後藤健二の殺害までの経緯まとめ!湯川遥菜との関係は?【閲覧注意】 | ToraTora[トラトラ] – Part 2

アニキさん(@takao_aniki)がシェアした投稿 – 2015年 1月月31日午後2時43分PST

2014~2015年に起こってしまったISIL日本人拘束事件

シリアに渡った2人の日本人がイスラム国の過激派組織ISILによって拘束、そして殺害までされてしまった事件でしたが…読者の皆さんの中にもまだ記憶に残っているという方は多いのではないでしょうか?

その犠牲者の2人のうちの1人が後藤健二さんでした。

当時ISILからは拘束した後藤健二さん、そしてもう1人の日本人である湯川遥菜さんをカメラの前にひざまずかせながら要求を話す動画が届き、それが連日ニュース番組などでも流されていて、視聴者の人々にもかなりの衝撃を与えていました。さらには2人が殺害された様子を写した動画なども公開され……これも本当に恐ろしいものだったんですよね。

今回この記事ではそんな悲惨な事件の被害者となった後藤健二さんに注目し、また事件についても改めて目を向けてみたいと思います。

後藤健二さんとは一体どんな人物だったのか。どうして湯川遥菜さんと共に拘束されることになってしまったのか。そしてどうして殺害されることになってしまったのか…日本政府は助けることはできなかったのか?

後藤健二さん、そしてISIL日本人拘束事件の真相について深く追及をしていきたいと思いますよ。

ですので当時詳しい情報を得られなかったという方や、改めて事件についてもう1度振り返りたいという方もぜひじっくりと読んで、その真相を知るようにしてみてください。そして事件の全てを知った上で後藤健二さん、そして湯川遥菜さんのご冥福をもう1度お祈りすることにしましょう。

後藤健二さんの経歴は?

DRichさん(@darrelrich)がシェアした投稿 – 2015年 2月月3日午前8時47分PST

それではまずは後藤健二さんがどんな人物だったのかというところから見ていきましょう。

ISIL日本人拘束事件に巻き込まれる前、後藤健二さんは一体どんな人生を歩んでいたのか?その経歴を見ながら、後藤健二さんの人物像についても追及していきたいと思いますよ。

こういった情報についてはニュース番組などでは知ることができなかったという人も多いかもしれませんからね。事件について見ていく前に、ぜひここを読んで後藤健二さんについて詳しく知るようにしてみてくださいね。

【01】後藤健二さんは何をしていた人?

question-mark-background-1909040__480-e1564966375475-9127428

引用: Pixabay

後藤健二さんはフリーのジャーナリストをしている方でした。

ジャーナリストになって間もない頃は国内での活動をしていたのですが、段々と海外での取材などもする機会も増えていき、そのうちアフリカや中東など紛争地帯の取材を中心に活動するようになっていったんです。

中でも特に後藤健二さんが尽力していたのは、紛争地帯の子供達についての取材でした。何度も海外に足を運び紛争地帯の子供達に密着・取材をし、その子供達の苦難を世に伝えようとキャリアを費やしてきたのです。ですので相当な人道主義者という風にも言われていました。

2006年には紛争地域の子供達について書いた「ダイヤモンドより平和がほしい」という本も出版し、第53回産経児童出版文化省フジテレビ賞も受賞していました。また2011年に東日本大震災が起こった際は被災地の石巻市や気仙沼市に赴き日本ユニセフ協会の記録員を務めたりと、国内においても人道的な活動をされていたんですよ。

【02】後藤健二さんの幼少期~学生時代

boy-1822565__480-e1563714088487-9054092

引用: Pixabay

そんな後藤健二さんは1967年9月22日、宮城県仙台市で生まれました。父親が転勤の多い仕事だったため2歳で名古屋、5歳で東京と度々引っ越しもしましたが、それ以降はずっと東京で育つこととなります。

後藤健二さんは小さい頃から優秀な子だったようで、世田谷区の公立小・中学校を卒業後は法政大学第二高等学校へと進学も果たします。そして大学もそのまま法政大学へと進み、社会学部応用経済学科(現・社会政策科学科)へ入学。在学中にはなんとアメリカのコロンビア大学にも語学留学を果たすのです。

ちなみにコロンビア大学在学中に湾岸戦争が勃発するのですが、この頃後藤健二さんはイスラエルに渡航し現地の大学生に話を聞きに行ったりもしているんです。そしてこの経験がジャーナリストという仕事に興味を抱くキッカケになったのではないかとも言われているんですね。

Array

university-2119707__340-2128747

引用: Pixabay

そうして大学でも積極的に様々な活動を見せていた後藤健二さんは、大学卒業後日立物流という会社に就職するのですが、この会社はわずか3ヵ月で退社をしてしまいます。

しかしその後はすぐ東京放送系のテレビ番組制作会社で働くようにもなり、その後1996年にはなんと自身でインデペンデント・プレスという映像通信会社も設立してしまうのです。やはりかなり優秀な人物ではあったようですね。当初は仕事が少なく、兄が経営していた塾でアルバイトもしていたとのことですが。

さらに後藤健二さんはこの頃からジャーナリストとしての活動も始めるようになってきます。先程もお話したとおり、最初は国内での活動を中心に行っていて、余裕がある時は講師などの仕事もしていたようです。

そしてそんな生活を続けていき、ジャーナリストとして数年下積みをした後…後藤健二さんは海外での取材もするようになっていき、それが成功して自信をつけるようになっていくと、国内よりも海外での取材をメインに行っていくようになっていったのです。

それもアフリカや中東の紛争地帯での取材に興味を持つようになり、そうした取材に積極的に携わっていくようになるんですね。

そしてお話したように、後藤健二さんは段々と紛争地帯の子供達に興味を抱くようになり、実際に紛争地帯の子供達に密着・取材をするように…そのために何度も海外に足を運ぶようにもなるのです。

そうして海外、主に紛争地帯での活動を中心に行うようになっていき、ジャーナリストとしてのキャリアを積んでいったというわけなんですね。

後藤健二さんのシリア入国中のトラブル

package-2366468__340-9396681

引用: Pixabay

そうして何度も紛争地帯へ足を運んで取材をし、ジャーナリストとしてのキャリアと自信を積んできた後藤健二さん。しかし…2014年にはシリアで様々なトラブルに見舞われるようになり、

そしてこれまでのキャリアや自信が敵わない、あの事件へとついに巻き込まれることとなってしまうのです……

【01】最初のトラブルは湯川遥菜さんの救出

Mathy’sさん(@mathyshop)がシェアした投稿 – 2015年 2月月2日午前7時43分PST

後藤健二さんがシリアで最初に見舞われたトラブルは、拘束された湯川遥菜さんの救出でした。

2014年4月、単身で初めてシリアを訪れた湯川遥菜さんが北部の自由シリア軍拠点で拘束をされてしまったんですが…その時自由シリア軍に通訳を頼まれたのがたまたまシリアに入国していた後藤健二さんで、仲介に入り湯川遥菜さんを解放するよう自由シリア軍を説得することとなったんです。

幸いこの時は最悪の事態になることはなく、自由シリア軍が説得を聞き入れてくれたため、湯川遥菜さんも無事に解放されました。

ちなみにこの時後藤健二さんは湯川遥菜さんに行動に注意をするようにと強く注意もしたそうです。そしてこのトラブルをきっかけに2人は親しくなり、今後も交流を続けていくこととなったんですね。

【02】しかし湯川遥菜さんがまた拘束

Array

rope-1149730__340-1616352

引用: Pixabay

しかし、その4ヵ月後…シリアに入国した湯川遥菜さんは懲りることなくまたトラブルを起こしてしまうのです。それも次はとても深刻な……

その頃湯川遥菜さんは助手と称して後藤健二さんのイラク入国に同行していたのですが、先に帰国した後藤健二さんと別れた後、反対されたにも関わらずシリア行きを決意してしまい、本当にシリアへと入国をしてしまったのです。

そしてあろうことか反政府勢力とISILの戦闘に同行。その際にISILへと拘束されてしまったのです。

その後在シリア大使館から連絡が来たことと、ISILがTwitterアカウントで動画を公開したことで、湯川遥菜さんがISILに拘束されたという情報が日本政府にも届くこととなりました。そして後藤健二さんもその情報を知ることに…

後藤健二さんはなんとか助け出すことができないかと、ここから動き出すようになっていくのです。

【03】再び湯川遥菜さんのためにシリアへ入国

old-2238062__480-e1563512333924-8585241

引用: Pixabay

そうして湯川遥菜さんを助け出そうと動き出していた後藤健二さんは、2014年10月22日、ついに日本を出国し自らシリアへと向かって行ったのです。

ちなみに後藤健二さんのシリア渡航計画を知っていた日本政府は3回も連絡をとり、危険だから中止するようにと打診をしたそうです。しかし後藤健二さんの決意は固く…結局シリアへ向け出発をしてしまったんですね。

そして10月24日にシリアに入国をした後藤健二さんは翌日25日にISILの支配地域であるラッカへと向かいました。やはり相当の覚悟があったのか、ラッカに行く前は潜入の目的や自身の思いを語ったビデオメッセージも残していったのです。「何が起こっても私の責任」「必ず生きて戻りますけどね」という風に語って……

しかし残念ながら…ラッカ潜入後、結局後藤健二さんもすぐに消息を絶ってしまい、そのまま行方が分からなくなってしまったのです。当初後藤健二さんは10月29日には帰国すると語っていたのですが、当然その日になっても戻ってくることはありませんでした。

そして10月末、後藤健二さんの奥さんがついに外務省に相談。日本政府もすぐに後藤健二さんの行方を捜すため動き出したのですが……結局行方は分からずじまいとなってしまったんですね。

後藤健二さんがISIL(イスラム国)に拘束される

そうしてISILの支配地域で消息を絶ち、行方不明となってしまった後藤健二さんでしたが……約1ヵ月後、ついにその行方が分かることに。

奥さんや日本政府の不安は的中し…ISILに拘束されているということが分かったのです。

それが分かったのは行方不明になってから約1ヵ月後、12月にISIL関係者から奥さんの元へメールが届いたからでした。

ISIL関係者から人質を拘束している。身代金を用意しろ。という内容のメールが届いたため、後藤健二さんが最初に捕まった湯川遥菜さんと共に拘束されているということが発覚するようになったのです。

もちろん奥さんはこのこともすぐに日本政府に報告しました。そしてこれ以降日本政府はすぐに2人の解放に向け動き出すこととなったんですね。

イスラム国とは?

seaside-1149687__480-e1563366843892-3195811

引用: Pixabay

ちなみにイスラム国とは、イスラム教スンニ派の過激派組織の名称になります。中東を拠点にテロ活動を繰り広げている組織のことで、ISILもこの組織をさす呼称のひとつとなっているのです。

この組織はイラクとシリアにまたがる広大な地域を支配していて、主にそこを中心に様々なテロ活動などを行っているんです。

そして後藤健二さんと湯川遥菜さんもこのISIL(イスラム国)が支配している危険な地域に足を踏み入れてしまったため、拘束されることとなってしまったのです。

後藤健二さんの拘束後

後藤健二さん、そして湯川遥菜さんを拘束後、ISILはしばらく後藤健二さんの奥さんとメールのやり取りを続け、身代金などの要求をしていたのですが

2015年1月20日以降は様々な動画を公開し、その中から日本政府に向けて直接要求をしてくるようになりました。

その動画や要求の内容、事件の展開などをここから順に説明していきたいと思います。

【01】2015年1月20日に公開された動画

2015年1月20日、ISILはまずこの動画を公開してきました。

ひざまずいている2人は後藤健二さんと湯川遥菜さん。その後ろに立っている覆面姿の男が通称ジハーディ・ジョンというISILのメンバーの1人です。

この動画でISILは2人を拘束しているという証拠をハッキリと見せつけ、そして「72時間に身代金を支払わなければこの2人の人質を殺害する」と要求してきたのです。

ちなみにこの時要求された身代金は2億ドル。日本円に直すと約230億というかなりの大金でした。

【02】次の動画は悲惨なものに

background-1759447__480-e1563004524263-4129838

引用: Pixabay

こうしてISILは2人の姿を見せつけ、「身代金を払わなければ2人を殺害する」と宣言もし、日本政府を脅してきたわけですが……驚きだったのはこの後の日本政府の対応でした。なんとここまでハッキリと脅されているというのに、身代金の要求を拒否してしまったのです。

ちなみにこの時、自民党の高村副総裁が発言をしていたのですが、「イスラム国というテロ集団の要求に応じて、人道支援を取りやめ、身代金を支払うのは論外であります」と話していました。

しかしその日本政府の強気な態度はまったく良い方向に進まず、ただただISILを逆上させることに…そして恐れていた事態が現実になってしまうことに……

この日本政府の対応のせいで、なんと湯川遥菜さんが殺害されてしまったのです。

ISILは殺害についても静止動画を送って知らせてきました。「湯川遥菜を殺害した」というメッセージと共に後藤健二さんの姿が写っていたのですが…その後藤健二さんの手には湯川遥菜さんと思われる遺体の写真が持たされていたのです。

しかもその写真は遺体の上に湯川遥菜さんと思われる首が乗っているというなんとも衝撃的なものでした。

こうして事件は最悪な展開へと進むことになってしまったんですね。

【03】ISILが別の要求をしてくることに

knife-316655__480-e1563004587620-8633315

引用: Pixabay

そうして湯川遥菜さんが殺害されたことで日本政府は打ちひしがれより恐怖を感じるようになったわけですが…ISILは一切手を緩めることなく、殺害を知らせる動画の中でまた新たな要求を出してきたのです。

それはヨルダン政府に拘束されていたサジダ・リシャウィという女性死刑囚の釈放でした。

サジダ死刑囚は過激派組織アルカイダの幹部の妻であり、ヨルダンで起きた連続爆弾テロ事件に関わった罪で捕まっていた人物だったのですが、ISILはこのサジダ死刑囚を釈放すれば人質のことも解放するという風に要求してきたのです。

もしかしたらISILの目的は最初からこれだったのかもしれません。実際この要求については必死に求めている様子でしたし、1月27日には静止動画を再び公開し催促をかけてくるような様子も見られたからです。

ちなみにその動画には後藤健二さんの写真と音声が付けられていて、「私には残り24時間しかない」と語られているものになっていました。こうした動画を公開することによってISILは日本政府に恐怖を与え、サジダ死刑囚を必ず釈放をさせるよう確実に動かせようとしてきたわけなんですね。

ISILに拘束された後藤健二さん救出のための日本政府の対応

chess-2730034__480-e1564234051548-5863921

引用: Pixabay

こうして様々な動画によってISILによって恐怖を植え付けられ、そして湯川遥菜さんを殺害されてしまうという最悪な事態を起こすこととなってしまった日本政府なわけですが、

湯川遥菜さんの時と同じようなことは起こさない・必ず後藤健二さんを助け出すという風に気持ちが強まったため、後藤健二さん救出に向けてより力を入れてかつ慎重に動くようになります。

今回はISILの要求を飲むつもりで、サジダ死刑囚の釈放に向けて動き出したわけです。実際ヨルダン政府に交渉するなどといった動きも見せるようになったんです。

ただ……結局日本政府にできることはそこまででした。サジダ死刑囚が捕まっているのは結局ヨルダンなわけで、いざ釈放のために動くのもヨルダンだったわけですから。日本政府はあとはもうただただヨルダンに協力をお願いするしかなく、実際自分達が釈放に向けて積極的に動くことはできなくなってしまったわけです。

なので最終的にはヨルダンに全てを委ね、自分達は行方を見守るということしかできなくなってしまったんですね。要は、ヨルダンに全て丸投げし、自分達はそこまで動かなくなってしまったということです。

しかしヨルダンも自国のことではないわけですし、色々事情なども出てきてしまい、その後サジダ死刑囚の釈放をなかなかすんなりとはしなくなってしまうのです。そのため結局死刑囚の釈放・後藤健二さんの解放はなかなか事が進まず停滞してしまうことに……

そしてその様子に耐え切れなくなったISILはついに逆上。事件は日本政府が恐れていた、更なる最悪な事態へと進むことになってしまうのです。

後藤健二さんは結局助からず

hooded-man-2580085__480-e1562399798913-6287825

引用: Pixabay

日本政府が恐れていた、実際に起きてしまった更なる最悪な事態。それはもちろん、後藤健二さんを助けられず殺害されてしまうという事態でした。

そう。皆さんもご存知のとおり湯川遥菜さんに続き、結局後藤健二さんも助からずISILに殺害されることとなってしまったのです。

後藤健二さんが殺害されたことが分かったのは2015年2月1日午前5時頃。ISILが後藤健二さんを殺害した様子を撮影した動画を公開したため発覚したことでした。

後藤健二さんがISILのメンバーに口を塞がれ、首にナイフを押し付けられそのまま斬首されてしまうという、恐ろしい様子がそこには写っていたのです。これには日本中が衝撃を受けることとなりました。

結局…日本政府が何もできないまま、後藤健二さん・湯川遥菜さん2人の命が奪われるという結果になってしまったわけです。日本にとってとても辛く悲惨な事件として終わることとなってしまったんですね。

なぜ日本政府は後藤健二さんを助けられなかったのか

close-up-1835598__340-3480457

引用: Pixabay

こうして後藤健二さん・湯川遥菜さんが殺害されてしまうという悲しすぎる結果で事件は終わったわけですが…その後日本中から責められることとなったのは、やはり2人を助けることができなかった日本政府でした。

「なぜ助けることができなかったのか?」「もっと他に方法があったのではないか?」と、激しく非難され責め立てられるようになってしまったのです。

実際、日本政府が後藤健二さんそして湯川遥菜さんを助けられなかったのも、日本政府の判断ミスや力の無さだったのではないかという風にも考えられています。

まず湯川遥菜さん殺害の際、要求された身代金の支払いを拒否してしまったこと。これは完全に状況を甘く見て判断を誤った日本政府のせいですもんね。約230億となると確かにかなりの大金ですし、簡単に支払える額ではないのかもしれませんが、もっと慎重になっても良かったのではないでしょうか?

また後藤健二さん殺害の際の、死刑囚釈放についてもそうです。ヨルダンに交渉するなど色々と動きは見せていたものの、結局最終的には日本政府は全てをヨルダンに任せてしまったわけですからね。これも日本政府に力がなかったせいと言えますし、もしかしたら判断を誤った可能性もあるのではないでしょうか?

サッサとヨルダンに全てを委ねる前に日本政府ができることはもしかしたらもっと何かあったのではないでしょうか?ヨルダンに任せるにしてももっとしつこく関わろうとするべきだったのではないでしょうか?

単に力がないというだけでなく、日本政府に勇気がなかったのも原因だったのではないでしょうか?こうしたことが後藤健二さん・湯川遥菜さんを助けられなかった大きな要因だったのではないか、と言われているのです。

もちろん簡単なことではないと分かっていますが……色々日本政府が反省する点も多かったのかもしれませんね。

後藤健二さんと湯川遥菜さんとの関係は?

glass-984457__340-6068777

引用: Pixabay

ちなみに後藤健二さんと湯川遥菜さんの関係についてですが…お話したように2人は最初、湯川遥菜さんが自由シリア軍に拘束され、それを後藤健二さんが助けたことで知り合い、そこから親しくなるようになりました。

その後日本でも一緒に食事に行くなど度々交流を重ね、より親しくなっていったようです。元々2人はそうして紛争地帯に興味を抱くなど共通点もあったわけですし、きっと気の合うところも多かったはずでしょうしね。

その後一緒にまた海外にも行ったりしていたようですし、出会いからそんなに時間は経ってないものの、かなりお互いを信頼した仲の良い関係になっていたようですよ。

だからこそ後藤健二さんも湯川遥菜さんが先にISILに拘束された時、自ら進んで助けに行ったのではないか、という風に言われているんです。

そう考えると2人の関係性も後藤健二さんの行動も本当に素晴らしいといえるものなのに…こんな結果になってしまい実に残念なことですよね。

拘束されている間、そんな仲の良い相手がそばにいてくれたというのは、それはそれで救いになった部分もあるのかもしれませんが。

せめて今はお2人の魂が共に、安らかに休まっているといいですね。

後藤健二さんのご冥福を祈る

愛さん(@air_nz)がシェアした投稿 – 2015年 2月月3日午前3時00分PST

今回はまだまだ記憶に新しいISIL日本人拘束事件の真相と、被害者となった後藤健二さんについて詳しく見てきましたが…いかがだったでしょう?

これまで事件についてきちんと情報が得られていなかったという人や色々疑問に思っていたことがあったという人も結構いらっしゃったかもしれませんが、この記事を読んで事件についてより深く知ることができたのではないでしょうか。

また後藤健二さんがどのような人物で、どうして事件に巻き込まれることになってしまったのか、そこのところもよく分かっていただけたのではないでしょうか。

結局…後藤健二さんという人はとても立派な人だったんですよね。ジャーナリストとしての活動も素晴らしかったですが、何よりも湯川遥菜さんを助けるために危険を承知でシリアへ入国し、結果事件に巻き込まれることになってしまったのですから。

ただそうなると…こんな結果で事件が終わってしまったことが本当に悔しく思われますね。本当に助けることはできなかったのでしょうか。

先程も言いましたが、せめて後藤健二さん、そして湯川遥菜さんお2人の魂が今は安らかに休まっているといいですね。

そしてお2人の死が無駄にならないよう…日本政府がもっと力ある組織になりますように。世界からテロ活動がなくなりますように。何か少しでも変化が見えてくるといいですね。

心よりご冥福をお祈りいたします。

前の記事

ドラム缶女性焼殺事件の概要!なぜ女性は生きたまま焼き殺されたの…

次の記事