A級戦犯で絞首刑になった人物まとめ!東京裁判で問われた罪状も紹介!

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A級戦犯とは?

引用: Pixabay

かつて大日本帝国とアメリカ合衆国が戦争をした後の裁判。それが東京裁判です。東京裁判では「絞首刑となったA級戦犯」ばかりが取り沙汰されますが、天皇やA級戦犯の他に「B級戦犯」や「C級戦犯」もいます。

しかし、A級戦犯が誰で、A級戦犯として東京裁判にかけられ絞首刑に処されたのはどんな人物なのか、そしてアメリカ合衆国は日本に原爆を落としていながら、どういった罪状(絞首刑含む)でA級戦犯を裁いたのかが現在も議論の的になっています。

そして、A級戦犯の罪状(絞首刑)や東京裁判を知れば知るほど、内閣総理大臣の靖国神社参拝問題につながっていることが理解できます。どうして、中国が首相の靖国神社参拝に敏感なのかという点もA級戦犯やその罪状を知れば、わかってくるでしょう。

また、1941年12月8日の真珠湾攻撃は奇襲ではなく、攻撃を予期していた英国のチャーチルが「アメリカには伝えなくてよい」と言ったという説もあります。日米開戦時のアメリカの軍事力はかなり低く、英国に到底及びませんでした。一方で開戦を望んだアメリカ政府が密かに老朽化した戦艦アリゾナをハワイの真珠湾に並べていたという情報もあるほどです。

ここでは、A級戦犯やその罪状(絞首刑)をテーゼに戦後の裏舞台に迫っていきましょう。

 

A級戦犯の判決を下した東京裁判の概要

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まずはA級戦犯の概要から見ていきましょう。

A級戦犯は東京裁判にかけられる前に身柄を拘束されます。具体的にいうとA級戦犯は巣鴨拘置所に収容されるのです。A級戦犯の容疑がかかっただけでは、東京裁判にかけられていないので罪状(絞首刑)も決まっていません。A級戦犯の容疑だけでは釈放される可能性も十分にある状態を意味します。

そのため、途中で釈放されたA級戦犯の容疑者も多く存在しています。A級戦犯の容疑者が全て東京裁判にかけられたわけではないという点に留意するといいでしょう。

 

【1】連合国が一方的に行った裁判


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「巣鴨プリズン」はA級戦犯容疑者の収容された拘置所(東京裁判の公判中に収容される場所)でした。

現在はサンシャイン60が建設され、A級戦犯とは無縁なペンギンが屋上を泳いでいます。
アメリカと友好的になった現代の日本人はA級戦犯逮捕や東京裁判を公平な裁判と見る向きがありますが、A級戦犯の立場から見れば、連合国による内政干渉であることは火を見るよりも明らかです。

土足で日本の土地を踏み荒らし、戦争責任を取るという大義でA級戦犯をつるし上げ、東京裁判を行いました。負けたとはいえ、アメリカは日本の軍事力再燃(A級戦犯による)を恐れており、東京裁判でA級戦犯を一気に片を付ける目論見でした。

ところが、東京裁判もアメリカの計画通りには行きません。すでに共産圏の中華人民共和国とソビエト連邦が力をつけ、冷戦構造が完成しつつあったのです。そのため、アメリカは日本(北海道、本州、四国、九州)をまるごと支配下に置くことで、共産圏の拡大を阻止していたのです。その証拠にヤルタ会談での日本分割案では四国を「中華民国」、北海道と東北を「ソ連」が統治する計画がありました。

しかし、アメリカは東京裁判やA級戦犯を利用することで共産圏を日本から遠ざけることに成功したのです。東京裁判の実施(A級戦犯の逮捕を含む)には連合国から一人ずつ裁判官を選出する必要があったため、ソ連とアメリカは水面下で交渉をしていました。

 

【2】蒋介石が日本を擁護


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大日本帝国が中国に進出したときは国民党(蒋介石)と共産党(毛沢東)がケンカをしていました。

一時的に対日共同作戦で手を結んだものの終戦後に再び対立。東京裁判が長引くにつれ、中華民国(現在の台湾)が日本やA級戦犯を擁護するようになり、アメリカ側へと主張が傾いていきます。

アメリカは共産党勢力が日本へ入ることを警戒していましたから、中華民国の主張をあっさり採用します。もともと蒋介石は大日本帝国(A級戦犯)と戦争したくなかったという証言もあり、実際に蒋介石と親交の深かった日本の有力者もいます。

これによって東京裁判では多くのA級戦犯やB、C級戦犯が絞首刑をまぬかれたと言われています。また、東南アジアではヨーロッパ列強にアジアの仲間が勝ったというイメージが強く残り、独立の機運が高まります。

かつて、東南アジアの多くの国を支配していたオランダやイギリスなどの白人が戦後に東南アジアから撤退したのは、こうした独立の機運に勝てなかったためです。そして、ついに1997年に香港が中国に返還されたことでアジア(A級戦犯)からヨーロッパ勢力が完全に姿を消します。

 

【3】天皇陛下が訴追されなかった理由とは?

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引用: Pixabay

当初、東京裁判で連合国側は天皇陛下をA級戦犯として訴追(絞首刑)することを強く要求していました。天皇こそ大日本帝国の親玉(A級戦犯)であり、悪の根源であるという思想が強かったからです。

しかし、満州事変を始め、中国大陸での領土拡大を目指した陸軍や関東軍は天皇のコントロール下になく、いわゆる暴走状態にありました。その根底には第二次世界大戦が始まる前に東京都下で発生した「二・二六事件」があります。

この事件は昭和天皇の脆弱さに業を煮やした陸軍の将校が昭和天皇とは別の天皇を立て、昭和天皇を退位に追い込もうと画策したクーデターでした。クーデターは失敗に終わったものの、当時の陸軍将校たちは昭和天皇を不甲斐なく思っており、二・二六事件の解決に尽力したのは天皇ではなく海軍だったと言われています。

それは第二次世界大戦でも同じで天皇に忠誠を誓っていると言えるのは内閣を除けば、陸軍ではなく、海軍だったのです。つまり、中国での戦地拡大は陸軍が主導した向きが強く、昭和天皇の統制下になかったため東京裁判では天皇がA級戦犯にならなかったというのが理由の一つでもあります。

さらに、当時の日本の内閣が必死でGHQから新憲法の制定において天皇に関する条項を死守したことから、GHQは日本における天皇の重要性を認識。東京裁判でもA級戦犯として昭和天皇を訴追(絞首刑)しないという前提で進める方が円滑に東京裁判やA級戦犯逮捕が進むとも考えたのです。

 

A級戦犯になる条件は?

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A級戦犯というと極悪人のレッテルが貼られていますが、実際にはだいぶ異なります。連合国の利害が絡み合い、法的要件だけでA級戦犯の容疑で逮捕し、東京裁判の法廷に突き出すことは難しかったのです。

理由は終戦後の「分割統治」を各国の代表が想定していることでした。日本が統治していた領土は実に広大で北はサハリン、南はオーストラリア、西はイギリス領ビルマにまで及んでいました。この広すぎる領土拡大が敗戦の一因であったことも事実です。

サハリンに至っては北をソ連、南を大日本帝国とで分割していたので、かつての日本には陸地に国境線があったのです。

 

【1】平和に対する罪であること

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大日本帝国(昭和天皇)が受け入れたポツダム宣言をベースに東京裁判(A級戦犯逮捕含む)に関する条例が形作られました。その中に「a.平和に対する罪(罪状)」、「b.戦争犯罪(罪状)」、「c.人道に対する罪(罪状)」の3つの罪状が列挙。

A級戦犯が「平和に対する罪」に該当する罪状だったので、罪状の絞首刑ではなく「A級戦犯」と呼ばれました。なお、日本では一条一項一号の後にさらに条項や絞首刑などの罪状を加えたい場合、大和言葉の「イ、ロ、ハ…」を使用します。「あ、い、う、え、お」ではありません。

日本の法律は最初、漢字とカタカナのみで構成されており、ひらがなを採用するようになったのは戦後です。おそらく、ひらがなは柔らかいイメージがあるから、厳粛な法律や絞首刑のような罪状を表現するのにそぐわないと考えたのでしょう。

同じように米国の法的文書や絞首刑などの罪状では「a、b、c」を使用。そのためA級戦犯の「A」とは、最も罪状が重いから「A」というわけではなく、条文の頭文字が「a」だったことに由来します。

そもそも原爆をヒロシマとナガサキにB29爆撃機で投下しておいて平和に対する罪状を問うなどおかしな話ですが、サンフランシスコ条約に東京裁判の罪状(A級戦犯の絞首刑など)を受け入れる旨が記されていたのでやむを得なかったのでしょう。

 

【2】連合国内での意見が一致すること

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東京裁判が開始された頃、中華民国は天皇陛下のA級戦犯としての訴追(絞首刑)を強く主張。しかし、中国国内で共産党(中華人民共和国)の力が強まってくると、国民党(現・台湾)は矛を収めます。

共産党に対抗するため国民党はアメリカを味方につけたかったのです。そうした理由からアメリカが天皇をA級戦犯にしないという方針を受け入れるようになっていきました。東京裁判やA級戦犯にまつわるエピソード一つをとってみても、連合国同士で意見が衝突していたことが分かります。

その証左に国民党は台湾へ逃れ、共産党が中国の北京で「中華人民共和国の建国」を宣言します。それに感化された朝鮮半島では、北と南で独立の機運が高まり、朝鮮戦争が勃発。北(朝鮮)を支持するソ連・中華人民共和国と南(韓国)を支持するアメリカ・日本との代理戦争が行われました。

日本は第二次世界大戦で疲弊していましたが、朝鮮特需により国内の景気が徐々に回復します。このように終戦後にA級戦犯になるには、連合国同士の意見(利害)が一致する必要があったのです。

 

【3】日本人であること

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東京裁判でA級戦犯となるには「日本人」でなければなりませんでした。

実は日本で逮捕されたA級戦犯の中にはフィリピン人やドイツ人、アメリカ人、オーストラリア人もいました。1945年9月11日に逮捕命令が出されましたが、彼らは本国に送還されたり、別の裁判によって裁かれました。例えば、大日本帝国と協力したフィリピン。

元々、フィリピンはアメリカの植民地であったことから、戦時中はフィリピンの独立を大日本帝国が支援するという形で協力関係に置かれていました。そのため、当時の大統領だった「ホセ・ラウレル」はアメリカの目の敵にされます。しかし、横浜刑務所や巣鴨拘置所に入れられるものの最終的にはフィリピンに返されます。

ホセ・ラウレルは、日本の奈良ホテルに亡命していた関係で一時的に日本で収監されましたが、戦争に対する責任(罪状)は新しくできたフィリピンの独立政府によって裁かれました。また、ワルシャワで虐殺を行ったとして有名な「ヨーゼフ・マイジンガー」は終戦時、日本のドイツ大使館付警察武官でした。

しかし、罪状がワルシャワでの虐殺だったため、ワルシャワのあるポーランド共和国に移送。そこで裁かれ、罪状が決められたのです。あまり知られていませんが、日本で逮捕された外国人のA級戦犯がいたものの、A級戦犯として東京裁判で絞首刑などの罪状が決められることはありませんでした。

とどのつまり、東京裁判でA級戦犯として絞首刑にされるには「日本人」でなければいけなかったのです。

 

A級戦犯で絞首刑になった人物まとめ!

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ここからはA級戦犯のうちで罪状・絞首刑(極刑)になった7人のA級戦犯について見ていきましょう。

巣鴨拘置所に収容されたのは思想犯ともいえる優秀な人物(A級戦犯)ばかりでしたから、エリートの集まりです。結果として罪状・絞首刑とされましたが、巣鴨拘置所は一つの内閣ができるほどのブレーンの固まりだったのです。

 

【1】板垣征四郎

板垣征四郎はシンガポールで終戦を迎えました。

第七方面軍司令官で英国にA級戦犯の罪状で身柄を拘束、東京裁判のため飛行機で日本へと移送されます。A級戦犯としての罪状は「戦争の計画および謀議」、「アメリカ、イギリス、オランダに対する太平洋戦争の遂行」、「ソ連、中国、シンガポールでの罪」の3つの罪状でした。

あの満州事変を起こした人物の一人で満州国への日本人移民政策を推進し、朝鮮軍司令官などを務めました。罪状・絞首刑が執行されたのは1948年12月23日。63歳でした。満州に多くの日本人が移住したのは、満州国を支配していながら、日本人の数が圧倒的に少なかったためです。

これに危機感を覚えた板垣征四郎は満州への移民を強く推しました。現在も瀋陽や長春には満州時代の建造物が残り、中国政府がそのまま利用している裁判所や省政府もあります。

これらの地域は東北三省と呼ばれ、北京や上海に比べ、網の目のように鉄道網が張り巡らされ、日本的に風合いを現代に残しています。

 

【2】木村兵太郎

木村兵太郎は、イギリス領ビルマ(現・ミャンマー)で軍司令官を務めていました。

しかし、A級戦犯としての罪状は東条陸軍大臣下で権力を握っていたこと。東京裁判の結果が出るまでは罪状・絞首刑にならないと国内で報道されていたA級戦犯でしたが、本人は東京裁判での審議の様子から妻にそれとなく覚悟を決めるような発言をしていました。

なお、東京裁判では一切弁論をしなかったため、東京裁判の記録に彼の証言は残っていません。

 

【3】土肥原賢二

「満州のロレンス」の異名を取るA級戦犯の土肥原賢二は、満州事変の際に清朝の皇帝・溥儀を天津から脱出させます。奉天臨時市長(現在の瀋陽市)だったことから、このような芸当ができたのでしょう。

1945年4月に陸軍の「教育総監」に任命されます。戦後、軍事参議官に就任するもののダグラス・マッカーサー率いるGHQによってA級戦犯の容疑で逮捕されます。中華民国が極刑を強く推し、1948年12月23日にA級戦犯として罪状・絞首刑に。64歳で天に召されます。

 

【4】東条英機

A級戦犯と言えば東条英機という印象を受けますが、実態は違ったようです。例えば、帝国陸軍の連隊長に就任されたとき彼は兵卒一人一人に気を使い、部下にはすこぶる評判がよかったとのことです。

当時の帝国陸軍において兵卒が連隊長の顔を至近距離で見ることは許されず、式典で100メートル先の連隊長の姿をようやく見られるぐらいだったというご時世。A級戦犯の東条英機の行動は陸軍で驚かれるとともに「人情味のある連隊長」として部下から親しまれたそうです。

やがて、支那事変が起き、A級戦犯の東条英機は米国との和平交渉に入ります。時に1941年のことでした。そもそもA級戦犯の東条英機は米国との開戦を避ける昭和天皇の意向を汲んでおり、ルーズベルト大統領の支那事変に対する日本への要求が無謀であったと証言。

大日本帝国が開戦を決意したのは、無条件降伏とも思えるようなルーズベルト大統領の要求に対抗するもので、開戦止むを得ずというのが当時の内閣や昭和天皇の結論だったとのことです。
また、彼の性格は天皇に逆らったりするようなものではなく、温厚で忠義に厚い人物でした。

常に昭和天皇とともにあり、自ら内閣総理大臣として第二次世界大戦を進めたように映りますが、日本の未来をかけた戦いであり、勝利するために権謀術数を巡らせたのです。用意周到な人物としても知られ、組閣や作戦の実行においても念を入れて準備をする人物だったと周囲の人は語っています。

そうしたA級戦犯の東条英機の性格は東京裁判でも表出。他のA級戦犯が自己弁護をする一方で、東条英機は専ら天皇陛下を擁護。大日本帝国として戦争を決意したのは米国の軍事拡大を懸念しての「自国防衛」であると発言。そもそもアメリカが軍備を増強しなければ、真珠湾攻撃をすることもなかった主張。

日米開戦の責任(罪状)を取るのは、無理な要求を日本側へ突きつけたアメリカにこそ罪状があり、日本が責任を取るのは筋違いであるとして、東京裁判で見事な弁舌を振るいます。終始、国体としての戦争論を主張し、東京裁判のアメリカ人検事さえも東条英機の論法に言いくるめられたとのことです。

終戦時は拳銃自殺によって評判を落としたA級戦犯の東条英機ですが、東京裁判での答弁の様子がテレビやラジオで放送されたため、東条英機に称賛の声が上がります。罪状・絞首刑が執行されるまで東京裁判そのものが戦勝国による敗戦国への嫌がらせの域を出ず、とうてい公平な裁判と言えるものではなかったと悔やむように話していたとのことです。

さらに、日本が英国や米国に対して開戦した1941年当初も日本国内の駐日英国大使館や駐日米国大使館に対しては丁寧に応対し、衣食住の確保に努め、何かあれば言ってほしいと冷静な対応。
非常に紳士的であったと評価されています。

やがて、東条英機の罪状・絞首刑が執行され、遺灰は太平洋に巻かれます。しかし、火葬されたあとのわずかな遺灰が協力者の手で7人分(A級戦犯)がかき集められ、熱海の伊豆山に一時隠されました。決死の覚悟で遺灰を集めたのでしょう。

これほどA級戦犯に協力するものが出たということは、連合国側から見れば悪ですが、身内や側近からすれば惜しい人を亡くしたと言わざるを得ないのでしょう。なお、A級戦犯で絞首刑となった東条英機の墓は雑司ヶ谷霊園にあります。

 

【5】武藤章

「華北分離工作」の草案を書いたA級戦犯。中国を侮り、日中戦争を泥沼化しました。

英米開戦には反対していたものの、開戦すると東条内閣を潰しにかかります。ところが、策謀を見抜かれた東条英機によってフィリピンへと左遷。

A級戦犯の容疑によって東京裁判で裁かれ、罪状・絞首刑を命じられます。

 

【6】松井石根

中国と日本が連携によってアジア全体を欧米から守ろうと言う思想を持ったA級戦犯の松井石根。

その野望も満州事変によって潰えてしまいます。上から南京攻略を命じられるもの、思想が中国寄りであるという理由から、解任され日本への帰国を命じられます。

高齢であったため退役後は熱海で仏門に入り、興亜観音に一日に2度お参りするのが日課となっていました。なお、その興亜観音にはA級戦犯の松井石根を含む東京裁判で罪状・絞首刑となった7人の遺灰が隠されました。

 

【7】広田弘毅

外交官として北京やロンドン、ワシントンD.C.にも赴任したA級戦犯。

1930年には「駐ソビエト連邦特命全権大使」に。文官で唯一のA級戦犯であり、その判決(絞首刑)に東京裁判の検察側も疑問を呈したほどです。国民からも罪状・絞首刑の減刑を求める署名が集められ、その数は数十万にも上ったと言われています。

11人の裁判官のうち、3名が無罪。2名が禁錮刑としており、A級戦犯・広田弘毅の判決(絞首刑)や罪状には米国主導の東京裁判という疑念が残りました。

 

A級戦犯を逃れた有名人まとめ

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A級戦犯には絞首刑になった7人の他にA級戦犯容疑で巣鴨拘置所に収監されるも、絞首刑にされず不起訴処分となった人も多くいます。釈放後にはCIAと協力関係になったA級戦犯もいて、戦後の冷戦構造がA級戦犯を救ったという一面もありました。

また、サンフランシスコ条約で日本の主権が回復したことで、A級戦犯の容疑がかけられながらも恩赦によって解放されたA級戦犯もいました。

 

【1】吉田茂

日米開戦を阻止しようと東奔西走した外交官時代の吉田茂。彼は開戦後も和平工作に奔走します。

大日本帝国の航空母艦4隻が壊滅的状態となったミッドウェー海戦。これをチャンスと見た吉田茂は永世中立国のスイスに向かい、連絡役として和平交渉を画策します。しかし、大日本帝国の戦局が好転し、実現には至りませんでした。

なお、スイスが永世中立国でいられるのは、山あいにある国家であるため資源が乏しいことと、かつてヨーロッパ中に傭兵を送り出す産業が発展していたことが挙げられます。ヨーロッパで戦争が起きても傭兵のほとんどはスイス出身であるため、自国を攻撃するのは気が向かなかったのでしょう。

現在、傭兵の輸出は禁止となりましたが、バチカン市国の傭兵だけは伝統的にスイス衛兵が警護を担当しています。赤と黄の鮮やかな制服ですので、ローマに行く機会があったら見てみましょう。

閑話休題。やがて、日本が劣勢になると今度は終戦策を話し合うため、「殖田俊吉」と「近衛文麿」を引き合わせます。ところが、吉田茂は憲兵に見つかり投獄。拘束のきっかけは吉田邸で潜入捜査をしていた書生からの報告でした。拘束は40日以上に渡り、吉田茂は和平を実現できないまま終戦を迎えます。

ところが、このときの拘束が反軍部、つまり和平へと動いていた証拠となり、GHQから信頼を勝ち取るのです。こうして吉田茂はA級戦犯で絞首刑になるどころか、1951年にはサンフランシスコ講和会議でサインをすることになります。

丸い眼鏡をかけた吉田茂の白黒写真を歴史の教科書で目にした読者もいることでしょう。

 

【2】徳富蘇峰

 

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「日独伊三国同盟」の建白書を天皇陛下に提出した人物。

1941年にはA級戦犯となった東条英機の依頼により「大東亜戦争開戦の勅書」をチェックしています。さらに、ポツダム宣言の受諾に関しては断固反対。昭和天皇による「非常大権」を策謀するものの実現には至りませんでした。

終戦時、すでに82歳という高齢であること、そして三叉神経痛を患っていたことが幸いしてA級戦犯の容疑はかかるものの不起訴に。自宅拘禁という形でGHQから監視されます。後に『近世日本国民史』を執筆。織田信長から西南戦争までの日本史を記しました。後半は孫が代筆し、彼の死後に全ての巻が出版されます。

徳富蘇峰にはA級戦犯の容疑がかけられましたが、移送されなかったのは高齢と病気によって逃亡の虞がないと判断されたのでしょう。

 

【3】岸信介

 

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戦時中の東条内閣に「商工大臣」として入閣したA級戦犯。

のちに商工省が「軍需省」と変更されたのを機に商工大臣から軍需次官へと位がグレードダウン。軍需大臣のポストには首相の東条英機が就き、首相と軍需大臣を兼務することになります。

これを機に岸信介と東条英機との間に軋轢が生じます。終戦後、実家の山口に帰っていた岸信介はGHQによってA級戦犯の容疑を掛けられ、巣鴨拘置所へ収容。「戦時内閣として天皇や国民に対する責任はあるが、米国に対する責任はない」と語ります。一方で「負けた以上は戦勝国の言うことに従うほかない」とも達観。

内閣として日米開戦はやむを得ず、侵略ではなく日本が生存していくための戦争であったことを主張。A級戦犯の東条英機は1948年12月23日に絞首刑となりますが、同じくA級戦犯容疑の岸信介は絞首刑にされず不起訴処分となり、クリスマスイヴに釈放されます。

アメリカからのクリスマスプレゼントだったのかもしれません。1957年に岸信介は内閣総理大臣に返り咲き、政治家として活動を再開。1960年には米国のアイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約に調印します。安保闘争に参加していた学生からは「敵ながら天晴」と称賛されたとのことです。

 

【4】正力松太郎

 

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A級戦犯の正力松太郎が警視庁の警務部長時代に「虎ノ門事件」が発生。のちの昭和天皇となる「摂政宮」を狙撃から守れず、責任を問われ懲戒免官となります。無政府主義者から摂政宮が命を狙われた事件で暗殺未遂に終わります。

そのすぐ後に昭和天皇が婚姻したことで恩赦となり、正力松太郎は読売新聞の経営権を買収し、マスコミの世界へと飛び込みます。日米開戦時は大政翼賛会の総務だったことから、A級戦犯の容疑が掛けられ巣鴨拘置所に収容。

しかし、東京裁判で絞首刑にはされず、釈放されCIAと協力関係を結びます。A級戦犯だった正力松太郎がメディア、つまり読売新聞と日本テレビの牛耳を執っていたことから、CIAが接近。原子力が安全であることをメディアを使って、日本国民に宣伝し、原子力発電所を日本に取り入れる計画の一翼を担っていたのです。

また、メジャーリーグの選手らを日本に招き、「日米野球」を開催するなど野球の興行にも尽力。そのため「プロ野球の父」の二つ名を持っています。正力松太郎がいなければ、読売ジャイアンツが存在しなかったとも言われるほどの人物です。

その流れで現在もメジャーリーグの選手が招待されると読売ジャイアンツが日本のプロ野球代表として試合を行うのです。

 

【5】緒方竹虎

朝日新聞で腕をならしたA級戦犯容疑の緒方竹虎。1944年7月には小磯内閣に国務大臣および情報局総裁として参加します。小磯とともに和平交渉に乗り出しますが、外務大臣や昭和天皇の反対によって失敗に終わります。

1945年にA級戦犯の容疑がかかり、翌年に公職追放されます(政治活動ができない)。1947年にA級戦犯の容疑から外されるものの公職追放は解けず、1951年まで政治活動はできませんでした。

1952年、ついに衆議院議員総選挙で当選し、翌年の第5次吉田内閣では「副総理」に任命されます。実はその直前に「調査室」という部署を内閣大臣官房に設置。CIA(米国)やMI5・6(英国)といった情報機関を参考にして作られ、現在の「内閣情報調査室(CIRO)」へとつながっていくのです。

ちなみにMI5は国内事案担当、MI6は国際事案担当。映画のジェームズボンドはMI6の所属でした。

 

A級戦犯まとめ

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A級戦犯の容疑のかかった人物は数多くいましたが、釈放されたA級戦犯が多いのも事実。東京裁判そのものがアメリカ主導によって行われた一方的な裁判であったことは否めず、アメリカ側の担当検事も疑問を持つような判決も下りました。

東京裁判実施の影で共産党勢力とアメリカとの駆け引きもあり、冷戦構造が東京裁判の時点で表れていたことは一目瞭然です。その後、朝鮮戦争によってアメリカとソ連は冷戦状態に。スパイ活動が横行します。A級戦犯の容疑がかかった人物もCIAと協力していたりとなかなかスリルある世の中でした。

当時はCIAそのものが秘密組織ではなく、公にされていた組織でしたが、それに日本人の有力者が関わっていたことは大きな衝撃となりました。特に現代社会ではCIAは秘密組織というイメージが強いので、驚愕した関係者も多かったようです。

A級戦犯として絞首刑に処せられたのは7人でした。ほかのA級戦犯はサンフランシスコ講和条約ののち、国内で恩赦があり釈放されます。それは日本の主権が回復したことも大きな要因となりました。その影には東西冷戦の始まりがあったのでしょう。

アメリカとソ連は宇宙競争を本格化させ、東西ドイツではベルリンの壁を突破する市民が出現。1989年にはベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が崩壊したことで冷戦状態は完全に終結します。

残るは朝鮮と韓国を分断する北緯38度線のみです。日韓関係が悪化する中、両国はどのような結末を用意しているのでしょうか。

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