皆さんは横田めぐみさんをご存知でしょうか。定期的にニュース等に出てくるので、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
今回は、その横田めぐみさんについてご紹介していこうと思います。本編に入る前に簡単にではありますが、横田めぐみさんについてご説明させていただきます。
横田めぐみさんとは、1977年に中学の部活の練習後、行方不明になった人物のことで、今もその安否ははっきりしていない部分が多く帰国には至っていません。ですから学歴は中学在学中のままになっています。
この横田めぐみさんの行方不明の原因とされているのが朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮による拉致であると言われています。
横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて以来ずっと、警察や、母早紀江さん、父滋さんを中心にまた、日本国を巻き込んで捜索活動がなされており、その一連の行動は横田めぐみさん拉致問題として広く世に知れ渡っています。しかし、なかなか彼女の帰国というゴールへはたどり着けていません。
では、次項では、横田めぐみさんの生い立ち、経歴、学歴などからまずは、振り返っていきたいと思います。
横田めぐみさんの生い立ち&経歴を紹介!
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本項では、北朝鮮による拉致問題の被害者とされている横田めぐみさんの生い立ち、そしてその経歴や学歴を振り返っていこうと思います。
生い立ち&経歴【1】誕生
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横田めぐみさんは、母、早紀江さん、父、滋さんの長女として、1964(昭和39年)10月5日に名古屋の聖霊病院にて誕生します。ですから、現在彼女は55歳という年齢になります。
横田めぐみさんは、第一子で女の子ということもあり、父母に非常に可愛がられて育つことになります。また、2年後の1966年(昭和41年)に母、早紀江さんは双子の男の子を出産しています。
彼等は横田めぐみさんの弟にあたる人物です。父、母、横田めぐみさん、弟2人の計5人家族だったことが分かります。
ちなみに、弟2人は最終学歴が大卒のようで、しかも東大卒で医師をしているという情報もありました。そうなるとかなりの高学歴です。しかし、ある記事では大東文化大学卒とあり、また父滋さんの最終学歴も大東文化大学卒だそうなのでその可能性は高いようです。少なくとも大卒という学歴には間違いはなさそうです。
そして、医師をしているという情報も、とある病院のサイトに同姓同名の人物がいたからというソースしかないらしく、彼らの学歴や、職業などは実は定かではありません。
生い立ち&経歴【2】幼少期~拉致直前まで
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横田めぐみさんはその後、何不自由なく、元気にすくすくと明朗快活な少女へと成長します。
父母である滋さん、早紀江さんもその姿に安堵していたに違いありません。その後、一家は広島県から新潟県へ引越しします。
彼女がいたその間は非常に平和な「どこにでもある当時の一般家庭の景色」だったことに間違いないでしょう。横田めぐみさんは、本当に明るく朗らかな少女に育っており、母、早紀江さんは「めぐみは太陽のように家族を照らす存在だった」ということを証言しています。
横田めぐみさんは歌ったり、絵を描いたりするのが大好きで、習字やクラシックバレエなども習っていたそうです。さらに拉致事件が起こる前日は父、滋さんの誕生日だったようで、めぐみさんはお父さんにくしをプレゼントします。「これからはおしゃれに気を付けてね」という言葉と共に。非常に優しい娘だったことが伺えます。
しかし、その平和な風景は、一瞬にして暗転してしまいました。
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ここまで記載した通り、横田めぐみさんは、父母と、2人の弟と平和に暮らす、明るい普通の少女として日常を過ごしていました。
そして拉致問題のきっかけとなった拉致事件の日の朝も、非常に明るい様子で父母や弟と会話を交わす賑やかないつもの日常に包まれていました。
よもや、現在に至るまで半世紀も続く拉致問題の当事者になることなど予想もしていなかったでしょう。「行ってきます」のいつもの声とともに、父母は「行ってらっしゃい」と中学校へ送り出すこととなりました。これが父母、そして弟と横田めぐみさんの今生の別れになるなんて誰も予想できなかったと思います。
その後、横田めぐみさんは中学校で勉学に励んだ後、部活であるバトミントン部の練習を終え、帰路に着くことになりますが、その路の途中で横田めぐみさんは北朝鮮の工作員によって拉致されてしまうこととなってしまいました。
この後、現在に至るまで横田めぐみさんは帰国の途に着いていませんので、日本での最終学歴は小学校卒業及び中学校在学中となっており、学歴上は中学校も卒業したことにはなっていないません。帰国したら是非またあの日のように中学校で勉強してほしいなと思います。
普通にいけば、絶対に日本で普通の人生を送れたはずの13歳の義務教育途中の学歴である少女がこんな目に遭って尋常な精神状態でいられるはずがないです。1人の少女の運命を変えてしまった北朝鮮には本当に憤りしか感じませんし、決して許すことはできません。
横田めぐみさん拉致事件まとめ
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本項では、ここまで見ていただいた横田めぐみさんの生い立ちと経歴を元にしながら、拉致事件の全貌を明らかにしていきたいと思います。
それでは本編をどうぞ。
拉致事件まとめ【1】拉致当日
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前項でもご紹介した通り、横田めぐみさんは、1977年の11月15日に通学していた中学校の部活のバトミントン部の練習の帰りに、北朝鮮の工作員によって拉致されています。
拉致は数人の工作員によって行われ、横田めぐみさんは北朝鮮行きの船に40時間も乗せられていたようです。その間真っ暗な船倉の中に閉じ込められていました。
横田めぐみさんは、何度も「お母さん、お母さん」と泣き叫び、船倉の出口を求め、壁などを引っかき回したため、北朝鮮に着くころには、手の爪ははがれそうになり、ボロボロになっていたと言います。
当然でしょう。13歳の中学在学中という学歴の年端もいかない少女がいきなり、日常を破壊され、異国に攫われてしまう。その状況を考えれば誰だってそうなることは自明の理です。
そしてその頃、日本でも大騒ぎになっていました。家族は当然一向に帰宅しない横田めぐみさんに対し、不安を抱きます。「おかしい」と。
そこで、新潟県警に通報し、県警は、誘拐や事故、家出、自殺等ありとあらゆる可能性を元に必死の捜索をしました。もちろんその間も、母、早紀江さん、父、滋さん、そして2人のまだ年端もいかない弟たちも協力して、海岸線などを何キロも歩きながら捜索したそうです。
しかし、横田めぐみさんは発見されるどころか、その目撃情報や遺留品なども全く見つからぬまま、時間だけがいたずらに過ぎていきました。このことが半世紀近くも続く拉致問題の発端になるなんて当時関係者の誰もが想像していなかったことでしょう。
拉致事件まとめ【2】拉致後①
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では、拉致後、横田めぐみさんは北朝鮮でどのような生活を送ったのでしょうか。それについてご紹介します。
13歳の横田めぐみさんは当然ながら、北朝鮮到着後も「早く父母の下へ帰してほしい。帰国したい」と訴え泣き続けます。そんな中北朝鮮の工作員は「朝鮮語を覚えたら帰国させてやる」という発言をしたと言います。
横田めぐみさんはその言葉を信じ、学歴も当時中学校在学というおぼつかない状態にも拘らず、覚えたくもなかったであろう朝鮮語をある程度マスターします。
素晴らしいという言葉が適切かどうか分かりかねますが、恐らくその学習能力の高さから、日本においてもある程度の学歴は残せたと思われるだけに非常に惜しく、悲しいです。そして約束通り朝鮮語をマスターしたにも拘らず当初の約束は反故にされてしまいます。
その1年後である1978年(昭和53年)に横田めぐみさんはある人物と出会い、共同生活を余儀なくされます。その人物こそ、北朝鮮拉致問題の被害者の一人で、小泉政権下にて、2002年(平成14年)帰国の途に着いた曽我ひとみさんでした。
横田めぐみさんと曽我ひとみさんの教育係には蓮池夫妻を拉致した辛光洙(シン・グァンス)容疑者が就くことになります。辛光洙は北朝鮮による日本人拉致問題に多く関わった人物とされています。
2人は日中は日本語を話すことは禁止されていたそうですが、夜はこっそりと日本語で話すことを楽しんでいたそうです。本当に本当に辛かったことと思いますが、横田めぐみさんにとって日本語を話せる曽我さんはお姉さんのような非常に貴重な存在で、心の支えになっていたと言いますから、そこは唯一の救いかなと思います。
1980年(昭和55年)まで2人は共同生活をしていたそうです。
拉致事件まとめ【3】拉致後②
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その後、北朝鮮の発表によると横田めぐみさんは、1986年(昭和61年)に金英男(キム・ヨンナム)氏と結婚し、1987年(昭和62年)に第一子であるキム・ウンギョンさんを出産しています。
横田めぐみさんの旦那とされる金英男氏もまた大韓民国から、北朝鮮へと拉致された韓国における拉致問題の被害者です。お互いの境遇が近似していたことから惹かれあったのか、それとも北朝鮮側の政策の一環だったのかは分からないですが、とにもかくにも2人は結婚してキム・ウンギョンさんを授かっています。
ちなみに、横田めぐみさんの父母である早紀江さん、滋さんはモンゴルのウランバートルにてめぐみさんの実娘とされるキム・ウンギョンさんと2014年(平成26年)に面会を果たしています。
しかし、1994年4月に当の横田めぐみさんは自殺し、1997年に火葬されたと北朝鮮は発表しています。
これに関しては帰国後の拉致被害者の方々や、有識者によって疑義の意見が多く見られ、また、後述の横田めぐみさんのものとされる遺骨もDNA鑑定による結果偽物であったことが発覚しているため、横田めぐみさんの父母、2人の弟をはじめ多くの人が「横田めぐみさんは生きている」という意見を持っています。
筆者もその一人であり、横田めぐみさんは生きていると信じていますし、いつか帰国し、母早紀江さん、父滋さん、そして2人の弟と再会してくれることを願って止みません。
横田めぐみさんの母親の発言&活動まとめ
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本項では、横田めぐみさんの母、早紀江さんを中心に父である滋さん、そして2人の弟達がどのように横田めぐみさんの拉致問題に向き合い取り組んできたか、そして愛する娘の帰国を願ったかをご紹介したいと思います。
それではご覧ください。
母、早紀江さんの発言と活動【1】娘失踪直後
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早紀江さんは、横田めぐみさん失踪直後から、積極的に行動します。
まずはその失踪直後、夫である滋さん、そして横田めぐみさんの2人の弟達と、警察の捜索活動とは別で捜索活動を展開していきます。
地元の海岸線を何キロも歩き、情報を集めたり、ビラやポスターを制作、そしてその配布活動を行いました。また、ある時には、新聞の群衆写真や雑誌のグラビアなどに娘である横田めぐみさんと似た女性が写っていると、新聞社に問い合わせしたり、写真の女性がいる場所を訪ねたりさえしました。
とにかく早紀江さんを中心に必死に横田めぐみさんの捜索を展開しました。しかし、無念ながらその成果はあまり上がることはありませんでした。
母、早紀江さんの発言と活動【2】クリスチャンになる
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その後も、早紀江さん、滋さん、弟たち2人による捜索活動は思うように成果が上がりませんでしたが、近所に住んでいたキリスト教の神父であるマクダニエル宣教師がその捜索活動を手伝ってくれるようになっていました。
ある時、マクダニエル宣教師は、横田めぐみさんを失った悲しみに打ちひしがれた時「ヨブ記」を読むことを早紀江さんに勧めます。早紀江さんはその後「ヨブ記」を読んで深い感銘を受けたそうです。
そういった経緯もあり、早紀江さんはキリスト教に入信し、クリスチャンとなったのです。
やはり、人というのは弱っている時に何かを信じ、それを力にしたいと思うのでしょう。横田めぐみさんを失った悲しみが少しでも和らぐのであれば、幸いかなという風に思います。
母、早紀江さんの発言と活動【3】北朝鮮の拉致への関与が明らかに
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1980年(昭和55年)に産経新聞が明らかにした、日本海沿岸部での北朝鮮による日本人拉致事件の記事を早紀江さんはキャッチします。その後、横田めぐみさんとの関係は産経新聞編集部に残念ながら一旦否定されてしまいます。
しかし、16年後の1996年(平成8年)に「現代コリア」に再び北朝鮮による日本人拉致の記事が掲載され、「アエラ」、「産経新聞」等でもその関連記事が掲載。そこで初めて北朝鮮による拉致問題と横田めぐみさんの失踪問題が紐づけられていきます。
そして横田滋さんは、1997年(平成9年)議員会館でその詳細を知ることとなります。その頃早紀江さんはキリスト教の集会で「せめて娘がどこにいるのかだけでも教えてください」と祈っていたそうです。
早紀江さんは帰宅後、滋さんからその情報を聞き「生きていたのね、めぐみちゃん」と失踪後19年経ってめぐみさんの生存と帰国に希望を見出します。拉致問題が初めて進展を見せ始めたのです。
それから間もなく、「めぐみさんを救う会」が結成され、後に全国23か所で同組織が結成されました。
母、早紀江さんの発言と活動【4】日本国政府を巻き込んだやり取り
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その後、日本国政府も横田めぐみさんを拉致問題の被害者として認定し、急速に拉致問題の解決は進展していくように見えましたが、現在に至るまでなかなかその根本的解決には至っていません。
拉致問題における政府の対応や早紀江さんの発言等を時系列でまとめましたのでご覧ください。
2002年(平成14年)9月17日、日朝首脳会談が平壌にて開催
梅本和義駐英公使がキム・ヘギョンさんと対面し、北朝鮮政府が拉致問題の事実を認めて謝罪し、拉致問題に対する被害者の安否の情報を日本政府に伝えました。その際、横田めぐみさんは死亡しているという内容を早紀江さん、滋さん、そして2人の弟に伝えたとされています。
2002年(平成14年)9月18日、横田夫妻と弟たちが横田めぐみさんの死亡の裏付けを政府に確認
横田夫妻と、弟2人、そして蓮池さん夫妻が横田めぐみさんの死亡の事実を聞いた後、その裏づけを政府に確認しました。しかし、政府は何の裏付けも取っていないことが発覚します。
2002年(平成14年)10月2日、キム・ヘギョンさんと横田めぐみさんの血縁関係が明らかに
政府調査団が持ち帰ったキム・ヘギョンさんの血液や横田夫妻の血液、へその緒から、キム・ヘギョンさんと横田めぐみさんの血縁関係が明らかになりました。このことは横田めぐみさんが北朝鮮で生活していたゆるぎない証拠となりました。
2004年(平成16年)5月22日、横田めぐみさんの偽遺骨事件
再訪朝した小泉首相に北朝鮮は「死亡とした拉致被害者たちについて再調査する」と約束します。その結果、11月に平壌で行なわれた日朝実務者協議で、めぐみさんの夫だったという男性が「横田めぐみさんの遺骨」を提出しました。
しかしそれは約1カ月後、日本側のDNA鑑定により偽物だと判明していまいます。このことを受け、早紀江さんは「北朝鮮というのはこういう欺瞞に満ちた行為を平然とやってのける国なので、日本政府も毅然たる対応を取ってほしい」こういった旨の証言をしています。
2006年(平成18年)4月28日、 ジョージ・W・ブッシュアメリカ合衆国大統領と会談。
ブッシュ大統領は早紀江さんらとの会談後、「最も心を動かされた面会である」と述べ、その後も「拉致は忘れない。必ず帰国させる」との言葉を再三繰り返していました。
しかし、その後北朝鮮の核計画申告への見返りのため日本の反対を押し切り、テロ支援国指定を解除してしまうこととなります。
横田めぐみさんの現在!
下元景太さん(@keitashimomoto)がシェアした投稿 – 2017年 7月月17日午後2時25分PDT
ここまで、横田めぐみさんに関する事件や、生い立ち、経歴、その学歴、母早紀江さんの対応をご覧いただきましたが、いかがだったでしょうか。
残念ながら、横田めぐみさんは現在に至るまで、日本へ帰国し、本土の土を踏みしめるまでには至っていません。そして、その拉致事件から、42年がもうすぐ過ぎ去ろうとしています。
そして、心ない人々から、「税金を投入してまでやることではない」「もう忘れろ」「横田めぐみさんはとっくに死んでいる」などといった声も少数ではありますが、挙がっているようです。
筆者は信じられません。両親である母早紀江さんや父滋さんがその心ない発言を耳にしたら一体どういう気持ちになるのでしょうか。そして、自分の娘や、息子、ひいては大切な人がそういう目に遭い、その当事者になった時、同じことが言えるのでしょうか。
ご両親は今もうご高齢になられ、捜索に向けた活動も今まで通りアクティブにはできないようです。それでもこの拉致問題に関して行動されているのは、いつか愛する娘が帰国することを実現させたいからだと思います。
心無い死亡説などもあるようですが、筆者は「横田めぐみさんは絶対に生きている」と信じて止みません。いつか彼女が帰国する日を心待ちにしています。ほとんどの人がそう考えているでしょうし、そうあってほしいです。
どうか、横田夫妻がご存命の間に横田めぐみさんが日本に帰国され、13歳のあの日のまま止まっている時計を彼女の「ただいま」の一言によってもう一度動かせる日が来てくれることを心より願っております。