安田講堂事件の真相まとめ!死者も出た東大紛争の全貌に迫る! | ToraTora[トラトラ] – Part 2

本日は東大安田講堂事件の日 pic.twitter.com/jXjpCgKboL

— ゆるふわ怪電波☆埼玉 (@yuruhuwa_kdenpa) January 17, 2016

今から50年前、東大のキャンパス内で学生たちと警察機動隊が対峙した事件をご存知でしょうか。

1969年、東京大学のシンボルの安田講堂に400人の学生が改革を訴えて立てこもり、それを治めるため、警察機動隊が大学の要請を受けて出動しました。2日間に及ぶ攻防の結果、警察官には負傷者が、そして学生の中には多くの逮捕者が出る前代未聞の結果になったのです。

これが安田講堂事件(東大紛争)です。

校舎に突入しようとする機動隊とそれを阻止しようとする学生との間で火炎ビンやゲバ棒などの武器が飛び交い、水や催涙ガスが撒かれる壮絶な乱闘は、テレビ中継もされて社会的な大注目を集めました。現在も動画や有名な写真などが残っていて、校舎に向かって放水が行われているモノクロの映像を見たことのある方もいるのではないでしょうか。

日本の最高教育機関である東京大学で、一体なぜ学生が警察と戦う大事件が起こったのでしょう。

事件発生から半世紀、安田講堂事件の詳細をまとめました!

安田講堂事件が起きるまでの経緯まとめ!

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それでは安田講堂事件が発生するまでの経緯を見ていきましょう。

【1】1960年代は学生運動が多かった!

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ところで、学生運動はどんなものなのでしょうか。

学生運動とは学生たちが起こす主に社会的・政治的な運動のことで、今ではほとんど見かけることがなくなりましたが、過去日本で盛んに行われていた時代がありました。第二次世界大戦が終わってしばらくした1960代から1970年代です。

特に1960年代後半は、ベトナム戦争の影響で世界各国で大規模な反戦運動が起こっていました。もちろん日本も例外ではなく、社会全般に反戦ムードが広がっていました。また日米安全保障条約の効力期限を1970年に迎えており、契約更新に反対する風潮もありました。

そのため、当時の人々がベトナム戦争や日米安保条約に反対を唱えて運動を起こすことは特に珍しいことではなかったのです。

同時にこの頃は、大学の学費の大幅な値上げや授業の質の低下、大学運営の組織腐敗など、学生たちには大学に対する色々な不満が強くありました。そのため、大学組織への反体制運動も多く生まれていたのです。

通常の学生運動の活動は、自治会やサークルで討論を行ったり、ビラやポスターの作成、授業前の教室や昼休みの広場で演説するなどが日常的とされています。しかし、日常的活動を超えた盛り上がりが時に起こる場合があり、そのような際には普段は政治や運動に興味のない一般の学生も加わってデモやボイコットなどが行われていたそうです。

安田講堂事件の発生の要因には、このように学生が社会や権力に対する抗議として学生運動を行うのが自然だった時代背景が強く影響していると考えられます。

【2】東大医学部から紛争が始まった!

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安田講堂事件の発端は、1967年に東大医学部の学生たちが「インターン制度」に対して起こした抗議運動の「インターン闘争」とされています。

「インターン制度」とは、医学部の学生に大学卒業後、1年間無給で実地勤務させる制度です。これを終了していない学生は医師国家試験を受けることができませんでした。

終戦後にGHQの指導によって始まったこの制度は、もともとはアメリカの医療制度を取り入れる形で開始しましたが、実際は同じ制度とはいえない内容だったと言われています。

この制度により、医学生は卒業してから、学生でも医師でもない状態のまま実地勤務が終わるまで無給で医療行為を行なわされていました。経済的に苦しいのはもちろん、もしこの間に医療事故を起こしてしまったら無資格診療となってしまいます。タダ働きさせられたあげく、無資格診療で処罰されでもされたらたまったものではありません…。

当然、この奴隷のような制度は当然医学生たちに強い不満をもたらし続け、ついに1967年に制度反対を訴える運動が起きました。医学生たちは医師国家試験をボイコットして制度改革を訴えました。ボイコットとはある要求のために集団的に不買運動や反対運動を行うことで、この時はインターンの1年間を終えても医師国家試験を受験しないことで抗議しました。

医師不足が深刻だった当時、受験生の9割近くが試験をボイコットをしたことは政府に大きな打撃を与えました。これがインターン闘争です。

またインターン制度の他にも、戦後変わっていく現代社会の中で「高度経済成長の行先」や「大学で学ぶ意義」に疑問を感じる学生に対し、大学が明確な答えを提示できていませんでした。そのような学生生活の中で、学生たちの間に大学の存在に対する不信感が生まれていたとも言われています。

ちなみに医学生を苦しめたインターン制度は、東大紛争の翌年1968年に廃止されました。学生たちの主張が功を奏したのか、日本の将来を支える医学生を苦しめる制度がなくなったのは本当によかったと思います!

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インターン闘争の翌日に、学生と局員が衝突したことに対して17人の学生に退学を含む厳しい処分が発表されました。ところが処分の対象に実際はその場にいなかった1人が含まれていました。さらに大学側はその非を認めようとしませんでした。これがいっそう学生の怒りを煽ることになります。

学生側は抗議運動として、医学部の総合中央館と大学総長室および大学本部のある安田講堂をバリケード封鎖して占拠しました。バリケード封鎖とは、ストライキ権を確立して大学の入口などに机やワイヤーでバリケードを作って大学の教職員などが入れなくすることです。この影響により、安田講堂占拠の翌日に予定されていた卒業式は中止に追い込まれました。

新学期が始まった後もストライキは持続し、6月に入って再び安田講堂が占拠されると、当時の大学当局の大河内東大総長は警察機動隊の導入に踏み入りました。そしてこれがより多くの学生に怒りを買い、紛争を大きくさせてしまいます。

問答無用で大学内に機動隊を導入させられたことは他学部や大学院生や教職員にも強い反発を感じさせ、これをきっかけに紛争は医学部から大学全体へと広がっていきました。機動隊導入についての抗議集会が行われた際にはおよそ6000人が参加したというので、その関心の高さが伝わってきます。

7月に安田講堂はもう一度占拠されました。そして学部の垣根を超えた大学の共同体として、「東大闘争全学共闘会議(全共闘)」が結成されました。全共闘は、医学部の誤った処分の撤回や機動隊の導入についての自己批判を求めて大学当局に要求を掲げます。しかし大学側とうまく和解することができず、10月から無期限ストライキを開始します。全共闘は「東大解体」を主張して学内のバリケード封鎖を積極的に行うようになりました。

ついにその年の11月、大学トップの大河内総長と全学部長が辞任する流れとなりました。東大の総長が任期を全うする前に辞任したのは、東大の90年の歴史の中でこの時が初めてだったそうです。

安田講堂事件の概要

ガンダムの生みの親である、富野監督や安彦良和先生は、世代的にもまさに六十年代の学生運動のころに青春を生きた。東大安田講堂事件の際に、両者ともに二十一、二・・・「圧倒的な力でねじ伏せる公権力」という光景に、やはり重ねたところがあったのかもしれない。 pic.twitter.com/MrIs5PA4sO

— SOW@新刊発売中 (@sow_LIBRA11) April 16, 2018

このように、東大紛争は徐々にたくさんの学生の賛同を受けて、規模が大きくなって行きました。そして1969年1月、ついに安田講堂事件がおこります。

安田講堂事件の当日について調べました。

【1】大学が警察機動隊を要請した!

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大学総長は交代しましたが、学生側の講堂占拠とバリケード封鎖は継続しました。1968年は東大だけではなく、30を超える大学がバリケード封鎖したまま年越しをしたそうです。つまりそれだけ全国の大学にこの紛争が広まっていたのです。

新総長の加藤教授は、事態終息のため学生との和解を試みますがうまく行かず、最終的に自分たちの力では学生との和解は不可能と判断します。そしてここでまた、大学側から警視庁にバリケード封鎖の撤去を目的とした機動隊の出動を正式に要請しました。

大学側では学生と和解するために「一度、学生の次元に立ち戻ってみるべきではないか」という声もあったそうです。しかし最終的には、大学の秩序回復を急ぎ、同年の入試を実現するために機動隊を使って早期問題解決を図るという結論に達することになったようです。

そして警視庁警察本部は大学の要請を受け、8個機動隊を動員して東大校内のバリケード撤去と立てこもる学生の制圧に備えました。

【2】学生と機動隊の戦い:1日目

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1969年1月18日朝、東京大学に警視庁の機動隊がやって来ました。機動隊は8500人いたとされ、対する学生はたった400人。人数の差は明らかで、午後までもてば上出来で勝利だと言われるような状況と見られていたそうです。

以下は当日の様子です。

警視庁は学生との対決を前に、多重無線指揮車、放水車など346台を東大前に集結させ、催涙ガス銃500丁、装薬包5914発、催涙ガス弾10528発(パウダー弾8732発、スモーク弾1796発)を用意した。気温は零度。晴れてはいたが、凍(い)てつくような寒い朝であった。マスコミのヘリコプターが上空を何機も飛び回った。

https://www.cool-susan.com/2015/10/24/東大紛争/

用意された武器の詳細を見るとその本格的なレベルに恐ろしさを感じます…。そしてマスコミの注目度もただごとではない様子です。日本の学生が当時者になった事件とは思えない規模です。しかしそれだけの激しく危険な戦いになることを警察側も予見しての出動だったのでしょう。

そしてついに東大バリケード封鎖の撤去が開始されました。機動隊はバリケードが薄い建物から次々に撤去を進めていきました。それを阻止しようと、立てこもっている学生たちは窓やベランダから、石や机や椅子、火炎瓶などを投げつけました。対して機動隊は、放水車から放水を行い、催涙ガスを撃ち込み、ヘリコプターから催涙液を撒いたと言います。学生たちのいた建物内は催涙ガスと炎と煙でひどい様子だったそうです。

しかし抵抗もむなしく、解体が進むにつれて学生たちはどんどん逮捕されていきました。午後1時に、ようやく機動隊は安田講堂の本格的な撤去を開始しました。しかしここでもさらに、学生たちの強い抵抗に合うことになります。

強固なバリケード解除への苦戦はもちろんですが、屋内にいる学生や過激派たちから石や火炎瓶が雨のように投げ落とされて、講堂前は火の海のようだったと当時を知る人の証言があります。さらにバリケードも強固で、正門から機動隊が突入すると机や椅子が積み上げられていて、その隙間から学生たちが棒を突き出して抵抗してきたそうです。

正月早々、日本の警察機動隊と日本の学生が真っ向からぶつかり合う前例のない戦いに、放送していたテレビの視聴率は44.6%という驚きの数字に達したとのことです。この数字は日本中のおよそ2人に1人が放送を見ていたことになります。

結局この日は安田講堂の封鎖解除が出来ず、午後6時前に警察本部は作業中止を命令しました。封鎖解除は翌日に持ち越されます。

【3】学生と機動隊の戦い:2日目

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真冬の1月の寒さの中、立てこもった学生たちは寒さに耐えて一夜を講堂内で過ごしました。あまりの寒さに、学内の資料を燃やして暖をとった学生もいたとのことです。

翌日1月19日も、早朝6時30分から機動隊の安田講堂に対する封鎖解除は始まりました。

前日と同じように機動隊は学生たちの強い抵抗に苦戦しますが、徐々にバリケードは破られていきました。安田講堂のバリケードが突破された伝達が講堂内に届くと、東大全共闘の行動隊長は学生たちに無理に抵抗せずにホールに集まることを指示したと言われています。

残っていた大半のメンバーはホールの客席に集まってお互いの肩を組み、革命歌の「インターナショナル」を大合唱し続けたそうです。

午後15時50分に機動隊員が突入したことにより、安田講堂は陥落への道を辿ります。機動隊は一階ずつ制圧を進めていき、午後5時46分、屋上で最後まで抵抗していた学生たち90人を逮捕しました。これによって東京大学安田講堂のバリケード封鎖解除は完了とされました。

安田講堂事件の終焉

安田講堂陥落前の放送

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安田講堂が陥落する直前に、安田講堂防衛隊長である東大医学部の今井 澄(いまい・きよし)さんが安田講堂の時計台からこのような放送を流しました。

「我々の闘いは勝利だった。全国の学生、市民、労働者の皆さん、我々の闘いは決して終わったのではなく、我々に代わって闘う同志の諸君が、再び解放講堂から時計台放送を行う日まで、 この放送を中止します」
東大全学学生解放戦線 1969年1月19日午後5時50分

これは時計台放送と呼ばれています。

時計台には学生の手によって赤旗が掲げられていましたが、最後の学生を機動隊が確保した後に赤旗は機動隊によって日本国旗に替えられました。ついに安田講堂は陥落となります。

安田講堂事件はここで終わり、その後学生運動は鎮火していきます。しかしこの1969年頃は東大の他にも、京都大学や北海道大学、そのほかに東北大学、静岡大学、信州大学、金沢大学、名古屋大学、大阪大学、岡山大学、広島大学、九州大学、早稲田大学、慶應義塾大学などなど、日本の大学の8割に該当する165校が闘争状態にあるか全学バリケード封鎖をしたのだそうです。

日本全国に広がっていた学生闘争の総本山が東大安田講堂だったのです。

東大入試が中止になった!

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結局、警察力の介入により前代未聞の学生運動事件は終焉したように思えました。

しかし事件の影響は大きく、政府は東京大学はその年の入試は実施できないと判断し、大学側の希望を退けて1969年の東大入試は中止となりました。これは「東大入試中止事件」と呼ばれています。

大学側としては新しい学生を迎えなければ大学の存続が危なくなるため、入試実施のために紛争を終焉させたい希望もあって機動隊導入に踏み切ったという説があります。ですが結局、文部省幹部に「政府与党からの反対が強いため、入試の実施は絶望的」と押し切られて希望は実現しなかったのです。

これによって、東大を目指していた学生は仕方なく志望校の変更や浪人することを余儀なくされました。東大を目指して1年の間必死に受験勉強してきた人たちにとってはとても悔しい出来事だったと思います…。

この事件をきっかけとして、後日入試制度改革が行われました。1971年から5教科の前期試験、通過者に4教科の二次試験という内容になり、現在のセンター試験のある入試とほぼ変わらないものになったそうです。

作家・三島由紀夫も安田講堂にやって来た!

安田講堂の陥落後は、紛争は急速に落ち着いていきました。

しかしまだ若干のほとぼりを見せていたその年の5月、代表作「金閣寺」「潮騒」などが世界的に有名な作家・三島由紀夫が東大安田講堂に現れました。5月12日から「東大焚祭」が開催されていて、全共闘が三島由紀夫を招いたのです。

三島由紀夫は、東大教養学部の会場でおよそ1000人もの学生たちと約2時間半に渡って討論会を行いました。これは「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争」と言われ、「伝説の討論会」と語り継がれる貴重なものとされています。

その年には討論会の内容が「討論 三島由紀夫vs.東大全共闘ー美と共同体と東大闘争」という一冊の本として出版され、ベストセラーになったそうです。

三島由紀夫と全共闘は対立していると見られていましたが、14のテーマにわたって真摯に意見をぶつけ合い、会場からは拍手が、三島由紀夫は「他のものは一切信じないとしても、諸君の情熱は信じます」という言葉を残したそうです。

安田講堂事件の当事者たちのその後は?

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事件に関わった学生たちはその後どうなったのでしょうか?

紛争の際は権利を訴える学生側だった人も、その後大学卒業後は就職して体制側に回った人たちも珍しくないそうです。紛争が大きくなりすぎ、ファッション感覚で行っていた学生もいたためかもしれません。

そんな中、東大全共闘議長の山本 義隆(やまもと・よしたか)さんは、ノーベル物理学賞をとった湯川秀樹教授の研究室にいたこともある有能な物理学研究生でしたが、学生運動の後は東大大学院を中退し、その後は日本を代表する評論家、科学史家、自然哲学者として活躍しています。

予備校の講師でもあり、アカデミックでハイレベルな講義や難解な物理学をわかりやすい言葉を使って解説する長年生徒たちに人気の講師だそうです。

山本さんは学生時代、その秀才ぶりは東大内でも特に一目置かれていた存在だったようで、こんな証言もあります。

「あいつはとにかくとてつもなくできる男なんだということで、山本にはみんな一目置いていました。このままいけば、東大の理論物理をしょって立つ男なんだろうなということは、僕たちだけでなく教授たちも同じ認識だったと思います。それが闘争に飛び込んでくるとなれば、これは将来を捨てることになる。これが大きな衝撃でねえ。山本が出てきたというので、『これは職業的革命家が指導する学生運動じゃないんだ』ということになってきたわけです」

http://zenkyoto68.tripod.com/todaiz00.htm

きっとものすごいカリスマ性があっただろうことが感じられます。なお、安田講堂事件について長年マスコミからの取材には一切答えてこなかったそうですが、2015年に沈黙をやぶって「私の1960年代」という本を出版しています。

その中で当時のことにも触れ、日本の科学技術について国家と大学との歴史と在り方を論じて高評価を受けています。

時計台放送を行った安田講堂防衛隊長の今井澄さんは、放送後に逮捕されて東京拘置所に1年間勾留されました。その後復学して1970年に無事卒業、そして医師国家試験にも合格しました。

卒業後は長野県の病院に勤務しますが、勤務中に刑が確定したため刑務所に入ることになります。勤めていた病院職員、市長、市会議員に見送られながら刑務所に入ったそうです。

周りに愛されていた出所後は病院院長になり、その後政治家に転向しますが、胃がんのため2002年に62歳でこの世を去りました。なお、今井さんが院長をしていた諏訪中央病院のロッカーには東大全共闘の古いヘルメットが保管されていたそうです。安田講堂事件が終わり学生運動が終わった後も、ずっと当時の思いを大切にしていたのかもしれません。

他にも、慶応大学の学生で安田講堂事件に参加した鈴木 正文(すずき・まさふみ)さんは、逮捕され大学中退した後に出版社に入り編集者になりました。いくつかの雑誌を経て、「GQ Japan」(コンデナスト・ジャパン)の編集長になっています。現在70歳ですが個性的なファッションや髪型で今もInstagramで人気を博しています。

2010年から2011年にわたって内閣官房長官だった仙谷 由人(せんごく・よしと)さんも東大紛争に参加していました。ただ安田講堂の中に立てこもってはおらず、逮捕された学生の救援活動を行う係として弁護士の手配やお弁当の差し入れなどをしていたそうです。そんな担当もあったとはちょっと意外です。

安田講堂事件で機動隊の総指揮を担当した佐々淳行(さっさ・あつゆき)さんは、この事件の後はあさま山荘事件やひめゆりの塔事件などの警備実施を指揮しました。

初代内閣安全保障室長にもなった著名な方で、退官後は天下りや政界入りの声もかかったそうです。しかしそれを辞退して個人事務所を設立し、フリーで活動を続けました。安田講堂事件のことはレビューも高評価な「東大落城 安田講堂攻防七十二時間」という本にくわしく書かれているそうです。また、日本に「危機管理」という言葉を広めた方でもあると言われています。

しかし昨年2018年に老衰のため87歳で亡くなりました。仕事には厳しくもあったようですが、それは祖国である日本を常に中立の立場から守るという信念の元からの行動と見られています。

このように、安田講堂事件にはその後大物になった方たちがたくさんいたのです。

安田講堂事件では死亡者も!被害状況まとめ!

安田講堂事件で死亡者が出た?

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安田講堂事件の被害者ですが、機動隊は710名の負傷者、学生らは47名の負傷者とされています。機動隊の中には重傷者も31人いました。

機動隊の数の多さに対して学生の負傷者が圧倒的に少ないのは、機動隊が学生をなるべく負傷させずに検挙数を増やすことを優先した結果だそうです。また、勝ち目がない段階になると学生は抵抗を止めて手を挙げたため、負傷を免れた学生が多かったからという声もあります。

安田講堂事件での死亡者は出ていないようです。ですが、学生運動で亡くなった東大生はいました。安保闘争で死亡した樺 美智子(かんば・みちこ)さんです。樺さんは社会学者の父親を持つ学生運動家でした。日米安保条約に反対するデモ活動が行われ、1960年6月15日に警官隊と衝突して亡くなったそうです。まだ22歳という若さの早すぎる死でした。

また機動隊側にも亡くなった方がいます。1968年の9月4日、日本大学で起きていた紛争でバリケード封鎖解除に出動していた機動隊員の1人が、学生が校舎4階から落としコンクリート片を頭部に受けて殉職しました。

紛争や闘争が多い時期でしたが、使命のために全力で戦ったお2人が命を落とす悲しい結果を生んでしまいました。

このようなこともあって、学生側には警察への恨み、警察側には暴徒化する学生をどうにかしなければという思いが強まった側面もあるのかもしれません。

逮捕者はどれくらいいた?

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逮捕者については様々な説があります。

警察側の記録によれば、19日の安田講堂で検挙されたのは633人の学生で、そのうち東大生はわすが38人とされています。しかしこれには異論があり、65人が起訴され80人以上が逮捕、法学部だけでも20人が捕まったとも言われています。また逮捕者の中には、政財界の大物の子弟や警察幹部の親族も含まれていたなどという話もあります。

安田講堂事件以外の東大紛争全体で見ると、逮捕者は767人、そのうち616人が起訴されました。一審判決では133人に実刑判決が下り、400人以上が執行猶予付きの有罪判決となります。無罪判決は12人だったそうです。

諸説あるものの、学生が主体となって起こした運動でこれだけたくさんの逮捕者が出た事件は他にないのではないでしょうか。

その他の被害は?

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事件直後の東大の各建物内はひどい荒れ方だったようです。

総長室や教授室はめちゃくちゃに破壊され、書庫に保管されていた貴重な文献や記録資料も台無しになり、長年の研修結果が水の泡になる被害もあったのだそうです。紛争の最中で仕方がなかった部分もあるのかもしれませんが、今のようにデータで保管されている時代でもないので、研究者たちは研究の努力が一瞬で消えてショックだったことと思います…。

バリケードの封鎖に徹した機動隊による被害もありますが、学生側が暖を取るために資料を燃やしたり、バリケードの強化のために古い原書を使用していたようなので、警察だけが一歩的に破壊したわけれはなさそうです。

また、学生側は学問と権威の象徴である東京大学を文字通り破壊しようとしていたのではという見方もあります。

安田講堂のその後は?

安田講堂は現在どうなっている?

buntaさん(@63bunta)がシェアした投稿 – 2019年 8月月17日午前6時49分PDT

1925年に建設された安田講堂は、事件後は荒廃した状態のまま長期間に渡って閉鎖されていました。

しかし、元々安田講堂の建設に寄付していた安田善次郎さんの関係企業からの寄付もあって、1988年から1994年にかけて改修工事が行われました。1989年にいったん工事完了した際は、杮落としにイギリスの理論物理学者であるスティーヴン・ホーキングさんが来日して講演をしたようです。

1991年から改修後の安田講堂は使用されるようになり、卒業式や公開講座も行われるようになりました。講堂前の広場には中庭が造られ、地下には食堂が設置されました。ですが、事件前のように集会を開いたり練り歩いたりはできないようになっているそうです。

安田講堂は1996年に国の登録有形文化財に登録されています。

講堂内に書かれた落書き

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引用: Pixabay

事件直後の安田講堂内には、機動隊との衝突によってできた投石の痕や落書きなどが残っていたそうです。

有名なのはこちらの落書きです。

「連帯を求めて孤立を恐れず

 力及ばずして仆(たお)れることを辞さないが

 力を尽くさずして挫(くじ)けることを拒否する」

これは全共闘のスローガンだったと言われています。「連帯を求めて孤立を恐れず」という部分はもともとは詩人の谷川功さんの言葉で、個人の自立や主体性を重視して既成の組織による統制を乗り越えようという意味合いが含まれているそうです。

他にも

「君もまた覚えておけ

藁のようにではなく

震えながら死ぬのだ

一月はこんなにも寒いが

唯一の無関心で通過を企てるものを

俺が許しておくものか」

や、

「彼女へ

僕は最後まで日和らなかった

君がこの世にいる限り未練はあるが

革命のために命をささげる」

といった恋人にあてたもの、その他にも宗田理さん著作の「僕らの七日間戦争」にも引用された

「我々は玉砕の道を選んだのではない。我々のあとに必ず我々以上の勇気ある若者が、解放区において、全日本全世界で怒涛の進撃を開始するだろうことを固く信じているからこそ、この道を選んだのだ。」

など、立てこもった学生たちによる落書きが安田講堂内には多く残っていたそうです。

安田講堂事件まとめ!

安田講堂事件
機動隊に劇薬を投げる学生 pic.twitter.com/ks0PaqYah2

— 直かつ警ら❤023 (@tokukei0345) December 17, 2016

学生運動の天王山と言われる安田講堂事件はいかがだったでしょうか。日本の最高学府である東大で、このような大事件がたった数十年前に起こっていたとは本当に驚きです!

最初は一部の学生の訴えから始まった闘争でしたが、大学側が権力で押えこもうとしたことが全国規模で学生の共感を呼んだことがその後を変えていきました。闘争の火種が大きくなっていくとともに過激派も加わって、暴力的な側面が強まっていったのです。そこには権利を訴えた学生、事態を早めに収拾したい大学、強制排除しなきゃいけない機動隊のそれぞれの戦いがあったのだと思います。

安田講堂事件から50年たって、当時戦った元学生たちは現在70代になっています。既に他界した方も何人もいます。安田講堂事件は残された資料や証拠が少ないのだそうです。当時の記憶や感覚を残しておきたい、誤って報道された情報についてちゃんとした事実を伝えたいなどの気持ちから最近になって当事を知っている方たちが本を出版することも多いようです。

暴力は決して良いことではありませんが、非正規雇用の多さや年金を払っても将来もらえないだろう現代、本当だったらしわ寄せをくらってる若者が改革を訴えることは普通にあっておかしくない気もします。

当時の学生たちが一生懸命主張したことが無駄にならないような社会を、これからつくっていかないとといけないのかもしれません。