あさま山荘事件をわかりやすく解説!犯人(連合赤軍)・人質のその後は?

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あさま山荘事件とは?

引用: Pixabay

グロい鉄球のあさま山荘事件とは連合赤軍(犯人)と深いつながりのある事件です。連合赤軍(あさま山荘事件)とは異なる組織だった赤軍派と革命左派の一部が合体してできた組織。

革命戦士」を育てるとは名ばかりで、次第に過度な暴力が行われるようになり死者も出しました。つまり、あさま山荘事件が起こる前より、連合赤軍(犯人)そのものが機能しない状態に陥っており指揮系統がかなり乱れていたのです。

そのうち現在の群馬の基地にいた連合赤軍メンバーが警察の網の目をかいくぐる目的で長野への逃亡を計画(あさま山荘事件)。途中、さつき山荘で食糧を確保し、捜査中のパトカーに発見されます。

さつき山荘を脱出したメンバーは自動車を求めて、あさま山荘へと到着(あさま山荘事件)。グロいあさま山荘事件の舞台へと到着するまでに他の仲間は逮捕され、あさま山荘には坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教とその弟の5名のみでした。

そして、長野県警と警視庁、警察庁のチームがあさま山荘に突撃を開始するのです(あさま山荘事件)。

 

あさま山荘事件の概要!

 

【1】あさま山荘への立てこもり


引用: Pixabay

あさま山荘には民間人(人質)が一人いるだけでした。管理人(人質の夫)はお客さんを外に案内していたため不在だったのです。

グロいあさま山荘事件で客観的には人質(民間人)でしたが、あさま山荘事件の犯人グループが人質として利用することはなく、警察を侵入させないための布石と位置づけていました。

実際に人質がいることで警察はなかなか侵入できませんでした。

この人質の扱いはあさま山荘事件の犯人・坂口の意向によるもので、人質を取って要求を警察に伝えるのではなく「無言の抵抗」を信条としていたからです。そのため、あさま山荘事件の連合赤軍と民間人(人質)との間には会話もあり、連合赤軍側から人質ではないと人質本人(民間人)にも伝えていました。

 

【2】警察の対応


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グロい鉄球のあさま山荘事件は長野の軽井沢で起きたので最初は長野県警が台頭していました。しかし、警視庁や警察庁からもマークされていた「連合赤軍(あさま山荘事件)」とは、現在でも警察の威信にかけて捕らえたい存在。

そんな中、長野県警の失態によりあさま山荘事件で負傷者が出たことから、あさま山荘事件の指揮権は佐々淳行警視正を中心とした警察庁(国)や警視庁(東京都)へと移ったのです(長野県警が強い縄張り意識を主張)。

最初は連合赤軍(あさま山荘事件)が思想犯であるため、犯人の家族が説得を試みます。情に訴える作戦です。思想犯とは国家転覆を狙った犯罪者に使われます。

しかし、連合赤軍(あさま山荘事件)からの反応はなく、彼らは親族が乗っているだろう特車へ向けて発砲。発砲の理由は警察サイドが家族の情を逆手にとったためと言われています。

 

【3】突入

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次に警察は民間の協力を得て、杭打機に鉄球をくくりつけます(あさま山荘事件)。

あさま山荘の二階部分の壁を鉄球で破壊。水圧を上げた放水によって連合赤軍(あさま山荘事件)を疲弊させる作戦に出たのです。放水とは強力な水圧で攻撃することを指します。人質(民間人)と犯人は別の階にいると警察は踏んでいました(人質2階、犯人3階)。

しかし、放水時間には限りがあり、緊密な連携を必要としていました。鉄球によって壁が破壊されると、放水が開始されます。鉄球とはクレーンについた固まりを指します。

連合赤軍(あさま山荘事件)と警察サイドが激しい銃撃戦を繰り広げたのちに、一階から機動隊が突入。銃撃戦を経て部屋のバリケードを破壊し、一気に犯人を生け捕りにします(あさま山荘事件)。

無事に人質(民間人)も救出し、連合赤軍のメンバー全員を生きたまま確保するに至りました(あさま山荘事件の終結)。

 

あさま山荘事件の経緯は?

 

【1】川島豪の存在

連合赤軍(あさま山荘事件)は銀行強盗によって十分な資金を獲得していました。しかし、武器の個数に乏しく、武器の調達は当時の連合赤軍にとって急務の課題だったのです。

もともと武器の調達とは1972年に起きたグロい鉄球の「あさま山荘事件」のためではなく、獄中にいた連合赤軍の指導者・川島豪を救出するためのものでした。

川島豪は1969年12月8日に米軍基地爆破未遂の容疑で逮捕されていました。そのため、連合赤軍は、出廷のために川島豪が横浜の拘置所から裁判所へと護送されるところを救出するという計画を立案したのです。拘置所とは主に刑が確定していない犯罪者が入ります。

それが真岡銃砲店襲撃事件へとつながります。

 

【2】武器の調達

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引用: Pixabay

1971年、連合赤軍のメンバーは栃木県の真岡にある銃砲店(民間人)を襲撃します。

そして、散弾銃9丁、ライフル1丁、空気銃1丁、銃弾およそ2,300発を強奪することに成功。散弾銃とはショットガンのことで威力の低い弾が拡散することで攻撃するタイプの銃です。

これで、連合赤軍の武器不足という問題が解決されたのです。襲撃に際して、政治活動で民間人を襲撃するのは抵抗があったと内輪もめしています。それは警察(連合赤軍の敵)と銃砲店が手を結んでいるというロジックによって正当化されました。

 

【3】長野への逃亡

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当時、連合赤軍(あさま山荘事件)は都心部での活動が思うようにできなくなっており、山岳地帯をベースとして合同軍事演習を行っていました。

しかし、主なベースとなっていた群馬の山岳地帯にも群馬県警の手が伸びるようになり、長野ならば安全ではと犯人・坂口を中心に移動を開始(あさま山荘事件)。

栃木の銃砲店襲撃で手にした武器を手に取って、軽井沢のあさま山荘へと辿り着くのです(あさま山荘事件)。当時のあさま山荘は軽井沢レイクニュータウンと呼ばれ、新しく開発されたエリアでした。

そのため、連合赤軍メンバーの地図とは違うということで偶然、あさま山荘へと入ったのです(あさま山荘事件)。

 

あさま山荘事件の内容を総まとめ!

 

【1】連合赤軍の発足

グロい鉄球のあさま山荘事件とは、何の前触れもなく起きたわけではありません。

もともと都道府県警察が日本各地にいる赤軍派や革命左派を警戒しており、大菩薩峠事件やよど号ハイジャック事件などでは犯人逮捕など一定の成果を上げていました。

その結果、グロいあさま山荘事件の前に赤軍派も革命左派も求心力を失い、勢力が弱体化していたのです。そこに赤軍派の中で軍部としての位置づけであった中央軍と同じく軍部の革命左派・人民革命軍が合体。

「赤軍」という名称でスタートしました。時に1971年7月15日のことでした。のちに獄中にいた革命左派の中心的人物・川島豪によって「連合赤軍」へと改名。

獄中からも指示を出すほど川島豪とは影響力のある人物だったのです。

 

【2】連合赤軍の思想

連合赤軍内部では毛沢東主義をとっており、いくつかある毛沢東の思想のうち人民戦争理論を採用していました。人民戦争理論とは全人民の力によって敵に大ダメージを与えるという戦争論で民間や国民とは軍事の準備形態であるという考えです。

つまり、すべては国家が所有し、国民はそれを貸与されているということ。職業軍人と国民とは別に考える現在の日本やアメリカとは大きく考えが異なります。

一方で連合赤軍内部でスターリンは悪玉とされており、一般的な毛沢東主義とは異なる側面もありました。元革命左派の森恒夫がその思想を強く支持。粛清を恐れて批判をしなかったメンバーもおり、連合赤軍(あさま山荘事件)は一枚岩ではなかったようです。

 

【3】合同軍事演習の実施

引用: Pixabay

1971年12月。連合赤軍は「南アルプス」で合同の軍事演習を行います。

グロい鉄球のあさま山荘事件発生の数カ月前です。誕生したばかりの連合赤軍内の連携を深める目的があったのでしょう。もともと赤軍派と革命左派の軍事部門がフュージョンした軍隊だったので、軍事演習を行うのは自然な流れでした。

しかし、軍事演習の最中、主導権争いが遠因と思われるいざこざが発生。解散するかと思われましたが、お互いに両派の批判を受け入れる結果となり、友好的な状態で演習は終わったとのことです。

 

【4】山岳ベース事件とは?

実質的な内乱となった山岳ベース事件。山岳ベース事件とは「総括」と称して、思想の相いれないメンバーを一方的にリンチ、殺害した事件です。

これによって、連合赤軍(あさま山荘事件)の悪評が高まり、29名のうち12名が亡くなりました。生きているのは17名だけです。

そのときに拠点となっていたのが「榛名ベース」や「迦葉ベース」と呼ばれる場所で、グロい鉄球のあさま山荘事件の犯人・坂口もそこに滞在していました。

 

【5】あさま山荘事件の発生

当時、連合赤軍の中心的存在だった森や永田が資金調達のため東京へと移動していました。そのため、グロい鉄球のあさま山荘事件を起こした犯人・坂口を中心にある行動を起こすことなったのです。

プロジェクト(あさま山荘事件)は妙義山を超えて、群馬県から長野県へと拠点を移すというものでした。榛名ベースや迦葉ベースが警察や付近の住民に見つかり、警戒感を強めたのでしょう。

グロいあさま山荘事件の犯人・坂口ら5人は現在もあるレンタカー制度で借りたライトバンに乗って移動を開始。途中の妙義湖付近で泥にはまり、立ち往生してしまいました。

そこに警察が職務質問と称して近寄ってきます。ところが、グロいあさま山荘事件の犯人・坂口を含む3人が逃亡。車の中にいた2人は無言を貫き、「森林法違反」の容疑で逮捕されました。

一方の逃亡した犯人・坂口チームは、民間人のトラックをヒッチハイクして、留守を預かっていた6人と合流。一路、佐久方面を目指します。道路には警察が張っていましたが、グロい鉄球のあさま山荘事件の犯人・坂口らは虚を突いて急斜面を下るルートを選択。

見事に軽井沢レイクニュータウン(あさま山荘事件)へとたどり着きます。しかし、そこは開発されたばかりの土地。グロい鉄球のあさま山荘事件の犯人・坂口たちの持っていた地図には一切載っていなかったのです。

そして、偶然にもきれいな山荘を発見、グロい鉄球のあさま山荘事件へと発展します。このとき、合流して9名となったメンバーのうち、5名があさま山荘に到着。

食糧の調達をしていた4名とは別行動をしていました。彼らは軽井沢の列車内で警察に職務質問を受け、銃刀法違反(実弾および手製爆弾の所持)などで逮捕されていました。

 

警察と日本赤軍の戦い【あさま山荘事件】

 

【1】逃走か、立てこもりか?

結果として立てこもりを選択したグロい鉄球のあさま山荘事件の連合赤軍ですが、実は逃走するという計画も練っていました。

あさま山荘に到着する前に「さつき山荘」に寄っており、そこには自動車がなかったのです。そのため、自動車のある山荘を目指して、たまたま入ったのがあさま山荘でした(あさま山荘事件)。

当初、犯人の坂口(あさま山荘事件)は民間人を人質として逃走すると同時に連合赤軍の親玉である「森」と「永田」の釈放を求める腹積もりだったのです(東京で逮捕)。

しかし、グロい鉄球のあさま山荘事件を引き起こした連合赤軍が人質(民間人)も含め、みな食事をとっていないこと、グロい鉄球のあさま山荘事件の犯人・坂口自身が靴の片方を植垣に貸していたことを理由に逃走を断念。

グロい鉄球のあさま山荘事件当時の付近は真冬の2月でしたから、素足で深い雪の中を行くのは大変でした。そして、あさま山荘事件の坂東も坂口の意見に同意したため、車での逃走を支持していた吉野も逃走をあきらめます。

また、民間人(人質)に車のキーのありかを尋ねたところ、外出した夫が持っていって、ここにはないと回答。あさま山荘内にバリケードを作って、警察の襲撃に備えます(あさま山荘事件)。

このときあさま山荘事件の犯人・坂口は人質(民間人)に対して「助けを求めた山荘の管理人」と説明したため、以後、人質として利用することはありませんでした。

翌日、連合赤軍の3人(あさま山荘事件)が今後の方針を話し合います。吉野は警察の包囲を突破しての逃走を考えましたが、坂口と坂東によって却下。

グロい鉄球のあさま山荘事件の犯人・坂口は逃走すると仮定して、人質(民間人)を使うことを提案しましたが、前日に人質として扱わないこと、山岳ベース事件の犠牲者への追悼の意を込めて警察権力と戦うことを決意します。

そして「一日も長く銃撃戦を行い、警察に屈せず、抗戦することに意義がある」と宣言(あさま山荘事件)。吉野と坂東もこれに同意します。

グロい鉄球のあさま山荘事件の吉野は民間人を人質として扱わないのなら、解放してはどうかと提案したものの、自分たちの身元が発覚するのを恐れてあさま山荘事件の犯人・坂口がこれを却下しました。そして、協議の結果が犯人・坂口の口から加藤兄弟へと伝えられます。

この行動から、5人があさま山荘に立てこもっていましたが、主導は犯人・坂口でそれに坂東と吉野が加わり、加藤兄弟は意見できる立場になかったと思われます。グロい鉄球のあさま山荘事件当時、未成年だったこともその理由でしょう。

午後になって、犯人・坂口の独断で民間人(人質)の口に押し込んでいた「ハンカチ」が取られ、縛っていた縄もほどかれました(あさま山荘事件)。一説には山岳ベース事件で縄で縛られたまま亡くなった仲間と民間人が重なったとも言われています(内部でのリンチ)。

常に行動に意味を求めている点、民間人を人質として扱わなかったという点が特異点と見られ、グロい鉄球のあさま山荘事件は特殊な事件でした。

 

【2】コードネームの決定

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アルファ、ブラボーなどのように個人名と違う名前を軍事作戦で使用することがあります。コードネームとは秘密作戦で隊員の身元が露呈しないために使用されます。

もともと革命左派と赤軍の軍事部門が統合した連合赤軍(あさま山荘事件)だけにコードネームにも理解がありました。コードネームを決めた理由は、盗聴などで警察に身元が明かされないようにするためです。

それぞれに浅間、立山、富士山、赤城、霧島とネーミング。グロいあさま山荘事件の犯人・坂口は「浅間」というコードネームでした。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のニクソン大統領が中国を訪問。

元来、連合赤軍のメンバーはベトナム戦争が中国に飛び火して、アジア全体から世界を巻き込むのを阻止するためという大義があったのです。しかし、1972年2月21日のニクソン訪中のニュースを山荘内のテレビで知ったグロいあさま山荘事件のメンバーらには動揺が走ったとも言われています。

 

【3】一人目の犠牲者

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あさま山荘事件が長引く中、何人もの民間人が人質の身代わりになると言って、現場を訪れていました。

ある民間人が警察の包囲を抜けて、あさま山荘の玄関の前にたどり着きます。前日に警察が置いた果物カゴを民間人が手にして犯人に出てくるように説得したのです。

中にいるあさま山荘事件の犯人・坂口は私服警官と思っていました。あさま山荘事件の吉野は威嚇射撃を実行。ところが民間人は逃げる様子もなく、警察にウインクをして内通しているような素振りを見せたのです。

すると私服警官と確信したあさま山荘事件の犯人・坂口が発泡。民間人はその場に倒れ、警察の手で引き戻されます。

しかし、民間人は自ら立ち上がったため、佐々淳行警視正は銃弾が頭蓋骨をかすって無事だったのではと解釈。事なきを得ます。民間人の容体が急変したのはその後、あさま山荘事件の坂口の放った弾が脳内に留まっており、あさま山荘事件の最初の犠牲者(民間人)となってしまったのです。

さらに特車の影に隠れて様子を伺っていた長野県警の警察官二人があさま山荘事件で負傷。独断で行動していたことから、現場での長野県警が立場が弱くなります。

夜になるとあさま山荘へと通じる電気が強制的に遮断されます。警察が用意した大型の照明が点灯。今まで電気を遮断しなかったのは、ニクソンの中国訪問のニュースを見せ、思想犯である連合赤軍(あさま山荘事件)の動揺を誘うという裏がありました。

 

【4】2発の照明弾

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現場での照明弾には放つ本数によって、意味が決められていました。照明弾「2発」は犯人らの突撃、照明弾「1発」は警察による作戦開始の合図でした。

警察は連合赤軍(あさま山荘事件)を不眠状態にして疲弊させるために「擬音作戦」を夜中に決行します。擬音作戦とは銃撃戦などの音を大音量で流すことで、犯人ら(民間人含む)を眠らせなくさせるのです。

作戦開始の合図は照明弾1発、軽井沢の凍てつく夜空に照明弾が打ちあがり、擬音作戦が開始されました。ところが、続けて2発目の照明弾も発射されます。実は最初につけた照明弾がくすぶって発射されなかったのです。

慌てた隊員は発射されなくては大変と呼びの照明弾に火をつけてしまいました。2発の照明弾は「犯人らの突撃」の合図、夜中に予定していた作戦だったので、近くの宿で休んでいた佐々淳行警視正らも大慌てで現場へと駆けつけます。

のちに照明弾の誤発射ということが判明し、警察サイドは戻っていきます。グロい鉄球のあさま山荘事件の発生から6日目となる出来事でした。

 

【5】うるう年が決めた突入日

警備局付の佐々淳行警視正は強行突破を考えていました。強行突破とは武器の使用を意味します。しかし、東京にいる警察庁のお偉い方の許可がないと実施できません(民間人がいるため)。

折しもその年はうるう年、仮に突入して警察側に犠牲者が出たら4年に1度しか追悼できないとして、2月28日に機動隊の突入を提案。吹雪のため、一日遅らせるように要望していた東京側も納得して折れます。

2月27日現在。ラジオからグロい鉄球のあさま山荘事件の報道が一切消え、嵐の前の静けさのごとき様相を呈します。翌28日午前10時現在。最後通告の後、一階から機動隊が突入を開始(あさま山荘事件)。

同時に3階にいると思われる連合赤軍ら(あさま山荘事件)を2階へ行けなくするために3階と2階部分の階段を鉄球によって破壊します(民間人は2階にいると思われていた)。そして、銃撃戦用の穴も鉄球で破壊。連合赤軍は一歩後退します。

鉄球攻撃が終わると、後方で待機していた放水部隊が放水を開始。放水が切れると、機動隊が一階から突入し、連合赤軍(あさま山荘事件)との激しい銃撃戦が始まります。

連合赤軍(あさま山荘事件)のメンバーはヘルメットにある階級章を見て、位の高い警察官をターゲットに銃撃。第二機動隊隊長と特科車両隊中隊長がここで殉職します。

のちに、これがグロい鉄球のあさま山荘事件での警察側の失態となり、ヘルメットの階級章の位置は後頭部へと移動。12時30分現在、警察の動きが止まります。

その隙に連合赤軍ら(あさま山荘事件)は食事。鉄球で空いた穴の修復や全員を3階のベッドルームへと集結させます(民間人含む)。14時40分現在、吉野が厨房に機動隊の集団がいるのを発見。坂口が鉄パイプ爆弾によって攻撃を仕掛けます。

15時30分現在、警察による放水が再開。催涙ガスが投げ込まれ、激しい銃撃戦となり、機動隊員2名が負傷。17時、機動隊によって山荘内のバリケードが壊され、機動隊員1名が負傷します。

17時20分現在、機動隊員1名がさらに負傷。しかし、ベッドルームへと通じる壁に大きな穴を空けることに成功します。一気に多数の機動隊隊員が押し寄せ、連合赤軍の犯人全員を生きたまま確保。人質(民間人)も無事救出されました。

 

あさま山荘事件の逮捕者まとめ

 

【1】リーダー格・坂口弘

千葉県の富津市出身で1960年の安保闘争のときは「民主社会党」を支持していました。高校を卒業後、1965年に東京水産大学水産学部増殖学科(現在の東京海洋大学海洋科学部)に入学。

革命左派の川島豪に接近するため、水泳部に所属していました。大学を中退した後、大田区の印刷工場に就職。外務大臣のソ連とアメリカ訪問を阻止するため、羽田空港まで泳いで渡り、火炎瓶を投てき。逮捕されるものの保釈されます。

そして、グロい鉄球事件と呼ばれるあさま山荘事件に参加。

 

【2】坂東國男

高校を卒業後、1966年に京都大学農学部林学科に入学。

退学すると赤軍派としてM作戦に参加します。M作戦とはいわゆる武器調達で栃木での銃砲店襲撃を指します。のちにグロい鉄球のあさま山荘事件へ参加。

 

【3】吉野雅邦

引用: Pixabay

東京の杉並区出身。

一浪した後、横浜国立大学経済学部に入学。混声合唱団に入ります。このとき内縁の妻となる女性と出会い、学生運動に参加。第一次羽田闘争では警官隊と衝突し、頭に13針を縫う大けがを負っています。

さらに1968年の「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」に参加。このとき吉野は、彼女に連絡しなかったため、彼の身を案じた彼女は九州まで追いかけてきています。なお、エンタープライズとはアメリカ合衆国の空母を指します。

当時、東京から九州へと行くのは現在の海外旅行並みの大変さでした。それを考えると吉野と彼女の間では深い愛が育まれていたのでしょう。やがて、鉄球がシンボルのあさま山荘事件へ参加。

 

【4】加藤倫教

愛知県出身で東海高校在学中に中京安保共闘に加盟。高

校を卒業してまもなく、爆発物所持で逮捕されます。そして、鉄球で名高いあさま山荘事件の犯人に。

 

【5】加藤元久

愛知県立東山工業高等学校出身(当時)。

在学中に中京安保共闘に加盟した兄の影響で街頭デモを行います。しかし、それが原因で父と仲たがいし家出。中京安保共闘に参加するのです。やがて、鉄球で著名なあさま山荘事件に参加。

 

あさま山荘事件の犠牲者まとめ

 

【1】一人目の犠牲者

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あさま山荘事件の最初の犠牲者は警察ではなく、人質の身代わりになろうとした民間人でした。

坂口の撃った弾が脳内に残っており、事件が解決した後の1972年3月1日に亡くなっています。
脳内に残った弾を早く取り出していれば、助かったかもしれません。

 

【2】二人目の犠牲者

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あさま山荘へと突入する際に放水を指揮していた人物です。

警視庁の所属で肩書は「特科車両隊中隊長」でした。名を高見繁光と言い、被弾した1時間後に命を落としています。

のちに殉職により警視正に特進。警視庁の警察博物館に現在もあさま山荘事件の殉職者として飾られています。警察博物館とは東京都中央区京橋にある施設です。

 

【3】三人目の犠牲者

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外で指揮をしていた第二機動隊隊長。内田尚孝警視があさま山荘事件の三人目の犠牲者です。

死因は坂東の狙撃(あさま山荘事件)によるものでした。2月28日の午後4時1分現在に死亡が確認されています。

二人目の犠牲者も三人目の犠牲者も警察では上の階級の人物。連合赤軍(あさま山荘事件)のメンバーはヘルメットにある階級章を見分けて、狙撃していたことが分かります。

階級章とは警察内での上下関係を一目で分からせるもので、内部ではとても重要視されています。

 

あさま山荘事件の放送は視聴率90%だった?

 

【1】事件は生中継された

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あさま山荘事件が起こったのは極寒の2月。

群馬側はならまだしも長野側の軽井沢は特に寒いエリアです。外に長い間いると靴紐が凍って熱湯で溶かしてから、ほどくほど。

民法とNHKを合わせた鉄球映像のあさま山荘事件の視聴率は89.7パーセントとなりました。

 

【2】視聴率が高かった3つの理由

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一つはあさま山荘事件が生中継されていたこと。

次にあさま山荘事件で負傷する隊員の姿など生々しい映像が流れたこと。そして、鉄球での強行突破など前代未聞の作戦が決行されたことが挙げられます。

あさま山荘事件は、日本中が固唾を飲んで経過を見守っていました。

 

【3】報道特別番組で日本記録をマーク

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連合赤軍(あさま山荘事件)のメンバーが逮捕された2月28日にNHKが組んだあさま山荘事件の報道特別番組は平均で50.8パーセントを記録。

内容は1時間ほどで、これは2019年現在も報道特別番組での日本記録となっています。

 

あさま山荘事件の逮捕者の現在

 

【1】統一公判組

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リーダー格の坂口(あさま山荘事件)は連合赤軍の親玉の永田洋子や植垣康博とともに統一公判組として裁判を受けています。

鉄球が印象的なあさま山荘事件の総指揮者として担当裁判官に厳しく糾弾されており、1993年3月9日に最高裁判所の上告棄却により死刑が確定しています。統一公判組とは主犯格の連合赤軍を指します。

なお、坂口は死刑は執行されず、現在も東京拘置所で存命。

 

【2】分離公判組

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坂口と別に審理が行われた吉野雅邦(あさま山荘事件)は無期懲役。逮捕時に19歳だった加藤倫教(あさま山荘事件)は懲役13年、その弟(あさま山荘事件)は中等少年院へと送られました。

分離公判組とは従犯の連合赤軍を指します。つまり、更生の余地があると裁判所も考えているのです。

 

【3】国外逃亡中の犯人も?

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残るはあさま山荘事件の坂東國男です。

実は逮捕されるも国外へと逃亡、現在も国際指名手配されています。理由はクアラルンプール事件で、日本赤軍がアメリカとスウェーデンの大使館を占拠。

獄中にいた日本赤軍とつながりのあるメンバー7人の釈放を日本政府に求めました。そのときに三木内閣が日本赤軍の要求に屈し、日本赤軍への参加を確認した後、坂東國男ら5人の釈放を命じました(うち坂口と松浦は参加を拒否)。

そのため、坂東(あさま山荘事件)は現在も海外逃亡中です。死刑判決を受けた坂口(あさま山荘事件)の刑が現在も執行されていないのは、この坂東國男が捕まっていないためとも言われています。ちなみに日本赤軍とは連合赤軍の流れを組む共産主義思想の団体です。

 

あさま山荘事件の人質の現在は?

 

【1】名前は牟田泰子さん

あさま山荘事件当時、マスコミの報道によって人質は犯人と仲良くしていたようなイメージで書かれ、批判を浴びました。

しかし、内容は事実無根で鉄球で知られるあさま山荘事件で人質は大した食事も取らず、震えていたとのことです。現在でもインターネットで似たような騒動が起きています。

 

【2】実は九州から駆け落ちしていた!?

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真相は不明ですが、牟田泰子さん(人質)自身が公金を横領していたという噂があります。

それを逃れるため鉄球が脳裏に残るあさま山荘事件の起きた長野に逃げてきたという話です。そのため、警察から鉄球で有名なあさま山荘事件について現在も語ってはいけないと言われているとのことです。公金とは税金を意味し、公務員だったことを暗に指します。

あさま山荘事件の影で司法取引があったのでしょうか。

 

【3】今はどこに?

引用: Pixabay

あさま山荘事件後にマスコミのせいで世間から非難を浴びて、マスコミが信じられなくなった牟田泰子さん(人質)。

現在も日本のどこかで旦那さんとひっそり暮らしていると言われています。

あさま山荘事件が政治的問題にもつながっていることから、あさま山荘事件については現在も人質について語らない方針。人質だっただけに現在も引きずるほど嫌な事件だったのでしょう。

 

日本で革命を起こそうとした人たち【あさま山荘事件】

実はあさま山荘事件はクアラルンプール事件(日本赤軍が主導)によって、坂東が釈放されたため現在も事件解決には至っていません。

クアラルンプール事件で釈放された5人のうち3人が現在も海外逃亡中(坂東含む)、1人は現在出所し、もう1人は無期懲役が現在は獄中です。

現在でもあるような立てこもり事件と違い、あさま山荘事件は思想犯の手によって起こった事件。連合赤軍の意志を受け継ぐ者がいる限り、現在もあさま山荘事件は終わらないのです。

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