エルトゥールル号遭難事件の概要!船長のクズ行動&日本の対応まとめ! | ToraTora[トラトラ]

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エルトゥールル号遭難事件とは、今から100年以上も前の1890年明治20年、9月16日の夜に起こりました。

親善航海でトルコの使節団は、船長(司令官)のオスマン・パシャと共に軍艦エルトゥールル号で日本にやって来ます。横浜に到着し明治天皇に拝謁し、日本に3か月滞在した使節団はトルコへ向けて帰還します。

しかし、その途中の9月16日夜に、和歌山県の樫野埼灯台付近で、台風による強風と高波の影響を受け座礁し沈没しエルトゥールル号遭難事件が起こりました。樫野埼灯台のある大島村(現在の串本町)では、生存者の保護と遺体収容の為、村を挙げて懸命にエルトゥールル号遭難事件の対応にあたりました。

また、日本海軍からも軍艦八重山を派遣しました。エルトゥールル号遭難事件の救出された69名の乗組員は神戸で治療を受けました。その後は明治天皇の命により軍艦金剛、比叡によってエルトゥールル号遭難事件の生存者はトルコへ送還されました。インスタンブールに到着した両軍艦は、歓迎を受け、トルコの皇帝から勲章が授与されました。

約600名の死者を出したエルトゥールル号遭難事件は、日本国内でも大きく報道され、エルトゥールル号遭難事件の義捐金も集められました。この日本国民の対応にトルコ人は大変感動したとされ、とても悲しいエルトゥールル号遭難事件ですが、エルトゥールル号遭難事件は日本とトルコの友好の原点とされています。

エルトゥールル号遭難事件の概要!

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それではエルトゥールル号遭難事件はなぜ起こってしまったのか、エルトゥールル号遭難事件の概要と原因を紹介しましょう。

そもそも何故エルトゥールル号は日本に来たのか?エルトゥールル号遭難事件はどんな状況で起きたのか?エルトゥールル号遭難事件の原因は何だったのか?船長のクズ行動とは?これを見ればエルトゥールル号遭難事件の全てが分かります。

なぜエルトゥールル号は日本へ来たのか?

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1887年(明治20年)、小松宮彰仁親王殿下はヨーロッパ視察旅行の帰途、イスタンブールを訪問し、オスマントルコ皇帝(スルタン)アブデュル・ハミト2世に謁見しました。この時の歓待に感謝し、翌年に明治天皇は皇帝に親書と漆器を贈りました。

1889年7月、アブデュル・ハミト2世は、日本に答礼の特派使節を派遣しました。船長オスマン・パシャ(海軍少佐)を代表として、軍艦エルトゥールル号に乗って日本に派遣された最初の使節でした。

そもそもエルトゥールル号は

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そもそもエルトゥールル号遭難事件は、起こるべくして起こった事件なのかもしれません。

木造フリゲート・エルトゥールル号は、艦齢26年という老朽艦でした。そのうえ補給品の不足や乗組員の経験不足などもあり、極東行きの航海自体も海軍内部に反対意見は強く、日本にたどり着いたこと自体が幸運なことだとみられていました。

そして出向以来、蓄積し続けた艦の消耗や乗組員の体力の消耗、体力の消耗から多くの乗組員はコレラになり、その上に資金不足に伴う物資不足が限界に達していました。そのような状況で、9月15日になってようやく横浜出港の目処をつけたのです。

9月というのは台風の季節でもあり、疲弊している乗組員を心配した日本側が、出港を見合わせることを勧めましたが、オスマン帝国側の命により船長はその制止を振り切って出港しました。この船長の判断が、後にクズ船長のクズ行動と言われるのですが、これらのこと全てがエルトゥールル号遭難事件の原因と言えるでしょう。

原因は一つでは無く、たくさんの原因が複合的に絡まりあって大きな原因になっていたのです。

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エルトゥールル号の強行出港の裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)に、イスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい、皇帝・アブデュル・ハミト2世の意思が動いており、出向を強行したのも日本に留まりつづけることで、オスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われています。

エルトゥールル号遭難事件の、船長(司令官)の行動がクズだと言われる原因は、船長であれば乗組員の状態や船の状況を考えて出航を延期にするべきであるのに、皇帝の意思に逆らえず無理に出航をしたことがクズであるというのです。もはやクズ船長のクズ判断が原因ということなのでしょう。その結果、エルトゥールル号遭難事件という大惨事を起こしていまい、クズ船長のクズ行動と呼ばれる所以となったのでしょう。

しかし、このエルトゥールル号遭難事件を引き起こした原因の、船長のクズ行動と言われる判断ですが、船長の独断で出航を延期するということは、現代の世の中でこそ「人命第一」を理由に船長の判断は行えますが、その当時であれば、皇帝の意思を貫くのが、船長の第一任務であるはずで、致し方ない判断であったのでしょう。

今でこそ、船長のクズ行動と言われているエルトゥールル号遭難事件の原因ですが、歴史背景やその立場などで、倫理観も変わりますので、一概に船長をクズ呼ばわれするのはどうかというものです。エルトゥールル号遭難事件の原因も、様々な状況や問題が重なり原因となって起こってしまった惨事なのです。

無事に到着したが帰路は

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9月16日21時頃、折からの台風による強風にあおられ、エルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突。座礁したエルトゥールル号は機関部に浸水して水蒸気爆発を起こし、それが原因で22時半頃に沈没し、エルトゥールル号遭難事件が起きました。

これにより、司令官(船長)オスマン・パシャをはじめとする600名以上が海へ投げ出されました。エルトゥールル号遭難事件の原因を作った、クズ行動と言われるクズ船長も行方不明となってしまいます。クズ船長も行方不明となってしまっては、真の原因は分からぬままなのです。

海に投げ出された乗組員は

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樫野埼灯台下に流れついたエルトゥールル号遭難事件の生存者の内、約10名が数十メートルの断崖を這い上って灯台にだとりつきました。

灯台守は応急手当を行ったが、お互いに言葉が通じず、国際信号旗を使用して、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることが分かりました。

断崖から這い上がってきた、全身傷だらけの外国人に、灯台守はたいそう驚いたことでしょう。しかしその状況からただ事ではないと直感し、大島住民に援助を要請しました。

救援活動

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エルトゥールル号遭難事件の通報を受けた大島村の樫野の住民たちは、総出でエルトゥールル号遭難事件の救助と生存者の介抱に当たりました。

そして69名が救出され、生還することが出来ました。その一方で、残る587名は死亡または行方不明となりエルトゥールル号遭難事件は大惨事となりました。エルトゥールル号遭難事件の翌朝、エルトゥールル号遭難事件は樫野の区長から大島村長へ伝えられました。

大島村の住民たちの、不眠不休の救援活動で69名もの命が助けられたのです。この時の住民たちは、ただエルトゥールル号遭難事件の遭難者を助けることに必死だったのです。

生存者はどうしたのか

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その後、付近を航行中だった船に大島港へ寄港してもらい、エルトゥールル号遭難事件の生存者2名が、連絡のため神戸港へ向かいました。

神戸港に停泊中だったドイツ海軍の砲艦「ウォルフ」が大島に急行し、エルトゥールル号遭難事件の生存者は、神戸に搬送され病院に収容されました。大島村の村長は、県を通じて日本政府にエルトゥールル号遭難事件を通報をしました。

知らせを聞いた明治天皇は政府に対し、エルトゥールル号遭難事件に関して可能な限りの援助を行うように支持をしました。

トルコへの送還

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エルトゥールル号遭難事件から早20日後の10月5日、日本海軍のコルベット艦「金剛」と「比叡」が東京の品川湾から出向し、神戸港で生存したエルトゥールル号遭難事件の乗組員を分乗させ、翌年の1891年1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブールに送り届けました。

なおこのコルベット艦には、後に日露戦争の参謀となる秋山真之ら海兵17期生が少佐候補生として乗り組みました。

こうして無事に、エルトゥールル号遭難事件の生存者はイスタンブールに着いたのでした。イスタンブールに着いた日本人の乗組員たちは、オスマン帝国の感謝と敬意を表した熱烈な歓迎に感動したそうです。

この事件には重要な伏線があった!

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このように船長のクズ行動と言われる原因と、複合的な原因が重なることで大きな原因を作り、エルトゥールル号遭難事件は起こってしまったのですが、エルトゥールル号遭難事件には、伏線となる話がありました。日本とトルコはこの時代に、同じ苦しみを持っていたもの同士だったのです。

トルコは1838年からイギリスと不平等条約を結ばされており、開国させられた日本が1858年以降に、欧米列強と結ばされた不平等条約を結ばされたのと同じく、不平等の苦しみを持っていたのです。トルコが日本に対して友好的な感情を持つ原因は、この不平等条約からもきているのです。

トルコは欧米列強との不平等条約に苦しんでいた

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なぜ9000キロも離れている地からトルコ艦隊ははるばる日本を訪れたのでしょうか。

そこには、欧米列強より近代化に遅れた日本とトルコの歴史的な共通性がありました。19世紀末、オスマン帝国(トルコ)は、欧州列強国との不平等条約に苦しんでいました。

当時のアブデュルハミド2世皇帝は、明治維新以降、同じような欧米との不平等条約で苦労していた日本との友好関係を促進し、両国家間で「平等条約」締結を図ろうとしていました。不平等条約が原因だったのです。

ノルマントン号沈没事件

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同じくその当時、日本には悲しい事件がありました。

エルトゥールル号遭難事件より4年前に起きた、1886年10月の英国貨物船ノルマントン号の沈没事件です。日本人乗客25人と雑貨を乗せ神戸へ向かっていたノルマントン号は、暴風雨で和歌山県樫野埼の沖合、後のエルトゥールル号遭難事件と同じ場所で座礁沈没しました。

その際、船長ら英国・ドイツの乗組員26名全員は真っ先に救命ボートに乗り漂流し、船長や乗組員は沿岸漁民に援助されました。しかし乗船していた日本人25名は船中に取り残され、全員が溺死しました。クズ船長らが乗客を助けずに逃げたのです。これはまさに船長のクズ行動が原因です。

2014年に韓国のセウォル号が沈没した事故が記憶に新しいですが、セウォル号の船長がクズ船長と言われているのと同じ、原因はクズ船長なのです。人命救助を考えず自分のことだけを考えた、クズ船長のクズ行動が原因なのです。

このノルマントン号のクズ船長らは、須江浦(現在の串本町)の漁師に献身的な活動により救助されましたが、クズ船長の行動が原因で、日本人の乗客はただの一人も生き残ることができませんでした。

日本人を置き去りにして逃げ出したクズ船長とは知らず、国籍を問わず懸命に救助に励む、須江浦の漁師の純粋で正義感が溢れる行動が、なんと素晴らしいことでしょう。それに対して、国籍で命の重さを区別するようなクズ船長のクズ行動には、飽きれて驚くばかりです。

当時の明治政府は、事故に不審を抱き原因調査を命令し、神戸の英国領事館に告訴するように働きかけました。ところが事件を審判した英領事は、原因は船長だけにあるわけではないとし、クズ船長に軽い刑罰、それ以外の全員には無罪の判決を下しました。

明らかにクズ船長のクズ行動が原因の事件ですが、この判決に明治政府は抗議ができませんでした。当時の日本は不平等条約を押し付けられ、外国人に対する裁判権が無かったのです。日本国民は「日本人蔑視」と怒り、この事件が原因となり領事裁判権の完全撤廃・条約改正を叫び、明治政府を揺さぶる事件に発展しました。

同じ場所で起こったエルトゥールル号遭難事件

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オスマン帝国は、このような不平等条約が原因で苦しんでいた日本に対して、エルトゥールル号遭難事件の前からとても親近感を持っており、前隣友好を持ち掛け、日本側もこれに答え、小松宮彰仁親王がトルコに訪問したのでした。

エルトゥールル号の日本派遣はその答礼でありましたが、その帰路に奇しくも同じ場所でエルトゥールル号遭難事件は起きてしまいます。

もとより日本に対して親近感のあったオスマン帝国でしたが、エルトゥールル号遭難事件が原因でより一層、日本人に感謝と敬意を払うようになり、エルトゥールル号遭難事件はトルコ国内でも大きく報じられたことにより、トルコ国民の親日感情はいっきに高まったことでしょう。

山田寅次郎の行動が話題に!

日本・トルコの架け橋となった国際ボランティアの先駆者・山田寅次郎。茶の湯の家元で、実業家、エルトゥールル号事件で、トルコに義捐金を持参したそうです。画像は、「大阪駐在希臘国名誉領事山田寅次郎ヘ御認可状御下付ノ件」#海難1890 pic.twitter.com/LPbmxnzJfK

— 国立公文書館 (@JPNatArchives) December 10, 2015

悲しい大惨事となったエルトゥールル号遭難事件ですが、このエルトゥールル号遭難事件は日本中で話題となります。

山田寅次郎は、東京で書生として暮らしながら政治活動をしていましたが、その山田寅次郎が日本中からエルトゥールル号遭難事件の義捐金を集め、トルコへ送ることを思いつくのです。のちに山田寅次郎は、トルコと日本を行き来する唯一の日本人として名をはせるのでした。

1億円相当の義捐金を集める

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山田寅次郎は、親交のあった日本新聞社に働きかけてエルトゥールル号遭難事件の募金活動を起こしました。

日本中でエルトゥールル号遭難事件の演説会を行い、2年をかけて民間から現在の価値で1億円相当とされるエルトゥールル号遭難事件の寄付を集めました。当初はトルコへ送金するつもりでしたが、外務大臣と面談したところエルトゥールル号遭難事件の義捐金の持参を勧められたそうです。

トルコへ義捐金を持参する

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1892年(明治25年)4月、寅次郎はエルトゥールル号遭難事件の義捐金を携えて、オスマン帝国の首都イスタンブールに到着し、早速オスマン帝国外相を訪ねてエルトゥールル号遭難事件の義捐金を届けた。

山田寅次郎が遠い日本から来た民間人であり、その民間人がエルトゥールル号遭難事件の義捐金を持って自らやって来たということで、イスタンブールの官民から強烈な歓迎を受けました。

皇帝アブデュルハミド2世に、拝謁する機会に恵まれた山田寅次郎は、生家である中村家伝来の甲冑や大刀を献上しました。これらは現在もトプカプ宮殿博物館に保存され展示されています。

士官学校で日本語の教育

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トルコと日本を行き来するようになる山田寅次郎は、トルコに日本商品を販売する「中村商店」をを開店させます。

アブデュルハミド2世から士官学校での日本語の教育を任されたり、東洋の美術品の整理を依頼されるようになり、政府の高官のイスタンブール訪問を手引きするなど、日本とトルコの国交が樹立されていない中、官民の交流に尽力を尽くすのです。

山田寅次郎が士官学校で教鞭をとった際、その教えを受けた生徒の中には、後のトルコ共和国の初代大統領となったムスタファ・ケマルもいたとされています。

日露戦争にも貢献

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山田寅次郎がイスタンブール滞在中に日露戦争が起こり、「ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装してボスボラス海峡を通過した」との情報が、イスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られました。重要情報として高い評価を受けたこの情報は、山田寅次郎が監視と打電を行ったのでした。

その後、日露戦争に快挙した日本でしたが、この日露戦争の快挙では、日本人のみならずトルコ人にも勇気を与え、トルコでは大変熱狂されたのでした。当時、正式な国交が無かった日本とトルコですが、山田寅次郎という民間人のお陰で、日本とトルコは大きな結びつきが出来、これらが現在に至る友好関係の原因となるのです。

第一次世界大戦の勃発により寅次郎は日本に帰国しますが、トルコのタバコ技術を日本に導入し、タバコの巻紙の製造で、大蔵省専売局で独占的に生産する成功を収めました。山田寅次郎の生涯はトルコと切り離せないものとなるのです。

エルトゥールル号遭難事件に対する日本人の対応に感動!

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エルトゥールル号遭難事件の際には、多くの日本人が命を惜しまず、台風で荒れる岩礁でエルトゥールル号遭難事件の生存者の救助活動を行い、人命救助に尽力しました。その日本人の対応に心を打たれたトルコの人達は、今でもエルトゥールル号遭難事件を忘れずいて、日本に対してとても友好的なのです。

トルコの人達はエルトゥールル号遭難事件の時の日本の対応にとても感謝しており、敬意を表しています。それではエルトゥールル号遭難事件の、日本人の代表的な対応を見てみましょう。

救難活動をした村人たち

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エルトゥールル号遭難事件の通報を灯台から受けた大島の住民たちは、暴風雨の中を総出で駆け付け、危険を顧みず岩礁からエルトゥールル号遭難事件の生存者を救出しました。紀伊大島は当時3村からなる約400戸の島だったため、食料の蓄えもわずかな寒村でした。

その上、台風により出漁できず食料の蓄えも本当に僅かだったのにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすらエルトゥールル号遭難事件の生存者に供出するなど、エルトゥールル号遭難事件の生存者たちの救護に努めました。

不眠不休でエルトゥールル号遭難事件の生存者の救護に努め、エルトゥールル号遭難事件の殉職者の遺体捜査や引き揚げ作業にも関わりました。

明治政府の対応とトルコへの送還

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エルトゥールル号遭難事件の生存者69名はその後、治療を行うため神戸に移りますが、明治天皇はエルトゥールル号遭難事件の知らせを聞いてすぐに軍艦八重山を派遣し、天皇は侍医を、皇后は看護婦13人をエルトゥールル号遭難事件の生存者の救助のために派遣されました。

またエルトゥールル号遭難事件の生存者が、トルコへ一刻も早く帰国できるよう、生存者の治療や殉職者の遺体引き揚げ作業の目処が立つと、早急に軍艦2隻でエルトゥールル号遭難事件の生存者をトルコへ送還させました。

発見された医師の手紙

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最近、エルトゥールル号遭難事件の乗組員の手当てをした紀伊大島の医師3人が、トルコへ送った手紙の写しが地元のお寺で発見されました。

トルコ側がエルトゥールル号遭難事件の治療費用を請求するようにと要請してきたのに対し、医師たちは「初めからお金を請求するつもりはありません。痛ましい遭難者をただ気の毒に思い行ったことです。薬価および治療代は、義援金としてお使い下さい。」との返信を出していました。

エルトゥールル号遭難事件の救助にあたった医師3名は、なんと素晴らしい方たちでしょう。トルコ国民もこれには感動したことでしょう。

エルトゥールル号乗組員のその後は?

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エルトゥールル号遭難事件の、乗組員のその後を知る情報は殆どありません。

しかし現在でもエルトゥールル号遭難事件の子孫の方たちは、日本やトルコの慰霊祭に参加されているようですので、いつかエルトゥールル号遭難事件の乗組員の、その後を人生の話を聞ける日がくるかもしれません。

エルトゥールル号遭難事件の、乗組員のその後の情報はありませんが、子孫の方たちが参加している慰霊祭を含めは行事をご紹介します。

2008年エルトゥールル号遭難事件の子孫が集合

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2008年にエルトゥールル号遭難事件の子孫が集合する会議がトルコで行われました。

ヤプクレディ銀国退職者基金と海底考古学研究会の協力で、2007年初頭に始められた「エルトゥールル号:日本にあるトルコ船舶」という名のプロジェクトの集会で、プロジェクト活動がエルトゥールル号遭難事件の子孫たちに説明されました。

その後、エルトゥールル号遭難事件の子孫の25家族と連絡がつきました。ラフミ・コチ博物館における集会には、これらの家族全員が参加することは難しかったですが、エルトゥールル号遭難事件の艦長オスマン・パシャの親類である、俳優のセッラ・ユルマズは集会に参加されたそうです。

2018年4月イスタンブールで

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2018年トルコ訪問中の自民党の二階幹事長は4月30日、イスタンブールの海事博物館で1890年に和歌山県沖で起きたオスマン帝国軍艦エルトゥールル号遭難事故の追悼行事に出席しました。乗組員の子孫らを前に「忠実に語り継ぎ、トルコと日本の友情と信頼の絆を継承しましょう。」と挨拶をしました。

トルコでもエルトゥールル号遭難事件の追悼行事は行われており、現在でも乗組員の子孫が参加し、日本とトルコの絆を伝承しているそうです。

乗組員の子孫が慰霊祭に参加している

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現在、和歌山県の串本町とトルコのヤカケント町、メルスィン市は姉妹都市です。樫野埼灯台そばには、エルトゥールル号遭難事件の慰霊碑およびトルコ記念館が建っており、町と在日本トルコ大使館の共催による慰霊祭が5年ごとに行われています。

その慰霊祭にはエルトゥールル号遭難事件の乗組員の子孫にあたる人が参加しています。現在でも親交を続けており、エルトゥールル号遭難事件をトルコで語り継いでくれていることでしょう。

時は流れて…オザル・トルコ大統領の対応が神!

オザル首相演者とめっちゃ似てて草 pic.twitter.com/b6mowSxFZS

— ゆーま (@Yuma_sleepo) March 26, 2019

エルトゥールル号遭難事件の日本とトルコの絆には続きがあります。

まだ記憶に新しいイラン・イラク戦争に、再びトルコと日本の絆が再確認されるのです。私たちは、このトルコの勇気ある対応に感謝しなくてはなりません。そしてこれからも忘れることなく、語り継いでいくべきでしょう。

1985年3月17日イラン・イラク戦争で、サダム・フセイン元イラク大統領は、「48時間後イラク上空を飛ぶすべての航空機を撃墜する」と突如に無差別攻撃宣言を行いました。各国は期限までにイラン在住の国民をメヘラーバード国際空港から軍用機や旅客気で救出しました。

しかし当時、日本の航空会社ではイランへの路線がなく、安全も保障されないため、政府は自衛隊の救援機を出動することをためらいました。イラン在住の日本人が200人以上が脱出できずに途方に暮れる状況に陥ったのです。

途方に暮れていた日本人たちに、タイムリミット直前についに救援機が用意されました。しかし、それは日本の航空機ではなくトルコの飛行機でした。トルコ航空の飛行機は、日本人215名の日本人を乗せ、間一髪でイランから脱出したのです。

当時のイラン駐在特命全権大使が、トルコのビルレル駐在特命全権大使に窮状を訴えたところ、ビルレル全権大使は「わかりました。ただちに本国に求め、救援機を派遣させましょう。トルコ人なら誰もが、エルトゥールル号遭難事件の際に受けた恩義を知っています。恩返しをさせていただきましょう」と答えたそうです。

この日本の窮地を救ってくれたのはトルコ政府だったのです。2機のトルコ航空機をテヘランへ派遣することを申し出て、215人の在留邦人を無事に救出することができたのです。

当時イランにいたトルコ人は日本人よるはるかに多い500人以上でした。彼らは何故、自国民でなく日本人を救うのか!と詰め寄ったそうです。しかしトルコ航空の機長は毅然とした態度で、「我々には陸路がある。しかし日本へ帰るには空路しかないのだ」と説得したそうです。

脱出したトルコ人たちは、危険な陸路を3日がかりで帰国したそうです。このトルコの偉大な決断に、抗議する国民は現れず、トルコ国民は日本人が無事に帰国できたことと、トルコ人が無地に帰国できたことを喜んだそうです。

トルコ共和国のオザル首相(後の大統領)は、伊藤忠商事イスタンブール支店長の森永氏と親交があり、森永氏から日本の危機的状況を助けてほしいと依頼されました。

森永氏はオザル首相と親交があったとはいえ、一民間企業の支店長が国の首相に救援機の派遣要請をできるものかと、大変悩まれたそうです。しかし取り残された日本人を救う為に苦渋の決断をしたそうです。

オザル首相は森永氏の依頼後、すぐに救援機を派遣されました。イラン駐在特命全権大使からの連絡もあったことで、オザル首相の決断が早急に下されたのでしょう。オザル首相は森永氏に「友よ、心配するな!」と声をかけたそうです。なんと心強いお言葉でしょう。

この決断は大変なものです。どこの国も自国民の救出を優先するのが当然であるのに、トルコ人より日本人を先に救助したのです。この決断は後に政治問題になるかもしれない、オザル首相の身に危険を及ぼすほどの大きな決断です。オザル首相は国民を信じてこの決断をしたのでしょう。

トルコではエルトゥールル号遭難事件は多くの人に知られている為、オザル大統領のこの大きな決断をもトルコ国民は受け入れてくれたのです。本当に困っている人たちがいたら助ける。恩を受けたから恩を返すわけではなく、もっと純粋なものを信じる。トルコ国民の素晴らしさに私たち日本人は感謝の思いしかありません。

エルトゥールル号遭難事件まとめ!

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長い歴史の中で、トルコと日本の友好関係は育まれてきました。

その歴史は悲しい事件でもありますが、トルコが今も尚、エルトゥールル号遭難事件のことを語り継いでいてくれていることは、日本人としてとても嬉しい事です。私たちもこのエルトゥールル号遭難事件のことを忘れずに、またイラン・イラク戦争のトルコの行動を忘れず、語り継いでいきたいものです。

エルトゥールル号遭難事件は、トルコでは学校の教科書にも載っているほど有名な事件です。トルコの人々は親日家が多いというのは、このエルトゥールル号遭難事件のことを知ってのことなのかもしれません。

その一方で日本ではあまり知られていないエルトゥールル号遭難事件です。私たちもエルトゥールル号遭難事件のことをもっと知り、そしてイラン・イラク戦争の時にトルコがしてくれた大きな決断に深く感謝し、語りづぐべきではないでしょうか。

トルコの親日感情の元には、エルトゥールル号遭難事件があるのかもしれません。私たちもトルコを訪れる際、またはトルコの方たちと接する機会があれば、是非イラン・イラク戦争のトルコ人の素晴らしい対応を思い出し、エルトゥールル号遭難事件を偲んでみませんか。

遠い異国の地で、今も尚語り継がれるエルトゥールル号遭難事件。私たちも日本人として、この悲しいエルトゥールル号遭難事件を忘れず、そして昔の日本人の献身的な行動を見習いたいものです。

これから何処かで、困っている他国の方に出会ったときは、是非エルトゥールル号遭難事件を見習い、困っている人がいるから助ける、という精神を忘れずに、日本人の真の姿を見せましょう。

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