連続企業爆破事件の概要!東アジア反日武装戦線の40年目の真実とは?

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連続企業爆破事件とは?

引用: Pixabay

最近は世界中で様々なテロ事件が起こり、様々な場所で緊迫した状態が続いています。

テロ事件を起こすに至ったニュースを聞いても、日本から遠い場所のせいか、テロが少ない日本ではあまり身近には感じることができないのではないでしょうか?

実は今から40年以上ほど前の出来事ですが、1970年代に日本でもテロ事件が起こっていたこと、テロ組織「東アジア反日武装戦線」による連続企業爆破事件が起こっていたことをご存知でしょうか?

2015年5月22日に放送された「金曜プレミアム”連続企業爆破事件40年目の真実”」(フジテレビ)という番組で取り上げられ、改めてその事件の深刻さとテロの怖さを感じさせられた人も多いかと思います。

日本にテロ組織があったという認識や記憶もすでに遠くなってしまっていると思いますが、当時日本国内では、当時の日本政府に対する学生らによる反体制運動が多く起こっていた時期でもありました。

今回は当時の時代背景や、「東アジア反日武装戦線」と呼ぶテロ組織とその周辺の関連した集団・組織についても触れながら、連続企業爆破事件の後についても解説します。

 

連続企業爆破事件の概要まとめ

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1974年から1975年にかけて、「東アジア反日武装戦線」による日本の旧財閥系を中心とした大手企業や大手ゼネコンに対して、断続的にその社屋や施設を爆破するという連続テロ事件を引き起こしました。

 

「東アジア反日武装戦線」が発生した当時の時代背景


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「東アジア反日武装戦線」は、1970年に大道寺将司が法政大学在学中に結成した「Lクラス闘争委員会」が、元々の源流となったようです。一時は数百名にも参加者がいたそうです。そこでクラスメイトだった片岡利明と、後に「東アジア反日武装戦線」の協力者となる荒井まり子ともここで出会ったそうです。

当時の日本では、戦後の新制度の下に「大学制度」が発足し、これまでも大学側と学生側の衝突は少なくはなかったそうですが、それまでは個別の大学で対応できる範囲にとどまっていたようです。

1960年代後半からはこうした大学と学生側の対立が、各大学単位ではなく大学生同士の連携によって全国的な学生運動の波が起こるようになりました。発端は、大学の授業料の値上げや学生寮の待遇改善、大学教授や講師陣からの抑え込まれるような扱いなどに対して、学生が反論意義を唱えたところから始まったようです。

有名なのは、1968年に日本大学に東京国税局が入り、22億円の使途不明金が発覚した事です。これに対してまだ自治会組織も無かった学生からの大学に対する不満が起こり、日本初のデモ「二百メートル・デモ」が行われたそうです。

これをきっかけに「日本大学全学共闘会議(日大全共闘)」が結成されて、その後医学部インターン問題をめぐる学生の不当処分に対して憤りを持っていた東京大学の学生にもこの流れが飛び火し「東京大学全学共闘会議(東大全共闘)」が結成され、全共闘時代と呼ばれる学生運動が盛んな時期が始まります。

 

「東アジア反日武装戦線」の発生要因


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当初は戦後の価値観の変化に戸惑う中で、大学側の不明朗さに対して学生が授業料の不当値上げや自らの待遇改善と大学運営の明朗会計を訴えて行くことを発端にした学生運動でしたが、その中で共産主義や革命主義、そして社会運動などの政治団体なども複雑に学生運動に介入してきたという背景もありました。

勉強会・研究会という形を取り「宗教のように」当時の学生たちをそうした思想に感化させていったものも多く、そういったし王に染まってしまった一つが「東アジア反日武装戦線」だったのかもしれません。

前述の学生運動は1970年代になって急速に収束して行きました。なぜならこの頃は「左翼政党派間での内ゲバ(内部の暴力的抗争)」により累計100人以上の殺人があったり、連合赤軍による「あさま山荘事件」や「リンチ事件」、そして日本赤軍による「よど号ハイジャック事件」などが起こりました。

こういった思想が起こした事件の延長線上にある学生運動自体は、当時も一般的にはそれほど支持はされていませんでしたが、こういった事件以降はむしろ非難を浴びる方向へと向かっていったためです。

ただ、この学生運動は当事者だった若者に対して「血が沸き肉躍る」高揚感を与えたようで、「参加してゲバ棒(角材)を振りたい」「(よくわからないが)思想のために行動したい」といった意識は、学生運動の終息によって不完全燃焼気味になったのではと言われています。

元々、学生運動で賛美・推奨された暴力による抗争は、中国の「文化大革命」に影響を受けたものでした。そのため、学生運動の収束により不完全燃焼を感じた一部の当時学生だった若者が、日本の過去の帝国主義を批判するといった方向に思想を展開し、暴力行為やテロ行為を行うという極端な行動に走っていくことになったようです。

 

「東アジア反日武装戦線」の発足

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学生運動が下火になったのと同時に「Lクラス闘争委員会」も下火になりました。

その後大道寺将司は法政大学を中退し、「Lクラス闘争委員会」の主要メンバーと共に「研究会」を1970年8月に旗揚げしました。この「研究会」では日本帝国主義がアジアで行ってきた”悪行”を学習し、過激な「反日思想」を募らせていくことに注力しました。

最終的には「反日運動」のためには武力闘争をしなければならない、というゲリラ路線を打ち出した時にはゲリラ路線に反対する数名が脱落しましたが、この頃に後に妻となる大道寺あや子が加わり、1971年1月には自家製爆弾の実験を行うようになったそうです。

その後、「日本帝国主義の象徴となるものを爆破する」ことを目的に、1971年12月12日に最初の「興亜観音・殉国七士之碑爆破事件」を起こし、「総持寺納骨堂爆破事件」(1972年4月6日)、「風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件」(1972年10月23日)を起こした後に、本格的な武力闘争である「連続企業爆破事件」に繋がっていくことになります。

またこの「東アジア反日武装戦線」の名称は1972年12月に決まったそうです。

1973年は本格的武力闘争に備えて爆弾の開発や活動資金の貯蓄に励むと同時に、自分たちの主義主張を世に訴えるため「腹腹時計」という小冊子を1974年2月にひそかに出版し、闘争の意義や理念に同調してくれる同志や他の武闘派グループが「東アジア反日戦線」に合流することを期待していたようです。

1974年8月14日には、昭和天皇のお召列車を爆破を計画しましたが人に見られたため未遂に終わりました。翌日韓国での朴正煕大統領暗殺をしようとした犯人・文世光(朝鮮総連メンバー)に応えるために、新しい作戦「連続企業爆破事件」への計画を進めて行くようになったようです。

 

大道寺率いる、東アジア反日武装戦線「狼」グループ

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大道寺将司(当時26歳)大道寺あや子(当時26歳)片岡利明(当時26歳)と共に「東アジア反日武装戦線」を結成した後、佐々木規夫(当時26歳)も参加し、”資本家に苦しめられ抑圧される民衆をニホンオオカミに投影した”「狼」と名乗ったようです。

 

斎藤と浴田のカップルが軸の、東アジア反日武装戦線「大地の牙」グループ

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佐々木則夫を通して大道寺将司と知り合い、何度かの面談を経て、元々学生運動家だった斎藤和(当時27歳)が当時の同棲相手の浴田由紀子(当時24歳)と共に「東アジア反日武装戦線」に参加を表明したそうです。

国家や資本家に立ち向かうという意味合いで、”大地に牙を立てる”「大地の牙」と名乗ったようです。

 

桐島が参加した、東アジア反日武装戦線「さそり」グループ

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中核派の活動家だった黒川芳正(当時27歳)と、高校時代から部落解放運動と在日韓国人問題に参加していた宇賀神寿一(当時22歳)、そして広島でアナーキズム系新左翼活動家だった桐島聡(当時20歳)らは、明治学園大学在学中に学生闘争で出会ったようです。その後、佐々木則夫を介して大道寺将司と会い、「東アジア反日武装戦線」に参加することになったようです。

”小さくても猛毒で、大企業や大資本を倒す”ことから、「さそり」と名乗るようになったようです。

 

爆破された企業まとめ【連続企業爆破事件】

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前述のとおり、三菱重工(旧岩崎財閥)や三井物産(旧三井財閥)、大成建設(旧大倉財閥)などの旧大財閥系企業に対して「アジア侵略をしている」と過激に反応し、爆弾事件を断続的に行いました。

また旧大財閥系ではなくても、戦時中に中国人の強制労働が関わった「花岡事件」を起こした鹿島建設、そして当時海外進出に目覚ましい帝人や、韓国産業経済研究会の主催する訪韓団の団長になったオリエンタルメタル社の社長に対して、訪韓に抗議する意味で東アジア反日武装戦線の爆弾テロの対象となりました。

間組は、日本国内だけではなく海外でもダム建設を手掛けていました。当時マレーシアで間組のダム建設に現地住民の反対運動が起こっており、その現地の反対運動に呼応する形で、同じく東アジア反日武装戦線のテロ対象企業となったようです。

東アジア反日武装戦線は、当時の極左的思想と偏った歴史観、更に狂信的な行動力により突き進んでテロ集団となったともいえるかもしれません。

 

三菱重工爆破事件【連続企業爆破事件】

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1974年8月30日午後0時25分ごろ、東アジア反日武装戦線の「狼」グループ(関与者は大道寺将司、大道寺あや子、佐々木則夫、片岡利明)の実行犯4人が、東京都千代田区丸の内にある三菱重工業の本社ビルの1階入り口付近のフラワーポット脇に時限爆弾を仕掛けました。

ここに爆弾を仕掛けたのは、本社ビル(現・丸の内二丁目ビル)と道を挟んで向かい側の三菱電機ビル(現・丸の内仲通りビル)の両方を爆破しようとしたためだったの事です。

爆発の8分前に「爆薬を仕掛けた。付近のものは立ち去るように。」と電話をしたところ電話交換手がいたずら電話として本気にされなかったため、再度爆発の4分前に予告電話を掛けたところ、庶務課にやっと伝えたという動きになったようです。

そして午後0時45分に時限爆弾が爆発します。この爆発の衝撃は大きく、建物の1階入り口は大破し本社ビルと向かいの三菱電機ビル、更には丸の内ビルなどの周囲の建物の窓ガラスが割れ、街路樹の葉も全て吹き飛んでしまったそうです。表通りにも爆破で割れたガラスが飛散し、この時に飛散したガラス片は4tもあったと言われています。

この爆破で、建物内にいた社員と多数の通行人が死傷しました。結局、三菱重工の社員2名と三菱重工とは無関係の通行人を含む20代から50代までの計8名が死亡、負傷者は376名にも上りました。

使用された爆弾はドラム缶に取っ手が付いた「ペール缶」と呼ばれる18~20ℓ入りの缶に、当時禁止されていた塩素酸塩系の除草剤を使った混合爆薬約54.8㎏が詰められ、電池式腕時計をタイマーに利用したもので、茶色の紙で覆われカモフラージュされていたと言われています。警察の鑑定結果では「ダイナマイト700本分に相当する」と発表されました。

 

三井物産爆破事件【連続企業爆破事件】

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1974年10月14日午後1時過ぎ、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」グループ(関与者は斎藤和、浴田由紀子)によって東京都港区西新橋にある三井物産本社屋の物産館3階の電算室が爆破されました。それによって17名の負傷者が出ました。

こちらは多くの死傷者を出してしまった前述の「三菱重工事件」の反省から、爆破20分前に予告電話をし、当初の予定よりも爆弾の火薬の量を減らしたこと、更に三菱物産館の建物が重厚だったことが重なって、三菱重工ほどの被害が出なかったそうです。ただ予告電話で現場を警戒中の警察官4名が爆発に巻き込まれています。使用された爆弾は、「ゆたんぽ爆弾」と呼ばれるものだそうです。

この三井物産の本社社屋であった物産館は、この後一時的に警察庁の仮庁舎になった後、現在建物は既に取り壊されてありません。

 

帝人中央研究所爆破事件【連続企業爆破事件】

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1974年11月25日午後3時、東アジア反日武装戦線の「狼」グループ(関与者は大道寺将司、大道寺あや子、佐々木則夫、片岡利明)によって、東京都日野市にある帝人中央研究所の配電盤質を消火器爆弾によって爆破しました。

元々は、帝人本社を狙おうとしていたそうですが、警察の裏をかいて中央研究所に変更したとのことを後日話しています。被害は少なかったため、それほどニュースとしても取り上げられませんでした。使用された爆弾は、「消火器爆弾」1つによるものとのことです。

 

大成建設爆破事件【連続企業爆破事件】

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1974年12月10日午前11時、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」グループ(関与者は斎藤和、浴田由紀子)により、東京都中央区銀座にある大成建設の本社1階にある駐車場が爆破されました。

これによって本社ビルとそばの大倉商事ビルの窓ガラスが破損し、停めてあった2tトラックが横転するほどだった程だそうです。大成建設社員や警察庁築地警察職員の計9名が負傷しました。

折しも、歳末特別警戒中に起こった事件のため、警察庁にとっては大きな衝撃となったようです。使用された爆弾は、「石油ストーブオイル缶爆弾」1個によるものとのことです。

 

鹿島建設爆破事件【連続企業爆破事件】

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1974年12月23日午後3時10分、東アジア反日武装戦線の「さそり」グループ(関与者は黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)により東京都江東区の鹿島建設KPH(鹿島式プレハブハウス)工場の資材置き場を爆破しました。

本社屋を狙わなかったのは、「現場労働者の覚醒を促したかったから」という意味があったようです。使用された爆弾は、「ワックス缶爆弾」と言われています。

 

間組爆破事件・1(本社・大宮工場)【連続企業爆破事件】

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1975年2月28日午後8時、今度は東アジア反日武装戦線の「狼」(関与者は大道寺将司、大道寺あや子、佐々木則夫、片岡利明)「さそり」グループ(関与者は黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)が、東京都港区北青山にある本社ビルを、そして「大地の牙」グループ(関与者は斎藤和、浴田由紀子)が埼玉県にある大宮工場を爆破しました。

特に本社ビルではコンピューター室が破壊され重要データを一瞬で失ったため、間組の経営に大きな影響を与えたと言われています。残業で残っていた社員と消防士の計5名が負傷しています。

使用された爆弾は、本社が「アタッシュケース爆弾」で、大宮工場が「シンナー缶爆弾」とのことです。

爆破後の記者会見で「今後の海外進出について取りやめえる気はないか?」といった質問に、間組の副社長が「全く無い」と返答したため、東アジア反日武装戦線は自分たちに対する挑戦と受け止め、再度間組への爆破計画を進めたようです。

 

オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所【連続企業爆破事件】

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1975年4月19日午前1時、東アジア反日武装戦線の「大地の牙」グループ(関与者は斎藤和、浴田由紀子)により、兵庫県尼崎市にあるオリエンタルメタル社と東京都中央区にある韓国産業経済研究所を爆破しました。

真夜中のため無人で、負傷者は出ませんでした。使用された爆弾は、両方とも「ブリキ缶爆弾」だったそうです。

 

間組爆破事件・2(江戸川作業所)【連続企業爆破事件】

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1975年4月28日深夜0時に、東アジア反日武装戦線の「さそり」グループ(関与者は黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)による、千葉県市川市にある間組江戸川作業所と工事現場を爆破しようとしました。

作業所のほうは爆破し、当直していた間組社員1名が重傷を負いました。一方、現場に仕掛けた爆弾は不発でした。

 

間組爆破事件・3(京成江戸川橋鉄橋工事現場)【連続企業爆破事件】

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1975年5月4日午前2時25分に、東アジア反日武装戦線の「さそり」グループ(関与者は黒川芳正、宇賀神寿一、桐島聡)によって、4月28日に不発だった爆弾の横に新たな爆弾を付けて誘爆をさせて爆破しました。

使用された爆弾は、「ワックス缶爆弾」と言われています。

 

連続企業爆破事件のメンバーの逮捕

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三菱重工爆破事件の直後に警視庁丸の内警察署に設置された特別捜査本部は、公安部と刑事部捜査一課が共同で当たるという、異例の体制で捜査が進められました。

連続企業爆破事件の現場検証の当初から、捜査本部では「極左暴力集団の犯行ではないか」という見方をしていたそうです。犯人らしき不審な男性が目撃され「25,6歳の、長髪で、ぎょろ目の男」というモンタージュ写真が公開されました。

その中で捜査線上に浮かんだのは、1972年9月に「アイヌ解放」を叫んでアイヌ民族では英雄とされている「シャクシャイン」の銅像を爆破して逮捕されたことのある、アイヌモシリ独立運動を唱えていた革命主義者の栗原登一(別名・太田竜)と関係のある人たちも浮かんでいたようです。

特別捜査本部では、地下出版されていたゲリラ教本とも呼べる「腹腹時計」の影響や、爆破現場で使われた「シチズン・コンパクトアラーム」の領収書を辿って犯人グループの割り出しに成功したそうです。

あとは2か月間に及ぶ地道な尾行や探索の慎重な捜査が実り、1975年5月19日朝に出勤途中や都内のアパートにいた犯人グループのメンバー7名が「韓国産業経済研究所爆破事件」の容疑で一斉逮捕されました。

 

警察と報道の「40年目の真実」

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この連続企業爆破事件に対して警視庁は公安部と刑事部の異例の体制で当たったのは前述しましたが、表前の特別捜査本部とは別に、様々な伏線を繋ぐために水面下で様々な推理と捜査が行われていたことが、極秘資料や当時の関係者へのインタビューによって、その捜査段階や報道にまつわる熾烈な駆け引きがあったことが「40年目の真実」として明らかになりました。

公安では地下出版のテロ教本「腹腹時計」に早くから注目をしていたそうです。そこから犯人たちの身元を洗い出していく過程で、様々な方向から可能性を一つ一つ潰しながら特定するという”頭脳戦”を行っていました。犯人たちは普段はごく普通で、むしろ「好ましい隣人」と周囲から思われるほどだったそうです。そういった表面を破るための捜査(これまでの思想や背景など)を行い、犯人たちの実像に迫っていきました。

更に、そこから刑事部は目星が付けられた被疑者を順番に追いながら、目撃証言と照らし合わせて「事実」を積み重ねるという地道な作業を行っていったようです。

しかし犯人たちは事件の度に不審な行動を取ってはいたものの現場を抑えることが出来ず苦労していたようですが、オリエンタルメタル社・韓国産業経済研究所爆破事件の際には、犯人メンバー全員が外出し連絡を取り合っていたことを確認し、更に犯人アジトから「犯行声明文の書き損じ」の入手にも成功し、やっと犯人メンバーたちの正体を掴むことに成功しました。

一方、刑事部と直結していた観察部では、爆弾製造の復元を行ったそうです。連続企業爆破事件に使われた爆弾の共通の部品や構造などを細かく調べ、「腹腹時計」の情報と照らし合わせるなどして、確証を得て行きました。

実際に、「連続企業爆破事件に使われた爆弾11個中、5つか6つまでは爆弾の構造が同じ」という事を既に掴んでいたことも後に報道でスクープされたようです。更に爆弾に共通して使われていた「シチズン・コンパクトアラーム」を割り出し、捜査につなげて行ったそうです。

元々公安も警察も「捜査上の事は棺桶まで話さない」という暗黙の了解があるため、インタビューはごく一部の情報や当時の取材記者に限られましたが、こうした形で明かされた40年目の真実には驚きを呼んだそうです。

そして、そんな中で当時スクープを発表した「産経新聞」の担当記者のチームが今でも語り草になっていたようです。

当時の警視総監と信頼関係を築いていた警視庁担当キャップと共に、刑事課担当・公安担当・鑑識担当の記者がそれぞれ必死の取材に熱意を注いだ結果、「いよいよ明日逮捕だ」というタイミングを得てスクープを掴んだようです。報道現場で他社を凌ぐほどのその熱心で執拗な張り込みに、捜査に当たっていた現場の刑事や公安警察官も最後には認め「分かったから、カメラは隠して」と言わしめたほどだったそうです。

 

逮捕されたメンバーのその後

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一斉逮捕された7名は、大道寺将司、大道寺あや子、佐々木則夫、片岡利明斎藤和、浴田由紀子黒川芳正でした。また、東アジア反日武装戦線の協力者として荒井まり子も逮捕されました。

取り調べ中に斎藤和は持っていた青酸カリのカプセルを飲んで吐血して死亡しています。そして協力者の荒井まり子の姉が警察の尾行によるストレスから、実家に帰る途中の、走る列車のトイレから身を投げて自殺してしまったそうです。

裁判では、裁判官の制止を聞かない被告人全員と弁護人に退廷を命じられたり、そのほかの公判でもかなり荒れたようで傍聴人までも退廷させられたなど、当時犯人たちは犯行に対して反省の無い様子が記されていました。

リーダーであった大道寺将司は1975年の裁判で死刑判決を受け、再審請求をしたようですが最終的に2003年に棄却され死刑が確定しています。獄中で俳句などを作るなどしていたようですが、2017年に多発性骨髄腫で亡くなっています。

片岡利明(現在は益永利明)は1975年の裁判で死刑判決を受けて、現在は確定死刑囚として東京拘置所に存命のようですが、2010年に発症した脳梗塞の後遺症から意思疎通ができない状態とのことです。

この二人の遺族と家族によって、現在も再審請求や活動をしているようです。

黒川芳正は1975年の裁判で無期懲役刑を受けて、現在は宮城刑務所に服役中です。

裁判中であった佐々木則夫は、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件によって超法規的措置で釈放され逃亡し、日本赤軍に合流したようです。

同じく裁判中に、1977年の日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件によって、大道寺あや子浴田由紀子も超法規的措置で釈放されて逃亡し、日本赤軍に合流したようです。浴田由紀子は1995年にルーマニア潜伏中に拘束され日本に移送、2004年に懲役20年が確定しましたが、実は2017年に既に出所していることが明らかとなっています。

7名の逮捕後に、宇賀神寿一と桐島聡が全国指名手配されました。逃亡していた宇賀神寿一は1982年に逮捕されて懲役18年が確定しましたが、2003年には既に出所しています。

桐島聡は今も全国指名手配中で、国外に逃亡した佐々木則夫、大道寺あや子は今も国際指名手配中です。

また協力者として逮捕された荒井まり子は、元々佐々木則夫と遠距離恋愛をしていたとの噂がありましたが、服役中に別の方と獄中結婚されたようです。1987年に出所していますが、浴田由紀子が出所した際には支援者として名を連ねていました。

2名が服役中・3名が指名手配中の今現在、更に3名が出所後も接触を持った形跡がある…という事は、この連続企業爆破事件に関わった「東アジア反日武装戦線」はまだひっそりと存在し、そして彼らを取り巻く支援者たちもまだ存在しているようです。

 

その他の関連爆破事件【連続企業爆破事件】

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1976年3月2日午前、北海道庁1階のエレベータ付近に合った消火器型の改造爆弾が爆発し、50代男性職員と45歳の女性が死亡、95人が重軽傷を負うという事件が起こりました。その日の午後、地下鉄のコインロッカーからこの北海道庁爆破事件の「東アジア反日武装戦線」の犯行声明文が見つかりました。

その事件の犯人として死刑判決を受けたのが大森勝久(当時27歳)ですが、「東アジア反日武装戦線にシンパシーを感じていた」「北海道に渡り爆弾闘争の準備中に、実行犯として逮捕された」と供述し冤罪を主張していました。判決では大森勝久が仲間と共謀して実行した、とされていますが、その共謀者は不明です。

1977年10月27日には神社本庁のビル一階で爆発するという神社本庁爆破事件が起こり、神社本庁職員5名と無関係の郵便局員1名が負傷しました。

犯人とされるのは加藤三郎で、実は先の大森勝久の友人でした。加藤三郎は「東アジア反日武装戦線」に影響を受け「反日闘争」と称して当初はペンキなどで落書きする程度だったようですが、だんだん平安神宮・梨木神社・東急観光・東大法学部一号館・三井アルミ社長宅・東本願寺などへの爆破行為を行っていました。多くの負傷者を出しても死者が出なかったため扱いは小さかったようです。

1983年に上記の余罪で逮捕された加藤三郎は、懲役18年の服役を経て2002年に出所しています。既に逮捕前から「反日思想」を脱してインドの宗教家に師事をしていたそうです。

また1985年の、連続企業爆破事件の控訴審判決が予定されていた10月29日に、銀座の東京南部小包集中局で爆発事件があり、残留物の中から「反日武装」といった文字が発見されました。この爆発により、無関係の郵便局員が重傷を負いました。犯人はまだ不明のままですが、この事件を知った大道寺将司は自責の念に駆られたと伝えられています。

その他にも小学生や中学生が「東アジア反日武装戦線」を名乗った事件を起こし、逮捕されるなどの模倣犯例がいくつもあったようです。

 

東アジア反日武装戦線の犯行と判明!

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連続企業爆破事件は「東アジア反日武装戦線」の犯行で、裁判も行われ有罪判決も受けています。

しかし、「超法規的措置で釈放」してしまった3人については、人質となった人命は守れてたものの、日本国内だけでなく海外からも猛烈に非難されてきました。そしてこの時の反省が、現在日本政府は「いかなるテロ組織とも取引しない」という以後の政府対応への教訓となったようです。

当時の犯人たちの年齢は現在70歳前後ですが、死傷者を出し全く関係のない多くの人達を負傷させたという事実は永遠に消せません。事件を目の当たりにした人や実際に何の関係もないのに巻き込まれて負傷した人たちは、今もそのショックを昨日のように語ることができます。

「年を取ったので、一度日本に帰りたい。家族に会いたい。」という以前報道された日本赤軍メンバーのコメントには、自ら行ったテロ行為に対しての反省や謝罪の言葉は未だ一切ありません。彼らは現在ほとんどがレバノンなどのイスラム教国家に政治亡命し、周辺諸国や現地のテロ組織と結びついて活動してきた事実も広く知られています。

純粋さによる安易な思想的傾倒で犯した失敗は、取り返せなく償えない過ちであることを感じずにはいられません。この時代以降の若者は、彼らの失敗から学びました。ただ、未だに聞こえる海外での日本の恥ずかしい部分を振り返ることで、二度と繰り返してはならないという気持ちを強く持っている人も多いようです。

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