哲学的ゾンビの意味とは?ドラえもんで例えてわかりやすく解説! | ToraTora[トラトラ]

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引用: Pixabay

哲学的ゾンビとは、心の哲学で使われている言葉になります。物理的化学的電気的反応としては、普通に存在する人間とまったく同じであるが、哲学的ゾンビは意識をまったく持っていない人間と定義されています。

簡単な例をあげると、「痛さ」や「悲しみ」や「喜び」といった感情を感じている自分は感情を主体的に感じていることができますが、周りからかけられる言葉の「好きです」、「ありがとう」などには実は感情がなく機械的に言っているだけかもしれないなどと想像ができてしまうということになるのです。

哲学的ゾンビの意味は?

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つまり、哲学的ゾンビとは「外面的には、普通の人間とまったく同じように行動し、振舞いながらも、内面的には機械的な反応をするだけで意識を持っていない人間」のことを指しています。

この哲学的ゾンビは物質的には普通の人間とまったく同じ存在であるのだから、脳や神経といった体の構造ももっています。なのでこの哲学的ゾンビに「赤いもの」を見せれば「赤」と脳内で赤という認識を判断し、赤という反応を示すのです。

回答として「今、私は赤いものを見ています」と話をして返答するのです。それゆえに、脳科学的には、普通の人間と区別をすることができないのです。しかし、この哲学的ゾンビは「赤」と認識しているだけで哲学的ゾンビは赤を感情として見ている訳ではないのです。

こんなことを感じたことないでしょうか、もしかして自分の友人や恋人、家族が感情をもたない哲学的ゾンビのような存在なのではないかと疑った経験が。

友人たちは、口では「親友だよ」とか「お前だけが好きだ」とか言っているが、実はそこにはなんの思いもなく、意志を感じないまま、脳という機械がただ反応として伝えているだけの哲学的ゾンビのような存在なのかもしれないと。

当然のことながら、人間だろうが、犬だろうが、草花だろうが「自分以外の他人がどんな主観的体験を持っているか」などということは、物理的に知りようがないのだから「その相手が哲学的ゾンビかどうか」なんて知りようのない無意味な疑問にしかならないのです。

哲学的ゾンビから何がわかるのか?

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もし、私たちが、一般的な物理主義の立場を取るとしたら「人間の意識や心によって、物理法則が変わることはありえない」ということになります。

簡単に言うと「放り投げた石が自分の思うままに曲がったりすることはない」という当たり前のことです。

この物理主義の側から事象をみると、今この瞬間に起きている「意識、主観的体験」というのは、「脳という物理的な機械」により判定されて発生している現象にすぎないという判断ができる。その証拠に「脳という物理的機械」の物理構造を変更してしまえば意識はその通りに影響されるのです。

例をあげると、脳をいじれば赤も黒に認識を変えてしまうことも出来るのです。

「意識、主観的体験」が脳という機械に付属する機能であり、物理法則と一切関係しないという事であればその事より、「意識、主観的体験」が脳という物理的機械の動作に影響を与えることはないということになります。しかし、そう考えると奇妙な疑問点がでてくるのです。

「意識、主観的体験」が脳に一切影響を与えないのであれば、脳は「意識、主観的体験」の有無に関係なく機械的に淡々と物理法則に従って動作する機械であるのだから、脳にとっては「意識、主観的体験」なんてなくとも問題なく、不自由なく人間の生活を送ることが出来るということになります。そうなってしまうと、「意識、主観的体験」は必要ないという結論になってしまいます。

私という意識が突然死亡してしまって、私の意識がなくなってしまっても、私の体は朝起きて、食べてと普通の生活を今までと変わらず生活が出来てしまうということになるのです。

結局のところ、私という意識は私にしか必要ない物であるのだから、大きな視点でみると哲学的ゾンビのほうが自然なありようであり、私という意識のほうが意識、主観的体験という必要のない付加機能を余計に持っている不自然な存在ということになります。

しかし、どんなに意識、主観的体験を持つことが不自然な存在でいたとしても、現実として今、私は意識を持っていて、その視点には主観的体験に基づいて世界を見ているのです。

では、何故意識という機能的に必要のない機能がそこにあるのだろうか?もし、意識や主観的体験が必要なのだから存在しているとすると、意識や主観的体験が脳という物理的機械の判断になんらかの影響を与えているということになり、物理主義の考えに矛盾し、考えを変えなくてはならない。

この哲学的ゾンビの考え方により、意識、主観的体験における哲学課題を提示されたのです。

哲学的ゾンビの語源は?【ドラえもんで解説!】

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哲学的ゾンビの思考実験として話題になったのがドラえもんのどこでもドアの存在です。

どこでもドアの機能は2点間の空間を行き来できるようになるというものですが、その機能を空間をつなげるものではなく、ドアからドアへと物質を転送している物質転送装置として見るというものになります。入り口側のドアを通過する時に物体を原子レベルでスキャンして、その読み込んだデータ通りの構造を出口側のドアで再現しているという考え方になります。

一言で言うと物体のコピー&ペーストと言えます。一瞬でスキャンして別の場所で一瞬で再現するということです。完璧にロスなくコピーされるので、入った物体と出てきた物体は同じものになります。

脳の神経組織まで完璧にコピーされるので、記憶も感情も正確もすべと同じ同一個体といえる状態です。つまり、哲学的ゾンビとして生み出されているという事になるのです。

しかし、スキャンしたからと言って、その物体が消えてなくなるわけではないのです。ただスキャンされただけなのです。と言うことはどこでもドアに飛び込んだのび太くんとどこでもドアから出てきたのび太くんは、完全に同じ個体でありながら実際はまったく別の個体だということになります。

飛び込んだ方ののび太くんが普通の人間、ドアから出てきたのび太くんが哲学的ゾンビののび太くんということになるのです。

さて、ここで一つ疑問が起きます。どこでもドアをくぐった瞬間のび太くんは本来ののび太くんと哲学的ゾンビののび太くんの2人存在するってことになるのでは?でも、実際はどこでもドアから出てきた哲学的ゾンビののび太くん一人だけです。どこでもドアをくぐった本来ののび太くんは何処へいったんでしょう?

この話からわかるようにどこでもドアをくぐった先は出口のドアではないのです。実はどこでもドアの先は、何も存在しない虚無空間になっているのです。

のび太「ドラえもん、ここは何処なの?何この暗い部屋は?どこでもドア壊れちゃったの?おーーい、ドラえもんーーー!助けてよドラえもんーー。ぎゃぁぁぁぁぁぁぁ!腕がぁぁ、足がぁぁ、うわぁぁぁぁ」

となるのです。そう、どこでもドアに入ると確実に死が待っているのです。ただし、自分のコピーをこの世に残して行きます。どこでもドアの別名は「Door to heaven」と呼ばれているのだとか。

ドラえもん「仕方がないじゃないか、22世紀の技術力では物体のコピーは簡単に出来るけど、そのまま物体を他の場所へ移動させるなんてことは出来ないんだよーー。出来るのは精々虚無空間は飛ばすことぐらんなんだ。もちろん、移動したように見せかけるために1人は消えてもらう必要があるんだ。

のび太くんがどんどん増えていったら困るでしょ。大丈夫だよ、出口のドアから出てきた方は、消される苦しみも痛みも恐怖も感じることはないんだから。みんな、何度殺されてもまたよろこんでどこでもドアに飛び込んでいくんだよ。滑稽だよね。ぐふふふふふ。」

ということになるのです。つまり、どこでもドアをくぐった時点でコピーと本体が入れ替わる。そして、入れ替わってきた方は機能としては完全に一致する哲学的ゾンビになるということになり、どこでもドアをくぐればくぐるほど哲学的ゾンビが増えていくのです。

死んでるのに死なないまさにゾンビのような存在になりますよね。

哲学的ゾンビの意味は?【ドラえもんで解説!】

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猫や犬などの動物には心はあるのだろうか?あるという物証はないが大抵の人は心を持っていると言うと思います。

人と一緒になって喜んだり悲しんだししてみせるから、そこに感情がないとは思えないです。魚やトカゲ、カエルなどはどうなんだろう?。人が感情を読み取ることができないが感情があるんじゃないかとは思われます。

じゃあ、虫は?こちらは機械っぽいプログラム通りに動くロボットのようにみえることがある。では、ロボットといえばドラえもんは?

ドラえもんは猫型ロボットで工場で生産されて生まれています。しかし、その言動は喜怒哀楽が激しく感情があるとしか思えません。感情があるとするのが普通だと思えます。そこで問題です、ドラえもんはロボットです。

はたして機械が感情を持つことがあるのでしょうか?反応としての感情を機械的に判断できるこは前述した通りです。つまり、ドラえもんは哲学的ゾンビだと言うことができるのです。

哲学的ゾンビが意味するのは対象となる物に心があるのか無いのかという点にあると言えます。

それでは、ドラえもんはロボットである以上「心」がないのでしょうか?それに対してはこんな答えがあります。「心」を持つものが「心}を感じたならそこに「心」はあるという考え方です。これが意味するのも人間の意識の問題で、証明することはできません。

しかし、のび太をはじめとするドラえもんに出てくる登場人物たちがドラえもんには心があると思っていたら、ドラえもんには心があると言えるのではないでしょうか。

哲学的ゾンビが心の在り方を意味する存在であるとするのならば、その意味するところは人それぞれの感覚にゆだねられたもので、人の心を機械的にに定義できない以上その差に意味を見出すこと自体が無意味であると言うことになります。

人の心が存在意義においての不安定性を意味するのであれば、機械的に判断する哲学的ゾンビは完全な存在であると言えます。しかし、ドラえもんは想定外の自体に慌てふためき目を回し、心を持っているように見られます。

機械的な哲学的ゾンビよりも人間に近い存在となっているのです。哲学的ゾンビと人との間に目に見えて異なる点はなく、あくまでも精神的な差異を示しているだけではないかと思います。

哲学的ゾンビは2種類いる?【ドラえもんで解説!】

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哲学的ゾンビは2種類存在し以下のように分けることができます。

・行動的ゾンビ

・神経的ゾンビ

に分けることができるのです。

哲学的ゾンビの種別のうち行動的ゾンビが意味するところは、走る、歩く、手を振るといったような外面的にみられる行動だけでは普通の人間と差を見つけることのできない存在の哲学的ゾンビだということです。

そこには解剖して体の中身を調べれば人間と哲学的ゾンビの違いがわかる可能性がある、という意味を含みます。例えばターミネータのようなSF映画に出てくるような精巧なアンドロイドがこれにあたり、機械は内面的になにも経験を持っていないという前提に立つと哲学的ゾンビ2種類のうち行動ゾンビに種別されるのです。

哲学的ゾンビの種別のうち神経的ゾンビが意味するところは、脳の神経細胞まで含む全ての物理的状態が普通の人間と区別することが出来ず、人と同じ存在の哲学的ゾンビだということになります。

先にあげたどこでもドアを通って出てきた人の完全コピー体などの哲学的ゾンビ2種類のうちの神経的ゾンビに種別されるのです。通常、哲学的ゾンビと言う場合にはこちらの外見も内面も区別することのできない神経的ゾンビを意味します。

哲学的ゾンビはその定義から、普通の人間とまったく区別ができない存在であるのです。特に神経的ゾンビの場合には頭を解剖して脳を取り出しても普通の人間と哲学的ゾンビの違いを見つけることは出来ないのです。哲学的ゾンビは外見的には、普通の人間と同じように、泣いて笑って起こります、心の意味するところについて議論したりもします。

哲学的ゾンビと普通の人間の間で唯一異なる点は、哲学的ゾンビの行動はあくまで機械的な判断に基づくものであり、そこには意識という内面的な経験を全く持たないということです。

しかし、この思考実験を研究する哲学者たちの間でも哲学的ゾンビが現実に存在すると信じてる人はいないのです。思考実験を行う上での意識の在り方を浮き彫りにするということを目的としています。

ドラえもんは中身がロボットですから中身ははっきりと機械でできているとわかります、なのでドラえもんは行動的ゾンビにあたります。

一方、転送装置としてのどこでもドアという道具によって作られた哲学的ゾンビののび太くんは転送前の本来ののび太くんと隊組織の構造もすべて同じ存在ですので神経的ゾンビということになります。

ドラえもんの世界においてはどこでもドアを沢山使っているので哲学的ゾンビだらけの世界という事になります。しかし、世界は以前と変わらない世界でそこに存在しているのです。

ゾンビと人は同じなのか?

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哲学的ゾンビという言葉が意味するところは心の在り方にあるというだと思います。

人の心は人それぞれが内面的に持っている意識という漠然とした物であり、物質的に証明することが出来るものではありません。でも、そこに心はそんざいしているのです。

哲学的ゾンビであるドラえもんに心があるのならば、精神的にはもう人と同じ存在だと考えてもいいのかもしれません。人には魂という概念が存在します。肉体という器に魂という心が入って人間がなりたっているとしたら、魂を持たない哲学的ゾンビと人は違う存在だと言えます。

しかし、哲学的ゾンビにも、心がやどるとしたらそこに差はなく、哲学的ゾンビも人も変わりなく同じ存在だと言えます。

人のクローンを同じ人間とみなすか、別の一人の人間として扱うかという問題も哲学的ゾンビに対する問と同じような事だといえます。

例え隣にいる人が哲学的ゾンビだとしても判別はつかないでしょう。哲学的ゾンビを判断できない以上、哲学的ゾンビか人かという問じたいに意味はないのかもしれません。

これからの時代において人の在り方にどんな意味を持つのか考える必要が出てきているのだということだと思います。

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