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数々の事件を起こして話題となったオウム真理教の創設者で教祖であった麻原彰晃をご存知でしょうか?テレビにもたびたび取り上げられ、有名でしたので知っている方も多いと思います。最近ですと、2018年に麻原彰晃の死刑が執行されました。
しかし、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件などの悲惨な事件を知らない若い人たちが、信者として増えてきています。
また、麻原彰晃は性的な事柄も盛んだったと言われています。妻がいるにも関わらず、たくさんの女性信者を愛人とし、毎晩違う女性を呼んでは行為を行なっていました。一体どういうことなのでしょうか?また、何人くらいの女性がいたのでしょうか?
今回の記事では麻原彰晃についてとオウム真理教について、彼の大胆で奇抜な性生活について焦点を当てて紹介していきます。
今まで知らなかった麻原彰晃の性的な事柄について詳しく述べていきたいと思います。それではさっそく見ていきましょう!
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麻原彰晃とは?
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麻原彰晃(あさはらしょうこう)本名:松本智津夫(まつもとちづお)は1955年3月2日に熊本県八代市で生まれました。
1987年7月当時32歳の時に、オウム神仙の会をオウム真理教に改称し、本格的に布教活動が始まりました。その後オウム真理教は勢力を拡大させていき、様々な事件や問題を引き起こしています。
自らのことを日本で唯一の最終解脱者といっていました。最終解脱者とは、煩悩に縛られていることから解放されて、迷いの世界や輪廻などの苦しい状況を脱して、自由の境地に到達する人のことを言います。
宗教的な概念を自らに対して都合良く曲解して殺人を肯定し、自らの信者を利用して国家転覆を最終目標とする一連のオウム事件を起こし、1995年5月16日に地下鉄サリン事件の首謀者として逮捕されました。
逮捕されてからは徐々に奇行が増えていき、意思疎通をすることさえも困難となってしまいました。
1996年3月27日に警視庁本庁舎から東京拘置所に移送されて、2006年に死刑が確定し、2018年7月6日に死刑が執行されました。死刑執行の直前に通される部屋では、誰に対しても終始無反応でありましたが、遺体の引取先を聞かれた際に「四女」とだけ言い遺し、死刑が執行されました。
オウム真理教とは?
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地下鉄サリン事件を筆頭に、現世人の魂を救済する「ポア」を大義名分として、組織的に数多くの殺人事件を起こした新興宗教団体がオウム真理教です。「ポア」とは麻原彰晃が、殺人を正当化する為に使用した用語です。
選挙に出馬した際に大敗してしまったことをきっかけに、現行の日本政府を転覆し、麻原彰晃を頂点とする新政府の樹立を目指すようになりました。
教祖である麻原彰晃は、ヒマラヤで最終解脱した日本で唯一の存在で、空中浮揚もできる超能力者であり、その指示に従って修行をすれば誰でも超能力を身に付けることができるなどとして、若者を中心とする信者を多く獲得していました。
オウム真理教の前身であるおうむ神仙の会ができた当初は、ヨガを学ぶ和気藹々とした集団に過ぎませんでしたが、次第に常軌を逸した行動を撮り始めるようになり、出家信者に全財産を布施させたり、麻原彰晃自身の頭髪や血、麻原彰晃の入った風呂の残り湯などといった奇怪な商品を高価で販売するなどして、多額の金品を得て教団を拡大させていきました。
内部では奇怪な商品の売付けや過激な修行で懐疑的になってしまい、逃走を図った信者を拘束したり殺害するなどして、1988年から1994年の6年間に脱会の意向を示した信者が、わかっているだけでも5名が殺害されています。
死者・行方不明者は総勢30名以上にも及び、恐怖政治を行い教祖への絶対服従を強いていました。
「出家」や高額の布施を要求し、信者の親族その支援者と揉め事が多く、当初より奇抜で不審な行動が目立ったため、信者の親などで構成されるオウム真理教被害者の会(のちの「オウム真理教家族の会」に改称)により、司法・行政・警察など関係官庁に対する訴えが繰り返されたが、取り上げられることはありませんでした。
その結果、坂本堤弁護士一家殺害事件や松本サリン事件、地下鉄サリン事件などのテロや多くの反社会的活動を起こしました。
その他にも、自動小銃や化学兵器、生物兵器、麻薬、爆弾類といった教団の兵器や違法薬物の生産を行っていました。
最終的には、麻原彰晃に帰依しない部外者を「ポア」により救済するための方法としてとして、オウム真理教の国家転覆計画すらも実行するようになりました。オウム真理教の国家転覆計画とは、オウム真理教が企てたクーデターや武力革命、世界征服のことを指します。
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オウム真理教の国家転覆計画の到達点と言えるのが、1995年3月20日の地下鉄サリン事件になります。
宗教団体が大都市の複数箇所を強力な化学兵器で攻撃するという、過去に類のない事件であり、世界で最も治安が良いはずの日本で同時多発テロが起きた事実も含めて、日本国内だけでなく、世界にも大きな衝撃を与えました。また、地下鉄サリン事件は同時多発テロ自体の先駆けにもなっています。
1996年1月に宗教法人としての法人格を失っていましたが、活動は継続しました。2000年2月には破産に伴って消滅しました。同時に、新たな宗教団体である「アレフ」が設立され、教義や信者の一部が引き継がれました。
アレフは後に「Aleph」と改称され、また2007年5月には、上祐史浩を中心とした別の仏教哲学サークル「ひかりの輪」が、2014年〜2015年頃にはAleph金沢支部の山田美砂子を中心とした「山田らの集団」と呼ばれる分派が結成されました。
2018年には麻原彰晃をはじめとした幹部達の死刑も執行されましたが、Alephを中心に未だに麻原彰晃への信仰は根強く残っており、後継組織の施設周辺は抗議の看板が掲示されるなどしています。
2019年現在も日本の公安調査庁は団体規制法により後継団体の動向を監視しています。公安調査庁の調査では、米国政府、欧州連合(EU)、オーストラリア政府、カザフスタン・アスタナ市裁判所,ロシア連邦最高裁判所からテロリストの認定を受けており、各国で活動を禁止されていることが判明しています。
麻原彰晃は性的ハーレムを築いた?
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それではさっそく、麻原彰晃の性生活が盛んだったということについて詳しく触れていきたいと思います。
麻原彰晃には、松本知子という妻がいましたが、他にもたくさんの女性信者との間で体の関係があり、たくさんの愛人がいたと言われており、教団の中でハーレム状態でした。
関係があった女性信者の数はなんと100人を越えると言われています。そのため、麻原彰晃の子どもは12人から15人はいたとされています。
麻原彰晃の好みはロングヘアだそうで、ロングヘアにしている女性信者は『愛人になりたい』という意思表示だったそうです。
オウム真理教ではもともと出家信者の戒律に『不邪淫』といった決まりがあり、配偶者や恋人意外との性的な関係を結ぶことを禁止されていました。しかし、麻原彰晃は最終解脱者と称されており、戒律をも超越する存在とされていたため、戒律に縛られない存在として認められていました。
なぜなら、麻原彰晃は徳川家光の生まれ変わりと信じられており、徳川家光は大奥制度を作ったので、麻原彰晃も大奥制度を作っても構わない、つまりハーレム状態になっても良いと考えられていたのです。
麻原彰晃とダーキニー(愛人)
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麻原彰晃の愛人たちの総称は、ダーキニーと呼ばれていました。ダーキニーは入れ代わりもありますが、常に一定数はいたとされています。そのため子どももたくさんできたそうです。
それではさっそく、ダーキニーたちと麻原彰晃の関係についてを詳しく述べていきたいと思います。
ダーキニー(愛人)とは?
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麻原彰晃の愛人たちのことをダーキニーと呼ばれていました。その数は総勢100人にも登ったとされています。
オウム真理教では「一般人はカルマが強いので子孫を残すべきではない」という論法が用いられており、「若い女性を高い次元に導いてあげるために、左道タントライニシエーション(性行為)を最終解脱者の義務として施さなければならない」と麻原彰晃自らが説き、「信者たちの修行の一貫」として行なっていました。
ダーキニーは常に33人ほどおり、富士山総本部の第1サティアンと上九一色村の第2サティアンに住んでいました。第2サティアンには常時10~15人が住んでおり、麻原彰晃は毎晩相手を変えては左道タントライニシエーション(性行為)を行なっていました。
ダーキニーとされた女性は、ホーリーネームというオウム真理教の出家信者に与えられた教団内での名前に「ダーキニー」という名前が入っている場合が多くありました。
麻原彰晃は電話でダーキニーを呼びつけて、大浴場や40畳ぐらいある部屋で行為を行っていました。
ダーキニーの選考過程
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ダーキニーになるためには3段階に分けて選考が実施されていました。
1.書類選考
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オウム真理教では、入信時に顔写真を撮ることが決められていました。これらの写真は教団本部に送られて、麻原好みの女性が選考されました。選考された女性は再び、岐部哲也という写真家によって写真撮影が行われました。その写真は麻原彰晃に提出されて、書類選考が行われました。
2.面談
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書類選考によって麻原彰晃に選ばれた女性は面談に進みました。選ばれた女性は本部に呼び出されて、麻原彰晃本人と村井秀夫というオウム真理教の幹部であり、麻原彰晃に次ぐ教団のNo.2であった男の2人と面談をしました。
3.性行為テスト
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面談で選抜された女性は、実際に麻原彰晃との性行為が行われました。この時、処女であった女性が合格でダーキニーとなることができました。
この3段階の選考を経て、女性たちはやっとダーキニーとなることができました。
ダーキニーとの性的プレイ内容
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麻原彰晃は髪の毛が長く、若い女性を好んでいました。若い女性というのはなんと10代のことのことを指しており、未成年の若くて美しい女性を特に好んでいたようです。そこまで麻原彰晃に妄信してなかった信者たちは、麻原彰晃の好みではないショートカットにしていたと言われています。
15歳から25歳の女性が30名ほどダーキニーとして常におり、多数の女性と性行為を行なっていました。オウム真理教では性行為のことを左道イニシエーションと呼んでおり、電話でダーキニーを呼びつけ大浴場や40畳ぐらいある部屋や大浴場で左道イニシエーションを行っていました。
また、麻原彰晃はセクシーな下着を好んでいたようで、ダーキニーになると麻原彰晃からセクシーな下着を買うように命じられたそうです。東京にはダーキニー御用達のランジェリーショップまであったと言われています。
また、麻原彰晃には異常な性癖があり、その中の1つに女性の陰毛をコレクションにするという驚愕なものもありました。女性信者の陰毛を、名前のラベルを付けた小瓶に入れて保管していたと言われており、押収された小瓶は100本近くあったとされています。
さらに、神の血液を与える神聖な儀式と称して、ダーキニーに自らの精子を飲ませていたそうです。
ダーキニーの特権
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ダーキニーになると5つの特権を得ることができました。
- 教団内で高い礼遇を受ける権利
- 運転手付の車に乗れる権利
- 私服を購入し着用できる権利
- 作りたての食品を食べることができる権利
- 麻原の故郷である熊本の名産品メロンの「お下げ渡し」を受ける権利
特権の中にある運転手付きのリムジンとは、なんとベンツのリムジンが使われていました。
また、オウム真理教は宗教団体であるので教団の制服であるクルタかジャージの着用を決められていたのにも関わらず、ダーキニーは私服の着用が認められていました。それほどまでに、ダーキニーは特別な扱いをされておりました。
メロンというのは麻原彰晃の大好物でもあり、普通では食べられないものとされていました。しかしながらダーキニーになるとそのメロンを分けてもらうことができ、食べることができたのです。
ダーキニーの暮らし
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ダーキニーたちは上九一色村の第2サティアンというところで生活を送っていました。第2サティアンは4階立てになっておりその最上階が麻原彰晃とダーキニーたちの大奥となっていました。
最上階には麻原彰晃専用の部屋が2つあり、ダーキニーたちの個室と控室が2つありました。また、台所と大浴場も設置されており他の階とは一線を画する造りとなっていました。
ダーキニーは常に10人から15人がこの空間で共同生活をしており、食事時は麻原彰晃がダーキニー全員を呼び出し、一緒に食事を取っていたと言われています。
麻原彰晃の経歴
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さてここから麻原彰晃の経歴についてみていきましょう。
盲学校時代
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麻原彰晃は先天性緑内障という生まれつきの病気を持っており、左目は見えず右目は弱視でわずかですが視力がありました。
家はとても貧しく、両親は働きづめであったため、麻原彰晃は兄や姉を親代わりにし育っていました。また、幼少期のころから麻原彰晃はいたずらをよくしており、ものを壊したり盗んだりを多々行なっていました。
1961年の秋頃に麻原彰晃は盲学校に転入しました。しかし、麻原彰晃はわずかながらも目が見えていたのにも関わらず盲学校に入れられたことをとても不満に思いました。
盲学校は学費も食費の不要でありましたし、卒業するまでの間一度も両親からの連絡がなかったため、自分は捨てられてしまったのだと感じ不満が募っていきました。
盲学校時代には強い権力欲を持ち、若干の視力を武器にして他の子どもたちを子分のような存在にし暴力を振るったり、外で食事をする際には他の生徒に奢らせたり、自分の欲しいものを買わせたりしてお金を巻き上げていました。
他にも窃盗をさせたり、全盲の生徒相手に落とし穴を仕掛けて困らせたりすることが多々ありました。
他にも、もう学校の宿舎の消灯時間が過ぎたにもかかわらず、部屋の明かりをつけていたことを寮母さんに怒られた際には、ふてぶてしい態度をとって「撃ち殺すぞ」などの暴言も言っていたようです。
生活指導の教師が注意すると「言うだけなら、なにを言うたって勝手でしょう」と語ることもありました。
凶暴なので退学させろという周りの声も生まれるほど、悪さをしていました。また、金への執着がとても強く、同級生を恐喝することによって卒業するまでに300万円ほどの貯金が溜まっていたとも言われています。
高等部に入ると性格は一転し、高等部時代の担任の話によると「明るい活発な子で、遠足に行くときは見えない子の手を引いてやったりしていた」と言われています。
また、麻原彰晃は「自分のように病気で困っている人を救う仕事がしたい」と考えるようになり、一時期、医者になることを目指していました。しかし、当時は視覚障害者は医師免許を取得することができず、麻原彰晃は夢を諦めなければなりませんでした。
成人後
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麻原彰晃は成人してから、東京大学の文科一類に合格するために東京へ上京してきますがすぐに諦めて実家に戻ってしまいます。この後も東京大学を受験しようと試みていましたが結局諦めてしまい、結果3度東京大学の受験を試みては諦めてを繰り返していました。
1978年(昭和53年)1月7日に、予備校生時代に知り合った松本知子と結婚し、千葉県の船橋市に新居を構え、そこに鍼灸院の「松本鍼灸院」を開院しはじめました。ですがすぐに辞めてしまいます。
この頃、鍼灸師として「病気の人を完治させることができない、無駄なことをしているのではないか」と悩み、無常感を抱き、運命論の勉強をはじめました。ですが運命を知っても運命を変えることはできないと考えて見切りをつけました。
その後、保険料の不正請求が発覚し逮捕されたり、精神的不安定な状況も見られ対人恐怖症・外出恐怖症を発症したり、強迫神経症もひどくなってしまいました。
その後1982年には、経営塾などをやっていた人物である西山祥雲という人物の元に弟子入りをし「彰晃」の名をもらい、「松本彰晃」を名乗りはじめました。
しかしながら1983年の夏、彼が28歳の時に身体を清浄なものとする考えが自身の考えと合わず、弟子を辞めてしまいます。その後、東京都渋谷区に、仙道・ヨーガ・東洋医学などを統合した能力開発の指導を行う学習塾「鳳凰慶林館」を開設し、松本彰晃はこのころから麻原彰晃と名乗り始めました。
麻原彰晃の様々なコンプレックス
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上の経歴で述べたことからもわかるように、麻原彰晃は幼少期時代から苦労しておりました。貧しいというコンプレックスもありましたし、勉強ができない・普通の学校に通わせてもらえないという学歴的な面でのコンプレックスも持っていました。
他にも、いじめられていたことがあったり、女の子に好かれないというコンプレックスも持っていました。
また、麻原彰晃自身は若い頃自分の性器が「とても小さい」と悩んでいました。しかし、「大きい性器を持ち合わせている者」は、前世での性的なカルマが根深いため解脱に至るのに苦労する。むしろ小さい者の方が有利である。と悟り、出家者たちに教えを説いていました。相当自らの性器にコンプレックスがあったのでしょう。
麻原彰晃の妻は何人?
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麻原彰晃には松本知子という正妻がいましたが、その他にもたくさんの愛人(ダーキニー)がおり、その数はなんと33人と言われています。
では、彼女たちは一体どのような人物なのでしょうか?さっそく紹介していきたいと思います。
松本知子
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まず紹介するのが正妻であった松本知子です。浪人時代に予備校で麻原彰晃と出会い、結婚しました。
麻原彰晃が毎晩性行為を行うために尊師の部屋によばれる女性は異なり、正妻である知子は毎夜尊師が愛人たちと性行為をしている部屋の前でうろうろしていたそうです。
また、松本知子は麻原彰晃が滅多に帰宅しないことなどが原因で精神不安定となってしまい、麻原彰晃に対して不満をぶつけることが多々ありましたが、麻原彰晃はほとんど抵抗をしませんでした。
三女である松本麗華の目には、松本知子が宗教を信じているようには見えていませんでした。しかし、麻原彰晃の著書の代筆を深夜まで行っていたりと、手伝っていました。
1988年10月に富士山総本部のある静岡県富士宮市へ子ども連れて移住し、大師という高い位につきました。1989年10月には正悟師というくらいに登り、1991年6月には石井久子、三女松本麗華に続いて3人目の正大師となり、教団内でも重きをなしていきました。
教団が省庁制を採用した後は、「郵政省」大臣となりました。 1995年5月16日に夫である麻原彰晃が逮捕された後も、教団の代表代行として教団の存続に励みました。しかし、同年6月に薬剤師リンチ殺人事件に関与したとして逮捕されてしまいます。
麻原彰晃と松本知子との間には4人の娘と2人の息子がいます。
石井久子
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愛人の中で最も地位が高かったとされていたのが石井久子です。
その事が原因で正妻である松本知子との間によく喧嘩が見られたとの話もあります。幼少期から文武両道でしたが両親に大学進学を認められず短大に進学しています。会社の同僚だった飯田エリ子に誘われて、麻原彰晃のヨーガ教室である「鳳凰慶林館」を訪れています。
その後「オウム神仙の会」が発足し出家制度ができると、1986年6月に保険会社を退社して出家しました。
1986年6月に保険会社を退社して出家しました。教団内での管理番号は00001で、教団の中ではかなり早い段階でトップの階級に上り詰めました。教団の広告塔としても有名で、本人も宣伝写真のモデルになりたがるなどと積極的な一面もありました。
麻原彰晃との間には子ども3人(+死産1人)を産んでいます。
飯田エリ子
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石井久子のオウム入信のきっかけになった人とも言える飯田エリ子は麻原彰晃の美人愛人のうちの1人でした。教団内では「正悟師」の地位で石井久子の「正大師」に次ぐ高い地位でした。
1984年に健康のために、オウム真理教の前進であった麻原彰晃のヨガ教室へと通い始めました。その後、オウム神仙の会(オウム真理教の前身)が発足すると入会しました。その後、石井久子を誘って出家しています。
飯田エリ子は信者を集める役割を担っていました。お布施を集める能力にも長けており、1ヶ月で2億円もの金を集めたと言われており、飯田エリ子は教団内で重要な役割を果たす人物でした。
木田裕貴子
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1995年に18歳というかなり若くしてオウム真理教へ入信しました。美人愛人のうちの1人であり、教団内での地位も若いながらに高く、大師である正悟師の地位にありました。
18歳の頃に麻原彰晃との間に娘を出産しています。
麻原彰晃の子供
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麻原彰晃の子どもは10人以上いるとされています。今回はその中でも有名な数名について紹介していきたいと思います。
松本麗華
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元オウム真理教幹部で、教団内の地位は正大師でした。麻原彰晃こと松本智津夫 元死刑囚の三女としてとても有名です。
幼いころより後継者としての教育と寵愛を受けていました。千葉県船橋市に家族とともに住み、3歳からは幼稚園にも通ってい他のですが、5歳の頃、家族とともにオウム真理教富士山総本部へ移住しています。2歳ころから石井久子や岐部哲也などに世話をされて育っていきました。
2015年3月20日には、本名で半生を振り返った手記を公開しています。この中では松本死刑囚を「大好きな父」としたことを受け止められない人や多くの批判があることは理解しているが、そうした意見を聞いて、自分自身を作り上げていきたいと語っています。本を出版した理由としては、このままでは父の真相が分からないまま葬られてしまうとの危機感があったためと、自分自身が自分の人生を生きていないという甘さがあることを知ったことなどをあげています。
また、父である麻原彰晃のイメージは、今もかけがえのない存在であり、今も温かくて包容力のあるどっしりとした父としてのイメージもあるといっています。
現在は母親で元オウム真理教幹部の松本知子と他の姉弟らとともに麻原彰晃の遺骨を要求しています。
松本聡香
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松本聡香というペンネームで知られているのは麻原彰晃の四女として知られています。
彼女は記者会見で教団との決別を宣言し、松本元死刑囚ら両親と縁切りをしています。また、自分が死亡した際に、親に自分の財産を渡さないようにしたい、と家庭裁判所に申し立てており認められています。
父母からは暴力や陶器入りのオムレツを食べさせられるなどの虐待を受けていたと告白しております。また、養育を信者に任せて、保育園や幼稚園に通わせなかったことを記者会見で述べました。
また、両親ともに殺人罪で有罪判決を受けたことで、十分な教育を受けることができなかったことも訴えています。
他にも彼女は『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか ~地下鉄サリン事件から15年目の告白~ 』という著書も出版しています。
麻原彰晃の死刑が執行された際には彼女が出したコメントが本文そのままあり、以下のようになっています。
『私の実父松本智津夫が多大な迷惑をおかけした被害者の方、ご遺族の方、信者のご家族、元信者の方、刑務官の方、そして世間の皆さまに改めて深くお詫び申し上げます。
死刑が執行されたことにより被害者の方、ご遺族の方が少しでも心安らかな日々を取り戻せることを心より祈っております。
松本死刑囚は一度の死刑では足りないほどの罪を重ねましたが、彼を知る人間の一人として今はその死を悼みたいと思います。
執行はされるべきものでしたが、ただひとつとても残念に思うのはかつての弟子であった元幹部まで6人も執行されたことです。宗教的な理由においても、責任の重さにおいても、今日の執行は教祖一人でないといけなかったと思います。
洗脳されて事件に関与してしまった元幹部の執行の是非はもっと議論され熟慮のうえでないと社会に課題を残してしまうのではないかと心配です。
まだ信仰を続けている信者には、これ以上松本死刑囚の罪を増やさないようにどうか後追いなどしないで、早く夢から覚めてほしいと願っています。』
https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201807070000959.html
麻原彰晃の子どもの今後
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麻原彰晃の子どもではありますが、子どもたちには罪がありません。少なくとも15人の子どもがいると言われていますが、麻原彰晃を敬っている方もいれば縁を切っている方もいます。
死刑囚の子どもなので様々な障がいがあるでしょう。ですが少しでも前向きに、自分の人生を歩んでいくことだと思います。
麻原彰晃の性的ハーレム生活まとめ
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麻原彰晃のついてとオウム真理教について、また麻原彰晃の性的ハーレム生活についてをご紹介してきましたがいかがだったでしょうか?
自分がしたい形に信者たちを洗脳し、生活を送っていました。普通では考えられないようなことも、崇拝する麻原彰晃のためであればむしろ喜んでやっていたそうです。
洗脳は怖いですし、こんなことはありえないと思われるかともいると思いますが、性的ハーレムの環境を羨ましがっている男性の方もいらっしゃるのかもしれません。
麻原彰晃の何が良くてこれほどまでに崇拝されていたのかはわかりませんが、彼を慕っていた女性が大勢いたことは確かですね。
ですが彼が起こした罪は大きいですし犠牲になったものもたくさんありました。死刑は執行されましたが、オウム真理教を継いでいる組織は残っています。罪のない子どもたちはまだ生きていますし、今後二度とこのような悲惨なことが起きないように、みなさんも祈っておきましょう。