モルガンお雪の遺産や子孫は?旦那はJPモルガンの甥っ子!

  •  
  •  
  •  
  •  
  •  

モルガンお雪とは?

引用: Pixabay

モルガンお雪という人物をご存知でしょうか。

モルガンお雪とは、明治時時代に有名になった芸妓の女性です。現代まで小説や絵画などのモデルになっている人物でもあります。

では、明治時代に有名になったモルガンお雪についてここからご紹介していきます。

モルガンお雪とはどのような女性なのでしょうか。モルガンお雪という名前から、明治時代に外国の人物と結婚したと推測されます。

そのことから、モルガンお雪がどのような旦那と生涯を共にしてきたのかについてもご紹介します。

ぜひ、参考にしてみてください。

 

モルガンお雪の生い立ちと経歴

引用: Pixabay

まずはモルガンお雪の生い立ちと経歴を見ていきましょう。

 

生い立ち


引用: Pixabay

モルガンお雪は、明治14年11月から昭和38年5月(1881年~1963年)の生涯を送った日本の芸妓の方です。
モルガンお雪はアメリカの大富豪JPモルガンの創設者の甥、ジョージ・モルガンと結婚したことで知られます。モルガンお雪の本名は”加藤ユキ”で、芸妓目は“雪香”です。

モルガンお雪は京都寺町の刀検商である平助と呼ばれる方の娘と言われています。モルガンお雪の和えが祇園でお茶屋兼置屋の「加藤楼」を経営していたため、モルガンお雪は14歳で芸妓となります。

20歳の時、モルガンお雪には彼氏がいました。京都大学に通う10歳年上の苦学生の彼氏で、生活を助けるために彼の学費や生活費を払って面倒を見ていました。

 

JPモルガンと出会う


引用: Pixabay

実際にモルガンお雪の生い立ちははっきりした情報がありません。

士族の家柄、刀鍛冶の娘などの諸説がありますが、14歳の時に芸妓になり、外国人専用のお店で働いていたのは事実で、これがきっかけとなってジョージ・モルガンと出会うことになります。

当時モルガンお雪が働いていた外国人向けのお店は、隠した扱いされていました。しかし、モルガンお雪は歌、舞、胡弓の演奏が得意としていたことから評判が良かったといわれています。

そして20歳ぐらいになったころにジョージ・モルガンと出会います。明治35年、“都をどり”の時にジョージ・モルガンと出会います。都をどりとは、現在も受け継がれている京都祇園甲部の芸舞妓さんが年に1度日頃の精進の発表の場として講演する歌舞会です。

当時芸舞妓ではなく芸妓のモルガンお雪は都をどりを披露いていました。そこに日本に旅行をしに来ていたアメリカの大富豪、ジョージ・モルガンに出会います。

ジョージ・モルガンはアメリカの金融財閥モルガン紹介の創始者の甥です。JPモルガンはモルガンお雪と10歳年上です。

JPモルガンは母国で婚約者に別れを告げられ、失恋の傷を癒すために日本に旅行にきていました。そして旅行先のお店でモルガンお雪と出会うのです。

モルガンお雪の美貌にほれ込んだジョージ・モルガンは「お前を身請けしたい」とモルガンお雪に申し出ます。しかし、モルガンお雪がすぐに返事ができないことから返事をためらいます。

話を引き延ばすモルガンお雪に対して、ジョージ・モルガンは大富豪の資産家の一族である都合から、日本に長期間滞在することが難しいことから一時アメリカへ帰国するのです。

 

京都大学の彼との別れ

Array

引用: Pixabay

モルガンお雪は、身請けの話をお店のお客に話していたようです。

その中に、芝居小屋「千本座」の主である牧野昭三という人物がいました。その人はこの話を面白がり、「そんなら4・5万でくらいふっかけてみな」と、モルガンお雪に言ったといわれています。

そしてこの話が数日後の新聞に載り、モルガンお雪は「4万円の貞操」という見出しとモルガンお雪を写真入りで刊行してしまったのです。

そのことから、ジョージ・モルガンお雪の評判や印象が悪くなります。その頃の時代は開国後の時代とは言え外国人の印象は「毛唐」などと言われるほど悪いものでした。

このころ、モルガンお雪には同じぐらいの年齢の恋人がいました。しかし、新聞の騒動や、芸妓と付き合っていることへの評判が悪かったこともあり、別れざるを得ない状況になってしまったのです。

記録では、この騒動が発端となりモルガンお雪は別れてしまったといわれていますが、当時の彼氏は現在の京都大学である京都帝大に通学していたことから、身分は高い人物だったのではないかと推察されます。

そのことから、ジョージ・モルガンとの騒動がなくても、付き合うことに反対され、恋が実らなかった可能性があるとも言えます。

一方、ジョージ・モルガンは4年に3回という頻度でモルガンお雪に会いに来てくれました。当時は日本とアメリカの移動手段は船のみでした。

そのため移動日数も数カ月かかる中会いに来てくれているジョージ・モルガンの誠意に胸を撃たれたようで、モルガンお雪はジョージ・モルガンと4万円の身請けで結婚するのです。

 

モルガンお雪の結婚相手はJPモルガンの甥?

引用: Pixabay

モルガンお雪の結婚相手はJPモルガンの甥なのでしょうか?

見ていきましょう。

 

JPモルガンの創設者

引用: Pixabay

モルガンお雪は、JPモルガンの創設者の甥にあたるジョージ・モルガンと結婚したといわれています。

JPモルガンはアメリカの大富豪である財閥で、ジョージ・モルガンはその創設者の甥と言われています。

当時のJPモルガンの財閥力はアメリカでも大富豪と呼ばれるほどの富豪者で、それがわかる行動こそ、ジョージ・モルガンが幾度もモルガンお雪に会いに行けるほどの財力を持ち合わせていたということと証明できるのです。

 

モルガンお雪は大富豪だった?

引用: Pixabay

上記でもご紹介した通り、JPモルガンはアメリカでも大富豪として有名でした。

ジョージ・モルガンはモルガンお雪に当初、激しい求婚をぶつけていましたが、モルガンお雪が芸妓から水揚げするためには4万円必要であるというのです。

当時の4万円は南座が帰る金額であることからかなりの高額です。モルガンお雪は途方に暮れそうな金額をジョージ・モルガンに提示し、結婚をあきらめてくれるよう促しますが、ジョージ・モルガンは一度アメリカに帰国したのち、すぐに4万円を用意して再び日本へ向かうのです。

持参金を持ち、再びモルガンお雪に会いに来たことで、かなりの大富豪だということがわかります。

 

モルガンお雪の子孫は?

引用: Pixabay

ここからはモルガンお雪の子孫についての情報についてご紹介していきます。

 

子孫の情報はなし

Array

引用: Pixabay

ジョージ・モルガンとモルガンお雪は結婚後も波瀾万丈な生活を送っています。

日本で正式に結婚式を挙げ、アメリカに移った後も、一時日本に帰国した際には新聞に「金に目がくらんだ女」だと書きたてられました。

アメリカでもモルガンお雪に対する視線は冷たいもので、クリスチャンでないことや、東洋人であることで差別をされます。一説では、モルガン家やニューヨークの社交界で受け入れてもらえなかったこともあったようです。

ジョージ・モルガンの姉、キャロラインだけは理解者だといわれていましたが、親族の中でも味方が一人だけだったという現実は痛々しいものでした。

そのような生活を送っていた2人は、アメリカでも日本でもなくフランスで暮らすことを選択します。ジョージ・モルガンは一族よりもモルガンお雪と一緒に暮らすことを選ぶのです。よくできた旦那様とも言えます。

当時はモルガンお雪も外国人に身請けをされることを嫌がっていたということを言われていましたが、こうして2人で暮らしている様子を見ると、結婚生活もうまくいっていたことがわかります。

しかし、平穏な生活も長くは続かず、ジョージ・モルガンは、モルガンお雪が34歳の時に心臓麻痺を起こしてなくなってしまいました。

そのことから、2人の間に子どもがいたという説はなく、モルガンお雪はジョージ・モルガンの遺産を受け取ったまま、フランスに住み続けました。

 

しかし、日本に帰国してから養女を引き取ったという情報も

引用: Pixabay

一説によれば、モルガンお雪が帰国した時にキリスト教の洗礼を受けた際、養女をもらい受けたといいます。81歳までの生涯を終えるときに、養女が最後まで添い遂げたという情報もあります。

血のつながっている子孫がいるかどうかは不明ですが、養女がいたという情報がいたということに間違いはないでしょう。

 

4億円の貞操、モルガンお雪

引用: Pixabay

ジョージ・モルガンが亡くなった後もフランスに住み続けたモルガンお雪ですが、その翌年にはフランスの陸軍士官で言語学者でもあったサンデュルフ・タンダールと恋仲になりました。

ジョージ・モルガンの遺産はその恋人の学業に使ったといわれ、その事実は賛否両論を呼んでいます。その後、15年程でサンデュルフも心臓麻痺によって亡くなっているのです。

実は、フランスに住み続けたモルガンお雪の心情は、日本とアメリカとは違うフランスの対応であったともいわれています。

パリで平安に暮らしていたモルガンお雪は、日本人嫌いとの噂が立っていたといいます。近隣にも同じ年頃の、同じ京都出身の女性が住んでいたようですが、今までの仕打ちがあってか、モルガンお雪は交流することがなかったというのです。

パリに住んでいる間、京都の生家にも便りを送ることは、あまりなかったといいます。ですが、母のいない生家への仕送りは財産管理者から耐えることなく貴重面に送っていたといいます。

そのことから、経済面では特に問題なく暮らしていたようですが、旦那がいてもいなくてもパリでの対人関係はほとんどなかったというのです。

 

4億円の貞操と呼ばれる所以

引用: Pixabay

モルガンお雪が4億円の貞操と呼ばれていることについては、まさにモルガンお雪がジョージ・モルガンによって4万円で身請けをしてしまうことが、その当時の時代では理解してもらえなかった国際結婚への反発ともいえるでしょう。

そのため、新聞では「4蔓延の貞操」と呼ばれるようになってしまったのです。

 

その後のモルガンお雪について

引用: Pixabay

4万円の貞操と呼ばれてしまい、居心地が悪かったと思われるモルガンお雪は、フランスで暮らし続けます。しかし、第二次世界大戦前に日本に帰国し、京都で暮らすようになりました。

その際、ジョージ・モルガンの遺産を持ったまま帰国し、かつて国籍をはく奪されてしまっていたモルガンお雪は政府によって怪しまれてしまい、財産を差し押さえられてしまいます。

終戦後には財産が手元に戻ってきて遺産相続兼が回復しますが、それまでのモルガンお雪に対する俗世が嫌になってしまい、71歳の時にキリスト教の洗礼を受けるのです。洗礼名は「テレジア」という名前で、その後は81歳で生涯を終えます。

モルガンお雪が1915年、43歳の時です。それはジョージ・モルガンの結婚から10年後のことでした。「死が2人を分かつまで」というように、キリスト教という宗派は結婚に関しても厳しい条項があります。

そのためモルガンお雪はキリスト教の教えに沿い、言葉通りに2人の死が分かつまで添い遂げ、その後2人目に当たる恋人になるタンダールとあるマルセイユに住んだといわれます。その後、タンダールも死別した後に1938年、に帰国し、京都で暮らしました。

祇園の芸妓としての経歴を持つモルガンお雪が、このような生涯を終えてしまったことに、いまいち華やかさを感じないと思う人もいると思いますが、モルガンお雪はもともと根っからの芸妓ではなく、名家の出身であることが各情報からとれます。

しかし、モルガンお雪が生まれてすぐに父親が死去し、その後家運が傾いてモルガンお雪とその姉妹たちは祇園の芸妓になったといいます。

このことから、芸妓になったモルガンお雪はもともと名家の出身であったことから教養を備えていたことで気品もあり、その美しさがジョージ・モルガンを魅了したのではないかと言われています。

ここまでモルガンお雪についてご紹介していきましたがいかがでしたでしょうか。

歴史上、モルガンお雪は印象が悪いように思われている女性のうちの一人でしたが、実際にモルガンお雪の歴史をたどると、その時の時代の偏見によって生み出された汚名がモルガンお雪に降りかかっているようにも思えます。

ですが、モルガンお雪をモデルとした数々の著書が刊行されても、モルガンお雪という女性の歴史ははっきりと記載されていません。

そのことから、モルガンお雪が生きた時代、世間が4万円の貞操と騒がせてきたことに対して、彼女を擁護する歴史をたどる書物が見受けられないことは少し悲しいとも感じます。

もし、現代にモルガンお雪が生誕していたとしたら、モルガンお雪の印象や歴史の在り方は大きく変わっていたとも感じます。並びに現代で容認されている国際結婚の先駆者であると痛感せざるを得ません。

言うなれば、モルガンお雪は現代の歴史的見解を塗り替えた素晴らしい女性ともいえるのです。昔は偏見の多かった時代でもあります。そういった時代でも、外国人との結婚を決めたモルガンお雪は、素晴らし女性であると感じます。

歴史を重ね、モルガンお雪の印象が良くなると思い、これから歴史が紐解かれていくことを願います。

 

人気の記事