香田証生の経歴・彼女情報まとめ!イラク日本人青年殺人事件の真相は? | ToraTora[トラトラ]

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今から10年以上前の「イラク日本人青年殺害事件」をご存知でしょうか。

今日台頭が騒がれている「IS」が生まれる前の2004年10月、その名の通りイラクにおいて、イスラム過激派である「イラク・アルカイダ機構」と名乗る男2人組が、香田証生さん(24)を殺害したという事件です。当時、男たちが香田証生さんを斬首するというあまりに衝撃的な知らせに、日本中が驚き、悲しみました。

何が香田証生さんをイラクへ向かわせ、このような結果に至らしめたのでしょうか。香田証生さんを送り出した彼女や家族はどんな気持ちで彼の死を受け止めたのでしょうか。

この記事では、事件の被害者である香田証生さんの身辺についてまとめ、悲劇の真相を考察します。

イラク日本人青年殺人事件の概要!

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まず、この事件の概要を、いくつかのトピックに分けてご紹介します。

当時のイラクの情勢は複雑でしたし、香田証生さんという若い命が失われる前にも、犯人グループは殺人を犯していました。また、香田証生さんの死後にも、日本では様々な論争が起こりました。

最初に事件の全体像を述べたあと、その前後のイラク、日本の動きについてもまとめていきます。

香田証生さん拘束から殺害まで

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まずは、この事件の中心部とも言える、香田証生さんの拘束から殺害までをご紹介します。

事件の報が最初に日本に届いたのは、2004年10月27日のことでした。国際テロ組織アルカイダと関係しているというヨルダン人ザルカウィ氏の率いる武装グループが、26日に日本人を拘束したという内容をWebサイトに動画を流したのです。

要求は、48時間以内に自衛隊を撤退させない場合、人質を殺す、というもの。政府が、この男性は香田証生さんであると特定し、犯人グループとの交渉が始まりました。

香田証生さんは公開された動画の中で、当時首相だった小泉純一郎氏に呼び掛け、犯人が日本自衛隊撤退を求めている旨、それに応じない場合首をはねられる旨、そして「すみません」とうつむき、日本に帰りたい心情を苦しそうに話しました。

それに対して当時の政府は、「テロリストに屈しない」として、自衛隊撤退の要求を却下しました。ただし、単に香田証生さんを見殺しにしたわけではなく、香田証生さんは軍人ではなく善良な民間人である、ということを犯人に主張し、釈放を求めたのでした。

しかし、説得や交渉の通じる相手ではなかったこと、交渉のパイプが少なすぎたことなどから、何の進展もないまま、31日未明に香田証生さんの遺体が発見されました。

香田証生さんは、首を切断され、星条旗に巻かれた状態で見つかりました。

遺体発見場所は、バクダッド中心部のハイファ通り近くのナツメヤシ林でした。星条旗にくるまれた遺体は、首を切断されていたほか、手足が縛られ、痩せこけてひげが伸びたままの無残な姿だったと言います。

香田証生さん拘束以前の様子

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香田証生さんが犯人グループに拘束される前、香田証生さんと出会っている人物がいます。

ドキュメンタリー映画監督の四ノ宮浩さん(当時46)です。彼によれば、イラクへ行こうとする香田証生さんを懸命に引き留めたそうですが、結局通じずにバグダッド市内のカサブランカ・ホテルを紹介しました。

それ以外にも、クリフホテルのフロント係サメル・エルヒメディーさん(当時31)も、香田証生さんに出会っています。彼は香田証生さんを懸命に止めましたが、香田さんは英語で「いやだ、行く」と反論し、結局は出発していったそうです。

四ノ宮さんは後になって、力づくでも止めればよかったと悔いたということでした。

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香田証生さんが向かったイラクは、当時紛争状態が続いていました。

理由は、2003年5月2日にイラク戦争終結の生命が発表されたものの、同年3月に打倒したフセイン政権の残党や、イスラム過激派によるイラク地方のテロを、関係先進国は抑え込むことができないままになっていたからです。

日本もこの地方のテロ対策のため、自衛隊を派遣していました。ただし、直接的攻撃は行わず、物資の救援や後方守備が主な目的でした。

しかし、犯人が自衛隊撤退を求めたことからもわかるように、日本の自衛隊がどのような役割を担っているのか伝わっていなかったことが考えられます。というもの、日本の自衛隊も、米国同様にテロリストに対して積極的な攻撃を行っていた、と現地では認識されていたのです。

また、以前拘束された経験のある安田純平さん(当時31)や郡山総一郎さん(当時32)は、彼自身が拘束された時よりも危険な状態になっていると述べていたようです。危険になっている理由は、米国軍人が数多く殺害されるようになっていること、武装勢力が組織的になっていることなどを挙げています。

香田証生さんを殺害した犯人

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香田証生さんを殺害した犯人は、フセイン・ファハミ・バドル容疑者(26)です。

彼はイラク当局が起訴し、死刑を言い渡されました。彼は香田証生さん以外にも、何件も殺人を犯しており、死刑判決が出たのは、別のイラク人殺害の罪を問われてのことだったということです。

裁判では、香田証生さんを殺したと以前に自供したにもかかわらず、裁判官から殺害の有無を尋ねられると、「殺していない」と言い張ったそうです。また、自供した際には、上からの命令受けて殺したため、なぜ殺す必要があったかわからない、と言ったことを述べており、支離滅裂な様子が伺えます。

ただし、この男も自らの意思で殺害を行ったわけではなく、拒否すれば自分も殺されてしまう、という危機感もあったとのことで、自暴自棄になっていたとも言われています。

香田証生さん殺害後の世間の動き

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香田証生さんが殺害された後、世間では多くの人がイラクの平和を求めて祈りました。また、香田証生さんの行動についても賛否が問われました。

彼も「すみません」と動画の中で語ったように、「自業自得論」が最も注目されました。香田証生さんはジャーナリストでも写真家でもなく、何をしに行ったのかはっきりしないところがありました。その点を様々な個人が批判をし、一時論争となったようです。

また、香田証生さんの殺害のシーンを動画で見ることができてしまい、ショックを受けた人が大勢いました。それを揶揄してか、ビジュアルバンドのKLACKが、ライブで香田証生さんの殺害シーンの一部始終を流すということがありました。

このKLACKは、反社会的な曲を歌うことで有名で、香田証生さんの映像を使って批判を浴びた後も、「問題がなかった」などと主張して、激しいバッシングを受けました。このバンドに対して、世間からは厳しい視線が浴びせられ、殺害予告までも書き込まれるほど、バンドは世間を敵に回してしまったと言えます。

自業自得論の中でも、香田証生さんの人格まで否定するようなものや、KLACKの映像使用などに対しては、その背景にやむを得ない理由があったとしても、亡くなった人に対しての配慮に欠けた動きであった、という意見も散見されました。

香田証生さんの経歴を紹介

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ここからは、香田証生さんの経歴をご紹介します。香田証生さんはどのような人生を送り、イラクの地にたどり着いたのでしょうか。

香田証生さんは福岡県宗像市に生まれ、市立植木中学校を卒業し、東海大付属第五高に入学しました。高校時代、先生からの評価は「欠席がなくまじめ、目立つタイプでは無かったが学校行事には積極的」というものでした。

2年生終了後、香田証生さんは通信制の学校を目指したいと先生に相談し、NHK学園に入学しました。動機はプロボクサーを目指すとのことで、勉強を積んで卒業を果たしました。その後は「福岡建設専門学校」で2年間学び、約1年の就業を経て、上京したということです。

上京後はアルバイトなどをしてお金をため、バックパッカーとして旅をしていました。2004年の1月、ワーキングホリデーのためにニュージーランドに渡りましたが、10月にはイスラエルから陸路でヨルダンに向かい、10月20日にはバスでイラクに向かったということです。

友人からは、プロボクサーになると言い出だしたことがあることなどから、意外なことをしでかす、ちょっと突拍子もないところがある男だと評されていました。イラクに行ったといわれても、納得してしまうような一面もあったと言います。一方で、物静かで、人付き合いで問題をおこすようなことはほとんどなく、優しい一面があったという印象もあると言います。

彼の経歴からは、将来何かを成し遂げたいけれど、何をしたいか明確な目標はないという様子が見えてきます。何者かになろうと努力した結果が、イラクでの斬首というのは、あまりに報われません。

香田証生さんには彼女がいた?

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香田証生さんには、その当時彼女がいたという噂が出回っています。特にその情報を広げたのは、週刊文春の特集である、『香田証生さんが6歳年上の彼女に告げた「別れの言葉」』という記事であると言われています。

また、2チャンネルでは、香田証生さんと彼女のものと思われるカーセックス中の画像が流出したとのことですが、決定的な証拠はなく、ただの噂に過ぎないようです。

彼女の有無は週刊誌やネットでは恰好の話題で、香田証生さん殺害の直後はそれで盛り上がったネット上のコミュニティも見られました。しかし今日ではそれも収束しており、現在検索しても、香田証生さんの名前はほとんど実際に起こった事件の文脈でしか語られておらず、彼女についての詳しい状況には行き当たりません。

香田証生の父親のコメント

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香田証生さんの父の真澄さん(当時54)は、香田証生さんが拘束されたことを受けて、香田証生さんのイラク渡航に関する文書を、マスコミの前で読み上げています。

真澄さんによれば、香田証生さんをニュージーランドへのワーキングホリデーへと送り出したのち、7月以降連絡が途絶えていたため、イラク渡航の理由も想像することしかできないが、イラクの苦境を見て自分の将来を考えようとしたのではないかということでした。

心優しい息子であったこと、解放されたのちは平和主義者になるであろうことなど、悲痛な思いがにじみます。

香田証生さんの殺害の情報を待つ間、香田証生さんの家族(父、母、兄)は憔悴していく様子が見られたということですが、香田証生さん殺害の報を受けて、家族のだれもが話ができる状況ではなくなった様子でした。その後も寝込みがちになってしまい、明らかに家族は憔悴していったということです。

その後、香田証生さんの死についての記者会見では、父の真澄さんはメッセージを送りました。そのメッセージは、「支えいただいた方々に」と謝罪と感謝を述べ、イラクの平和を祈るもので、長さも短く、香田証生さんを失った悲しみの中で作られた文章であることが読み取れます。

また、日本に遺体となって帰国した香田証生さんの葬儀では、「息子の死を無駄にしないよう、力を合わせて生きていきたい」と述べました。こちらも家族の率直な気持ちであるというよりも、つらい中でも力を振り絞り、報道向けに用意した言葉であることが想像されます。

本来ならば、家族を失い悲しみに疲れ切っているところであるにもかかわらず、時折涙を見せながらも気丈に振る舞った香田証生さんの家族は、想像に及ばぬほど大変な思いをされたのだろうと考えられます。

イラク日本人青年殺人事件まとめ

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この記事では、イラク日本人青年殺害事件をまとめました。

亡くなった香田証生さんの人生を追う中で、イラクで死にゆく香田証生さん思い、父真澄さんをはじめとする家族の悲しみは、15年経った今でも想像を絶するものであったことがわかりました。

また、取り残された彼女も、もしも香田証生さんと本当に付き合っていたのであれば、今でもたびたび香田証生さんのことを思い出すに違いありません。優しい性格で、周囲から愛されていた香田証生さんをしのぶ友人も少なくないでしょう。

この事件をきっかけに、香田証生さんの関係者をはじめとして、多くの人がイラクの平和を願いました。しかし、15年経った現在でも、イラクでは紛争が絶えず、死者は29万人に上り、国内避難民は230万人と、いまだに苦しむ人が多い状況が続いています。

また、この事件の10年後にも湯川遥菜さん、後藤健二さんがISによって殺害され、また同様の事件が起こる可能性は大いにあると考えられます。

今後もこのような事件がないよう、イラクへの渡航は控えると同時に、平和に生きられる日本にいる以上、犠牲になった方々に祈りを捧げることが、私たちにできることなのではないでしょうか。

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