全共闘(全学共闘会議)とは?目的や現在の活動をわかりやすく解説!

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全共闘(全学共闘会議)とは?

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今回の記事では、できるだけ「わかりやすく」というところに主眼を置きたいので、現代の学生さんたちにも届くようにかみ砕いて説明させていただきます。ので、少々文体がフランクな、崩れたものになる可能性があることを最初にお断りしておきます。

ということで、問題の「全共闘(全学共闘会議)とは何ぞや?」というところから説明していきましょう。

 

【1】全共闘(全学共闘会議)をわかりやすく説明すると…


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学生の自主的な集まりです。

で説明が終わってしまうのですが、思いっきりわかりやすく説明するとそうなります。そんな学生の集まりが何をしたのかと言いますと…。テロとまではいかないまでもいわゆる公権力との闘争をしております。

この記事を執筆中の2019年8月時点での出来事で言えば、香港の「逃亡犯条例」の改正に対するデモのように、デモ隊と警官隊が衝突するような一部暴力的な行動も含めた闘争を行いました。

 

【2】問題は日本中の大学で起きたこと


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そしてこの全共闘(全学共闘会議)の問題は、日本中のありとあらゆる大学に存在し、その大学でそれぞれ闘争を繰り広げたことでしょう。

全共闘(全学共闘会議)という単語からすると「全国の様々な大学の学生が集まって…」と考えがちですが、全共闘(全学共闘会議)は各大学に存在しました。

日大全共闘(日本大学)、東大全共闘(東京大学)、京大全共闘(京都大学)などなど。日本中に全共闘、いわゆる全学共闘会議というものが存在していたことになります。

 

【3】全共闘(全学共闘会議)の目的は?

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えー、ここが全共闘(全学共闘会議)に関して理解し辛い部分なのですが、全共闘(全学共闘会議)の活動の目的は「それぞれ」でした。ある大学では「授業料の値上げ反対」だったり、他の大学では「大学の経済状況の情報を開示せよ」だったり。

大きくまとめると「大学側への要求」が目的でした。この目的がバラバラだったことも、全共闘(全学共闘会議)を理解しにくいものとしている理由ですが、もうひとつ理由があります。

 

【4】すぐに終わったいわゆるブーム的なもの

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実はこの全共闘(全学共闘会議)という組織が活発に活動していたのは、1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)のわずか1年間。

この期間を過ぎると全共闘(全学共闘会議)ブームはあっさり過ぎ去り、表立った事件はほぼなくなります。

 

全共闘(全学共闘会議)の前身は学生自治?

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さて、そんな全共闘(全学共闘会議)の歴史を振り返りましょう。

全共闘の前身は確かに学生自治活動を行っていた学生の集まりです。そこでこの学生自治について知っておきましょう。

 

【1】学生自治の主体だった全学連

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全共闘(全学共闘会議)誕生以前の学生自治活動の主体を担っていたのは、全学連(全日本学生自治会総連合)という団体です。

この全学連という団体は、共産党に強い影響を受けた団体であり、いわゆる左翼団体です。

 

【2】全学連は何をした?

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全学連(全日本学生自治会総連合)とは学生の集まり。

活動の相手は大学運営側ということで、全学連(全日本学生自治会総連合)はいわゆる弱者。弱者が体制側と闘うのですから、左翼的な思想があっても不思議はありません。

そして全学連(全日本学生自治会総連合)は学生運動を繰り広げます。そして徐々にその学生運動は過激になっていきます。

 

【3】巨大化した全学連が大爆発した60年安保闘争

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戦後の日本には資本主義を突き進むか、共産主義に舵を切るか、市民レベルでは本気で論争があった時代です。もちろん日本政府は第二次大戦後、「米国追従」の資本主義国家を目指していました。

そこで起きたのが60年安保闘争です。

 

【4】安保闘争を分かりやすく解説

戦後日本は戦勝国により武力を持つことを禁じられていました。

それを日本国憲法に明記しなければ、戦後の米国の支配から脱して、ひとつの国として認められなかった状況でしたので、日本国はそれを受け入れます。

もちろん大敗戦に戦争は二度としたくないという思いが強かったのも事実です。

しかし現実問題武力がなければ国を守れません。そこで日本はアメリカ軍に日本を守ってもらう道を選びました。それが「日米安全保障条約」です。日本国土に米軍基地を置くことを認める代わりに、軍隊を持てない日本に何かあった場合は守ってもらうという条約です。

しかし、共産主義を標榜している共産党、および全学連にしてみれば、この日米安保こそが一番目障りな条約なわけです。この条約がある限り日本はアメリカとべったりで、共産主義化することはできないと考えていました。

1960年。当時の日本政府はこの日米安保の内容を、「日本国内に米軍基地を置くことを認める」だけの条約から、「日米共同防衛条約」にするために、改定への動きを見せていました。

これは共産党・社会党にとってはとんでもないお話。この改定がなってしまったら、より日本とアメリカの結びつきが強くなると猛反発をするわけです。そして起きたのが「60年安保闘争」です。実際に死者が出るほど激しくデモ隊(共産党・社会党など)と警察隊が激突し、その中心にいたのが全学連でした。

 

【5】安保闘争後の全学連

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激しい安保闘争の甲斐なく、結果日米安保条約は改定されます。

その結果全学連は内部で様々な派閥に分裂してしまい、その勢力や学生運動も一気に下火になってしまいます。ちなみにこの分裂した全学連に関しては後程また出てきます。

 

【6】では全共闘(全学共闘会議)とは何ぞや?

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では全共闘(全学共闘会議)とは何ぞや?という話になりますが、こちらは純粋な学生の集まりです。何が純粋かと言えば、政治的思想などはなく、単に自分の大学をよりよくしたいと思う、いわゆるリベラルな集団ということになります。

全学連と全共闘(全学共闘会議)の最大の違いは政治的思想があったかどうか。学生運動をしていたことに変わりはありませんが、全学連が戦後~1960年まで、全共闘(全学共闘会議)が1960年終盤ということになります。

 

全共闘(全学共闘会議)の結成

では、なぜ全共闘(全学共闘会議)なるものが誕生したのかを解説していきましょう。

これが実は単純で、60年安保を境に下火になっていた学生運動。そんな学生運動に憧れていた子どもたちが、このあたりで大学生になったということです。

 

【1】全共闘(全学共闘会議)の走りは日本大学

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最初に組織化された全共闘(全学共闘会議)は日本大学の日大全共闘です。

結成は1968年5月27日。日大で起きたある問題をきっかけに誕生しました。

 

【2】日大に全共闘(全学共闘会議)ができた事件

1968年5月、国税局の捜査が日本大学に入り22億円にも上る使途不明金があることが発覚します。この事件をきっかけに学生たちの不満が爆発。日大全共闘を結成し、何と35,000人の学生が学校経営陣との団交に挑みます。

12時間を超える団交の結果、日大経営陣側は、日大全共闘が要求した「経理の公開」と「理事の退陣」に合意しました。学生と学校側の団交は、日大全共闘の完全勝利で終わったかに見えました。

しかし翌日、当時の佐藤栄作首相が「(日大の)団交は常軌を逸している」と苦言を呈したことで旗色が変わります。時の首相が味方についたと考えた日大経営陣は、団交時に約束した経理の公開と理事の退陣を白紙に戻すと突然強気な態度に出ます。

これにキレたのが日大全共闘です。昨日の今日で言うことがコロッと変わればそれも仕方ないでしょう。日大経営陣の元に日大全共闘が殺到します。体育会系の学生は日本刀を振りかざして突入するほど、鬼気迫る勢いで突入しました。

そこに登場したのが警察機動隊。これに日大全共闘は大歓声。

「脱税を犯した日大経営陣を逮捕しに来た! 我々の勝利だ!」

と、思いきや機動隊が制圧にかかったのは、日大全共闘の方でした。それはそうでしょう。中には日本刀ぶら下げている学生もいるわけですから、機動隊まで出てきて確保するなら学生の方です。と、今になれば理解できますが、当時参加していた日大全共闘からすればとんでもない話。

悪いのは大人たちなのになぜ我々が…」となるわけです。

これを機に、それまで下火になっていた学生運動の火が再び灯ります。これまで我慢をしてきた全国の学生たちが、学校側への不満を持つ仲間と各大学で全共闘(全学共闘会議)を結成し始めます。その動きは日本の最高学府である東京大学でも…。

 

東大紛争が大転機に【全共闘(全学共闘会議)】

そして全国の全共闘(全学共闘会議)の活動が活発化、および過激化する大きなきっかけとなる「東大紛争」が勃発します。

 

【1】きっかけは医学部のインターン制度

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この日大紛争より以前から、東京大学では医学部学生の研修医制度、いわゆるインターン制度への不満が高まっていました。この不満を学校側にぶつけていたのが全学連です。

勢力を弱めていた全学連ではありますが、それでも細々と各大学で学生自治の運動を続けていました。そしてこの東大インターン改革の提案交渉がうまく進まなくなると、インターンたちは無期限ストライキを決行します。

 

【2】全学連から離脱し過激派となる学生が登場

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このストライキの最中にも、一部学生と学校側の間で衝突があり、数人の学生の処分が下されます。しかしその中に不当処分を受けた学生がおり、この不当処分をきっかけに騒動は拡大します。

この状況を打破しようと、一部の学生たちが全学連を離脱し、独断で過激な行動を始めます。全学連は共産党系、左翼系の集まりですので、左翼系の学生の中に過激派が誕生したということでしょう。

この過激派グループは東京大学の安田講堂を占拠。強硬な姿勢に出ます。すると東京大学総長は機動隊に出動要請。学生グループと機動隊が衝突します。

 

【3】機動隊出動に憤慨した学生が東大全共闘を結成

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機動隊との衝突を経て、学生側も日大に倣い全共闘を結成。医学部の生徒に加えて、全学連から離脱した過激派学生なども合流し、さらに強大で過激な学生グループ、東大全共闘が誕生します。

この動きは東大の全学生に波及し、法学部を除く学部が無期限ストライキに突入。さらに学生側の意見に耳を貸そうとしない東大側に東大全共闘の態度も硬化。ついには「東大解体」を求めて「全学バリケード封鎖」を決行します。

 

【4】ストライキ長期化で生徒間で意見が分かれる

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全学バリケード、及び無期限ストライキが続く中、東大全共闘に与しない学生グループも動き出します。動きと言っても東大全共闘に賛成するのではなく、むしろ反対する動きを見せます。

東大全共闘の考えに共感しない学生としては、東大全共闘が全学バリケードを行い、授業が行われない現状は迷惑でしかないわけです。そのため東大全共闘と対立する構図となりました。その中心にいたのが民青系というグループ。このグループ、日本共産党の青年組織になります。

さて、難しい話が出てきました。共産党の学生組織と呼べるものは全学連だったはずです。ここが少々分かりにくいのですが、全学連は「共産党の考えに共鳴する学生組織」であり、民青(日本民主青年同盟)は「共産党直属の青年部門」となります。

わかりにくいですよね?

しかも全学連の一部は東大全共闘におり、民青(日本民主青年同盟)はそれと対立している。「共鳴」と「直属」という違いはあるものの、同じ共産党に近い考えの団体が対立する構図が良く分からない原因でしょう。

これに関しては後に説明しますので、まずは東大全共闘の動きを追います。

 

【5】東大総長・学部長の一斉辞任と紛争縮小

1969年11月に入ると、東大総長及び全学部長が一斉に辞職することを発表。東大は新体制に移ります。この新体制が東大全共闘との話し合いを提案。すると東大全共闘に所属する多くの学生がこの話し合いに賛同します。

この話し合い(団交)も壮絶で、参加した東大文学部長は173時間に及ぶ監禁状態となり、最終的にはドクターストップで緊急入院することになります。この後、法学部、工学部など学部ごとに全学バリケード封鎖に反対する決議がなされます。

徐々に勢いを失った東大全共闘最後の見せ場が、いわゆる「安田講堂事件」です。

 

【6】安田講堂事件勃発

1969年1月18日~19日にかけて起こった紛争を「安田講堂事件」と言います。徐々に力を失った東大全共闘は、最終的に安田講堂をバリケード封鎖することに。ここに出動要請を受けた機動隊が突入し、一斉検挙に踏み切ります。

この安田講堂事件を含めた東大紛争における学生検挙者数は767人。起訴された学生が616人、実刑判決を受けたのが133人に上りました。

この安田講堂事件で東大全共闘は実質解体。1969年中には東大紛争は終結を見ます。

 

【7】時系列で東大紛争を振り返る

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駆け足で東大紛争を振り返りましたが、正直その壮絶さは伝わっていないかと思います。そこで最後に時系列で紛争で起こった騒動などをまとめておきましょう。

  • 1968年1月29日 東大医学部の学生がインターン制度に代わる登録医制度に反対し、無期限ストに突入。
  • 1968年3月12日 医学部は、2月19日の医局長缶詰事件で17人の処分を発表。
  • 1968年3月26日 処分された学生のうち1人につき、誤認の可能性があることが発覚。
  • 1968年3月28日 安田講堂での卒業式が中止となる。
  • 1968年6月15日 学生が安田講堂を再度占拠。
  • 1968年6月17日 東大・大河内総長の要請で、機動隊が出動し学生らは退去。
  • 1968年6月20日 警察導入に抗議して、法学部を除く9学部が一斉に一日スト。
  • 1968年7月5日 東大闘争全学共闘会議(東大全共闘)結成。
  • 1968年8月28日 東大全共闘が医学部本館を占拠。
  • 1968年9月22日 東大全共闘が医学部附属病院外科系医局・研究棟を封鎖。
  • 1968年9月27日 医学部赤レンガ館封鎖。初の自主封鎖。
  • 1968年10月18日 東大医学部神経内科の医局員15人全員が教授会に抗議し、25日以降スト終了まで一切の診察を有給者のみで行うと決議。無給医診療拒否。
  • 1968年11月1日 東大評議会で大河内一男総長の辞任を承認。10学部の当時の学部長全員も辞任。
  • 1968年11月4日 文学部の法文2号館で文学部学生の処分を巡る「大衆団交」が始る。
  • 1968年11月12日 文学部長はドクターストップのため、173時間ぶりに解放され即緊急入院。全共闘と民青系が全学封鎖を巡り乱闘。
  • 1968年11月19日 工学部がバリケード封鎖に反対表明。この頃から他大学の活動家が全共闘に参加するようになった。
  • 1969年1月9日 全共闘、教育・経済学部の民青を攻撃。加藤総長の要請で機動隊が大学構内に入る。
  • 1969年1月10日 秩父宮ラグビー場で7学部代表団と大学側の集会。十項目確認書作成。駒場共闘100人以上逮捕。
  • 1969年1月14日 駒場共闘、駒場キャンパス第8本館に籠城。民青、一般学生、教官、機動隊と攻防。(21日撤収)
  • 1969年1月18日から翌19日にかけて、封鎖解除実行(安田講堂攻防戦)。東大内での逮捕者は600名以上。

これでもかなりザックリなのですが、とにかく封鎖、占拠、乱闘が続いた1年でした。そしてこの東大紛争の最中から、全国の大学で全共闘(全学共闘会議)が誕生し、日本中の大学で学生運動が行われることになります。

 

【8】学生運動における東大紛争の意味

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ここで注目しておきたいのが、上の時系列で言うところの1968年11月19日の部分。「他大学の活動家が全共闘に参加するようになった」という部分。1968年夏頃には日本中の大学で全共闘(全学共闘会議)vs大学という学生運動が行われていました。

しかしそれらの学生運動の多くは、やはり大学側に勝てるような成果は上げられず、多くの大学の全共闘(全学共闘会議)は、すぐに解体に追い込まれていたという事実があります。

そこで全国の学生が期待をかけたのが東大全共闘です。

他の大学の学生運動とは一線を画し、長期間にわたり紛争を続けていた東大全共闘は、全国の大学に存在した全共闘(全学共闘会議)にとって希望の光でした。ここで負けたら全共闘(全学共闘会議)の活動は終わると思っていたのでしょう。

ちなみに東大紛争の最後にある安田講堂事件で検挙された学生の多くは東大生ではなく、他大学の生徒だったそうです。

 

全共闘(全学共闘会議)の概要をわかりやすく解説!

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さて、もう一度整理しておきましょう。全共闘(全学共闘会議)の概要を解説します。

 

【1】過激化した学生自治活動

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全共闘(全学共闘会議)とはもともと学生自治という名目で活動していた単なる学生です。

そんな学生の意見がなかなか大学に聞き入れられず、徐々に活動が過激になっていき、全共闘(全学共闘会議)という闘う集団になってしまいました。

 

【2】当時の全共闘はかっこよかった?

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先に紹介した学生自治を請け負っていた全学連という組織には、政治的思想がありました。しかし全共闘(全学共闘会議)にひゃそういった色合いが元々はありませんでした。

参加している学生は、単に自分たちの主張を聞き入れない体制側への不信感を持ち、怒りの感情で行動している集団であり、当時の学生にとってその行動は非常に魅力的なものだったようです。

 

【3】全共闘は左翼ではない?

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ここが難しいところですが、全共闘(全学共闘会議)も終盤になると多くの団体が参加するようになります。その中にはいわゆる新左翼と言われる団体もおり、全共闘(全学共闘会議)=左翼というわけではありませんが、体制と闘うという姿勢が左翼的にみられることもあります。

また全共闘(全学共闘会議)の末期にはこの新左翼のメンバーが中心となっていたため、全共闘(全学共闘会議)=左翼という考え方も間違ってはいないのかもしれません。

 

全共闘(全学共闘会議)の目的をわかりやすく解説!

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学生が集まって活動する以上、何かしら目的があったのは間違いありません。

活動の細かい目的については、各大学ごとに異なりますが、そんな全共闘(全学共闘会議)において、絶対的な基本線となる目的がありました。

 

【1】全共闘(全学共闘会議)の主張① 大学解体

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全共闘(全学共闘会議)による主張を聞き入れないのであれば、大学など解体してしまえという過激な主張。

そのために多くの全共闘(全学共闘会議)は、大学をバリケード封鎖する強硬手段に出ます。

 

【2】全共闘(全学共闘会議)の主張② 自己否定

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これは少々哲学的なので、わかりやすく解説します。第二次大戦後国内が落ち着き、日本の学生は受験地獄を経験します。大学生というのは、この受験戦争を勝ち抜いた人たちなわけです。

しかし「それでいいのか?」、「自分たちは日本の学校制度に踊らされたロボットではないのか?」、「そんな自分でいいのか?」という自己否定感を持つようになったのが全共闘(全学共闘会議)に参加した学生ということです。

全共闘(全学共闘会議)に参加していた学生たちは、「自分たちはロボットではいけない。一人の考える人間にならねば」という思いを原動力にしていました。

 

【3】全共闘(全学共闘会議)の目的は?

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全共闘(全学共闘会議)の目的を一言で説明すると、いわゆる現状打破ということでしょう。

大学側の思惑通り、国の制度の通りにただ何も考えずに生きていくことを否定し、自分たちの力で国を変えていこうということでしょう。

 

全共闘(全学共闘会議)に関する単語を知っておこう

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全共闘(全学共闘会議)、学生運動、安保闘争などの事件には欠かせない単語があります。

こういった単語について諸々解説していきましょう。

 

【1】学園民主化とは?

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学園民主化とは、いわゆる学生自治が認められていなかった学校において、学生に自治権を認めてほしいという運動。主に戦後直後、1945年~1950年あたりに目立った学生運動です。

有名な学園民主化運動としては、1945年、上野高女(現・上野学園女子高校)・旧制水戸高校(現・国立茨城大学)・東京物理学校(現・東京理科大学)で行われた学生運動があります。

 

【2】ゲバ棒・内ゲバとは?

まずこの「ゲバ」ですが、語源はドイツ語の「ゲバルト(gewalt)」であり、その意味は「暴力」や「権力」などがあります。学生運動で登場する「ゲバ」の場合、主に「暴力」の意味で使われます。

「ゲバ棒」は「ゲバルト棒」。つまり学生運動を行っていた全共闘(全学共闘会議)の学生たちが手にしていた武器のことで、多くは「角材」でした。ただし「ゲバ棒=角材」というわけではなく、学生が持つ棒状の武器は何でもゲバ棒です。角材でもバットでも竹刀でも鉄パイプでもゲバ棒となります。

「内ゲバ」は「内部ゲバルト」の略語で、いわゆる内部抗争のこと。当時様々な団体の集合体であった全共闘(全学共闘会議)などは、多くの内ゲバが存在していたと言われています。

 

【3】ヘルメット

学生運動という言葉を聞くと、ヘルメットを被って角材を持って、口元をマスクやタオルで隠し、サングラスをかけている集団を思い起こす方も多いでしょう。まさにこれが学生運動の正装でした。もちろん持っている武器はゲバ棒です。

全共闘(全学共闘会議)の学生はヘルメットに「全共闘」もしくは「全共斗」と書いているケースが多く、またそのヘルメットの色やデザインにも特徴があります。

  • 白ヘルに「Z」…革マル派
  • 白ヘルに「中核」…中核派
  • 赤ヘルに「赤軍」…赤軍派
  • 黄ヘル…民青系

など、各グループの主張ごとに色や文字が決められていたそうです。

 

【4】新左翼

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さて、前半に予告した全学連の分裂について解説しておきましょう。

これが新左翼と直結してきます。安保闘争前の1955年まで、日本共産党及び社会党といった左翼政党は、革命も辞さずの覚悟で活動をしていました。革命のためには暴力も容認するような活動内容で、当時「左翼=暴力的集団」とまで言われていたわけです。

しかしこの両党は、1955年に方針を変更。暴力やゲリラ戦による資本主義打倒の路線から、政治力を利用した資本主義打倒路線に舵を切ります。つまり、今まで理想のためなら手段を選ばなかった集団が、「政治」を手段とすると決めたのです。

これに納得いかないのが左翼集団の中でも暴力行動を中心に行ってきた集団です。全学連もここに含まれると考えていいでしょう。当初、共産党や社会党の考えに共鳴していた人たちの中で、1955年の路線変更を機に離脱する集団が出てきました。これが「新左翼」と呼ばれるグループです。

つまり新左翼は左翼的思考の暴力容認集団であり、日本共産党や社会党のような「既成左翼」とは一線を画す集団となります。

ここで東大紛争を思い出しましょう。全共闘(全学共闘会議)の中には新左翼のグループも所属していました。その新左翼含む全共闘(全学共闘会議)とたびたび乱闘を起こした「民青系」は「既成左翼」の集団ということになります。同じ左翼同士で争った理由はその手段の違いだったということです。

 

全共闘(全学共闘会議)の下火化とその後

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東大紛争とひと段落ついた全共闘(全学共闘会議)の闘い。その後の全共闘(全学共闘会議)はどうなっていったのでしょう?

 

【1】新左翼の暴走で全共闘(全学共闘会議)は縮小

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全共闘(全学共闘会議)の最高峰の闘いでもあった東大紛争が落ち着くと、全国的に全共闘(全学共闘会議)の動きは一気に下火になります。理由のひとつとして国が動き始めたこともあるでしょう。

時の佐藤内閣は、1969年8月3日に、文部省の命令で大学の業務を強制的に中止することができる時限立法を成立させます。この法案成立で、本当に自分の大学がなくなるかもしれないと感じた多くの学生は、全共闘(全学共闘会議)から離脱していきます。

 

【2】最後まで残った新左翼集団の悪評

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結果、最後まで全共闘(全学共闘会議)に籍を置いていたのは、新左翼集団でした。そんな新左翼集団は70年安保闘争で闘うものの、徐々に内ゲバやゲリラ事件を起こし始めます。

有名な集団でいえば「連合赤軍」でしょう。あさま山荘事件で内ゲバを起こし多くの仲間を惨殺し、あげくによど号ハイジャック事件を起こしました。こうした過激すぎる行動をとった集団のため、多くの学生、国民は全共闘(全学共闘会議)を支持できなくなってしまいます。

 

【3】全共闘(全学共闘会議)の現在

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現在全共闘(全学共闘会議)と名乗っている組織は存在しません。

学生の自治権を求めたり、自治権を持って大学側と交渉をしている学生自治団体というものは、大学によっては存在していますが、全共闘(全学共闘会議)のような過激な組織はありません。

 

全共闘(全学共闘会議)まとめ

実質1年の間に誕生しそして消えていった全共闘(全学共闘会議)。近代日本の歴史において、もっとも学生運動の激しい時代の中心にいた組織と言っていいでしょう。

全共闘(全学共闘会議)が短命に終わった理由は、その目的があやふやで、はっきりしなかったこと、そして「単に怒っている」、「単にかっこいいから」と深い理由もなく、暴れるためだけに加入した学生が多かったことが原因かもしれません。

結局全共闘(全学共闘会議)の中で最後まで残ったのは、新左翼という強烈な目的を持った集団だけでした。

全共闘についてよく知らない人にとっては、左翼なのか右翼なのか、学生運動をしていたのか、安保闘争をしていたのか、連合赤軍とはちがうのかなど、様々な団体名や事件がごちゃごちゃになっているかと思います。今回できるだけ分かりやすく解説したつもりですが、全共闘以外の団体や事件に関しては触れていないので、これでもわかりにくいという方はいるかもしれません。

そのためにハッキリしている部分だけわかりやすく断言しておきましょう。

  • 全共闘=左翼ではないが、全共闘の中に左翼過激思想(新左翼)もいた
  • 全共闘が行ったのは学生運動
  • 全共闘の目的は大学ごとにそれぞれだが基本は「大学解体」と「自己否定」
  • 現在全共闘を名乗る組織はない
  • 安保闘争に参加した全共闘はほぼ新左翼集団

おおよそ@このあたりを抑えておけば間違いないでしょう。

学生運動とは、若者が有り余るエネルギーをぶつけて時代を変えようとする行為であったという肯定的な意見もあります。それにしてもやり方に問題があるという否定的な意見もあります。

いずれにせよ、若者がそれだけのエネルギーを持っていたことだけは間違いなく、いいか悪いかは別にして羨ましい時代だったともいえるでしょう。

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