フライデー襲撃事件の概要!ビートたけし記者会見&当時交際女性の現在! | ToraTora[トラトラ]

#今日は何の日 1986年12月9日 ビートたけし フライデー襲撃事件

当時『元気が出るテレビ』とか観てた僕にとっては結構な衝撃で、半年間不在になったのが寂しく感じましたね pic.twitter.com/NbBEp8ULEF

— 時星リウス (@TokiBosi20) December 8, 2018

タモリさんや明石家さんまさんと共に「お笑いBIG3」と呼ばれていたり、映画監督として海外でも賞を取り「世界のキタノ」と呼ばれたり、既に大物そうなのに今も着ぐるみを着ておどけていたり…様々な顔を持つビートたけしさんですが、実はその昔、既に人気絶頂だったころにとある事件で実刑を受けていたのをご存知でしょうか?

実はこの「フライデー襲撃事件」が起こったことで、当時の時代背景やマスコミの在り方などを考えさせる機会に「利用された」という見方もあるそうです。

実はこの事件は1986年と今から30年以上も前の事件にもかかわらず、「なんj」などの様々なメディアなどで最近再び「あの事件は何だったのか?」という振り返りがされています。

ビートたけしさんが実刑を受けた「フライデー襲撃事件」とはいったいどんな背景でなぜ起こったのか、その事件の影響はどうだったのか、『たけし軍団』はその事件にどうかかわっていたのか、執拗に取材したフライデーの記者は何者なのか、取材で怪我を負い被害者となった当時の専門学校生の女性はどうなったのか…ビートたけしさんが関係していたこの事件について、近年分かった情報まで詳しく説明します。

フライデー襲撃事件の概要【ビートたけし】

フライデー襲撃事件の概要と、中心人物であるビートたけしさん自身についても簡単に解説します。

ビートたけしさん自身はだれもが知る有名人ではありますが、当時のビートたけしさんの事やフライデー襲撃事件に深く関わってくる『たけし軍団』、そしてその事件に関わった記者についてのも簡単に説明します。

ビートたけしのフライデー襲撃事件

フライデー襲撃事件について、
原因とその後の講談社の言動

人をケガさせることが、言論の自由なのか pic.twitter.com/VDk41buOnq

— SATOH司令官 (@SATOHSATOH3) January 21, 2017

まず簡単に説明すると、1986年12月8日に「フライデー記者の度重なる執拗な取材に対して怒ったビートたけしさんが、たけし軍団を引き連れてフライデー編集部に乗り込んで暴力を働いた」という事件です。

その詳細とバックグラウンドについて、当時のビートたけしさんの状況にも触れながら以下に解説します。

ビートたけしの略歴

ビートたけしさんは、1980年の漫才ブームで一躍その才能を開花させ、漫才師として一気に有名になりました。

ビートたけしさんは、元々相方のビートきよしさんと「ツービート」というコンビを組んでいて「残酷ギャグ」「毒ガス標語」と呼ばれた独特の毒のあるネタで、漫才ブームの波に乗り一世を風靡しました。1982年ごろに漫才ブームが終わりかける前から、既に「タレント・ビートたけし」として持ち前の毒舌や博学を活かしてクイズ番組などにもコンスタントに出始め、人気を集めていました。

因みに、漫才ブーム前の1979年に女流漫才師だった内海ミキ(のち北野幹子)さんと既に結婚されていました。そして長男長女の二人のお子さんをもうけられています。

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引用: Pixabay

1981年から始まった有名お笑い番組「俺たちひょうきん族」(フジテレビ)や博識な回答で人気だった「世界まるごとHOWマッチ」(毎日放送)など、その多彩な才能を活かして出演する番組は、いつも超人気番組になっていました。

更に自分で企画を持ち込んだ「痛快なりゆき番組 風雲たけし城」(TBS)・「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日本テレビ)・「ビートたけしのスポーツ大将」(テレビ朝日)なども常に夜20時台の最高視聴率をマークしたということで、当時本当に人気があったことが分かります。

そしてこの頃と前後して、同じく1981年からスタートしたラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)では、番組出演中にビートたけしに弟子入りしたいと志願者が押しかけて殺到したために、のちに『たけし軍団』と呼ばれる門下集団が出れる「スーパージョッキー」(日本テレビ)という番組を作って、集団でおこなわれるバラエティ番組の走りになったそうです。

『たけし軍団』への入り方

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引用: Pixabay

とにかくこの時期はビートたけしさん自身が人気絶頂であったのと、それと同時にビートたけしさんを慕う『たけし軍団』ができたことは、お笑い界においても不思議ではない流れのようです。

元々これまで漫才師などになりたい場合は、好きな漫才師に弟子入りを許してもらってから、その漫才師の身の回りの世話などをしながら笑いの勉強をしたり自分の芸を磨いたり、という流れを辿っていったようです。

ビートたけしさんも後輩や若い人を育てたい、という気持ちから『たけし軍団』を作って受け入れようという形で始まったようです。元々は、「たけしアーミー」という名前だったそうですが、当時の有名な『石原軍団』をもじって、『たけし軍団』としたそうです。

『たけし軍団』に入るにはいくつかの方法があったそうです。

1つ目は、元々芸人として活動している最中に、ビートたけしさんの門下に入る形です。この方法で入ったのは「そのまんま東」だった東国原英夫さん、大森うたえもんさん、ダンカンさん、つまみ枝豆さん、などのようです。

それと似た形に、ビートたけしさんの野球チームから軍団に入団した、というケースもあるそうです。ガダルカナル・タカさん井出らっきょさんも元々芸人をしながらビートたけしさんの野球チームへの参加で、『たけし軍団』に入ったという成り行きのようです。因みにこの草野球チームの名前も『たけし軍団』で、ビートたけしさんが「草野球チームをやりたいために、たけし軍団を作った」とも言っていたそうです。

次に、「ビートたけしに心酔して」ラジオやテレビ番組などでの”出待ち”をして自分を印象付ける方法です。この形から入った人は、元々の素人さんが多く松尾伴内さん水道橋博士さんなどもそのパターンなんだそうです。

その他には、ビートたけしさん自身や事務所からのスカウトを受けて、という形もあったそうです。

『たけし軍団』内では、ビートたけしさんを軍団員メンバーが「殿」と呼び、かなり結束が固かったようです。仕事としてビートたけしさんの番組に出たりするだけでなく、一緒に寝起きをして先輩が後輩の面倒を見たり教育したりしていたそうです。

芸がない軍団員などにはビートたけしさんが個人的に身の回りの世話をするのに雇ったり、ポケットマネーでお小遣いをあげたり食事を食べさせてあげたり…というスタイルから、かなりアットホームな感じだったようです。

なにより、『たけし軍団』に集まった軍団員の多くが、ビートたけしさんへの忠誠心が厚かったため、フライデー襲撃事件への関与も大きかったようです。

フライデーの強引取材の背景

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引用: Pixabay

1986年に起こったこの「フライデー襲撃事件」ですが、丁度この頃から有名な講談社の「フライデー」と新潮社の「フォーカス」の他にも、各種出版社がその成功に影響されて様々な写真週刊誌が創刊されました。どこもスキャンダルやゴシップのスクープを取るのに必死な取材活動を展開していました。

まだプライバシーや個人情報などに対しても特に規制や忖度もなく、かなり度を越した脱法行為スレスレのような取材手法も多く取られていたようです。

この頃は、取材対象のはずの有名人だけではなくその家族や周辺の一般の人にまで取材対象が広がり、更には取材によって日常生活の混乱を起こしたり実際に迷惑を被ったり…という事態がよく頻出して問題が起こっていた時期でもあります。

追われる直接の対象は芸能人の私生活や政治家、スポーツ選手など、そしてその家族や友人関係にまで、とこれまで本来そういった対象ではなかった層にも広がっていたという時代背景もあります。

特に政治家のスキャンダルで部数を伸ばしていた「フォーカス」に対抗しようと、「フライデー」は当時人気のあった芸能人、とりわけビートたけしさんに焦点を合わせていたようです。

ビートたけしのフライデー襲撃事件当日

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引用: Pixabay

1986年12月9日の深夜、交際相手の専門学校生の女性からの電話で、8日に強引な取材を受けて怪我を負ったことを聞いて怒ったビートたけしさんは、フライデーの発行元である講談社に対して強引な取材に対する激しい抗議の電話を掛けたそうです。

フライデー編集部の増子氏の対応では、担当者(フライデーの契約記者)を出さないことと、のらりくらりとしてあまり問題を深刻に考えてくれないような態度で、更に「来ればいい」という売り文句からの買い文句で「今から行ってやろうか」とビートたけしさん側から通告したようです。

ちなみに講談社はその電話の後すぐに、警察に通報しました。実は講談社の隣が大塚署で、大塚署から私服警官を4名ほど事件前に編集部に配置していたそうです。

そしてその翌日9日の午前3時ごろ、ビートたけしさん率いる『たけし軍団』11人の合計12人がタクシー3台に分乗して、講談社のフライデー編集部に押しかけました。

当初ビートたけしさんと『たけし軍団』は取材に対する抗議だけのようだったのですが、フライデー編集部の風呂中編集次長による「自分は空手をやっている」といった挑発を受けて乱闘になったようです。最初は拳、そして傘立てにあった傘、次に消火器を噴霧したり…というので現場ではかなり大きな騒ぎになったようです。そして、電話での対応をした増子氏を探し当て、殴ったり蹴ったりしてろっ骨骨折などのケガを負わせてしまったそうです。

そして、乱闘が始まって15分ぐらいたった後に、配置されていた私服警官によって全員が現行犯逮捕となります。その時にビートたけしさんは私服警官に「こいつらは自分の言うことを聞いただけ。」「手錠は(しなくて)いいですよね。」という事を話して参加した軍団員たちの情状酌量を訴えたようです。そして参加していた軍団員にかけた「お前らの事は、たとえ土方仕事をしてでも一生面倒見るからよ。」という言葉は、当時の軍団員の心に深く残り、その後もビートたけしさんへの尊敬が続いていたようです。

因みに、フライデー編集部には10数人の残業者がいたそうですが、カメラマンは一人もおらず、現場の写真は一切撮れなかったそうです。そのため、フライデーがこの事件を記事にした際に使った写真は、「裁判時の写真」やビートたけしさんがドラマで演じた「大久保清が警察に連れていかれる写真」だったりしたそうです。

フライデーの記者の問題行動①交際女性に対して

記者の、専門学校生の女性に対しての行き過ぎた取材行為

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1986年12月8日、ビートたけしさん(当時39歳)と当時交際をしていた専門学校生の女性(当時21歳)に対して、フライデーの契約記者である石垣利八郎氏(後述で詳しく)が、その学校の校門前で待ち伏せをしてビートたけしさんについて執拗に質問をしました。

それを避けようとしたその女性の前に立ちはだかり、テープレコーダーを顔に無理矢理押し付けたり、車に体を動けないように押し付けたり、手を引っ張るなどの行為をしたため専門学校生の女性は頸部捻挫と腰部捻傷という全治二週間のケガを負ってしまいました。

記者による、専門学校生の女性に取材以上の嫌がらせ行為も

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実は石垣氏の行き過ぎた取材行為はそれだけでは終わっておらず、石垣氏は女性の通う専門学校の校内放送でその女性を呼び出したため、彼女は恐怖で授業に出れず帰宅したそうです。

さらにその日は夜中にも構わずその専門学校生の女性の実家に押しかけ、インターホン越しに脅迫めいた言葉やその専門学校生の女性に対しての屈辱的な言動やその女性の母親に対しての暴言を複数回繰り返したんだそうです。

その日の夜、ビートたけしさんはお酒を飲んでいた時に、電話で専門学校生の女性からその日の出来事を聞き、酔った勢いもあったのかこれまでの執拗な取材などを含めて怒りが頂点に達したようです。

フライデーの記者の問題行動②ビートたけしの親族に対しての取材

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実は事件前から、当時は超人気者だったビートたけしさんについての取材が、かなり強引だったようです。

実際にビートたけしさんが公判でも語っていたのは、ビートたけしさんの家族に対する強引な取材に関してでした。

記者の執拗な取材で、ビートたけしの娘さんの幼稚園受験が失敗

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1986年11月7日にビートたけしさんの奥様・幹子さんが、当時娘さんの私立幼稚園の入学試験に連れて行くところを写真に撮られていました。

そしてそのことにその私立学校から「子供の写真が写真週刊誌に掲載されてしまうようでは、入学させられない」という事を言われ、受験に失敗してしまいました。

因みにその写真の撮り方も、突然見知らぬ女性がビートたけしさんのファンを装って現れて家族の写真を撮る、といった「おとり的な」手法だったらしく、そのような取材方法に対してもかなり怒っていたようです。

この情報はかなりプライベートなものだったため、ビートたけしさんが「内部に誰かリークしている人物がいるのでは」と意識したきっかけになったようです。

井出らっきょさんによると、当時ビートたけしさんが「家族の写真掲載」に大変怒っていて、講談社に電話で「家族が誘拐されたらどうするんだ」と抗議と苦情の電話をしていたそうですが、あいまいな対応で一切対処をしてくれなかったことにも怒りを募らせていたそうです。

信頼していた記者(石垣利八郎)の裏切り

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2017年にテレビでビートたけしさんが自ら語った話によると、当時「お金が無いから取材させてほしい。記事を書いてお金にする。悪口は書かない。」と言ってきたフリー記者を名乗る人を、可哀想だと思って受けいれたんだそうです。

仲良くなって楽屋にも出入りするようになっていく頃に、だんだん『たけし軍団』やビートたけしさん自身のスキャンダル記事になっていることに気が付いたんだそうです。そして調べてみたら、実はその人がスパイだった、という事が分かったそうです。

その記者は、今でいう青年誌の走りの雑誌「GORO」(小学館)の記者をしていた石垣利八郎氏という人物です。元々は「ラジオマガジン」という雑誌でビートたけしさんの子供時代の特集記事を書いた縁で知り合ったそうです。そしてそれをきっかけにビートたけしさんと交流関係ができ、ビートたけしさんとしては信頼していたようです。実際に他の雑誌にもビートたけしさんや『たけし軍団』についての普通の記事を書いていたようでした。

1986年の夏ごろ、石垣氏はそのビートたけしさんへの取材実績を買われて『フライデー』の契約記者に「水面下で」なっていたそうです。石垣氏が「フライデー」に移籍になった8月からは、たった4か月で6回もビートたけしさん周辺関連の記事が載ったそうです。それまでは知り得た情報をリークしたりしていたのですが、ついにこのフライデー襲撃事件前に自らビートたけしさんの交際相手である専門学校生の女性に強引な取材をしかけました。

ビートたけしさんは石垣氏がフライデーに所属していることを知らなかったため、交際していた専門学校生の女性から事情を聞いて、信頼していた記者の裏切りに気付き更に怒りを感じたのでは、というのがフライデー襲撃事件の発端ともみられています。

因みにこの専門学校生の女性への取材が失敗したことを石垣氏から既に報告を受けていたフライデー編集部の増子氏は、ビートたけしさんが怒るだろうことを想定して、対処を既に考えていたのでは、という噂です。その証拠に、ビートたけしさんが電話で抗議をした状況は録音されていました。

ビートたけしの記者会見【フライデー襲撃事件】

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1986年12月22日に、ビートたけしさんは事件後正式に記者会見を開きました。

その記者会見の様子は、当時テレビ各局はもちろんすべてのメディアで取り上げられたようです。

ビートたけしさんの記者会見の内容

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引用: Pixabay

「不倫をしていていいのか」「復帰するのが早くないか」「引退する気はあるのか」といった、写真週刊誌を中心とした記者たちの意地悪そうな質問に毅然とした態度で、逃げずに正直に話す姿は一般視聴者にもかなりのインパクトがあったようです。

言論の自由や報道の自由があるように、プライベートを守る自由もある。

「『たけし軍団』を大勢引き連れて行った事は、非常に反省している。ひとりでは怖かった。

「自分の大切なものを守るために、暴力以外の方法があるなら教えてほしい。

「テレビを自分一人で切り盛りしているわけではない。この行動が子供に影響を与えるというのは、違う次元の問題。

「袋叩きになることはしょうがないと思っていた。あくまでも、やったのは俺自身の問題。誰かの代表としてではなく、自分のプライドのために個人でやった。俺は大塩平八郎ではないからね。

男として、大事なものを守ろうとした。

と、かなり率直に思ったことを述べていました。

そんなビートたけしさんの記者会見を見た視聴者からは「実際に暴力をふるってしまったビートたけしも悪かったけど、執拗な取材をしたフライデーも悪い」といったビートたけしさん擁護寄りの声も多く出たそうです。そういった意味からは、ビートたけしさんが「男を上げた記者会見だった」と、後々の語り草になっているそうです。

政界からの援護射撃

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事件当日の12月9日、事件が報道されて講談社からの「言論・出版の自由を脅かす暴挙に対して、頑固たる態度で臨む」といった声明が発表されました。

その後、当時ビートたけしさんが所属する太田プロが謝罪に講談社を訪れた後、講談社は再び事件の被害者となった職員の状況などを会見で報告し始めました。

そんなニュースが持ちきりの中、当時の官房長官であった後藤田正晴氏から「写真週刊誌の取材の行き過ぎもあり、ビート君の気持ちはよくわかる。かといって、直接行動に及ぶのは許されることではない。」といったコメントが事件当日の夜に出されました。

さらに翌日には、当時の文部省大臣の塩川正十郎氏までも「最近の週刊誌は刺激もかなり露骨だ。表現の自由が保障されているからといって、それが特権的なものと思ってはいけない。暴力を振るうなどということは、民主主義社会では許されるべきではない。しかし出版社は社会的に容認される限度内の取材をすべき。」という異例のコメントをしました。

当時「フォーカス」による激しい政界ゴシップ追及取材を受けてきた経緯から、政界からはビートたけしさんに同情的な部分と、それをきっかけにこうした写真週刊誌の執拗な取材体制を変えたい、という意図があったことがうかがえます。

また、ビートたけしさんの回想によると、当時この事件は「ビートたけしさん側から講談社に謝罪」と「契約記者が、専門学校生の女性に謝罪」というバーターでの示談の方向に進んでいたのですが、後藤田官房長官が強く裁判を主張したそうです。

そして実際に行われた裁判では、暴力の内容よりも「写真週刊誌の取材方法」に焦点が当たっていたので、政界としてはこの事件をメディアの今後のこうした取材方法をけん制するのに利用したのではないか、とも思われているようです。

因みに、ビートたけしさんが記者会見で受けた質問の中で、後藤田官房長官のコメントをどう思うか?に対して、「ビート君ではなく、たけしです。」と言ってシリアスな会見中に笑いを取ったようです。

ビートたけしへの処分は?【フライデー襲撃事件】

ビートたけし出演番組への影響

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出演予定のテレビ番組は、撮り貯めてあった収録には「●月●日に収録されていました」というようなテロップ入りで放送されました。

しかし、まだ収録が済んでなかった一部の収録に参加した、という事実が明らかになった時にテレビ局に苦情が殺到したため、ビートたけしさんは「体調不良のため」以降の番組出演も収録も欠席することになりました。

結果的にはビートたけしさんは記者会見から7か月の謹慎をすることになります。その間に、ビートたけしさんの出演していた番組は、山田邦子さんや大川興行さん、ダチョウ倶楽部さんなど多くの当時有名だったお笑いタレントによって代役がなされたり、事件に関与しなかった軍団員(つまみ枝豆さん・ラッシャー板前さん・井出らっきょさん)がフル回転でこなしていたそうです。

ビートたけしさんが復帰するまで多くの仲間の助けがあったようです。

フライデー襲撃事件関連の判決が確定

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そして1987年6月10日、フライデー襲撃事件から約半年後に判決が言い渡されました。

ビートたけしさんは懲役6か月・執行猶予2年、襲撃に参加した『たけし軍団』の11名(詳細は後述)は起訴猶予処分という判決を受けました。

更に同年の12月22日に、女性に怪我を負わせた記者である石垣利八郎氏に、罰金10万円の判決が出ました。

判決確定後の、ビートたけしのテレビ復帰

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1987年6月25日にラジオ番組「たけし軍団のオールナイトニッポン」に”乱入”するという形でしたが、正式に翌週の7月2日から「ビートたけしのオールナイトニッポン」として復帰しました。

テレビには同じく1987年7月3日の「おれたちひょうきん族」で復帰し、その日以降事件前に出演していた番組に順番に復帰していきました。

また同年の7月18日放送の「1億人のテレビ夢列島(24時間テレビ)」では深夜のトークコーナーにタモリとさんまと一緒に出演し、謹慎中のことを語るなど事件前と変わらずの毒舌を披露したそうです。

この事件を契機に、ビートたけしさんはそれまで所属していた太田プロから独立し、「オフィス北野」を設立しました。『たけし軍団』の多数のメンバーも一緒に移籍したそうです。

このきっかけは、フライデー襲撃事件で迷惑をかけてしまったことも反面、事件後の復帰時期に右翼団体などの抗議活動に自ら直接対処せざるをえなかった時に、解決策の一つとしてその団体側から「事務所を出ろ」と言われた、という事のようです。

フライデー襲撃事件の関係者まとめ

フライデー襲撃事件に参加した『たけし軍団』11名と当時の年齢

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東国原英夫さん(当時、そのまんま東さん 29歳)、ガナルカナル・タカさん(30歳)、大森うたえもんさん(27歳)、グレート義太夫さん(27歳)、柳ユーレイさん(23歳)、ダンカンさん(27歳)、松尾伴内さん(23歳)、大阪百万円さん(23歳)、サード長嶋さん(20歳)、キドカラー大道さん(22歳)、水島新太郎さん(19歳)

後日の回想では、そのまんま東さんは当時講談社の推理小説賞(江戸川乱歩賞)に入賞を狙っていたので乱闘には消極的だった、自分は傍観していた、と本人がコメントしていますが、そのほかのメンバーはその説を否定していました。

むしろ「(そのまんま東は)相手側の罪を重くするために、お互いの殴り合いを提案したが、仲間は殴れない、と言ったら何故か意味もなく全員が彼に殴られた。」といった批判的な話もしています。

ガナルカナル・タカさんは後日「我が愛と青春のたけし軍団」という本を、メンバーの中心となって作りました。その中でこのフライデー襲撃事件についても襲撃に参加したメンバーとして真相を語る形で、中核メンバーらと共に師匠であるビートたけしさんや『たけし軍団』についても語っています。

井出らっきょ【フライデー襲撃事件に不参加】

当日は、当時付き合っていた彼女(愛人)の家にいたために連絡がつかなかったため、フライデー襲撃事件には関与しませんでした。

帰宅して奥さまに「東さんがもう一軒行こうって、帰してくれなくて」と言い訳をしたところ、奥さまから「東さんなら捕まったわよ」という事で、ビックリしたのと同時に浮気もバレてしまったそうです。

ラッシャー板前【フライデー襲撃事件に不参加】

当時、痔の手術をして入院中のため、フライデー襲撃事件には参加できませんでした。

後日、『たけし軍団』が前述の回想録「我が愛と青春のたけし軍団」を出した際には、痔の手術と入院生活の思い出をつづったそうです。

つまみ枝豆【フライデー襲撃事件に不参加】

江口ともみさん(@tomomin.eguchi)がシェアした投稿 – 2017年 7月月18日午前7時36分PDT

実は、当日連絡も取れる状態なのに唯一、連絡をもらえなかったのがつまみ枝豆さんでした。

実は『たけし軍団』のなかで様々な逸話を持ち、「殿のためなら何でもする」”武闘派”だったために、当日はビートたけしさんからの指示で連絡が行かないようになっていました。実は、高校中退後はヤンキー且つ元暴走族だったこともあり、一時期は右翼団体 「防共挺身隊」に所属して、木刀を持ってソ連領事館を襲撃したり、と右翼時代に服役した「前科」もあったのだそうです。

そのため、つまみ枝豆さんがフライデー襲撃事件に関わったら「本当に大変なことになる」と事態を危惧したビートたけしさんから「枝豆だけには連絡するな」という指示が事前にあったようです。

ただ、ビートたけしさんらの逮捕を知ったつまみ枝豆さんは「呼ばれなかった」ことに気付かず、行かなかったことに不義理をしたのではと悔やみ、すぐさま単身で講談社に乗り込もうとしたらしいのですが、ビートたけしさんが警察から電話をしてきて「みんなの面倒は見るから、勘弁してくれ。頼むから今は動かないでくれ。」と言われたために、乗り込みを思いとどまったのだそうです。

ビートたけしと交際していた女性の現在は?【フライデー襲撃事件】

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Rさんと呼ばれていた交際女性は当時21歳の専門学校生Rさんでした。このフライデー襲撃事件の前日に怪我を負うなどの被害者となってしまいました。

実は最近、ビートたけしさんが奥様・幹子さんと離婚して、「オフィス北野」を退社し、元々愛人だと言われていた女性と一緒に事務所を立ち上げた、というニュースが流れました。

その際にその愛人の女性が、フライデー襲撃事件の時の専門学校生の女性と年齢が同じでバックグラウンドも似ていたため、「あの専門学校生の女性とよりを戻したのでは?」という噂が流れ各メディアでも取り上げられました。しかし、その後の各種メディアの取材で二人は全くの別人という事が判明しています。

因みに当時ビートたけしさんの愛人であった専門学校生だったRさんは1990年に女の子を出産しています。ビートたけしさんの次女、という事で認知もされて養育費ももらっていたようです。Rさんはその後結婚しているそうですので、ビートたけしさんの次女は母子家庭で育ったわけではないかもしれません。

メディアの取材が問題視された事件【フライデー襲撃事件】

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30年以上も前の事件であるにも関わらず、近年になってビートたけしさん本人や『たけし軍団』の軍団員などの関係者などから当時の裏話などが少しずつ語られたりしたのをきっかけに、最近でもまとめサイトや「なんj」でも取り上げられていたようです。

実は、1988年には当時のフライデー編集部と『たけし軍団』で神宮球場にて交流試合が行われて、正式に和解の場が持たれていたそうです。そして更に、事件の約10年後の1998年には、篠山紀信さんの撮影で、ビートたけしさんが12年ぶりにフライデー編集部を訪れる、と言った設定のカラーグラビア特集が行われたそうで、もう既に双方の中では「終わった事件」「和解した事件」になっているようで、少しほっとする情報もありました。

ただ、この事件をきっかけに林立していた写真週刊誌の何社かは廃刊したことで、当時の出版業界に与えた影響はかなり大きかったようです。そして写真週刊誌に代わって現在ではスポーツ誌や「週刊文春」「週刊新潮」などの週刊誌に引き継がれた取材手法は、この30年の間にプライバシーを尊重した良い方向に変わってきた、とはまだ言えない状況でしょう。

更に今度は「忖度」という権力のある方向へ媚びた取材展開などが明らかになり、別の意味で一般の心配と不安をよんでいる現状です。

今後も引き続き、プライバシーの問題と取材・報道の自由のせめぎあいは続くものと想像に難くないですが、一人一人の一般視聴者・購読者としてしっかりとした自分の目を持って態度に表し行動することが、こうした行き過ぎた取材や報道に潜む「闇」に対しての抑止力になることを望まずにはいられません。

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