西郷隆盛は、明治維新の立役者として知られ、勝海舟と共に江戸城無血開城を実現した人としてよく知られています。
幕末から明治初期に活躍した西郷隆盛の姿は、数多く肖像画や写真に記録され、故郷・鹿児島や東京・上野公園には銅像もある程です。
ところが、西郷隆盛の肖像画や銅像を巡って「本物とは全く違う」「肖像画の殆どが偽物」とする都市伝説が流れる様になり、最近の調査報道で真相とされるニュースが数多く流されています。
果たして、西郷隆盛の肖像画が本人ではないと言う話は本当なのでしょうか?。
西郷隆盛の偉大な功績を紹介!
西郷隆盛は、文政10年12月7日(1828年1月23日)に、現在の鹿児島市鍛治屋町の下級武士・西郷吉兵衛の長男として生まれました。
薩摩藩主・島津斉彬に見いだされ、藩の近代化に尽力しました。斉彬の死後派閥争いに巻き込まれ、不遇な時期を過ごしましたが、後に盟友であり政敵となる大久保利通らの導きで藩政に復帰しました。
徳川幕藩体制が崩壊への道を辿る中、倒幕雄藩の取りまとめに奔走し「水と油の関係」と例えられた長州藩との同盟(薩長同盟)締結に力を尽くしました。この出来事は、いわゆる「大政奉還」への道筋を付けたと言われています。
☆ことば「大政奉還」とは☆
徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が慶応3年10月14日(1867年11月9日)明治天皇に政権返上を奏上し、翌15日に勅許された出来事で、事実上徳川政権の崩壊を意味する。
江戸幕府は創建以来「天皇が徳川将軍に国家統治を委任している」なる大政委任論を基に支配を行ってきたため、倒幕運動により政治的・軍事的支配能力を失った事で、国家統治能力を失ったと判断し、天皇に権力を返上すると言う考えに基づいて行われたとされる。
しかし、西郷隆盛の名を後の世まで知らしめる出来事は、何と言っても「江戸城無血開城」です。
当初新政府軍は「徳川幕府に対して江戸城から退去せねば、江戸に総攻撃を掛ける」と言う姿勢でした。
しかし「万一新政府軍が江戸へ攻撃を掛ければ、計り知れない犠牲が生まれる」と言う幕臣・勝海舟は江戸総攻撃回避へ向け、西郷隆盛ら総攻撃軍参謀らに嘆願します。
西郷隆盛は勝海舟の嘆願に応じ現在の東京・田町付近で会談し、15代将軍・徳川慶喜を水戸へ移して蟄居させることを条件に、江戸総攻撃を中止させる決断をしました。
ある軍事史関係者は「江戸総攻撃が本当に行われていた場合、民間人を含め50万人近くの死傷者が出ていたと考えらる。
当時の世界では前例のない都市殺戮戦で、後のレニングラードやベルリンの攻防戦に匹敵する悲劇として語り継がれたに違いない。」と指摘しています。
西郷隆盛は江戸を守り、今日の東京の隆盛を築き上げた立役者とも言えます。
西郷隆盛の有名な肖像画を紹介
#今日の雑学「西郷隆盛」
多くの人が知っている西郷隆盛の肖像画は西郷隆盛本人では無い。
あの肖像画は、西郷隆盛の親戚や弟の顔を参考にしてキヨッソーネ氏が描いた想像画であった。
もし、本人がその肖像画を見たら 「こげん人とない!」
と言うだろう…
ちなみに本名は「西郷隆永」と言う。 pic.twitter.com/sfLMz6dRIT
— big bait 🐟@毎日雑学🐡🐠 (@bigbait3) March 31, 2019
現在学校の教科書や観光案内で紹介される西郷隆盛の肖像画は、いま上に掲載しているモノです。西郷隆盛と言えば、四角い顔に太い眉毛が特徴的と言われます。
西郷隆盛の肖像画は、明治10(1877)年の西南戦争で自決する前から描かれていたとされ、掲載しているモノを含め、数多くの肖像画が描かれています。
最近になって、薩摩藩内の派閥抗争に敗れ、奄美大島に流されていた頃の西郷隆盛を描いた肖像画も発見されています。
この肖像画が描かれた背景は?
引用: Pixabay
西郷隆盛に限らず、時の権力者や有力者の肖像画が描かれた背景とは、どの様な背景からなのでしょうか?。
世界を問わず、肖像画は「権力の象徴」と見なされいます。東京・神宮外苑の聖徳記念館に、聖徳太子を始め多数の天皇や権力者の肖像画が収められている事からも良く解ります。
肖像画は「時の権力者の代弁者」とも言われ、全国に簡単に行き渡らせられたのも、肖像画が持て囃されたきっかけとなりました。
現在では写真やデータが主流ですが、西郷隆盛が活躍した時代は当然デジカメはありません。
それどころか当時の写真技術は極めて幼稚で、加えて希少だったため「使い物にならない」と考えられていたため、西郷隆盛を始めとする肖像画が多数描かれた背景だと言われています。
西郷隆盛の本当の素顔とは?
引用: Pixabay
では、肖像画に関して「真贋論争」が起きている西郷隆盛の素顔とは、一体どの様なモノなのでしょうか?。
銅像づくりで参考にした肖像画が偽物だった?
引用: Pixabay
1898(明治31)年にお披露目された東京・上野公園の西郷隆盛の銅像を見て、妻の糸子さん(故人)は「宿んしはこげなお人じゃなかったこてえ(うちの主人は【西郷隆盛】はこんなお人じゃなかったですよ)」と仰天したそうです。
では、どうしてこの様な事になったのでしょうか?
上野・西郷隆盛像は高村光雲の作で、高村ら制作関係者はイタリア人画家エドアルド・キヨッソーネの絵コンテを参照し、西郷の親戚関係からの証言を基に仕上げたとされます。
ところがキヨッソーネのコンテ自体が、上部は西郷の弟・従道をモデルに、下部は西郷の従弟である大山巌をモデルにしたモンタージュだったことが後の研究で明らかになっています。
本人をコンテしたのではない訳ですから、夫人の糸子さん(故人)が仰天するのは無理もない話です。
生前本物の写真を一枚も残さなかった西郷隆盛
引用: Pixabay
西郷隆盛の実子で、後に第二代京都市長となった西郷菊次郎氏(故人)は回想録の中で「父(西郷隆盛)は生まれながらの写真嫌いで、生前写真の一枚も取らなかった。」と証言しており、各種資料で紹介されている西郷隆盛の写真と言われるものの殆どが、実はモンタージュ作品・・・偽物・・・ではないかとの声も上がっています。
「生前、明治天皇からの撮影命令も拒否したと言われ、そうした背景が西郷隆盛の偽物と呼ばせる肖像画が広まる結果になったのでは?」とは、現在を生きる西郷隆盛の末裔たちの言葉です。
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引用: Pixabay
写真が広まった明治後期以前まで、権力者や有力者が自分の宣伝ポスターの代わりとして肖像画を描かせていた事は前述の通りです。
その中で肖像画を描く画家の多くが、本人を相当デフォルメした描き方をしていた問われます。
言い換えれば「相当盛ったイメージ?」で、実際より美化したイメージで書き込まれたと言われます。中には、本人が画家に師事したケースもあったそうで、実際似ても似つかない肖像画が出回っている方もいらっしゃいます。
明治期に証言した西郷の親戚演者は、生前に描かれた肖像画を見て「相当太めに描かれている」「顔が丸すぎる」など盛った?部分の指摘をしており、実際の西郷隆盛はスラッとした相当のイケメンだったと言われています。
西郷隆盛を巡る都市伝説と肖像画の関係
引用: Pixabay
西南戦争で夢破れ、郷里の鹿児島には立派な墓所や銅像がある西郷隆盛ですが、実はその後も「生存説」が都市伝説として流れ続けていた一人でもます。
鹿児島市内城山の西郷軍の壕の中で腹を切り、政府軍も確認したとされる西郷隆盛ですが、実は西郷軍の中に数名の「影武者」が存在して政府軍を混乱させたと言われています。
実際、西南戦争後「西郷隆盛が潜伏の後ロシアへ向かった」「奄美に渡って陰の支配者になった」との都市伝説は数知れず、そこから「西郷隆盛の本当の肖像画」とされるモノが多数流布したと言われています。
裏返すと、人々の間での「西郷隆盛人気」が衰える事が無かったとも見られ、様々な都市伝説を経てデフォルメされた肖像画が出回る事になった背景と言えましょう。
鹿児島・西郷隆盛の銅像に「似てる!」と歓喜
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引用: Pixabay
ところで最近になり、鹿児島の地元テレビ局が昭和12(1937)年5月23日にお披露目された西郷隆盛像のモデルに関する調査報道が大きな話題となっています。
鹿児島市内にある西郷隆盛像は、没後50年を記念して建てられたものですが、除幕された瞬間西郷隆盛の遺族親戚が一斉に「似てる!」と歓喜の声を上げたそうです。
それもそのはず、この銅像政策を指揮した鹿児島県出身の彫刻家・安藤照氏は、約8年を掛けて西郷隆盛の姿を追い求めたそうです。
その中安藤氏は、当時山形県議会議員だった石澤宏太郎氏が西郷隆盛の遺族親戚から言い伝えられた西郷像に似ていると聞き、実際西郷隆盛の遺族親戚に合わせたところ「本人そっくり」とお墨付きを受けました。
こうして石澤氏モデルの鹿児島・西郷隆盛の銅像は完成したと言われます。
因みに、石澤氏の出身地・山形県中山町は、西郷隆盛の実弟・従道が新政府の農務卿(現在の農林水産大臣)だった明治15(1882)年に視察で同地を訪れ、現在の町立長崎小学校の開校式にも参列し祝辞を述べられました。
現在も長崎小学校の校歌に「わが学び舎のひらけ初めに西郷教の臨席ありし」の一節が残っています。
西郷隆盛肖像画をめぐる「本物」「偽物」論争
引用: Pixabay
これまで述べて来た話から解る様に、西郷隆盛の肖像画を巡っては、相当の確率で「モンタージュ化」され描かれたケースが多く、本物か偽物化と言われる論争に対しては「かなりの確率で本人とは言えず、偽物の確率が高い」と言えるのではないでしょうか。
しかし、一部「例外で本人に近い肖像画」と言われるものも存在しています。
昨年1月16日付の朝日新聞WEB版は、鹿児島県枕崎市の旧家から新たに西郷隆盛の肖像画が発見され、西郷隆盛の遺族親戚が「いい伝えられた特徴が揃って似ている」と本物のお墨付き付き発言したことを伝えました。
作者は不明で、鹿児島市の西郷南州顕彰館が公開して作者に関する情報提供を求めています。
一方、やはり西郷南洲顕彰館に収められている服部英龍作の沖永良部島に島流しに遭った当時の西郷隆盛を描いた掛け軸について、西郷隆盛の遺族親戚は「ほぼ当時の本人を忠実に描いた、本物に限りなく近いモノ」と評しています。
イモトアヤコも真っ青の太い眉毛と、泥棒髭を蓄えた従来の西郷隆盛の姿とは似ても似つかぬ姿ですが、西郷隆盛の遺族親戚は「強強調しすぎている面はあるが、姿は言い伝えられている当時の本人に限りなく近い」と、こちらも本物というお墨付きだそうです。
そうした中で、鹿児島の西郷隆盛の家の隣に住んでいた肥後直熊は、幼い頃から西郷隆盛の膝の上で遊び慣れ親しんでいた事から、彼が描いた肖像画は、親族や関係者の間でも「最も西郷隆盛の実像に近い」と言われているそうです。
西郷隆盛の有名な肖像画の真相は?
西郷隆盛の肖像画に関する話を述べて来ましたが、皆さん如何でしたでしょうか?。
一番有名な西郷隆盛の肖像画に関しては、これまで述べてきた通り「モンタージュ化」された肖像画と見られ、「本物」とは言えないと言うのが結論と言えましょう。
しかし「偽物」と言い切るには無理もあります。
御紹介の通り、西郷従道・大山巌ら親族を「モンタージュ化」してきた事もあり、全くの「偽物」とは言えません。
西郷隆盛が無類の写真嫌いだった事もあって、真相を裏付ける資料が全くないと言うのも、肖像画の真偽が定まらない理由と言えます。
ところで、なぜ西郷隆盛が明治天皇の下知をも無視する程、肖像画や写真を嫌った本当の理由とは何だったのでしょうか?。
実は、西郷隆盛は坂本龍馬の暗殺の真相を知る数少ない人間だったと言われています。
坂本龍馬の暗殺の顛末を知る西郷隆盛は、坂本が無類の写真好きで、数多くの写真や肖像画が出回ったため、ヒットマンを送り込んだ組織が坂本の行方を追うために、手に入れた写真や肖像画を使って調べたとされ、意図も簡単に居場所を知られた坂本は、敢え無く明治維新の上を見届けることなく消えて行きました。
その真相を知る西郷隆盛は、終生肖像画を描かせたり写真を撮られる行為は一切断ったとされます。
征韓論で対立していた盟友・大久保利通がある日「政治家たるもの写真の一つは嗜みとしてとっておくべきだ」と西郷隆盛に語ったとされますが、実は桂小五郎等と共に大久保が西郷隆盛を暗殺する機会を探り、ヒットマンに人定させるために写真を撮ることを勧めたと言う話もあります。
鹿児島市の西郷隆盛の墓所傍に立つ西郷南洲顕彰館には、多数の西郷隆盛に関する肖像画が収められています。
顕彰館のお土産には、キヨッソーネ作の西郷隆盛肖像画と肥後直熊作の西郷隆盛肖像画のクリアファイルが販売されているそうです。
一度は訪れられて、キヨッソーネと肥後直熊の肖像画を見比べては如何でしょうか?