関光彦の現在!母・父・弟の末路や最後の言葉&被害者の今まとめ | ToraTora[トラトラ]

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1992年に恐ろしい市川一家4人殺人事件の犯人である関光彦とは、どんな人物だったのでしょうか。

本記事では関光彦の現在までの様子や最後の発言、関光彦の母親・父親・弟の末路や現在の暮らし、亡くなった被害者や生き残りの被害者の現在についてをまとめました。

【生い立ち①】裕福で高級マンションに住む

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市川一家殺人事件の犯人である関光彦は、幼少期は弟と共に裕福な環境で育ちました。

祖父が戦後に始めたうなぎ屋「関昇商店」のオーナーをしていたため、金銭的に十分な支援を受けていたからです。「関昇商店」のオーナーである祖父は、関光彦の母親である自分の娘が、関光彦の父親と結婚することに反対していましたが、関光彦が生まれてから態度が軟化し、和解していました。

関光彦が小学2年生になった頃には、母や父、弟と共に高級マンションへ引っ越しをします。その高級マンションには人気漫才師や社長などが住んでいました。

その人気の漫才師の息子が関光彦の弟と同い年だったため、関光彦自体も漫才師の息子と仲良くなります。そして、漫才師自身とも仲良くなり、弟と頻繁に漫才師の家を訪れる関係になりました。

関光彦は漫才師の息子も、その漫才師のことも気に入っており、弟と漫才師一家と関わることが楽しかったと後に語っています。

しかし、そのような幸せは長くは続かなかったようです。これ以降に関光彦から漫才師の話が出ることはありませんでした。テレビにも出ている人気漫才師、とのことでしたが、この漫才師が誰だったのかはわかっていません。

漫才師の家にまで遊びに行っていることから、非常に漫才師一家と仲が良かったことが分かりますが、今後の関光彦の人生には、この漫才師のように仲がよい家族は表れませんでした。

そのうち父親は会社を辞めて、祖父の「関昇商店」の1店舗を任されるようになります。しかし、父親の手元に入るお金ができてしまったことにより、父親は外で金を使って遊び、さらに女性と浮気をしました。そのことを母親が問い詰めたことをきっかけに、母親に対するDVが始まります。

さらに、母親に暴力をふるうだけではなく、父親は関光彦や弟に対して虐待行為を行うようになりました。真冬に外へ放り出したり、食事を与えなかったり、と幼い関光彦と弟には耐えられないような仕打ちでしょう。

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この時に同じマンションに住む漫才師や、他の住人が手助けをしていれば、関光彦の性格は歪まなかったかもしれません。

幼い関光彦と弟が虐待に合っていても、母親は止めてくれなかったようです。幼い頃に虐待を受けた関光彦と弟は、性格が歪んでもおかしくありません。

しかし、弟は関光彦と正反対の良い子に育ったようです。弟と関光彦の違いは何だったのでしょうか。

父親から弟と一緒に虐待をされる関光彦にとって漫才師もいるマンションは、居心地の良い場所ではなくなりました。この時には漫才師の息子や漫才師との関りもなかったようです。

そのため、毎週「関昇商店」オーナーの祖父の家へ泊りに行き、学校の長期休みにはずっと祖父の家に居ました。自宅で父親や母親、弟とは一緒に居たくなかったのでしょう。

「関昇商店」を作り上げた祖父は厳格で仕事に対して真面目な人間であったため、関光彦は当時は尊敬していたようです。そして祖父も関光彦に優しい発言をして、可愛がっていました。

そのため、祖父宅へ行くのは、自宅で父親や母親、弟と過ごすよりも楽しかったと考えられます。

【生い立ち②】両親の離婚と貧困

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父親からDVを受け続けていた母親も、関光彦や弟に対して虐待行為を行うようになります。

この頃に関光彦はエホバを信仰しますが、9歳の頃に父親から聖書を破られ始めて殺意を抱きます。

父親は祖父の「関昇商店」の経営を真面目にせず、借金は3億ほどまで膨れ上がりました。そのため、暴力団から激しい取り立てがあり、母親は関光彦と弟を連れて、「関昇商店」オーナーの祖父の元へ身を寄せました。

祖父は「関昇商店」で築き上げてきた全財産をかけて、多額な借金を返済しましたが、それを理由に関光彦の母親と絶縁します。

母親が父親の借金のため「関昇商店」のオーナーである祖父と絶縁されたため、関光彦も弟も大好きな祖父に会いに行くことはできなくなりました。その後母と弟と3人暮らしで祖父と会えないうちに、尊敬の念は恨みへと変わっていきます。

母親は父親と離婚をしたため、弟と3人暮らしの母子家庭となりました。漫才師がいた高級マンションから、母親と弟と共に風呂なしの古いアパートへ引っ越しをし、食べるのがやっとの貧しい生活が始まります。

人気漫才師もいるような高級マンションに住んで裕福な暮らしをしていた関光彦や弟からすれば、どれほどの衝撃だったでしょうか。

通っていた小学校では、母親と父親が離婚したため改名がきっかけでいじめられるようになります。さらに、貧乏のためランドセルの代わりに風呂敷で登校し、服も1着しかないため毎日同じ服を着ていました。それらの恰好のせいで、さらにいじめは激しくなったようです。

母親が1人で関光彦と弟を養っており貧乏だったため、自宅には電話もなく、学校から連絡先を聞かれた時に「電話がない」と発言したことで、さらに関光彦は激しい劣等感を感じます。

この頃にロックにはまり、お金がないためカセットテープを初めて万引きを経験します。また、学校でのストレスを解消するために、人が多い浅草に放課後は遊びに行っていました。そこでスリや置き引きを始めます。

この頃から関光彦の性格のゆがみが表れ始めたのではないでしょうか。この当時は母親や弟は関光彦の非行に気が付いていませんでした。

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中学生になった関光彦は、同学年の子よりもがっしりとした体つきになります。

そのため、いじめられることも自然となくなりました。この経験により、自分の力が通用するという実感を得てしまいました。当時は母親がフルタイムで働き、関光彦と弟を養っていました。周囲の人からは母親も関光彦と弟も、非常に評判が良かったそうです。

さらに大きな体を活かして、野球を始めた関光彦は野球チームでエースで4番の活躍をするようになります。この頃野球にどっぷりとハマった関光彦は、弟とキャッチボールをして遊ぶ様子が見られました。

この時期は母親や弟にとっては、平和だったのではないでしょうか。

中学生になってしばらくすると、絶縁していた「関昇商店」オーナーの祖父と母親が和解しました。しかし、1番辛い時期に見捨てた祖父に対して「裏切られた」と強い反感を持ち、昔のように「関昇商店」オーナーの祖父のことが尊敬できなかったようです。

この頃から地元の不良と関わるようになり、バイクを盗んだり、飲酒をしたりと荒れた行動を取るようになります。そして、母親に対しても反抗的な発言をして、徐々に母親と弟に対して家庭内暴力をするようになってしまいます。

母親は「教育のため」と発言をして別れた父親と連絡を取り、関光彦と弟と4人で食事に出かけました。この行為は裏目にでて、関光彦はさらに母親に対して反発心を抱くようになってしまいます。

酷い父親と合わせることが教育のため、となる母親も歪んでいるといるでしょう。

【生い立ち④】高校入学から中退まで

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高校は野球の強豪校を2校受験しましたが、両方とも不合格でした。

そのため、堀越高等学校へ入学を決めます。甲子園を目指して硬式野球をしたかったようですが、この高校の硬式野球を行う場所は遠く、関光彦は軟式野球部へ入部し、野球への意欲も失われていきます。

高校1年生は真面目にしていたようで、クラス委員を務めて欠席もしませんでした。その一方で母親や弟に対する家庭内暴力はこの時期も悪化していたようです。荒れる関光彦を心配した母親は、警察の少年相談室へも相談をしに行っていました。さらに、母親は関光彦が怪我をさせた相手へ謝罪や治療費なども払っていたようです。

これらの母親の様子に対して、関光彦は特に感謝の言葉や気持ちを感じていなかったのではないでしょうか。

さらに間が悪いことに、「関昇商店」オーナーの祖父が関光彦の母親が別れた父親と会っていることに気が付き、金銭的な支援を断るようになりました。多額の借金をしたことから、よっぽど関光彦の父親と関わりたくなかったことが分かります。

関光彦が高校2年生になると、他校生徒への恐喝事件を起こして、高校を停学になります。普通であれば落ち込むところですが、関光彦は学校へ行かなくてもいいことが嬉しかったのか、停学期間中に不良仲間と遊びまくりました。

その態度を見て母親の方が高校へ「退学させてほしい」と伝え、関光彦は高校を自主退学することになります。

この時の関一家の近くに、以前のマンションに住んでいた漫才師と漫才師の息子みたいな関係の一家が居れば、どれほど心の救いになったでしょうか。

もしかすると、漫才師一家は関光彦の非行を止めることができたかもしれません。しかし、現実は漫才師一家のように仲が良い家族はおらず、母親も「関昇商店」オーナーの祖父も弟も関光彦の非行を止めることはできませんでした。

関光彦の経歴

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続いては、関光彦の経歴について紹介していきます。

上記のような学生時代を歩んでいた関光彦でしたが、一体経歴はどのようなものだったのでしょうか?

見ていきましょう。

【経歴①】職を転々とする

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高校を自主退学した後は、レンタルビデオ屋の店員、警備員、トラック運転手などの職を転々としましたが、どの職業も1週間ほどで辞めてしまいます。

関光彦はこの時点で性格がねじ曲がっていることが分かりますので、働くときに我慢を強いられることが耐えられなかったと考えられます。

その後、前から好きだったロックにさらにはまり込んで、ロックバンドを結成します。私生活では元同級生である彼女がおり、その彼女と親の財布から金を盗んでは、夜中に遊んでいました。

このことは双方の親が知ることになり、2人を別れさせることにします。

関光彦の彼女だった少女は渋ったそうですが、結局は親戚の家へ身を寄せることになりました。それを知った関光彦は激怒し、ナイフを持って少女の家に行きます。

そこで少女の父親にナイフを突きつけて、少女を連れて来いと脅しました。すぐに少女の家族が警察に通報し、軽犯罪法違反で書類送検されます。これが関光彦が初めて犯した犯罪でした。

その後は職が長続きしないため、祖父の「関昇商店」を手伝うことになります。これにより無職ではなくなりましたが、非常に不真面目な態度を取っていたそうです。

「関昇商店」を大きなお店に作り上げた真面目な祖父の孫とは思えない勤務態度でした。

そんな不真面目な態度で仕事に取り組んでいた関光彦ですが、ある日祖父が「関昇商店」の店舗で6万円がなくなっていることに気が付きます。日頃の態度からも関光彦の仕業だと思った「関昇商店」オーナーの祖父は、関光彦の母親にすぐに連絡しました。その後母親から疑われていることを知った関光彦は激怒します。

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祖父の「関昇商店」の金を盗んだと思われた関光彦は、怒りのまま祖父の家に向かいます。そこで寝ている祖父の顔面を思いっきり蹴り飛ばし、左目失明で2か月入院の大怪我を負わせました。この件では関光彦は捕まっていないので、祖父は通報しなかったと考えられます。もう誰にも関光彦を止められる状況ではなくなりました。

この頃から関光彦の祖父は、父親に似てきていると強く感じたそうです。それは、きっと母親や弟も感じていたでしょう。その後、関光彦自身がバイクの交通事故で入院し、治療を続けるうちに仕事へは行かなくなりました。

そして、事件発生の1992年には祖父の「関昇商店」を辞めて無職になります。

【経歴②】無職から結婚まで

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無職になった関光彦はギタースクールに通いながら、ラブホテルでアルバイトを始めます。

この頃には不良仲間と薬物摂取も行うようになります。母親にお金を出してもらってトヨタのクラウンをローンで買い、マンションで1人暮らしをスタートさせます。マンションの頭金なども母親が払ったようです。

このことに関して関光彦の母親は、弟と母親自身に対する家庭内暴力が酷くなったため、自分たちと話すために1人暮らしを許しました。車のローンなどについては、関光彦がすぐに払わなくなったため、母親が代わりに払うはめになります。この母親の態度からも、関光彦の状態にお手上げ状態だったことが分かります。

その後フィリピンパブでマニラ出身女性と出会って、結婚をすることになります。しかし、この女性は姉の病気を理由に母国へ帰国し、関光彦が事件を起こした時も日本には帰ってきていませんでした。

妻が居なくて寂しい、ということが、おぞましい市川一家4人殺人事件のきっかけとなってしまいます。

市川一家4人殺人事件の概要

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市川一家4人殺人事件は、幸せに暮らしていた平凡な5人家族が被害者となり、生き残りの少女の目の前で4人が殺された痛ましい事件でした。

現在でもこの事件の名前を聞くだけで、気分が悪くなる方もいるでしょう。

この市川一家4人殺人事件の概要を下記で紹介します。

被害者一家の長女強姦事件

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市川一家殺人事件のきっかけとなったのは、後にこの事件で唯一の生き残りとなる被害者一家の長女の強姦事件でした。

事件当時15歳だった長女は、市川一家4人殺人事件が起きる1か月前の夜中に、勉強中になくなったシャーペンの芯を買いに自転車でコンビニへ出かけました。その長女に関光彦は車をわざとぶつけて、転倒させます。

転倒させた長女を安心させるために病院へ自ら連れて行き、その後自宅へ送ると長女へ申し出ました。その自宅へ向かう途中の路肩で車を止めて、ナイフを突きつけて長女を脅します。

暴れた長女の左頬と左手を切り付け、自宅アパートへ連れ込み2度強姦をします。これは、フィリピン人の妻が帰ってこないストレス発散に行ったものだと考えられています。

強姦した後で長女の持っていた現金を奪い、長女の生徒手帳に書かれていた氏名と住所を控えて外へ出ました。その隙に長女は自分で部屋を抜け出し、無事に家に帰ることができました。

まさか、この時に控えられた住所に関光彦が来て、自身の父親や母親が殺害されて、自分だけが生き残りになるとは思っていなかったでしょう。

事件当日

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関光彦は暴力団ともめており、200万円をすぐに用意しなければなりませんでした。

そこで一か月前に強姦した後に唯一の生き残りとなる長女の家で貴金属を盗み、ストレス解消に再び長女を強姦しようと思いつきます。長女の家へ向かうと、たまたま家のドアが開いていたため、中に入れてしまいました。家には被害者一家の祖母が1人で寝ており、関光彦は蹴り上げて起こします。

通帳や貴金属を要求しましたが、祖母が拒否したため電気コードで祖母の首を絞めて殺害をします。祖母がこの事件で一番最初の被害者となってしまいました。祖母を殺してからは通帳のありかを知っているであろう被害者の母親と父親を待つことにしました。

その後何も知らない被害者母親と被害者長女が帰宅してきたので、台所に隠れていた関光彦は包丁を持って母親と長女を脅しました。母親と長女をうつ伏せにさせて、母親を背中から数度刺して殺害します。

これは母親の冷静な発言に対して、怖くなったためだと後に犯人が発言します。長女に亡くなった母親の遺体の足を持たせて移動させ、血だまりをタオルで拭かせます。

しばらくすると保母さんに連れられた被害者妹が帰宅し、関光彦は後に生き残りとなる長女に命令して食事の準備をさせて3人で食事を取ります。

その後、妹はテレビを見ながら寝付きました。まだ父親が帰ってこないと長女の発言で知った関光彦は、気分転換に長女を犯すことにします。その強姦中に父親が帰宅し、長女がいる部屋に入りました。

関光彦は隠れていた扉から被害者父親に襲い掛かり、その肩に包丁を刺します。

そして暴力団組員を装って父親に現金を要求しました。まだ妹や母親の死を知らない父親は、全ての通帳のありかを発言します。そして父親の会社にも通帳があることを発言から知り、父親に会社へ電話させました。

長女を連れて父親の会社に通帳を取りに行く際に、関光彦は通報されることを恐れて父親を殺害します。父親の会社で通帳と印鑑を貰うと、長女をラブホテルへ連れて行き強姦しました。

その後マンションへ戻り、部屋の中で泣き出した妹を殺害します。この時点で生き残りとなっているのは長女だけになりました。

関光彦は父親の発言から知った父親の会社にまだ金があるのではないか、と考えます。そして、再度金を請求するために、唯一の生き残りとなる長女から父親の会社へ連絡をさせました。

この電話の少女の発言を不審に思った父親の会社の従業員による通報で、警察官がマンションへ向かい、ようやく関光彦は逮捕されました。警察が駆け付けた時に関光彦は、事件の生き残りである長女へ包丁を持たせて、自分は被害者を装うとしています。

さらに逮捕された時に「俺はやっていない」と発言しました。

逮捕から死刑まで

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逮捕直後に関光彦は被害者一家の生き残り長女との関係を偽り、「一緒にコンサートへ行った」などと親密さを嘘の発言をしました。

この時生き残りの被害者長女はショックで何も話せなかったそうです。関光彦が嘘の発言をした同日の夜に、嘘を認めて「金が欲しくてやった」と発言します。

しかし、関光彦は逮捕当時に自分の年齢が19歳であることから、少年法に守られると強く思いこんでいました。5人家族の父や母など4人を殺害し、生き残りの少女を強姦するという大事件を起こしておきながら、少年院へ行くだけだと本気で信じていたのです。

このことは後に新聞記者に送る手記にも記載されていました。

もちろん、一家の父や母など4人を殺して生き残りの長女を強姦しておいて、そんな軽い罪になるはずがありません。何度も公判を繰り返し、市川一家4人殺人事件が関光彦の単独犯であり、あまりにも残酷であることから、関光彦に死刑が言い渡されました。

このことに関光彦は大きなショックを受けます。この死刑は2001年に正式に確定し、関光彦は死刑囚となりました。

当時の世論では、犯人が19歳であることや、その後の手記で反省を示したことなどから、死刑反対の声もあったようです。この死刑についての反対意見の発言は、2017年に死刑執行されるまで続いていました。

しかし、世論としては、父親や母親を殺され、何度も強姦された生き残りの女性の気持ちを考えれば、死刑判決は妥当であると考える人が多数でした。

死刑確定から執行まで、関光彦は新聞記者と数度手記のやり取りをしていました。

その手記は当時の新聞に載せられて、大きな反響を呼びました。死刑確定前後の手記の内容は、関光彦の生い立ちや犯罪に関する意識の内容が多く、手記によって関光彦の歪みが明らかになります。

関光彦は自身の手記については、自分のことを反面教師にして欲しいとすら述べていたようです。そのため、関光彦が送る手記は、事件や本人の生い立ち、自分の父や母、弟などについて赤裸々に語られていました。

そんな関光彦の気持ちが分かる手記ですが、死刑が確定する最高裁の直前にも、関光彦は新聞記者へ手記を送っています。その手記には自らが犯した犯罪について悔やむ内容に変わっていました。

手記の後悔して罪を認識した内容を見れば、関光彦が反省したと感じる人が多いでしょう。この手記を実際に受け取っていた記者は、手記の関光彦のイメージと、手記と異なる残虐な事件のイメージが結びつかないと述べています。

もちろん、手記は文章なので、関光彦が反省した気持ちを見せかけるために、このような手記を送った可能性も残されています。

現在では死刑が執行されているため、当時の手記や発言で関光彦の気持ちを知ることしかできません。最後の方にやり取りされた手記に表された気持ちは、もしかすると本当だったのかもしれません。これらの手記のやり取りや関光彦の発言は、その後関光彦の手記などを基とした「19歳」という本になります。

そして、2017年12月19日に、関光彦の死刑が執行されました。死刑当日の最後の発言は明らかになっていませんが、死刑執行の2か月前に弁護士に対して下記のような発言をしています。

4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい

この発言や新聞記者へ送った手記からも、犯人である関光彦は死刑執行前には事件について反省をしていたと考えられます。

この発言によって父親や母親を殺された被害者女性はどう思ったのでしょうか。

市川一家4人殺人事件被害者まとめ

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恐ろしい市川一家4人殺人事件に巻き込まれ、父親や母親など計4人が殺害された被害者一家はどのような家族だったのでしょうか。

被害者一家の詳細と、唯一の生き残りである被害者一家長女の現在などを紹介します。

父(事件当時41歳)

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被害者一家の父親は、1950年8月10日生まれのフリーランスのカメラマンでした。

1987年に結婚し、妻の連れ子だった後に事件で唯一の生き残りとなる長女も我が子のように可愛がっていました。

そして、年頃の娘の父親になったことから、今まで関わっていた風俗関係の仕事を断るようになります。事件直前は旅行や料理などの写真を中心としたフリーランスのカメラマンでした。

連れ子である被害者一家の長女も懐いていた被害者一家の父親は、事件当日関光彦に通帳のありかを伝えた後、包丁で刺されて殺害されました。

生き残りの長女が父親が死んだと知ったのは、父親の会社に通帳を取りに行って、マンションへ戻ってからでした。

母(事件当時36歳)

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被害者一家の母親は、1955年6月19日生まれの女性で、1度離婚経験があります。

前の結婚の時に生まれて子どもが、この事件で唯一生き残りとなった被害者一家の長女でした。関光彦の手記を基に書かれた本「19歳」では、生前のこの母親を美人で気前の良い女性と表しています。

結婚後はフリーランスのライターとなり、一家の父親となる夫と共に仕事をしていました。

唯一生き残った被害者一家の長女は母親について、一生懸命働いていて尊敬していた、と後に発言しています。この被害者一家の母親は、関光彦によって生き残りの少女の目の前で背中を刺されて殺害されます。

長女(事件当時15歳)

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被害者一家の長女は、1976年3月19日生まれで、事件で唯一の生き残りの女性です。

事件当時は高校1年生で、共働きの両親の代わりに妹の面倒を見る優しい子だったそうです。将来は美術関係の大学へ進学することを希望している、ありふれた普通の女子高生でした。

事件後は母方の親戚の家へ身を寄せる生活になりました。

この生き残りの長女は、事件当日父親や母親などの家族を全員殺された後、犯人の関光彦から強姦をされるなど、生き残りましたが辛い経験をさせられました。

次女(事件当時4歳)

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被害者一家の次女は、1987年3月17日生まれで、事件当時はまだ4歳でした。

この次女は被害者一家の父親と母親の子どもなので、長女と報道されることもありました。事件が起きたときは、自分の父親や母親が殺されたことを理解してなかったと思われます。

姉の目の前で関光彦に刺されて亡くなり、次女が通っていた保育園では到底真実を園児へ伝えることはできず、遠くへ引っ越したと伝えたそうです。

被害者一家の母親や父親が殺されてもショックで動けなかった唯一の生き残りの長女ですが、この次女が目の前で殺された時には、関光彦に食って掛かり切り付けられています。

祖母(事件当時83歳)

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被害者一家の祖母は、1908年7月4日生まれで、事件における最初の被害者でした。

父方の祖母で同居をしており、高齢のため自室でひっそりと暮らしていることが多かったようです。息子夫婦とその孫と同居していた幸せな日々は、関光彦の手によって壊されてしまいました。

この被害者一家の祖母は、自宅で寝ていたところを起こされ、電気コードで首を絞められて殺害されました。殺される前には関光彦に対して、通帳のありかを拒む発言をするなど、気丈な態度を見せていたようです。

唯一生存した長女の現在

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事件で父や母を殺されて、唯一生き残りになった被害者一家長女の現在については、幸せな結婚生活を送っていると思われます。

手記を基とした「19歳」では、著者が生き残りの長女に関して、結婚してヨーロッパで暮らしていると、生き残りの長女の現在について述べていました。現在では異国の地へ行くことによって、事件のことを少しでも忘れられるといいでしょう。

手記を基にした「19歳」には、現在ヨーロッパで暮らしているとしか書かれていないため、事件で唯一生き残りの長女が現在ヨーロッパのどの国に暮らしているのか、など現在の詳細は分かっていません。

関光彦の母親の末路は?

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恐ろしい事件の犯人である関光彦の母親はどんな人物だったのでしょうか、そして現在はどんな暮らしをしているのでしょうか。

関光彦の歪んだ性格には、この母親が大きく関わっていたと現在でも被害者の関係者は思っているでしょう。

関光彦の母親の経歴や現在の暮らしについて紹介します。

母親の経歴

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関光彦の母親は、うなぎ屋「関昇商店」の娘だったため、裕福な暮らしをしていました。

しかし、関光彦の父親になる夫と出会って母親の人生が大きく変わってしまいます。夫が「関昇商店」の一店舗を任された頃から、浮気やDVが始まっていき母親の精神がおかしくなりました。

そのうちに、母親は息子の関光彦やその弟に対して自分自身も虐待行為を行うようになります。

「関昇商店」の財産がなくなるほどの借金を夫がして、離婚をした後は貧困生活が待っていました。今までの裕福な暮らしから一転し、母親はフルタイムで働いて2人の子どもを養います。

「関昇商店」のオーナーである関光彦の祖父から支援を受けることができたのは、関光彦が中学生になった時でした。

非行に走った関光彦が暴力事件を起こすたびに、頭を下げに行って治療費を渡します。家庭では関光彦から弟と共に暴力を受けていました。

その後関光彦の車のローンを払ったり、1人暮らしのお金を払ったりする姿から考えると、ほとんど関光彦の発言に従っていたのではないでしょうか。

息子である関光彦が犯した罪を止められるのは、母親である彼女の役目だったと思われても仕方ありません。

高級マンション時代の気の良い漫才師一家のような人物が身近にいなくても、彼女自身で関光彦が楽しいと思える環境を作らなければいけなかったでしょう。

息子逮捕後

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関光彦が逮捕された当時、母親は一切コメントを出していません。

しかし、祖父の「関昇商店」が事件の影響で閉店に追い込まれたことから、経済的に母親も打撃を受けたと考えられます。母親は事件後も仕事を続けて、週1の頻度で刑務所へ通っていたようです。

関光彦が逮捕されても、息子に対する母の愛情は消えなかったのでしょう。

母親の現在

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関光彦の母親の現在は詳しくはわかっていません。

しかし、関光彦の手記を基とした「19歳」の著者が2000年に母親の現在についてインタビューをした時には、そっとして欲しい、あの子も反省している、と発言をして取材を断っています。

あれほどの事件を起こした息子を持ってしまってたので、現在もひっそりと暮らしていると予想されます。

関光彦の父親の末路は?

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関光彦や弟に虐待をしていた父親は、いったいどんな人物なのでしょうか、そして現在はどんな生活をしているのでしょうか。

現在も被害者関係者に恨まれていてもおかしくない関光彦の父親の経歴や、現在はどのように暮らしているのかについて紹介します。

父親の経歴

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関光彦の父親は、「関昇商店」の娘である妻と結婚するまではサラリーマンをしていました。

しかし、元々ギャンブルや飲酒行為などを好み、とても立派な人間ではありませんでした。そのため、結婚する際には「関昇商店」のオーナーである妻の父から反対の発言をされましたが、その反対を押し切って結婚しました。

その後息子である関光彦が生まれたことによって、「関昇商店」オーナーである妻の父と和解をします。そして「関昇商店」の一店舗を任されることとなりましたが、本来の不真面目な性格が表れて、ギャンブルや女遊びを始めます。

また、家庭では妻にDVをして、関光彦と弟には、虐待行為を行っていました。

関光彦と弟は酷い暴力や発言をする父親を見て育ちます。この経験から、関光彦は一家の父や母など4人を殺して、生き残りの長女を強姦するなどという、恐ろしい事件の犯人となる人物になってしまったのかもしれません。

ひたすら暴れる父や耐える母の姿を見て、関光彦は大好きな漫才一家もいるマンションが好きではなくなり、「関昇商店」オーナーである祖父の家に入り浸るようになります。

そして、その後3億円という借金を作りますが、それも「関昇商店」オーナーである妻の父親に全て返済をしてもらいました。

犯罪者である関光彦を作り出す原因となったこの父親に対して、生き残りの長女やその親族が恨んでいてもおかしくありません。父親や母親を殺された生き残りの長女からすれば、決して許すことはできない相手でしょう。

息子逮捕後

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息子である関光彦が大事件を起こして逮捕されましたが、特に面会などに行ったという記録は残っていません。

また、逮捕後に関光彦の生い立ちが明らかになると、父親に対する批判も出てきました。ここまでの犯罪が起きたのは、虐待行為をして関光彦を歪ませた父親に責任がある、と思われるのも無理はないでしょう。

そのため、世の中に出ないようにしていたと考えられます。

父親の現在

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関光彦の父親の現在については、関光彦の手記を基とした「19歳」にも書かれておらず、一切情報はありません。

しかし、とんでもなく酷い人間だったので、現在は関光彦の父親であることを隠して生きていることが推測されます。現在関光彦の行った行為について反省する発言も残っていないため、おそらく反省していないのでしょう。

関光彦の弟の末路は?

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父親や母親に関光彦と一緒に振り回され、挙句関光彦に家庭内暴力を振るわれていた弟はどのような人物だったのでしょうか、そして現在はどんな暮らしをしているのでしょうか。

ある意味ではこの弟も被害者だといえるかもしれません。そんな関光彦の弟の経歴や現在の暮らしについて紹介します。

弟の経歴

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関光彦の家族の中で最も苦労をしているのは、この弟ではないでしょうか。

家族と高級マンションに住んでいた時には、人気漫才師の息子と同い年で仲良くしており、それをきっかけとして関光彦も漫才師の息子と漫才師本人と仲良くなることができました。

引っ越してからは、弟も関光彦と同様に漫才師の息子や漫才師本人との関りはなくなったようです。

関光彦と同様に両親に振り回され、しかも途中からは関光彦から家庭内暴力を受けて育ちました。それでも周囲からは真面目で良い子だと発言されるほど、良い子に育ったようです。

おそらく父親や関光彦を反面教師として育ったのでしょう。

兄逮捕後

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兄である関光彦が逮捕された後も、犯人の弟として周囲からバッシングを受けたのではないでしょうか。

この弟は事件後は母親と2人でひっそりと暮らしており、大学まで進学していたようです。2000年に関光彦の手記を基とした「19歳」の著者が訪れたときに、関光彦の弟は見た目はそっくりだけれど、中身が正反対だと感じたそうです。

実際に関光彦本人も、弟は自分とは正反対の人間であると述べています。関光彦の手記を基にした「19歳」の著者による取材に対しても、始終穏やかな対応をしていたそうです。

弟の現在

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関光彦の弟が現在どこで暮らして、どんな仕事をしているのかはわかっていません。

おそらく、現在は、関光彦の弟であることを隠して生きていると予想されます。犯罪者の家族は幸せになれないことが多いのですが、この弟に関しては本人の悪いところはないため、現在は幸せに過ごして欲しいと思う人もいるでしょう。

しかし、きっと生き残りの女性やその親族からすれば、この弟に対して現在も恨みが向いてもおかしくありません。これからもこの弟は表へ出ずに、ひっそりと暮らしていくしかないでしょう。

市川一家4人殺人事件の犯人、関光彦。

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誰が知っても驚くほど残酷な事件だった市川一家殺人事件の犯人である関光彦は、恵まれない環境に育ち性格が歪んでしまったことが分かります。

そんな歪んだ関光彦の犯行は許されるものではありませんが、手記によれば死刑執行前には自身の罪を自覚し、反省をしていたそうです。

関光彦のような恐ろしい犯罪者を生まないように、社会は対応していかなければいけません。

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