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歴史の授業でもよく耳にする圧倒的強さを誇ったモンゴル帝国ですが、実は歴史的に有名なのはその強さだけではありません。
歴史書などを見ていると、モンゴル帝国は当時あらゆる国の女性をレイプしていたという残虐なエピソードを目にすることがあります。モンゴル帝国の強さや国家征服における残虐さはとても歴史的にも有名な話ですが、女性をレイプしていたというのは本当なのでしょうか。
今回はモンゴル帝国の建設から衰退、滅亡までのエピソードを通し、モンゴル帝国が犯してきた残虐な歴史的事実、そしてレイプ行為の真相に迫りたいと思います。
モンゴル帝国の概要
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まずはじめにモンゴル帝国の歴史的概要について見ていきます。
モンゴル帝国の国家征服、そして彼らの衰退から滅亡まで、歴史の授業などで学んだことがある部分も多いかもしれませんが、改めてモンゴル帝国について紹介しておきます。
【1】モンゴル帝国とは
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モンゴル帝国とは、チンギス・ハンが13世紀はじめごろに設立した帝国です。モンゴル帝国の強さはこの長い歴史的に見ても群を抜いております。なんと、彼が統一した国家はユーラシア大陸全域にわたったとされています。
チンギス・ハンは、モンゴル高原に住む部族の統一(征服)から始まり、そこから各地域の部族を自分に従え、残虐な手法で彼の軍事が及ぶ範囲をどんどんと拡大させていきました。
【2】モンゴル帝国の設立は通商活動を盛んにさせた
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モンゴル帝国が設立され、チンギス・ハンらによる国家支配が進む中で、通商活動が盛んになったとされています。道路など国家と国家を繋ぐ道も整備され、国家をも繁栄させてきたとも言われています。
そのため、歴史の教科書などでもチンギス・ハンは英雄として記されることが多いですが、彼が成し遂げてきた残虐な征服事業の結果として、残虐にも多くの国家の民を犠牲にしました。
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チンギス・ハン死後は、徐々にモンゴル帝国は衰退に向かいます。最後は彼の子孫がモンゴル帝国を4つに分裂させ、それぞれで自立した国家となります。歴史上、ここがモンゴル帝国の事実上の滅亡とも言われています。
子孫の一人は中国をも統一し日本や東南アジアにもその勢力を広げていたと言いますから、子孫らの勢力の強さ、そしてチンギス・ハン同様の残虐性を感じさせます。
モンゴル帝国の最強伝説エピソードを解説!
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ユーラシア大陸のほぼ全域を征服する強さを誇るモンゴル帝国ですが、ここからは、モンゴル帝国がいかに最強だったか、その強さを表す歴史的エピソードを見ながら解説していきたいと思います。
【1】世界の4分の1を支配
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モンゴル帝国は、冒頭でも記載しましたとおり、チンギス・ハン率いる軍事国家です。元は遊牧民であった部族をチンギス・ハンが束ね、ひとつの軍隊としてモンゴル帝国を築き始めます。
たかが少数派の遊牧民による攻撃とも思えますが、モンゴル帝国は東西へとどんどんとその力が及ぶ範囲を広げていきます。「降伏か皆殺しか」という残虐な思想をもとに、元は遊民族であった彼らが、圧倒的な強さそして残虐さで次々に国家を侵略していったのです。
具体的にどのような戦いがあったのか、モンゴル帝国の残虐さがわかるエピソードはこの後具体的に記載していきますが、事実としてモンゴル帝国はアフガニスタン、トルコ、東ヨーロッパ、華北などなんとユーラシア大陸全域を残虐な手法で征服していきます。
その数は、地上の4分の1を占めるほどだと言います。そして、モンゴル帝国の傘下になった人口は1億にも及ぶそうです。たった数十人、数百人の遊牧民が世界征服と言っても過言でない事実を成し遂げたことからも、その強さ、そして残虐さをうかがわせます。
チンギス・ハンが亡くなってからもその残虐な思想は子孫に受け継がれていき、モンゴル帝国滅亡までの間長きにわたりモンゴル帝国は圧倒的な強さと残酷さでユーラシア大陸全域を支配し続けていました。
【2】ワールシュタットの戦い
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【り】リーグニッツの戦い
1241年4月9日、シュレジエンのリーグニッツでモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を打ち破り、シュレジエン公ハインリヒを討ち取った。多くの屍が残されたことから「ワールシュタット(死体の地)」の戦いとも呼ばれる。
このモンゴル軍を率いたのは【バトゥ】だった。 pic.twitter.com/V2ZLVaDBvW
— しりとり世界史 (@sekaishiritori) August 5, 2019
モンゴル帝国の強さをもっとも表すエピソードとして、まずワールシュタットの戦いが挙げられます。ワールシュタットの戦いとは、モンゴル帝国とヨーロッパ(ポーランド)との戦いです。ユーラシア大陸を次々に侵略していき、モンゴル帝国はついにヨーロッパにも辿り着きました。
ヨーロッパというと人口も多く、モンゴル帝国に屈しないであろうというイメージがあります。しかしながら、このころヨーロッパ国家内では、偶然か必然か、キリスト教関連のごたつきなどがあり、国家の中でもまとまりがない状態だったと言います。
そのため、モンゴル帝国が攻め込んでくることに対し、応援に駆けつけられる兵は少なかったそうです。それでも、ヨーロッパ側には2万5千ほどの兵が集まり、2万人の兵を携えるモンゴル帝国に数では圧倒していました。
しかしながら、その強さ、戦術はモンゴル帝国がヨーロッパ軍を完全に圧倒していました。まず、弓の使い方が違います。モンゴル帝国は馬に乗りながら弓を放つことが可能ですが、ヨーロッパの軍隊は歩兵部隊が弓を放つという戦術でした。もちろん、馬の速さに人間が勝てるわけもありませんから、ヨーロッパ部隊の惨敗はその時点で目に見えています。
さらに、ヨーロッパ部隊の戦い方は、中央突破といって、いわば敵陣にまっすぐ正面から攻め入るという手法でした。一方で、モンゴル帝国の戦法は敵の戦線を崩し隙を見て攻撃するという手法でした。そのため、ヨーロッパ部隊が攻め入ってきたところをうまくかわし、戦線が崩れた隙を狙って残虐にも容赦のない攻撃ををしかけたと言います。
頭脳、戦法、強さ、どれを取ってもモンゴル帝国の圧勝でした。結果、ヨーロッパ部隊はあっとゆうまに敗北を期し滅亡しました。人数の勝る国をも滅亡させる力がモンゴル帝国にはあったのです。
ちなみに、ワールシュタットの戦いという名前について、その名の由来をご存知でしょうか。実はワールシュタットという名前は地名などを表すのではなく、ワールシュタット(死の山)という意味だそうです。ヨーロッパ軍隊の数多くの命があっとゆうまに奪われたことを、戦いの名前からも表しているのです。
通常、戦いの名前には地名が付けられることも多いですが、あえてこうした名前を付けることからもその戦いがいかに悲惨なものであったか、そして国家滅亡というその残虐な結末を表しているように思えます。
【3】モンゴル帝国の強さの理由
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ユーラシア大陸全域を支配するほどの強さを誇るモンゴル帝国ですが、その圧倒的な強さの理由は何だったのでしょうか。
まずその圧倒的な強さを誇る一つ目の理由として、チンギス・ハン始めモンゴル帝国の主力部隊の多くは遊牧民であったことにあります。遊牧民というと、幼い頃から狩りや遊牧生活を強いられ、馬をも乗りこなしたと言います。このことから、子供の頃から戦闘に必要な能力を自然と身につけていたことが強さの理由の一つとしてあげられています。
また、幼き頃から馬を乗りこなしていたこともあり、戦術のうまさも彼らの強さの理由でした。馬に乗りながら矢を放つことは簡単ではありませんが、モンゴル帝国の兵士はいとも簡単にそれを成し遂げていました。当時他の国家の多くの男性は馬に乗ることはできましたが、両手を離しながら矢を放つことは非常に困難であったと言います。
さらに、モンゴル帝国は頭脳でも優れていたと言います。戦いの前には敵地へ兵を派遣し、事前に敵地の様子を視察しておりました。敵地の様子を探り、相手に合わせた戦法で戦ったと言います。時には心理戦なども用い常に有利に戦いを進めていたと歴史書には残されています。
そのほか、モンゴル帝国は自身の強さにあぐらをかくことなく、侵略した国家の戦術をどんどんと積極的に取り入れるなどし、モンゴル帝国はその力を伸ばしていきました。これらが、モンゴル帝国の強さの理由と言えます。
モンゴル帝国は残虐国家だった?
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冒頭でも紹介したように、モンゴル帝国は非常に残虐国家であったと記されています。
何故、残虐国家として歴史を超えても語り継がれているのか、ここからはその事実を確認していきたいと思います。
【1】モンゴル帝国残虐エピソード1 1215年万里の長城への侵略
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まずモンゴル帝国の残虐さを表すエピソードの一つとして万里の長城への侵略、そして中国の征服が挙げられます。チンギス・ハンはユーラシア大陸全域の征服を試みていましたが、そのひとつとして中国への侵略も1211年ごろより開始していました。
中国というと万里の長城が有名ですが、当時万里の長城は鉄壁の守り壁として知られており、最強の強さを誇るモンゴル帝国であっても壁を越えることは難しいとされていました。実際、馬が簡単に乗り越えられないほどの高さがあり、その中に人々が攻め入ることは困難でした。
しかしながら、チンギス・ハン率いるモンゴル帝国はその壁を超えてしまいます。おそらくですが、修繕を重ねていた万里の長城の壁にもいくらか修繕の甘い箇所があったのでしょう。そこを見つけて入り込んだのだと思います。
見事万里の長城の中へ入り込んだモンゴル帝国は、大量の軍隊を引き連れ中国との残虐な戦いに挑みます。中国軍も当時モンゴル帝国に匹敵する戦力がありましたので、この戦いは数年にわたり行われます。最後はモンゴル帝国が勝利、1215年に中国の北半分を征服することとなりました。
この戦いにより、モンゴル帝国は残虐にも当時中国に住む人々の8割ほどを殺害したと言いますから、その残虐さを身に染みて感じることができます。残虐にも軍隊や罪のない一般の人々問わず容赦ない惨殺を繰り返し、征服を達成しました。
【2】モンゴル帝国残虐エピソード2 1258年バグダードの戦い
#麻呂の一口歴史 [192]
バグダードの戦い これは1258年にモンゴル軍によって行われた包囲戦です。 首都が陥落してアッバース朝は滅び、町並みは徹底的に破壊され、市民は容赦なく殺戮されました。
その犠牲者は20万から200万人とも言われ、かつて世界最大と言われた都市は跡形もなく消え去りました。 pic.twitter.com/wAtmV64j7y
— 藤原なよ麻呂 (@newspeak_IS2) March 21, 2019
モンゴル帝国の歴史を学ぶ中で、「バグダードの戦い」というワードを必ず耳にします。
モンゴル帝国の歴史上、一つの国家を滅亡させたもっとも残虐な戦いとも言われています。現在も、イラクの首都として残っているバグダードですが、1258年にモンゴル帝国がバグダードに攻め入ったというのは歴史的にも有名なことです。
バグダードは当時アッバース朝という国家でした。中央アジアなどを支配するほどの強さを誇る勢力を持っていましたが、国家には衰退がつきものです。不運か必然か、モンゴル帝国が攻め込んできた当時、アッバース朝の中央勢力は衰退しているところでした。
何度も記載しておりますが、モンゴル帝国は残酷な国家部隊です。予想通り、残虐にも衰退したアッバース朝に容赦ない攻撃を仕掛けます。まず、アッバース朝の周囲を囲むチグリス川の周りに堤防を作り、アッバース朝にチグリス川の濁流が押し寄せるように仕向けます。
衰退した勢力は、その濁流に立ち向かうこともできず、残虐にも多くの兵力を失いました。しかし、それだけでは残虐なモンゴル帝国の攻撃は終わりません。生き残った兵士たちには、残虐にもモンゴル帝国の軍隊が容赦なくとどめを刺しました。
モンゴル帝国の残虐な仕打ちに、衰退した国家ではなすすべありません。当時のアッバース朝の王は、モンゴル帝国の指揮官に戦いを終わらせるよう交渉します。しかし、残虐なモンゴル帝国はその交渉を全く聞き入れず、バグダードに住む人々のほとんどを残虐な方法で虐殺しアッバース朝は滅亡したとされています。
その死者の数は100万にも上るもいうのですから、モンゴル帝国の残虐な手法に恐ろしさを感じます。
【3】モンゴル帝国残虐エピソード3 1274年日本への侵略
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そのほかにもモンゴル帝国にはさまざまな残虐なエピソードがありますが、最後に我が国日本との残虐なエピソードについても触れておきたいと思います。
モンゴル帝国は日本をも従えようとし、何度か日本へ使節を派遣していましたが、毎回追い帰されていたことに腹を立てていました。そこで、当時モンゴル帝国を仕切っていたひとり、フビライ・ハン(チンギス・ハンの孫)は、日本への残虐な攻撃を始めます。歴史の教科書でもよく目にする「元寇」と呼ばれる日本の歴史的にも有名な残虐な戦いです。
まず、九州の沿岸に大量の軍船が押し寄せました。数を見ても日本の軍隊を圧倒していましたが、日本の兵士たちは怯まず戦いを続けます。しかし、その数にはもちろん勝つことが出来ず、残虐にも80名にも及ぶ兵と、市民が惨殺されることになりました。
さらに、モンゴル帝国の残虐な攻撃はそれだけに終わりません。惨殺、滅亡を繰り返しながら、九州沿岸、博多にもどんどん攻め入ってきました。博多には1万人の主力兵力がいましたが、残念ながらモンゴル帝国はその倍、2万人以上の兵士がおりました。
その数の差もさることながら、モンゴル帝国は当時未知の兵器、鉄砲を使ったと言います。さらに残虐にも毒塗りの弓なども用い、人や馬構わず次々に殺害し、地域を滅亡させていきました。この残虐な様子からも日本は打つすべなく惨敗したことがわかります。
結果、モンゴル帝国は日本の兵士を残虐にも次々に惨殺しては町を侵略していき、市民をも殺害していきました。
中でもその残虐さをうかがわせるエピソードとして、自身らの船を守るために女性市民を捕まえては日本兵から受ける攻撃の盾にしていたと言います。さらに残虐にも幼き子供は奴隷として持ち帰られました。
山へと逃げる市民を執着に追い回し、惨殺。さらに赤ん坊までも股裂にし殺害されたと歴史書には記されています。モンゴル帝国の軍隊が暴れた土地では、残虐にも生存者はほとんどおらず、死体の山で溢れていたと言います。やりたい放題のその残虐性は、想像もしたくないほど悲惨なものでした。
これらの残虐な事実からも、歴史的に見てもモンゴル帝国が残虐国家だったと言われる理由がわかるでしょう。
モンゴル帝国の残虐なレイプエピソードを紹介
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モンゴル帝国の強さ、そしてその残虐さはここまでのエピソードを見てきてもよくわかるかと思います。しかし、モンゴル帝国の残虐な仕打ちは国家征服、そして容赦ない残酷な方法での人々の殺害だけに終わりませんでした。
モンゴル帝国が残虐国家であると歴史的に語り継がれるもう一つの理由として、モンゴル帝国が征服した国家の女性に対し残虐なレイプを繰り返していたという事実があります。
【1】世界でもっとも多く遺伝子を残した
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近年の遺伝子研究の結果、モンゴル帝国の祖、チンギス・ハンは歴史上もっとも多くの遺伝子を残した残虐な男として報告されています。上述したとおり、モンゴル帝国は歴史的にみてもトップクラスの領土(支配国家)を持つ国です。もう、この調査結果の大体の理由は想像できるのではないでしょうか。
チンギス・ハンは国を侵略し征服するたびに、残虐にも部下に女を自分の元へ連れてくるよう命じていました。そして、すでに国は侵略され滅亡し、抵抗できなくなった女性を次々にレイプしていったのです。その残虐なレイプ行為は彼がモンゴル帝国を建国し、各国の侵略をしていたのは彼が死ぬまでの40年ほどの間繰り返されていました。
つまりその間、残虐にも数えきれないほどの女性をチンギス・ハンはレイプしてきたということです。これまでは、チンギス・ハンによるこの残虐なレイプが事実かどうかは定かではなく、歴史的に語り継がれるひとつの説として取り上げられておりました。しかし、この遺伝子調査が、チンギス・ハンの残虐なレイプが真実であったことを示すことになりました。
征服した国家の女性を残虐にもレイプしては、自身の子供を孕ませていたということです。遺伝子調査の詳しい結果によると、アジア人口のおよそ8パーセントがチンギス・ハンと同じ遺伝子を受け継いでいることがわかったことからも、その残虐なレイプ被害にあった女性の数は想像を絶するほどの数だったと言えるでしょう。
【2】チンギス・ハンの特徴
横溝朗さん(@akira5733)がシェアした投稿 – 2019年 6月月22日午前3時10分PDT
チンギス・ハンは残虐な男であったことはこれまでのエピソードを見ても十分にわかりますが、残虐な方法で人を痛ぶることが彼の好む手法だったのでしょうか。国を征服するのであれば、街ごと焼き払うなり、わざわざ残虐な手法を取らずとも簡単に人々を殺害する方法はいくらでもあったでしょう。
にもかかわらず、彼は人々を股裂にしたり、体に穴を開けて殺害したりと、あえて残虐な方法を選んで殺害をある意味楽しんでいたようにも思います。一説によると、「敵を惨殺した時に、その親しきものが嘆き悲しむ様子を見ることが快楽であった」とチンギス・ハンが残虐な発言をしていたとの記述も残されています。
それは侵略した国家市民の殺害だけでなく、彼の女性に対する残虐なレイプ行為の際にもあてはまります。チンギス・ハンは、旦那や父親をチンギス・ハンに残虐な手法で惨殺されたのを目の当たりにし、嘆き悲しむ妻や娘を次々にレイプしてくことを快楽としていたと歴史書にも記されています。
残虐なレイプ行為を通し、女性を心身ともに潰していくことが、彼のいわば性癖のようなものだったのでしょう。現代風に言うと、精神異常者と言えるその残虐で異常な行動、発言は薄気味悪さを感じるとともに、その時代に生きる人々の生き辛さを感じざるを得ません。
【3】多くの女性が自害した
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当時、モンゴル帝国の残虐さやそのレイプ行為は恐ろしいことに世界に知れ渡っていました。
そのため、モンゴル帝国が自国に攻め入ってくることを常に人々は恐れていたと言います。モンゴル帝国に攻め入られた国は、降伏し支配下にくだらない限りは、男性や幼き子は残虐な方法で惨殺され、女性はモンゴル帝国軍により残虐なレイプをされる、と人々に恐れられていました。
モンゴル帝国が中国に攻め入ったときのエピソードとして、こうしたものがあります。街がどんどんと放火され焼き崩れていき、悲しいことに罪のない市民が次々に殺害されていきました。しかしながら、近隣に住む女性たちは自身の死を恐れたのではなく、モンゴル帝国軍によるレイプを恐れていました。
モンゴル帝国がどんどんと自国を侵略しているという悲惨な状況をうけ、中国に住む女性の多くはチンギス・ハン率いるモンゴル帝国軍にレイプされることを恐れ、その結果なんと6万人もの女性が壁から身を投げ自殺したと言います。
自身の死よりも恐ろしいと感じるモンゴル帝国によるレイプ行為。このことからも、彼らの女性へのレイプは、いかに非人道的なものだったかがわかります。自身の大切な人の命を奪った者にレイプされるのですから、死にたくなるほど恐ろしいと感じるのは当たり前です。
現代社会でも、男性と比べて力も立場も弱いとされる女性のレイプ被害は後を絶ちません。どの時代においても、女性という弱者の立場を利用した残酷なレイプ行為は、昔も今も変わらず悲しいことに発生していたということです。
モンゴル帝国の衰退
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歴史的にみても世界を注目させるほどの残虐さ、強さを誇るモンゴル帝国でしたが、実はその強さも長くは続かず、後に衰退、滅亡していくこととなります。
ここらは、モンゴル帝国が衰退および滅亡した理由についても触れておきたいと思います。
【1】衰退と滅亡の理由 チンギス・ハン子孫らによる後継争い
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まず、モンゴル帝国が衰退、滅亡に向かった理由の一つとして、チンギス・ハンの子孫らによる後継争いがあったとされています。モンゴル帝国はチンギス・ハン死後も衰退、滅亡することなく、その子供、孫により意思は受け継がれてきました。
しかしながら、チンギス・ハンの息子たちも亡くなり、孫の世代に突入したころ、事態はモンゴル帝国衰退に向けて大きく変わっていきます。孫たちにとって、チンギス・ハンの子供同士ほど孫同士の強い絆や繋がりも無くなってきたことから、味方、仲間という概念もなくなり、結果孫それぞれで権力を争うこととなったのです。いわば、チンギス・ハンの後継者はだれか、ということで揉めていたわけです。
孫たちがそれぞれの権力を主張しあった結果、権力争いを発端とする内乱にまで発展します。内乱によりモンゴル帝国内で権力が分かれる形となり、最後はそれぞれが独立した国家を持つ、いわばモンゴル帝国が分裂する形となります。これが、モンゴル帝国衰退、および滅亡の理由の一つです。
さらに、そうした孫同士による内乱だけでなく、もう一つ、モンゴル帝国が衰退、滅亡した理由があります。それは、モンゴル帝国に襲いかかったある悲劇がきっかけです。当時誰もが恐れた、疫病の蔓延、そして飢饉がモンゴル帝国を襲ったのです。
モンゴル帝国ほどの残虐さと強さを誇っていようとも、自然の摂理に叶うことはできず、結果、あれほど残虐な強さを誇るモンゴル帝国もあっという間に衰退、のちに滅亡していくこととなりました。
つまり、モンゴル帝国は自国の責任で国を衰退させ、最後は神にも見放されということになります。ある意味、これまでの残虐な行為を思い返すとモンゴル帝国の衰退、滅亡は支局当たり前な仕打ちとも言えるでしょう。
【2】衰退と滅亡の理由 征服した国家の多くは放任されていた
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また、もう一つ衰退および滅亡の理由として挙げられている説があります。
もともと遊牧民族から成り立っているモンゴル帝国は、そもそもの帝国人口は多くはありません。モンゴル帝国はその残虐さからも、歴史的にみてもたくさんの軍隊がいたように思われますが、もとは少数民族を寄せ集めた部隊でしたので、実はユーラシア大陸全域を常に支配できるだけの人員はおりませんでした。
そのため、実質、モンゴル帝国が残虐な手法で征服した国家のほとんどは、その土地のモンゴル帝国によって認められた有権者たちが統治をしていたと言います。いわば、残虐な方法で征服した地域に対して、モンゴル帝国はわりと放任主義だったわけです。
もちろん、モンゴル帝国は残虐な国家ですので、征服した土地からものを奪ったりということは頻繁にしておりました。しかしながら、モンゴル帝国はその勢力を広範囲に広げすぎたせいで、彼らが征服した各地域に対する支配力は徐々に衰退してしまったのです。
このあたりはあれだけの強さを誇ったモンゴル帝国の計画が失敗したと言える部分かもしれません。もちろんモンゴル帝国の目的が残虐な征服だけであったとは言えませんが、彼らの残虐な国家征服計画は最後は失敗に終わったのです。
この支配力の衰退こそが、モンゴル帝国衰退、および滅亡の最大の要因のひとつです。
【3】モンゴル帝国の衰退と滅亡
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結局、支配した国家の多くは滅亡したわけではなく、意外とそれぞれの政治を許され、自由を得ていたわけです。侵略された国家にとって、実はモンゴル帝国が攻め入ったことがもっとも残虐な歴史的事実であり、それ以降は市民は想像したほど残虐な生活を強いられていませんでした。
そのため、モンゴル帝国に侵略された後も、残虐なモンゴル帝国に屈しないよう各国家それぞれで力を携えていきました。ある時チンギス・ハンの子孫の1人が征服した国家それぞれに自身の部隊を派遣し、残虐にも事実上の征服を試みますが、その時には時すでに遅し。
モンゴル帝国は勢力をつけた各国家の軍隊に敗れ、時にはモンゴル帝国の部隊の一部が戦いを放棄し現地に溶け込んで生活することもありました。こうして、モンゴル帝国によって支配された国家も次第に独立性を高めていき、モンゴル帝国の各地での支配力は衰退します。
結果、あれだけの残虐な強さを誇ったモンゴル帝国はあっさりと衰退、滅亡に向かっていくこととなりました。
モンゴル帝国まとめ!
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本記事ではモンゴル帝国の歴史について見てきましたが、彼らがいかに残虐な国家だったかがわかりましたでしょうか?残虐な国家征服、市民の惨殺、そして残虐な女性へのレイプ行為。モンゴル帝国がユーラシア大陸を支配できた背景には、残虐にもたくさんの人々の犠牲がありました。
モンゴル帝国は、彼らが衰退し滅亡するまでの間、その圧倒的な強さを使い、レイプや殺害といった非人道的な行為を繰り返してきたというわけです。長い我々人間の歴史から見ると、モンゴル帝国がその名を轟かせた時期は数百年とそこまで長い期間ではなく、建国から衰退、そして、滅亡までは意外とあっという間の出来事でした。
しかし、モンゴル帝国が滅亡してからたくさんの時代が流れた今でもなお彼らについて語り継がれるのは、彼らの圧倒的な強さ、これほどまでに広範囲で残虐な国家征服を成し遂げた集団は歴史的に見ても例がないこと、そしてその背景にある惨殺やレイプなどの残虐なエピソードが多くあることがあげられます。
モンゴル帝国の残虐なレイプ被害にあった女性の中には、レイプによって授かった彼らとの子供を出産した者も多くいたと言いますから、特にアジアではチンギス・ハン含むモンゴル帝国民の子孫が未だにたくさんいるのでしょう。モンゴル帝国は残酷な方法で、それでも今に繋がる時代を作った帝国でもあったということです。
現代社会でモンゴル帝国のような残虐で非人道的な国家征服が認められることはほぼありえませんが、その当時の残虐なエピソードから学ぶこともあります。それは、モンゴル帝国の残虐な国家征服を通して、国家と国家をつなぐ手立てができたということ。
非人道的で残虐な行為や戦争が良しとされることはこの先も一切ありえませんが、しかしながら皮肉にもそれらが時代を作り、文化を作ることもあるということです。
我々の今の生活があるのも、我々の古い先祖の時代の人々の苦しさの元である、と考えると今の平和な生活を大切にしなければいけないという気持ちにさせられます。