を飲む事だった丸山博文はいつも新宿駅西口の階段に腰を掛けて飲んでいたときだった。

8月19日、丸山は多摩川競艇に行くが、なけなしの1万円をすってしまう。その後、新宿駅西口に戻り、地下通路に通じる階段に座りこんでカップ酒をあおっていた。

酔いがまわってきたところで、頭上から誰かに「邪魔だな、あっちへ行け!」と罵声を浴びせられ、すぐに辺りを見回したが誰が言ったかはわからず、男性の声という事だけがわかった。恐らくあの停車していたバスに乗り込んだ男に違いないと思い込んだ瞬間、沸々と怒りが込み上げて来たという。

本来小心で真面目な丸山だったが、罵声を浴びせた相手が誰かはわからなかったが、この一言で丸山博文は社会に対するこれまでの鬱憤が爆発したという。「俺には寝ぐらもなければ、家族もいない。どうして俺だけがこんなワリをくうんだ。これまで、何ひとつ悪いことはせず、毎日、真面目に働いてきたのに・・・」

本来小心者の丸山博文だったが、男性の一言でこれまでの境遇から社会に対する怒りが込み上げ、復讐心が芽生えてしまった。

丸山博文は8月15日にお米を炊くのに使うとの事で、新宿4丁目のガソリンスタンドでポリ容器ごとガソリンを購入しておりました。そして事件の前日に罵声を浴びせられてからは、犯行に使用すると決めたそうです。

罵倒されたことにより、社会への恨みによる犯行

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丸山博文はバケツに10リットルのガソリンを入れ、新聞紙に火をつけると罵声を浴びせられた男性が乗り込んだだろうバズに向かい、1980年(昭和55年)の8月19日の21時頃犯行に及びました。

これまでの自身の生い立ちからずっと辛抱してきたうえで、これまで文句1つ言わず賢明に働き、少ない収入ながらでも息子がいる施設へ送金し、自身は住まいを持たず浮浪者同然の生活をしていた事から、当たり前のように帰る家があり、当たり前のように生活している世間に対し格差を感じていたのち、社会への恨みが爆発したと言えます。

放火殺人犯・丸山博文の生い立ち

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丸山博文は1942年(昭和17年)に福岡県小倉市(現:福岡県北九州市小倉南区)で5人兄弟の末っ子として生まれる。丸山博文が3歳の時、母親が急死。父親、兄に育てられるが、父親はアルコール依存症であったため、定職に就いていなかったせいか、丸山の家は貧困を極めておりました。

家計を助けるため、丸山博文は幼少期から農家や大工の手伝いなどをしており、小学校時代からほとんど学校へ通うことが出来なかったため、まともな教育は受けられる事はなく、成人になった今でも小学生レベルの日本語の読み書きが困難であり、読めるべき漢字ですら読めないような状態であったそうです。

それでも何とか義務教育が終了するが父親の病死をきっかけに、建設作業員として日本中の建設現場を転々としながら各地の現場で働いており、勤務態度は真面目だったという。

1972年(昭和47年)に結婚し長男が生まれ、幸せな家庭を築いていく矢先、妻の酒好き・男好きで夜遅くまで遊び歩きの生活で育児放棄の状態が続き、丸山博文との口論が絶えなかった。そして翌年に離婚。しかしこの離婚した元妻が精神的な病を発症し、精神科の病院に入院することになりました。

元妻が育児が出来ない事から、丸山は生後間もない長男を児童施設に預け、各地を転々としながら建設作業員として働き、長男が世話になっている施設へ毎月必ず欠かさず、仕送りをしていたとの事です。

住所不定・低収入・孤独と厳しい境遇の中で抱いた丸山博文の心境

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住所不定・低収入・孤独に耐え続け、稼いだ収入から仕送りをして日々を過ごしてきた丸山博文。丸山の楽しみといえば仕事が終わってからの酒だけだったそうです。

帰る家もなく、頼る身内もいない、真の友人のいないこともあったことから、都会での寂しさから徐々に丸山の心は荒れていき、酒を飲む時が至福の時だったせいか、酒に溺れる日々が続きだんだんと自身の心を壊していったそうです。

酒によるトラブルも多々あったとの事で、1973年(昭和48年)に酔っ払った勢いのせいか、街中で見かけた女性を元妻と勘違いし、追いかけてその女性の自宅に入り込んだことで逮捕される事件を起こしておりました。

当時、警察で受けた精神鑑定によると「精神分裂症(現在の名称:統合失調症)と診断され、起訴されることはなかったとの事。釈放後はまた転々とする毎日でやるせない感情を抱きつつ、仕事を終えて酒に溺れながら、体を休めるといった生活を送っていた。

そんな毎日の中で孤独感に耐え続けいく丸山博文の心は徐々に崩壊していったといいます。そして、通行人による罵倒を浴びせられた事により事件を起こしてしまいました。

丸山博文は知的障害だった?

逮捕後の取り調べから精神鑑定へ

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逮捕後、丸山博文は東京地方検察庁で取り調べを受けておりました。

当時の担当検察官・上林 博氏により「精神障害があるとは思えないが、若干被害妄想的な事を述べている」という事から鑑定留置をし、精神鑑定を依頼したとの事。

当時鑑定を行ったのは東京大学教授であった逸見武光氏であった。精神鑑定の結果、「被害妄想・強迫観念に似た抑うつ症状はあるものの、精神障害があるとは言い切れず、統合失調症ではない」と結論を出しました。

検察側は丸山博文を「建造物等以外放火罪・殺人罪」で東京地方裁判所へ起訴するが、放火については刑法108条の「現住建造物等放火罪」放火で、人が住居に使用しまたは建造物・列車・電車・船舶・鉱坑を焼損する罪と規定しており、但しこの条文に「バス」は明記されていない事から、営業バスは多数の人が乗車する事を想定されているため、バスを列車や電車に準ずるものとしては刑法108条を適用するべきだという意見のあり、判例がなく学説も分かれているとの事で刑法110条の「建造物等以外放火罪」で起訴されました。

1981年(昭和56年)1月に東京地裁で初公判が開かれ、罪状認否では被告人の丸山博文は「覚えていない」と述べた。その事から証人出廷していた逸見武光氏は精神鑑定の期間が短かったため、再度鑑定し直したい事を要望し、東京地裁が逸見氏と上智大学教授であった福山 章氏の2名で依頼し、再度の精神鑑定を行った。

鑑定結果は逸見氏は「複雑酩酊による心神耗弱状態」、福島氏は「単純酩酊・軽度知的障害と心因性妄想の3つの要因による心神耗弱状態」と結論を出しました。

1983年(昭和58年)12月に東京地裁で論告求刑が開かれ、被告人・丸山博文に死刑を求刑しました。が、一方でそれから2か月後の1984年2月に開かれた最終弁論では弁護団により「加害者は犯行当時、長男を預けた福祉施設から「まじめに働け」等と責められ追われているという妄想を抱いていたため、犯行当時は心神喪失状態だった」との事から無罪を主張しました。

1984年(昭和59年)4月24日に第一審判公判が開かれ、東京地裁は「本件について、本来ならば死刑を適用するべき事件であるが、事件当時の被告人は心神耗弱状態であった」と事実認定をしたのち検察側の死刑求刑から量刑を減刑した結果、「無期懲役」の判決を言い渡しました。この判決に対し、弁護側・東京地検の双方が判決結果を不服に思い東京高等裁判所へ控訴しました。

そして、1985年(昭和60年)2月24日の午前に行われた東京高裁刑事第4部にて控訴審初公判で被告人・丸山博文は自身の罪の意識からか、開廷時に突如裁判官席と傍聴席にそれぞれ向かい「ごめんなさい・・」と述べて土下座をして謝罪していたという。閉廷後も謝罪し頭をさげていたそうです。

また、1986年(昭和61年)8月26日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁刑事第4部は第一審・無期懲役判決を支持しており、双方の控訴を棄却する判決を言い渡しました。

被告人・丸山博文については判決文の朗読を終えた後、裁判長に「懲役ですか?」と質問しそれに対し裁判官が「無期懲役です」と答えると「自分は罪にならないのですね」等と理解しがたい言葉を発していたそうです。この判決により無期懲役が確定され、丸山博文は1986年10月7日に千葉刑務所に収監されました。

新宿西口バス放火事件のその後

被害者と加害者が交流していた

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引用: Pixabay

壮絶な事件後、唯一の生還者である杉原美津子さんは犯人である丸山博文の生い立ちを知り不憫に思い、被告人である丸山博文宛てに手紙を送っていたそうです。丸山博文の身体や精神面を気にかけている文面で綴っており、何度も送っていたそうです。

手紙を通して丸山博文との交流をしていた事をNHKスペシャルの特番で杉原さんは語っておりました。杉原さんが退院後に丸山博文が収監されている千葉刑務所へ出向きますが、丸山博文自身が拒否していた為、最初の面会は叶いませんでしたが、1991年(平成3年)4月に弁護士の安田好弘氏と共に千葉刑務所に訪れ、ようやく丸山博文と面会を果たしました。

そして、翌月の1991年(平成3年)の5月には丸山博文から手紙が届き「努力して早く出所できるように頑張ります」という文面だったそうです。ですが、惜しくも最後の手紙となりました。

最後まで壮絶だった受刑者・丸山博文。罪の意識の奥底には・・

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千葉刑務所へ収監された丸山博文はそこでも壮絶な日々を過ごしており、知的作業が出来なかった事、そして被害者と交流があった事から複数の受刑者によるいじめを受けていたそうです。そして1997年(平成9年)10月7日に刑務所内の工場で首つり自殺(55歳没)をしました。

その事実が明らかになったのは自殺してから半年後の1998年4月に報道されました。自殺の原因としては遺書が無く、事前に自殺を示唆する言動は見られなかったというが、弁護人の安田好弘氏によると、受刑者はきっと、自分の子供と同じぐらいの年の子を殺してしまった事で自分は生きてはいけない人間なんだと自身をずっと責め続けていた事でしょう。そして思い詰めた末に計画的に自らの命を絶ったのではないかと推測しておりました。

杉原さんはこの事を知り、深く悲しみに暮れたとの事。面会は出来たものの、被告人と接見する事が出来なった。しかし、例外にも認められたため、叶うなら身元保証人にまでなる意思もあったそうです。その矢先の出来事でした。

悲しみに暮れる中、杉原さん自身も当時の事件により全身80%の火傷を負い搬送され、奇跡的に生還はしたものの火傷の治療で大量に使用された非加熱製剤が原因でC型肝炎に感染し、後に肝臓がんを発症してしまいました。

そして、余命宣告を受けながらも「生きていたい」という信念からこれまで過ごしておられたうえで当時の事件を振り返り、最後の作品として「聞いてほしい 心の叫びを」という当時の新宿バス放火事件を舞台に杉原さん自身が被害者、加害者である丸山博文の心境について原点を見つめ直し被害者感情から30年間の心の叫びを執筆しておられ、その様子をNHKスペシャルで2014年2月28日に放送されました。

そしてこの作品から映画化までになり、多くの人達に知れ渡っていきました。

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