毛沢東主義(思想)とは?わかりやすく意味&ネパール共産党を解説!

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毛沢東主義(思想)とは?

毛沢東主義や文化大革命など、中国史にまつわる言葉は聞いたことあるけどよくわからないという方が多いですよね。

そこで、毛沢東主義とはどのような考え方なのかわかりやすく説明していきます。

 

毛沢東とは

 

【1】当時の中国について


引用: Pixabay

毛沢東が産まれたのは1893年のことです。日清戦争の1年前です。

毛沢東主義についてわかりやすく説明するために、まずは当時の中国について説明していきます。

当時、アジア全体で欧米の侵入が始まっていましたが、当時の王朝である清は中華秩序を維持しようとしており、日本のように欧米に馴染もうとしていませんでした。

そんな中、1912年に中華民国南京臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統に就任します。このように、中国国内で清に反発する動きが見られたことで清王朝は皇帝が退位し、滅亡しました。これによって中華民国が成立しました。

中華民国でビビっときた方もいると思いますが、台湾の正式名称と同じです。共産党と国民党が対立した際、国民党が台湾に逃げ込み、台湾を正当な中華民国と主張していたためです。今の中国は中華人民共和国です。

毛沢東が活躍し、毛沢東主義が生まれていったのはこのような激動の時代でした。

 

【2】生い立ち


引用: Pixabay

毛沢東は1983年に湘南州で三男として誕生しました。

彼の父は家柄的に裕福ではなかったものの、努力と才能で地主になりあがりました。そんな父の影響を受け、1910年には勉強するために故郷を離れました。この間に毛沢東は様々な思想に触れました。この間は共産主義というよりもヨーロッパの様々な思想に触れていました。特にこのころの毛沢東は哲学に興味を持っていました。

1911年に辛亥革命が勃発した際、彼は入隊しましたが、すぐに勉強へと戻ります。その後、彼は教師となりますが、その間にマルクス主義に傾倒します。

そして、1921年には第一回中国共産党全国大会に出席し、共産党の毛沢東として活動し、毛沢東主義が完成していきます。

 

【3】中国共産党への参加

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引用: Pixabay

 

わかりやすく説明すると、清が滅亡してからの中国では欧米や日本に対抗するため、政党関係なく、中国としてともに戦おうという風潮があり、国民党と共産党がタッグを組む、国共合作が行われていました。

もちろん、毛沢東もこれに参加し、国共合作の中心的なメンバーとなっていました。国共合作は何回か崩壊したり立て直したりを繰り返します。

しかし、国共合作は次第に崩れていき、国民党から共産党は攻撃を何回も受けることになってしまいます。そこで、毛沢東をはじめとする共産党は長征を開始します。長征と聞くとかっこいいですが、実際には国民党からの逃亡ということです。

その後、日本と中国の間に緊張が走ったことで中国国内は国内で争うべきではないという思想が広まり、国共合作が再び開始します。

しかし、日中戦争が終わると再び国民党と共産党の仲が悪くなります。前回、国共合作が崩壊した時は国民党が優位でしたが、今回は共産党が優位に立ちます。そこで毛沢東は中国共産党による、中華人民共和国を設立します。この中華人民共和国がそのまま現在の中国になります。

 

毛沢東主義(思想)の意味をわかりやすく意味を解説!

 

【1】マルクス主義とは

引用: Pixabay

マルクス主義とは、簡潔に、わかりやすく一言で言ってしまえば資本主義の否定です。

資本主義社会では貧富の格差がどうしても生まれてしまいます。しかし、階級を一切なくし、資本のためだけに働く労働者の存在を否定します。そして、階級のない協同社会を目指すという考え方です。現在の日本も資本主義ですが、資本のためだけに労働ばかりしている印象はありません。

しかし、当時の社会において、労働者はひたすら働き、搾取されているのが当たり前でした。

また、マルクス主義において、共産主義は資本主義の次の段階であるとされています。人類の歴史は、自由民と奴隷、小作人と地主のように、階級闘争の歴史であるとマルクス主義は考えます。フランス革命も三部会で平民が横領階級に反発しました。

このような階級闘争がある地球において、次は資本家と労働者で対立が起きると予想しました。この、資本家と労働者の対立の先に共産主義社会があるとマルクス主義では考えられています。

以上がわかりやすくまとめたマルクス主義の説明になりますが、今回は毛沢東主義に関係する考え方のみを紹介したので、興味のある方はぜひもっと調べてみてください。

 

【2】毛沢東主義とは

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毛沢東主義は、年代によって考え方が異なります。初期の毛沢東主義はマルクス主義に大きな影響を受けていたため、ほぼマルクス主義のようなものでした。

一般にマルクス主義と区別して毛沢東主義と呼ばれる場合、毛沢東のオリジナルの思想が入ってきます。

まず毛沢東主義の第一の特徴として人民戦争理論が挙げられます。わかりやすくまとめると、人民戦争理論とは、持っているパワー全てを戦争に動員するということです。要するに全体主義の1形態です。戦争が起こったら国民みんなで戦おうといった感じです。

毛沢東主義の第二の特徴は「3つの世界論」です。これは冷戦期、毛沢東が世界を3つに分けて捉えていたことから、毛沢東主義とされています。第一世界を米ソ、第二世界を米ソの同盟国、第三世界を非同盟国としています。

また、毛沢東主義にはこれらの特徴以外にも、ゲリラ戦術や、個人よりも公共の福祉を優先するといった思想が含まれています。

 

【3】マルクス主義と比較した毛沢東主義

引用: Pixabay

マルクス主義も毛沢東主義も思想が大きすぎるため、わかりやすく簡潔に説明したので、おおよその概要だけでも掴めたかと思います。ここでは、同じ共産主義でも何が違うのかをまとめていきます!

まず、毛沢東主義とマルクス主義で大きく異なるのは、その思想の対象です。マルクス主義の場合、その思想のメインは歴史観です。資本主義社会や共産主義社会の説明など、基本的に歴史からその思想は成り立っています。

それに対して毛沢東主義の場合、戦争観がメインです。ゲリラ戦術や人民戦争理論、3つの世界論は全て戦争にまつわる思想です。毛沢東自身が中国の激動の時代を生き抜いたことも原因であると考えられます。

また、マルクス主義と毛沢東主義には共産主義に対する絶妙な考え方の違いがあります。この思想のズレによって、その後の中ソ対立が起こる原因になりました。この中ソ対立が冷戦の流れも大きく変えることとなります。

 

毛沢東主義(思想)が与えた影響は大きかった。

 

【1】死後の国内評価

引用: Pixabay

毛沢東の死後、現在までその思想は中国で受け継がれています。

毛沢東の死後、華国鋒が毛沢東主義の後継者となりました。その後も鄧小平や周恩来、劉少奇など、中国の歴史を背負ってきた人物らによって受け継がれてきました。

鄧小平は毛沢東主義とは少し思想が違ったものの、毛沢東主義をもとに自分の見解を加え、共産党を指導し、香港やマカオの一国二制度を導入しました。このように、その時代ごとに合わせて少しずつ毛沢東主義はその思想の内容を変化させてきました。

 

【2】日本への影響

引用: Pixabay

毛沢東主義が日本に渡ったのは戦後のことでした。つまり、日本国内で左翼活動が盛り上がっていた時代と一致しています。

しかし、日本国内でマルクス主義は支持されても、毛沢東主義は支持されることが少なかったです。この原因はその思想の内容にありました。毛沢東主義は戦争観が中心の思想であるため、当時の日本の反戦運動とは上手くマッチしませんでした。

当時の日本は第二次世界大戦が終わって経済成長の真っ只中なのでなかなか戦争に関する思想というのは広がらなかったのです。

しかし、ダイエー創始者の中内功など、一部では毛沢東主義に影響を受けた著名人もいました。

 

【3】欧米への影響

引用: Pixabay

アメリカの公民権運動の指導者は毛沢東主義に影響を受けた方が多く、頻繁に中国を訪れていました。

また、毛沢東の提唱した第三世界という考え方はアメリカの国際政治学にも大きな影響を与えました。

西ヨーロッパでは、反ソ連や反マルクス主義が高まったことで、毛沢東主義が相対的に関心を持たれるようになりました。特に、フランス国内で毛沢東主義がかなり広まりましたが、東ヨーロッパには、中ソ対立以降、広く支持されることはありませんでした。

 

文化大革命【毛沢東主義(思想)】

 

【1】大躍進政策

引用: Pixabay

文化大革命について論じる際、大躍進政策も合わせて説明されることが多いので、ここでは、わかりやすく、サラッと説明します。

大躍進政策は1958年、中華人民共和国ができてすぐの間の政策です。この大躍進政策で何を大躍進させたかったのかと言うと、ずばり、農工業です。

農工業の発達のさせ方は生物学や経済学を完全に無視して、実現不可能なノルマを課し、原始的な方法での製鉄等、失敗が予測できるようなものでした。もちろん、この大躍進政策は失敗に終わり、病気の蔓延や天災、飢饉が起こるなど、中国国内は混乱に陥ります。

この大失敗をきっかけに共産党内部でも権力闘争が続きます。そしてこの責任を取ることになったのが毛沢東です。毛沢東はここで一度、政治から遠ざかっていました。

 

【2】文化大革命の経緯

引用: Pixabay

このような大躍進政策の結果、中国国内で混乱状態になっていました。そこで1965年、毛沢東が復権するために文化大革命を始めます。

毛沢東の私兵は紅衛兵と呼ばれ、全国の学生らによって構成されていました。この紅衛兵が思想統制や拷問、暴行などありとあらゆることをしました。

また、文化大革命の期間は階級闘争が唱えられ、階級を認めていました。本来のマルクス主義は階級をなくそうとしていたのに階級を作っていたのです。このころから毛沢東主義とマルクス主義は乖離していくようになります。

また、紅衛兵は学校で反乱を起こし、先生らに暴行を加えたり、様々な知識人が迫害された。また、それまで権力を握っていた劉少奇は監禁され、人権と言う概念が無いような扱いを受けていた。ちなみに、他の知識人とは異なり、劉少奇だけ殺されなかったのは、彼の頭脳が非常に良かったため、殺すのはもったいなかったという逸話がある。

 

【3】文化大革命の帰結

引用: Pixabay

文化大革命はおよそ10年で終わりましたが、最悪の結末を迎えました。

犠牲者の正確な人数はわかりませんが、7000万人にのぼると言われています。日本人の人口が1億数千万人であることを考えたら、日本国民の3人に2人が亡くなる計算になります。どれだけ悲惨だったのかわかりますよね。

また、文化大革命では歴史遺産が破壊され尽くしました。紅衛兵は歴史的な価値観をとにかく嫌ったため、歴史的な建造物や書物を大量に焼いてしまいました。もし歴史的な書物などが残っていたら世界遺産が中国には山ほどあったのかもしれません。

4000年の中国に歴史的なものが現存していないのは紅衛兵が要因です。

 

ネパール共産党【毛沢東主義(思想)】

 

【1】ネパール共産党の概要

引用: Pixabay

ネパールはもともと、民主国家ではなく、王国でした。しかし、1990年の民主化によって王政が廃止され、政党政治が始まりました。

そんな中、1995年にネパール共産党はプラチャンダを初代書記長として結成されました。ネパール共産党はネパール人民解放軍という武装組織を持っており、警察や軍隊の武器を奪って1996年には武装蜂起します。農村部を中心に、ネパールの大部分を実効支配しました。そして2006年には停戦し、議会活動に力を入れるようになりました。

2008年には選挙で第1党となりましたが、過半数を取れなかったため、単独政権が不可能な状況でした。そこで、他党と協力して政権を維持していましたが、党内の混乱などによって2011年には政権を手放すこととなりました。

 

【2】対米関係

引用: Pixabay

アメリカは当初、ネパール共産党毛沢東主義派をテロ集団として扱っていました。国内で内戦を起こし、武装蜂起する集団をテロ集団としてみるのは仕方ないことです。

しかし、2008年、第1党になった際にアメリカは路線変更をします。わかりやすく言ってしまえば、敵対関係から対話によって仲良くしようとしたのです。

そして、現在もテロ集団からは除外されています。

 

【3】現在の共産党との関係は?

引用: Pixabay

現在のネパール共産党とネパール共産党毛沢東主義派は微妙に違います。2018年にネパール共産党マルクスレーニン主義派とネパール共産党毛沢東主義派が合流しました。

この合流によって誕生したのが現在のネパール共産党です。ネパール共産党毛沢東主義派とネパール共産党は完全に違うわけではないけれども、同一とも言い切れない状態です。

 

毛沢東主義(思想)の現在での捉えられ方は?

引用: Pixabay

毛沢東主義は現在、中国国内での思想というように捉えられています。

共産主義としての思想ではやはり、マルクス主義がメジャーとなっています。大躍進政策や文化大革命を通して世界での毛沢東主義の人気は減衰してしまったためです。

しかし、毛沢東主義は現在の中国にも大きな影響を与えているため、理解しておくことは非常に重要です。これをきっかけに中国について、改めて考えてみてはいかがでしょうか。

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