山岳ベース事件の概要まとめ!リンチ殺人した連合赤軍メンバーの現在は? | ToraTora[トラトラ] – Part 2

山岳ベース事件 連合赤軍による内ゲバ事件。 活動拠点の山岳ベースで「総括」と称する仲間への集団リンチを行い、12名を殺害した。

重信房子は同志殺害に憤慨。連合赤軍に決別声明を出し、事件の反省として日本赤軍は内ゲバを厳禁とした。 pic.twitter.com/J33ncqd3DE

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) September 21, 2019

連合赤軍が起こした凄惨な事件である山岳ベース事件を知っているでしょうか?

この事件は、勢力争いが元になり12人もの仲間のメンバーを集団リンチにした挙句に殺害に至ったという凄惨な事件なのです。

なぜこのような凄惨な事件が起きてしまったのでしょうか。当時の時代背景の概要や山岳ベース事件の概要をまとめてみました。山岳ベース事件の発生後に事件関係者どうなったのか現在の状況の概要についても紹介していきます。

山岳ベース事件の概要まとめ

これが『山岳ベース事件』か…。

手段の為に目的を見失った感。
共産党が絡んでたんだねぇ…。 pic.twitter.com/f38gKn68B5

— 逆神 (@sakagami_touhou) September 15, 2019

この事件は群馬県の山岳ベースで発生したリンチ殺人事件になります。仲間同士の争いから起きた殺人事件ということで、当時の日本全土に大きな衝撃を与えた事件だったのです。

わずか2か月という短い間に12人もの犠牲者を出したこの山岳ベース事件は、その後に連合赤軍メンバーが起こしたあさま山荘事件と合わせて連合赤軍事件と呼ばれているのです。

ここでは、山岳ベース事件の概要についてまとめていきたいと思います。

【1】山岳ベース事件の概要まとめ

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引用: Pixabay

1971年12月に赤軍派のベースである新倉ベースで、合同で軍事訓練が行わました。

そこで革命左派による赤軍派メンバーへの批判をきっかけにして両方の派閥が各メンバーそれぞれの問題点を相互批判と自己批判によって荒らしだし改善につなげる行為を「総括」としていく体制が構築されていったのです。

森と革命左派の永田洋子を中心とした共産主義化強化を推進するメンバーによるしめつけが強くなり、要求されたメンバーは長時間の正座の強要や絶食といった行為がはじまり、やがてそれはエスカレートしていったのです。

この時点で他の拠点に残っていたメンバーも榛名ベースに呼び寄せられ、ひどい暴行が加えられ犠牲者が続出する状況になったのです。

暴行により死亡したメンバーは「生れ変れなかったことの敗北死」と呼ばれ、「総括」によるリンチ殺人は続行されたのです。

こうして、リンチ殺人が続けられた結果、約2か月の間に12人の犠牲者が生まれたのです。そのうちの2名は組織への裏切り行為という名目ではっきりと死刑と宣告されたのちに仲間の手で死刑執行がなされたのです。

山岳ベース事件は、状況に耐えられなくなって脱走していった人たちと主要な幹部たちの逮捕により組織が壊滅するという形で終結したのです。

【2】山岳ベース事件当時の時代背景の概要まとめ

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引用: Pixabay

続いて山岳ベース事件が起きた時代背景の概要についてまとめて紹介していきます。

山岳ベース事件を紐解くには、事件が起きた当時の時代背景を知る必要があるのです。この仲間に対するリンチ殺人という凄惨な事件を生み出した経緯には、当時の時代を取り巻く時代背景が大きくかかわってくるからなのです。

1950年代以降、世界では社会主義国やそれまでの共産主義勢力を「既成左翼」と呼んで批判する「新左翼」運動が広まっていたのです。

その影響は日本にもあり、日本共産党がそれまでの暴力革命路線を放棄したことに不満を持った学生党員が、暴力革命路線を旗印に離党して、新左翼党派の1つである「共産主義者同盟」を結成したのです。

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引用: Pixabay

なぜ、山岳ベース事件のような事態に至ったのでしょう?当時の学生運動の状況の概要をまとめて紹介します。

共産主義者同盟は結成した当初は、規模も小さく弱小組織でしたが、かつて全日本学生自治会総連を牽引していた実績から、徐々に日本共産党に不満を持っていた学生が全国から終結していき、直接行動や実力闘争を重視した行動を展開していったのです。

1960年の安保闘争では全格連を主導して参加し、当時の内閣を総辞職に追い込んでいたものの、結果的には失敗に終わった事で共産主義者同盟は解体の憂き目に会うのです。その後、再建するものの分裂が起こり多数に派閥に分裂したのです。

その流れの一方では、学生を中心とした新たな左翼派の活動が活発化しており、その中でも1969年に結成された赤軍派と革命左派の活動内容は苛烈を極めていったのです。

【3】赤軍派の概要まとめ

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引用: Pixabay

連合赤軍は赤軍派と革命左派の2派によって作られています。そこで赤軍派についての概要をまとめました。

赤軍派とは、共産主義者同盟赤軍派の略称であり、共産主義者同盟から分裂して生まれた新左翼派の集団の1つなのです。その最高指導者は塩見孝也、軍事委員長は田宮高麿で構成メンバーは京大、同志社大学、立命館大学を中心に400名もいたのです。

他の集団よりも過激な思想をもっており、ゲバ棒を回したり、火炎瓶を投げつけたりという行為では不十分であり、爆弾や銃による武装蜂起が革命成就のためには必要不可欠であると考えて行動していたのです。

その過激な活動内容は、交番や警察署を襲撃したり、有名な事件になったよど号ハイジャック事件などを起こしたりしてきました。しかし、最高幹部である塩見孝也と主要幹部の逮捕から始まり、軍事委員長であった田宮高麿を頭とするよど号ハイジャックを起こし合メンバーの北朝鮮への亡命によって組織自体が弱体していったのです。

【4】革命左派の概要まとめ

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引用: Pixabay

続いては連合赤軍を構成するもう一つの勢力の概要をまとめました。

日本共産党革命左派神奈川常任委員会の通称で、1969年に立ち上げられた新左翼党派の1集団です。川北三男と川島豪の2人によって作られた「警鐘」が源流になっています。

警鐘はのちに武装闘争に否定的な党員と意見が合わず分裂してしまいます。そして革命左派として生れ変ったのです。彼らはその思想として「毛沢東思想」を旗印として武装闘争を中心とした活動を進めていったのです。

羽田空港の滑走路や米ソの大使館に対して火炎瓶を投げ込んだり、米軍基地に火炎瓶を投げ込むといった過激な行動を行い続けた結果、党員や支持者が大量に離反するという状況を招くと同時に、最高指導者であった川島豪や幹部の逮捕につながったのです。

連合赤軍メンバーの残虐な犯行内容【山岳ベース事件】

【1】山岳ベース事件の犯行内容:総括と称したリンチ殺人の概要まとめ

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引用: Pixabay

山岳ベース事件で行われた総括の変遷について概要をまとめました。

当初は、対象となった人が作業から外されて革命に対する自らの姿勢や行動を自己反省するだけだったのですが、やがてそれは長時間の正座や食事を与えられなくなったり、殴打されるといった行為にエスカレートしていったのです。

この行為は、殴って気絶させることによって、総括を受けた人が目を覚ました際に、別の人格に生れ変って真の革命戦士になる事が出来るという、最高幹部に上り詰めた森の過去の経験から出た独自の理論を元に生み出された無茶苦茶なものでした。

【2】山岳ベース事件の犯行内容:1人目の犠牲者の概要まとめ

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引用: Pixabay

1人目の犠牲者が出た犯行内容の概要のまとめです。事件はここから幕を切ったのです。

人目の犠牲者は、尾崎允男22歳でした。彼は何度も総括の対象にされていました。

交番襲撃に積極的ではない、武器の隠し場所の情報を漏らしたなどを理由にして何度も殴る蹴るの暴行を受けていました。ある日、激しい暴行を受けた結果気絶したのですが、目覚めた後も革命戦士になる予兆すら見受けられないとされてしまったのです。

永田洋子から「ここでやめたら尾崎の革命戦士としての目覚めはないわ、革命戦士として目覚めさせるために尾崎を木に縛り付けておくべき」とし、マイナス15度の極寒の真冬の山の中で木に縛られ、舌をかみ切ったのです。そしてその後凍死しました。

それを見た永田洋子は「奴は革命に負けたのよ」と殺した事を正当化したのです。このリンチ殺人事件をきっかけに殺した人間を「敗北死」という一言で片づけるようになったのです。

【3】山岳ベース事件の犯行内容:2人目の犠牲者の概要まとめ

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尾崎が殺された次の日に、進藤隆三郎21歳が総括のターゲットになりました。

進藤の元彼女の逮捕によって、あらぬ疑いをかけられた進藤は「違う、違う」と関与を否定する叫びをあげていたのですが聞き入れられず激しい暴行によって殺されたのです。

【4】山岳ベース事件の犯行内容:3人目の犠牲者の概要まとめ

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山岳ベース事件で3人目のリンチ殺人の被害者は小嶋和子22歳でした。

小嶋は付き会っていた彼氏の加藤能敬と小屋の裏でキスをしているところを見つかったのです。メンバー同士の恋愛を激しく嫌悪していた永田洋子により激しい叱責を受けたあげく総括の対象にされてしまいました。

2人ともが激しい暴行を受け、その後小嶋は木に吊るさ凍死したのです。

【5】山岳ベース事件の犯行内容:4人目の犠牲者の概要まとめ

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リンチ殺人によって彼女を殺されたが、ぼこぼこにされながらも加藤は生き残っていました。そこで加藤の弟2人に対して暴行を強制したのです。

2人の弟は泣きながら兄の加藤を殴る蹴るの行為をつづけた結果殺されたのです。

【6】山岳ベース事件の犯行内容:5人目の犠牲者の概要まとめ

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ある日、鏡台の前で長い髪を梳かしていた遠山美枝子25歳は「鏡ばかり見て革命をする気あるの」叱責されると共に「やる気があるなら自分で総括しなさい」と総括を強要されます。

小屋の中で、自分の顔を30分以上に渡って殴り続けさせられたのです。そして、顔ははれ上がりたところを後ろ髪を切られ逆エビの体制に拘束されたのです。

拘束された当山は、メンバー全員から「それでも革命家か」「メンバーに色目使ってんじゃないよ」と非難されながら顔の原型がなくなるぐらい殴られ続けたのです。遠山は殴られながらも「お母さん、私は革命戦士になるから、絶対幸せにするから」と言い続けたそうです。

そんな願いもむなしく遠山はリンチ殺人の被害者となって死亡したのです。

【7】山岳ベース事件の犯行内容:6人目の犠牲者の概要まとめ

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行方正時当時25歳は、不適切な発言をしたと会議で議題にあげられた結果、ターゲットになったのです。

5日間に渡って暴行され続けた事で死亡しました。

【8】山岳ベース事件の犯行内容:7人目の犠牲者の概要まとめ

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山岳ベース事件の7人目の犠牲者は寺岡恒一24歳でした。

総括のやり方に疑問を持っていた寺岡は親友に向かって総括によって全員永田洋子に殺されるぞとこぼしたのですが、後日呼び出される事になります。そこで親友が密告した事を悟った寺岡は覚悟を決めたのです。

寺岡は永田洋子に対して「最初から嫌いだったんだよ、この風船ババア」と啖呵をきったところ、ぶちぎれて「総括なんか必要ない死刑よ、死刑、この男を殺せ」と周囲のメンバーに言ったのです。

寺岡の太ももにナイフを刺すと、縛りつけてからアイスピックを使って心臓、首と急所を狙って刺していったのです。しかし、寺岡はしぶとく生きていてなかなか死ななかったため、タオルで絞殺して殺したのです。

【9】山岳ベース事件の犯行内容:8人目の犠牲者の概要まとめ

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寺岡の死刑に加わらない男がいました。この地獄から逃げ出したいと思っていた山崎順は死刑に加わらなかった事で呼び出され激しい叱責を浴びたのです。

そして、涙ながらに「僕を死刑にしてください。死刑になって当然の人間です」と告げさせられたのです。

この発言により、アイスピックで全身を刺され、最後に絞殺されるという死刑に処されたのです。

【10】山岳ベース事件の犯行内容:9人目の犠牲者の概要まとめ

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引用: Pixabay

リンチ殺人の9人目の犠牲者は、山岳ベースに理想郷を夢見て家族と一緒に参加した山本順一28歳でした。

山本は「嫁に対する態度が偉そうだな」と因縁をつけられた挙句ターゲットになったのです。

無抵抗のまま妻の目の前で暴行され、逆エビに縛られたうえで床下の柱に繋がれたのです。山本は舌を噛み切って自殺を図りましたが失敗し、そのまま放置された結果死亡したのです。

【11】山岳ベース事件の犯行内容:10人目の犠牲者の概要まとめ

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山本と同時期に総括の対象になり、殺された女性が居ます。その女性は大槻節子23歳で、メンバーとの議論の際に「敗北」という言葉を多用して因縁をつけられターゲットとなったのです。大槻は永田洋子から気に入らない相手だと思われていたのです。

「あんたは可愛すぎる」「男に無意識に媚びる方法を覚えている」「頭が良すぎる」「単純バカになれ」と可愛いやら頭がいいやらと褒められるような発言を受け、どこを直して良いのかさっぱりわからずに、暴行対象とされたのです。

メンバー全員から袋叩きにされた結果死亡したのです。

【12】山岳ベース事件の犯行内容:11人目の犠牲者の概要まとめ

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引用: Pixabay

金子みちよ24歳は永田洋子から因縁をつけられます。「男好きが、女を使って取り入ろうって魂胆だろう」「同士と寝たことあるんだろう?」「自覚が足りない」と難癖をつけられたのです。

妊婦で頭が良く美人だった上にたびたび永田洋子にも意見を言うことが多かったため、逆鱗に触れて因縁をつけられたのだろうと見られています。

大槻と共にメンバーから殴られ暴行された後、床下の柱に縛り付け

【13】山岳ベース事件の犯行内容:最後の犠牲者の概要まとめ

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殺伐として雰囲気が横行している状況に、「この組織を脱退したい」とした山田孝一27歳がいました。

そんな山田に対して雪の中正座をさせられて反省を強要されたのです。夜になると食事抜きで薪拾いをさせられて戻った時には「作業が遅い」と叱責され全員から袋叩きにされたのです。

その後、連日にわたり暴行が加えられ、10日間リンチされ続けるという生き地獄を受けた挙句、ついに衰弱して死亡したのです。

連合赤軍メンバーを経歴&逮捕後【山岳ベース事件】

【1】連合赤軍の概要まとめ

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引用: Pixabay

まずは、一連の連合赤軍事件を引き起こした集団の概要をまとめて紹介します。

1971年に赤軍派と革命左派が武装闘争のために共闘関係を結んだ事で結成され、山岳ベース事件やあさま山荘事件を巻き起こすような過激派集団になるのです。

当時の赤軍はの主要メンバーの森恒夫や坂東國男などは、革命のための資金集めとして金融機関の襲撃を繰り返しており、警察から指名手配されていたのです。

一方革命左派のメンバーは獄中にいる最高指導者の川島豪奪還のために銃がほしく、交番や銃砲店を襲撃したことで潜伏生活を余儀なくされていたのです。この時の革命左派の最高指導者が永田洋子だったのです。

【2】連合赤軍メンバー森恒夫の経歴概要まとめ

森恒夫 連合赤軍の最高幹部。 1944年生まれ。69年に赤軍派に加入し、やがて最高幹部となる。71年に連合赤軍を結成し、山岳ベース事件を指揮。翌年に逮捕され、獄中自殺した。

重信房子とは折り合いが悪く、常に対立関係にあった。 pic.twitter.com/o7fgToEDyO

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) September 20, 2019

連合赤軍の最高指導者として指揮しその思想から山岳ベース事件を引き起こした森恒夫の経歴の概要をまとめて紹介します。

幹部の逮捕や海外逃亡により組織が弱体化したタイミングで実質的なリーダとなります。

やがて、自己批判・相互批判による「革命戦士の共産主義化」に邁進するようになって各メンバーの摘発や総括による思想強化を強めていったのです。

【3】連合赤軍メンバー坂東國男の経歴概要まとめ

和光晴生の日本赤軍脱退(1978年)
国際遊撃戦路線に疑問を抱くようになり、1978年に脱退を表明。翌年に坂東國男を議長とした審問会が開かれ、まずは3年間の権利停止処分とし、82年に正式に脱退を受理した。脱退後はPFLPで活動した。 pic.twitter.com/vzGQ5OYwdx

— 日本赤軍bot (@JapanRedArmyBot) September 21, 2019

連合赤軍結成前の赤軍派で坂東隊を指揮していたリーダーで金融機関強盗を実行していました。

山岳ベース事件においては、最高責任者であった森の忠実な片腕としてリンチ殺人に積極的に参加し加担していました。

【4】連合赤軍メンバー植垣康弘の経歴概要まとめ

貴方はウィキペディアとか漫画とか
素性の知れない第三者のいい加減な情報を通じて語ってるに過ぎん

私は重信房子氏が逮捕されてから
或る人物に日本赤軍で入りたい旨を相談した

彼女が逮捕された時点で解散したし
派閥がある

私自身がそれらの関係者だったのだ
植垣康弘氏以外は皆様亡くなった… pic.twitter.com/0TSTUAhApm

— houhaidai(むーんびالقمر الجمال 🌙)親カダフィ派 (@houhaidai) June 9, 2019

赤軍派時代には坂東隊として金融機関への襲撃事件に関わっていました。

山岳ベース事件においては、リンチ殺人に積極的に関与していました。

【5】連合赤軍メンバー永田洋子の経歴概要まとめ

永田洋子 連合赤軍事件 1971年〜1972年2月

アジトから逃走した構成員2人を殺害。「総括」と称し、構成員らに集団リンチを加え殺害。死者14名。11年2/5、病死。65歳没。 pic.twitter.com/cAtrhoiu5x

— 執行済み・獄中死した死刑囚bot (@sikei_syu_bot2) September 16, 2019

山岳ベースで連合赤軍ナンバー2として総括を推進し積極的に多くの人命を奪った永田洋子の経歴の概要をまとめて紹介します。

革命左派の最高指導者で、連合赤軍合流後は森に次ぐ組織のナンバー2の地位に着いていました。森の「革命戦士の共産主義化」の考え方に積極的に迎合して各メンバーへの追及を積極的に実施していったのです。

彼女が積極的に総括をしていった背景には嫉妬や妬みといった私怨とも思える部分が多く見られたため、事件当時は暴君として君臨していたとも言える人物なのです。

【6】連合赤軍メンバー坂口弘の経歴概要まとめ

坂口 弘(さかぐち ひろし、1946年11月12日 – )は、日本の新左翼活動家、元連合赤軍中央委員会書記長、テロリスト。確定死刑囚。

2019年現在、坂口は死刑囚として東京拘置所に収監されている[1]。坂口の死刑が執行されていないのは、共犯者である坂東國男が国外逃亡して裁判が終了していないため。 pic.twitter.com/bZjb66ZAni

— Yasu (@yasu_yasuno_sa) May 18, 2019

永田洋子の内縁の夫だった男です。連合赤軍に合流後も森、永田に次ぐナンバー3の立ち位置にいたました。「暴力を伴った総括」の方針に疑問を覚えていたが逆らうことができず、暴行に関与していったのです。

山岳ベース事件の終盤に総括の対象になるが、うやむやの内に組織自体が崩壊したので生き残ったのです。

【7】連合赤軍メンバー吉野雅邦の経歴概要まとめ

吉野雅邦  昭和58年2月2日の東京高裁判決で控訴棄却、検察が上告せず無期懲役が確定。千葉刑務所で服役中。

加藤倫教  懲役13年が確定し服役。実家の農家を継ぐ。あさま山荘事件特集番組に多く出演。

加藤元久(弟)  喜連川中等少年院送致。 pic.twitter.com/hAOWIG03sx

— 赤心報国1346 (@sekisin1346) April 14, 2019

革命左派時代に、印旛沼事件に実行犯として関与した過去を持ちます。その事件での実績を買われて連合赤軍で指導部のメンバーに選ばれたのです。しかし、発言力はほとんどなかったとされます。

山岳ベース事件の暴行に積極的に関与し、その後はあさま山荘事件の籠城メンバーになったのです。

【8】山岳ベース事件の首謀者が逮捕に至った概要まとめ

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連合赤軍は当時警察にマークされていた組織であり、追われ続けていました。その包囲網は徐々に狭められ、ついには首謀者の逮捕に至ったのです。そんな首謀者が逮捕に至った経緯の概要とまとめました。

1972年2月4日に最高指導者の森と永田は連合赤軍の活動資金を調達するために東京に向かいます。このとき、連合赤軍の残りのメンバーは棒名ベースから迦葉山ベースに移動しており、この時までに棒名ベースで8名、迦葉山ベースで3名のメンバーが総括と称したリンチ殺人により死亡していました。

責任者である森と永田が山岳ベースから離れた事で、脱走するチャンスと見た数人のメンバーがリンチ殺人が当たり前になった現在の状況から逃げるために脱走を企てます。

このメンバーの脱走により、現在の潜伏地点である山岳ベースの場所が警察に発覚することを恐れた残りのメンバーは妙義山へ逃走を図りました。

2月15日に都内にあるアジトに潜伏していた森と永田は、山岳ベースの棒名ベース跡地が警察に知られた情報をつかみ、妙義山に向かって移動を開始します。

2月17日に妙義山へたどり着いた2人は、そこで山狩りをしていた警察官に見つかり包囲されます。そして、逃走を試みますが格闘をしてあがいたが逮捕に至ったのです。

【9】山岳ベース事件のその後概要まとめ

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煉獄赤軍の首謀者2名が逮捕されていたそのころ、残されていたメンバーはどのような行動に出ていたのでしょうか。山岳ベースに残っていたメンバーのその後の足取りに着いて概要をまとめて紹介します。

2月16日に妙義山へ逃れていたメンバーは、山岳ベース跡地の場所が警察に知られた情報を手にして、その日の内に長野県方面へ逃走することを決めて移動を開始したのです。その翌日に最高指導者の森と永田が警察に逮捕された事をラジオのニュースで知るのです。

残されたメンバーは最高指導者の森と永田の奪還行動を決意しつつ、長野県の佐久市を目標にして山越えを敢行します。しかし、その途中で道を間違えた事で2月19日に軽井沢に到着してしまいます。そこで買い出しにでたメンバー数人が警察の包囲網につかまり逮捕されたのです。

残されたメンバーは5人だけになり、逃走を重ねたけっかあさま山荘にたどり着いたのです。

あさま山荘にたどり着いた5人は、管理人の妻を人質に取り籠城行為にでたのです。これが世にいう「あさま山荘事件」になります。籠城行為は10日間にも及び、この事件では民間人1名、警察官2名が死亡し、27名が負傷するという大事件になりました。

あさま山荘事件といえば鉄球での突撃シーンが有名です。

【10】山岳ベース事件に関わっていなかった連合赤軍メンバー概要まとめ

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連合赤軍は世界同時革命を行うための拠点作りと活動資金調達のため、山岳ベースに終結していたメンバー以外に一部のメンバーを朝鮮やパレスチナなどに派遣していたのです。

パレスチナに残された連合赤軍メンバーであった重信房子、奥平剛士らによって新たに日本赤軍が組織されることになったのです。

連合赤軍メンバーの現在は?【山岳ベース事件】

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山岳ベース事件とあさま山荘事件で逮捕され壊滅した連合赤軍メンバーは現在どのようになっているのでしょうか。

連合赤軍メンバーの現在の状況を概要でまとめて紹介します。

【1】最高指導者森恒夫の現在の概要まとめ

森恒夫は見立くんっぽいな〜 pic.twitter.com/1c0LubXOHT

— 万尊 (@zero8872) July 5, 2019

昭和48年1月1日、元連合赤軍最高指導者であった森恒夫は山岳ベース事件で逮捕された後、初公判前に東京拘置所で首つり自殺をしているのが発見されました。

逮捕後、森恒夫は東京拘置所に遺書めいた文章を残していました。「私は、自分が狂気の世界に居たことは事実だと想う。革命の利益から考えると有罪に値し、その罪は死罪である」と自分の考え方で死を選ぶと言うことを示していたのです。

【2】最高幹部永田洋子の現在の概要まとめ

「もっと光を・・・・・」

【連合赤軍事件】、永田洋子 pic.twitter.com/WL4VTeSdFl

— ◆マジキチ犯罪者の名言◆ (@mazikiti_hanzai) September 15, 2019

山岳ベース事件をはじめとする一連の連合赤軍事件で多くの殺人や死体遺棄罪に問われた結果、1993年に死刑が確定しました。その後、死刑執行をまたずして多臓器不全により東京拘置所内で死亡したのです。

永田洋子は、東京拘置所で拘留中の1984年に脳腫瘍の手術を受けたが、2006年3月に倒れた結果、脳萎縮と意識障害に侵されその後寝たきりの状態が続いき死亡へと至ったそうです。

【3】坂東國男の現在の概要まとめ

坂東國男 連合赤軍中央委員

共産同赤軍派ではM作戦を指揮。坂東隊を率いた。 pic.twitter.com/UMXX1SjrbG

— 赤心報国1346 (@sekisin1346) April 7, 2019

山岳ベース事件後に起こしたあさま山荘事件で逮捕拘留されていましたが、1975年8月に日本赤軍によるマレーシアのアメリカとスウェーデン大使館の占拠事件の連合赤軍メンバーの開放要求により、日本政府が釈放したのです。

釈放された坂東は日本赤軍に参加し、一時は最高幹部の重信房子の側近を務めたのです。

その後、日本赤軍として、ダッカ日航機ハイジャック事件に関与するなどして指名手配をうけ国際指名手配犯になっています。現在でも逃走を続けており、中東に拠点があった形跡があるとされていますが、現在でも消息不明で生死もわかっていないのです。

山岳ベース事件まとめ

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引用: Pixabay

山岳ベース事件の概要まとめをして紹介してきましたがいかがだったでしょうか?閉鎖されたコミュニティーの中でゆがんだ思想から導かれた結果、リンチ殺人を当たり前のように行うような狂気の空間が出来上がってしまったのです。

この山岳ベース事件をきっかけにして連合赤軍という過激集団は壊滅しましたが、残党による日本赤軍の決起により様々なテロ行為が行われて来ました。

現在の日本では考えられないようなテロリスト集団が実は日本にも存在していたという事実に驚かされる人もいるかと思います。

現在の日本は世界一安全な国とも言われるぐらい治安がいい国になっています。こんな現在の日本が出来上がる前には過激な思想を持った人たちによる惨劇の歴史が存在していたことを忘れないようにしなければなりません。

彼らの存在を教訓にして現在のような平和な国を維持していく事が大切なのです。