附属池田小事件で逃げた教師・岩崎真季の現在!被害者遺族は?

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附属池田小事件の概要

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2019年現在、附属池田小事件から18年が経とうとしています。

附属池田小事件とは、大阪府にある同小の授業中に児童8名の命が奪われるという事件でした。ここでは、主に附属池田小事件の概要、「逃げた教師」岩崎真季の現在、そして附属池田小事件の被害者遺族と現在について見ていきたいと思います。

それでは、附属池田小事件の概要から始めます。

 

児童8人刺殺の凶悪殺人事件


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附属池田小事件の発生から裁判、そして判決まで見ていきましょう。

2001年6月8日10時過ぎ、大阪府にある附属池田小事件が起きました。附属池田小学校の校舎1階にある1年生と2年生の教室に、出刃包丁を持った男一人(宅間守、当時37歳)が乱入。児童8名刺殺、重軽傷者17名(うち教員2名)を出す未曾有の凶悪事件が発生しました。同年9月、大阪地方検察庁は、犯人宅間守を大阪地方裁判所に起訴、2003年8月28日裁判所は死刑判決を言い渡し、2004年9月14日、附属池田小事件の犯人宅間守の死刑が執行されました。

附属池田小事件の死刑執行は異例の早さで行われたそうです。

事件以後現在に至るまで、児童が被害となったり不審者が小学校に侵入したりする事件は続いています。

 

犯人は無職・宅間守


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附属池田小事件の後、犯人宅間守についての人物像や家庭環境、精神状態などは各方面で話題になりました。事件から18年経った現在から見ても、未曾有の凶悪な事件だったと言えると思います。

附属池田小事件の犯人、宅間守(当時37歳)は、高校を中退後、1981年に自衛隊に入隊にしましたが、寮に家出少女を連れ込み関係を持ち、1年ほどで除隊させられています。1984年、犯人宅間守は、勤務先で職務を利用して、女性宅にあがり強姦事件を起こして、奈良少年刑務所に3年ほど服役しました。

その後、精神障害を理由に、犯人宅間守は、15犯の前科もしくは不起訴処分を経験しています。数十の職に就いたようですが、暴行事件などを起こしては、辞職または解雇を繰り返し1つのところでは半年くらいの勤務だったようです。2000年ごろからは、犯人宅間守職についておらず附属池田小事件当時、宅間守は無職でした。

附属池田小事件の犯人宅間守は、裁判期間中、反省する態度は見られず、傍聴席にいる附属池田小事件の被害者遺族に対しても心ない暴言を吐き、裁判長に退廷を命ぜられ、怒号が飛び交うという場面もあったそうです。被害者遺族の中には、その様子から席を立つという人もいたようです。判決は、宅間守不在のまま言い渡されました。死刑執行の日まで、被害者遺族に対する謝罪の言葉はありませんでした。

現在までも様々な事件を我々は経験していますが、裁判での宅間守の暴言や行動は、類を見ないものだと感じました。

 

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事件後に学校の安全対策が強化

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附属池田小事件後、学校施設への安全対策が強化されました。それはどのようなものだったのでしょうか。

この附属池田小事件のあった2年ほど前、1999年には、京都小学生殺人事件が起きています(被疑者は逃亡の末、自殺)。附属池田小事件と京都小学生殺人事件の2件の小学校における殺害事件がきっかけとなり、2002年に文科省は「学校施設の安全管理に関する調査研究協力者会議」を立ち上げ、学校施設への安全対策の提言を行いました。

附属池田小事件が起きるまで、地域の人々と児童を育てていこうという「地域に開かれた学校施設」を目指し校庭を解放していました。附属池田小事件後の現在も地域の人々が学校活動に参加することは必要だとしています。

一方で、重要なことは、附属池田小事件のときのような不審者の侵入を抑制し、来訪者が不審者でないことを確認するための施設計画や、万が一、不審者が侵入した場合、児童の安全確保の仕組みづくりが望ましいと提言しています。

具体的な施設としては、防犯監視システム、赤外線センサー、インターホンなどの設置、侵入の際に緊急連絡が取れるように、校内各所には通報装置を設置し教職員の相互の連絡、警察、消防への連絡を迅速に行えるようなシステムを提言しています。

 

現在の安全対策

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事件以後、安全対策の提言がなされました。現在はどのようになっているのでしょうか。

附属池田小事件後の学校施設の実際の対応して、警察立ち寄り所と書かれたプレートやシールを学校外から見えるように張り付ける学校施設が多く見られるようになりました。また、附属池田小事件の後、児童への安全対策への意識は、学校施設だけではなく地域全体へと広がりました。

現在では、防犯ブザーを携帯する児童も増え、名札は学校内のみ着用をする、登下校などの際は地域のボランティアの方が付き添うなど社会全体で児童に対する安全対策の意識が高まりました。

また、附属池田小事件後を教訓に、現在学校への不審者の立ち入りを規制するために、保護者が学校を訪れる際は、専用のネームプレートの着用をお願いする学校が増えました。現在の組織的な取り組みは、後述したいと思います。

 

教職員の救護活動の必要性

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救護活動の必要性について見ていきます。

附属池田小事件では、事件が発生した当時、教職員による十分な対応がなされていなかったのも問題となりました。児童に対する組織的な避難誘導、救命活動、搬送措置などが行われず、附属池田小事件で死亡した児童8名は20分も放置されるという状況でした。

さらに、救急車で搬送される児童に付き添う教師がおらず、保護者への連絡が遅れたなども明らかになりました。また、附属池田小事件後の被害者遺族への弔問や説明が遅れたのも、被害者遺族、保護者を傷つけてしまう結果となりました。

 

救護活動への現在の取り組み

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それでは、現在の取り組みはどのようなものでしょうか。

附属池田小事件における教職員の十分とは言えなかった対応を踏まえ、学校施設の安全対策だけでなく、教職員の緊急時における取るべき対応のマニュアル作成および研修をするよう提言されています。

附属池田小事件以来、同校では教職員への繰り返し研修を実施、防犯安全対策のなど様々な取り組みが、現在も行われています。

以上、救護活動の現在の取り組みでした。

 

附属池田小事件で逃げた教師がいる?

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附属池田小事件において、被害者遺族、保護者、そして我々世間から「逃げた教師」と非難された教師岩崎真季がいましたが、現在はどうなっているのでしょうか。

「逃げた教師」岩崎真季は、凶行のあった2年西組の担任教師でした。「逃げた教師」岩崎真季の現在までたどっていくことにします。

 

2年西組の担任は通報のため教室を出る

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附属池田小事件について、犯人宅間守の小学校侵入からの経緯をもう少し詳しく見ていくことにします。

附属池田小事件の犯人宅間守が最初に侵入したのは、校舎1階の2年南組の教室でした。その教室は、附属池田小事件の発生直前に、犯人の宅間守とすれ違った教師が担任するクラスでした。

南組の担任は、このとき、保護者でも教職員でもないと気づいていたそうです。それでも、声を掛けること、行先を確認することはありませんでした。(ちなみに、現在小学校の施設に入りますと、通りがかりの教職員から「どのようなご用件ですか?」と声を掛けられると思います)

間もなく休み時間になろうかという時間帯、附属池田小事件の犯人宅間守が侵入した教室には児童しかいなかったという状況でした。テラス側から教室へ侵入した宅間守は、次々に児童5名を刺殺し死に至らしめました。

以上が、附属池田小事件の最初に襲われた南組のクラスでの様子でした。

 

直後に宅間守が2年西組に侵入

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次は、犯人宅間守が「逃げた教師」岩崎真季のクラスに侵入したときの様子です。

2年南組の児童を刺殺した直後、そのクラスのテラス側から一旦外へ出た犯人宅間守は、次に隣接する2年西組へ乱入します。そこは、「逃げた教師」岩崎真季の担任する2年西組の教室でした。「逃げた教師」岩崎真季の担当する西組では、生徒は前を向いて座っていました。

「逃げた教師」岩崎真季は、附属池田小事件の犯人宅間守が侵入した方を向いていたとあります。犯人宅間守が、大きな物音を立てて、乱入と同時に無言で児童3名を次々に刺し、うち1名を死に至らしめました。

以上が、附属池田小事件の犯人宅間守が「逃げた教師」岩崎真季と対面した時の様子でした。

 

2年西組で8人の児童が殺傷

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次は、「逃げた教師」岩崎真季のクラスでの凶行が始まったときの様子です。

附属池田小事件の犯人宅間守に侵入と凶行に気づいた「逃げた教師」岩崎真季は、悲鳴を上げ、校内放送を使って誰かに知らせようとしましたが、「逃げた教師」岩崎真季は、利用を停止しました。

「逃げた教師」岩崎真季は、犯人宅間守が児童を突き刺すのを見ましたが「逃げて!」と叫んだものの、児童へ避難誘導を行いませんでした。「逃げた教師」岩崎真季は、警察に通報するために、教室を出て事務室まで廊下を走りました。

途中、「逃げた教師」岩崎真季は、南組の児童が廊下に倒れているのを見かけました。しかし、「逃げた教師」岩崎真季は、児童をそのままにして、事務室に入り警察へ通報。この時、10時18分。「逃げた教師」岩崎真季が、警察に状況を説明している時間がおそよ8分間ありました。

警察から救急車の依頼が遅れ、救急車を要請したのは通報からおよそ5分後と遅れてしまったという記述が、附属池田小事件の概要として同小のホームページに残されています。

以上、「逃げた教師」岩崎真季が警察に通報するまでの様子でした。

 

担任が戻ると血の海に

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次は、附属池田小事件で、「逃げた教師」岩崎真季が通報してから教室へ戻るまでの様子です。

「逃げた教師」岩崎真季不在の教室では、附属池田小事件の犯人宅間守による凶行が続いていました。犯人宅間守は、逃げ惑う児童を追い回し、教室内、教室の出入り口付近、廊下で、児童5名を突き刺しまたは切りつけ、うち1名を死に至らしめました。

続いて、犯人宅間守は別の教室へ行き、次々の凶行に及びました。隣接する東組の教室へ侵入し児童2名を切りつけました。東組の教室の担任が椅子をもって追いかけてくるのを見た犯人宅間守は、逃げるようにテラス側へ移動、教室後方にいた児童1名と出入口付近いにいた児童1名を切りつけました。

テラスに出た犯人宅間守は、そこにいた南組の担任からタックルされ取り押さえようとしたところで、出刃包丁で刺されました。他の教師からも椅子を投げられたりしますが、意に介さず、附属池田小事件の犯人宅間守は次々に児童を襲っていきました。

教職員、副校長によって、取り押さえられたのが、10時20分頃で、その後到着した警察に引き渡されています。

「逃げた教師」岩崎真季が通報を終え、教室へ戻ったときは、すでに多くの児童が倒れていました。まさに、教室は血の海が広がっており、「逃げた教師」岩崎真季の目の前は、途方に暮れるような状況だったのです。

附属池田小事件で、死に至った児童8名は、即死ではなく救護活動の遅れが死因に直結する失血死であったことも明らかになっています。このことを教訓して、現在では、教師や保育士などに向けて救護活動の研修が行われているそうです。

以上、附属池田小事件当時の「逃げた教師」岩崎真季が通報するの間に起きた出来事でした。

 

逃げた教師・岩崎真季とは?

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これまで「逃げた教師」岩崎真季という言葉を使ってきました。鍵カッコつきで書いているのには理由があります。個人名の前につけられた形容詞ですので、そのまま使うのに、ためらわれたからです。

現在でもネット上には非常に多く「逃げた教師」岩崎真季が残されています。「逃げた教師」岩崎真季とは一体どういうことなのでしょうか。事件より18年経った現在だからこそ、見えてくるものがあるかもしれません。

 

当時28歳の女性教師

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次は、「逃げた教師」岩崎真季について、見ていきましょう。

附属池田小事件発生時の2001年、当時28歳だったの女性教師は、1年間の研修などを経て、初めて担任を持った年だったそうです。まさしく教師人生が始まったばかりの新米教師は、附属池田小事件後、「逃げた教師」岩崎真季と実名があげられ、非難されました。

「逃げた教師」岩崎真季が担当する2年西組の教室へ、附属池田小事件の犯人宅間守が乱入し、凶行に及んでいく中で、「逃げた教師」岩崎真季は警察へ通報すべく教室を飛び出したのは上述した通りです。

附属池田小事件の犯人宅間守が目の前で児童を追っている最中、「逃げた教師」岩崎真季がとった行動ー警察へ通報するのに、クラスを離れたということが「逃げた教師」岩崎真季へのしっせきと非難に繋がりました。附属池田小事件より、半年後の新聞には、非難された「逃げた教師」岩崎真季の告白として記事が掲載されています。(「逃げた教師」岩崎真季の告白は後述)

附属池田小事件の通報には、「逃げた教師」岩崎真季によるものと、他にもあったようなのでみていきます。

「逃げた教師」岩崎真季から警察への通報までにかかった時間は、附属池田小事件発生からおよそ7分。一方で、学校の外に逃げ出した生徒のうちの一人が、近くのスーパーへ駆け込み通報しています。その通報は、附属池田小事件発生からおよそ5分後であり、「逃げた教師」岩崎真季からの通報よりも、おそよ2分早かったという情報もありました。

2019年現在、附属池田小事件のあった2001年というと18年前は、ちょうど掲示板サイト2チャンネルの利用者が爆発的に伸びていた頃でした。現在に比べて、ネット上には警察の目が届かない頃でもありました。現在以上に気軽に個人情報がさらされるという事態にもなっていたようです。

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「逃げた教師」岩崎真季もその一人であったのだろうというのが、書き込みから推測できました。当時の書き込みが現在までも残っていて、その中には「逃げた教師」と検索すれば岩崎真季の個人情報がヒットするという書き込みが残されていました。どこから岩崎真季の個人情報が漏れたのかは、現在となってはわかりませんが、「逃げた教師」岩崎真季を広め現在まで残したものの一つとして、2チャンネルのような掲示板の存在は無視できないでしょう。

附属池田小事件から十数年経った頃、「逃げた教師」岩崎真季についての質問がありました。現在まで毎年、同校で行われる追悼式典が報道されているので、新たに興味を持たれる方もいらっしゃるのでしょう。そのうちの一つの回答として、参照URLが掲載されている書き込みがありました。クリックすると別の誰かの書き込みでした。そこには、附属池田小事件の概要と書きとの憶測や意見が書かれていました。

現在では、「逃げた教師」岩崎真季の個人情報ヒットしないと思います。この記事を読み、附属池田小事件について関心を持って頂くことは本意ですが、「逃げた教師」岩崎真季の個人情報を探そうと試みるのはやめてほしい、そう願っています。

以上、附属池田小事件後の当時28歳の女性教師から「逃げた教師」岩崎真季に至るまでの経緯でした。

 

事件発生7分後に教室を出た不審点

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様々な情報を元に事件発生から「逃げた教師」岩崎真季による通報、そして犯人宅間守逮捕までの経過を以下の通り整理しました。「逃げた教師」岩崎真季には、附属池田小事件時の行動に不審点があると言われていました。

具体的に述べると「附属池田事件発生から警察への通報までに7分もかかった理由が不明」「犯人宅間守に襲われている児童を残して、岩崎真季が教室を出たの適切だったのか」という2点でした。

では、附属池田小事件発生から「逃げた教師」岩崎真季の警察への通報までを時系列に並べます。

10時10分頃、南組の教室で凶行が始まります。

10時15分頃、「逃げた教師」岩崎真季の担当する西組の教室へ侵入。

(同小の生徒が学校外にあるスーパーへ知らせ、警察へ通報という情報もあり)

10時18分頃、「逃げた教師」岩崎真季、警察へ通報。

10時20分頃、 教職員らにより現行犯逮捕、間もなく到着した警察へ引き渡す。

附属池田小事件発生から逮捕までわずか15分から20分ほどでした。「逃げた教師」岩崎真季は、事件発生から7分後に警察に通報しています。しかし、この「7分後」は附属池田小事件発生からの経過時間であるのが分かります。

 

7分間の行動

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「逃げた教師」岩崎真季の7分間の行動を見ていきます。

これは当方の主観も混じりますが、小学校の授業では多少にぎやかになることがあると思っております。隣接するクラスで騒ぎが始まってから5分程度なら、違うクラスの教師がわざわざ見に行かないのが、通常の対応でしょう。

しかも、附属池田小事件発生時、間もなく休み時間という時間帯でした。「逃げた教師」岩崎真季が隣接する教室へ、様子を見に行かなかったことについて、不審点はないと思います。

「逃げた教師」岩崎真季は、隣接するクラスで起きている凶行には気づかなかったのでしょう。凶行に気づいたのは、「逃げた教師」岩崎真季の目の前で凶行が始まってからと考えるのが妥当でしょう。「逃げた教師」岩崎真季も、犯人宅間守を目の前にして気づいたと、後日の新聞紙上の告白文の中で発言しています。

「逃げた教師」岩崎真季の通報は、自身が担任する教室での凶行発生から3分でした。附属池田小事件発生7分後に通報したと捉えるよりも、「逃げた教師」岩崎真季の教室で凶行が始まってから3分後に警察へ通報したと捉え直すことができます。このように、時系列に並べられたのは、当時ではなく、18年経った現在だから落ち着いてできたことなのかもしれません。

以上、「逃げた教師」岩崎真季が通報までに7分かかった理由でした。

 

「怖くて逃げたのでは?」と批判の嵐

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次に「逃げた教師」岩崎真季が、「犯人宅間守に襲われている児童を残して、教室を出たのは適切だったのか」ということを見ていきます。

「怖くて逃げたのでは?」というのは、当時28歳の岩崎真季が自分の身を守るために、教師という立場でありながら、襲われている児童を見捨てたのかという見方がありました。この行動が「逃げた教師」という非難に繋がったようです。

附属池田小事件発生後、被害者遺族や保護者からの強いしっせきと非難が、「逃げた教師」岩崎真季へ向けられました。附属池田小事発生当時の被害者遺族、保護者からのしっせきと強い非難は、やり場のない怒りを持つ被害者遺族、保護者だからこそ、強いしっせきと非難の言葉につながったのだと思います。我が子を無残な形で失うという、想像を絶する心の痛みを考えてみても、どんなに情報を集めてみても、到底理解することは、かなわないと思いました。

このことはテレビ、雑誌、新聞報道などでも伝えらたのか、現在はわかりませんが、少なくとも、ネット上では附属池田小事件の「逃げた教師」岩崎真季の行動が話題に上っていました。現在でも、ネット上で話題になる情報元は、テレビや新聞になることがとても多いです。2001年の情報元が現在と違ったとは考えにくいです。

教室で児童が襲われている中、通報するためとはいえ、「逃げた教師」岩崎真季が児童を残して教室を出たことは、果たして教師として適切な行動だったのか、「逃げた教師」岩崎真季は、児童へ避難誘導を優先すべきだったのではないか、そういった声も書き込みには、散見されました。

岩崎真季は「逃げた教師」と話題になる中で、教師の責任範囲についても疑問を投げかける世論があったのではないか、そう思われました。それに答えるように、事件発生から半年後の新聞紙上で「逃げた」と非難の元女性教師として、岩崎真季は苦悩を告白しています。(「逃げた教師」岩崎真季の告白については、後述)

 

岩崎真季が見たもの

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果たして、「逃げた教師」岩崎真季の行動は、教師として適切だったのか、その点を考えるために、附属池田小事件で、「逃げた教師」岩崎真季が目の前にした状況を記します。

附属池田小事件の犯人宅間守の身長が180センチを超える大柄でした。現在の平均的な男性35歳から39歳の身長が171センチとあるので、現在の感覚でも、宅間守は大きい方でしょう。その大男が平和であるべき教室へ、侵入したかと思うと、おもむろに刃物を振り回し、無言で児童を切りつける様子を、「逃げた教師」岩崎真季は目の前にしたのです。

さらに、附属池田小事件の教職員には、不審者に対する防犯体制や教師間や警察などへの連絡はどうすべきかなど、緊急対応マニュアルの備えは特にありませんでした。新米教師であった「逃げた教師」岩崎真季も、そういった指導や研修を受けてなかったでしょう。

現在では、教職員や保育士への安全対策への意識や救護活動の研修などがあるそうです。加えて、現在では、安全安心メールといって、警察が把握している不審者情報について、保護者へもメールで知らせるような仕組みが取られているところが多いかと思います。

「逃げた教師」岩崎真季は、この異常事態を学校外に伝えるのが先か、それとも、20名の児童を守るために、犯人宅間守に立ち向かっていくのか、どちらが適切なのか、それとも他に何か適切な対応があるのか、難しい判断に迫られたと言える状況だったのは、想像できました。附属池田小事件のような緊急事態ならば、組織だって対応すべき事案であるのに、「逃げた教師」岩崎真季は個人での対応を迫られたのです。

たとえ、「逃げた教師」岩崎真季が立ち向かったとしても、犯人宅間守の凶行に対して、「逃げた教師」岩崎真季の命をもってしても、防ぎきれたかどうか、疑問が残りました。

以上が、「逃げた教師」岩崎真季は、怖くて逃げたのか、について考えるのに役立つであろうと思われた情報でした。

 

岩崎真季が心境を告白

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附属池田小事件の「逃げた教師」と様々な方面から非難された岩崎真季の心境とはどのようなものだったのでしょうか。

事件発生から半年後に「逃げた教師」岩崎真季が、新聞紙上に告白していますので見ていきます。

 

「悔やみきれない」と吐露

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2001年12月9日付の新聞紙上において、「逃げた教師」岩崎真季は、次のように心境を告白しています。

「教師なのに、子供たちを守ってあげられなかった。子どもたち、遺族、そして保護者の皆さんには本当に申し訳なく思っています。なんとおわびをしてよいのか、いまだに言葉が見つかりません」「わたしはもう生きていてはいけないのかな。そう思ったのは一度や二度ではない」

附属池田小事件の当時の行動については、「逃げた教師」岩崎真季は、内線電話で校内放送をしようとしたが、教室を出たことを選んだ理由には「間に合わない」と思ったとありました。

「通報を終え、教室に戻ると、女児が一人倒れていました。心肺蘇生をしようとすると、血が口から噴き出して…。それ以上は、どうしていいのか分からず、近くにいた他の先生を呼びました」

附属池田小事件の「逃げた教師」岩崎真季の告白の中には、「被害者遺族から、この行為に対して強い叱責と非難を頂いた」ともありました。

続けて「抵抗すればよかった」「もっと大きな声で逃げてと言っていれば、多くの子が逃げることができたかもしれない」「110番ではなく、119番もすべきだった」「通報の際にもっとてきぱきと話していれば、もっと早く教室に戻れたかも」「もっときちんと救命活動ができていれば」

「逃げた教師」岩崎真季の苦悩と後悔がつづられていました。附属池田小事件発生から半年後の「逃げた教師」岩崎真季は、秋に退院したそうですが、その後も眠れない、体中のどこかが痛むような日々が続いていたとありました。

世間からの非難が「逃げた教師」岩崎真季と学校に向かったと新聞にありました。被害者遺族、保護者など附属池田小事件の関係者だけではなく、世間から「逃げた教師」岩崎真季と非難されたのが、この新聞から分かりました。

最後に「教師って何だろう」と自問を繰り返しているとありました。

以上、附属池田小事件発生から半年後の「逃げた教師」岩崎真季の告白でした。

 

被害者遺族はやりきれない思い

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では、ここから一転して、被害者遺族の心境について見ていきます。

附属池田小事件における当時の学校側の十分とは言えない対応に、被害者遺族の多くが傷つきました。現在も傷ついていると思われます。

詳細を振り返れば、附属池田小事件の犯人宅間守が侵入した際の教員対応、適切な救護活動、保護者や関係者への連絡、それらのほとんどが教師同士の連携がとれていませんでした。

また、救急隊が到着しても、児童がどこにいるのか知らせることができない、教職員が児童の搬送先病院に付き添うことがなかったなど、教職員がすべきことが分からないという状況で、混乱を極めていました。附属池田小事件の被害者遺族、負傷したお子さんの保護者が正しい情報を当該学校から得られなかったという話は、被害者遺族や保護者の気持ちを思うと、胸がふさがれる思いになります。

現在では、被害者遺族や負傷したお子さんの保護者へ、できるだけ迅速に正確な情報を伝えることの大切さは、附属池田小事件以後に安全対策の一つとしてマニュアル作成の提言がなされています。

ある自治体では、現在手引きを示したうえで、各学校でマニュアル作成の指示をしています。ある自治体の現在のマニュアル手びきには、緊急時における教職員の役割を決めた上で、教師は助けを求めるために、児童のそばを離れないとあります。

以上、被害者遺族の心境について触れました。

 

被害者遺族の反応

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附属池田小事件の後、被害者遺族の反応には、どのようなものがあったのでしょうか。

 

山下玲奈さんの母の手記

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附属池田小事件の後、被害者遺族の中には、手記を書かれた方がいらっしゃいました。

事件当時、亡くなられた山下玲奈さん(当時8歳)のお母さん山下和子さんです。山下和子さんの手記「あの笑顔、もう一度会いたいよ」があります。

そこには、お母さんから玲奈ちゃんへ、優しく語り掛けるような言葉がたくさんつづられています。凶行のあった日の朝の出来事も鮮明に描かれていて、読むと胸が苦しくなります。被害者遺族にとって附属池田小事件は、18年経った現在も続いているのでしょうか。

以上、被害者遺族、山下和子さんの手記についてでした。

 

追悼イベント

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附属池田小事件の以後、現在に至るまで、毎年、附属池田小学校ではの追悼式典が行われています。この追悼イベントは、現在、児童が、安全な学校づくりを誓う式典となっています。

附属池田小事件の発生時刻の6月8日10時12分、亡くなった8人の遺族の名前が刻まれたモニュメントの8つ鐘を鳴らし、黙とうをささげます。附属池田小事件の後、現在の附属池田小学校では、安全科という全国で初の授業を行い児童への授業を行ったり、現在も被害者遺族と協議を重ねたりしています。学校施設の安全対策や意識を高める取り組みが現在もなされているのです。

この追悼式典では、安全な学校づくりと事件を風化させないで、現在、そして次の世代にも伝え、二度と悲惨な事件が起きないよう決意を新たにしています。

以上、附属池田小事件の追悼イベントについてでした。

 

宇多田ヒカルの追悼ソング

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附属池田小事件の後、シンガーソングライターの宇多田ヒカルが追悼ソングを発表しています。

被害者遺族の一人である山下和子さんは、手記の中で山下玲奈ちゃんの大ファンである宇多田ヒカルの歌を歌ってくれたと記しています。附属池田小事件のころ、レコーディング中だった宇多田ヒカルが「自分にも何かできないか」と思い立ったそうです。急遽「FINAL DISTANCE」という曲を、玲奈ちゃんとそして附属池田小事件に巻き込まれた全ての人へ献呈することに決めたそうです。

CDケースを開くと「山下玲奈ちゃんへ 守りたいものすべてへ 6.15.2001」と追悼クレジットが記されています。

16年経った頃に、宇多田ヒカルのファンの方が、このCDの追悼クレジットを見て、「事件を風化させてはいけない」と綴っているのを見つけました。現在も事件について、ファンの方が考え続けることは、大きいと思います。事件当時の宇多田ヒカルの行動が、現在へつながっているのを感じました。

以上、宇多田ヒカルの追悼ソングについてでした。

 

被害者や遺族の現在

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附属池田小事件の被害者や被害者遺族の現在を見ていきたいと思います。

附属池田小事件発生から18年経過した現在まで、どのような思いで過ごされているのでしょうか。

 

PTSDに苦しむ生存者

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附属池田小事件により、PTSDに苦しむ生存者について、見ていきます。

PSTD(心的外傷後ストレス障害)という言葉、現在では広く聞かれるようになっていると思いますが、改めて記しますと、事故や災害等の命の安全が脅かされるのような経験(トラウマ)が原因となり、現在も身体や精神に著しく苦痛を覚えるという状態のこととあります。

附属池田小事件により負傷した児童は、PTSDのため、通学、日常生活への参加等に適応困難となったようです。

附属池田小事件後、負傷した児童は小学1年生と2年生でした。このくらいの年齢ですと、何があったのか、言葉にすることが難しいそうです。しかも、附属池田小事件のような経験や事件当時の心境を言葉にするのは、大人でも難しかったそうです。そういった事情で、児童たちの心境を聞かせてもらうことはありませんでした。

 

生存者の現在から当時の胸の内を言葉に

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それでは、生存者の現在の姿を見ていきましょう。大人になった現在、当時の胸の内を言葉にしてくれています。

附属池田小事件から15年目、2016年に20歳過ぎた5名の方がNHKのインタビューに答えてくれていました。

附属池田小事件発生当時の胸の内について、15年目の大人になった被害者たちが、次のように言葉にしてくれました。

「何かぼうっとしていた。何も感じられなかった」「塾の帰り道に恐怖を感じて、後ろを何度も振り返った」「家族が自分と同じような事件に巻きこまれるのではないかという不安を感じた」という声が聞かれました。大人になった被害者の現在の姿に、大きくなったなという感慨がありました。

また、「親に言えない」という声もありました。理由は、附属池田小事件のことを話すと親が悲しそうな顔をするからというものでした。親を悲しまてしまうのが嫌で言えない、小さな子供たちの中には、自分の気持ちを親に話すことをためらっていました。

附属池田小事件から、様子には一見変わらないように見えている子どもの場合も、そのような心理が働いていて、口に出せない場合も多いそうです。時々唇を震わせて話す方もいらっしゃいました。

テレビの取材に応じた5名のうちの一人は、「言葉にできたのは、附属池田小事件から6年後、同じ経験した友達と」という方もいらっしゃいました。そのことで解放され、自分は大丈夫なんだと現在は楽になれたと話してくれました。

別の方は、みかんが添えてあったのを見て、自分は多くの人に支えられていると気づいたそうです。自分は気にかけてもらえているんだと気づいて、前を向くきっかけとなったとテレビで話してくれました。

以上、附属池田小事件当時の被害者たちの現在と当時の言葉でした。

 

遠い立場にいる我々にできること

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関係者から遠い我々が、被害者たちの現在へ、どのようなことができるのか、アナウンサーが臨床心理士の方へ問い掛けています。18年経った現在でもできることはあるのでしょうか。

テレビ放送中、その質問に答えてくれたのは、附属池田小事件の後、同校の子供たちのケアに関わった臨床心理士の方でした。「我々は、気にかけているという思いや行動の100%が被害者に届くというのを期待してはいけないんです。被害者が思いを受け取れる状態かどうかは、それぞれだから。でも、気にかけてもらうというのは、とても嬉しいものです」というようなことをおっしゃっていました。

18年経った現在、そして遠い立場の我々でも、できることがあるのだということを知ることができました。

以上、18年経った現在の我々にできることについてでした。

 

サバイバーズギルトとの葛藤

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次は、サバイバーズギルトとの葛藤を見ていきます。

サバイバーズギルトとは、現在も耳慣れない方もいるかもしれません。どういうことかというと、事件や事故などを経験し奇跡的に生還した人が、亡くなった人々がいたのに、自分が生き残ったことに罪悪感を覚えることです。

附属池田小事件の先のテレビ取材に応じた方の中には、附属池田小事件の後、サバイバーズギルトを感じて、落ち込んだと話してくれた方がいらっしゃいました。その方が、喪ったのは、仲良しの友達だったそうです。落ち込むと、いつも励ましてくれる優しい友達だったといいます。いつも励まされていた自分といつも励ましてくれた友達。

被害者のサバイバーズギルトで苦しむ様子が垣間見えた気がしました。

 

生存者被害者の葛藤、そして現在へ

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生存者ならではの葛藤を経験した被害者の現在を見てみましょう。

先の友達を喪った方が前を向くきっかけをくれたのも、いつも励ましてくれた友達と過ごした時間だったそうです。落ち込んでいる自分を見たら友達なら、きっと自分を励ますだろうなと思ったそうです。

また、別の方は、自分の経験したことを心理的な側面から知りたいと大学で心理学を専攻しました。卒業論文では附属池田小事件当時の自分を振り返り、現在に至るまでの心境を書いています。

「15年たって気づいた。生き残ったのだから、何か成し遂げなくてはいけない、そういう思いに囚われていたと。でも、特別なことをしなくていい、附属池田小事件を忘れないことに十分意味があるのだと。そう気づけて、楽になった」

附属池田小事件のテレビ取材が放送されている最中、5名の児童が話してくれたことに、ある視聴者から「言葉にしてくれてありがとう」というメッセージが届いたのをアナウンサーが伝えました。この放送を見た多くの方が、同じ思いだったと思います。

同じテレビ放送で出演されていた、交通事故で我が子を喪ったタレントさんがこうおっしゃっていました。「事故のことを話すとき、心を現在から過去に戻さなくてはいけない」と。過去の経験と向き合い言葉にすることは、とても勇気のいることだと思いました。

テレビ取材の取材に応じた方々の他には、15年経った現在も、附属池田小事件で受けた経験を、言葉にすることができない人も、まだたくさんいると報じていました。被害者が、それぞれのペースでいられることが、現在もゆるされる環境であることを祈っています。

以上、附属池田小事件のサバイバーズギルトとの葛藤、そして生存被害者の現在でした。

 

岩崎真季と附属池田小事件まとめ

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岩崎真季と附属池田小事件についてまとめてみたいと思います。

現在、岩崎真季と附属池田小事件はどうなっているのでしょうか?

 

岩崎真季の現在とは

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ネット上で、附属池田小事件や「逃げた教師」岩崎真季と検索した際に、「逃げた教師」岩崎真季という言葉は、現在でも多くの書き込みの中に見つかりました。

附属池田小事件について、「逃げた教師」岩崎真季のことよりも、現在そして今後私たちはどうしたらいいのか、そのように自問する書き込みもありました。

一方で、「逃げた教師」岩崎真季の行動について、憶測で語られた書き込みを、素直に受け取ってしまう人の発言もありました。それが巡り巡って、現在まで検索され続けていくのです。一度ネット上に出た「逃げた教師」の情報は、18年経った現在も消えることはありません。それは時を経て現在だからこそ改めて見えてくるものでした。

「逃げた教師」岩崎真季の現在は、附属池田小事件発生当時の情報と憶測の中にあるだけでした。そこには「逃げた教師」岩崎真季の現在の真実は見当たらないはずです。

「逃げた教師」岩崎真季は、「私はもう生きていてはいけないのかな」と自問したともありました。「逃げた教師」岩崎真季も教師という立場で、児童を守り切れず生き残った自分を責めるという、サバイバーズギルトに苦しんでいたようです。

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18年経った現在だからこそ、「逃げた教師」岩崎真季から、我々は学ぶことがあったと思います。附属池田小事件のことで、「逃げた教師」と岩崎真季をしっせきし非難したのは、被害者遺族や保護者だけではありませんでした。

現在から過去を見て、世論が「逃げた教師」岩崎真季を追い詰めた一面を認識しなくてはなりません。「逃げた教師」岩崎真季の深刻な心の病の原因の一つになったともいえます。

このようなことは、被害者遺族の心情をかき乱すのかもしれません。でも、少なくとも世論の一部である我々は、「逃げた教師」岩崎真季も被害者の一人だったと、18年経った現在であるからこそ、言いたいです。そして、「逃げた教師」と個人を非難する言葉を書き込むことへの慎重さを今一度持ちたいと思いました。

以上、「逃げた教師」と非難された岩崎真季の現在についてでした。

 

現在の学校施設の取り組み

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附属池田小事件については、現在も被害者遺族の方と共に学校施設への取り組みが続けられているようです。附属池田小事件以後、地域社会や保護者の児童への安全意識の高さは変わらない、いや高まっているのかもしれません。しかし、残念なことに、現在に至るまで、学校へ侵入する不審者や犯罪は後を絶ちません。

現在では、被害者遺族が望む方向へと全国的にも学校施設の安全対策が進んでいます。

 

神奈川県の取り組み

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現在の取り組みはどのようなものでしょうか。

そこで、神奈川県の学校施設の安全対策における現在の取り組みを取り上げます。

「学校の安全管理マニュアル作成のための手引きー不審者から児童・生徒をを守るために」という手引書があります。

教職員が一丸となって安全管理体制の整備と危機管理意識の向上などの3つの基本的な考え方を柱としています。

取り組みとしては、日常点検による危険の早期発見、除去、状況の改善、緊急時における児童・生徒の安全確保体制の確立などとしています。そして、神奈川県は、全ての学校が独自のマニュアルを作成してくださいと指示をしています。この一文から、事件が現在の取り組みへ活かされていると感じました。

他にも、例えばマニュアルに記載することとして、不審者が侵入した際に、どの教師が、どのようなことをするか、という役割を明確にするようにと指示しています。事件当時の混乱から、今後はそのようなことにならないように、どのように対応すべきか、現在に生かされていました。

その他には、児童・生徒への防犯意識の向上や警察や自治体との連携なども盛り込まれています。また、不審者が侵入した際、対応すべき優先事項が明記され、教職員が迷うことなく、役割を全うすることができるようになっているかと思いました。

現在のような安全意識に至るまでに、附属池田小事件の被害者遺族の働きかけもかなり大きかったように思います。

以上、神奈川県の安全管理の現在を取り上げました。

 

被害者遺族の現在の心境

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それぞれの被害者遺族の現在の心境を見ていきます。

時間が経つにつれ、学校側の被害者遺族への寄り添い方が当時と現在では変わりつつあるようです。

ある被害者遺族は、附属池田小事件発生時に、亡くなった我が子が最後にいた場所で、毎年過ごしていました。それは当時、同校により被害者遺族が被害者と寄り添えるようにとの配慮があったそうです。

しかし、事件から十数年が経過した頃から、追悼式典が事件発生時刻に行われることになりました。追悼式典の時刻を当初の時刻に戻すように希望を出しましたが、被害者遺族の願いは叶わなかったそうです。

続いて、事件後に生まれた次男の成長がきっかけで、遺品整理をする被害者遺族の現在の心境です。

他の被害者遺族は、2018年のインタビューに答えています。次男が附属池田小を卒業し中学校へ入学したことをきっかけに、長男の遺品の整理を少しずつ始めたそうです。現在でも整理するのは、精神的にしんどいと胸の内を伝えています。現在でも、子供が犠牲になる事件が起こる度、「子どもに安全な社会を」と強く願うそうです。

以上、被害者遺族の現在の心境でした。

 

最後に子どもへ優しい見守りを

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現在では、児童への安全対策は様々となりました。先述したように、現在行政での安全管理への取り組みは、学校へ具体的な指示となっています。

そして、我々大人も学校外で少なからず協力できることがあります。現在学校からお願いされることは、保護者の緩やかな見守りです。

犬の散歩中などに付近を歩く児童にそれとなく気を配る、出勤途中、登校中の児童の様子を見守るなど大人の優しい見守りが求められることが増えました。下校時間には、毎日でなくてもいいので、庭などの家の周りに出てほしいなど学校からのお願いもあります。このようなゆるやかな見守りや学校との連携も必要です。

一方で、現在の社会的な状況や常識から、大人が見ず知らずの子供へ声を掛けることは、現在は望ましくないようになりました。現在はそれとなく見守るので十分なのではないでしょうか。

テレビ取材放送の中で、被害者の方の一人がおっしゃっていたように、「附属池田小事件のことを忘れない」こともわたし達にできることではないかと思います。そして18年経った現在も、「気にかけていることを伝える」ことを続けていきたいと思います。さらに、子どもの安全を考え、子どもが安心できる社会を作っていくことが大切だとですよね。

最後になりましたが、亡くなられた被害者の皆さまに心からご冥福をお祈り申し上げます。

 

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