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1948年、戦後の混乱の中で当時の帝国銀行椎名支店の閉店間際に腕に東京都防疫班を示す白い腕章をつけた男が現れました。
男は厚生省の名刺を出し「近くで集団赤痢が発生した、予防薬を飲んで欲しい」と言って、予防薬と偽った青酸化合物を行員の家族を含む計16名に飲ませました。
そのうち12名が死亡し薬物を飲ませた男は現金16万円と小切手を奪って逃走しました。
薬を飲んだ女性が外に助けを求めたことで事件が発覚し、警察が駆けつけましたが死亡した者の様子が集団中毒のようだったことや戦後の混乱の中で捜査手法も確立されてなかったことから捜査は難航しました。
野次馬も大勢駆けつけるなどして混乱を起こし現場保存も出来ないなど初動捜査が遅れた原因になりました。
それを表す話として犯人が盗んでいった小切手は翌日には現金化されていたのですが警察が盗られたこと自体を把握したのはすでに事件から2日経った後でした。
事件には青酸化合物が使われており犯人は薬物に対する知識があるものまた取り扱いに熟知する人物とされ旧陸軍関係者に的を絞って調査することが決まりました。
当時の日本はまだアメリカGHQの占領下にあり、この知らせを受けたGHQは帝銀事件において旧陸軍関係者を捜査することを中止するように求めます。
これは捜査禁止を言いわたすようなもので旧陸軍関係者に犯人がいたとしてもなぜGHQが肩を持つのか分かりません。
捜査は振り出しに戻ったのですが調べていくうちに事件の1年前に安田銀行と三菱銀行でも同じように国家公務員を名乗る男が名刺を渡して薬を飲ませようとしていたことが判明しました。
渡していた名刺は実際に存在する人間の渡したものであり名刺をもらった人物が徹底的に調べ上げられました。
そしてある1人の人間が犯人として浮かびます北海道小樽市出身で画家をしていた平沢貞通です。
彼は事件に使われた名刺を貰った過去があるにもかかわらず逮捕時所持していない、事件発生当時現場近くにいた、過去に銀行で詐欺を起こしているなどの理由で逮捕されました。
彼は逮捕当初は否認をしていましたが当時の取り調べが厳しかったこともあり自供し、起訴されました。
取り調べの厳しさを表しているのかは分かりませんが平沢貞通は逮捕後自殺未遂を3度も起こしました。
平沢貞通は1度自供をしたものの裁判では一貫して無罪を主張しました。
裁判では平沢貞通の証言は通らず判決は死刑が言い渡されました。ですが判決の根拠となるものはどれも平沢貞通の自供自白によるもののみで、物的証拠や第3者に証言はありませんでした。
死刑判決後も無罪を訴え支援者らも多く現れました。17回にも及ぶ再審請求をおこしますが全て却下されています。
結局平沢貞通は1987年に獄中で生涯を終えます。
この事件は新聞などでも大きく報道され世間の関心を集めました、そして現在ではほぼ平沢貞通は誤認逮捕であり無罪である可能性が高いとみられています。
また当時の法務大臣が死刑執行命令書に署名する際「これは冤罪だろ」と発言したり、GHQが捜査中止を求めたりと解明されていないことが多くあります。
帝銀事件の概要を紹介!
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70年以上前の事件ですが当時はどんなことがあったのでしょうか、現在真犯人と指摘されている人物や獄中で生涯を終えた平沢貞通について調査してみます。
【1】銀行に男が現れる
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1948年1月26日に東京都豊島区長崎の帝国銀行(後の三井銀行、現在三井住友銀行)椎名町支店に、東京都防疫班の白い腕章を着けた年齢45歳前後の男が入店しました。
支店長がいるかを聞いたそうですが当日は支店長が腹痛で休んでおり支店長代理が対応しました。
男は『厚生省厚生部員 医学博士某』と書かれた名刺を出して「近くの家で集団赤痢が発生した。GHQが行内を消毒する前に予防薬を飲んでもらいたい」、「感染者の1人がこの銀行に来ている」と説明し当時の銀行にいた行員家族を含む16名を一箇所に集めるように指示しました。
【2】薬を飲まされた
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男を中心に扇型に行員たちは集まり、持っていた金属製のカバンからうがい薬のようなビンに入った液体を取り出し「強い薬なので私の指示する通りに飲んでください」といって用意させた茶碗にスポイトで薬と説明した液体を注ぎました。
薬は2種類あり最初の薬を飲んでから1分以内に2薬目を飲まないと効果が出ないとも説明しました。また強い薬なので歯のエナメル質を痛めるとも説明し、男自らが下唇と歯の間に舌を入れるような感じで実際に第1薬を飲んで飲み方を説明しました。
最初は疑っていた行員も男が薬を飲んで見せたことである程度信用するようになり、男の指示で一斉に第1薬を飲みました。
生存した被害者は濃いウイスキーの味がしたと語っており、喉が焼けるようにヒリヒリしたとも例えています。男は第1薬を注いだ茶碗に同じように第2薬をスポイトで注ぎ、行員たちは第二薬を飲めば落ち着くと思い我先にと飲み始めたと言います。
第2薬を飲んでも喉の違和感は収まらず水を飲みに水道に駆け込むものもいました、飲後数分はみな何ともなかったのですが10分ほどたつとしゃがみこむように倒れ始めました。
行員の1人が意識朦朧としながらも這って銀行の外まで出て助けを求め事件が発覚しました。
男は薬を飲ませた後に金16万円と小切手1万7450円を盗んで逃走しました。薬を飲ませた後も男は落ち着いた様子だったと証言されています。
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警察が駆けつけた時、現場は痙攣、嘔吐あるいは身体がまったく動かない状態の行員らがバラバラの場所で倒れていました。
警察に助けを求めた行員は男に薬を飲まされたと話していたので現場に駆けつけた警察は当初集団中毒と考え捜査を始めました。
毒を飲まされた行員16名の内4名が生き残り生存者の証言から毒を飲まされたことが分かりました。またこの事件の前にも同じように政府関係者を名乗る男が銀行を訪れ名刺と共に薬を飲ませようとしていたことが発覚しました。
これら2件の未遂事件で使われた名刺(帝銀事件で渡された名刺は支店長代理が紛失してしまった)生存者の証言から作られた犯人の似顔絵、盗まれ事件翌日に現金化された小切手を元に捜査は進められました。
遺体解剖や吐瀉物や茶碗に残った液体の分析から青酸化合物が検出され、当時そのような薬品の扱いを熟知しているものは限られ関東軍防疫給水部本部(旧陸軍731部隊)関係者を中心に捜査は行われました。
半年後には刑事部長から捜査方針の一部を軍関係者に移すという指示が出て、陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞っての捜査をしました(この時捜査関係者の間ではほぼ犯人と思われる人物は判明していたと言われています)
ですが不可解なことに突如、当時日本を統治していたアメリカGHQから旧陸軍関係者への捜査中止命令が下ります。
GHQからの命令は絶対であり進められていた捜査は中断し、いちから民間にまで広げて調査されました。
【4】平沢貞通の逮捕
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ここで犯人が残したものとされる名刺を地道に調べていた捜査班に注目が集まります。
類似事件で用いられた名刺は実際に存在した人物のものであり、その人物が配ったと記録していた人物を片っ端から捜査していったのです。
名刺は100枚刷ったとされており、手元に残っていたのが8枚、残る92枚のうち62枚の回収に成功し、紛失して事件に関係ないと思われるものが22枚、残り8枚のうち1枚が類似事件に使われた名刺だとされました。
1948年8月21日、名刺交換をした人物の1人であったテンペラ画家の平沢貞通を北海道小樽市で逮捕しました。
逮捕された理由として
名刺を貰ったとされているがその名刺を持っていなかった
事件当日現場周辺にいたと証言しているがアリバイがない
過去に銀行で詐欺事件を起こしている
事件直後に被害額と同額を所持していた
が挙げられています。
帝銀事件の犯人、平沢貞通の経歴は?
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平沢貞通は1892年に北海道小樽市で生まれました。
1911年に日本水彩画研究所に入所、翌年日本水彩画会結成に参画。1919年、第1回帝展に出品。1921年、第9回光風会展で今村奨励賞を受賞。1930年、日本水彩画家会委員に就任。
1948年に帝銀事件の犯人として平沢貞通は逮捕されましたが画家として成功しており、当時の芸術の分野では顔をしられた有名人でした。
狂犬病予防接種の副作用
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逮捕後、取り調べでは自白をしましたが裁判では一転して無罪を主張しました。
この自白をしたという点ですが当時の取り調べが拷問に近い大変厳しかったのもあるのかもしれませんが、狂犬病の予防接種が原因ではないかと言われています。
当時の日本にはまだ狂犬病をもつ野犬がおり大変恐れられていました(狂犬病は致死率100%)この予防接種による副作用で虚言癖や記憶障害や判断力低下がもたらされ自白をしたんじゃないかという指摘がされています。
死刑判決後
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死刑判決後も無罪を訴え再審請求を行いましたがいずれも棄却されています、その回数は亡くなるまでに計17回を数えました。
収監後も絵を描くことを続け支援者たちによって画材が差し入れられました。亡くなるまでの獄中での32年間で創られた作品は1300点にもなり国内外を問わず個展も開かれました。
帝銀事件の謎&真相を解説!
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帝銀事件の真相を見ていきましょう。
【1】平沢貞通のアリバイ
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平沢貞通の逮捕理由として警察は詐欺事件の前科があった、事件時のアリバイがない等を挙げていますが取り調べではアリバイなどを本人が証言しており周りの人間からも平沢のアリバイは取れており、犯人として裁くのにはあまりに証拠に乏しいとされています。
名刺を貰ったとされているがその名刺を持っていなかった
類似事件に使用された名刺と同じものを交換していましたが、しまっておいた鞄ごと盗まれたと証言しており被害届も提出したそうです。この被害届が出されていたことは確認できましたがその鞄の中に名刺が入っていたかは分かっていません。
事件当日現場周辺にいたと証言しているがアリバイがない
事件当日娘婿に会いに行くため丸の内を訪れ自宅に戻りました。帰宅した後は家で家族と娘の友人であるGHQの軍曹とトランプをして遊んだと話しました。
家族は自宅で一緒にいたことを警察に伝えましたが裁判では証言が採用されませんでした、また友人であるというGHQの人物も捜査中に行方が分からなくなり証言を取ることはできませんでした。アメリカに帰国したと考えられます。
事件直後に被害額と同額を所持していた
事件直後に出どころが分からない大金を所持していましたが、平沢はどうやって手に入れたかを話しませんでした。これに対する意見としては春画を書いていたのではという推測があります。
当時の有名な画家が春画を描いていたという事実は名誉に関することであり、これがバレたくなかったので正直に話さなかったと言われています。
春画は高値で買い求める人も多く、実際に平沢貞通に春画を描いてもらったことがあるとする投書が届くなどしていました。
【2】GHQの圧力
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捜査中に突如、旧陸軍関係者を捜査することを中止する命令が出されるなどGHQから圧力がかかっていた事実が分かっています。
上記で述べた事件当日に平沢貞通と会っていたGHQの軍曹という人物も上からの命令で本国に返されたのではと言われています。
ではなぜGHQが日本の銀行で起きた毒殺殺人事件の犯人を平沢貞通に仕立て上げる必要があったのでしょう。アメリカにとってのメリットとは?
それにはこんな噂があるとされます。
アメリカ側が戦時中細菌兵器開発を行っていた731部隊関係者の戦争責任の免除を代償とした化学兵器などの研究資料を提供されていた事実の暴露をおそれたためというのです。
毒殺に使われた青酸化合物は戦後間もない日本では、所有できてかつ扱いを知っているものは旧陸軍関係者に限られ、その中でも戦時中に細菌や毒殺兵器を研究開発していた731部隊に目が付けられました。
捜査ではアリバイがあるものを除く数名にまで関係者が絞られ、後は証言や証拠を集めるだけでした。ですがアメリカにとっては戦争責任の免除と交換に細菌兵器のデータを受け取っていたことは絶対に秘密にしなければいけない事実であり、その為に圧力をかけてもみ消されたという見方が強いです。
【3】事件の真犯人
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平沢貞通は1987年に91歳で獄中で息を引き取りました。
彼が亡くなってから当時の捜査関係者にマスコミはインタビューを行い捜査関係者は口々に「犯人は平沢ではなく、元陸軍関係者である」と証言しています。事件の真犯人は誰だったのでしょう。
諏訪敬三郎という男
昭和60年、読売新聞で帝銀事件に関する記事が載りました。
その内容によると、犯人の行った手口は、当時の日本軍の秘密科学研究所の作成した毒の扱いに関する指導書と同じものであり、また目撃証言から、犯人の使用した器具はこの研究所で使われていたものとそっくりであることが判明した、というものです。
帝銀事件の捜査主任であった成智(なるち)英雄警視は、昭和47年にこの事件に関する自分の見解を雑誌に発表してます。
そこには、「アリバイその他で、犯人と認められる者は、結局731部隊に所属していた医学博士の諏訪三郎 軍医中佐(51)ただ一人となった。」
「体格・人相・風体は、帝国銀行の生き残り証言のそれとピッタリ一致している。」と核心とも言える内容を書いているのです。
この記事を元に旧陸軍の名簿が調べられましたが名指しで書かれている諏訪三郎という人物はいなかったそうなんです。
名簿に載っていた似た名前に「諏訪 敬三郎」と「諏訪 敬明」という名前があり似ている方の諏訪敬三郎という人物が犯人だったのではとされています。
作家の松本清張も帝銀事件をモデルにした小説「日本の黒い霧」を書いており、その中で真犯人は731部隊の元隊員と指摘しています。
帝銀事件に731舞台は関与している?
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旧陸軍の731部隊とは太平洋戦争中に細菌兵器の研究開発を行っていたとみられる機関です。
人体実験や細菌兵器の実践的使用を行っていたともみられ戦後直ぐに施設や資料が処分されてしまったので今だにどのような部隊だったか実態が分からない部分が多くあります。(実験や研究の実態が発覚するのを恐れて敗戦直後すぐに処分したと思われる)
帝銀事件の犯人は2種類の薬品を用いることで毒が回るのを遅らせ確実に全員が飲むように仕向けました。このような薬品についての知識をもっていたのは当時の情勢を考えれば旧陸軍関係者以外考えられずその中でも研究開発をしていた731部隊であれば筋が通ります。
また自分で第一薬を飲んで見せたことからもどの程度の量なら平気かということも分かっており、人体実験などを通して致死量を把握していたのではないかと指摘されています。
高度な知識をもっていたことから犯人は731部隊またはそれに関係のあるものと考えるのが妥当ではないでしょうか。
帝銀事件のまとめ
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平沢貞通の死後も平沢の妻をはじめとする救う会が再審請求を申請するなど、平沢貞通は無実だったと思う人は少なくありません。
帝銀事件で生き残った行員の女性は平沢貞通は犯人ではないと思うと証言しました。平沢に犯人が着ていたと思われる服装をさせて行員に見せたところ誰1人頷かなかったそうです。
ある法務大臣が死刑執行の署名をしていた際に「これ(平沢)は無罪だろ」と発言し執行対象から外していたという話もあります。平沢貞通の無罪というのは誰の目から見ても明らかだったんではないでしょうか。
平沢は刑を執行されることなく獄中で死を迎えて帝銀事件発生からは71年が経過しました。時間が経ってしまい事件の真相は結局分からずじまいです。