酒井法子の現在!薬物で逮捕&中国で物乞いの噂や旦那との関係まとめ

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酒井法子の経歴まとめ

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のりピーのニックネームで酒井法子さん。2009年に覚せい剤取締法違反で逮捕され、有罪判決を受けていますが、今では、そんな過去も忘れてしまうくらい、今では中国や台湾などアジアで活躍されています。

アイドル時代には、「ヤッピー」、「いただきマンモス」、「マンモスうれピー」といったようなのりピー語を流行らせて、一世風靡しましたね。みなさん、覚えていますか?そんな酒井法子さんの生い立ちと、2009年に覚せい剤取締法違反で逮捕されるまでの経歴についてご紹介しましょう。

 

酒井法子の生い立ち~序章~


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酒井法子さんはとてもチャーミングな外見ですよね。ドラマ「ひとつ屋根の下」では、江口洋介さんのあんちゃんや、福山雅治さんのチー兄ちゃんの妹・小雪役として、誰もが彼女を守ってあげたいと思ったのではないでしょうか。

しかしながら、酒井法子さんのチャーミングな外見とは裏腹に、壮絶な生い立ちなのです。酒井法子さんが覚せい剤に手を染めてしまったのも、この壮絶な生い立ちが所以なのではないでしょうか。

 

酒井法子の生い立ち~誕生~


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酒井法子さんは、1971年2月に福岡県福岡市生まれています。実は酒井法子さんが誕生したこの時、酒井法子さんの父親は覚せい剤所持で逮捕され、服役中だったのです。酒井法子さんの父親はある暴力団の組長でした。この時、酒井法子さんの父親は、主な稼業が覚せい剤の販売だったそうで、この稼業でかなり極悪な荒稼ぎをしていたということから、暴力団の組から破門され、のちには山梨県で闇金融を営むことになります。

本当に、酒井法子さんの父親は、真っ当な職業につくこともなく、どこまでも非道な人だったそうです。

 

酒井法子の生い立ち~母親の駆け落ち~

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酒井法子さんの父親が服役中に、酒井法子さんの母親は、乳児がいながら、若い男と駆け落ちをしてしまいます。寂しかったから男に手を出したというのもあるとは思いますが、暴力団の父親が服役中の今こそ逃げる時だと考えたのでしょう。

そんな酒井法子さんの母親は、乳児の酒井法子さんを連れて逃げたのではなく、なんと服役中の父親の実家がある佐賀県の山中のあるお寺に捨ててしまうのです。まだ乳児だった酒井法子さんは捨て子になってしまったのです。産まれてきたのに、誰からも喜ばれることなく、山中に捨てられてしまうというのは、かなり残酷ですよね。

 

酒井法子の生い立ち~育ての親との生活~

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そして、山中のお寺に捨てられていた酒井法子さんは、服役中の父親の妹に引き取られることになります。その後、埼玉県に住む叔母の住む家に引き取られるようにもなり、埼玉と九州を行ったり来たりの日々が続くのです。幼少期なのに、育ての親を転々とするなんて、なんて可哀想なことなのでしょう。

その後、実の両親の離婚が成立します。離婚後、一旦は、実の母親に引き取られたそうですが、酒井法子さんの実の母親は、自殺にみせかけて殺されてしまったそうなのです。自分の母親が殺されてしまうなんて、のちに、そのことを聞いた酒井法子さんの気持ちが思いやられますね。恐怖感や不信感でいっぱいになったことでしょう。

酒井法子さんの実の母親が死亡後、また育ての親である叔母に引き取られます。そして、酒井法子さんが7歳の時に、実の父親から突然連絡が来るのです。実の父親は刑から釈放され、なんと再婚が決まっていました。父親から酒井法子さんを引き取りたいと連絡があったそうです。それまで、酒井法子さんは、育ての親であった伯母を本当の親だと思っていたそうですが、この時に、伯母から自分の子供ではないと告げられ、大変ショックだったそうです。

確かに、まだ若干7歳で、今まで親だと信じて慕ってきた人から、いきなり自分の子供ではないと拒絶されたら、子供にとって相当ショックだったと思います。

 

酒井法子の生い立ち~実の父親との生活~

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その後、父親夫妻に引き取られ、福岡県に戻り、暮らし始めますが、その後も父親は離婚、再婚と繰り返します。酒井法子さんは、実の父親にも、たびたび代わる継母にも全く心を許すことがなく、甘えることもできなかったようです。確かに、幼いころから一緒に住んでいなかった人たちと、同じ屋根の下に暮らすとなると、どういった態度を取ればよいのか、どういって接すればよいのか、子供ながらにもわかりませんよね。

酒井法子さんは、こうして生まれた時から、大人の事情で転々とした生活を送っていた影響からか、周りの大人が何を考えているのか、幼いころから空気が読めてしまっていたらしく、これだけは芸能界で役に立っていると言っているそうです。

でも、幼少期から思春期にかけて、一番多感な時期であるのに、普通の家庭のくらしができなかった酒井法子さんですが、一度でも普通の家庭のくらしを味わいたかったと思います。

 

酒井法子の人生を変えたオーディション

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酒井法子さんは産まれてすぐに、山中に捨てられ、育ての親を転々とし、自分の記憶にはない人から実の父親に引き取られてしまうといった数奇な幼少期と思春期を送ります。

しかしながら、1985年、酒井法子さんが14歳の時に、酒井法子さんの人生を変える出来事が起こるのです。

酒井法子さんは、福岡県の中学校に通いながら、14歳の時に、芸能界のオーディションを受け始めます。噂にすぎませんが酒井法子さんの父親が福岡の朝鮮差別部落出身ということから、オーディションに合格できなかったそうです。

でも、1985年10月に行われたオーディション企画で資生堂主催の「’86 ミスヘアコロン・イメージガール・コンテスト」に出場。グランプリは逃しましたが、「BOMB!賞」が授与されました。

このオーディションの時に特技として物まねを用意していたそうなのですが、他の出場者と被るので、急遽、落語の「寿限無」を博多弁で披露したところ、酒井法子さんの、のちに所属芸能プロダクションとなるサンミュージックの専務の目にとまり、本来、この「BOMB!賞」はなかったのですが、急遽、この賞を用意して授与されたのだそうです。

こうして、酒井法子さんは芸能界デビューの決定が決まり、福岡県から単身で東京へ上京。学校も東京の中学校に転校し、所属芸能プロダクションのサンミュージックの社長、相澤秀禎氏の自宅で下宿生活を送るようになります。社長宅での下宿生活は4年間でしたが、この4年間は社長から、実の親のように愛情のある生活だったのではないでしょうか。

1985年より、テレビドラマ「春風一番!」の収録に参加し、テレビドラマデビュー。そして、同時期に雑誌「Momoco」に登場し、この雑誌の特別コーナー「モモコクラブ」を発端とする番組「モモコクラブ」の会員No.1482としてデビューします。このモモコクラブでも、すぐに人気がでて、番組の中心メンバーとして活躍をしていました。

芸能活動を始めて、半年たたずして、トントン拍子にテレビや雑誌への露出が増えていったなんて、やはり酒井法子さんのチャーミングな可愛さから、世の中の男子の目はくぎ付けだったのでしょう。

 

酒井法子のアイドル初期時代~アイドルデビュー~

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1986年4月に、雑誌「Momoco」が開催したイベント「’86 モモコ・パーティ」のオーディションである「第2回ミスモモコクラブ」でミスVHD賞を受賞した酒井法子さんは、15歳の時に、VHDソフト「YUPPIE」を発売して、本格的にアイドルデビューを果たします。実は、このVHDソフトを使ったアイドルのデビューは世界発だそうです。

この頃から、酒井法子さんは自分のことを「のりピー」と呼ぶことで、酒井法子さんの「のりピー」の愛称が全国的に広まりました。そして、酒井法子さんが話す言葉が「のりピー語」。これも流行りましたね。モモコクラブの番組の中でも、番組のはじめの挨拶のときに、「ヤッピー」と言っていました。

のりピー語ですが、例えば、「嬉しい」を「うれピー」と言ったり、「美味しい」を「おいピー」と言ったり、語尾には「ピー」がついていたような気がします。そして、「いただきます」のことを「いただきマンモス」と言ったり、「とっても嬉しい」を「マンモスうれピー」とも言っていました。

酒井法子さんののりピー語は、大人だけではなく、子供でも大流行りだったのを覚えています。

 

酒井法子のアイドル初期時代~アイドル歌手デビュー~

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VHDソフト「YUPPIE」の中でも「お願いダーリン」という楽曲で一足先に歌声を披露していますが、歌手デビュー作は、1987年2月発売の「男の子になりたい」でした。

この曲で正式にアイドル歌手デビューし、どんどんテレビや雑誌などのメディアに取り上げられるようになります。そして、「男の子になりたい」はオリコン最高6位になり、デビュー曲から、ザ・ベストテンや、歌のトップテンなどにもランキングされて、幸先の良いスタートを切ります。

そして、同じ年の年末の新人賞レースには数多く参戦し、第18回日本歌謡大賞では、最優秀放送音楽新人賞を受賞します。

また、酒井法子さんが中学生のころから書いているキャラクター「のりピーちゃん」も話題になり、歌番組出演時には、セットに起用されたことも。酒井法子さんの同期には、森高千里さん、立花理佐さん、畠田理恵さん、坂本冬美さん、石田ひかりさんなど、そうそうたる顔ぶれがいる中で、デビューのころからのりピーワールドが炸裂していたため、酒井法子さんのキャラクターは際立っていました。

 

酒井法子のアイドル初期時代~レコードからCDへの転換期~

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アイドル歌手としてデビューした酒井法子さんですが、日本の歌謡界にレコードからCDへの転換期が訪れます。この頃、オリコンのランキングには上位にいくのですが、なかなかレコードの枚数が売れないといった頃もありました。

ただ、1987年11月に発売された4枚目のシングル「夢冒険」がテレビアニメ「アニメ三銃士」のオープニングテーマに起用され、子供でも口ずさめるほど人気の曲となり、また翌年の第60回センバツ高校野球大会大会の入場行進曲に起用されるなど、酒井法子さんのアイドル歌手初期時代の代表作となりました。

 

酒井法子のアイドル初期時代~のりピーちゃん~

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酒井法子さんが歌番組などに出演する時にセットに起用されていたのりピーちゃんは、中学生のときに生み出したキャラクターとされています。アイドル歌手としてデビューしましたが、活躍は多岐にわたっており、こののりピーちゃんを活かした漫画を連載していたり、日本自動車工芸会の交通安全ポスターに起用されたりもしました。

また、そののりピーちゃんのキャラクターはとても人気が高かったことから、酒井法子さんのタレントショップ「NORI-P HOUSE」をオープンし、のりピーグッズを販売していました。1988年7月には、日本一標高が高いタレントショップとして、富士山8合目に「のりピーちゃんハウス」をオープンしています。

ちょうどタレントショップブームだったこともあり、のりピーグッズの人気は高く、のちに、1991年には、富士山5合目に富士山2号店をオープン。また、「のりピーハウスレーシングチーム」というチーム名でN1耐久レースにもチーム監督として参加していました。

 

酒井法子のアイドル全盛期時代~少女から大人の女性へ~

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堀越高校を卒業した1989年春ごろから、リリースされる曲も、酒井法子さんの佇まいも変化が訪れます。声のトーンも、曲調も、落ち着いたものとなっていきました。また、使っていたのりピー語も徐々に使わなくなり、とても自然な形で、少女から大人の女性へ変化していったのです。

それでも、デビュー当時からのチャーミングでピュアなのりピーのイメージを損なうことなく、アイドル冬の時代の中で、最後のアイドルともいわれていました。

 

酒井法子のアイドル全盛期時代~アジア進出へ~

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1990年にシングル曲のベストアルバムがオリコンで最高1位にはなったものの、大ヒット曲に巡り合うこともなく、アイドルとして伸び悩んでいました。

そのころ、まだ日本の芸能界が目をつけていなかった中国、台湾、香港などの中国語圏のアジア諸国に進出していきます。中国では、大手家電メーカーのCMで「夢冒険」を歌う姿に注目が浴び、日本での評価以上に人気となります。

その後、中国でアルバム「微笑」をリリース。このアルバムは50万枚の大ヒットとなりました。なんと、中国でアルバムをリリースした日本人のは、酒井法子さんが初めてだそうです。そして、中国語で歌う曲までもリリースします。

1992年には、台湾で初めて海外公演を成功させ、中国語圏では大スターとなるのです。

 

酒井法子の紅白歌合戦初出場

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中国語圏のアジアでの歌手活動をしていましたが、それと並行して行っていたのが、日本での女優業でした。

1993年に、「101回目のプロポーズ」や「愛という名のもとに」というトレンディドラマの脚本家として有名だった野島伸司さんに引き当てられ、テレビドラマ「ひとつ屋根の下」に出演。そして、1995年にはテレビドラマ「星の金貨」に出演し、立て続けにテレビドラマはヒットし、話題となりました。

中でも、このテレビドラマ「星の金貨」の主題歌となったシングルCD「碧いうさぎ」は、自身初のミリオンヒットとなり、デビュー9年目にして、年末の「第37回日本レコード大賞」で優秀作品賞を受賞し、そして、「第46回NHK紅白歌合戦」に出場。紅白歌合戦では、テレビドラマの役柄に合わせて、手話を交えて歌いました。

これらのテレビドラマに出演することで、アイドル歌手である「のりピー」から女優である「酒井法子」へ転身したのです。

 

酒井法子の恋愛・結婚

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この野島伸司ドラマに出演していたころ、酒井法子さんは、脚本家の野島伸司さんと恋愛関係にありました。脚本家の野島伸司さんは、もともと酒井法子さんのファンだったらしく、テレビドラマ「ひとつ屋根の下」の脚本を書く時に、すでに酒井法子さんをイメージしながら、小雪役を書いていたというエピソードもあります。

酒井法子さんは、野島伸司さんとの交際宣言までして、同棲生活も送っていましたが、1997年秋には、同棲生活を解消し、別れています。

その翌年1998年、酒井法子さんは、自称プロサーファーの高相祐一さんと結婚を発表し、同時に妊娠3ヶ月ということも発表してしまうのです。

実はこの高相祐一さんとの出会いは、酒井法子さんとテレビで共演し、趣味のボディボードを通じて、木梨憲武さんから紹介されたとされています。高相祐一さんはスキーショップ「JIRO」の経営者の長男であり、後継者でもありました。

高相祐一さんはプロサーファーではなく、自称プロサーファーと言われているのは、日本プロサーフィン連盟・JPSAの公式プロとしては一切エントリーされておらず、また世界プロサーフィン連盟日本支局・ASP Japanのランキング一覧からも高相祐一さんの名前を見つけることができないからです。単なるサーフィン好きだったのかもしれません。

 

酒井法子のママドルとしての活躍

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1998年に結婚、そして、1999年に出産を経て、2000年に、芸能活動へ復帰します。まだ子どもも小さかったことから、子育てと芸能活動との両立していました。

2003年には、伊藤忠商事と所属していた芸能プロダクションのサンミュージックで設立したアパレルブランド「ピーピーリコリノ」のプロデュースを始めたり、またさらには2007年に日中文化スポーツ交流年の文化親善大使になり、数々のイベントに参加し、当時の内閣総理大臣であった安倍晋三氏とも面会するなど芸能人としてのステータスを高めていきました。

また、今となっては、皮肉にも思えますが、2008年には、最高裁判所制作の裁判員制度のPR映画にも主演するなど正統派女優の顔もみせていました。

ママドルということから、テレビというメディアにおいても、トヨタのCMやテレビドラマ「まるまるちびまるこちゃん」で主人公まるこの母親役を演じるたり、クリーンなイメージから花王やTUTAYAなどの多くのイメージキャラクターとつとめていました。

 

酒井法子の薬物逮捕事件まとめ

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アイドル歌手として日本でも中国語圏のアジアにおいても成功し、結婚してママドルとしても成功するという、女性芸能人としてゴールの域に達したと思われていましたが、2009年8月に衝撃の報道がされてしまいます。

酒井法子さんが薬物を使用し、覚せい剤取締法違反で逮捕されてしまいます。酒井法子さんが覚せい剤を使ってから、逮捕事件に至るまでについてご紹介します。

 

酒井法子の旦那が逮捕

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2009年8月3日に、旦那である自称プロサーファーの高相祐一さんが東京都渋谷区の路上で駐車中に、警察から職務質問を受け、駐車中の車内で覚せい剤を隠し持っていたことで、酒井法子さんもその場に呼ばれ、警視庁渋谷警察署から任意同行を求められたが、それを拒否。酒井法子さんは、この路上で泣き崩れているのを見た人もいました。

その時に、旦那である高相祐一さんが、覚せい剤を隠すために、腰に下げた巾着袋の中身について、警察から酒井法子さんが聞かれたときに、「主人は下半身にコンプレックスを持っており、そのための薬だから見せられない」といった嘘をついて、その後、失踪。

この時、旦那が職務質問を受けた場所は、渋谷区道玄坂裏の風俗店が多数立ち並ぶようないかがわしい場所で、普通、家庭をもっている男性が歩く場所ではなかったそうです。

旦那である自称プロサーファーの高相祐一さんは逮捕となるのです。

 

酒井法子の失踪と逃亡

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旦那の逮捕後、酒井法子さんはすぐに自宅に帰り、大量の荷物をかかえ、コンビニエンスストアや量販店で食料品や飲料水、衣服や下着などを購入し、行方をくらましました

当初、酒井法子さんは、高相祐一さんの母親からの一本の電話にとった以外は、所属の芸能プロダクションであるサンミュージックのマネージャーや事務所関係者からの電話も拒否。

そして、酒井法子さんの継母からの電話も拒否していたころから、酒井法子さんとの連絡が途絶えたことで、所属の芸能プロダクションであるサンミュージックからは捜索願が出され、テレビなどの各メディアにおいても、旦那の逮捕が衝撃で自殺してしまうのかもなどと言われていました。

そんな中、旦那の逮捕から数日経った2009年8月7日に、旦那である高相祐一さんは、警察での事情聴取の中で、妻である酒井法子さんも覚せい剤を使用していたことを供述。そして、酒井法子さんの自宅からは、8マイクログラムという微量の覚せい剤と、酒井法子さんの唾液が付着していた吸引具が発見され、警察は、酒井法子さんへの逮捕令状が出たのです。

それまでは、旦那である高相祐一さんの逮捕の衝撃から、心が病み、行方をくらましていたとされていましたが、この酒井法子さんへの逮捕令状が出たことから、世間は、覚せい剤を身体から抜くために、逃亡しているのではないかという報道へ一日にして変わります。

覚せい剤を身体から抜く場合、約1週間必要だとされています。そのため、その1週間逃亡し、覚せい剤が抜けたうえで、出頭しようと考えていたとされていました。本当のところはどうなのかわかりませんが、世間が大きく騒いだのは間違いありません。

この逃亡の時に、酒井法子さんは子供と一緒に逃げていたわけではなく、旦那である高相祐一さんの愛人に預けていたとされています。この愛人は、もともとは酒井法子さんの友人であり、ママ友だったということですが、旦那の浮気も許してしまうほど、つながっていたい覚せい剤があったわけで、覚せい剤を供給してくれる旦那と、なかなか縁を切ることができなかったのかもしれません。

 

酒井法子の逮捕

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酒井法子さんへの逮捕令状が出た翌日の2009年8月8日に、酒井法子さんは警察へ出頭し、逮捕となります。酒井法子さんはすぐに覚せい剤の使用を認めました。酒井法子さんは覚せい剤を抜くために逃亡したとされていますが、実際は、旦那の逮捕に気が動転し、逃げてしまっただけなのかもしれません。

酒井法子さんが逮捕され、2009年8月28日に、検察は酒井法子さんを覚せい剤取締法違反(所持)で起訴されます。これを受けて、酒井法子さんの所属している芸能プロダクションであるサンミュージックはマネジメント契約を解除します。また、所属のレコード会社であるビクターエンタテインメント(現:JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)も、酒井法子さんとの契約を解除しました。

酒井法子さんは、供述で、逮捕される、この事件前に滞在していた奄美大島のホテルで、覚せい剤を使用していたことを自供。それにより、覚せい剤取締法違反(使用)で、追起訴もされてしまいました。

結局、酒井法子さんは、懲役1年、執行猶予3年の有罪判決を受けることになりました。

 

酒井法子が覚せい剤をはじめた訳

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では、酒井法子さんは、どうして覚せい剤をはじめてしまったのでしょうか。それは、やはり旦那である高相祐一さんの影響が大きいのです。

酒井法子さんは、1998年に結婚し、ママドルとしても活躍していましたが、結婚してから3~5年経ったころに、たまたま旦那の高相祐一さんが夜にキッチンで隠れて使用していたのを見てしまい、それが原因で覚せい剤をはじめてしまったと言います。

旦那の高相祐一さんは、子供が寝静まったある夜に、気化した覚せい剤が酒井法子さんや子供の方にいかないように、キッチンの換気扇の下で、アルミホイルに入れて覚せい剤をあぶっていたときに、酒井法子さんに見つかってしまったと言います。

最初は、酒井法子さんも「なんこれ?」と言って怪訝そうでしたが、旦那の高相祐一さんは「元気がでる薬だよ」と答え、酒井法子さんに強くすすめてしまい、覚せい剤をはじめたとされています。

旦那の高相祐一さんと一緒に生活していたので、たぶん酒井法子さんも薄々は気付いていたと思いますが、高相祐一さんの場合、大麻も吸っていたらしく、大麻に関しては、だらしなくなるといった中毒症状がでるわけでもなく、デザインやクリエイティブな思考を高めていることから、そこまで強く言わなかったのかもしれません。

 

酒井法子が覚せい剤をはじめてから

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覚せい剤をはじめてからかは定かではありませんが、旦那の高相祐一さんの影響もあってか、足首に毒々しいタトゥーを入れることから始まり、ついには太ももにまでも入れることになります。そして、髪も赤色に染めてみたり、金髪に染めてみたりと変わり、そして私服も以前の清純派とは違ってギラギラととても派手なものとなっていきました。まだ、段々と痩せていき、顔つきもきつくなっていきます。

そして、仕事にも支障をきたします。まずは遅刻が多くなり、業界では「のりピー待ち」という言葉が知れ渡るほどになりました。

酒井法子さんは、子供を実家に預け時にだけ覚せい剤を使うという、一応子供には気配りをしていたそうですが、段々と、使い続けていくうちに、覚せい剤を使いたいから実家に子供を預けるようになりました。

酒井法子さんは、清純派とは程遠いダンスミュージックが好きだったようで、六本木で薬箱とよばれている薬物中毒者が集まるクラブのVIPルームで見られていたり、また野外イベントではストリップ並みに、裸で踊っていたり、薬物乱交パーティを行ったりという奇行もたびたび見られるようになりました。

そして、テレビにおいても、覚せい剤を使用した後だったのか、不思議なテンションでインタビューを受けていたりと、世間をあっと言わせる奇行が続いていたのです。

 

酒井法子の旦那はどんな人?

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酒井法子さんの旦那である高相祐一さんですが、スキーショップ「JIRO」の経営者の息子ということから、幼いころから東京都渋谷区青山に住んでいました。両親はスキーショップの経営のためか、日頃家にいない代償として、おこずかいは多かったと言います。

渋谷で遊んでいる中で、容易にドラッグの誘いがあり、中学校2年生の時にサーフィンを始めた直後に大麻をはじめて吸って、そして覚せい剤まで手を出したのが20歳の時だったそうです。特に悪気もなく、薬物使用は続いていました。

覚せい剤で逮捕されていますが、覚せい剤については、月1回くらいの程度で使用していたこともあるし、5年も使用していなかったこともある…といった程度だったと言います。

酒井法子さんと結婚したころ、高相祐一さんは自称プロサーファーではありますが、「CORE SIDE」というウインタースポーツのお店を経営していたようです。

でも、薬物を使用していたという事実は紛れもなくあるわけで、2009年に逮捕されてからというもの、その後、2度も同じように薬物使用で逮捕されるという、本人は思っていないかもしれませんが、薬物中毒者でありました。

 

酒井法子の逮捕後

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酒井法子さんが覚せい剤取締法違反で逮捕後、2009年9月17日に、保釈保証金500万円を納付し、釈放されます。

釈放されて、警察署の前で謝罪をした光景をいまだに覚えている方も多いのではないでしょうか。そして、その釈放された日の同日に記者会見が行われ、生まれ変わった気持ちで心を入れ替えたいと涙ながらに謝罪したと報道されました。

酒井法子さんの逮捕によって、酒井法子さんは所属していた芸能プロダクションであるサンミュージックや所属のレコード会社から契約を解雇や解除されましたが、多数出演していた大手企業のCMが突然打ち切りとなり、その代償として、損害賠償金が請求されてしまいます。その額は約5億円にものぼりました。

さすがに酒井法子さん個人ではすぐに払える金額でもなく、この損害賠償金を元所属していた芸能プロダクションであるサンミュージックが肩代わりをします。

では、酒井法子さんが逮捕された後、旦那である高相祐一さんとの関係はどうなったのでしょうか。また、芸能界復活後、今まで活動していた中国語圏での芸能活動などはどのようにされているのでしょうか。酒井法子さんの逮捕からの復活劇をご紹介します。

 

介護を勉強するために大学入学

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逮捕後、酒井法子さんは、介護の仕事を勉強したいと、芸能界引退をにおわせながらも、2010年1月に、群馬県高崎市にあった創造学園大学に入学します。入学式には出れなかったものの、介護士や音楽療法士を目指しながら、同大学ソーシャルワーク学部ソーシャルワーク学科介護福祉コースで勉強を始めます。

この大学では、eラーニングを主として通信制で勉強していましたが、2013年に大学が閉校してしまったことにより、介護士の勉強もこれでストップとなります。

酒井法子さんが入学した創造学園大学は、酒井法子さんの出身高校である堀越学園が運営していました。しかしながら、決算書の虚偽や、入学予定者の定員割れ、そして教職員への給与遅配などの不祥事が重なり、2013年に閉校となってしまうのです。

大学が閉校となってしまった酒井法子さんは、介護士になろうと勉強をしていましたが、先が絶たれてしまったため、芸能界へ戻る決心をします。それは、子供がいるママとして生きるために、芸能界でしか生きていけなかったからです。

 

旦那との関係は?

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酒井法子さんは創造学園大学に入学後、2010年6月に離婚調停を経て、旦那である高相祐一さんと離婚します。薬物と縁をきるためには、離婚が絶対条件だったということでしょう。そして、離婚にあたり、子供の親権は酒井法子さんが持ちました。

元々、覚せい剤で逮捕される以前に、夫である高相祐一さんは、酒井法子さんの友人と愛人になっており、離婚寸前だったと言います。ただ、薬物を供給するためには夫という存在が必要だったのかもしれません。でも、その薬物の供給元を絶つだめにも、離婚することが彼女の最善策だったのです。

 

芸能界復帰!所属事務所は?

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酒井法子さんは、創造学園大学の閉校により芸能界へ復帰します。さすがに、いわくつきの人となった酒井法子さんを引き取る芸能プロダクションがあるのかと噂をされていましたが、「オフィス二ホンニイバ」という芸能プロダクションへ所属します。

この「オフィス二ホンニイバ」という芸能プロダクションですが、酒井法子さんが逮捕前に所属していた芸能プロダクションであるサンミュージックにいたスタッフだった廣瀬洋二郎氏が、1996年6月に設立した事務所で、設立時には、同時に女優だった桜井幸子さんが移籍したと話題になりました。

酒井法子さんは、この新しく所属がきまった芸能プロダクションで芸能界を再スタートします。

 

1件100万円の地方営業

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創造学園大学の閉校により、芸能界へ復帰した酒井法子さん。逮捕されたときに、損害賠償金を肩代わりしてもらった元所属していた芸能プロダクションであるサンミュージックへ損害賠償金を返済するために、苦労を重ねます

まず、東京都内にあるマンションを2軒売却します。それでも、損害賠償金額の5億円には達することができずに、LINEのスタンプを販売したり、ディナーショーを行ったりと子育てと両立して芸能活動に精を出すのです。ディナーショーにおいては、一人25000円のチケットが飛ぶように売れていました。

そして、新人アイドルや若手芸人などが行っている地方のパチンコ屋での営業も行いました。このパチンコ店での営業の内容ですが、多い時には1000人をも超えるお客さんの中で、約30分の間に歌を歌い、来てくれたお客さんとの握手会や撮影会をするというものでした。これで、1件100万円を稼いでいたといいます。

通常、このようばパチンコ店の営業で1件100万円もとれる芸能人は大物レベルだということで、逮捕されてものりピーの集客力はすごかったと言われています。このパチンコ店の営業は1日に3回、チェーン店を巡って行われ、月1~2回のペースで行われていたそうです。

ディナーショーやパチンコ店での営業を続けながら、日本国内においてテレビなどの各メディアに徐々に出演し、芸能界への復帰を成功させました。

 

中国語圏では逮捕前よりも爆発的な人気が!

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日本ではパチンコ店での営業などを行いながらも、テレビに出ては薬物使用についての釈明を行ったりしている日々が続きました。日本においては、逮捕前の絶大な人気は低迷し、ドラマや舞台などで酒井法子さんを見る日も少なくなっています。

そんな中、中国語圏、特に中国においては、酒井法子さんが逮捕前よりも人気を博しているというのです。それには、中国人が日本人とは異なる考え方の違いがあったのです。

日本人の場合、酒井法子さんが薬物に手を染めてしまったのは、きっかけが夫だったとはいえ、自己責任だと思います。そして、この事件をきっかけとして生い立ちなどの過去が蒸し返されることで、酒井法子さんの育ちの悪さが薬物使用による逮捕につながったと考えます。

しかしながら、中国人は、中国の文化的な考え的に、女性よりも男性の方が強い立場にあることから、薬物に手を染めてしまったのは、酒井法子さん本人ではなく、夫である男性が悪いという考えがもとになっているかもしれません。

よって、心身ともに疲れている酒井法子さんを中国であたたかく迎えることによって、一日も早く酒井法子さんを更生させたいという考えが強いということです。

そして、酒井法子さんは、中国の少数民族にいる田舎の少女のような顔立ちが好みの男性が多く、そして、酒井法子さんは中国ではフェリーでのディナーショーを行っていることから、手に届くアイドルとしてアイドルオタクにはたまらない存在となり、逮捕前よりも爆発的に人気が出たのです。

 

中国で物乞いをしてる?

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中国語圏で大人気の酒井法子さんですが、今年2019年1月7日に中国語版Twitter「微博」で投稿した酒井法子さんの中国語でのあいさつが物議を呼びました。それは、ファンの皆さんへの新年のあいさつのメッセージだけではなく、QRコードも記載されており、そのQRコードをスマートフォンなどで読み取ると、電子マネーの振込に案内されるものだったのです。

それを見た中国人のファンは、「酒井法子 乞丐行為(酒井法子 物乞い行為)」という言葉でハッシュタグ化され、中国語版Twitter「微博」へ瞬く間に拡散され、ファン以外のネットユーザーからも大バッシングを受けたのです。

実のところ、この投稿でメッセージは酒井法子さん本人のものだったのでしょうが、QRコードまでつけた投稿については知らなかったようで、この中国語版Twitter「微博」で大炎上後、酒井法子さん本人から釈明の投稿がされており、この投稿は、日本の運営会社が行っていて、日本人向けの有料サイト会員向けの投稿内容を誤って中国語版Twitter「微博」にあげてしまったとしています。

中国のお金持ちにファンになってもらったら、お金が稼げるかと思いますが、日本の運営会社が行うにせよ、ネットを炎上させるようなことは避けるべきです。

 

日本での芸能活動は?

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2009年の逮捕から、10年が経とうとしていますが、まだ日本では薬物を使用していた過去がぬぐえずに、逮捕以前の芸能界での地位を取り戻すことができません。

ただ、酒井法子さんのファンは根強くいるもので、ディナーショーを開催すれば、完売してしまうほどの人気があり、日本での芸能活動においては、ディナーショーでの収入が主な収入源だとされています。

2017年には、酒井法子さんが歌手デビューしてから30年ということで、CDやDVD、そして豪華ブックレットがセットになった30年記念の「NORIKO BOX  30th Anniversary  Mommoth Edition」が発売され、約16年振りに、酒井法子さんの単独コンサート「酒井法子 30th  ANNIVERSARY CONCERT」が開催されました。

 

子ども健全育成大使に任命

引用: Pixabay

2018年に、酒井法子さんは、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団から、初代の「子ども健全育成大使」に任命されます。この子ども健全育成大使とは、ボートレースの収益で運営しているブルーシー・アンド・グリーンランド財団が、子供の健全育成活動をPRするために創設された大使です。

「子ども健全育成大使」という大使に任命された酒井法子さんを、世間では、全く子供にとって健全なことをしていないではないかとバッシングもありましたが、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団の理事長によると、人生において薬物に手を染めてしまったという失敗を犯してしまったが、チャンスを与えて、社会に貢献してほしいという考えで任命したといいます。

酒井法子さんは、自分にできることがあれば頑張りたい。そして、子供たちとすばらしい思い出を作っていきたいと意欲をみせていたということです。この子ども健全育成大使は2年間が任期ということなので、頑張っていただきたいです。

 

11年ぶりに地上波に登場!

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実は最近の出来事でもありますが、2019年3月に、「THE カラオケ★バトル」では、4時間にわたって「またそれやっちゃう?あの大ヒット曲・ご本人は何点出せるのかSP」というテレビ番組が放送されました。この番組は、歌手本人が自分の持ち歌を歌って、カラオケの採点システムで何点をとれるかという番組です。

この番組で、酒井法子さんは、ヒット曲である「碧いうさぎ」を熱唱するのです。酒井法子さんは、この番組を振り返り、地上波で出演するというチャンスをもらったことに感謝しており、カラオケの採点システムで高得点を出すよりも、歌を歌えることが嬉しかったとコメントをしていました。

中国語圏である中国や台湾、香港などではコンサートもたびたび行っており、また日本でもディナーショーを行うなど、ファンの前では歌ってきたとは思いますが、地上波の電波において歌を歌えることができたのが、大きな喜びだったのです。

 

酒井法子の今後に目が離せない

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酒井法子さんの生い立ちから、結婚、そして覚せい剤という薬物使用による逮捕、そして現在までをご紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか。

産まれた時から両親の愛情にも触れることがなく、育ての親を転々としたうえで、実の父親と継母との生活をせざるを得なかった、酒井法子さんの壮絶な生い立ちが、覚せい剤に手を染めさせてしまったのかもしれません。

現在は、大きくなられた子供と一緒に住んでいるといい、また仕事に打ち込むことができるのは、子供のためだとも言っています。酒井法子さんにとって、今度こそ、子供と親子愛を感じながら、幸せな人生を歩んでほしいです。

そして、最近では、日本での露出よりも中国や台湾、香港などでの中国語圏での活動が増えているようですが、また日本でドラマや舞台で演技をしている酒井法子さんや、テレビで歌っている酒井法子さんが見られる日を待ち望んでいます。

今後の酒井法子さんの活躍に目が離せません!今後の酒井法子さんに期待して、応援していきましょう。

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