Atsushiさん(@atsushi_88r)がシェアした投稿 – 2015年 2月月1日午後7時51分PST
まだ記憶に新しい、イスラーム過激派組織ISILによる日本人拘束事件。
ニュース番組では、拘束された日本人がISILのメンバーの前にひざまずき、じっとカメラを見つめる様子が連日報道されていましたよね。
本記事では、そんなISIL日本人拘束事件の被害者である湯川遥菜にスポットを当て、彼の生い立ちや経歴、そしてなぜ彼がISIL日本人拘束事件の犠牲者になってしまったのか、その真相に迫りたいと思います。
湯川遥菜が生命の危険を冒してまでシリアに行った理由とは。そして、湯川遥菜がわたしたち日本人に残したものとは、いったい何だったのでしょうか。
湯川遥菜の生い立ち&経歴まとめ【ISIL日本人拘束事件】
引用: Pixabay
ISIL日本人拘束事件の犠牲者となってしまった湯川遥菜は、それまでどのような経歴を辿っていたのでしょうか。
その経歴は、私たちの想像を絶するほど壮絶で、波乱に満ちたものだったのです。
事件の真相に迫る前に、まずは湯川遥菜の生い立ちと経歴について振り返ってみたいと思います。
【1】いじめに苦しんだ少年時代
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湯川遥菜は、1972年4月27日に千葉県で生まれました。本名は「湯川正行」。
湯川遥菜は、自身のブログでいじめにあった経験を告白しています。それをきっかけに、本心を隠し、他人から心を読まれないように振る舞うようになってしまいました。
湯川遥菜はのちにミリタリーショップを開業したり会社を立ち上げたりと、実業家として活動するようになります。
少年時代に身につけた他人から心を読まれないようにする術が、ビジネスでは大いに役立ったとのちに語っています。
【2】ミリタリーショップの開店
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千葉県内の私立高校を卒業後、知人らの協力も得てミリタリーショップ「日高屋」を開業します。
そして、店の常連客であった女性と結婚。湯川遥菜の生活は、次第に充実してきたかのように思われました。
しかし経営はうまくいかず、湯川遥菜は10年も経たないうちに「日高屋」の営業権を手放すこととなってしまいました。
この頃の湯川遥菜の様子をのちに父・正一さんがブログに書き残しています。
そのブログによると、「日高屋」の倒産により借金を抱えた湯川遥菜は夜逃げをし、公園で野宿をすることもあったといいます。
その借金は、のちに正一さんがアパートを売り払って返済することとなりました。
そしてそれから数年の間、湯川遥菜と正一さんの交流は絶たれることとなってしまったのです。
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引用: Pixabay
「日高屋」の倒産により、湯川遥菜は精神的に追い詰められてしまいました。
そして2008年頃、局部を切り落として自殺未遂を図ったのです。
そのときは妻に止められ一命をとりとめましたが、これを機に湯川遥菜の言動はますます破天荒になっていきました。
「正行」という本名を棄て、「湯川遥菜」と名乗るようになった彼は、自身を「男装の麗人」の異名でも知られる女スパイ・川島芳子の生まれ変わりだと豪語するようになったのです。
「遥菜」という女性名に改名した理由は、「失敗したら女性として生きることも考えていた」からだといいます。
遥菜と名前を変えてからしばらくして、ふたたび父親である正一さんとの交流が復活。正一さんは、実の息子が局部を切断して自殺を図ったこと、名前を「遥菜」と改名したことを初めて知らされました。
正一さんは戸惑いながらも、最終的には湯川遥菜を見守る姿勢をとるようになったといいます。
【4】民間軍事会社の設立
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2015年1月、湯川遥菜は民間軍事会社「ピーエムシー株式会社」を設立します。
民間軍事会社とは、国家を顧客として軍の業務代行や人員の派遣、軍事教育などのサービスを行う企業です。
ミリタリーショップ「日高屋」の開業につづいて「ピーエムシー株式会社」の設立に踏み切ったことから、湯川遥菜の軍事への執着のようなものが垣間見えますよね。
その執着が、湯川遥菜をシリアに駆り立て、のちのISIL日本人拘束事件の悲劇に繋がってしまったともいえるのではないでしょうか。
しかし、「ピーエムシー株式会社」の実態についてはほとんどわかっておらず、ホームページしか存在していない、というのが実際の状況だったようです。
会社をきちんとしたものにしたい、そのために戦地で実績を積みたい、という焦りも、湯川遥菜を戦地に駆り立てた原因であるとされています。
【5】シリアへの渡航
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Mathy’sさん(@mathyshop)がシェアした投稿 – 2015年 2月月2日午前7時43分PST
「ピーエムシー株式会社」を立ち上げてわずか3か月後の2014年4月、湯川は突如として日本を飛び立ちシリアへ向かいました。
このときにも1度シリアの武装組織に拘束されていますが、そのときは現地で活動していたジャーナリスト・後藤健二の協力のおかげで解放されたといいます。
これを機に、湯川遥菜と後藤健二の交流がはじまりました。ジャーナリストとして数々の戦場を見てきた後藤健二が、戦地への執着の強い湯川遥菜には憧れの存在として映ったのでしょう。
湯川遥菜は父親の正一さんに対して、「後藤健二さんは兄のような存在」と嬉しそうに語っていたといいます。
しかし、その4か月後の2014年8月、今度はイスラーム過激派組織ISILに拘束され、救出のためシリアに向かった後藤健二さんも、同じように拘束されてしまいます。
そしてそのできごとが、ISIL日本人拘束事件という悲劇につながってしまったのです。
湯川遥菜の巻き込まれたISIL日本人拘束事件の概要
引用: Pixabay
拘束された日本人が、覆面をかぶったISILのメンバーの前でひざまずきじっとカメラを見つめる様子が連日報道され、日本中に緊張が走ったISIL日本人拘束事件。
ここで、ISIL日本人拘束事件とはどのような事件だったのかを一度振り返っておきましょう。
【1】ふたりの日本人の拘束
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ISIL日本人拘束事件とは、シリアで湯川遥菜とジャーナリストの後藤健二がISILに拘束され、殺害されてしまった事件です。
2014年8月14日、湯川遥菜は「戦地に直接赴き、現地のリポートを書きたい」と反政府勢力とISILの戦闘の取材に行き、ISILに拘束されてしまいました。
その3日後、ISILが広報用のツイッターアカウントである動画を公開。そこに映っていたのは、頭を地面に押さえつけられ、ISILのメンバーに尋問されている湯川遥菜の姿でした。
湯川遥菜は「自分はカメラマンで、兵士ではない」とISILのメンバーに説明しましたが、ISILは湯川遥菜が武器をもっていることを糾弾し、湯川遥菜が民間軍事会社のCEOであるという情報をつかんでしまいます。
それにより、湯川遥菜はISILにスパイであるとみなされてしまったのです。
湯川遥菜が拘束されてしまったことを知った後藤健二は、外務省の3度の制止を振り切り、湯川遥菜救出のためにISILの支配下にあったシリアのラッカに入りました。
しかし、帰国予定日だった10月29日を過ぎても、後藤健二は日本に帰ってきません。そして11月、後藤健二の妻のもとに、彼を拘束しているというメールがISIL関係者から届いたのです。
こうして、湯川遥菜と後藤健二、ふたりの日本人がISILに拘束されてしまったことが明らかとなりました。
【2】身代金の要求と動画の公開
年が明けた2015年の1月20日、またもやISILがある動画を公開しました。
そこに映っていたのは覆面をかぶったISILのメンバーである通称ジハーディ・ジョン。彼はカメラに向かって、72時間以内に身代金を支払わなければ湯川遥菜と後藤健二を殺害すると宣言しました。
要求された身代金の金額は2億ドル。日本円にして約230億円の大金でした。
【3】湯川遥菜の殺害
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しかし、身代金の要求に応じなかった日本政府に対してISILは逆上。1月24日の午後11時に新たに公開された静止動画には、「湯川遥菜を殺害した」というメッセージとともに後藤健二の姿が映されていました。
このとき、後藤健二が手に持たされていたのは、湯川遥菜と見られる人物の遺体の写真でした。
写真の内容は、湯川遥菜のものと見られる遺体の上に、同じく湯川遥菜のものと見られる首がのせられているというショッキングなものでした。
湯川遥菜が目の前で殺害されたとすれば、その瞬間の後藤健二の恐怖はどれほどのものだったのでしょうか。
【4】後藤健二の殺害
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そして2月1日早朝、湯川遥菜に続き後藤健二までもが殺害されたことが報道されました。
ISILは、後藤健二殺害の瞬間をおさめたとされる映像を公開。口を塞がれ、首にナイフを押しつけられる後藤健二の姿に、日本中が衝撃を受けました。
こうして、ISILによって二人の日本人が拘束、殺害されてしまったのです。
湯川遥菜はなぜシリアへ行ったのか
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湯川遥菜は、なぜ生命の危機を冒してまでシリアに渡ったのでしょうか。
湯川遥菜は民間軍事会社「ピーエムシー株式会社」を設立したものの、大手海運会社から経験不足を指摘され、営業には苦戦していました。
シリアに渡ったのは、戦地を見て経験を積み、紛争地帯での人脈や実績を作るためだったとのちに湯川遥菜は話していたといいます。
しかし、周囲の人々は「戦地に行くには準備不足なのでは?」と湯川遥菜に懸念の目を向けていました。
現地の言葉や英語が不自由であっただけでなく、シリアの戦闘部隊に対して「民間軍事会社」と記載された名刺を渡していたというのです。
これについては、のちに後藤健二が「紛争地帯で軍事会社の関係者と名乗るなんてありえない。スパイだと誤解されたに違いない」と指摘しています。
そして、一度目の拘束と解放を経て、「もう危険な所へは行くな」という周囲の制止も聞かず、湯川遥菜は二度目のシリア渡航に踏み切りました。
渡航前、湯川遥菜のもとにはFacebookなどを通じて、シリアの戦闘部隊のメンバーから「今度はいつシリアに来るんだ?」などといったメッセージが届いていたのです。
湯川遥菜は、「自分はこんなに必要とされている。シリアに貢献しなければ」とすっかり熱くなってしまったのでした。
後藤健二さんも湯川遥菜の二度目のシリア渡航に反対したひとりでしたが、最終的には「とにかく生きろよ」と彼を送り出したといいます。
湯川遥菜は「わかりました」と明るく答えましたが、彼だけでなく後藤健二までもがシリアで命を落とすこととなってしまったのでした。
湯川遥菜の家族の現在【ISIL日本人拘束事件】
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シリアに渡航し、ISILによって殺害されてしまった湯川遥菜。彼の死後、残された家族はどうなってしまったのでしょうか。
湯川遥菜の妻は、彼がシリアに行く4年前に肺がんで亡くなっています。そのため、残された家族は父・正一さんひとりきりです。
正一さんは湯川遥菜がISILに拘束されたことを知った際、「息子が世間を騒がせてしまって申し訳ない」と複雑な心情を吐露しました。
そして湯川遥菜と後藤健二の殺害が報道されると、「息子を助けに行ってくれて命を落とした後藤健二さんと、ご家族に申し訳ない」と謝罪。
つづけて、「息子のために尽力してくれた、政府や関係者の方に感謝しています」ともコメントしたのです。
息子を殺害された怒りや悲しみを押し殺し、周囲の人々に謝罪と感謝の気持ちを伝えようとするその姿に、国内外からは称賛の声が寄せられました。
当初は湯川遥菜の活動に疑問をもちながらも、最終的には「信念があるのだろうから、腹をくくって頑張りなさい」と見守っていたという正一さん。
その矢先、湯川遥菜は渡航先のシリアでISILによって殺害されてしまったのです。
ビジネスに失敗して多額の借金を抱え、自殺未遂を経てようやく信念をもって活動を始めたように見えた湯川遥菜。
その姿を見守ろうとしていたのにもかかわらず、遠い異国の地で息子の命を奪われてしまった正一さんの無念は計り知れません。
湯川遥菜の残したもの。
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湯川遥菜の殺害後、日本では「湯川遥菜たちが殺害されたのは自己責任なのか?」という論争が巻き起こりました。
周囲の制止も聞かず、危険だとわかっている場所に自らの意思で赴いたのだから、そこでどんな危険な目に遭おうとそれは自己責任だ、という声が目立つようになっていました。
湯川遥菜がほとんど「素人」同然の状態で戦地に赴いてしまったのも、批判を集めることとなった原因かもしれません。
また、「元祖炎上系ユーチューバー」のシバターが、動画内で「湯川遥菜が殺されたのは自業自得」と発言。コメント欄には視聴者からの賛否両論が寄せられ、たちまち動画は炎上しました。
たしかに、周囲の制止を振り切ってシリアに渡ったのは、湯川遥菜の「自己責任」であるかもしれません。
しかし、それを理由に政府や国家関係者が海外で危険にさらされている日本人を見捨ててもかまわない、という風潮が広まってしまうのはとても怖ろしいことですよね。
湯川遥菜は、私たち日本人に「自己責任論を強行することで、日本人同士の同胞意識が衰退しつつある」という現状に気がつかせてくれた、といえるのではないでしょうか。