光市母子殺害事件の真相!福田孝行の死刑確定&被害者遺族その後まとめ! | ToraTora[トラトラ]

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「光市母子殺害事件」をご存知でしょうか。

山口県光市にある社宅で、母親の弥生さん・子どもの夕夏ちゃんが殺害された事件です。弥生さんは殺害後に強姦されていました。また、当時11ヶ月の赤ちゃんだった夕夏ちゃんまでもが殺害されました。

光市母子殺害事件で逮捕された犯人・福田孝行(大月孝行)は当時18歳1ヶ月で、まったく反省の色が見えないながらも、少年法を盾に無期懲役を勝ち取っていました。

しかし、殺された弥生さん・夕夏ちゃんの無念を晴らすべく、夫の本村洋さんは戦い続けました。差し戻し審を経て、犯人・福田孝行(大月孝行)には、最終的に死刑判決がくだされました。

今回は、光市母子殺害事件の真相に迫りたいと思います。光市母子殺害事件の概要、光市母子殺害事件の犯行内容・真相、犯人・福田孝行(大月孝行)の詳細や、友人に宛てた手紙の内容、光市母子殺害事件で弁護士を担当した安田好弘の詳細、光市母子殺害事件の判決など、詳しくご紹介していきます。

光市母子殺害事件の概要

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1999年4月に起きた「光市母子殺害事件」は、どのような事件だったのでしょうか。概要をご紹介します。

【1】光市母子殺害事件発生

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光市母子殺害事件は、山口県光市にある社宅団地の一室で起きました。社宅の3階には、ある若い夫婦と子どもが住んでいました。本村洋さん(当時23歳)、妻・弥生さん(当時23歳)、夕夏ちゃん(当時11ヶ月)です。

1999年4月14日、下水道の修理と偽って、本村洋さん宅に侵入してきた男・福田孝行(大月孝行)は、弥生さんと夕夏ちゃんを殺害しました。この事件が『光市母子殺害事件』です。

弥生さんと夕夏ちゃんの遺体を発見したのは、会社から帰宅した夫の本村洋さんでした。弥生さんは、服を脱がされた裸の状態で亡くなっていました。本村洋さんは『(弥生さんが)レイプされているというのが一目でわかった』と、当時の真相を振り返っています。

【2】犯人逮捕

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光市母子殺害事件から4日後、犯人の福田孝行(大月孝行)が逮捕されました。福田孝行(大月孝行)の年齢は、18歳と1ヶ月でした。

当時の少年法では、『犯罪者が18歳未満の場合は死刑を禁止する』ことや、『厳罰よりも更生に重きをおく』という内容が定められていました。福田孝行(大月孝行)は当時18歳と1ヶ月だったので、法律上は死刑が可能だったのですが、簡単に判断できないボーダーラインとも言える年齢でした。

この年齢で死刑になった判例が、それまでほぼなかったため、便宜上、光市母子殺害事件の福田孝行(大月孝行)には少年法が適用され、死刑は免れるのではないかと見られていました。

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犯行動機について、福田孝行(大月孝行)は当初『本村さん宅の呼び鈴を押して、弥生さんが応対した際、弥生さんが可愛く華奢な女性だったので、無理やりセックスができるのではないかと考えた』と語りました。

しかしその後、福田孝行側に人権派の弁護士・安田好弘がついたことで、供述を大きく変更。福田孝行は、誰が聞いても信じられない意味不明な犯行動機を語るようになりました。

【4】少年法を乗り越え死刑判決

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光市母子殺害事件の一審、二審で、福田孝行は無期懲役を言い渡されました。少年法に基づき『更生の余地がある』と判断されたためです。しかし、光市母子殺害事件の残虐性からみて承服しかねる判決であることは明らかです。

その後は、光市母子殺害事件の被害者遺族・本村洋さんの尽力的な活動もあって、最高裁では差し戻し審が言い渡されました。差し戻し審となった広島高等裁判所で、光市母子殺害事件・犯人の福田孝行(大月孝行)は死刑判決となりました。

犯人、福田孝行の驚愕の犯行内容まとめ

仕事でどうしようもないクズに遭遇した。顔がどこかで見た気がする奴だ。思い出した。光市母子殺害事件犯人の福田孝行である。のっぺりした顔で人間の感情が感じられない。福田ほどワルではないが、人間としての道徳のない奴で、一生刑務所に隔離してほしい輩である。 pic.twitter.com/LNII8au3Qh

— tanaka.jun (@tanakajun8) February 14, 2019

光市母子殺害事件で、犯人・福田孝行(大月孝行)は、どのような犯行をしたのか、その真相を詳しく解説していきます。

光市母子殺害事件は残虐性が高い事件となっていますので、閲覧の際はご注意ください。

殺害後強姦

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光市母子殺害事件犯人・福田孝行(大月孝行)は、本村さん宅を強姦目的で訪れました。下水道の修理工と偽って本村さん宅に入ったあと、弥生さんを押し倒して強姦しようとしましたが、激しく抵抗されたといいます。

福田孝行は、弥生さんを殺してから強姦しようと考え、首を絞めて殺害。弥生さんが亡くなった後、遺体を強姦しました。

乳児を叩きつける・殺害

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弥生さんと共に家に居た夕夏ちゃんは、当時11ヶ月の乳児でした。

弥生さんを強姦後も、泣き止まない夕夏ちゃんに対し、福田孝行は床に叩きつけるなどして暴行しました。その後、夕夏ちゃんの首を紐で締め上げて殺害しました。母親を殺された乳児がどれほどの恐怖を感じたのか、想像すると悲痛です。

その後、弥生さんの遺体を押入れに、夕夏ちゃんの遺体を天袋に遺棄しました。

財布を盗む

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強姦という目的を遂げ、弥生さん・夕夏ちゃんの遺体を遺棄した福田孝行。その後、福田孝行はなんと本村さん宅のリビングに置かれていた財布を盗み、逃走しました。

盗んだ金に関して、福田孝行は『ゲームセンターの遊興費や、友達の家に立ち寄るなどして浪費した』と供述しています。

光市母子殺害事件では、鬼畜の所業と言わざるを得ない、残虐な犯行が行なわれました。テレビなどの報道機関は、上述のようなショッキングな事件内容を詳しく報道することを控えていましたので、初めて内容を知った方も多いかもしれません。

大月孝行の戦い【光市母子殺害事件】

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ここまで、光市母子殺害事件の概要や、光市母子殺害事件の犯行内容について詳しくご紹介しました。

では、光市母子殺害事件の犯人・福田孝行(大月孝行)は、どのような経歴だったのでしょうか。また、光市母子殺害事件の裁判ではどのように争ってきたのでしょうか。

【1】福田孝行(大月孝行)の経歴

大月(福田)孝行 光市母子殺人事件 1999年4/14 会社員男性の妻に暴行しようとしたが抵抗され殺害。その後に暴行。乳児も殺害。一審と二審で無期懲役だったが、反省の色が見られず高裁の差し戻し審で死刑判決、その後確定。死者2名 pic.twitter.com/Mr0UmK8o6y

— 日本の確定死刑囚bot (@sikei_syu_bot) August 7, 2019

光市母子殺害事件・犯人の福田孝行の経歴は、以下のようなものです。

名前:福田孝行(後に大月孝行)

生年月日:1981年3月16日

年齢:18歳1ヶ月(光市母子殺害事件当時)

職業:職人(下水)

家族:父親、母(再婚)、弟、弟(再婚相手の子)、祖母

【2】福田孝行(大月孝行)の生い立ち

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光市母子殺害事件・犯人の福田孝行(大月孝行)は、複雑な家庭環境で育っています。

福田の父親は、結婚前の母親を強姦して入院させたことがあるといいます。その後二人は結婚、福田孝行は長男として誕生しました。

特筆すべきは、福田の父親のひどさです。母親の実家に借金を重ねながらギャンブル三昧だったほか、家庭内暴力もひどかったといいます。父親から母親への暴力を見かねた福田孝行が母親をかばうと、腹を立てた父親は福田をターゲットにし、失神するまで殴り続けたそうです。

荒れた日々に耐えかねた母親は、次第に精神を病んでいきました。そして福田が中学1年生の時、ついに首吊り自殺してしまいました。父親は福田に対し、母親の死体の処理を命令したといいますから、少年時代の福田の生活がどれほどの地獄だったか想像もできません。

母親の自死後、父親はフィリピン人の女と再婚。福田孝行は逃げるように家出を繰り返すようになりました。

上述のように、福田孝行が悲惨な家庭環境で育ったことは明白でした。光市母子殺害事件のような残虐な事件を引き起こす原因になっているのは間違いないと考えられます。

【3】福田孝行(大月孝行)の手紙

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第一審で無期懲役となった福田孝行が、友人に宛てた手紙の内容が明らかになっています。福田孝行の手紙は当時報道でも話題となり、『まったく反省していないことが伝わる手紙』、『福田孝行という人間の真相がわかる手紙』として話題になりました。

光市母子殺害事件の犯人・福田が友人に宛てた手紙は、どのようなものだったのでしょうか。

手紙には「終始笑うは悪なのが今の世だ。<中略>私は環境のせいにして逃げるのだよ、アケチ君」といったふざけた内容が書かれていました。他の手紙には「無期は決定、7年そこそこでシャバに戻る」といったものや、「犬がある日可愛い犬と出会ってそのまま”やっちゃった”罪でしょうか」という手紙、更には「2番目の犠牲者が出るかも」という手紙もありました。

検察はこの手紙を「反省していない証拠」として、広島高裁に証拠として提出しています。

【4】福田孝行(大月孝行)の裁判での振る舞い

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光市母子殺害事件の裁判で、福田孝行(大月孝行)は当初、かたちだけの謝罪を述べながらも、犯行内容を全面的に認めていました。少年法に守られているという意識や、絶対に死刑にはならないという自信があったのかもしれません。

しかし、上告審から弁護士が安田好弘に変更されたことをきっかけに、奇妙な供述を繰り返すようになりました。その真相は何なのでしょうか。

弁護士の安田好弘は、人権派・死刑廃止派などと呼ばれる派閥に属する弁護士です。安田好弘は過去に「地下鉄サリン事件」の麻原彰晃や、「和歌山カレー事件」の林真須美の弁護をつとめていた経歴があります。

弁護士を安田好弘に変更してから、福田孝行は次のような「反論文」を書いています。

・弥生さんレイプ目的ではない。お母さんに甘えたいという気持ちで抱きついただけだ。

・弥生さんが亡くなった後に強姦したのは、精液で復活の儀式をするためだ。

・夕夏ちゃんに対して殺意はなかった。泣き止ませようと、首に紐をちょうちょ結びしてあげただけだ。

・夕夏ちゃんを天袋に遺棄したのではない。入れておけばドラえもんが助けてくれると思ったからだ。

上記のような意味不明な主張をし、被害者遺族の感情を逆なでしたのです。

このような主張を繰り返すようになった真相は何なのでしょうか。これに関しては、弁護士・安田好弘の助言が真相ではないかと考えられています。

死刑を免れるための策略なのか、福田孝行が本気で言った内容を信じて公表したのか、真相は不明ですが、どちらにせよ光市母子殺害事件の裁判を混乱させる内容でした。

【5】名字が「大月」になった理由は?

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光市母子殺害事件の犯人・福田孝行は、裁判の途中で「大月孝行」に名字を変更しています。なぜなのでしょうか。これは、福田孝行が大月純子という女性と養子縁組をしたためです。

養子縁組した真相についても、気になる方が多いかと思います。真相としては、死刑囚と面会可能なのは親族のみと決められているからだそうです。

従って、死刑囚として受刑中の福田孝行に面会できるよう、大月純子が養子縁組したと考えられます。こちらの大月純子という女性は、死刑制度廃止派の活動家です。牧師としても活動しているそうです。光市母子殺害事件では「女性支援者」と称されることもあります。

人権派の弁護士・安田好弘や、活動家・大月純子が絡んだことで、光市母子殺害事件の真相はよりわかりづらいものとなっているように思えます。

犯人、福田孝行の判決は?【光市母子殺害事件】

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光市母子殺害事件の犯人、福田孝行(大月孝行)の判決はどのようなものだったのでしょうか。

結論から先に言えば、福田孝行(大月孝行)は死刑判決となりました。しかし、この死刑判決までに本村洋さんは長い戦いを強いられてきたのです。

光市母子殺害事件の初公判は、1999年8月におこなわれました。福田孝行(大月孝行)は『遺族に申し訳ない』と述べましたが、本村洋さんは『福田孝行(大月孝行)に人権は認めない』『福田孝行(大月孝行)に死刑を与えないなら、私が自らの手で殺すまでです』と、強い怒りを表しています。

1999年11月の第三回公判でも、福田孝行(大月孝行)は光市母子殺害事件の事実関係を認め、謝罪の言葉を述べ、本村洋さんに頭を下げる場面があったと言います。しかし本村洋さんは『福田孝行(大月孝行)のパフォーマンスだ』『私が今どういう気持ちで生きているか、福田孝行(大月孝行)は考えたのだろうか』と、争う姿勢を真っ直ぐに述べています。

更に、第四回公判では、法廷内に弥生さん・夕夏ちゃんの遺影を持ち込むことが拒否されてしまいました。弥生さん・夕夏ちゃんの遺影は、福田孝行(大月孝行)に虚偽の証言をさせたり、裁判の進行が阻害される可能性がある、と言われたためです。

2000年3月22日の一審判決では、山口地裁は福田孝行(大月孝行)を無期懲役としました。福田孝行(大月孝行)に”更生の可能性がある”と判断したのです。本村洋さんは『敵は被告人(福田孝行)だけでなく、司法だったように思います』と、死刑とは程遠い司法判断に対し、無念の気持ちを口にしました。

”遺族が回復するためにも、死刑にしてほしい”…本村洋さんの願いは当然のことと言えますが、このことを公の場で主張した本村洋さんに対し、世論は批判的だったのです。

また、光市母子殺害事件後、福田孝行(大月孝行)が友人に宛てた手紙には、『被害者さんのことやろ?あれは僕も調子づいてると思いました』などと書かれていました。他の手紙には『俺がシャバに復帰したら盛大にパーティーしてくれよ!』などと書かれていました。

この手紙によって、福田孝行(大月孝行)が法廷で述べていた謝罪の真相は、本村洋さんの言う通り”パフォーマンス”であり、光市母子殺害事件の罪を軽くするために言っていたことがわかりました。

本村洋さんは『(光市母子殺害事件の後は)死んだほうが楽になれると思った』という悲痛な胸の内を語っています。しかし、亡くなった弥生さん・夕夏ちゃんを思えば、仇を取らなくてはならないと思い、生きることを決めたそうです。

2002年3月の二審判決でも、やはり福田孝行(大月孝行)は無期懲役となりました。しかし光市母子殺害事件について徹底的に争うと決めた本村洋さんは、犯罪被害者の団体に参加するなど積極的に活動をおこないました。法律の問題点を学んだり、同じような立場の被害者遺族の方と交流することで、知見を深めていったと言います。また、本村洋さんの活動によって、法廷に遺影を持ち込むことが許可されました。

2006年に最高裁で弁論が開かれた際、福田孝行(大月孝行)側は弁論を欠席。理由は『準備期間が短すぎる』という不自然な言い訳でした。実は、この弁論の2周間前に、福田孝行(大月孝行)の弁護人が、死刑廃止派で知られる人権派の弁護士・安田好弘に変更されていたのです。

1ヶ月後に延期された弁論で、弁護士・安田好弘は『逆手で弥生さんの口を抑えた』、『手がずれて首をしめてしまった』、『夕夏ちゃんの殺害も、泣き止ませようとしたからだ』などと荒唐無稽な弁護を繰り返しました。挙げ句、弁護士・安田好弘は、殺人ではなく傷害致死を主張し始めたのです。

そして福田孝行(大月孝行)もこれまでの供述を覆す「反論文」を公開しています。この反論文では、当初述べていた犯行動機を否定し、真相は『レイプするためでなく、お母さんに甘えるため』だったとして、ありえない持論を展開しています。

福田孝行は、これまでに友人に宛てた手紙を含め、一貫して被害者感情を逆なでし続けたと言えます。

2006年6月20日、最高裁の判決は「広島高等裁判所に差し戻し」となりました。無期懲役の判決が見直されることとなり、福田孝行(大月孝行)が死刑となる公算が高まったのです。

そして2008年4月、広島高等裁判所での差し戻し審の判決は「死刑」となりました。こうして、光市母子殺害事件の長い戦いが終わりました。

光市母子殺害事件の被害者遺族のその後

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光市母子殺害事件の被害者遺族である本村洋さんは、光市母子殺害事件後どのように生活していたのでしょうか。

本村洋さんは、光市母子殺害事件が起きた後、家族寮から独身寮に引っ越しています。このことから、光市母子殺害事件後も同じ会社にお勤めになっていたと考えられます。

本村洋さんによれば、光市母子殺害事件が起きた後、弥生さん・夕夏ちゃんを亡くして1~2年の間は、犯人・福田孝行(大月孝行)に対する恨みの感情・殺してやりたいという気持ちが大きかったと言っています。

しかし、恨みの気持ちだけで終わらせることはしませんでした。本村洋さんは、他の事件の被害者遺族と被害者遺族の会を発足しました。ここでは、法律の問題点や、被害者・被害者遺族の権利が保護されていないという問題点を話しあいました。この尽力が、被害者の権利保護を図る「犯罪被害者等基本法」の成立に大きく関与しました。

人権派の弁護士・安田好弘による荒唐無稽な主張にも負けず、ようやく勝ち取った犯人・福田孝行(大月孝行)の死刑判決ですが、本村洋さんは『うれしいとか喜びはない』『厳粛な気持ちで受け止めている』としました。

少年法の脆弱性を明らかにした【光市母子殺害事件】

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今回は、光市母子殺害事件の真相や、犯人・福田孝行(大月孝行)が友人に宛てた手紙、弁護士・安田好弘を交えた裁判など、光市母子殺害事件について詳しくご紹介しました。

18歳未満の少年は死刑にならない、更生を優先するという「少年法」の脆弱性が明らかになった事件でした。

光市母子殺害事件では、犯人の福田孝行(大月孝行)に死刑という判決が下されるまでに、とても長い期間がかかってしまいました。弥生さんの夫・本村洋さんは事件直後に『いま僕が生きる糧は、弥生さんと夕夏ちゃんの仇を取ってやることだ』『福田孝行(大月孝行)を死刑に導きたいと思っている』と話しています。

ですが、福田孝行(大月孝行)の弁護士を担当した安田好弘のおこないや振る舞いは、遺族感情を逆なでするような、ひどいものでした。弁護士・安田好弘の荒唐無稽な弁護は、本来守られるべき立場である遺族・本村洋さんに対し、長期にわたって精神的苦痛を与えてきたと言えるかもしれません。

光市母子殺害事件の犯人・福田孝行が死刑になっても、弥生さん・夕夏ちゃんが帰ってくるわけではありません。しかし本村洋さんが行なってきた活動は、大きな意味があったのではないでしょうか。被害者遺族の心の平穏を願うばかりです。

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