引用: Pixabay
2011年の東日本大震災で発生した津波による被災状況を調べて行くと津波の最高到達点付近ギリギリの所に古くからの神社が建立されているのがわかりました。
東日本大震災の津波では神社も被害に遭っているのですがそのほとんどが新しく建立された神社もしくは他の地域がら移転してきた神社であり、古くから地元に根付いている神社は東日本大震災の津波の影響からことごとく免れているのです。
東日本大震災の時の津波が押し寄せるシーンの映像が多く残っていますがそのシーンを見ると撮影者が神社の境内から撮ったものだったりします。
東日本大震災で発生したような津波から逃げる際は高所に逃げる必要があります、そこで避難した場所が神社の境内ということは神社が津波の影響を受けにくい高所に建立されていると言うのがわかるのです。
東日本大震災の被災地では古くからの経験から津波の到達地点がある程度経験則として認知されているので歴史上津波により被害を受けた神社や祠などは津波の届かないより高所に建立するということになりますが、不思議な事に神社の立地は東日本大震災の津波の最高到達点ギリギリの所になっているのです。
東日本大震災の際の調査結果によると、神社の建物の本殿拝殿の30㎝ぐらいの位置まで、東日本大震災の津波が到達しているのですが社殿には影響がでてないのです。神社から見てすぐ目の前にある海側の地域は東日本大震災の津波で全滅していました。
東日本大震災の津波が到達しなかった古くからの神社の名前を見ると、津神社など津波を連想させるような名前です。仙台には浪分神社という神社があります。
東日本大震災においては津波が分かれてこの神社の直前まで波がきたのです。浪分神社の立地は高所という訳ではありません。東日本大震災の津波の最高到達点は平地になっているのですが、浪分神社がギリギリの位置であり、神社が祭る神による神秘的な力のおかげなのか審議のほどは定かではありません。
三陸地方には津波石という石碑があります。過去の津波においての最高到達点のところに石碑を立てたのです。その石碑には「ここから下には絶対に家を建てるべからず」と彫られています。
どんなことがあろうともこの下に家を建てるなという強烈なメッセージです。これは先達達が津波の影響を後世に残すために示してくれた大切な思いです。東日本大震災においても津波石の石碑まで津波は到達していないのです。
しかし、その思いも数十年、数百年という長い年月を経つうちに意味を失ってしまい津波石よりも下の立地に家を建ててしまうのです。
2011年3月11日、三陸沖を震源にするM9.0、最大震度7の東日本大震災が発生しました。その東日本大震災を起源とする津波の高さは局所的に観測史上最大である40.4Mを記録。
東日本大震災の津波は1000年に一度クラスの巨大津波であり、東北地方の太平洋沿岸地域は壊滅的な破壊を受けたのです。そんな中、古くからある神社のほとんどが東日本大震災の津波被害から助かったという事がわかっている。
東日本大震災後の調査によると、東日本大震災における津波浸水域の調査において「神社が浸水線ギリギリで被害を受けていない」という事実がみつかったのです。周囲は東日本大震災の津波によって破壊され瓦礫だらけで家屋は破壊、一面の荒廃風景の中、神社が被害を受けずに鎮座しているのは不思議で神々しい風景であったといわれます。
神様によって守られたとも言える風景ですね。
神社仏閣のある地域は?
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東日本大震災において被害を受けなかった神社仏閣のある地域にはなにか秘密があるのでしょうか?
東日本大震災の被災地域にある神社仏閣がどういうものか神社仏閣と地域について考えてみました。
過去の経験に基づき先人たちが大津波に対する警告とする位置に神社を建立した?
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仙台市にある浪分神社は東日本大震災以前から津波がこの神社までで止まっていたといわれます。
この神社に伝わる伝承で過去に東北地方の太平洋側で発生した大地震による大津波の伝承が残されています。現在の浪分神社の鎮座地は、1611年(慶長16年)に発生した慶長三陸地震により発生した大津波がこの地域を襲った際に大津波が2つに分かれて、その後水が引いた場所だと伝承されています。
浪分神社の建立後、あるときに東北地方で大津波が発生し、何度も大波が押し寄せてこの地でも多くの溺死者が発生したと伝わっています。
これらの津波による伝承は、稲荷神社の神徳を「津波除け」として高めることにつながり、浪分神社は「浪分大明神」という名称で呼ばれるようになりました。
なぜ、村の神社は津波で流されなかったのか?
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「なぜ、村の神社は東日本大震災の津波で流されなかったのか?」理由は二つあると考えます。
理由の一つ目は神社の立地場所が東日本大震災の津波の届くぎりぎりの高さの標高にあったということです。神社の位置と標高線を重ねて見ると、南相馬市原町では標高10M、相馬市では標高5M近くに神社が立地していることがわかりました。
このように、規則的に配置されている神社は古い神社に多く見られており、明治時代以降に新しく建てられたり移転してきたりした新しい神社は見られませんでした。その結果、東日本大震災において新しい神社の多くが流されてしまったのです。
理由の二つ目jは、神社を取り巻く鎮守の杜が津波の勢いを削いで弱めていた事です。神社の周囲を取り巻く樹木には、東日本大震災の津波によって折れてしまったものが多くあります。しかし、鎮守の杜の内陸側では家屋などに大きな被害がでていません。
杜の樹木が防波堤になり、樹木にぶつかった波が渦巻く事で、その勢いを弱めることになったのです。
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東日本大震災の後、福島県沿岸部の調査を行った結果によると「神社の目の前にがれきの山ができている」という状況が多くみられたのです。
南相馬市の八龍神社では高い丘の上にある神社の手前の土手の10Mの高さまで東日本大震災の津波が到達し、押し寄せた水は境内の階段を登り社殿の土台すれすれまで到達した跡がのこっていました。だが、不思議な事に社殿は東日本大震災の津波の影響を受けず無事な姿で残されていました。
照崎神社という神社では周囲の立ち並んでいた家々は東日本大震災の津波で無残に破壊されており、わずかに土台だけが残される状況で、照崎神社の杜と社が無事な姿でいる光景が見られました。
この照崎神社も境内ぎりぎりの位置まで東日本大震災の津波の水が押し寄せて来た跡が残っているが社殿は影響が無く無事な状態で残っていた。神社の周囲の状況を見ると、神社から100M程の家々には東日本大震災の津波が到達していないのです。
この照崎神社は東日本大震災の津波で破壊された集落と無事だった集落の境界に建立されていたのです。
他にも相馬市の津神社、陸前高田市の諏訪神社、仙台市の浪分神社、宮城郡の鼻節神社など多くの神社が東日本大震災の津波の被害を受けず無事だったのです。
出雲という地域は、湖があり、河川があって、大きな斐伊川という川があります。この斐伊川をヤマタノオロチに例えたのではないかということが考えられます。時には氾濫し大きな被害を与える川は龍に例えられることがあります。暴れ川として伝わる川を龍の暴れる姿に見立てるのです。
3月19日には、仙寿院の住職が会長となって、釜石市と大槌町にある17の寺社仏閣で釜石仏教会が立ち上がりました。被災して生き残った生存者と亡くなった死者の救済のために宗派を超えて協力して行政に働きかけることを目的としていました。
仏教会は身元不明者の合同葬儀や合同慰霊祭を執り行ったほか、東日本大震災慰霊施設と津波学習施設の具体案を釜石市に提出するなどの活動を意欲的に行ってきました。さらに、2013年10月には災害時に寺社仏閣を被災者の収容施設として運用することを「地域の安定確保推進協定」として釜石市と締結しています。
寺社は広いだけでなく、畳屋絨毯もあるので体育施設よりも快適に過ごせます。安心感もあり、震災時の心のケアも期待できます。古くからの寺社仏閣は檀家制度をもっており、その地域との繋がりが密接であり、地域の守護を司ってる拠点でもあったのです。
地域の助け合いの拠点となる志波彦神社・鹽竈神社
Sasa’sさん(@sasa54__s)がシェアした投稿 – 2019年 7月月11日午前1時59分PDT
陸奥国一之宮として、古くより朝廷をはじめとする多くの人々からの崇敬をあつめ、「しおがまさま」との尊称で知られている、宮城県塩竈市の志波彦(しわひこ)神社・鹽竈(しおがま)神社があります。この神社のもつ神域の森山を地元の人々は親しみを込めて「お山」と呼んでいます。
東日本大震災の際にも、地震や津波の被害を受けた多くの人々が「お山」へと避難してきていました。志波彦神社・鹽竈神社は塩竈市と「災害時における施設利用に関する協定書」を締結しています。境内の一角に建つおよそ9万坪ある剣道場が,災害時に市の指定避難場所として避難者の受け入れを行うのです。
災害時に、指定避難所として活用される剣道場は、普段は市民の剣道場として使用されています。そこに、市が備蓄倉庫を設置し、災害発生時に避難者168人が3日間過ごせる水や食料、毛布、簡易トイレや石油ストーブなどが保管管理されています。
東日本大震災の教訓を活かして、いかに市民や自治体と共に助けあい、また記憶を風化させずいかに後々まで伝えていくか。「防災」の拠点として、寺社が担う役割は地域において大きなものになっているのです。
東日本大震災の神社仏閣伝説とは?
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東日本大震災において祭られている神様によって被災状況に大きな違いがありました。
稲荷神社は多くは東日本大震災の津波により多大なる被害をうけましたが、スサノオを祭る八雲神社・須賀神社、さらには熊野神社は被害が少なかったのです。神様によるご利益があったのか?ということになります。
これらの神社にはどんな神社仏閣伝説で残されているのでしょうか。八雲神社・須賀神社がもつスサノオの神社仏閣伝説、熊野神社の水をつかさどる神にまつわる神社仏閣伝説についてひも解いてみたいと思います。
これらの神社仏閣伝説を理解することで今後、東日本大震災で発生した大津波のような災害に対しての備えになることができるといえます。
津波が神社に到達しない理由は?【神社仏閣伝説】
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なぜ津波は神社の寸前で止まったのか、東日本大震災において津波が神社に到達しなかった八雲神社・須賀神社、熊野神社に伝わる神社仏閣伝説に理由が伝わっているといえます。
八雲神社・須賀神社にはスサノオの神社仏閣伝説、熊野神社には水をつかさどる神にまつわる神社仏閣伝説が残されています。これらの神社仏閣伝説について考えてみましょう。
八雲神社・須賀神社の神社仏閣伝説
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引用: Pixabay
東日本大震災において八雲神社・須賀神社はほとんど被害を受けませんでした。
この神社はスサノオノミコトを祭神として祭っているのです。逆に、被害を受けた神社のほとんどがアマテラスや稲荷大神を祭っている神社だったという調査結果がわかっています。
スサノオノミコトを祭る神社が津波被害を逃れた理由についスサノオノミコトの神社仏閣伝説にあると言えます。古事記によるとスサノオノミコトは斐伊川に住むヤマタノオロチの尻尾から取り出した天叢雲剣によってヤマタノオロチを退治したとあります。
スサノオノミコトの伝説として伝わる神社仏閣伝説は斐伊川の氾濫を伝説として語り継いできたもとの言われます。スサノオノミコトは水害などの自然災害や震災を治める神様です。それゆえに災害に遭わない場所に祀られてきたと考えられます。
神社仏閣伝説として水害に対する教えを伝えるとともに水害に対しての安全地帯として意味もあったのだと言えます。
さらに、スサノオノミコトは八坂神社の祭神として祀られている牛頭大王と同一視されてきたが、両神とも神社仏閣伝説として伝わる伝承によると水をコントロールする神として伝わっています。
そのために、津波などの水害から人々を守る守護神として、津波などの災害を避けられる場所に鎮座されたのではないかと考えられます。
大津波を分断して鎮める浪分神社の神社仏閣伝説
仙台市若林区にある浪分神社には大津波を2つに分断して鎮めるという神社仏閣伝説が伝わっています。
東日本大震災においてもこの神社は津波による被災を免れているのです。鎮座している場所は海岸から直線距離で5.5km、海抜約5Mと決して標高の高い場所にあるわけではないのです。
浪分神社に伝わる神社仏閣伝説によるとこの神社は1611年(慶長16年)に発生した慶長三陸地震の大津波が神社に到達した際に、直前で津波が2つに分かれて水が引いた場所であると伝わっています。
さらに神社仏閣伝説として伝わる伝承に、神社の創建後に大津波が浪分神社を襲うと、海神が白馬に乗って降臨し、大津波を2つに分断して鎮めたという伝説も神社仏閣伝説として浪分神社に伝わっているのです。このような神社仏閣伝説よって、祭神は「浪分大明神」と呼ばれるようになったそうです。
しかし、この神社仏閣伝説は次第に人々から忘れられて、地元に住む人々も「神社よりも海側に住むな」という話を聞いたことがないと言います。
神社仏閣伝説の伝承が途絶えたとしても、浪分神社が東日本大震災においても安全であったように、神社の名前が如実に神社仏閣伝説で伝えていた内容を語っているとも言えるのです。
摩訶不思議!神社仏閣伝説!
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東日本大震災で発生した津波による被害を受けなかった神社についてまとめて来ましたが、神社の鎮座している場所には意味があったのがわかりました。
古くから伝わる神社仏閣伝説が水害に対する警告を与えるものであり、後の世に続く人々に対して警鐘を与えるものであったのがよくわかりました。
また、水害の瀬戸際に鎮座することで神社仏閣伝説として祀られる神々が災害から人々を守るための防壁として加護を与えてくれているとも考えられます。東日本大震災で発生したような大津波は想定されるものではありませんでした。それでも神社は無事だったのです。そこに神様の加護がなかったとは言えないと思います。
今後の災害から身を守るためにはこれら古くから伝わる神社仏閣伝説に目を向けてみるもの必要なのかもしれません。