林郁夫の現在!地下鉄サリン事件で唯一の無期懲役判決のワケは?

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林郁夫とは?【地下鉄サリン事件】


みなさんは『林郁夫』という名前を聞いたことがあるでしょうか?

「知らない」「聞いたことない」という方もいることでしょう。ですが、『オウム真理教』と聞けば知っている方も多いことだと思います。

林郁夫は、このオウム真理教の元幹部であり、1995年3月20日に起こった地下鉄サリン事件の実行犯でもありました。

オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件といえば、日本で起こった中でも大規模な同時多発テロで、化学兵器として使用される神経ガスのサリンが地下鉄の丸ノ内線・日比谷線・千代田線で散布され、たくさんの死者を出し、世間を恐怖へと陥れました。

この事件の実行犯であったオウム真理教の人たちは、ほとんど死刑判決が出されました。しかし、林郁夫は無期懲役判決であったのです。一体どうしてなのでしょうか?

今回の記事では、林郁夫の生い立ちや経歴とともに、地下鉄サリン事件の概要やなぜ死刑判決ではなく無期懲役判決だったのかなどの理由も紹介していきます。

 

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林郁夫の生い立ちと経歴【地下鉄サリン事件】

引用: Pixabay

オウム真理教の幹部といえば、『頭が良い』『高学歴』ということでも有名です。それは、林郁夫も例外ではなく、誰もが知っているあの大学を卒業していました。

林郁夫という人物がどういう人であったか知らない方も多いことかと思います。

まずは林郁夫がどういう幼少期や学生時代を過ごしてきたのか、またオウム真理教に入団する前はどのような生活を送っていたのかなどの生い立ちを紹介していきます。さっそく見ていきましょう。

 

幼少期


引用: Pixabay

林郁夫は、1947年の1月23日に品川区という大都心で生まれました。

父親は医者であり、母親は薬剤師の開業医という両親ともにハイスペックな家に生まれました。そのため、何不自由ない幼少期を過ごしてきたと言います。

父親と母親の影響を受けてか、次第に林郁夫自身も医者を志すようになっていました。

また幼少期の林郁夫は、『思いやりのある良い子』と周りからの印象も持たれており、医者を志した理由の一つにも人助けがしたいという優しい心を持っていました。

それにも関わらず、のちに多くの人々の命を奪ってしまう事件の実行犯になってしまうのですから、人生はわからないものです。

 

学生時代

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引用: Pixabay

学生時代の林郁夫は、医者になることを目指し勉学に励みました。

努力の甲斐もあって、慶應義塾中等部・慶應義塾高等学校・慶應義塾大学と中学校から大学まで慶應で学生生活を送りました。

慶應義塾大学では医学部に入学をし、医者になるために学んでいました。慶應義塾大学の医学部に入れるということは、よっぽど頭も良かったわけですし、エリート街道を歩んでいたとも言えるでしょう。

オウム真理教の幹部の方たちは頭が良い方が多く、それはやはり林郁夫も例外ではありませんでした。

 

医者時代

引用: Pixabay

慶應義塾大学の医学部を卒業してからは、専門が心臓血管外科の医者になりました。

すぐにアメリカ合衆国に渡って、アメリカの病院で勤務していた経験もあり、とても優秀な医者であったことが伺えます。アメリカでも林郁夫は非常に優秀な医師と言われていたようでした。

アメリカの病院を退職した後は、日本に戻ってきて栃木県済生会宇都宮病院や国立療養所晴嵐荘病院(現・茨城東病院)・慶應義塾大学病院などに勤務していた経歴を持っています。

俳優の石原裕次郎さんが手術する際、林郁夫は手術チームの一員にも選ばれたことがあるため、それほど医者としての腕が良かったのでしょう。

しかし、ガンなどの病によってどうしても助けられない患者さんを実際に目の当たりにした時、現代医学や科学では乗り越えられないこともあるのだと知った林郁夫は、医療の限界と葛藤するようになりました。

人はいつかは死んでしまいますし、助けられない方がいるのは仕方のないことではあります。しかし、林郁夫にとっては自分が救えない患者がいるということが辛く、悩んでいたのかもしれません。

この悩みもあってか、林郁夫はのちに阿含宗やオウム真理教などの宗教へと入団することになりました。

 

結婚

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引用: PAKUTASO

1980年、林郁夫は芦田りらという女性と結婚をしました。芦田りらも麻酔科医として活躍していた人物であり、のちに林郁夫とともにオウム真理教に出家しています。

娘と息子の2人の子供もでき、宗教団体に入団する前は家族4人で幸せに暮らしていました。

 

阿含宗時代

 

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林郁夫はオウム真理教に入団する前、阿含宗という宗教団体に入団していました。

 

阿含宗とは

阿含宗は、ゴータマ・ブッダ=釈迦が直説された唯一の経典「阿含経(あごんぎょう)」を依経(よりどころ)とする、仏教の一宗派であり、仏教学上の分類では、根本仏教になります。
この「阿含」というのは、梵語āgama(アーガマ)の音写であり「来きたる」という意味を持ちます。
すなわち「伝承された教え」のことです。

日本で一般にお釈迦さまの教えが説かれているとして知られている経典は、ほとんどすべてが大乗経典であり、これはお釈迦さまが亡くなられて数百年経ってから徐々に創作されたものです。

つまり、仏陀直説といえる経典は阿含経だけなのです。

引用:http://www.agon.org/about/about_000009.php

1997年、林郁夫は桐山靖雄という阿含宗の管長が書いた本に感化されたことをきっかけに、正式に阿含宗に入団することを決めました。

約10年間もの間、阿含宗に在籍していましたが、自身の修行の成果が出ないことに再び悩みを抱え始め、医者に戻ることを決めたのです。

 

再び医者となる

引用: Pixabay

再び医者として過ごすようになった林郁夫は、1978年にアメリカのデトロイトにあるサイナイ病院外科研究所に留学をしました。

1981年には日本に帰国し、栃木県済生会宇都宮病院や茨城県那珂郡東海村にある国立療養所晴嵐荘病院に再び勤めました。

この時期になって林郁夫は予防医学の重要さを認識するようになり、心臓病などはストレスと深くかかわっていると認識するようになりました。そのためか患者にヨーガや瞑想法、呼吸法などを紹介するようになったのです。

 

林郁夫とオウムとの出会い【地下鉄サリン事件】


真面目な学生時代を過ごし、医者になった林郁夫さん。

頭が良すぎるあまり、考えすぎて悩みを抱えてしまうのでしょうか。こういったことも宗教にはまってしまう理由なのかもしれませんね。

さて、続いては林郁夫とオウム真理教の出会いについてをまとめていきます。

林郁夫がどういった経緯でオウム真理教に入団することになったのかの理由や、オウム真理教での生活について紹介します。

 

オウム真理教への入信

 

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1987年、林郁夫は本屋さんで麻原彰晃が書いた本を見つけ、興味を持つようになりました。

オウム真理教の信者が行なっていたヨーガやツァンダリーというインドの伝統医学、オウム食といった、オウム真理教で当時使われていた修行メニューがその本に書かれていました。

林郁夫は、これらの内容に衝撃を受け、オウム真理教への入団に心が傾き始めました。

この頃、林郁夫は自らが運転していた車が交通事故を起こしてしまいました。この時に加害者となってしまったことにも自責の念に駆られてしまいました。そしてこのこともまた、オウム真理教へ入団するきっかけとなったのです。

そして1989年の2月、林郁夫はオウム真理教に入団しました。この時働いていた病院にて、患者に塩水や湯・糸を飲ませたり、ジャンプをさせたりするなどのオウムの療法を持ち込んでいたため、トラブルを起こすこともあったといいます。

病院内でも、『林先生はいい先生だけど、最近ちょっとおかしい。』との噂が流れていたようです。

そして1990年の1月には、当時勤務していた晴嵐荘病院を退職し、同年の5月には妻と2人の子供達と一緒に、一家4人で出家信者となりました。

出家の際に林郁夫は、目黒に所有していたマンションを売り、その額を含めた全財産である8000万円と車2台を布施としてオウム真理教に寄付していました。

 

出家生活

引用: Pixabay

林郁夫がオウム真理教に入団していた1990年代には、オウム真理教には4つの階級が作られていました。それぞれ

  • 尊師
  • 大師 (正師 → 正悟師 → 正大師 → 大報師 → 大法師 → 天人師)
  • スワミ (行者 → 大行者 → 小師 → 師)
  • シッシャ (小学者 → 大学者)

というようになっており、その中で林郁夫は「師長」という立場になりました。

また、林郁夫の医者としての腕を買われ、当時東京都の中野区にあったオウム真理教の教団付属医院の院長として活動をしていました。

1993年の池田大作サリン襲撃未遂事件において、林郁夫はサリン中毒になった新実智光を治療しました。そしてこの時にオウム真理教がサリンという毒物を保有していることを知ったのです。

1994年には、林郁夫はオウム真理教内で治療省大臣となり、教団の犯罪に従事する信者の指紋消去手術や、ニューナルコと呼ばれていた薬物を用いた信者の記憶消しなどに取り組むようになりました。

その他にも、鹿島とも子長女拉致監禁事件やピアニスト監禁事件の被害者に対し、チオペンタールナトリウムという意識を無くす薬を打ったりもしていました。

この時期には幼い頃の印象にあった『思いやりのある良い子』というイメージはなくなっており、医者としての良心も失っていました。また、妻にも暴力を振るうようになってしまったのです。

完全にオウム真理教に洗脳されてしまったのでしょう。

 

教団付属医院とは

引用: Pixabay

林郁夫が院長を務めた教団付属医院とは、一体どのようなものであったかを説明していきます。

教団付属医院とは、1990年にオウム真理教によって設立された病院であり、オウム真理教独自の温熱療法やヨーガなどを使った治療が行われていました。

オウム真理教の宣伝のために出していた『契約の書』という新聞によれば、ここでの治療によって「クモ膜下出血の後遺症から奇跡的に回復」「末期癌が完治」「肝炎・肝硬変が改善」などの効果があったとありました。

内科・外科・整形外科・小児科・産婦人科など、様々な診療を行なっていました。

 

鹿島とも子長女拉致監禁事件とは

引用: Pixabay

先ほど林郁夫が関わった事件というものに出てきた、鹿島とも子長女拉致監禁事件について紹介します。

オウム真理教には、鹿島とも子という人物が入団していました。その長女に対して起こした事件になります。

オウム真理教はこの長女に対し、アイドルになって教団の広告塔になれと命令していました。しかし、長女は断っていたため、1994年11月20日にオウム真理教の教団員であった飯田エリ子と井上嘉浩が、「お母さんが待っている」と言って長女を連れ出したのです。

なんとかして長女は逃げ出しましたが、毒物が含まれたジュースを飲まされて、記憶をなくす注射などを打たれた拉致事件になります。

 

ピアニスト監禁事件とは

引用: Pixabay

こちらも林郁夫が関わった事件になります。

当時23歳のピアニストの女性が、オウム真理教に拉致・監禁・暴行をされた事件になります。

随時逃亡をするために、習っていたボクシングの技で抵抗をしたり、床板の分解を試みましたが、結局見つかってしまい、手足を縛られ林郁夫に10回ほども頭を殴られるなどしました。

しかし、1995年の3月22日には強制捜査をしに来ていた警察官に保護を求め、無事救出されました。

 

地下鉄サリン事件概要

 

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以上が林郁夫のオウム真理教との出会い、またオウム真理教での出家生活の概要になります。

林郁夫が持っている医療の知識を活かし、様々な犯罪を犯してしまっていました。優秀な頭脳を犯罪に使ってしまうなんて、なんとももったいないことですね。

それでは今度は地下鉄サリン事件についての概要を紹介していきます。

世間を恐怖へと陥れた事件は、一体どのようなものだったのでしょうか?さっそく見ていきましょう。

 

事件前の計画

引用: Pixabay

地下鉄サリン事件が起きる前、オウム真理教は池田大作サリン襲撃未遂事件・滝本太郎弁護士サリン襲撃事件・松本サリン事件というサリンを用いた事件を起こしました。

1995年1月1日、読売新聞の朝刊が「上九一色村でのサリン残留物検出」をスクープしたため、オウム真理教はサリンを処分したふりをしていました。

しかし、教団員であった中川智正がサリンの中間物質を密かに保管していたため、すぐにサリンを復元させることができ、これが地下鉄サリン事件に使われてしまいました。

 

事件当日


1995年の3月20日、午後8時ごろに事件は起きました。月曜日の朝であり、出勤ラッシュのピークであったため、被害だとても大きく大混乱に陥りました。

オウム真理教の教団員らが、主要地下鉄にサリンを撒いたのです。その結果、駅員や乗客らが13人死亡死亡し、約6300人もの人たちが重軽傷を負いました。

事件が起きた地下鉄は、丸ノ内線・日比谷線・千代田線でした。日比谷線に至っては終日運行不能となりました。

実行犯であるオウム真理教の教団員たちは、500〜600gの溶液を2つ、林郁夫は3つを運び各自割り当てられた列車へと乗り込みました。そして、先端を尖らせた傘を使って乗降口付近で袋を数回突いてサリンを撒きました。サリンを撒き終えた実行犯は、共犯者の用意した自動車で逃走をしました。

事件があった線は、通勤ラッシュのために混雑がひどく、乗客は簡単には避難できなかったといいます。

 

千代田線(我孫子発代々木上原行)

千代田線でのサリン散布は林郁夫が担当し、逃亡の際の車の手配を新実智光が担当しました。

林郁夫はマスクを着用し、千駄木町から電車へと乗り込み、綾瀬駅と北千住駅では時間を潰しました。その後、北千住駅を7時48分に発車する電車の先頭1号車に乗車し、8時2分頃新御茶ノ水駅へ電車が停車する直前にサリンを散布しました。

林郁夫は3袋サリンを持っていましたが、実際に袋の穴が空いたのは1袋だけでした。

電車はそのまま運行しましたが、二重橋前駅 -から日比谷駅間で乗客数人が相次いで倒れたのをきっかけに次々と人に被害が及び始めました。

通報があったため、霞ケ関駅で駅員がサリンを排除しようとしましたが、サリンが入っているとは知らずに袋を除去しようとした駅員が数名、被害を受けてしまいました。

この電車による被害者は231名にも及びました。

 

丸ノ内線(池袋発荻窪行)

サリンの散布を担当した広瀬健一は、7時47分池袋駅発の丸ノ内線の2号車に乗り込みました。

茗荷谷駅か後楽園駅に電車が停車際に3号車へと移動し、御茶ノ水駅に停車した際にサリンをばら撒きました。

通報を受けたため、中野坂上駅で重症患者を搬送しサリンが入った袋を除去したため、この電車は変わらずに運行を続けてしまいました。

終点の荻窪駅で折り返し運行をしてしまったため、被害者はどんどん増え続けてしまいました。サリンを撒いた広瀬健一自身も被害を受けてしまい、林郁夫に治療をしてもらっていました。

この電車では1人が死亡し、358人が重症を負っています。

 

丸ノ内線(荻窪発池袋行)

サリンの散布を担当した横山真人は、7時39分に新宿駅を出発する池袋行きの丸ノ内線へと乗り込みました。

そして、高架駅である四ツ谷駅に電車が進入した時、サリンの袋を開けました。

8時30分に終点である池袋駅に到着した際、なぜか本来行なわれるはずの車内点検がこの電車はされず、サリンを乗せたまま再び電車は折り返し運行を始めてしまいました。

電車はなんと、サリンが撒かれてから1時間40分もの間運行を続けていたのです。にもかかわらず、200人の重症者は出しましたが、唯一死者は出ませんでした。

 

日比谷線(中目黒発東武動物公園行)

7時59分に中目黒駅を発車する日比谷線の先頭車両に、散布役の豊田亨が中目黒駅から乗車しました。

そして恵比寿駅に差し掛かった際、サリンの散布を行いました。

異臭に気づいた乗客が窓を開けるなどの対応を取り、先頭車両の乗客は後方に移動させられましたが、1人が死亡し532人が重症を負ってしまいました。

 

日比谷線(北千住発中目黒行)

サリンの散布を担当した林泰男は、袋を3つ持って北千住駅を7時43分に発車する中目黒行きの電車に、上野駅から乗り込みました。

秋葉原駅に差し掛かった際に、実行犯の中で最も多くのサリンをバラ撒き逃走しました。乗客への影響はすぐに現れたため、ある乗客がサリンが入った袋をプラットホームへと蹴り出してしまいました。このことが、後にサリンによる被害が拡大する原因となってしまったのです。

8時10分に乗客が車内非常通報装置を押したため、電車は築地駅で停車しました。そして、ドアが開くと同時に数人の乗客がホームになだれ込むように倒れてしまいました。

また、プラットホームへと放り出されたサリンの影響により、5つの後続列車も被害を受けてしまいました。一番多くの被害を出したこの電車では、8人が死亡し2,475人が重症を負ってしまいました。

 

事件後

引用: Pixabay

サリンをばら撒き逃走した実行犯たちは、渋谷にあるアジトへと集まって事件の様子をリアルタイムで観察していたと言います。

死人が出たことを大喜びし、はしゃいだ教団員もいるそうでした。その後、事件で使用した傘などの証拠品を多摩川で焼却した後、麻原彰晃の元へと戻り報告をしました。

麻原彰晃はこの地下鉄サリン事件のことを『ポア』であると強調していたと言います。『ポア』とは、麻原彰晃が殺人を正当化するために使っていた言葉であり、実際にチベット語に存在する言葉地なっています。

また麻原彰晃は、実行犯たちにおはぎとオレンジジュースを渡し、『ポア』の成功を強調していました。

 

林郁夫の判決は?【地下鉄サリン事件】

引用: Pixabay

多くの人を犠牲にした地下鉄サリン事件。当然、オウム真理教の実行犯たち死刑判決が出されました。

しかしながら、林郁夫だけは無期懲役判決が出されたのです。一体その理由とはなんなのでしょうか?

林郁夫の裁判で判決が出されるまでの道のりをまとめるとともに、無期懲役判決が下された理由も述べていきます。

 

林郁夫が抱いた疑念

引用: Pixabay

林郁夫は、比較的早い段階で麻原彰晃の洗脳が溶けることになります。

まず最初に林郁夫が麻原彰晃に対して不信に思ったのは、「地下鉄の騒ぎでオウムが疑われてるのは心外だ」と麻原彰晃が言った時でした。

他にも、逮捕後に麻原彰晃が「シヴァ神にポアされて良かったね。マントラを1万回唱えなさい」と言ったことでも、麻原彰晃への不信感が募っていきました。

当初、林郁夫は取り調べにおいて「警察とオウム真理教との戦いだ」と述べていたり、断食を宣言するなどの警察に対して敵対視している様子が見られました。

しかし、『人を助けるのが医者の役目でしょう。』と警察側に言われた際に洗脳が溶けたのか、林郁夫は自分がサリンを撒いたと自供をしたのです。

林郁夫が逮捕された時、最初は警察側もまさか林郁夫が事件に関わっているとは思っていなかったそうです。そのため、林郁夫が自供した時も「先生、嘘だろう」「誰かをかばっているの」と何度も確認していたようでした。

 

無期懲役判決の理由

引用: Pixabay

林郁夫の判決が無期懲役となった理由は

  • 早い段階で自供したこと
  • 自分の犯した罪を悔やんでいたから
  • 警察の捜査に協力的であったから

などがありました。

公判の最中にも自分がサリンを撒いたために人が亡くなったことに対して、「私は本来人を助ける医者でありながら、そういう人達に比べて…」と号泣するなどの一面も見られました。

こう言った様子から、被害者側の遺族が「林郁夫は改悛の情がある。」と言っており、林郁夫に対して死刑判決を求める声は多くはなかったそうです。実際に、林郁夫が撒いたサリンのせいで亡くなられた駅職員の妻は「許してもいい。」と公判で述べていました。

また、林郁夫が地下鉄サリン事件についての詳細を警察側に伝えたため、事件の全容を暴くことができたという利点もあったため、無期懲役判決が求刑されました。

 

判決の日

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1998年の5月、林郁夫の判決が言い渡されました。

判決は無期懲役。検察側も林郁夫側も酵素をしなかったため、この判決が決定しました。

地下鉄サリン事件において、サリンをばら撒いた実行犯は全部で5人であり、そのうちの林郁夫以外は全員が死刑となりました。林郁夫は唯一死刑を免れた人物なのです。

他4人の死刑は2018年7月に執行されました。そのため、地下鉄サリン事件の実行犯で現在も生きているのは、林郁夫のみになります。

死刑判決ではなく無期懲役である理由について、裁判長は「自己の記憶に従い、ありのままに供述していることが認められる。極刑が予想されるなか、臆することなく決定的に不利な事項にまで及んでおり、覚悟したうえでの胸中の吐露であって、被告人の反省、悔悟の情は顕著である。」と述べていました。

いくら自責の念が感じられたとしても、このような大きな無差別大量殺人事件の実行犯に対して求刑を軽減するのは、とても異例のことでありました。

 

裁判長の苦悩

引用: Pixabay

林郁夫の裁判を担当し、判決を言い渡したのは山室惠さんでした。

山室惠裁判長は、林郁夫の判決について「自分が下した判決が正しかったのか、これほど自問自答し続けた裁判はない」と述べていました。

ですが、今あの裁判の時に戻ったとしても、同じ判決を下していたとも述べていました。また、林郁夫は一生外に出てはいけないとも述べていました。

 

オウムと私

 

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林郁夫は『オウムと私』という本を出版しています。

なぜ麻原彰晃に洗脳されてしまったのか、なぜ地下鉄サリン事件のような無慈悲な事件を起こしてしまったのか、獄中で綴られた苦悩と悔恨の本になっています。

その時々の林郁夫の感想や内心など、詳しく書かれています。

 

反オウム真理教に?

引用: Pixabay

林郁夫は、言ってしまえばオウム真理教を裏切りました。なんせ、地下鉄サリン事件の詳細などを警察側に伝えてしまったからです。

しかし、林郁夫は完全に反オウム真理教となった訳ではありません。

2000年に、麻原彰晃の子どもが就学を拒否されるという問題や、オウム真理教の信者たちの住民票が不受理される問題などが起きました。

この時の裁判に林郁夫も出廷しており、その際には「あまりにも一方的であり、フェアでない。何もかも悪い、何もかも危険と、そのように世論が誘導されている」という言葉を述べていました。

完全にオウム真理教が悪いという訳ではなく、罪のない子供達や人間に与えられる最低限の基本的人権は守られるべきという意見を林郁夫は持っていました。

 

嫁と子供の現在は?

引用: Pixabay

先ほども述べましたが、林郁夫には嫁と2人の子供がいます。現在はどうなっているのでしょうか?

 

嫁の判決

引用: Pixabay

林郁夫の妻である芦田りらも、信者の指紋除法手術を行ったために逮捕されてしまいました。

裁判では懲役1年執行猶予3年の判決が下されました。現在はすでに出所されています。

出所後は麻酔科医としての医師登録が継続されていたため、医者として活躍されていたことでしょう。

 

子供達の現在

引用: Pixabay

2人の子供達も同様に、医者として活躍されているという話がありました。

子供達に関して名前など詳しいことは明らかになっていませんが、子供達は何も悪いことをしていません。名前などが出てしまって、殺人者の子供というレッテルが貼られてしまわないよう、気をつけているのかもしれませんね。

両親ともに優秀な医者であったため、おそらくお子さんたちも優秀な医者になられていることでしょう。

 

林郁夫の現在は?

引用: Pixabay

ここまでオウム真理教の元幹部であり、優秀な医者であった林郁夫について紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?

林郁夫は思いやりのある優秀な医者でありましたが、オウム真理教という団体に洗脳されてしまい、大規模な無差別殺人事件の実行犯となってしまいました。

頭が良すぎるあまり、悩みや苦悩などを抱えてしまってからは歯止めが効かなかったのかもしれません。ですが、本来の気持ちを取り戻したのか、警察の言葉によって自分がしたことの罪の重さに気づきました。

地下鉄サリン事件の実行犯の中で唯一無期懲役となり、2010年5月に刑務所へ入所して現在も服役をしています。二度とあの時のような事件を起こさないために、林郁夫のような方の力も必要なことでしょう。

無期懲役はいつ刑務所を出られるかわかりません。そればかりか、結局出れずに一生を終えてしまうことだってあります。それは林郁夫も例外ではありません。

また、林郁夫も高齢者となってきたため、いつ亡くなってしまうかもわかりません。

林郁夫の今後の動向や様子にも、注目が必要でしょう。

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